年が明けて間もない頃、私が実家に顔を出している間に、ルカトゥも魔界にある彼女の実家へ一泊の間だけ帰っていた。お互いにお互いを自分の親へ会わせようとはしなかった。
……時々思う。もし彼女の親の顔を見ていたら、私は「ルカトゥの無敵なところが、頼りきってしまえるから好き」とは言えていなかったのではないかと。私が人道に背くことをルカトゥ本人は許してくれても、その親までもは、娘に対する仕打ちをきっと許してはくれないだろうから……。
だから私は、彼女の親に会いたくない。会いたくないから、もし、私に好き好き言って尽くしてくれているルカトゥの口から婚姻云々の話が一ミリも出てこない理由が、私たちが同性であることに由来しているなら、私は正直、自分は女に生まれてきてよかったと心底思ってしまう。
けれどそう思う私は、べつにそれで安心できているというわけではない。むしろその吊り橋の上に寝泊まりしているような感覚が怖くて、ルカトゥに頼りきると決めた日以降のどこかしらから現れ始めた不安が、日に日にその存在感を増していった。そしてその不安に耐え切れなくなる時が不意にやって来て、私はついに、彼女へ直接それを聞いてしまったのだ。
その時彼女は皿を洗っている最中で、私は次の週のアニメを録画しているところだった。
「ルカトゥってさ、結婚願望とかあったりするの?」
「いいえ〜、あんまり〜」
あっけない返事。……そこに、作業の手を止めない彼女からの「質問」が続く。
「……どうしてですか〜?」
「ん、いや、なんか、……例えばヒモを養ってる人って、そのヒモと結婚したいとか思うのかなーって、急に気になって」
「あ〜、どうなんでしょうねぇ。わたしには分からない……というか〜、サキュバスと人間だと全然話が別になりますし、複雑ですよねぇ」
「へー」
水の流れる音が止まった。少し改まった声で、彼女に背を向けたままの私は呼ばれる。
「先生ぇ」
「んー?」
「心配しなくても、わたしたちはず〜っと今のままですからね〜……?」
「……なんのアンテナにかかったんだか……」
「えへへ〜」
照れくさそうに笑いながら、食器を水切りラックに収め終えたルカトゥはコタツに足を潜り込ませる。「なんか見る?」とテレビのリモコンを向けると首を横に振るので、私は録り溜めていたアニメを適当に一つ再生した。……それは最近再放送されている、日常系とアクション系をかけ合わせた人気アニメで、私は初放送当時にそれを完走していたのだけれど、それを今こうしてわざわざ、録画までして見返している。
私はべつに、そのアニメの内容が特別好きというわけではなかった。けれどただ、そのアニメが初めて放送されたのは、去年の夏頃だったから。……それでなんとなく、最近はそれが見返したくなったのだ。
そのアニメを見ていて私は、そういえばルカトゥは「今の生活がずっと続けばいい」みたいなことを夏頃にも言っていたな……と思い出す。
「ねぇルカトゥ」
「は〜い?」
「ルカトゥは、今と同じ生活がずっと続いたら幸せ?」
「もちろんです!」
「……もっともっといい風になればなぁって、欲が出たりはしないの?」
「う〜ん? そうですねぇ〜……。……新しいことをしてみたい、とは思います。去年は先生と新しいことをたくさんしましたから、今年もそうしたいな〜って」
「新しいことか……」
復唱しながら何の気なしにテレビに目を向けると、ルカトゥが「あっ」と声を上げる。何かと思って彼女の顔を見ると、何やら口元があわあわと落ち着かない様子になっていた。
「どしたの」
「あ、いや、面白いアニメは何回見ても面白いですよねぇ……!」
「え? あぁ、いやそうでもないけど」
「えっ」
あからさまに感情を振り回されているルカトゥを見るのは、ちょっと可哀想だけれど、でもその目まぐるしさが可愛らしかった。……可哀想なことについては、彼女は無敵なのできっと大丈夫だろう。
無敵であれば、本当に欲は出てこないものなのだろうか? 人間の欲は底無しなのに、サキュバスはそうでもないのだろうか? そんな思考が頭をよぎる。
最近、彼女の無敵さを信じられるようになってきた一方で、「ルカトゥは私に嘘をつかない」という点の方が、なぜだか上手く信じられなくなってきてしまっている。……もしかして私は、エピソード性がなければ彼女を信用できなくなってきているのだろうか……?
無敵の証明と同じようなエピソード性を「嘘のつかなさ」にも欲している自分が、気のせいではなく確かに心の片隅にいるように感じる。何にでもドラマ性を求めてしまうのは、漫画を描きすぎているせいなのかもしれない。
ゆめ魔にっきは現在、「月光の体験」のくだりに突入している。
「先生こそ、もっとこうなったらいいのにとか、思ったりしてませんか……? あったら言ってくださいね……?」
「私は……何もかもが都合よく行きすぎてて、これ以上は考えられないよ」
「ほんとですか〜……? ……まぁ、もっと贅沢な暮らしがしたい〜とかは、ちょっと叶えさせてあげられそうにないんですけどね〜……」
「大丈夫、そういう贅沢には興味ないから」
湯水のように金を使うタイプの娯楽には興味がない。……これは本当にそうで、なんというかこう、私のエリクサー症候群はわりと重症なのだと思う。守銭奴とまで言われるほどそうであるつもりはないけれど。
しかし実際私には、インターネットを含む人並みの生活環境があれば、それで十分すぎるような気がする。いわゆる贅沢や、あるいは「思い出に残るような経験」というやつには、自発的にはあまり興味が持てないものだ。
けれど、いざそういう経験を得ることができる場に駆り出されてみると、それはそれで悪くないと感じるケースも多々ある。だから私はそのあたりから総じて、ルカトゥに性格的な相性の良さを感じている。パズルのピースが合致するみたいに、あるいは親の企画する旅行を楽しむみたいに、私は彼女の「新しいことをしたい」に乗っかって楽しむことができるし、乗るものがなくてもそれはそれで快適に生きられるのだ。
その性質を指して「贅沢がしたい」とは、まぁ言わないだろう。今や完全に私も「誘われなければ外食もしない人間」だ。
「たしかに先生は、放っておいたら一年中おうちの中に居そうですもんねぇ」
「その通り。でも誰かに誘われてどこかへ行くのは嫌いじゃない、と言えなくもないよ」
「ふふっ、知ってます〜。昔と変わらなくてかわいいですぅ」
「昔……? ……あぁ」
中学時代の自分はきっと、ごりごりのインドア派である側面と、家族旅行をエンジョイしている側面を、どちらも即刻ツイートにしていたのだなぁ……と理解する。
そう言われてみるとなるほど、それは我ながら「かわいい」かもしれないと思った。主体性のなさを表す「幼稚」の言い換えとして適切だろう……という意味で。
私の理解に気づいてか、その時ちょうどルカトゥは、私に向かって聖母みたいに微笑んだ。
「先生ぇ、わたしですね、最近思ったんです。先生のことをなんでもしてあげたい……っていう気持ちは、一言で表すとなんなんだろ〜?って。家政婦とか召使いとか、従属系のものは、なんか違う気がしたんですよねぇ。もちろんそういうのも悪くないですけど」
「ふむ……?」
「でも、たとえば恋人っていうのも、違う気がするんです。先生が言ってた、普通の人はそこまで恋人に尽くさないよ〜って話には、一理ありますし」
「うん。……それで、一言で表すと何になったの?」
「それはですね〜……。考えに考えた結果、もしかして「お母さん」なのかな〜……? とか思っちゃったりして」
「お母さん……? ばぶみってやつ……?」
自分でそう言ってから、なんとも言えない気持ちになる。
いい歳したオタクたちが年甲斐もなく美少女等々へ向けて「ママ〜!」と叫び甘える地獄の概念、それが「ばぶみ」である。赤ちゃんプレイの派生だと思えば大体正解であるそれを、ルカトゥは私にお誘いするとでもいうのだろうか……?
……いや、考えてみれば、いい歳した大人が友人の収入と献身に頼りきりで生活していて、自分はひたすら漫画を描いたりアニメを見たりして遊んでいる……という現状のことを思えば、確かにそれは誤差みたいな乗り換えなのかもしれない。私の生活体系は実質的に、知育玩具で遊び、教育番組を見る赤ちゃんのそれだ。……そう考えると一理あった。
そのように私は納得しかけたけれど、ルカトゥの考えていることはどうやらもう少し違ったらしい。彼女は「ばぶみ」という言葉に小首をかしげている。
「う〜ん、ばぶみっていうほどには幼くない〜……こう〜……なんて言いますか〜……。……高校生の娘に対するお母さん? みたいな〜?」
「反抗期くらいの歳頃のってこと?」
「え、先生反抗期あったんですか〜……?」
「うーん……。覚えはないけど、どうだったんだろうね」
自分の高校時代に反抗期があったのか? なんてことは至極どうでもいいけれど。言われてみれば確かに、ばぶみとか私の生活ぶりとか……そういうことを抜きに考えてみても、ルカトゥの献身ぶりには子を溺愛する親のようなニュアンスを感じないでもない。私自身、彼女にそんな風な連想をすることが今まで何度かあったはずだ。
それにルカトゥは、おそらく実際に私より歳上である。具体的にいくつなのかは知らないけれど、昔、彼女に歳はいくつなのかと聞いた時、「少なくとも二桁ではある」と誤魔化されたので、二桁の中央である五十は超えているのではないかな……と勝手に踏んでいる。サキュバスの平均寿命は約五百歳であり、死ぬ直前どころか死後にまで、その容姿や能力に衰えが見えることはないらしい。
かつて中学時代の私のツイッターを偶然見つけたルカトゥは、きっとその時点ですでに大人だったのだろう。するとその時代から私を見守り続けていた彼女の心には、確かに親が子を見るようなそれ……あるいは、大人になっていく子役を見る視聴者のような気持ちがあるのかもしれない。見た目と振る舞いがサキュバスらしく若いから、普段の私はそんなことも忘れてしまうけれど。
……そこまで考えてようやく、この話の向かう先が察せられた。
「あぁそうか、だから結婚願望はないってこと?」
「かもですねぇ」
「親と娘は、結婚しないもんね」
私が改めてそう言葉にすると、ルカトゥは自虐ネタであるかのようにこう言い捨てた。
「まぁわたし、誰かと結婚したいって思ったこと自体、一度もないんですけどねぇ」
「へー」
一般に、サキュバスが誰かと婚姻関係を結ぶことは、人間同士のそれよりもずっと珍しいことだとされている……らしい。その理由は、彼女たちがそれを望まないからなのか、それとも彼女たちの感覚に寄り添うことのできる相手が少なすぎるからなのか……。詳しいところまでは知らない。
何にせよ、本人がそう言うならそうなのだろう……と思うしかない。私自身、ルカトゥにはそうであってほしいと思っている。だからそのつもりで、
「あんなに好きって言ってくれたのに、私のことはお遊びだったのね……」
よよよ……と泣き崩れるジェスチャーをしながら、そんな冗談をのたまってみた。「どの口が言うんだ」という内容の冗談を平気で口にすることが出来るようになったのが、ここ最近の私に目立って見てとれる変化だと思う。……そのかわり「無神経と信頼の境目はどこにあるのだろう?」とは、ここ最近よく考えるようになったけれど。
ルカトゥは「え〜、ごめんね〜先生〜?」と、けらけら笑っていた。そんな彼女の言う「好き」の重さがどれほどの物なのかは、実際のところ私にはよく分からない。分かっているのは、人間の基準で彼女の好意を測ろうとすると、時としてそれが彼女にとって一番の心外に当たるということだけだ。
テレビに映るアニメから銃声が鳴る。さっきまで日常系をやっていた美少女二人が、今は銃を持って戦っていた。私とルカトゥはそれからエンディングが流れだすまでの間ずっと、雑談混じりにそのアニメを見ていた。
私がルカトゥに結婚願望について聞いた次の日、まるで示し合わせたかのように、その連絡は彼女のスマホに入ってきた。
「先生ぇ、魔界旅行とか興味ないですか〜?」
「え、魔界?」
魔界。サキュバスの故郷であり、その他様々な異種族が住んでいる世界。ここ人間界とは異なるもう一つの世界。
仰々しいマシンや儀式の類は必要とせず、魔界には普通に電車に乗って向かうことができる。私がひらがなを書く練習をしていたくらい昔ならともかく、ここ最近の時代においては、トンネルを抜けた先が雪国とは限らないわけだ。しかも行った先での治安も悪くなく物価もそこそこらしく、そうなると当然、観光目的でそこへ赴く人間は大勢いる。旅行会社が取り扱っていたりもするのだとか。
しかし、連休でもないのに旅行とはまた唐突な話である。私が訝しげにしていると、スマホを片手に持ったままルカトゥが説明してくれた。
「母が仕事を見つけてきてくれましてね〜、異種族の男優さん達と絡むことになったんですぅ。けど、向こうの人には家族がいていろいろ大変なので、わたしの方が魔界に出向く感じになって〜」
「ふむふむ……。それでそのついでに旅行を、ってことか」
「そうですそうです〜。わたし、その日は泊まりになっちゃうので、帰って来れないんですよぉ。先生一人になっちゃいますからぁ」
「いや、なったとしてもさすがに大丈夫だけどね」
幼児やペットじゃあるまいし、たった一年で家事のいろはを忘れ切ったわけでもない。娘に仕事を持ってくるルカトゥ母とか、妻子持ちの異種族AV男優のことは地味に気になるけど、それはさておき留守番くらいは余裕で出来る。
……と一瞬思ったけれど、つい昨日あった会話からして、私の答えは初めから決まっていた。
「でも、連れて行ってくれるなら行ってみたい。魔界って行ったことないし、全然知らないし、興味ある」
「やったぁ! じゃあぜひ、そういう方向で話を進めますねぇ」
「ちなみに行くとしたらいつ?」
「週明けですねぇ」
「はやい」
おそらく、仕事の話が持ち上がったのは昨日今日のことではなかったのだろう。そりゃそうだ、同人エロゲの制作でもあるまいし、社会人はそんなに破天荒じゃない。ルカトゥが今になってその話を切り出したのは、きっとスケジュールの詳細がはっきりしたからだろう。旅行を……つまり「観光」をする余裕があるということが確定したのが、たぶん今だったのだ。
そういうわけで非常にぬるっと、私の人生初、二泊三日(一日はルカトゥのスケジュールが完全に仕事で潰れている)魔界旅行が始まった。己の財布からの出資はなく、行き先のことはざっくりとしか知らず、現地での予定は全てルカトゥ任せ。……修学旅行かな? というくらい私にとっては楽ちんな状態で、その旅行はスタートした。
着替えと財布とスマホ&タブレットと充電器くらいしか重要な持ち物がないので、オタクらしくリュックサックを背負い、乗り換えを経つつ東京の中心あたりから魔界行きの電車(何の変哲もない車両)へと乗りこむ。……ルカトゥと隣り合って座った席で、まさかこの後まかり間違って彼女の親に会うようなことにだけはならないよなー……と、杞憂とは思いつつも払拭しきれない不安を抱えながら、私は二時間近く電車に揺られた。
そしてある時、私たちの乗るその電車は、長い長い……それはもう本当に長い「暗黒のトンネル」にさしかかる。窓の外は墨汁の海に飛び込んだかのように真っ暗くなり、いつまでも終わりの見えないそのトンネルは、私の杞憂じみた不安を、もっと身近な恐怖感で上から塗りつぶしていった。車両内の照明だけが頼りとなる闇の中で、自分たちが今先へと進んでいることの実感は、ガタゴトという揺れと音からしか得られない……。
……ぶっちゃけた話、私はその時間がちょっとだけ真剣に怖かった。乗客が多いことと、ルカトゥがしれっとしていることが、気を紛らわせる救いにはなったけれど。しかしそれにしたってその道中は、まるで車両ごと奈落へ沈み込んでいくかのようだった。
「暗すぎじゃない……? 海底を走ってるみたいな……」
「まぁ、別々の世界を繋いでますからねぇ。本当は宇宙の果てより遠い場所ですから、こんな風にもなるんですよ〜、きっと」
