風の強い夜は眠れなくなる……こんな日は特にそうだ。
僕は電灯の一切消された室内から夜空を見上げる。
月明かりの眩い今宵などは、電気に頼らなくとも月光で十分に室内は見渡せた。
しばし所在もなげに家の中を彷徨った後、淹れたはいいが飲むことなく弄んでいるマグカップを両手にしたまま……僕はリビングのソファに落ち着いた。
手の中を見下ろし、ココアの水面に映る自分を幾度となく揺らしては崩してを繰り返した後、意を決して一口すする。
僅かな量ではあったが、それでも口中に満ちる腐臭に辟易して僕はため息をつく。
マホイップの工場から僕が連れ出されたのはもう半年も前の話だ。
当時、消息不明なっていた僕に仲間達が捜索願を届け出、直前の目撃情報からあの工場が発見されるに至った。
もっとも救出された時のことなんて僕は微塵も覚えてはいない。
渇き、飢餓、窒息するような閉塞感、そしてひどい倦怠感と鐘が共鳴のように体中を巡り続ける鈍痛……それらのありとあらゆる苦しみの中で覚醒した僕はむしろ、保護された病院こそが何者か悪意の第三者に攫われた結果ではないかと疑ったくらいだった。
発見当時の僕は、あの工場においてマホイップの群れの中に埋もれていたと聞いた。
捜索隊は最初、そこに人間がいるとは思わずに群がるマホイップ達を追い払ったのだそうな。
元は無力な個体達の集まりである。
さしたる抵抗も無く、蜘蛛の子を散らすよう逃げ出していくそんなマホイップの下に……僕を発見した。
肉体的な損傷は見られなかったものの、その時の僕は完全に自我を喪失しており、おおよそ会話らしい会話も不可能ならば、第一発見者の隊員に至っては既に僕が死んでいるものだとすら思ったようである。
その後、横たわる僕の血色が良かったこととそして瞳孔に反応があったことから生存を確認──急遽搬送されたことから、僕の失踪事件は世に知れ渡ることとなる。
連日様々なメディアが『奇跡の生還』などと囃し立てたが、当人である僕にとってのその後はまさに筆舌に尽くしがたい地獄の日々の始まりでもあった。
僕からは正常な味覚が失われていた。
一部の果物や野菜を覗いては、何を食べても鼻腔には腐臭が漂う様になった。加えて食感や喉ごしも、まるで腐肉を咀嚼するかのような感覚に苛まれて、肉類はその一切が食べること叶わなくなっていた。
おそらくはマホイップのクリームによる中毒症状であると診断された。
あの工場においてマホイップ達に飼われていた僕は、その食事の大半を彼女達から提供されるクリームや食料で補っていた。
果物や野菜といった一般的なものでさえマホイップ達は一度体内に取り込み、その腹腔内で消化や醸成させたものを、再び嘔吐や排便によって排出しては僕に与えていた。
既にクリームの中毒状態となっていた僕は、それらを喜んで享受したことだろう。
……今も時折りフラッシュバックする記憶の片鱗には、仰向けになって開け放たれた僕の口内に向かって食事を嘔吐をするマホイップや、はたまた鼻先に突き付けられた花弁のようなアナルから、その淵を広げてひり落される排泄物の光景を思い出されることがあった。
長期間にわたるそのクリームの摂取により、脳の一部が機能不全を起こしたことで救出後の僕の味覚は壊滅的なものとなってしまった。
ならばと、マホイップの与えたクリームの代替品として従来の生クリームやカスタードクリームの類を食料としても試みたが……むしろこちらは味以上に精神的な反応が強く出る結果となった。
事もあろうか僕は、バニラビーンズの甘い香りに中てられると勃起し、そして果てには射精にまでを至るという特異な体質となっていた。
そこに意志や快感は存在しない──おそらくはあの工場において、マホイップ達が僕の肉体をそのように改造してしまったのだろう。この後遺症は今現在ですら治っていない。
当然のことながら、パティシエ業は退職を余儀なくされた。
しかしながら生活費に困るようなことはない。
意外だったのはこうした『ポケモン被害』による心身の後遺症には、国から補助や助成金といったものの支給があるのだった。……とはいえ、結局は壊れた僕の味覚もそして心も癒されることは無い訳だが。
救出されて以降、僕は物音に対して敏感になった。……場合によっては幻聴や幻視の類に悩まされてもいる。
具体的には生活の場のありとあらゆる場所で彼女達──マホイップの笑い声や気配を感じてしまうのだ。
静寂の中に居て、晩鐘の余韻のように響いてくる空気の膨張音を聞いていると、その中にマホイップ達の笑い声がかすかに残響しては尾を引いた。
あるいは物陰から話し合うような声が聞こえてきたり、ふと視界を移動した際には目の端に走り去る小さな影を捉えたような気がして僕はそこを凝視してしまう。
そんな気配を感じる時、僕の不整脈はこれ以上になく乱れては昂るのだった。
そして今宵もまた……ソファに座る僕は、数メートル先のテレビ台の影に蠢く何かを見つめている。
両手にマグカップを握りしめたままの姿は一見したならば落ち着き払っているようにも見えようが、その内心は叫び出したいほどの衝動に見舞われていた。
それでも『あれは幻だ』と自分に言い聞かせては必死に内なる自分を押さえつけるのだ。……もう、こんな生活にはほとほと疲れ果ててしまった。
