離婚以降、研究所内に寝起きの為の部屋を借りていたことが功を奏し……あるいは皮肉か、ハイマンは呼び出しから10分後には現場へ駆けつけていた。
通行用パスで各種のゲートを開錠して進むとやがて、一際開けたラボの中央において人だかりの背中達を発見してはハイマンもそこへと駆け寄った。
「どういう状況なんだ? ガブリアスは見つかったのか?」
皆がそれを取り囲む現場へと辿り着き、ハイマンは傍らの一人へと尋ねながらその視線が集中しているであろうそこを見遣る。
そして目の前に展開された研究員の死体を前に──ハイマンは口元を抑えては息を飲んだ。
仰向けに地へ転がされた研究員は一糸まとわぬ姿であった。
同じチームの一員として彼のことはよく知っていたが、それでも第一印象でその死体を彼だと判断できなかった理由は──異常なほどに彼が窶れてはその頬をこけさせていたからである。
ありきたりな表現を用いるならば、体中の体液を吸われては干からびているという、カートゥーンアニメにおける表現そのままに、同僚研究員は骨と皮ばかりに瘦せ衰えて死亡していたのであった。
そしてその光景を見慣れてくると同時に不快な……しかし嗅ぎ慣れた『ある匂い』を感じ取ってはハイマンも眉をひそめた。
特定の植物による花の香りを思わせるような、あるいは塩素系の漂白剤も僅かに感じさせるその匂いは、人間の精液によるものである。
そして同時にその匂いの発生源もまた目の前の死体からであり、彼が自身の精液の液溜まりに背を浴している事にもハイマンは気付いた。
成人男性の一度の射精が平均で2~4mlということを考えれば、言わずもがなその量は異常といえた。
そして同時、最後に交代した時から今に至る2~3時間でこの量を搾り取られたというのであれば、この死体の異常な状態も納得が出来るように思えた。
すなわち彼は、暴漢の手により致死量の精液を抜き取られ殺害された訳である。
その結論に辿り着くと、自然に次なる思考は『その犯人』へと傾いた。
もちろん現場の状況から察するにそれは例の『ガブリアス』でしかない訳ではあるが、どうにもポケモンであることの先入観が邪魔をして彼女を犯人と結び付けられない。
そもそもが、ガブリアスが人間の精液を求める理由がハイマンには皆目見当もつかないし、ひいてはポケモンが人間を対象としてセックスを求めた理由も然りである。
とりとめもなく仮定と仮想を頭の中で繰り返していると、研究員の一人が今後の方針をハイマンへと尋ねた。
現時点でその死亡原因や犯人の特定が未確定とはいえ、事は殺人事件であるのだ。
とりあえずは警察に通報をと場の研究員達も互いの顔を見合わせながら囁き合う中、
「警察への通報は逃げ出したガブリアスを捕まえてからだ」
ハイマンはぴしゃりと一同を押さえつけた。
その申し付けに思わず反論を口に出そうと息を吸い込む研究員に先んじ、
「僕達が何をやっているのか理解しているのか?」
再びハイマンは言葉短くそれを制した。
それを受け、場の一同も一時は困惑した様子ではあったが──やがては誰一人異議を申し出ることなく沈黙した。
ハイマンに限らずこのラボに集められた研究員達は皆、聡明な人物達であった。
それゆえに自分達が『違法の遺伝子改良』の研究に手を染めていることは重々承知していたのである。
もしこのことが公となればラボの解体は元より、自身のキャリアにおいても計り知れない傷を負うこととなる。
ゆえにそのチームリーダーであるハイマンの出した答えはまず、『逃げ出したガブリアスを捕獲する』ことであった。
そうして研究の成果を隠匿してしまえば、後は警察に対し如何様にも取り繕える。
「どのみち、通行パスも持たないガブリアスはこのラボから出ることは出来ない。生きて捕まえられればこの上ないが……最悪の場合には殺してでも死体だけは回収する様に」
緊急事態を受け、各員はラボ内に備え付けられたガンロッカーからショットガンや生け捕りの為のテーザー銃等をそれぞれに持ち、この研究エリア内の各部屋をしらみつぶしに捜索していくことを決めた。
今ハイマン達が集合している研究室は、球場を思わせる広大な室内の中央にガブリアスのビーカーを置いては、その周囲を小分けされた研究員達の小部屋(オフィス)で取り囲むという配置であった。
現在、捜索の為の研究員はハイマンを含めて4人──新たに招集を掛けた2人があと二時間ほどで到着することを考えると、今はこの少人数でガブリアスに対処せねばならなかった。
捜索方法としては、四人一塊となっての団体行動を心掛けた。
個人同士ではいかに重火器を手に持とうともガブリアスに対応しきれるものではないことから、集団を以て制圧しようと作戦方針を定めたのである。
そんな折、メンバーの一人がトイレを申し出た。
当初はこのラボ内に備え付けられたそこにおいて済ませるように言いつけたが、それでも研究員はそれを頑なに拒んだ。
とはいえハイマン自身、この状況下では出るものも出まいと理解を示したことと、さらには外部へと出る通路も近かったことから、ラボ外のトイレの使用を許可した。
その退出の際にも総員で出入り口まで移動し、その研究員・ジョンが外へと出て再びラボの強化ガラス製ドアを施錠するのを見届けては、彼が戻るまで一同もその場に待機することとした。
一方ジョンは駆け込んだトイレにおいて小用をたしながら深くため息も付く。
大変なことになってしまったと思った。
事ここに至っては、たとえガブリアスを生け捕れたとしても事態は好転しないだろうと思う。
警察の手が入り、何らかしらの捜査が行われれば、その事実はクライアントの耳にも入ることだろう……斯様にしてあやのついてしまった研究成果とあれば、そこから足が付くことを恐れ今後はこの研究所自体、封鎖の可能性さえも考えられた。
そこまでを放尿の間に考えてはやがて、股間を揺すって尿道の残滓を振り払ったその時──背後の個室において便器の水流が流れる音がした。
場所がトイレであることから最初はそれに疑問も持たなかったジョンではあったが一動作後、その異変に気づいてはぺニスもしまわずに振り反る。
──今の水流は……いったい誰が流たって言うんだ?
今このトイレには自分しかいないはずであった。そもそもがこの広大な施設に今現在、人間は四人しか居ないはすである。
それにも関わらず背後から響いてきたその音──ドアの開け放たれたままの個室に鎮座する便器を睨み続けていたジョンは次の瞬間、思わぬ展開に叫びすら上げられずに呼吸を止めた。
洋式便座のその中から、ガブリアスの頭が覗いたからである。
おおよそ50cmがせいぜいだろうその便座から顔を出してはこちらを見遣るガブリアスと目が合っては呼吸を止める。
瞬間この思わぬ遭遇に混乱を来たしたジョンもしかし、何故に彼女がこんな場所にいるのかのをすぐ察する。
──そうか……コイツは、トイレの排水溝を移動してラボと外部とを往復しているんだ……!
ラボ内から外へ出るにはセキュリティロックされたゲートを通らねばならない──しかしそんなものは所詮、人間の事情でありポケモンの都合ではない。
現にガブリアスは排水溝そこを通ることで一切のセンサーにも感知されることなくジョンの元まで辿り着いたのだから。
依然として上目遣いにジョンを見据えたまま、ガブリアスは徐々に便座から這いずり出(い)でた。
そして前傾姿勢に身を低めながら近づき、ようやくに我へ返りったジョンが悲鳴や救助の叫(こえ)を上げるよりも先に──ガブリアスは己の口唇にて、ジョンの唇を塞いでしまうのだった。