「さすが、余裕だね」
「先生はこういうの、こわいですか……?」
「いや、子どもじゃあるまいし」
「あはは、そうでした」
ルカトゥはくすくす笑って、けれどさりげなく私の手を握った。そうすると急に、なんだかお化け屋敷に遊びに来たみたいな気分がした。
ルカトゥの魔法は、おそらく曖昧な感情を感知しない。けれど今の彼女は、どうもこちらの内心を見抜いているように思う。私が内心で「怖いな」とハッキリ自覚的に呟くことにアンテナを張っていたのか、それとも単純に私が見て分かるくらいびびっていたのか。……両方正解であるような気がした。
言っている間に、電車はついに長いトンネルを抜け出す。車窓からは久しぶりの光がさしこみ、そこから私の目に飛び込んできた光景は……。
……思っていたよりも遥かにずっと、東京と酷似した風景だった。立ち並ぶビル、自動車を宣伝するスクリーン広告、見知った飲食チェーン店のロゴ、道路を走る普通車、桜らしき木の並木道……。それぞれに全く違和感がないとは言わないけれど、しかしそれらはほぼ単なる日本の都会だった。
「え……なんか……、東京戻ってきた……?」
「そんなことないですよ〜、人に注目してください」
「人……?」
言われて目をこらして見ると、停車間近の車窓から高速で見切れていく街の人々の中に、確かに特徴的な要素が見受けられる。角が生えていたり羽が生えていたり尻尾が生えていたり、肌の色が原色的だったり、度を超えて巨体だったり、何やら浮遊する物体を従えていたり……。
「なんか、ヒーローアカデミアの世界みたいになってる」
「あ〜、言い得て妙ですねぇ」
舌を噛みそうな名前の駅のホームに降りて、案内人であるルカトゥの背中についていく。彼女はその道中、魔界が見ての通りの様子である理由を解説してくれた。
「そもそも魔界と人間界が繋がったのはですね〜、サキュバスがそれを成功させたからなんですけど〜」
「え、そうなの?」
「そうですよぉ? まぁわたしにはよく分かりませんけど、そういうことが出来ちゃうような、すごい人たちが居たんです〜。それで、サキュバスは変態の国日本が好きなので、その首都である東京にまずは降り立ったんですけど〜」
「ふむふむ」
「そこから入ってくる文化の影響を受けて、ここ十五年くらいの間に、魔界の一部はこんな感じになっちゃいましたぁ。文化の逆輸入〜みたいな」
「へぇ……十五年で……」
話している最中にも、地元のような安心感がある景色の中で、不意にギョッとしてしまうような特徴を持つ異種族の通行人たちと何人もすれ違う。たとえば日本の学校の制服によく似た雰囲気の服を着た、単眼の少女などが印象的だった。……けれどその一方で、どうもただの人間っぽい人たちとも時々すれ違う。西洋からアジア圏まで、様々な国から来た観光客らしき集団をちょくちょく往来に見かけた。
しかし日本で見れば目立つ彼ら彼女らも、この魔界の街の中で見るとむしろ没個性な方に見える。というのも、たとえば先程見たスクリーン広告では今、聞き覚えのない名前の飲料水がCMを打っていて、そこに起用されている俳優は肌が水飴のように白く半透明になっており、骨や内臓はどこへやら、向こう側の景色が透けている。また、通りすがった薬局の店頭には、サプリメントみたいなノリで宣伝される魔力カプセル(なんだそれは……?)の広告が出ていた。……そういう世界において人間同士の人種の差なんてものは、もはや誤差であるように思えてくる。来て五分で理解出来てしまう、ここは地球上のどこよりも、人種的に混沌としている場所なのだと。
そんな刺激的な景色を横目に、私はルカトゥに聞く。
「じゃあ十五年前は、ここはどんな感じだったの?」
「う〜ん、そうですね〜……。……なんというか、道が曲線でした」
「曲線……?」
「碁盤の目のような街……の、真逆って感じですぅ。ボルダリングの壁みたいに無秩序に、建物があちこちに建ってましたぁ」
「え、じゃあ建物自体は? どんな感じだったの?」
「どんな感じって言われると……う〜ん……難しいですけどぉ……。デザインは今と大差ないんですけど〜、もっと全体的に低くて、それぞれの建物が空中で繋がっていることが多かったですねぇ。こう、橋みたいに〜」
「へ〜……。……まったく想像つかない」
「あはは〜。図書館にでも行けば写真があると思いますよ〜。……あ、あそこですぅ、泊まるところ〜」
ルカトゥが遠くに見えるホテルを指さす。少なくとも遠くから見る分には、やはりそこも人間界にある同種の建物と全く同じような物に見えた。
ルカトゥとはぐれてしまうと、おいそれと通行人に道を尋ねることも出来ないような未知の地なので、私は意識して彼女との距離を詰めて歩く。するとルカトゥがまた私の手をとってきた。
「子ども扱い……?」
「えへへ〜、そうじゃないですけど〜」
「ふーん?」
彼女は自然な風を装って私の手をとれるタイミングを見計らっているのでは? と無駄な勘ぐりが頭に浮かぶ。けれど何にせよ、その手を払う理由はなかった。
歩けども歩けども、薄目で見れば東京と見分けがつかないような景色が続く。けれど目に入る何かしらの店にそれぞれ注目していくと、見知らぬブランドや、不可解なデザインなどが次々と見つかるものだった。たとえば洋服屋にちらっと見えた、穴の空いた帽子だとか。
そしてその中に時々、日本で知らぬ者はいないような大手チェーン店がまぎれこんでいる。具体的には、どうやら魔界にもハッピーセット付きのハンバーガーはあるようだ……ということが見てとれたりする。
……そこまで観察していて、ふと唐突に、私は猛烈な違和感を覚えた。
「あれ……? ……ちょっと待ってルカトゥ」
「はい?」
ルカトゥが足を止める。
私は周囲を見渡して、聞いたことのない名前のコンビニに「酒・たばこ」と書いてあることや、貝殻みたいな質感の一本角が生えた客の入っている理髪店に「カット2200円」と表記してあることを確認して……それから聞いた。
「……なんで全部日本語なの?」
「え?」
「街中が全部、日本語で書いてある。なんで……?」
人物に注目しなければ異世界感に欠けること。その原因の正体は、ジオラマ的な意味で東京に似ている街並みだけではなく、その中にあるもっとミクロな「文字」にも存在していたのだ。……どこをどう見回してもこの街には、馴染みのない物や名前は山ほどあるのに、読めない文字は一つもない。私が知らないだけで、魔界の公用語は日本語なのだろうか? 十五年前までは日本とここは繋がっていなかったのに……?
私がそれを聞いた時、一瞬だけ、ルカトゥが何かを諦めたような顔をしたように見えた。
「先生には、わたしが異国の言語をマスターできるくらい賢そうに見えますか?」
「え?」
「だってわたしも、日本語を話してるでしょう〜?」
「あー……。そういえばそうだね」
それについては、そういえば今まで考えたこともなかった。けれど言われてみればそうだ、ルカトゥを含む人間界に来ているサキュバスのほとんど全員は、おそらく日本語を完璧に近い形でマスターしている。たとえば私は参考までに、ルカトゥ以外のサキュバスのこともAVで鑑賞したことがあるけれど、見た目が日本人的であるかどうかに関わらず、日本語がカタコトなサキュバスや他の言語で話すサキュバスというものは、一度も見たことがなかった。
日本語ペラペラな留学生は大なり小なり秀才であることが人間界の常識だけれど、言われてみればたしかに、異世界人であるサキュバスこそそうであって然るべきだ。……けれどそれとこれとでは、話の規模が違いすぎていないか?
違和感を持ちつつも、質問に答える。
「まぁ、だって話せてるってことは、そういうことなんでしょ?」
「ふふ、まぁそう思いますよねぇ。でも違うんですよぉ」
「というと……?」
「逆なんですよ、先生ぇ。先生たち人間が、魔界の言語を理解してるんです。読んだり、喋ったり……」
「……え? なんで……? 無理じゃない?」
「さぁ? あんまり考えない方がいいと思いますよ」
「えっ……、なにそれ、それこそなんで?」
「この旅行が終わる前には説明します〜。とりあえず、今は早くチェックインしちゃいましょ〜?」
「……わかった。じゃあ楽しみにしてるよ?」
「は〜い、任せてください」
言いくるめられて、手を引かれて、私はルカトゥの手配してくれたホテルに改めて向かった。
数分後、フロントから渡された鍵で入った部屋は、これまた極めて普通のシティホテルの一室といった感じだった。ベランダの類がないかわりに部屋自体は広めで、どのあたりが普通かと言えば、やはりまずはベッドが二つあるところが特筆できる。二人で寝泊まりする場所はそうでなければ。
雑多な街並みを一瞬眺めたあと、西日の入りすぎる窓のカーテンを閉め、荷物を置いてひとしきりくつろぐ。ベッドに寝転がって、そこから見える位置に設置されているテレビを点けた。……やはり文字も音声も全てが日本語だった。偶然チャンネルの合っていたニュースでは、キャスターの見た目は人間そっくりで、知らない地名の場所で交通事故があったことを報じている。テジフクト市ナキト町でサキュバスの女の子12歳が車に撥ねられて云々……。
「ご飯は六時からですって〜」
「へ〜」
ルカトゥに言われて時計を見ると、まだ十七時前だった。隣のベッドの上でスマホをいじるルカトゥに私は言う。
「で、説明はいつしてくれるの?」
「明後日にはしますよ〜」
「なんで明後日……?」
「先生に見せたいもの……というか、見せたい場所があるんですぅ。明日はわたしお仕事なので、明後日まで待ってください〜」
「ふーん……? まぁいいけど」
私の疑問に対する、なにか一目瞭然の未知なるものが、この街のどこかにあるのだろうか。それともルカトゥの口から語られる回答は、ロマンチックな雰囲気が求められる物になる予定なのだろうか。何にしても、待てと言われるなら待つけれど。
明日一日ルカトゥがいないことは私も知っていたので、そのためにタブレットを持ってきている。PCがなくても一応それでお絵描きが出来るわけだ。だからタブレットさえあればいつも通り引きこもって、ほかには特に何もせず、ただお絵描きだけに没頭することができる。……それでは旅行に来た意味がないじゃないか、という話にもなるけれど、いくら言葉が通じるといっても、一人でこのパラレルワールドじみた奇妙な都会へ繰り出していく度胸は私にはない。旅行っぽさにこだわってわざわざ縛りプレイをする意味もなく、持ち運べる趣味は持ち運んでしまえばいいと私は思う。
テレビのチャンネルを回してみるけれど、パッと見で興味を引かれる番組はなかった。どこを見ても出演している人物の見た目こそ確かにインパクトがあるけれど、番組内容が日本のそれに酷似していて、つまらないわけではないけれど、ベッドの上で見ていると段々眠くなってくる……。
一つだけ、日本のアニメが再放送されているチャンネルがあった。声優も変わらず、非常に見覚えのある美少女たちがアイドルの頂点に立つべく奮闘している。……けれど私はその数年前に最終回を迎えたらしいアニメをちゃんとは見たことがなくて、今こうして中途半端なところから見てみても、細かい話の筋は全く分からなかった。
「やばいルカトゥ、寝そう」
「あらら〜」
するするとこちらのベッドへ這い寄ってきて、私の顔を覗き込みながら彼女は言う。
「先にお風呂行っちゃいますか〜? それか、トランプとか〜」
「持ってきてるの?」
「一応〜」
「なんか二人で出来る遊びあったっけ? 神経衰弱以外で」
「なんで神経衰弱はダメなんですか〜……?」
「神経が衰弱するから」
そしてたぶん、負けた時に「通知の魔法使っただろ!」と言ってしまうから。……いや、そう考えるとルカトゥと完全にフェアな状態で遊べるトランプゲームっていったい何なんだろう? 普段テレビゲームしかしないから考えたことがなかった。今日は今まで考えたことがなかったことについて考える日なのかもしれない。
「ん〜、寝ちゃっても大丈夫ですよ〜……? 六時前に起こしますからぁ」
「そう……? ……あ、いや、スピードやろう」
「スピード?」
「知らない?」
「あっ、あのシュバババってやるやつ〜?」
「そうそれ、シュバババってやるやつ。やろう」
種目が決まると、ルカトゥは荷物の中からトランプを掘り出してきて、ベッドの上にそれを展開し始める。表にしたカードをお互いの手元に四枚、中央に二枚、残った山札は裏向きのまま半分ずつお互いの手元の端に置く。
「両手使うのあり?」
「え、無しとかあるんですか〜?」
「高校生の頃、父とそれで一回もめた」
「反抗期じゃないですか〜」
ルールは両手あり、その他ローカルルールは一切なしで、いざ勝負……!
……数分後、私は表になって積み重なったカードの山に、自分の手元に余った札をメンコのように叩きつけていた。
「くそー!」
「えっへっへ〜、勝ち〜!」
ルカトゥが煽り気味にピースサインを見せてくる。あざとい。そしてそれゆえにまんまと悔しさが倍増する。
「な、なんかあれでしょ! サキュバスの力でこう、動体視力とか反射神経とかを、あれでしょ!」
「何もしてませんよ〜」
「分かってるよ〜……」
勝負は接戦だった。彼女が異種族的な力を使ったにしては明らかに弱すぎる。それに普段テレビゲームをする時のことを振り返ってみたって、そういえば彼女が人智を超えた動きを見せた覚えはなかった。遊びに魔法を持ち込むような大人げない真似を彼女はしないと、私だって分かってはいるのだ。分かっていてなお負けるから悔しい。
私たちはそれからしばらく延々とスピードで勝負した。するとしばらく戦っているうちにギアが上がってきたのか、私も段々と勝てるようになってくる。しかしいかんせんそのゲームは一戦一戦が短いので、勝ったり負けたりを繰り返しているとそのうち、夕食の時間よりも先に飽きが来てしまった。トランプはそこで切り上げて、二種目目はタブレットで落としたエアホッケーアプリでの対戦に移る。
しばらく一喜一憂の戦いを繰り返した後、部屋の時計の針が十八時の十分前くらいを指したのを見て、私たちは食事処へ向かった。すると道中どこからか、卓球台の上をピンポン球が跳ねているとしか思えない音が聞こえてくる。フロントから部屋へ行く際と館内図を確認した際にことごとく見逃していただけで、どうやらどこかに卓球スペースがあるようだ。そういうのはホテルというよりも温泉旅館にあるイメージだったので意外だけれど、アプリのゲームで遊ぶくらいならそっちに遊びに行ってみてもよかったかもしれない。
夕食はバイキング形式だった。私が思うにバイキング形式とは、好きな物を選りすぐって盛るパーティーではなく、数多の選択肢の中から冷めていない物をいかに見つけて取るかのシビアな食事方法である。……と今までは思っていたのだけれど、不思議なことに、和洋中とわんさか並べられた品々の中に、冷めた物などは一つもなかった。おかわりに二周目を回ってみても、どこにも一つたりともである。
ルカトゥの子ども時代の給食の話を聞いていたことでなんとなく予想できていたけれど、並ぶ品々の中には見知らぬ名前の料理や食材こそあれど、それらが本質的に全く未知の物となっていることはなかった。そこにある全てが「人間界で言うところの○○らしき物」と表現できる物だったのだ。ルカトゥの話に出てきた、私たちの苦手とする納豆的な物もきっちり置いてあった。
そこでめぼしい物を探してまわり、私はエビチリ的な物をよそいながら考える。じゃあ例えばもしもこのエビらしき物が、魔界では芋虫的なポジションにある生物だったらどうしよう……? ……けれどそんな風に想像してみても、結局のところ私という人間の性格は、そういったことに真剣には興味を持てない性質をしているのだった。席に戻って口をつけ、味がよければそれでもう、穿った想像をするモチベーションはほぼほぼ吹き飛んでしまう。縁起でもない例えになるけれど、たぶん私は、自分の飲んだウミガメのスープの真相に気づいてもケロッとしていられるタイプなのだ。