そして今もまた、そんな発作が収まってくれることを祈りながらそこを見守っていた僕だったが──今日のそれはいつもと様子が違った。
平素日頃の幻影は瞬間的なものですぐに消えてしまうのに、いま視線の先に捉えているものはなおも動き続けているのだ。
いよいよ以て狂ってしまったかとさらに目を凝らす僕の視界に──物陰のそれは突如として姿を現せた。
テレビ台の物陰から遠慮がちに顔を出してこちらを覗き見たのは──間違いなくマホイップであった。
それを確認し、僕は急激に立ち上がる。
手からこぼれたマグカップが足元で弾んでは、中身のココアが放射線状に床へ広がる。
そんな僕を確認しておずおずとそこから出てきては、僕の前に歩み出してくるマホイップ。
質量を思わせる足音も、体温を感じさせるまなざしも、そして……──あの甘く芳しい香りも、間違いなく実態の彼女であった。
その接近を前に思わず後ずさる僕は再びソファへと落ち込んだ。
やがてマホイップは完全に僕の元まで辿り着き、そして膝の上にさえ登ってくると……僕の両頬に手を添えてはまっすぐに僕を見つめた。
既に重度の摂食障害から骨と皮ばかりになっていた僕の頬や顎の輪郭を幾度となく暖かい手でさすってくれると次の瞬間、彼女は小首をかしげては僕にキスをした。
舌同士を絡ませてしっかりと僕の唇を開けさせると同時、マホイップの口中から溢れだしたクリームが僕の喉頭に流れ込んでくるのが分かった。
そして生暖かい流れのそれを舌や喉に感じた僕は大きく目を見開く。
味がある──甘く、そして強い旨味を感じる『食料』の味わいだ。
僕はその小さな体を抱きしめると狂ったように彼女の口を吸った。そんな僕に応えるかのよう、マホイップもまた精一杯に胎内のクリームを吐き出しては僕に給仕をしてくれる。
しばし久方ぶりの食事を満喫すると、ようやく落ち着きを取り戻した僕は周囲の変化にも気が付く。
あちこちでささやかれる話し声、忍び寄る足音達……マホイップを手に抱いたまま立ち上がると、僕は周囲の物陰から次々と歩み出てくるマホイップ達を見つけては愕然とした。
どこから侵入してきたものか、すでにリビングいっぱいになったマホイップ達が一堂に僕を見上げる光景は、あの工場の再現でもあった。
その中において、僕の顔は大きく歪む。
吹き出した汗と流れる涙が瞬く間に顔全体を濡らした。
そうして激しく震える声を押さえながらに僕は……──
「……遅いよ、みんな」
ようやく、望み通りに迎えが来てくれたことへ僕は久方ぶりの笑顔を見せるのだった……
途端、彼女達は僕に群がってはその再開を喜ぶように頭を撫でてくれたり、はたまた痩せた僕を心配した別の子は、自分のクリームもまた僕に提供してくれたりもした……
あの日以降、彼女達もまた僕のことを探していてくれたのだ……
もはや群れの一員と認めてくれた僕をどうにか取り戻そうと周囲を窺いながら接触の機会を待った……そして今、ようやくに僕達はまた巡り会えたのだった……
幸せだった………また彼女達との生活に戻れる……
食事の心配や、周囲の目や将来の自分など気にすることなく、また彼女達と生活ができる……
一緒に食事をしたり、はたまた新しいお菓子を開発しては売り歩くなんてのも悪くない……
僕は久方ぶりに感じる未来への希望に酔いしれては、眩暈がするくらいに笑うのだった……
「ははは……待って、ここじゃマズいよ……ここで証拠を残したら、また捜索されちゃう」
僕の身を案じてか、次から次へと押し寄せては自分のクリームを分け与えてくれるマホイップ達に僕も笑顔で応える……
そしてリビングを見渡すと、壁面に設けられた窓が僅かに開けられているのに気づいた……
ふとそこから下を望むと、近くには非常階段も望める建物の下にこれまた無数の仲間達が居た……どうやらここから登って来たらしい……
そうして下を覗き込む僕の尻を誰かがぐいと押した……
どうやらここから飛び降りろとのことらしい……
改めて見下ろす眺めに息を飲む……なにせここは4階だ……
躊躇して見下ろし続けていると、今まで腕に抱いていた子が僕の胸を蹴っては宙に身を躍らせた……
当然のそれに驚いては落ちていく彼女に視線を向けると──やがてはその下で、数多く群がった仲間達にエアクッションよろしくに抱き留められ、階下から彼女は手を振った……
そうか……これならば安心だ……何も怖くない……
窓から斜に差し込む月光は、さながら未来へと僕を導いてくれる階段のように見えた……
その希望を辿り、僕は窓のへりに足を掛ける……
室内にいたマホイップ達も僕の体に乗り上げては、みんなで帰ろうと声を合わせた……
そうして階下にマホイップ達を捉えると、僕は迷うことなく月明りの夜空へと身を躍らせた……
全てがひどく緩慢に動いていた……
風も重力も音すらも無い空間に、僕とマホイップ達だけが浮かんでいる……
そうしてスカイダイビングさながらに宙空で皆が手を繋ぎ円になると、僕らは目一杯に体を広げては目下の仲間達の元へと落ちていく……
ただいま……ようやく帰れるよ……もうどこにも行かない……今度こそ僕は、永遠に君達と一緒に生きるんだ……
永かった落下は終焉を迎え、そして地上にて彼女達に抱き留められた瞬間──
今までに嗅いだこともないくらいの勢いと濃厚さで、甘く切ないマホイップの香りが爆発するのを僕は感じ、た………………
【 マホイップのおかし工場・完 】