第1話・パーソナルトレーナー
AM10:23──
この日、パーソナルトレーナーのケットはアポイント先で別所に連行された。
担当者を名乗る女性としばらくの質疑応答を交わした面会の後、ケットは有無を言わさず黒塗りのバンに押し込まれるや強制的に連れ出されてしまったのだ。
とはいえ相手側の態度はあくまでも慇懃ではあり、このように連れ出されたことにも「そうせざるを得ない」事情があることを察したケットは、半ば流される形ではあったが事の成り行きに従うこととした。
用意されたバンは、今いる後部座席の窓全面に黒一色のスモークフィルムを張り巡らせてと、そこから外の景色を望むことは元より陽の光でさえもが完全に遮光されている厳重さであった。
「このようにお手を煩わせてしまって申し訳ありません。ケットさんは信頼に値するトレーナーとお見受けしましたので、改めて仕事を依頼したいと思いこのような措置を取らせていただきました」
そう詫びた当案件のクライアントである『エスナ』を、ケットは生返事に応えながら見返す。
折り目正しく黒のレディーススーツに身を包み、琥珀の髪を一本の解れも無く後頭部で纏めたその姿からは、言葉に出さずとも彼女の有能さが伝わってくるような印象を受ける。
しかしながら同時、
──でもちょっと冷たそうだな……
その厳正な雰囲気に人間味を欠くような印象を抱いたことも確かだ。
今の連れ出しも言葉では謝罪しつつも、真にそのことを申し訳なく感じているようには思えないのである。
とはいえこの程度のことでケットは動じなかった。斯様な彼女の様子は事前に友人から聞かされていたことでもあったからだ。
ポケモンウォッシュを生業としている友人から今回の仕事にまつわる相談があったのは一週間前のことである。
そもそもケットは、ポケモンの体調管理を手助けする仕事を生業としていた。
食事に関するアドバイスやトレーニングのサポートを行う彼は、主に人やポケモンのダイエットにまつわる専門家であったのだ。
人ならいざ知らずポケモンが? と思われる向きもあろうが、実際のところ自他ともに肥満に悩むポケモンは数多い。
それは過保護に過ぎるトレーナーや保護者からの愛情であったり、あるいは何らかの心的外傷によって過食へと走ってしまうパターン等、状況はそれぞれだ。
そんなポケモンに向き合い、そして僭越ながらもそれらを救うことをケットは己の天職であると自認していた。
事実、真摯に彼らと向き合うケットの成果は大いに評価され、今や押しも押されぬカリスマトレーナーとして巷間では持て囃されてたりもする。
しかしながら実際のケットの人間性は純朴そのもので、件の『ポケモンを救いたい』という想いも『使命感』と感じるほどの気負いなどケット本人は持ち併せてもいない。
要は文字通りに彼らのサポートをしたいだけなのだ。
主体はあくまでも本人達であり、自分の役割はそのやる気を起こさせるまでの盛り立てと、そして動き出してからはそれと並走して励ます程度の存在であると弁えていた。
そしてむしろそんなケットの気質であるからこそ功を奏するのである。
ケットに指導を受けたポケモン達は皆が自立を意識する。
だからこそダイエットも成功するし、後に続く生活においてもそれを再発させることなく前へ進んでいけるのだ。
──今度の子はどんな理由があるんだろうか……?
今の拉致同然の同行中にあっても、すでにケットの意識はこれから会うであろうポケモンことに向いていた。
そして早く会いたいとも強く思う。
まずは向き合いたい。それが難しそうならばただ傍にいるだけでもいいし、それすらをも拒絶するなら遠くで見守るだけだ。
ともあれ、まずはまだ見ぬポケモンのことを思うとケットは逸る気持ちを抑えきれずに大きくため息をついた。
そんな一同を乗せた車は幾度となく右左折を繰り返した後、やがては1時間半近くも走ってようやくに停まった。
そこから降ろされると既に目の前はどこか地下駐車場の一角であり、昼光色の蛍光灯が部分部分を青白く切り取る薄暗がりの空間から、この場所の特定をするのは不可能に思えた。
もっとも根が楽天家のケットはそんなこと微塵も気にはしない。
それどころかようやく念願のポケモンに遭えることを予期しては胸躍らせたほどだ。
その後エスナの案内の元で歩き出す道すがらにおいて、
『今回あなたにはとあるポケモンのダイエットを担当していただきたいのです』
エスナはいよいよ具体的な依頼内容を騙り始めた。
改めて彼女は自身がとある芸能事務所のマネージャーであることを明かし、同時に今回の依頼対象となるポケモンが元アイドルの一匹であることも明かした。
近年ポケモンをアイドル化して売り出す商売は一層にその勢いを増してきている感がある。
こうした商売は昔からあったが、通信媒体の発達した昨今においてはよりポケモン達に芸能活動を強く担わせる傾向にケットは、多少ならずとも眉を顰めたくなる気持ちも覚えていた。
本来は自然動物であるはずのポケモンに、人間を対象としたショーの手伝いをさせる行為には抵抗があったのだ。
動物保護に基づく崇高な理念などではなく、単にこうした活動に付き合わされるポケモンが過度のストレスによって心を病んでしまう事例をケットは多く知っているからだ。
事実、そうしたポケモンのケアを担当したことすらある。
その時のポケモンは強い自傷行為に陥っており、結果その症状の緩解には数か月を要し、さらには今後の活動自粛も視野に入れて考えねばならないとケットは判断した。
しかしその結果は……──
『──着きました。こちらに今回サポートを依頼したいポケモンがいます』
突如としたエスナの声にケットの追憶は中断されて我へと返る。
見れば地続きだった通路は既に照明が均衡に照らされる明るい廊下に変わっていて、そして目の前には両開き式のアルミドアが立ちふさがっている。
それを前にエスナはレバーハンドルを両手にし、それを八の字に下げるやドアを開け放った。
そうして目の前に広がる光景を前にケットは目を見張る──。
ピンク一色に統一された10畳ほどの個室内には、その壁面に様々なポケモン達の写真が乱雑に飾られていた。
そして足元には足の踏み場もないほどにこれまた様々な種類のポケモンのぬいぐるみが散乱しておりと、一見したならば女児の寝室を思わせるファンシーな印象の一室であった。
がしかし……それらを確認した時点ですでに、ケットはこの部屋の住人の『危うさ』に対して懸念を抱かざるを得ない。
そして視線は足元から部屋の正面へと向けられる。
そこには寝具も兼ねているであろう足の無いソファが地に置かれ、ケットはその背もたれを背後から眺める形となった。
そんなソファの彼方からは眩い電光が明滅しながら漏れ広がっており、このソファに身を横たえる対象が何らかの映像を視聴していることが窺えた。
やがてケットはエスナの同意も得ず、そこへと近づいていく。
恐怖か興奮か、逸る胸の鼓動を抑えながらケットはソファに背もたれに手を掛けた。
同意に悟る──此処こそが境界だ、と。
これを越えてこのポケモンと関わったらもう、ケットは後戻りはできない。
あるいは生涯をこの先の誰かに付き添うこととなるやもしれない……ましてやどんな闇を心に抱えるているかも分からない相手にだ。
それでもしかしケットはそれでいいと思う。
そういう相手ならばなおさらに自分の助けが必要なはずなのである。
一呼吸おいて、気持ちを落ち着かせると──ケットの心にはもはや、一片の不安も曇りも無くなった。
それどころか一刻も早く目の前のポケモンを見たい衝動に駆られては、ケットも背もたれの向こうへと身を乗り出させ──
今、その境界を越えてしまうのだった。