満腹になって部屋に戻り寝転ぶと、今度こそ本気で眠気がおそいかかってくる。もうお風呂は明日の朝でいいかな……と思い始めている私の肩を、ルカトゥが揺さぶった。
「先生ぇ〜、お風呂行きましょうよ〜。寝ちゃうんですか〜……?」
「お腹いっぱいで……」
「む〜、まぁいいですけどぉ。じゃあわたし行っちゃいますね〜」
着替え等をまとめる音、擦れるような足音、チャリチャリと鳴る鍵の音……が、まぶたの裏の暗闇の中に聞こえる。やがて、ルカトゥが遠ざかっていくことが雰囲気で分かった。
……なんだか、デジャヴのような感覚があった。今日は一滴も飲酒していないのに、あの焼肉とカラオケの日のことが脳裏によみがえってくる。そしてその上でなお、眠気は引いてくれなかった。
「先生ぇ、いいんですね〜?」
「ん〜……」
「異種族の子の裸を見られる機会とかぁ、そう何回もないと思いますけど〜。今日のことを漫画にする時、後悔しませんか〜?」
「はっ……その発想はなかった……」
じろじろ見回せるわけではないだろうけど、たしかに我々人類のおそらくほとんどは、異世界人の体をちゃんとは見たことがない。有翼系の人の羽の付け根をチラとでも見てみたくはないのかと言われたら、それは正直、ちょっと……いやかなり見てみたいものだ。
どうしてもか、と言われるとそこまでではないけれど、しかしその一言で私の目がいくらか冴えたことは間違いなかった。重い体を気合いで動かし、急いで着替えを持ってルカトゥを追いかける。……そして脱衣場に到着してから気がついた。私はまだ一度も、ルカトゥと風呂に入ったことがないのだと。
脱衣場のカゴの前で、しばし逡巡する。そもそも風呂以前に、私はルカトゥに裸を見せたことがあったのだったか、どうだったか……? 体を入れ替えた時に、彼女がこっそり姿見の前に肌色だけで立った可能性は大いにあるけれども。
「先生ぇ……?」
「……なに?」
「順番こで入るのでもいいですよ〜……?」
「くっ、思春期じゃあるまいし」
なんで私の方が気を遣われる側なんだ……! という気持ちの勢いに任せて、さっさと服を脱いでしまう。ルカトゥが私のことをどういう目で見ているにせよ、その振る舞いが完璧に「同性の友人」であるからには、べつにこちらが恥ずかしくなったり緊張したりする必要はないのだ。そんな感情は遥か昔、多くの人々と同じように、小学校のプールの授業で使った更衣室に置いてきたのだから。
偶然にも脱衣場にはほかの客がいなかった。ゆえに、異種族の裸体とやらは、風呂場の戸を一枚へだてた先にのみ垣間見えるということになる。盗み見る気満々でいるからだろうか……? 戸に手をかけると、何も悪いことはしていないのにパトカーが横切ると不安になるような、そんな気持ちが湧いてくる。ただの横開きの磨りガラスの戸が、無駄に象徴的に感じた。
……けれど私が実際にその戸を開けて真っ先に思ったことは、異種族の裸に対する云々ではなく、あぁここにもかけ湯の文化があるんだなぁ……ということだった。
「本当に全部人間界と同じだね」
「流行りなんですよ〜」
「へ〜」
それが流行なのだとすれば、チョイスがまるで日本好きのアメリカ人みたいなノリだと感じる。浴場内には本物のアメリカ人っぽい人もいたけれど、彼女らを含めかけ湯の存在にことさらリアクションしている人は誰もいなかった。
体を流してから、私たちは先に洗い場へ向かうことにする。……するとそこでいよいよ、お待ちかねの興味深い光景に直面した。
洗い場の席は「門」の字のように客同士が背を向け合う形で配置されていて、その間の通路となるスペースが普通よりも少し幅広に取られていた。その「少し幅広」というところが重要なのだと思う。なぜなら、背中合わせの各席からは時々、個性豊かな見た目の「尻尾」が伸びていたから。
尻尾の生えている人自体はここへ来るまでの間にも何度か見た。だけどそういえば今まで、尻尾のある人たちが椅子に座っている様子をちゃんとは見ていなかったように思う。食事処では食べ物に気を取られていたからだ。だから今見えている尻尾のそれぞれが自分の座る椅子に巻き付くように丸められて、できるだけ他の人の動線を邪魔しないようにしている様を見て、へぇ〜! 器用! と私は感心した。
なんというかこう、屋台の提灯と同じで、そういう風に「並んでいる」というところにありがたみがあった。特にドラゴンのような見た目の鱗付きの太い尻尾には、なんだか水場で見るとありがたみが増すような雰囲気があったし、服を着ていては気が付けなかっただろうこととして、その人の腕や脚にはまるで袖のように鱗が付いていた。その鱗は車のボディのように光沢がある深緑色をしていて、ちょっとカッコイイ感じがする。
……と、観察もほどほどにしつつ、二席並んで空いている場所があったので、私たちはなんとなくそこを選んで座った。そして頭から洗おうとすると、さっきまで気持ちはすっかりファンタジーだったのに、シャンプーとリンスの見分けが微妙につきづらいところまで人間界と同じであることに気がついて、そこは改善してくれよ……と急に現実的な気持ちが舞い戻ってくる。あるいはこういったデコボコ感が魔界旅行の醍醐味なのかもしれない、とも思い初めてきた。
他にどんな異種族の人がいるのか気になって、普段ノロマな私も今日ばかりはすばやく体を洗う。そして全ての泡を洗い流したなら、大きな湯船に入って肩まで浸かった。異種族観察のためにうろうろ歩き回るわけにはいかないから、そうする。
ちょうど私が腰を下ろした場所から正面の洗い場に、腰元から白い羽を生やした白髪ショートの少女が見えた。その少女は小柄で顔つきも幼く、見た目だけで言えばまだ人間で言うところの十代くらいのようだった。
その少女が、羽の付け根の方は背中を洗うのと同じような方法で洗っているのを見て、へぇ〜そうやるんだ〜と感心する。その羽は自身の体を包むように丸めることも出来るようで、他種族の尻尾と同じく、やはり器用な印象を受けるものだった。そうして羽を体に近づけることで、手の届く範囲は腕を洗うのと同じようにゴシゴシと擦っている。
……と、そのように少女のことを観察していると、不意に湯の中からちょんちょんと指先で肩を叩かれた。それで反射的に隣に首をめぐらせると…………金髪の美女の顔がこちらへ乗り出すようにして、かなり近い距離にあった。
その美女の疑心的な目に射抜かれて、思わず「ヒュッ……」と息を飲んでしまう。
「あなた、日本人?」
その声音も機嫌が良さそうには聞こえなかった。
「え、あ、は、はいっ、日本人です」
「……あの羽の子に興味あるの?」
「あ、え、えと、あっ……」
無機質で低い声だ。その人は明らかに私のことを警戒して……もとい不審者として見ていたように思う。突き刺さるようなその視線にも動揺させられる。
なんで……同性から見てもあからさまに不審なくらいジロジロ観察しすぎていた……? いやそんなはずはない……そんなはずは……。と、私は自分自身の潔白を無邪気に信じているはずなのに、「不審者として見られている」という事実が、自分の中からまともな思考能力を奪っていった。そうして意味のないキョドった受け答えしかできなくなった様子が我ながらなおさら不審者っぽくて、やばいやばいやばい……と逆効果の警鐘が頭の中に鳴り響き始める。
誤解を、誤解を解かなければ……! そうは思うものの、まず誤解とは何なのだろう? そこから分からなくなる。羽の子に興味があるのかという問いへの答えは、正直なところ完全にイエスだ。けどそれってそのまま言うのはまずくないか? いや、まずかったとして、じゃあそれってどういう罪なんだ……? なんでまずいんだろう……? ただぼーっと見ていたらそれでアウトなのか……? 同性なのに? いや、同性だからセーフだと思っていること自体が罪なのか……? それとも何か文化的な違いの話……? 身体的特徴に注目することが特別失礼に当たるとか……?
私がどもって何も言えなくなったまま、金髪美女に睨みを効かされてからは体感でもう三分くらい経過した気がする。相手の目を見ることができない……。ちゃぷちゃぷと誰かが湯船の中に入ってくる音が、やけに大きく聞こえた。
「先生ぇ〜、なに絡まれてるんですかぁ」
「あ、え、ルカトゥ」
「その人、わたしの友達なんですけど〜、何か御用ですか〜?」
いつも通りののほほんとした表情で、ルカトゥが私と金髪さんの傍に座る。その時の彼女にもまた、声音こそふわふわした人畜無害そうなものだったけれど、その上でなお明らかな敵意が含まれていた。
金髪さんが、フッと笑って答える。
「そこの白い羽の子のことを熱心に見てるから、興味あるのかと思って話しかけただけよ。あの羽の子、あたしの連れだから」
「……あ〜、なるほどぉ。すみません、その先生ぇ……友達は、人間界の漫画家なので、異種族とかには人一倍興味があるんですよぉ。今日も観光で来てて〜」
「うん、だろうと思った。……べつに絡んでるわけじゃないわよ?」
「わ、そうだったんですねぇ。もう〜、先生がキョドってるから〜」
「ご、ごめん」
気のないごめんを言う私を、金髪さんが隣でまたフッと笑った。彼女のその笑い方にはどこか嘲笑的なところがある。……なんというか、自分が陰キャであることを久しぶりに思い知らされた。
湯船の方に歩いてきた羽の子に、金髪さんが手招きをする。不思議そうな顔をして寄ってきたその子に彼女が説明した。
「このお姉ちゃんがね、セラの羽に興味あるんだって。日本から来たらしいよ」
「ん、人間……?」
「そう」
声を聞いてみると、セラと呼ばれたその少女は、見た目の印象よりもさらに幼い雰囲気を持つ人物だった。そしてその如何にも無垢な瞳が、興味本位で彼女に注目していた私のことをまじまじと見つめる。
「……羽、さわる?」
「えっ」
腰元から生える彼女の羽は、すでに湯船に大方浸かっている。その羽しかり、そういえば獣人とか竜人とか様々な種族の人がいるけれど、毛や鱗が散ったりすることはないんだな……と、今になって急に気がついた。
羽に目を向けたついでに近くで見てみると、セラの体はちょっと心配になるくらい細かった。痩せているというよりは、まるで空を飛ぶために元々軽く作られているかのような……。
「あ、さ、さわっていい……の? ですか?」
どういう言葉遣いにすればいいのか分からなくてカタコトみたいになってしまう。ルカトゥ含め誰もそれをくすりとも笑わないことが逆に冷たく感じた。
セラはこくんと頷く。なので私は、お言葉に甘えてその羽に触らせてもらった。砂場に線を引くみたいに真ん中三本の指先で、その白色の感触を確かめる。
「……わ、なんか、……あの、あれ、すごい触り心地いい」
「先生ぇ、変態っぽいですよぉ」
「うそ……!?」
本当は「羽毛っぽい」というのが正直な感想だったのだけれど、ものすごい速度で働いた直感が「もしかして動物に例えるのって失礼だったりしない?」と告げてきたので、私は咄嗟に言葉をにごしたのだった。それがまさか変態呼ばわりを……しかもルカトゥからされることになるとは、背中から撃たれるとはこのことじゃないか……?
むしろ同性が恋愛や性欲の対象であるルカトゥの方が内心的には今一番変態に近いんじゃないの……!? と目で訴えるけれど、思いのほかそれが上手く伝わったのか、彼女からはすごく露骨に目をそらされた。
……今これってどういう状況なんだろう? 年齢も種族も違う女四人がだだっ広い湯船の一角で固まって、なんだかよく分からないことをやっている。そんな現状にだんだん理解が追いつかなくなってくる。異種族とのスキンシップの実現にテンションが上がるというよりは、困惑の方が遥かに勝っていた。
されるがままになっているセラが、湯船の中の私の体を見下ろしている気がする。こちらが異種族を観察する時、異種族もまたこちらを……ということなのだろうか? 彼女だって羽を除けば人間っぽい体をしているけれど。
金髪さんがセラの肩を叩く。「連れ」である少女に話しかける時も、べつに彼女の表情がやわらかくなるようなことはなかった。
「このお姉ちゃんね、漫画家なんだって」
「え! そうなの!?」
金髪さんからそう聞いた途端、セラの目がワクワクに輝いた。「セラ漫画好きだもんね」、と金髪さんが付け足す。うんっ、と答えるセラの声は、踊るように弾んでいた。
「どんな漫画? どんなの描いてるの?」
子どもみたいにキラキラした目で、そう聞かれる。
私は「えー? うーんとね……」と言葉をにごしつつ、可能な限りの小声かつ早口で、金髪さんの耳元にささやき問いかけた。
「セラさん何歳ですか」
「八歳」
「……はっ? はっ……!? え、ジュウハチ……?」
「違う、ハチ」
八歳!?!?
思わずセラの方を見る。目をかっ開いて見る。今は膝を折りほとんど肩まで湯に浸かっている彼女を見てもよく分からないけれど、さっき遠くから見ていた時の感じでは、セラの身長は間違いなく百五十センチ近くはあったはずだ。少なくとも年齢一桁の幼女には少しも見えなかった。なのに八歳だなんて、そんな八歳児が存在するのだろうか……!? いや、しない。…………少なくとも人間の中には、存在しない。
けれども、じゃあ例えばルカトゥが五十歳に見えるのかといえば、見えるわけがない。腰元から白く触り心地の良い羽を生やしているセラは、セラちゃんは、どう見ても人間ではなかった。ならば彼女が本当に八歳ということだってあり得るのかもしれない。
……お縄じゃん、と思う。法律には詳しくないけれど、ほぼ赤の他人である八歳女児の体にべたべた触るのは、たぶん同性かつ同意の上でもアウトだと思う。それともアメリカの大麻みたいに魔界のロリは合法なのだろうか。いや、そんなわけない。
……しかしそれはともかく、私は、その女児の期待の眼差しと質問について答えなければならなかった。だから意を決する。ルカトゥに対してはしないように努めている「はぐらかす」を、今ばかりは全力でやるのだと。バレない程度に深呼吸をする。
「えーと、お姉ちゃんはね、恋愛系の漫画を描いてます」
「なんてタイトル? 読んでみる!」
「えっ。……あー、ちょ〜っとね、お姉ちゃんが描いてるのはその、大人向けの話だから、セラちゃんにはまだ早いかなー……?」
「えー」
見るからに不服そうな顔をするセラちゃん。しかし中学生の頃からエロ絵を投稿していた私だって、八歳の頃はさすがに赤ちゃんの作り方すら知らなかったものだ。八歳児に私の漫画を見せるのは、いくらなんでも早すぎる。
と、その時突然、金髪さんがセラちゃんに何かを耳打ちした。二人にしか聞こえない小さな声で、それなりの文章量を伝えていたように思う。するとそれを聞いたセラちゃんは「あ、そっか」と呟いて、途端に不服さをその表情から取り払った。
「いーち、にー、さーん……」
肩まで浸かって数を数え始めるセラちゃん。
あぁそうか、金髪さんがおそらく全てを察してくれて、緊急脱出を施してくれたんだ……と私は理解する。実際、ほどなくして十秒を数え終えたセラちゃんは、こちらに手を振りながら浴場から退出して行った。
……動揺ばかりしていたからか、私もなんだかのぼせ気味になってきた気がする。残心のようなため息を一つ吐いて、ルカトゥに唇の動きだけで「出る?」と聞くと、彼女はスッとそれにうなずいた。
セラちゃんたちとはある程度間を空けてから脱衣場に戻ったつもりだったけれど、そこにはまだパジャマを着たセラちゃんと、下着姿の金髪さんがいた。金髪さんはなぜか紐パンだった。
「あっ」
その金髪さんの腹部のあたりを見て、驚きに声が出る。彼女の肌……下腹部のあたりに、下着で隠れている部分からほんの少しだけ、タトゥーのような「線」が垣間見えていたのだ。
あれは、淫紋じゃないか……? 見た目としてはほとんど人間と区別がつかないサキュバスの、唯一の明確な判別方法……子宮のあたりの位置に浮かび出る「淫紋」が、そこにあるように見えた。確証はないけれど、しかしサキュバスでもなく、そんな箇所にわざわざタトゥーを入れているような人が居るだろうか……?
