次に目覚めた時──ハイマンは目の前の光景を現実だとは捉えられなかった。
自分はあの時に死んでしまい、そしておそらくは天国へ召されたのだと確信したほどである。
しかしながらそこは天国でも妄想でもない、歴とした現実世界での出来事であったのだ──依然として仰向けに横となるハイマンを左右から抱きしめてくれたのは、紛う方も無い別れた筈の元・妻クリスと、幼き息子ウィリアムであったからだ。
かねてよりハイマンがクリスに抱いていたものは、『強い女性(ひと)』というイメージそれであった。
しかしながら今の彼女は表情の確認もできないほどに強く横顔を押し付けてきてはハイマンを抱き、小刻みに身を震わせながら嗚咽を押し殺していたのである。
それを前にハイマンもまた何も言わなかった。
そもそもがハイマン自身もまだ、今しがた意識が戻ったばかりということもあってかクリスの抱擁へ応えようにも満足に声を出すことすら出来ない。
とりあえずは辛うじて二人の背に両手を伸ばし、そこを労わるよう力なく叩くのが今のハイマンには精一杯の返事だった。
それから日を重ねながら、徐々にハイマンは回復していった。
その中であのガブリアスとの対決の事後もまた知ることとなる。
ハイマンが意識を失ったその直後、2交代の職員が出勤をしてハイマンとそして周囲の惨状を発見に至る。
すぐさま彼は救急とそして警察へと通報をし、ハイマンは即座にここ州立中央病院へと搬送されては事なきを得た。
膣圧の強制ポンプにより、対象の血流を促進させては血管及び心臓の破壊をするガブリアスの攻撃ではあったが、あの時ハイマンが液体窒素を己へと打ち込んで対処したことが不幸中の幸いとして作用した。
その冷却を経ることで血流が安定し、生命維持に関わる血管や臓器、そして脳の損傷は免れたのである。
しかしながら、その作戦ゆえに液体窒素を介させたペニスと睾丸に至っては凍結破砕されたガブリアス同様に破壊されて、治療の施しようが無かったのだという。
それでもハイマンはこの成果を十分なものだと感じた。
ガブリアスの撃退に成功したことは確かであるし、そして何よりも今──ハイマンは生きて見(まみ)えることは叶わじと思っていた最愛の二人に会うことが出来たのだから。
今は、それで十分だった。
その成果を両腕に収めたハイマンは、今日までの人生において感じたことも無かった達成感と満足の中で、再び眠りへと落ちていくのだった
あの事件より一年後──ハイマンは再婚した。
しかもその相手は誰でもない元・妻クリスであったから、要はよりを戻した形となった訳である。
事件後にラボは閉鎖された。
雇われの一研究員であったハイマンには与り知らないことであったが、この研究所のバックにはかなり強大で、なおかつ世間一般には知られていないアンダーグランドな組織が全ての資金提供とサポートを行っていた。
斯様な組織は一両日中に事故の発覚を把握するや、国家権力すらにも干渉をしては捜査を打ち切らせ、全てを有耶無耶にしてしまった。
元より地下に建設されていたラボは、こういった事態の想定もまたなされていたのだろう。その翌日には別の建物の建設が地上部分で行われ、数か月後にはラボは臭いものに蓋をするが如きに隠蔽されては封鎖されてしまったのだった。
ハイマンに関しても以降の接触は一切なされずに、また彼自身もそんなバックボーンの存在など微塵も知らなかったこともあって、事件は『研究員がミスにより液体窒素で負傷した』──という当たり障りのないものとして処理をされては、その呆気ない収束を迎えたのだった。
事件後には数回の手術を経て局部の再生手術が行われた。
もとよりハイマン自身が遺伝工学の博士だったことや、そしてその伝手により幾人もの高名な外科医に連絡も取れたことから、ペニス及び陰嚢の再生は恙無く行われた。……その際にペニスのサイズを若干大きくし、反りを鋭くさせたことは内緒だ。
ともあれ術後には地獄のリハビリ生活が始まる。
その痛みと過酷さたるや、いっそあの時に死んでしまった方が楽だったのではと後悔を覚えるほどに苛烈なものであった。
しかしながらそんなハイマンを文字通りに傍らで支え、そして励ましてくれたのは意外やクリスであった。
当初は今後の慰謝料や養育費の交渉の為であろうと訝しんでしまったハイマンであったが、その献身さはそんな打算など度外視にした愛情のあるものであった。
