朝と夕に空席のエムリットへと挨拶する時、ユーリは不思議な幸福感を自覚していた。
セルフェの考案したこの遊びは、当初の『思い付き』程度の域を出ては存外の効果をユーリへともたらせてくれた。
目に見えないポケモンであるエムリットをこの房の一員として想定するユーリの一日はまず、彼女の食事の準備から始まる。
それぞれ少量ずつ自身の食事を分け合って集めると、それを彼女がいるテーブルの前に置いた。
夕時などはそうしてエムリットと食事をともにしながら一日の出来事を報告し合う訳ではあるが、表立っては『ごっこ』の体を標榜しつつもその実、ユーリは誰よりも感情的にエムリットへと語り掛けていた。
こうした日常の変化は、平素日頃のユーリにも僅かながらの変化をもたらせる。
日中の強制労働の際、ユーリは困窮する者には進んで手を差し伸べたし、また他者を嘲ったり陥れるような真似は絶対にしなかった。
それこそは自分の房に居るエムリットの存在に他ならず、常日頃『人として恥ずかしいマネをしたらエムリットに顔向けできない』と考える時、自然とユーリの倫理観や人間性は、この荒んだ収容所生活においても保たれることとなった。
そしてそんなユーリの変化はそうした精神的な面に限らず、実生活の中においても現れる。
このエムリットを房の中に迎えてから数か月が経った頃──ユーリの目には、あの空席にちょこんと腰掛ける彼女が見えるようになってきたのである。
最初は何とも曖昧模糊として、時折り目の端に確認できる程度であったから自身の見間違えと決めつけていたユーリではあったが……ここ一月ほどでそれは徐々に輪郭を明瞭としていき、今に至ってはその目鼻立ちに至るまでハッキリと視認出来るほどとなった。
やや釣り目で光彩の煌めいた琥珀の瞳の面相は、多少小生意気な印象は抱かせつつも、むしろそれが得も言えぬ愛らしさをユーリに覚えさせた。
この収容所の極限的な環境と鑑みた時、遂にユーリは自分が発狂したものかとも思ったが、むしろ彼女が見えることに何のデメリットも無いことにもまた気付くと、ならば見えるに任せようと当初は楽観的な気持ちでいた。
しかしながら自分の妄想であるはずの彼女は徐々にその感情も露に、能動的に動き始めるようになる。
一番最初の気付きは朝の挨拶だった。
いつも通り彼女の腰かける椅子の前に跪いて挨拶をするユーリに対し、明らかにエムリットは微笑んだ。
その後の夕食時の報告の際には、興味津々といった様子で目を輝かせながらユーリを見つめてきたし、時折り笑う時にはその鈴のような笑い声まで聞こえるようであった。
さらに彼女の幻影はより具体的な行動を取るようになり、最近ではあの椅子から降りては自身からユーリへと近づいてきてすらいた。
斯様なエムリットの反応に対し当初こそはそれに強い戸惑いを覚えたユーリもしかし、それを受けいれては徐々に彼女が生活に浸透してくると──もはや同居人の前であっても、ユーリはエムリットと親し気に会話する事を隠すことはなくなった
また彼女もそうした分け隔てないユーリの対応は嬉しいらしく、最近ではキスの挨拶を始め就寝に際してもベッドを共にするなど、エムリットからのアプローチもまた、もはや歳の離れた妹然としてよりユーリに対して依存する態度を見せるようになっていた。
『なんだ、ユーリ? 一番否定的だったお前が、今じゃ一番のお気に入りじゃないか?』
「どうであろうと、見えるし聞こえるんならもう何でもいいよ。今はこの子が何よりも大切なんだ」
異常性は自覚しているユーリの受け答えに対し、アゼルフも別段嫌悪や差別的な態度を見せることもない。
事実アゼルフとセルフィもまた、ユーリほどではないにせよ時折り彼女と会話をしている様子が見受けられたからだ。
そうして彼女を内包した一同は、クリスマスには共に讃美歌を歌い、そしてエムリットに誕生日もまた設定しては、それぞれに手作りのプレゼントまで用意しては祝福した。
平素課せられる労働は過酷でありそして生活は極限にまで制約を押し付けられる過酷なものであったが、皮肉にもユーリはこの皆と過ごせるここでの生活を幸福にさえ感じていたのだった。
斯様にしてこの疑似家族の生活を満喫するユーリではあったが……事件はまさに、その幸せの絶頂において訪れた。
ある夜、就寝中のユーリは何者かによって密かに起こされる。
頬を意識的に摩られるその感触に緩やかに覚醒すると……寝ぼけまなこに見上げるそこには自分を見下ろすエムリットの顔があった。
「ん……なんだい? こんな夜中に……?」
どこか真剣な面持ちで見つめてくる彼女に対し、依然として睡魔の幽世と現世とを行ったり来たりのユーリに対し、その両頬へそっとエムリットは掌を添えた。
そしてふいに鼻先を近づけるや──彼女は半ば不意打ちにユーリの唇を奪ってしまうのだった。
日頃交わすような挨拶然としたものではなく、ユーリの下唇を食みこんでは舌先を侵入させてくるそのキスは、明らかに家族としての友愛を越えたものであった。
同時にその口中にも彼女の甘い唾液の香りが広がると──ようやくにユーリもまた覚醒をしては、事の重大性に気付くのであった。
「んッ……んんッ!? っぷは! え、エムリット! いったい何を……──」
その唇を振り切り思わず声を高くしそうになるユーリの唇に、エムリットはその砂糖菓子のように繊細な指先を添わせては後に続く言葉を制してしまう。
思わぬ展開にただ混乱し続けるばかりのユーリに対し、エムリットはあまり騒ぐと皆が起き出してしまうことを注意してその指先を離す。
ただ流されるがまま制止を余儀なくされては困惑の視線を送るばかりのユーリを前にエムリットは再び微笑んでいた。
それはいつもの幼児然とした天真爛漫なものではなく、下瞼をわずかに上ずらせてはどこまでも思惑めいた素振りを見せる妖艶な女のそれである。
やがて再びその鼻先を近づけてくるとエムリットはユーリの耳元で何かを囁く。
そしてユーリを驚愕させるそれこそは……──彼のことを家族などではなく一匹のオスと認め、肉体的な繋がりを求める雌の告白であった。
再び見上げるそこには、房の狭い格子窓から月光を背に纏ったエムリットの──期待に頬を紅潮させながら、何とも楽し気に微笑んでは小さく上唇を舐める姿が確認できていた。