AVで見慣れているはずの「ルカトゥ以外のサキュバス」との邂逅に、私は謎の衝撃を覚えていた。なんというか、こんなにしれっとしているものなのかと……。ルカトゥのことは初対面の時からサキュバスだと知っていたから、こうして不意に出会うことが衝撃的なのかもしれない。
そんな私のもとへ、羽の付け根の部分だけパジャマの背中側の裾がめくれているセラちゃんが、ドライヤーを持って近づいてきた。
「お姉ちゃんこれ見てー」
「うん?」
何かと思えば、そのドライヤーはカチカチカチと音を立てながら、枝切り鋏のように持ち手の部分がぐんぐんと伸びていった。
「わ、なにそれ」
「羽の付け根の方ね、これで乾かすの」
「あ、へぇ〜……! なるほど……!」
「あとねあとね、これ見て! ……シェトちゃんいくよ!」
「ん」
シェトと呼ばれたのは例の金髪さんだった。ちょっと見ていない間に、彼女は上のボタンを二つ開けてワイシャツを着ていた。
ヒュッと風切り音が耳に入る。セラの羽が前方に風を送るように大きく羽ばたき、そこから何かが飛んだ。……気がついた時には、シェトさんが白い羽を数本その手に握っていた。指と指の間に、クナイでも持つみたいにして。
「どう……!? かっこいいでしょ!」
「え、あ、うんっ」
ちょっと頭が追いつかないけれど、なんとなく大体のことは察せた。つまり、セラちゃんの羽は飛び道具として飛ばせる物で、サキュバスであるシェトさんは飛ばされたそれを素手で防ぐことが出来る……と、要はそういうことなのだろう。たぶん。
漫画みたいだなぁ……と思ったその矢先に、セラちゃんが言った。
「漫画のネタになる?」
「え?」
「シェトちゃんがね、見せてあげたらお姉ちゃん喜ぶんじゃないかって」
「あー、なるほど」
ベルト付きのボトムスをカゴから片手にしたシェトさんの方を見ると、彼女は空いている方の手を軽く振ってくれた。さっき掴んでいた羽はすでにどこかへ消えている。
私はセラちゃんの顔を見る。初見の印象と同じように、彼女の見た目は今なお女子高生くらいの歳頃に見えてしまう。背の高さなんか、やはり私とほとんど変わらないのだ。……けれどもさすがになんとなく、実際の彼女の年齢はそうではないのだ、ということも分かってきていた。
もし彼女が人間だったら、私は今頃屈みながら話していたのだろうなと思う。
「ありがとね。セラちゃんがよかったら、見せてくれたもの、漫画にしてみてもいい? かっこよかったから」
「いいよー!」
にこっと笑ったセラちゃんはそれで満足したのか、今度はルカトゥの方へ走り寄って行った。ルカトゥはホテルから貸し出されている部屋着を着込んでいたし、私もこれからそれを着る。……シェトさんの一日がまだ終わりに向かっているわけではないらしいことを、だから私はなんとなく予感していた。
さっさと体を拭いて着替えながら、さっきまでこちらへ向いていた無垢の目が、今度はルカトゥをロックオンしている様を観察する。
「お姉ちゃんも漫画家なの?」
「わたしはちがいますよ〜」
「ふーん。お仕事なにしてるの?」
「……ん〜、女優?」
「えっ!? な、名前は!?」
「ひみつです〜。プライベートですから、ね……?」
「あっ、そ、そっか。ごめんなさい」
「いえいえ〜」
う、上手い……! と内心で声を上げた。はぐらかし方が上手い。助け舟もなしに一瞬で逃げ切るとは、これが生身を人目にさらす職業の従事者とそれ以外との差なのだろうか……? 私も「作者の顔が分かっちゃったら変にイメージがつくでしょ?」とか言って誤魔化せばよかったのかもしれない。……いや、今時漫画家の顔出しなんて珍しくもないし無理か。
そんなことを考えながら着替え終え、荷物をまとめていたところで、ポンポンと肩を叩かれる。デジャヴというよりはトラウマに近いものを感じつつ呼ばれた方を見ると、予感の通りに、やはり私の肩を叩いたのは金髪さん……もといシェトさんだった。
湯上りの髪を乾かしきった彼女を改めて至近距離で見ると、さすがサキュバスなだけあって、同性から見ても目が覚めるような美人だなぁ……と感じる。そういった明らかに目立つタイプの人であるはずなのに、近寄ってくる時の気配がなぜか異様に薄いところが、常に険しめな表情と合わせて妙に怖いのだけれど……。
美人特有の威圧感からなのか、やや強く見える眼力でもって、シェトさんは私の顔を見やり、
「で、どんな漫画描いてるの?」
と言った。
「え?」
「あたしには教えてもいいでしょ?」
「ま、まぁ」
本人と交渉したのか、ルカトゥは今セラちゃんの羽を、大型犬と戯れるかのように手のひらで派手に撫でまわしていた。味方の位置を確認する意味をこめてチラチラとそちらを見ながら私は答える。
「どんなって言われても、エロ漫画なんですけど……」
「なんてやつ? ていうかペンネームは?」
「ぐ、ぐいぐい来ますね……?」
「日本人の漫画家に会ったの初めてだから、今しかないと思って」
「シェトさんも漫画好きなんですか……?」
「んー、まぁね」
話している最中、シェトさんの表情には相変わらず……というかあまりにも変化がなく、常に探りを入れて来ているような感じがあった。……だから、私が初めに感じた「警戒されている」という印象は、もしかすると気のせいだったのかもしれない。そう思えてくる……というかそう思いたい。でなければ、今もなおその警戒が続いているということになってしまうから。
アマチュアになったとはいえ創作者のはしくれとして、自分の描いた物に興味を持ってくれる人のことを、そんなに恐ろしい存在だとは思いたくないのだ。
「……一昨年に本を出せまして、「2万マイルは遠すぎる」というタイトルで……」
「……ん? それってミステリじゃなかった?」
「あ、それは「九マイルは遠すぎる」ってやつなので、それを元ネタにこう、パロディっていうか」
「ふーん……? どんな話?」
「あ、遠距離恋愛の話です。表題作なので、ほかにもいろいろ短編が入ってるんですけど」
「へぇ。電子で読める?」
「あ、はい」
「探してみようかな。ペンネームは?」
「う、ウズラ・メルガルスといいます……」
興味を持ってもらえるのは嬉しいのだけれど……。正直に言って、取り調べを受けているような気分だった。
助けを求めてルカトゥの方を見るも、それが交渉の条件だったのか、彼女は今「お〜」と感嘆の様子のセラちゃんからその巨乳をたぷたぷ揉まれて、菩薩のような笑顔を浮かべている最中だった。何をしてるんだあのレズは……。
スマホ片手にシェトさんが「あ、これか」と呟く。私の出せた最初で最後の本を彼女が見つけたのかと思ったら、……彼女が見つけたのは、私のツイッターの方だった。そしてそこに上げられているエッセイ漫画に目を通していた。
「これあの人?」
あごでルカトゥを指しながら聞かれる。「これ」というのはその漫画に登場するAV女優のサキュバス、アオイのことだろう。私は、ヤグラくんやパスカルポーネとは違って、そのキャラクターの容姿をルカトゥ本人からそこまでズラしていなかった。
であるならば当然、同漫画内のクジャクが私であることも悟られたと思われる。その点について私はフェアだったから。
「あ、はい、そうです……」
「ふーん……?」
漫画の中のアオイやクジャクと、目の前の私やルカトゥを見比べながら、シェトさんの表情は相変わらず動かない。……ルカトゥとセラちゃんの会話が聞こえてくる。
「あの羽キャッチ、わたしもできますよ〜?」
「え、ほんと……?」
「飛ばしてみてください〜」
「でも危ないよ……?」
そんな二人の姿を眺めながら、あるいは監視しながら。シェトさんは私の方を見もせずに言う。
「あたしたちのことも漫画にするの?」
「え……?」
「これ、実話でしょ?」
「……分かります?」
「いや? そうでもないけど、今わかった」
「あっ……」
かまをかけられてしまった。漫画家が自身と友人そっくりのキャラクターで現代を舞台にした話を描いていれば、そりゃ勘づかれるだろうとは思うけれども。
彼女の問いに、私は正直に答える。さすがに慣れてきたのか、今度はキョドらずにいられた。
「いつになるかは分かりませんけど、お二人がよければ、いつかは描けたらいいな……とは思います」
「描くなって言ったら?」
「そりゃ、描きません」
「本当かな」
「約束します」
「……まぁ、子どもの羽さわっちゃってるもんね」
「えっ、羽って何かまずいんですか……?」
「どうかな、髪の毛みたいなものじゃない? あたしも詳しくないけどさ。…………おーいセラ、そろそろ行くよ」
シェトさんが呼ぶと、ルカトゥに向けて羽ダーツを飛ばすか飛ばさないか悩みながら自分の羽を撫でていたセラちゃんは、それで我に返ったみたいに荷物をまとめ始めた。
「べつに描いてもいいよ。じゃあね」
それだけ言ってセラちゃんの手を引きながら、シェトさんはその場を去っていった。
……すっかり意識の外になっていたけれど、脱衣場にはまばらに他の客も入っている。そして何より湿気がきついので、私たちもさっさと部屋に戻ることにした。ホテルの廊下を歩きながら、部屋の鍵を片手にルカトゥが言う。
「先生ったら、どこの誰とも知れない女の子にデレデレしちゃって〜。わたしというものがありながらぁ」
「え? デレデレはしてないけど」
「そうですか〜? 興味津々だったじゃないですかぁ」
「そりゃ興味はあるよ」
言いつつ、べつにルカトゥが本気で嫉妬したり拗ねたりしているわけではないことは分かっていた。もし彼女が本気でそういう感情を持ったなら、きっと口には出さないだろうから。
だから私はそんなことよりも、かつて彼女がおくびにも出さずに隠していた心についてを聞く。
「興味といえば、ルカトゥこそどうなのさ」
「なにがですか〜?」
「その、……お風呂入ってる時とか、どんな感じなの?」
「う〜ん? 先生からは、どんな風に見えました〜?」
「私からは、そりゃ……」
お互い裸になった時のこと、かけ湯をしてから洗い場の席を探した時のこと。湯船の中でキョドる私に助け舟を出しに来ててくれた時のこと、そのあとセラちゃんとシェトさんを交えて話した時のこと。セラちゃんと絡んでいたルカトゥのこと。……ほんの三十分程度の間に起こったことの全てを振り返りながら、私は答える。
「そりゃ、少なくとも変態っぽくは見えなかったかな。胸の大きい人は子どもにイタズラされがちだし」
「あはは。じゃあ、それでいいじゃないですか〜。それが全てですよぉ」
「……まぁたしかに、それもそうか」
もしもルカトゥが人並みに繊細な心の持ち主だったなら、同性を性的対象とする者がそれを隠しながら裸の付き合いをすることのストレスとはどれほどの物だろう……とか考えさせられていたのかもしれないけれど。実際には彼女は無敵なので、「まぁ大丈夫なんだろう」の一言で済ませてしまっても、少なくとも致命的なことにはならない。……なら確かに、それは実際そのように済ませておくのが一番良いことなのかもしれない。そんな気がした。
その話題を深掘りした先で自分が何をしてやれる自信もなく、私はそれ以上余計なことは考えないようにした。大体、私たちは今までも、そして文字通りこれからも、同じ部屋で眠るのだ。同性愛者の苦悩だとか、そういうことを言い出せばキリがない。キリがないのに、何も出来やしないのに、私としたことがうっかりくだらないことを聞いてしまったものだ。
部屋に戻ってベッドに寝転ぶ。いつでも眠れそうな気がして、意識があるうちに急いで歯をみがいた。テレビをつけるとお笑いバラエティ的な番組が放送されていて、うぐいす色の羽を生やした芸人らしき男が「俺らの地元で夜中生身で外に居たら、羽で釘が打てるようになりますからね!?」と熱弁していた。
その芸人の羽が肩のあたりから生えているように見えたことで、確かセラちゃんは腰のあたりからだったよなぁ……と、若干の違和感が湧く。
そしてその若干の違和感とは、すでに積み重なっていた無数の違和感に対して、ほんの少し上乗せされる物にすぎなかった。
「あの二人さ、なんだったんだろうね」
ベッドの上でスマホをいじっていたルカトゥが顔を上げる。
「なんだったとは〜?」
「シェトさんはセラちゃんのことを、「連れ」って言ってたんだよね」
「そうですねぇ」
「自分の子どものことをそんな呼び方するかな」
「え?」
ルカトゥが一瞬驚いたような顔をした。が、すぐに一人で何かが腑に落ちたようで、その驚きはあっという間に色褪せていく。「あぁそうか」と彼女は呟いた。
「まだ言ってなかったんでしたっけ〜」
「なにが?」
「サキュバスのお腹からはサキュバスしか生まれないんですよぉ、先生ぇ」
「え……?」
「サキュバスが妊娠するっていうことは、サキュバスを身篭るってことなんです〜。例外はありません」
「そうなの……?」
サキュバスと妊娠についての話は、私も少しは聞いたことがある。たとえばサキュバスはセックスを行う際、自身が妊娠するかどうかを意思ひとつで決めているらしい……とか。
男性側が不妊症でも、妊娠を決意したサキュバスに中出しすればそのサキュバスは妊娠するし、逆に本人が拒否している場合には、物理的にいかなる手段を行使しても、そのサキュバスを妊娠させることは出来ないのだ……という話を聞いたことがある。けれど、生まれてくる子どもについての話は初耳だった。
サキュバスには女性しかおらず、同じ性質を持った男性の魔族はインキュバスと呼ばれる。……ということは、「サキュバスしか生まれない」という文言は、生まれてくる赤ん坊の性別が、子作りをする前から決まっているということを意味する。……そんなことが本当にあるのだろうか? 思わず疑ってしまうけれど、よく考えてみれば、今ここでルカトゥがそんな嘘をつく意味もない。疑うだけ不毛なことのように思えた。
しかし、でも、そうだとすると……。
「じゃあ、羽の生えたサキュバスはいる?」
「聞いたことがないですぅ」
「……シェトさんが何歳なのかは分からないけど、何歳だったとしても、我が子でもない八歳の子を連れてホテルに泊まってるってどんなシチュエーション? 友達の子とか?」
「さぁ? 分かりませんよ〜そんなこと〜」
「ルカトゥは気にならないの?」
「あんまり〜」
ルカトゥはスマホを枕元の充電器に挿して投げ出し、布団に潜っては仰向けに目を閉じる。明日彼女は仕事なので、修学旅行の夜のように無限のお喋りを続けることはできないだろう。貴重な睡眠時間に比べれば多少の違和感なんてどうでもいい……という考えは、私だって分からないわけではなかった。
けれど、部屋の電気とテレビを消したあとも、私は気になってしまう。セラちゃんはシェトさんのことを「シェトちゃん」とちゃん付けで呼んでいた。それにルカトゥ相手には最後までしなかった羽ダーツを、シェトさん相手には躊躇なく飛ばしていた。そういったあたりから、セラちゃんはシェトさんのことを相当信頼しているか、少なくとも身近に感じていることが窺える。しかし、ではそんな信頼関係が成り立つ二人の間柄には、いったいどんな形が考えられるのか……?
……連れ呼びやちゃん付けの違和感をいったん忘れるなら、セラちゃんは養子なのではないかという説がある。それで納得するかどうかはもはや私の自由だけれど、そもそもどんな説を立てたところで、最後は私がそれを信じるかどうかでしかないという点は変わらない。……たしかに、考えるだけ無駄というような気がしてこないでもなかった。
隣のベッドからもぞもぞ動く音が聞こえてくる。
「先生ぇ」
「んー?」
「明日、一人で大丈夫ですか〜……? もしあれなら、知人を呼んでおきますけど〜」
「いや、大丈夫だよ」
ルカトゥの知人……いわゆる「友達の友達」というやつにルカトゥ抜きで会うことの方がしんどい気がして、気持ちはありがたかったけれど私は即決でそれを断った。
暗闇の中で、ルカトゥが不安そうな顔をした気がする。私の被害妄想かもしれない。
「今日絡まれてる先生を見て、急に心配になってきちゃって〜……」
「え、あれやっぱり絡まれてたの?」
「ですよぅ。……シェトさんの「絡んでるわけじゃない」ってあれ、嘘でしたから」
「えっ」
通知の魔法で嘘を検知するルカトゥがそう言うなら、それはそういうことなのだろう。しかもはぐらかしが弱点になっている以上、その魔法が検知するのはきっと「明確な嘘」だけだ。……しかしそうだとすると、シェトさんが私へ向けて常に警戒心をあらわにしているように見えたのは……。
考えるだけ無駄だと蓋をしたはずの疑問に対する興味が、それを聞いて再燃してしまう。本当に、あの二人はいったい何者で、どういう関係だったんだろう……? なぜ私はそんなに深く警戒されて、創作にまつわることまで聞き出されたのか……。「描くな」と釘を刺されるならまだしも、シェトさんはそれすらしなかったから意味が分からない。……言われた言葉通りに会話を捉えるならの話だけれど。
思ったまま、素朴な疑問を口にする。
「なんで絡まれたんだろう……」
「先生、自分が思ってるより目悪いですからぁ……。遠くのものを見てる時、結構険しい顔してますよぉ……?」
「あー、それで睨んでると思われたってこと……?」
「くらいしか、考えられないかなぁって〜」
「じゃあ、そこは気をつけて引きこもっとくよ」
「どうしても怖いことがあったら、心の中で「ルカトゥ助けて」って念じてくださいね……? 通知が来ますから」
「私はのび太くんか……。ありがたいけども」
助けてルカトゥえもん〜。と、叫ぶ時が来ないことを祈る。できればただ祈るだけではなく、私一人でもなんなりとやっていけるんだという強さを証明して、ルカトゥえもんに安心して仕事に行ってもらいたいところだけれど、それに関してはぶっちゃけ自信がなかった。陰キャモヤシ漫画家はワンチャンのび太より弱い。だから明日の私に出来るのはおとなしく引きこもることだけなのだ。
おやすみなさいを言い合ったあと、ルカトゥが寝息を立て始めてからも、私はシェトさんとセラちゃんの謎についてしばらく考えていた。けれど考えても考えても、頭一つ抜けて正しそうな仮説などは思いつかず、そのうち思考は「いつか二人を漫画に描く時が来たら、どのような描き方をしよう?」という方向にシフトして行った。見た目はどこまで本人に寄せるべきか、この謎に関する部分は漫画に積極的に組み込むべきどうか……。
考え込むうちに、セラちゃんとルカトゥが手を組み、ホテル内で暴れ始めた配膳兼戦闘用ロボ(どういうことだ?)を鎮圧する中、私とシェトさんで事件の首謀者を探す……というストーリーを考えていて、その意味不明の思考が夢の中の物だと気がついた時には、すでに窓からカーテン越しの朝日が差し込んでいた。
スマホで時間を確認すると朝の七時と表示される。何か物音がすると思ったら、ルカトゥがすでに起きて歯みがきをしていた。
「おはよう」
「あ、おはようございます〜。朝食は八時からだそうですよぉ」
「ん、ルカトゥの出発は何時?」
「九時くらいですかねぇ」
「そっか。……忙しいね」
「念の為ですよぉ」
八時になってから朝食に向かった。意識して探してみたけれど、シェトさんやセラちゃんの姿は見当たらなかった。朝の食事処は十時まで開かれているらしいから、タイミングが噛み合わなければまぁ会えはしないのだろう。
食べ終えて部屋に戻り、いつも家でするみたいにあっけなくルカトゥを見送ったあと、私はタブレットでゆめ魔にっきのネームを考え始める。するとその進行具合を見ることで、例の二人の謎なんてものは私にとってもどうでもいい事になってしまった。……なにせ漫画の中の私は、今まさに働くことを辞めようとしているところだったのだ。そこから今日の旅行の話にたどり着くまでの道のりの長さを思うと、老後のことを考えることと同じくらい気が遠くなる。
ひとまず直近のネームだけ考えよう。そう気を取り直して、私は、記憶力の許す限り当時のことを思い出す。ルカトゥと体を入れ替えたことでサキュバスの存在や性質が一線を超えて身近な物となり、人間のリアリティを重視していた自分の創作がブレ始め、ついでに全年齢対象の作品にかなり力を入れて描いてみた結果、エロ漫画家としての仕事を続けていくことに自信を失うくだりを……。
……ん? と、その箇条書きにした過去の記憶に違和感を覚える。何かが噛み合わないような、納得しかねるような感覚があった。何がそんなにひっかかっているんだろう……としばらく考えてみると、その答えが見えてくる。
確かに当時の私は、自分の創作のアイデンティティを見失っていた。……けれどそれは、探せば見つかるものだったのではないか? なにせその後の私は今日までの間に、それなりの数、エロ漫画と呼んで差し支えない作品を描いてきたのだ。違和感の理由はそこにある。
もちろん描いてきた物の全てが、必ずしもそのまま仕事として納品できるような代物だったわけではないことは否めない。作品を描き上げるペースだって、締切がないのを良いことに完全にまちまちだった。……けれどそれはどこまでいっても「調整」の範囲の話なのではないか? 細かい内容やページ数やスケジュール……そういった調整の問題が事の全てならば、それはもしかして努力次第でなんとかなっていたのではないか……?