後に知ることではあるが、クリス自体もハイマンへの愛は失っていなかったのだ。
すれ違いになる生活の中で互いの距離感が離れていってしまった二人にとって今回の入院とリハビリは、そんな互いの気持ちを再認識し合う結果となった。まさに怪我の功名である。
そしてハイマンは退院と同時に改めてクリスへと謝罪をし、そして再び共に人生を歩んでくれることを懇願した。
クリスにしても思うところはあったろうが、それでも最後には情が勝り……彼女もその申し出を受け入れる。
二人は再びに結ばれた。
以降は平穏な生活が続いている。
あの一件以来、ハイマンは遺伝子工学の世界からは足を洗った。
今は地元の薬剤師として恙無く生活をしている。
クリスとの仲も良好で、その証拠に彼女の胎内には今、新しい命の芽生えがあった。
既に8か月を迎え良好に育ちつつある我が子は、その性別が女の子であることも分かった。
この年5歳になるウィリアムなどは自分が兄になることを幼いなりに自覚しては、もはやハイマン以上に妹の出産を心待ちにしているほどだ。
そんな妻を隣にして自宅のソファに身を委ねるハイマンは、ふとあのガブリアスに思いを馳せた。
思えば彼女こそが後に続くこの家庭と幸福の礎になってくれた存在であった。
そして彼女もまた間違いなく自分が作り出した存在であり、そう考えた時──もしかしたら今、妻の胎(なか)にある我が子はそんなガブリアスの再来のように思えたのだ。
ならば今度こそは幸せにしてやろうと思った。
その努力と愛こそが、あの日無分別に作りだしてしまい、そして身勝手から殺めてしまった彼女への贖罪になるような気がした。
だからこそハイマンは妻の身を労わりながら、独り言ちるように語り掛ける。
「この子の名前はもう決めてあるんだ………」
それに対し尋ねてくるクリスとウィリアムを前に応えるハイマンの笑顔が泣き笑いのようにほころぶ。
その名はガブリアス───愛しき娘の名を、ハイマンは二人に告げてみせるのだった。
【 セックス・シャーク 完 】
かつての研究所は──閉鎖後すぐにその上へ新たな建物が建造されたことにより、もはや何人もそこへ立ち入ることは叶わなくなっていた。
当時この事件を調査しようとしていた地元警察も、その日のうちに上層部からの命令によってそれらが打ち切られて箝口令が敷かれたことにより、もはやこの事件の真相を知る者はハイマン以外には存在していない状況となっていた。
当然ながら現場検証も行われることのなかった研究所には、当時の被害者であった研究員達の死体もそのまま放置された。
件の職員達もまた、その天才性ゆえに世間からは爪弾きとされた者達ばかりであったから、そんな彼らが行方不明のままであったとしてもそれを気に掛ける人物などはいない……もはや一連の事件はその真相を知る者も無く、そして完全に忘れ去られては永劫にこの地下へと封じ込められる形となった。
しかしながらこの事件には、ハイマンを始めとした研究員達や生み出されたガブリエル以外にも、もう一人の当事者が居たのだ。……否、その最中に『誕生した』というべきか。
現場のひとつとなった喫煙所に転がる研究員達の遺骸のその傍らに──卵が一つ鎮座していた。
これは元よりこの研究室にあったものではない。
それこそはあの日、例のガブリアスが出産を果たしたものであった。
元より3段階進化の状態から作り出されたガブリアスには、その時すでに繁殖の為の機能と、そして肉体の発育もまた完了していた。
僅か1時間半ばかりであったあの期間に置いて彼女は懐妊をし、そして出産もまた果たしてたのだ。
しかもその卵は従来のオスの遺伝子と結合して受精卵が作られる部類のそれではなく、たとえガブリアス一体だけであろうとも産卵が可能な、言わば単体生殖における彼女のコピーそれに他ならなかった。
そんな卵が一つ──忘れ去られた地下施設の死骸の傍らで蠢動した。
小刻みにその身を震わせる動きは能動的なものであり、それこそは今この卵が孵化の瞬間を迎えようとしているに他ならない。
これより生まれ出(い)ずるものが何者であるのかは誰にもわからない。
それが神の愛に恵まれることなく、不世出にこの地下で朽ち果てる弱き命であるのか……あるいは悪魔の意を得てはこの世に報復を果たす復讐者となり得るか……──