正直、今になってからその努力をしようとは思えない。一度ひどい蹴り方をした人間がプロの世界に戻るというのは並大抵のことではないだろうし、漫画を描くという行いに「必死」を持ち込みたくないという気持ちが、今はどうしても重い。何より私はルカトゥに頼り切ることの覚悟を決めたのだから、頼ることが出来なくなるほど切羽詰まった場合にならともかく、こんな悠々とした旅行が象徴する「余裕」の中で、再び以上の努力をするために腹を括るなんてことは、とてもとても出来る気がしないし、やりたくもない。
……だけどそんな今はともかく、当時の私はなぜあんなにあっさりと、仕事を辞めることを選べてしまったのだろう? 頑張ればどうにかならないわけではなかったかもしれないのに、記憶が正しければ、私はかなりの即決でニートになっていたように思う。違和感はそこだ。……そこでそんなにあっさり折れるなら、逆にそれまでの私はなぜプロとして頑張れていたのだろう……?
ルカトゥに家事を任せる生活を味わった瞬間に、何か心の中にあった糸が切れてしまったのだろうか? しかしそんなに一人暮らしがつらかったなら、私はもっと昔から早々にそれを諦めて、一生実家暮らしをしていたように思う。元々自分の創作ジャンルがセンシティブだったこともあって、諸々の苦労を背負ってでもフリーダムな生活を手にするべく、かつての私は家を出たはずだ。そしてそれについては未だ一度も、後悔というほどのことをしたことがない。永遠の実家暮らしもきっと悪くはないのだろうけど、一人で暮らすことにもまた別の快適さがあった。ルカトゥを頻繁に家に呼んでいたことなどはその最たる例だ。あの頃の一人暮らしは間違いなく楽しかった。
暮らしが原因でないとすると、考えられる要素はもう一つある。漫画を描くこと自体の方だ。もしかして私はあの頃、仕事で漫画を描くことに、無自覚のうちにほとほと疲れていたのだろうか? 「月光の体験」の執筆の中でそのことに気がついたのだろうか?
その説については、まったくあり得ないとは言いきれない。といってもそれは自覚症状があったという意味ではなく、悪魔の証明になるから断言はできないという意味だ。仕事をしていて一度もつらさを感じたことがない人間はそうそうおらず、一度でもつらさを感じたことがあるなら、それが原因ではないと断言することは出来なくなる。
はたしてあの頃の自分にとって、仕事で漫画を描くことはそんなにつらいことだったのか。……そう考えると、少なくとも今の私が再奮起することに比べれば、当時は全然マシな苦労しか感じていなかったような気はする。それに一人暮らしを楽しくやっていたという印象は、仕事に特筆するほどのつらさを感じていたなら出てこない物なのではないかとも思える。
……考えるほどに分からなくなってくる。理屈で考えてみれば、当時の私がそこまで精神的に追い込まれていたとは思えないけれど、そうするとゆめ魔にっきの「漫画としての筋書き」が成り立たなくなる。そしてそれはつまり、私の人生の辻褄を見失うことに等しい。……いや、それ自体は最悪見失ってしまっても構わない。済んでしまった選択自体は、今さら何を言っても仕方がないから。けれどもエッセイ漫画に不和が生じることは現在進行形の問題だ。それは困る。
私は必死に当時の自分を思い出そうとする。理屈ではなく推測でもなく「我が事」として、仕事を辞めた時の気持ち、それを選択した時の気持ちを掘り起こしたい。思い出せ、心よ数年巻き戻れ……。
……そう念じる中で、あるアプローチを思いついた。「もし今も自分がプロの漫画家だったら」と想像してみることだ。実際にあった過去ではなく、現在と同じ時系列ながら別な世界線にいるパラレルな自分の立場になりきって考えてみる。未だプロを続けているその私は、今頃何を思っているだろう? ……そういう風に考えることで、段々と昔の気持ちにも寄り添えるような気がした。
……私は、私は、あの時、きっと不安だった。アイデンティティと共に、職業漫画家としての自信を失っていたように思う。結果としてはその後もそこそこ漫画が描けたけれど、それは趣味として気楽にやった結果の話であって、きっと当時の私は、その気楽さなくしては不安が払えなかったのだ。そして不安が払えないことには、思うように漫画が描けなかったのだ。……その不安と自信の喪失はどこから来たか? それはアイデンティティの喪失ともう一つ、きっと、全年齢対象の話を描くことが、思いのほか楽しかったからなのではないか……?
考えてみれば、去年の冬、私にはしばらく漫画が描けていない時期があった。実際の私はその間にものんきにルカトゥとの関係性のことについて悩んでいたけれど、もしあれが趣味の漫画ではなく仕事の漫画だったら? と想像すれば確かに恐ろしい。私はいずれ自分がその恐ろしさに直面することを予知していたのだろうか……? 最も恐ろしいのは自力で稼げなくなることではなく、稼ぐことに必死になりすぎて、それ以外のことを見逃してしまいかねないことだと。
……そもそも当時の私が感じていたアイデンティティとは何なのだろう? 今になってよく考えながら振り返ると、それも分からなくなってくる。趣味で漫画を描き続けた結果、私はサキュバスの話をよく描くようになったけれど、今ではそれがすっかり肌に馴染んでいる。最近に至っては「ゆめ魔にっき」のように、必ずしもエロくはない漫画を長期に渡って描いているけれど、それについても全くアイデンティティの危機は感じていない。……私はいつの間にかすでに、「ストーリー重視+サキュバスが出たり出なかったり」という新たなアイデンティティを手に入れていたのだ。そして気付かないうちにそれを手に入れるや否や、過去の自分の気持ちを忘れてしまったのだ。
たとえば、やばい女とクズ男の狂気に巻き込まれる話「アブノーマル・アクティビティ」や、女科学者が己の不感症の改善を試みる話「頭の先からキスの雨」は、サキュバスの概念が必要なのか不要なのか、どちらとも言えない話だったように思う。やばい女がサキュバスでも違和感はないし、不感症の女をサキュバスにすればより一層話は深刻になり、トンデモ科学のかわりに魔法が登場していただろう。……けれどそれが何なのだ? と、今の私なら思ってしまえる。仕事を辞めた当初の私……アイデンティティを揺るがされている真っ最中だった私には、そうは思えなかったのだろうけど。
ちょうど昨日シェトさんに紹介したこともあり、過去のことを振り返るついでに、私は「2万マイルは遠すぎる」のことを思い出す。それは遠距離恋愛の話であり、お互いに純愛を謳っている男女が、裏ではがっつり浮気をしている……という話だったのだけれど、考えてみればその話ばかりは、サキュバスという概念の立ち入る隙がない物であったように思う。
なぜならサキュバスと遠距離恋愛をするということは、サキュバスの生物としての性質上、少なくとも彼女の方にはセフレの存在が確定するから。そしてその上サキュバスの倫理観を鑑みれば、彼氏の方が他の女と肉体関係を持っていたとしても、彼女がそのこと自体を人間ほど真剣に責めるとは思えない。……つまりはサキュバスが居ると、話全体の方向性・テーマ性がまったく変わってきてしまうのだ。
当時の私は、きっとそういうところが気に入らなかったのだと思う。今の私なら迷いなく公認浮気遠距離恋愛の話を描くだろうけど、当時の私にはそれがどうしても嫌だったらしい。描いていく自信を喪失するほどに嫌だったらしい。……じゃあその自信喪失の末に選択した道と、そこからたどり着いた行き先である現在において、私が何かしらに胸を張り自信をもって生きることが出来ているのかというと、趣味として描いている漫画の出来映え以外については、てんで怪しいところなのだけれど。
「…………」
ゆめ魔にっきの名を冠するフォルダを開き、投稿済みの話を読み返す。……私の足踏みするような思考をうだうだと描いていると無限に退屈なページがかさんでしまうから、テンポを重視して、入れ替わり編の私は「ルカトゥと喧嘩してしまったこと」だけを気に病む存在として描かれていた。確かにそう判断してそう描いた記憶がある。
さて、ではここからはどうするか? 今となってはいまいちピンと来ない「アイデンティティの喪失」の話を、担当編集者とのうだうだしたやりとりを用いて正確に描いてみるか?
……やめておいた方がいい気がする。やはりテンポが悪いし、話もこんがらがる。ウズラ・メルガルスはともかく、クジャクの方は単純に「いざルカトゥに家事を任せてみたらいろいろ嫌になってきちゃったダメ人間」として描いても問題ないだろう。後の展開を鑑みても表面上はそれでまったく問題ないという点が、モデルとなった私本人としては胸の痛むところだけれど……。
……と、そこまで考えて、私は別の問題に気がついた。
月光の体験しかり、ミミは無敵しかり、私とルカトゥは少しばかり漫画で会話をしすぎてしまったように思う。……ゆめ魔にっきのクジャクを今考えたとおりに簡略化して描いた場合、ルカトゥに「当時の先生はそう考えていたのだな」と解釈されては心外だ。しかもその心外はこのままだと余裕で実現し得てしまう。
作風とアイデンティティの件は、今となってはもはや自分でもよく分からないことだから比較的どうでもいいのだけれど、「ルカトゥに家事を任せたらニートになりたくなっちゃった」と明言するとなると話は違ってくる。さっき改めて考えてみた通り、その解釈は現実とは異なるフィクションであるわけだけれど、そのことがルカトゥにだけはきちんと伝わっていてくれないと困るのだ。
ダメ元で、心の中で「今日ネームにする話はフィクションで、現実とは違うってことが、ルカトゥに伝われ〜!」と念じてみる。超奇跡的にルカトゥが「先生がわたしに「これから描く話はフィクションだからね」と伝えたがっている時」にアンテナを張ってくれていれば伝わるはずだけれど……。つまりは、ほぼ百パーセントと言ってしまっていい確率で伝わらない。でもまぁ今日中に清書が終わるわけでもないし、帰ってきてから直接言えばそれでいいか……。と、気軽にそう結論付けた。
過去を振り返ることは終えて、ようやっと話の構成やコマ割り、各場面の構図、具体的な台詞を考える段階に入る。……一瞬登場する編集の人の顔は、「編」の字にでもしておくか。
そうして少しずつ描くべき物の形を見定めていくうちに、今日という日の時間は溶けていった。
ゆめ魔にっきにはいずれ改善される問題点がある。その問題点とは、ついさっきのように「「最近」と呼ぶにはいささか遠い過去を振り返る」という工程があることで、普通に漫画を描くよりもずっと多くの時間を構想に吸い取られることだ。だけどさすがに現実が「漫画映えする出来事」を起こすペースよりも、漫画が過去に起こったそれを消化して行くペースの方が早い。いずれこのエッセイ漫画は過去を振り返る物ではなく、面白いことがあった時にその都度それを描く物になっていくだろう。
描いている途中、清掃員の人が部屋の掃除・片付けに来るタイミングがあった。部屋の外に出る必要はないと言うので、私はタブレットを持ちつつ、掃除の邪魔にならない場所を求めて部屋の中を移動して回った。自分の散らかした部屋を他人がせっせと、それも完璧な形で整え直していく……。そんな状況下でリラックスして趣味の漫画を描くことができる自分に、日頃から培ってきたダメ人間ぶりを感じた。……このままこれが進行すると、ルカトゥには喜ばれるかもしれないけれど、その他全ての人類からは軽蔑されてしまうかもしれない。部屋を去る清掃員さんへ向けて「ありがとうございました」を言う時すら、私はルカトゥのように感じよく微笑んでみせることは出来ず、そう思った。
そのネガティブな思考を紛らわせるためもあって、私はそれからさらに作業に没頭した。しばらくして、小腹が空いてきたな……と感じる頃には、時刻は十五時を回っていた。ルカトゥから特に連絡はない。
夕食を楽しみにしておけばいいか……と気を強くもって、あるいは引きこもりの性根で、私は部屋から出ることなく、それからもさらに作業を進めた。
一日中作業をしているとさすがにネームの量もまとまってきて、そろそろ清書を描き始めるか〜という気にもなってくる。十五時に一度手を止めた時にはすでにその状態に突入しており、ルカトゥに例の真意を伝えなければ……ということが頭によぎったけれど、わざわざLINEを送るかどうか迷った末に「作品投稿以前のタイミングで話せればどこでもいいか」と結論付けて、一足先に清書に手をつけることを決めた。そしてそこからの作業はそれまでと同じように、異界の地の心細さも忘れてすこぶる順調に進んだ。
その後、今日考えたパートのうち数ページが完成品となった頃に、やがて時刻は十八時、夕食の時間になった。
……ルカトゥはまだ帰ってこない。スマホを見ても、特に彼女からの連絡は入っていなかった。
普段でも帰りが十九時頃になることはちらほらあったから、今日はそういう日なんだろうなぁと思って、一応「夕飯先に食べてていい?」とLINEを入れてみる。あと五分という距離まで帰ってきていても「どうぞどうぞ〜」と言いながらダッシュで駆けつけるのがルカトゥの性格というものだけれど、それはそれとしてこういう連絡は入れるのだ。これでもかというほど頼り甘えることと、そういった連絡を怠らないことはまた別の話である。
三十分待っても返信が来なかったので、ホテルがこちらの都合に合わせてくれるわけでもなし、仕方なく一人で夕食に出向く。先に風呂に入る人もいるだろうし見た目には分からないのかもしれないけれど、自意識としてパジャマで出ていくような感覚があったので、そこでホテルの部屋着から私服に着替えた。
一人ぼっちで食事処に赴いてみると、ふと視界の端に、異種族にも慣れてきた目になお目立って映る白い羽が入った。なぜそれが目立つのかといえば、ほかの鳥人系の人たちよりも位置が低いことが特徴的だからだろう。
セラちゃんだ……。今日の彼女は私服だった。清々しいほど何も書かれていない無地の白Tシャツを着ている。見る角度によってはそれが羽の保護色のようになっていた。
そしてその隣に、今日もボタン二つ開けてワイシャツを着ているシェトさんもいた。……その瞬間、コンマ一秒後に彼女が私の方を向く気がして、あわてて目を逸らした。元々二人には気づいてすらいなかったかのように素知らぬ振る舞いをする。なんというかそう、万が一にもルカトゥえもんは呼びたくなかったから。
相変わらず耳に馴染まないカタカナばかりで名前はよく分からないから見た目で料理を選び、見た目から予想した通りの味がするそれらを食べて、満腹になったら部屋に戻る。……まだルカトゥからはLINEに既読すらついていなかった。まぁ、それも彼女が忙しい時にはよくあることなのだけれど。
仕方がないので一人で風呂に入ることにする。脱衣場に居た手に水かきのついている人や、浴場内で相変わらずちらほらと目につく各種の尻尾、あるいは単なる観光客の人間、それから今度こそ明確に淫紋だと断言できる模様も見たけれど、二日目ともなるとそこに感動はなかった。あぁ本当に、毎日どこへ行ってもこういう光景があることが当たり前な世界なのだなぁ……と、しみじみ思いはしたけれど。
あの時はそれどころではなかったけど、セラちゃんの羽の付け根とか、もう少しちゃんと近くで見ておきたかったな……。そんなことを考えながら、体も頭も洗い終えて湯船に浸かる。ルカトゥが聞いたらまた変態っぽいなんて言うかな……と他愛もないことを考えながら、しばらくぼけーっとその湯の中で過ごした。
……部屋に戻ってもまだルカトゥから返信はなかった。既読もついていない。もちろん帰ってきてもいない。極めて静かな部屋の中に並ぶ二つのベッドが、いやに寂しさを誘う物として目に映った。
たった一日を一人で過ごしただけで寂しくなるなんて、ルカトゥとの同棲がそれだけ当たり前になったということなのだろうか……? けれどもまぁ、どんなに遅く見積もっても、彼女は明日の朝には帰ってくる。たったそれだけが待てない子どもでもあるまいし……と、私は少し自嘲した。
もし永遠に帰ってこなかったらどうしよう、とは考えなかった。……いや、少しは考えた。けれどそれは明日になってから考えればいいことだと、すぐに思い直したのだ。
ほんのりと眠気がまとわりついて来ていることを自覚して、今日の創作活動は切り上げておく。歯をみがいて、適当なチャンネルのテレビをつけてベッドに寝転がり、それから私は鍵のことを考えた。
この部屋の鍵は一つしかない。そしてそれは今私が持っている。私がそれを閉めて、そして多少の物音では目覚めないほどに熟睡してしまえば、ルカトゥは部屋に入れなくなってしまう。……が、じゃあ鍵を開けたまま眠るのかというと、それは普通に不用心だ。
スマホを確認する。やはりというべきか、返信も既読もない。……なんだか本格的に今日は帰ってこない気がしてきた。
部屋の鍵どうする? とメッセージを送ってみる。私が寝落ちする前に返信があればいいけれど……。なんだかあまり期待できない気がした。
テレビに映るCMをそろそろ何種類か覚えてくる。放送されているドラマでは、職場であるオフィスと自宅の往復をワープ魔法によって行うエルフ耳の男が暗い顔をして、ファンタジー色の欠片もない「転職」を考えていた。どうも作中に漂う雰囲気から察して、エルフのサラリーマンは魔界でも珍しいものらしい。たしかに私もこの二日でエルフを目にしたことはなかった。
ふと、ルカトゥが今日どんな仕事をしているのかが気になってくる。大体の場合で「ふーん」の一言に落ち着いてしまうし、発売された商品を見て答え合わせをすることが一番面白いから、普段仕事へ出向く彼女へ逐一その内容を確認するようなことはしない。……のだけれど、よく考えてみればここは魔界で、彼女は仕事のために魔界に来たのだ。異種族があたりまえにいるこの魔界に。
今回の男優は異種族だということだけれど、それははたしてどの程度の「異」なのだろう? ただ角が生えていて体格に迫力があるだけならともかく、たとえば飲料水のCMに出ていた半透明の体を持つような種族は、脱いだらどんな感じなのだろう……とか。漫画の中でしか起こらないような特殊なセックスの絵面を三次元で拝めるとしたら、それにはエロ漫画描きとして当然の関心を掻き立てられる。
……というところまで考えて、はて? と疑問にたどり着く。そういえば私は今まで異種姦らしい異種姦のAVを見かけたことがないけれど、よく考えてみたらそれはなぜなのだろう? 人間からすればサキュバスがそもそも異種族であるわけで、そのサキュバスがAV業界の常連になっているのだから、男優にだって異種族が少しくらい居てもいいはずではないか?
しかし実際には、そういった例を私は一度も見たことがない。血眼になって探したわけではないけれど、やっぱりどこか不自然だ。というか、そもそもサキュバスは結構な人数が人間界に移住していると聞くのに、他の異種族についてはそういう話を全く聞かないし、実際巷で見かけることもない。なぜなのだろう……?
そう不思議に思っていたところで、ついにスマホが震えた。ルカトゥから返信が来ている。
「すみません、今日は実家に泊まります。朝ご飯までにはそちらへ行きます」
……とのことだった。
私は部屋の鍵を閉める。これでもういつ寝てもいい。普段ならだらだらとスマホをいじったりするところだけれど、今日の私はそうしなかった。
了解の旨を返信し、テレビと部屋の電気を消して、久しぶりに一人きりの暗闇の中で目を閉じる。明日はきっとルカトゥと魔界観光をするから、寝不足になってはいけない。それにルカトゥが明日の朝食までに帰ってくるということは、私にはそれに備えた時間に起きて部屋の鍵を開けるという使命がある。なのでとりあえずは朝六時にアラームをセットしておいた。
ふと思い出して、私は心の中で「おやすみ」を言う。アンテナが張られていればルカトゥに届くように。
翌朝、きっちりアラーム通りに起きて顔を洗っていると、コンコンコンと部屋のドアを叩く音がした。鍵は開いている。
はーい、と返事をしてみれば、ドアを開けて現れたのはルカトゥだった。出ていった時とは違う服を着ていて、健康的な生活スタイルの人が朝の散歩から帰ってきた時みたいに、その顔つきには体力的な余裕がにじみ出ている。
「先生ぇ、ただいまです〜」
「ん、おかえり」
「遅くなっちゃってごめんなさい〜。寂しかったですか〜……?」
「そりゃ寂しかったよ」
「あぇ」
私の答えが予想外だったようで、ルカトゥはちょっと驚いていた。
……その時、なぜか私に出来心が湧いた。なぜそんな物が湧いたのかは分からない。自覚している以上に自分が寂しがり屋だったせいなのかもしれないし、ルカトゥのことを良くも悪くも以前以上に信頼していたからなのかもしれない。
私は、大昔に彼氏にもそうしていたことがあったように、どこか冷めた心を持ったまま意識的にルカトゥに抱きついた。靴を脱いだばかりの彼女に軽いハグをする。
「ルカトゥ、帰ってきてくれてよかった」
「えっ、わ、えっ……!?」
無敵のはずのルカトゥが、面白いくらいにあたふたしてくれる。きっとそうなるだろうと思って抱きついた私は満足した。ルカトゥは確かに無敵だけれど、不意を突かれた時の一瞬だけは私と同じくらいに弱い。そういう僅かな弱点が、なぜだか知らないけど私に出来心を持たせたのだ。
「えっ、こ、これは、抱きしめ返していいやつですか〜……!?」
「いいけど、なんかちょっと変態っぽいよ」
「そ、そんなこと言われても! 否めませんっ」
「否めないんだ」
おそるおそるといった力加減で、ルカトゥが私の体を抱きしめ返す。なんだか、人体にこうして触れるのはすごく久しぶりだな……と、部屋の壁を見ながらどこか上の空でそんなことを思った。ルカトゥの体に「実験」で触れたことは何度かあったけれど、抱きしめるようなことはそういえばしていなかったように思う。
なんで自分はこんなことをしたんだろう? とルカトゥの腕の中で考える。彼女の顔を見て正直ホッとしたのは本心だけれど、抱きつくほど熱烈にそうだったわけでもなく、彼女を驚かせるいたずらをしてやろうと思ったのは、そこそこ長い付き合いの中で今日が初めてだった。なぜそれは今日だったのだろう?
……もしかして私は、ルカトゥを試しているのかな。思考はそんな説に行き着く。かつては恐ろしくて出来なかったことだけれど、彼女の無敵性を信頼した今こうして「実験・興味・漫画のため」といった言い訳を利用せずに私が残酷な真似をすることで、彼女の無敵性をなおさらに信用して、それで、「絶対に彼女はいなくならないのだ」ということを改めて確かめているのでは……?
押し倒せば嫌そうな顔をされることが分かっている性の対象から、興味本位にも劣るような、なぜやったのか本人すらよく分かっていないイタズラでハグをされるのは、どんな気持ちだろう? それがとても残酷なものであること以外は、私には何も分からない。けれど、だからそう、私はもしかするとルカトゥに少し不服があったのかもしれない。もう少し返信してよ、という風な不服が。だからこれは、イタズラではなく意地悪だったのかもしれない。
……と、そんな風にいろいろ考えてみたけれど、どれもどうも後付けの理由臭かった。けれどとにかく現実として、私は出来心を抱き、それを実行に移したのだ。それだけは間違いなく確かなことだった。
私がルカトゥを抱きしめる手をほどくと、ルカトゥも私を抱きしめる手をほどく。どちらからともなくお互いの目を見た。すると動物の威嚇みたいに、先に逸らした方が負けな気がして、しばらく見つめ合うことになる。
やがて無言の間を退けて、ルカトゥから先に目線を逸らした。そのまま可笑しそうに笑う。
「ふふっ、びっくりしましたよぉ」
「すると思ってやってみた」
「わ〜。しばらく会えなかった間にお茶目になったんですねぇ」
「ハハハ」
お茶目かぁ、と昨日一日のことを振り返る。およそお茶目な人間らしい一日だったとは思えないものだ。
朝食後のチェックアウトに向けて着替えつつ、ルカトゥに今日の予定を聞いてみる。
「それで、今日はなにするの? 観光?」
「そうなんですよ〜、観光したいと思ってて〜」
「どこ行くの?」
「問題はそこなんですよねぇ」
「ふむ?」
「先生ぇ、動物園とか水族館とかって興味あります〜?」
「わぁ、懐かしい響き」
どちらも私にとっては、子どもの頃に行ったきりな施設だった。だからなのか、それらについて記憶に残っている思い出は楽しいものばかりだけれど、それはそれとしてルカトゥの言う「問題」が、それでなんとなく察せてきた気がした。
観光といえばその地域の名所を巡るものだ。動物園や水族館がその名所に当たることももちろんあるのだろうけど、ほかのあらゆる名所をさしおいてその二つの両方がおすすめ選択肢のトップに上がる例を私は聞いたことがない。もしかすると魔界の今私たちがいる地域が特別そういう所なのかもしれないけれど、それとは別にもう一つ、ルカトゥが真っ先に動物園等々を挙げてきた理由には推測できるものがある。
あらゆる観光地を差し置いて、動物園や水族館が第一候補として挙がる理由。これまでの情報から考えられる限りそれは……。
「もしかして魔界って、生き物以外が大体人間界と同じだから、ほかに見るものがない感じ……?」
「あ、さすが先生ぇ、察しがいい〜。そうなんですよねぇ。生き物以外の見どころっていうと、かな〜り遠い地域まで行かなくちゃいけなくて〜……」
「へぇ〜。まぁ動物園等々にもわりと興味はあるよ」
ポケモンみたいな生物が見れそうで面白そうだし、久しぶりに柵の向こうの動物を見て回るのもやぶさかじゃない。都市伝説みたいな深海生物が見れそうな水族館でも良いし、第三の選択肢として植物園にでも行けば、踊る植物とか人喰い花が見れたりするのだろうか? 何にしても漫画脳的には夢が広がる話だ。
しかし、ルカトゥの方はどこか釈然としていないようだった。気持ちは分かる。私もサキュバスから「日本観光がしたいんですけど」と言われたら、そこで動物園系を勧めるのは気が引ける。けれどもじゃあ他に何があるのかと言われたら、地元の名産もよく知らないような不勉強な人間にはロクに分からない。ジェネリック東京から来たサキュバスは、日本のスカイツリーを見て楽しんでくれるだろうか? ……ルカトゥも今、私を含むほとんどの人間が聞いたこともない名前の塔を思い浮かべながら、同じことを考えているのかもしれない。
……と、そこで私はもう一つの選択肢を思い出した。またしても観光感には欠けるものだけれど。
「あ、それともう一つ見てみたいものがあるんだけど」
「お、なんでしょう〜?」
「図書館。昔のこの街の資料があるって言ってたでしょ?」
「あ〜、言いました言いましたぁ。行きますか〜?」
「うん、連れて行ってくれる?」
「もちろん! お任せを〜!」
ふにゃっとした敬礼をして見せるルカトゥ。そのゆるさとあざとさに、まだここは魔界なのに、いつも通りの日常の大部分が返ってきた気がした。
朝食を食べ終えたら荷物をまとめてホテルを出る。図書館にはバスで向かうことになった。魔界のバス停も人間界と変わらず、簡素なベンチと、石の土台に刺さった時刻表で構成されていた。
来たバスに乗り込むと二人席にとなりあって座れたので、道中の暇にルカトゥへ聞いてみる。
「今回はどういう撮影だったの?」
「あ〜、触手プレイですぅ」
「触手プレイ……? ……あっ、本物の触手を持った人がいるってことか、魔界だから」
「お〜まさにそうです〜。先生ぇ理解がはやい〜」
「これみよがしに褒められた〜。……で、それについて聞きたいことがあるんだけど」
「はいはい?」
「そういう異種族の男優が出てくるAVって、なんで日本の方では全然売られてないの? こっちには出てるんでしょ?」
そう聞いた途端、ルカトゥがどこかバツの悪そうな顔をする。「ん〜」と考える間をおいてから、彼女は答えた。
「ざっくり言うと〜、人間界の方では販売が許可されてないんですよぉ」
「え、なんで」
「わたしを含むサキュバスは、見た目は人間の女性と変わらないでしょう〜? でも他の多くの種族はそうではないので〜、人間にはまだインパクトが強すぎるだろうっていう見解なんですよぉ。売れる見込みがないっていうか〜」
「え〜? そうかな……? 二次元でしか見たことがない物を三次元で見たい人は結構いそうだし、やってみないと分からない気がするけど。それに映像自体はあるんだから、人間界で販売するくらいそんなにコストもかからないはずじゃない……?」
「……まぁそうなんですけどぉ」
バスが大きな曲がり角を行き、遠心力的な力で私の体はルカトゥの方へと倒れゆく。……ルカトゥはその揺れに身を任せながら、なにやら浮かない顔をしていた。
「まぁそれも、今日中には詳しく話しますよぉ」
「またそれ……。いったい今日中に何があるのさ」
「見てのお楽しみです〜。先生に見せたい景色があるんですよぉ」
「へぇ〜、景色……。バスで行ける?」
「いけますよ〜。……あ、図書館はそろそろですね」
ルカトゥの言った通りの場所で降りる。するとそこから歩いて少し行ったところのビルの入口に、確かに図書館の名前の入った階数ごとの案内板が立っていた。お目当ては三階だそうだ。
エレベーターに乗って三階に着くと、初っ端から何の変哲もない図書館の入口が広がっていた。そこの自動ドアを抜けてすぐのところにある検索機をいじり、ルカトゥが目当ての本の在処を見つけてくれる。ホテルの廊下と同じくらい足音を殺す素材のカーペットの上を歩いて、私たちはしばらく検索機で見た本を探した。
やがて目当ての本を……おそらく今私たちのいる街の歴史を記した物であろう、幅が広く分厚くて、とっつきづらそうな装丁の本を見つけだす。ルカトゥいわくそこに十五年前の街並みが写真付きで載っているはず、らしい。
手近な椅子とテーブルを利用して、その本を開く。目次を見て、ルカトゥがなんとなくの文言を頼りにペラペラとページをめくっていく。
「あぁ、これですぅ。こんな感じでしたぁ」
そう言って、彼女は何枚かの風景写真の集合を指さした。高い視点から街を見下ろすように撮影されているその写真たちは、ルカトゥいわく、私たちが今いるこの街を写しているのだという。
……魔界へ入ってからここへ来るまでの道のりは全て、人間界で数駅離れた街に出かけることと大差ない物だった。現代的かつ常識的な造りの建物と、整備された道路、それから少しの自然。そんな「普通の街」が、私たちの今いる場所だったはずだ。……けれどその写真に写っている街並みは、私がここ数日で見てきた街の様子とは似ても似つかない有様をしている。
ルカトゥの言っていた通りだった。写真の中のあらゆる道路は全て、まるで窓を流れ落ちる水滴の筋のように、およそ無秩序にくねくねと曲線を描いている。そしてその曲線の合間合間に建てられている数々の家屋や小さな施設等々はどれも若干細長い造りで、一階建ての物は見当たらない一方、十階を超えるような高層建築も見当たらなかった。
また、その中でも特に目を引いたのが、大型商業施設と思わしき建物や、駅や病院といった公共の施設の在り方だった。それらの建造物は家屋や個人店等とは形状的にも区別されているようで、地上付近から空中へ上っていくにつれて、細長い造りから平たく安定感のある形へとグラデーション的に変化している。そして最も特徴的なことにそれらの施設はそれぞれが無数のパイプ管のような連絡通路で連結されていて、全ての施設同士が巡り巡っておそらくは一つ余さず繋がっている。それはさながら変則的な一つの城、あるいはアリの巣を彷彿とさせる物だった。
そのパイプ網の下で、どことも繋がることなく孤立して建っている非プライベートな建物もある。学校や工場系など、部外者の立ち寄らない物がそうだった。
また、連結された建物の中でも「駅」は特別に高層建築で、各所の駅だけは他の建物と違い、根元からがっしりとして高層ビルのような高さを誇っていた。地上を走る電車は存在しないようで、無秩序に曲がりくねった道路とその合間に生える建築物、それから各施設を連結するパイプ網のさらに頭上を、可能な限りの秩序をもって構成されたように見える線路が、それぞれ高低差を用いながら交差しつつ東西南北へ縦横無尽に伸びている。
パイプ網やその線路が所狭しと張り巡らされているため、その写真を見る限り、かつてのこの街はほとんど空のない街だったのではないかと想像できる。これで本当に支障はなかったのだろうか……?
正直、私たちは何かを間違えてフィクションの本を読んでいるのではないか……と思ってしまう。歪な姿形に反して、スチームパンクもサイバーパンクも中世風も四次元空間もそこにはなかったけれど、しかしそれでも、その写真の中には見るも明らかに「こことは違う世界」が広がっていたのだ。
「これを十五年で、今みたいに……?」
「そうですよぉ」
「……無理じゃない? ゲームだったら、一回更地にしてから作り直すレベルで別物じゃん」
「そこはまぁ、魔法がありましたからぁ」
「魔法ってそんなになんでも出来るものなの……?」
「う〜ん、わたしにとってはそんなことないですけど〜。一部の天才にとっては話が違ってきますし、それに人数がいますからねぇ。……人間界と魔界を繋ぐゲートが開けたんですよぉ? 街くらいリニューアル出来ますってぇ」
「……そういうものなの?」
「そういうものですぅ」
ルカトゥがうなずくから、私はそれで納得するしかなかった。写真の付近のページに書いてあった文章本文にも目を通してみるけれど、なにやら小難しい言い回しで小難しい話をしており、私はすぐにその本をそっと閉じた。館内撮影禁止の注意書きがそこかしこに見受けられるので、先程の写真は惜しいけれどここで見納めになる。
お互い普段は人間界で暮らす身なので、電車で数時間かかる魔界の図書館からは何を借りることもなく、用が済んだならそのままそこを去る。……帰りのエレベーターの中で私はさっそく聞いた。
「人間界の住人としてはさ、なんでこっちに寄せちゃったのって思うよね」
「え?」
「十五年前までは、魔界の街全体が観光地みたいな物だったわけでしょ。それが今はジェネリック東京だから」
「あ〜、それはまぁ、人間からするとそうなんでしょうね」
図書館の内蔵されたビルから出て、次はどこへ行くのかという話になる。するとルカトゥいわく、彼女の行きたい場所とやらには明るい時間帯のうちに行っておきたいらしいので、万が一にも遅くならないようにこれから向かおうという段取りになった。私たちはバス停で再びバスを待つ。
なんとなく向かいに立っているマンションの廊下を見ていると、バナナみたいに黄色いカラスが一羽、手すり壁に舞い降りていた。
「先生ぇ、先に一つ、言っておきたいんですけどねぇ」
ぼーっと向こうの方を見ながら、ルカトゥが言う。
「魔界の人たちは、観光客のために街を作ったわけではないんです」
「えっ」
唐突な刺々しさに、思わず面食らった。
「それは、そうだと思うけども。え、ごめん、軽率だった……」
「あっ、いやいや違うんですっ。ごめんなさい棘のある言い方になっちゃいました、ちがうんですよぉ」
ルカトゥがあわてふためいて両手を振り始めたことで、少しばかり安心させられる。思わぬ地雷を踏んでしまったのかと正直肝を冷やした……。けれど、そういうわけではなかったらしいと分かれば、こちらも気軽に「大丈夫、大丈夫」と手を振り返せる。
そんなやり取りを経て、困ったような誤魔化すような笑みを浮かべたルカトゥが、しかし真剣な声でこう付け足した。
「いや、本当に、言い方を間違えましたぁ……。…………でもですね先生ぇ、きっと人間界へのゲートを開いたサキュバスたちは、そんな風には思ってないんですよ〜……」
「そんな風……? 本当は観光地化したかったってこと?」
「あ、そうじゃなくて〜。……さっきのわたしの刺々しい言い回しを地で行くような人たちが、おそらくはゲートを開いた……ってことですよぉ」
「えっ、じゃあ、怖い人たちなんだ……? そのサキュバスたちは」
「だと思います〜。と言っても、会ったことも話したこともないんですけどねぇ」
「へぇ〜」
そんな話をしているうちにバスが来た。また二人席を確保してから、私はルカトゥにダメ元で聞いてみる。ところでこれから行く場所はどんなところなの? と。
すると意外にもあっさりと答えが返された。
「海ですよ〜」
その言葉通り、数十分後に私たちがバスを降りた時、そこに吹き付けた風にはほのかに潮の香りが漂っていた。
バス停から少し歩くと、遠くから波の音が聞こえてくる。当然ながら土地勘皆無なので、泊まっていたホテルからどの方向へどの程度移動したのかすらすでに分からなくなっているけれど、少なくともこの東京もどきのような街並みを有する地域は、人間界〜魔界の距離よりは近しいところで海に恵まれている土地だったらしい。
ルカトゥについて行くうちに、土手のようなコンクリートの壁が見えてくる。そこにある階段を上るといよいよ眼前には、白い砂浜を隔てて大海原の景色が広がった。
「えっ……」
コンクリートの土手から見下ろしたのは、西へ東へどこまででも続いているような砂浜に、都市部とは比べ物にならず広く青い空。そして地平線の彼方まで続く……メロンソーダみたいに緑色の海だった。
変色だとか、美しいがゆえエメラルドグリーンに見えるだとか、そういうレベルではないように感じる。澄んでいるけれどどこか人口物じみた色合いの緑の水が海として、そこから太陽の光をきらきらと一面に反射していた。
「緑だ……」
「このあたりの海は緑色なんです〜」
「なるほど……?」
人間に馴染みのありすぎる街並みより、異種族が当たり前に居る生活空間より、その緑色の海が地平線の彼方まで広がる光景の方が、個人的には一番インパクトの大きい魔界の景色だった。どれだけ見つめてみても、何かしらの錯覚が起こっていて何かの間違いでその色に見えているのではないか……という気がしてしまう。それが真っ赤な海だったならいっそ受け入れられたのかもしれないけど、作り物っぽい緑色というのは絶妙に、現実を受け入れ難い色をしている。
下りの階段で砂浜に降りる。踏みしめた砂は、子どもの頃に行った海と同じ感触だった。寄せては返す波打ち際の、水のふちをかたどるような泡の立ち方まで全部、水の色以外の全てが、私の知っている海と同じだった。
ほかにここへ来ている人は誰もいない。だだっ広い砂浜で潮風に髪を揺らされながら、私たち二人はその海の波打つ様を眺める。……なるほど観光には申し分ない。
ルカトゥがおもむろに語る。
「この海が、緑色の理由なんですけど」
「うん」
「海の汚染だとか、そこに住む生物の減少だとか、そういう諸々の環境問題を魔法で解決しようとしたことがあったんです。……結果、全ての問題は解決しました。ただその代わりに、海の色は変わってしまったんです」
「え、じゃあ元々はどんな色だったの?」
「実際に見たことはありませんけど……。人間界と同じように、ある地域では澄んだ青だとか、別のある地域では汚れた黒だったんだと、学校では学びました。……もう何百年も昔の話らしいですよ」
「へぇ〜……。緑色になったかわりに、それ以外が完璧になったんだ……? しかも相当な広範囲で」
「そういうことですねぇ」
会話が途切れ、街の喧騒から離れたこの空間に、潮騒の音だけがひびく。
どこか懐かしさを感じた。大人になってロクに外出しなくなった人間にとってはまさしく「思い出の音」と呼ぶにふさわしいそれは、海の色を変えるほどの世界の激変などからは、およそ無限の距離がある物のように思える。
今日初めて見て、その光景に驚いたにも関わらず、私にはなんだか段々と目の前の海が、千年も二千年も前からずっと緑色であったように思えてきた。もちろんそれは気のせいなのだけど、それでもどうしても私には、その緑色の海が昔は人間界の海と同じ色をしていただとか、そんな話をにわかには信じられなかったのだ。
そしてそれを言い出せば、やはり街の景色にだって同じことが言える。歴史資料だとか、教科書だとか、そんな物は実は全てが嘘っぱちで、この街は昔からずっと今のような感じだったのではないか……と、どうしてもそう思ってしまう。それと同時に頭のどこかにある理性が「そんな手の込みすぎた嘘があるわけない」とも言っているのだけれど。
ルカトゥが何歳なのかは知らないけれど、今の口ぶりからするに、やはり彼女が数百もの歳を重ねているわけではないことは明らかだった。彼女にとっても数百年前の出来事は、ただの歴史上の話なのだ。……そう、きっとそのはずなのに、どうしてかルカトゥは私の隣で、まるで過去に失ってきた物を数えるみたいな顔をして、輝く海原を寂しそうに見つめていた。
「言語の話ですけど」
「え?」
「先生、言ってたじゃないですか。なんで全部日本語なのかって」
「あぁ、うん。……まぁ固有名詞はわけのわからないカタカナの羅列が多かったけど」
「あはは、まぁ、そうでしょうね。……でもですね先生、その話については、やっぱり最初に言った通りなんです」
「最初って、……人間の方が魔界語を話してるってやつ?」
「そうです」
「それは無理がない? 私が翻訳コンニャクを食べたっていうならまだ分かるけど、よく考えてみたらさ、ここへ観光に来る人間の全てが、この街にある言葉全てを、きっと全部日本語として見聞きしてるんでしょ? 魔界語を学ぼうみたいな話を、私聞いたことないもん」
「それはそうですけど……。でも先生、考えてもみてください。もし先生の言う通りなら、この街は、日本人以外の人間にとっては、すごく暮らしにくい街になっているってことですよね」
「ん……? あ、そうか……。じゃあ日本人以外の人は、言語の壁に苦労しながら魔界旅行を……?」
「そういう風に見えましたか?」
「うーん……。……分かんないや、他の観光客のことまでは」
「あはは、まぁそうですよね。でも、もし東京を真似して街を作るなら、各案内に英語くらい書いておくべきだと思いませんか? 日本語だけじゃなく」
「あー、確かに。そういうのを見た記憶は、そういえばあんまりないかも。……私が見逃してただけ?」
「いいえ、先生は何も見逃してません。……ただ、先生の目から日本語に見えている文字が、英語圏の人には英語に見えてるんです。聞こえてくる言葉も同じです。信じられないかもしれないけど、本当なんですよ……?」
「……じゃあまぁそれを信じるとして、でもどうやって? 私、何もされてないよ。誰かから魔法をかけられるようなタイミングあった……?」
「それは……」
眼前に広がる魔界の海を見つめながら、ルカトゥが重々しく言う。
「どうやってかというと、やっぱり魔法だと思います。でも、詳しい方法はわたしにも分かりません。……だからそういう意味も込めて、比喩的に言うとですね……? …………人間はすでに、緑色になっているんです」
「…………ねぇそれは、もしかしてとんでもない話だったりする……?」
ルカトゥが、やはり重々しく頷いた。
……さすがに本当かと疑ってしまう。けれど今回もまた、彼女に嘘をつく理由など見当たらない。私には彼女の言葉を信じるほかなかった。
魔界の海は、あらゆる問題を解決する代償として緑色になったらしい。私たちから見た魔界がそうであるように、サキュバスから見た人間界にある「問題」も「言語の壁」だったのだと言われれば、それは分かる。海の問題を魔法で解決したサキュバスが、人間界の問題も魔法で解決したというなら、それも分かる。だけど……。
もし何か強大な力を持つサキュバスの魔法によって、地球上のすべての人類に魔界語の知識と発音と聞き取り能力が完璧に植え付けられているのだとしたら、それで難なく魔界語を話せるようになっていたのだとすれば、それはまだ納得のいくことだ。単純にありがたいとさえ思える。……けれどルカトゥの話している内容が本当なら、事はもっと別次元の領域に足を踏み込んでいる。
当然ながら私は普段の生活で、日本語を書き、日本語を読み、日本語を聞き、日本語を話しているつもりでいる。唐突に魔界語を理解できたから、サキュバスと話す時や魔界に行く時はそっちの言語を使っているだとか、そういう自覚は一切ないのだ。けれどルカトゥいわく、私を含む人類は皆、すでに魔界語を使っているのだという。だからサキュバスとも円滑なコミュニケーションが出来て、魔界でも言語の壁に苦労することがないのだという。
それはつまり、私が日本語だと思って使っている言語が、本当はそうではないということなのか……? 私が、私たち人類全員が「自分は人間界の言葉を使っている」と「思い込まされている」だけで、本当は全員が魔界語を使っているとでもいうのだろうか? 宇宙人が太陽系の外から超高性能な望遠鏡で日本の景色を眺めたなら、そこから日本語はすでに跡形もなく消え失せていて、魔界語がそこに取って替わっていると……?
ルカトゥの言うことが本当なのであれば、それが現実だということになる。直感的に言って、それはまるでストレートな陰謀論だ。……けれど、じゃあ、魔界やそこで生まれ育った者たちとの言語の問題について、他にどのような説明をすればまともな答えが出てくるのか、それが私には分からない。
目の前には美しくも緑色の海が広がっている。きっとその中には豊かな生態系が広がっていて、何の問題もなく「あるべき世界」が保たれているのだろう。……魚たちはきっと、海の色が変わったことに気づいてすらいないのではないか。そしてそれは、はたして魚にとって重要なことなのだろうか……?
魔界と人間界を繋ぐゲートを開いたサキュバスたちは刺々しい性格をしているのだと、ルカトゥはそんなようなことを言っていた。……きっと海の色を変えた環境保全の英雄も同じだったのではないかと思う。その者にとって、海の「色」なんてものは、きっとどうでもよかったのだ。
…………長い長い間をおいて、風にそそのかされたみたいに、ルカトゥが私の方を振り向いた。
「できれば、今の話は忘れてください」
私は少し笑ってしまう。ふがいないことに、ルカトゥが真剣な顔をしている時に限って、私という人間はそうしてしまうのだった。
「じゃあ、なんで話してくれたのさ」
「頑なに答えない方が、安心してくれましたか……?」
「……いや? 答えてくれてありがとう」
「えへへ」
はにかむルカトゥを見て、ちょっと安心している自分がいる。……世界は別にこれでいいんだと、そう思えたような気がした。
「今気づきましたけど、ここ、座れる場所がないんですね」
「え? あぁ」
辺りを見回しても、たしかにベンチの類は見つからない。服が汚れることを気にしないのならコンクリートの土手に座ってみてもいいのかもしれないけど、モヤシの私にしては珍しく、今日ここでする立ち話に関しては疲れを感じていなかった。
「疲れたの?」
無敵を自称するルカトゥにそう聞くと、意図を察してくれたのか、彼女はどこか優しく、フッと笑って首を横に振った。
私たちは砂浜を歩くことにした。海と平行に、終わりの見えない道を意味もなく行く。
「本当は、魔界の海はこんななんですよ〜すごいでしょ〜って、先生に見せるつもりだったんです」
「ほうほう」
「でも先生、言葉のことに気づいちゃったから。あぁこれは、話すしかないな〜って」
「あー、なるほど。うっかり勘のいいガキになっちゃったんだ……」
「ふふ、まぁ、さすがですけどねぇ」
私が余計なことに気づかなかったパターンの旅行を一から想像して、その過程で、セラちゃんとシェトさんのことを思い出す。私の勘が良かろうと悪かろうと、どちらにせよ彼女たちには会っていただろうし、同じやり取りをしていたように思う。
ただ、今ならあの二人の関係性に興味を示さなかったルカトゥの気持ちも、少しは分かるような気がした。いや、それともルカトゥは、何か答えを知っているのだろうか?
だとしても、それを聞こうとはもう思わない。私は今日、知らない方が穏やかな気持ちでいられる上に、知ったところでどうしようもない話もあるのだということを、この青空教室で学ばせてもらったのだ。
「先生は」
自分が砂の上に足跡をつけていることを確認するみたいに、ルカトゥは下を向いたまま話す。
「先生は、サキュバスのことを怖いと思いますか……?」
「えっ、全然思わないけど、なんで?」
「だって、さっきの話を聞いたら、ねぇ……」
「あぁ……それはまぁ……。……でも、害があるわけじゃないし」
と言ってから、今ここで思いついた台詞を、そのまま口に出してみる。
「それに私にとってのサキュバスって、やっぱりルカトゥだからさ。怖いわけないよ」
「えっ……! なんか今すごいキュンってなりました!」
「ごめん今恥ずかしくなってきてるところ」
ルカトゥの無敵性を信用するようになって、発言や行動にだんだんと節操がなくなってきた弊害として、自分のメンタルを測り違えることが増えてきている気がする。いま急にそう思った。
にこにこ顔のルカトゥが、これは錯覚かもしれないけれど、そんなこちらの心まで肯定してくれているような気がした。
「先生ぇ。サキュバスって本当は、思ってるよりすごい生き物なんですよ。すごくて怖い生き物なんです。わたしに関してはどっちも当てはまりませんけど、でも、すごい人は本当に何か……レベルが違うんです」
「うん、なんとなく分かる。規模がデカいよね」
「そうなんですよぉ。……それでですね、全然弱小の方とはいえ、わたしもそのサキュバスの端くれなんです。だから先生はもっともっと遠慮しなくても大丈夫なんですよ……? 強い言い方になっちゃいますけど、サキュバスは、人間程度にどうこうできる存在ではないので」
「あはは、まぁ、それは本当にそうだと思うけども。でも私、まだ遠慮してるかなぁ」
「う〜ん、最近はそんなに、明らかに我慢されてるな〜とまでは感じませんけど〜。……でもこれは保険です」
「保険?」
「保険です。この先なにかあった時のために、先に言っておいたんです」
「ふーん……?」
まるで何か、この先にこれまで以上にややこしい問題が起こるかのような、そんな言い回しじゃないか……と思うけれど、口に出すとそれが真実味を増す気がして、私は無駄な勘の良さは捨てることにした。少なくともこの旅行中においては、それは捨てておいた方が良さそうな物の気がしたのだ。
「あ、そうだ」
そこで唐突に私は思い出す。海へ来たならば……特にルカトゥと海へ来たならば、やるべきことがあったのだと。
ちょっと来て、と私は彼女の手を引く。そして波打ち際の、砂の濡れた所と乾いた所の境界まで近づいていく。
「昔、幼稚園児くらいの頃にね、お父さんが海に連れていってくれたことがあったんだ。ここみたいに砂浜がある海に」
「あ、もしかして「いけいけ〜にげろにげろ〜」のやつですかぁ」
「……昔の私、マジで自分のこと全部ツイートにしてたんだね」
園児にまで遡るほど昔のことならルカトゥも知らないだろうと思ったのに、自分の人生は自分の想像以上に、ツイートを通して第三者からでも確認できる形で地続きになっていたらしい。あらゆる思い出の全てがルカトゥには把握されているような気がしてきた。
行け行け逃げろ逃げろとは、大昔のロリな私が父に手を引かれて、大喜びで繰り返していた遊びである。ルールは簡単、波が引いたなら可能な限り海に向かって歩を進め、波が打ち寄せてくるのに合わせて、靴を濡らされないように後ろに逃げる。ただし逃げる時は必ず後ろ歩きでなければならない。……という、ただそれだけの遊びだ。
普通に考えれば、いい歳した大人同士が海へ来てすることではないように思う。まだ砂の城を作る方がエンタメ性があるだろう。……けれど私は生まれてこの方砂で城を作ったことがなく、ルカトゥは私の家族に「家族しか知らない卯月雛子を知っている」という点で嫉妬しているらしい。
私はルカトゥの手をとる。幼い頃の私に父がそうしたように。
「大人だし、本当のギリギリを狙ってみよう」
「いいですねぇ」
波の引きに合わせて、私たちは競歩のように早足で海へ向かって歩き出した。「波の引ききった瞬間」というのは一瞬だ、急がなければ「本当のギリギリ」は寄せ始める波にすぐ覆われてしまう。波の引く速度と全く同じ速さで私たちは前進した。そして水の際の際に靴のつま先を伸ばす。
次の瞬間、想像よりもはやい速度で波が寄せてきた。大慌てで後退する。
「うわっ、あっ、濡れた!」
「あ〜先生ぇ、攻めすぎですよ〜」
「いや、染み込んでないからセーフセーフ」
「え〜? ……あ、そういえば今、「いけいけ〜」って言い忘れてましたねぇ」
「え、そこもいる?」
「いりますよぉ。今のはレギュレーション違反ですぅ」
「え〜」
「さ、もう一回もう一回」
今度はルカトゥに手を引かれる形で、私たちは再び、引いていく波を追いかけるように前進する。行け行け行け〜!と楽しそうに、ルカトゥがレギュレーションを遵守した。
その時彼女に合わせられなかったことで気づいたのだけれど、大人になってからこの遊びをしつつその台詞を口走るのは、なんだか妙に気恥ずかしいことだった。それはもう躊躇ってしまうほどに。
今度はギリギリの地点まで一瞬足を踏み入れた瞬間に、波のタイミングを先読みした本気の全速力で後退を決行する。その勢いで私も言った。
「逃げろ逃げろ逃げろ〜!」
その台詞がふさわしくなるほどの速度で、泡立つ波が足元へ迫り来る。結局、全力で逃げても後ろ歩きではそれを躱しきることは出来なかった。足元に水が薄く敷かれてしまう。作り物じみた緑色の海の水も、波打ち際ほど平たくなってしまえばただの透明に見えた。
まだ靴に水が染み込んでくることはなかったけれど、自分たちのやっていることのあまりのくだらなさと波への完全敗北に、私は急に可笑しくなってきてしまう。
「あははっ、ダメだっ、無理だこのゲーム!」
「波って結構速いんですね〜……!」
「どうりで子どもの頃、いつも靴の中がぐしょぐしょになってたわけだよ」
「ふふっ、リベンジ失敗しちゃいましたね〜」
そう言って無邪気に笑うルカトゥの姿が、景色や波の音と合わせて妙に映えて見えた。
砂浜には依然として他に人がいない。一緒に家にいる時よりもなぜだかさらに強く、私たちが今二人きりであることを感じられた。
彼女がずっと握っていた私の手をはなす。それでこの遊びは終了した。
「さぁ、次はどこに行きましょう〜……?」
「んー、動物園……? 海つながりで水族館?」
「どっちでも大丈夫ですよ〜? 電車で行けますから〜」
「ルカトゥはどこがいいとかないの?」
「わたしは先生とならどこでも〜♡」
「急にイチャイチャするじゃん」
そんな風になんやかんや話し合った末に、結局は動物園に行ってみることになった。電車で一時間かからないくらいの距離らしい。
どうせならこの話も誰もいない海の方でしておけばよかった……という具合の内容の話を、道中の車内が暇だったのでルカトゥに振ってみる。乗客はつり革がまばらに使われる程度には多く居た。
電車の中ではばかられる行為は三種類ほどあるように思う。食事、通話、そして淫らなこと全般。……AVの話は三つ目に該当するだろうか?
「ところでさ、昨日ルカトゥが撮影したジャンルの話なんだけど」
「はいはい」
「日本でそういうジャンルの物が発売されないのは、海が緑色な理由に似ていたりする?」
「あ〜……。そうですね、似てます」
「具体的にはどういう感じ……?」
「う〜ん、…………利権? ですかねぇ」
「あー……。なんか、なんとなく分かったかも」
人間界へのゲートを開いたのはサキュバスで、人間界に多く移り住み、社会にすっかり馴染んでしまっているのもサキュバスである。他のどの種族でもなく、今は「サキュバスだけ」がそういった立場を確立している。……そのことの裏には何かそういう、ゴチャゴチャドロドロとした偉い人たちの争いがあるというわけか。
言語の話といい、どうやらサキュバスという種族は我々人間が思っている以上にずっと色濃く侵略者としての側面を持っているらしい。人間界は彼女らにとって観光地や友人の故郷などではなく、自分たちの見つけた自分たちの資源……くらいの認識をしている物なのかもしれない。そのわりにはすごく平和だけれども、その平和だって本当に人類が自分たちの手で握りしめている物なのかは怪しいところだ。
ルカトゥは私にそんな話をしてしまってもいいのだろうか? と素朴に思う。彼女が私を信用してくれているならそれは嬉しいけれど、もっと単純に考えて、人間相手には一生黙っておいた方がいい真実というものがあるはずで、ルカトゥが話してくれた内容はまさにそれであるように思う。
なにか、話してしまっても問題ないと断言できるシステムでもあるのだろうか? 人間界に帰る際に記憶がいじられるとか……。いや、それだとむしろ逆に、何を話す意味もなくなるのか……? ……未知の強大な力についてそうやって考えてみても、いざという時に私はそれをどうすることも出来ないのだけれど。
ぼーっと向かいの車窓から外の景色を眺める。敷き詰められたかのように建つ住宅街の家々の形にすら馴染みがあり、時々橋で渡る河川は真っ直ぐと流れていた。あの資料で見た写真では、地上を真っ直ぐに通っている物など何一つとしてなかったような気がするけれど、記憶違いだろうか。
海と違い、川の色はちゃんと水としての青を保っていた。そういった景色を見て私はまた新たな疑問を思いつく。
「あ、それともう一つ聞きたいんだけど」
「なんですか〜?」
「街をあり得ないレベルで作り替えたり、海洋関係の問題を諸々解決したり……。そういうとんでもないことが出来る力を持ってる魔界の人たちにとって、ジェネリック東京の生活は不便じゃないの? その気になればもっと、ドラえもんの未来みたいなインフラくらい作れそうだけど」
「あぁ〜、それは大丈夫ですよぉ。たしかに不便と言えば不便なのかもですけど、望んでそうしていることですから〜。それに、皆がそれぞれ色々な魔法を身につけて助け合えば、大体の問題は解決できますからねぇ」
「望んでそうしてるって……? 不便を望んでるの?」
「ん〜、というよりは、技術の停滞を? ですかねぇ。……むかし、技術を発展させすぎて滅んだ国があったので〜、その二の舞にはならないようにしてるんですよぉ」
「えぇ……。滅んだ……?」
そんな核戦争エンドみたいな話が現実にあったんだ……という気持ちになるばかりで、少なくとも今の人間の視点からでは、どこか深刻になりきれない話だった。
私の視線の先を追うように、ルカトゥも向かいの窓の外を眺めている。その表情からは、少なくともネガティブな感情は読み取れない。
「国と言っても、広さは地球一つ分くらいあったんですよ〜?」
「えっ」
「魔界って広いんです〜。なので、どこもかしこもジェネリック東京ってわけではなかったりしますし〜、気合いの入った観光は楽じゃなかったり〜……」
「ふむふむ」
「それから、ちょくちょく魔法の話をしてますけど、サキュバスの魔法っていうのはちょっと特殊で、ほかの種族の人が学ぶ魔法とは性質が違うんですよ〜」
「おぉ、なんかあの、すごい……情報量がすごいね」
「あれっ、詰め込みすぎちゃったかもですぅ」
いつか今日の日のことを漫画にする日が来たら、その時は「アオイの魔界まめちしき」みたいな別コーナーを設けるべきなのかもしれない。そんなことを一瞬考えたけれど、もっとよく考えてみると「すでに人類本来の言語は絶滅しています」みたいなとんでもない話を私の名義で世に発信するだなんてことは、恐ろしくてとても出来たことではないのだった。
何駅移動したのかも数え忘れてくるような頃になって、ルカトゥが「次で降りますよ〜」と到着を予告した。降りた駅から動物園までは歩いてすぐの距離で、横断歩道を一つしか渡らないくらい近かった。
入場券を買って門をくぐる。左、右、中央の三方向へルートが伸びていたので、時計回りに片っ端から回ろうということで左側の道沿いに私たちは多種多様な動物たちを見て行った。
総評として、そこで見られた動物たちは人間界出身人間界育ちの視点からすると「進化」あるいは「突然変異」、またはそうでなければ「改造」……の先にある生物のように見えた。
腕だけが通常の倍くらい太いゴリラとか、ダチョウみたいなサイズのペンギンとか、肉食のシマウマとか、カエルやカメレオンみたいに舌が伸びるオウムとか、空中前転をするウサギとか、腕が四本あるカンガルーとか、骨ごと肉を食うライオンとか、統率が取れすぎていて軍人みたいなサルとか……。ゾウに至っては、ちょっとした魔法(光を描く効果)まで使っていた。
そういった動物たちを見て回っていた途中、ある時偶然時計が目に入ったことで、適当に遅めの昼食をとる段取りになった。園内の一角にはプールサイドの休憩所のように屋外フードコートが展開されていて、ルカトゥが適当に良さげな物を買いに行っている間、私は席取りの役目を負う。……それで何か、中高生の頃に家族で出かけた時の感覚を思い出した。ある程度成長した子どもの役目はいつも席取りなのだ。
ある程度成長した「子ども」かぁ……なんて考えながらルカトゥを待つ。ついでに、はたして自分の人生がそんなどうでもいいことを考えていられる状況なのかは定かではないけれど、ルカトゥが成人男性から「ママ」と呼ばれるタイプのAVってそういえばまだ見たことないな……と気づいたりもした。まさかそんなところにサキュバスの利権が絡んでいるわけもないだろうし、探せば見つかる気がする。
「お待たせしました〜」
帰還したルカトゥの戦利品はハンバーガーだった。私にはチェーン店のそれしか食べた記憶がないので、こういう場では少しだけ物珍しく見える。
二人でそれをもぐもぐ食べながら、まだ見てない場所にモルモットとのふれあいコーナーがあるらしいという話をした。魔界のモルモットはどんなものなのかとルカトゥに聞くと、いろいろあるけれど一番メジャーなのは発電するモルモットらしい。滑車でってこと……? と思ったら、電気ナマズ的な意味なんだとか。……そんな危険なアニマルとふれあってもいいのか? そう聞くと、行ってのお楽しみだと言われた。観光モードのルカトゥはそういう秘密主義が基本スタイルなのかもしれない。
そうしてそのうちハンバーガーを食べ終わる。するといつの間にやら、バンズの間からはみ出たソースが両手の指先についていた。子どもの頃はこういったことが起こるたびに「このハンバーガーという料理のコンセプトには欠陥があるのでは……?」なんて思ったりしていたけれど、歳を重ねてそういうことを考えるのに多少飽きてきたのか、いつの頃からか、そういう時は指先を舐めたあと紙ナプキンで拭って、それでハイおしまいと思えるようになっていた。
「先生ぇ」
「うん?」
「お口にソースついてますよぉ」
「あれっ」
そういう失敗には飽きないのか……と自嘲しながら口元を拭おうとすると、その時にはすでにルカトゥの手が伸びてきていた。紙ナプキンの感触越しに彼女の指がサッと私の口元を拭っていく。
先生の全部をやってあげたい……そんな彼女の言葉をまた思い出した。もうあれから百回くらい思い出している気がする。
「本格的にお母さんになってきたね」
「わ、そうですかねぇ」
「わかんない、自分が成長してなさすぎて」
「もう〜ソースくらいで大袈裟な〜」
言いながらテーブルの上を片付けて、私たちは再び動物鑑賞に繰り出す。もちろん真っ先に発電モルモットとやらのふれあいコーナーにも行ってみた。するとなるほど、そこにいる人懐っこいモルモットたちはみんな、毛先の一本一本がクリスマスのイルミネーションみたいに緩やかに点滅していた。
エレクトリカルなモルモットを膝の上に乗せて撫でながら、コミュ障につき飼育員の人には聞かせたくなくて、となりに座るルカトゥに小声で聞いてみる。
「光っちゃったらさ、自然界では不利なんじゃないの……?」
「あ〜、なんか元々は、夜もずっと眩しい地域に住んでるらしいですよ〜」
「夜も眩しい……? じゃあ逆に光る意味なくない?」
「それが、この子たちにはお互いの光が見えるんですって〜」
「へぇ〜」
「逆に暗いのは苦手なので、飼育する時に一番かかる費用は電気代なんだとかぁ」
「……聞いといてなんだけど詳しすぎない?」
「えへへ、実は事前に調べてましたぁ」
「観光ガイドの鑑……!」
もしかしてこの子の毛先も気分で光ったりするんじゃないかな? というくらいとにかく嬉しそうに、ルカトゥはまぁ分かりやすく照れていた。
……その時唐突に、私は「もっと普段からルカトゥを褒めるべきなのでは……?」という念に駆られた。
なぜ今そんなことを思ったのだろう……? 照れるルカトゥを見るのはそんなに珍しいことでもないのに、それでも今不意に、自分はまだ全然それを見足りていないのでは……という気がした。私が彼女の照れる姿を見たいとかそういう話ではない。……たったこれだけの一言でそんなに喜んでくれるなら、私はその照れ方に見飽きるべきなのではないか。そうなっていないということは、私からのルカトゥへ対する称賛が、今までどれだけ足りていなかったのか……と、不意にそう思ったのだ。
そのうち、午後の三時をまわったあたりで、ルカトゥが「そろそろ帰りましょうか」と言った。園内はほぼほぼ巡り終えていたし、自宅までの帰り道には世界を跨いで少なくとも二時間以上かかることを鑑みると、確かにそのあたりがちょうどいい切り上げ時であるように思う。私たちは動物園の最寄り駅から一度大きな駅まで戻り、そこから人間界行きの電車に乗り換えた。
……それから私が次の乗り換え駅、つまり人間界の東京都内の駅にたどり着いたことに気付いたのは、ルカトゥに「次降りますよ〜」と肩を揺すられて目を覚ました時だった。
「あっ……ごめん寝てた」
「ふふ、かわいい寝顔見ちゃいました〜」
「見られた見られたー」
そんなふうにおだてられながら駅構内を行き、特に急ぐ必要はない乗り換えを行う。
魔界からの道のりで、例の真っ暗なトンネルに入ったところまでは覚えている。しかしその後あまりにもすぐに眠ってしまったので、もしかして記憶がいじられているとかそういうあれか!?と思ったけれど、体感的にはまったくそんなことはなかった。
ジェネリック東京もそこに住む様々な種族の人たちのことも、各国から来ているらしき人間の観光客のことも、セラちゃんやシェトさんや一人でホテルの部屋に引きこもった日のことも、十五年前の街並みの写真も緑色の海も、言語やその他諸々にまつわる恐るべき話にサキュバスの利権のことも、そして魔界の動物園のことまで全て覚えている。物や場所の名前はうろ覚えだけれど、ルカトゥに聞けば「あぁそれそれ」と思い出せる自信があった。
じゃあ単純に爆睡しただけか……。無駄に警戒してしまったけれど、そうやって二泊三日の旅行を振り返ったことで、とてつもなく充実した三日間だったんだなぁ……という実感が俄然湧いてきた。良い事は振り返れば振り返るほど良い。
それから電車を乗り継ぎ、馴染みの最寄りで降りたら歩いて自宅を目指す。日は少しずつ長くなってきていて、道中、十八時前になってもまだ辺りは夕暮れ程度には明るかった。そのうちまた半袖ですら暑すぎる季節が来てしまうのだろう。……魔界の夏は涼しかったりしないのだろうか? 私はひそかに避暑を企む。
自宅にたどり着くと、たった三日ぶりとはいえ、玄関をくぐった先にはやはりなんとも言えない安心感があった。そしてその安心感によって堰を切ったかのように、旅の疲れはむしろドッと出る。海を見てアニマルを見て遊んでいただけのはずなのに。
「家だぁ〜」
そう言ってとりあえずベッドにダイブした。その一方で、ルカトゥは冷蔵庫を開けて「あ〜」と言ったきり、再び靴を履き始める。
「ちょっと買い物に行ってきますね〜」
「ん、疲れてない……? なんか適当に、インスタントとか確かまだあった気がするけど」
「それは奥の手ですから〜。それに全然疲れてないですし、大丈夫ですよ〜?」
「そう……?」
「サキュバスですから〜」
サキュバスってそうなの……? とは、もはや聞かなかった。仮にサキュバスだって人並みに疲れを感じる生物だったのだとしても、その次には「ルカトゥだから大丈夫」がある。だから彼女が大丈夫というからには、それはきっと大丈夫なのだ。そう思うことにしている。
ちなみに、ここでもし私がついて行こうとすると「休んでてくださいよ〜」と結構真剣に言われてしまったりする。帰宅して早々ベッドにダイブした時点で、私は今日の外出の権利を実質的に失ったのだ。それが分かっていてダイブしたわけではないけれど、正直言って全然そこまで考えていなかった。
玄関のドアが開く音が聞こえた瞬間、もう一度その扉が閉じられてしまえば、何か「流れ」のような物を取り逃してしまうような気がして、私は咄嗟に身を起こして言う。
「ルカトゥ、言い忘れないうちに言っとくけど」
「は〜い?」
「旅行、楽しかった。連れて行ってくれてありがとう」
そう伝えた直後、遠目に見ても分かるくらいハッキリと彼女が照れているのを見て、私は、自分が言うべきことを言えたのだと確信した。
ルカトゥが帰ってこなかったらどうしよう……なんてことは、もう考える必要もないのだ。