お互いが暇な時間があれば、その多くをセックスに使うことが当たり前になってからしばらく経った頃、私はあることに気がついた。……ルカトゥの外出する機会が目に見えて減っているのだ。そしてその理由にもすぐに見当がついた。
ルカトゥの外出が減ったのは、彼女がサキュバスとしての「食事」に出かけなくなったからだ。私が彼女に性欲をぶつけ続けているから、きっとソレと仕事のついでに食べてくる物だけで事足りているのだと思う。……つまり最近は私がルカトゥの「食事」の係を担っているのだ。全く無自覚なうちにそうなっていたのだけれど。
ところで、ルカトゥは個人的な趣味に出かけるということをしない。もう同棲を初めてほぼ一年が経つからすっかり分かっていることだけれど、ルカトゥは好奇心が旺盛なわりに、これといって趣味らしい趣味を持っていなかったりする。エッチを除けば、ほとんど気まぐれにネットを見たりテレビを見たりするのが彼女の暇な時間の過ごし方の全てなのだ。……家事が彼女から趣味らしい趣味に没頭する時間を奪っている可能性だとかは、考えたくないものだけれど。
ルカトゥがある日録画していた番組の内容は、芸能人の男女が集まって比較的ドロドロした男女関係のVTRを視聴し、それについての感想を語り合うという物だった。私にはその手の番組の面白さが理解できないのだけど、それはそうと一緒にその番組を見ていると、ふとしたことが気になりだす。
「今パッと気になったから聞くだけなんだけどさ」
「はい」
「ルカトゥにとって浮気の定義ってなに?」
テレビの中では今、全く同じ話題を俳優たちが語り合っていた。
「心から別の人のことを好きになること、とか〜……?」
「心からか……」
「なんですか〜? 白状することでもあるんですか〜?」
「いやないけど。……なんかちょっと、どこまで無敵なんだろうなって思っただけ」
「ふむ〜……?」
「いろんな台詞の台本を作ってきたけど、それ系はなかったでしょ?」
「あ〜、なるほどぉ」
私が初めてギブアップをして、そしてそれを克服したあの一件以降、ルカトゥからの交換条件はもっぱら台本の実行になっている。エロ漫画家が心底驚かされるような内容の台詞を、最近はもう何本読んだのだったか数え切れなくなってきているところだ。
けれどもその中に、そういえば浮気を彷彿とさせるような内容は一つもなかったように思う。心無い言葉であったとしても、それはいつもルカトゥ一人だけに真っ直ぐ向かっていく物だった。
であれば、それが彼女にとっての尊厳のボーダーラインなのではないか……と思ったのだけれど。
「ちょうどそういうのやりたいと思ってたんですよ〜」
「そうなの?」
「前に目隠ししたじゃないですか〜?」
「うん」
「あれで思い出したんですよぅ」
誘拐をテーマにして、ルカトゥに目隠しと手錠をつけた上で進行する台本を実行したことがあった。……そのように私たちの台本には続々とストーリー性が含まれだしてAVじみていっているのだけど、その誘拐プレイの中で最も印象深かったのは、ストーリー性についてではなかった。
……目隠しをした相手からは、人格らしさが薄れてしまうこと。それが誘拐編台本を実行した中で最も印象深いことだった。
目は口ほどに物を言うとは至言なもので、ルカトゥの演技、あるいは感情表現という物も、その多くを目に頼っているところがある。……ということに、私はその目隠しプレイの中で初めて気がついた。
アイマスク状の、これといって仰々しくもない目隠しをルカトゥに付けさせただけで、彼女から受けるあらゆる印象に歪みが生じるのだ。目隠しをされたくらいなら当然ルカトゥは動くし、喋るし、意思疎通が取れるのだけど、それでもなお彼女の顔を見ていると、なんだか寝顔を見ているような気になってしまう。目隠しをした相手との会話には、眠っている相手と意思疎通を取るような、そういう非現実的な印象を受けるものだった。
理屈としては、いわゆる壁尻と同じことだったのだと思う。上半身は壁の向こうにあり、下半身がこちらに突き出されているというシチュエーション。そこで壁の向こうの相手がいかに泣き叫んでいても、暴れられないように拘束された下半身が僅かに震えるのが見えるだけでは、こちらからは相手の心などほとんど察しようがない。ただ壁の向こうが見えさえすればその悲痛さはありありと伝わってくるはずなのに……。……というようなことが、「目」の一点においてまさに行われるプレイ。それが目隠しという物だったように思う。
誘拐ごっこは初め、怯えて暴れるルカトゥをスタンガンで脅しておとなしくさせるという台本になっていた。けれども、あれの暴力性その物が空気を震わせているかのような音は私が苦手としていたため、攫われる側を急遽すこぶる物分りのいい役にすることで、台本が調整されたりもした。
目隠しと手錠をされて、抵抗する意思も湧かないほど怯えきったルカトゥに、誘拐犯役の私は「言うこと聞いてれば優しくしてあげるからね」と脅しの言葉をちらつかせて、その実いざという時に反射的に(という体で)抵抗するルカトゥにお仕置きの暴力を振るっていく……というのが実際の流れだった。私は、目隠しをされたルカトゥの怯えた演技の中にどこか非現実的なもの……つまり嘘っぽさを感じながら、自分もこの手のプレイに相当慣れてしまったなぁと自覚しつつ、台本通りに彼女を手篭めにした。
……そして全てが終わったあとで彼女から目隠しを取り外した時、私はゾッとさせられたのだ。真っ赤に泣き腫らしたその目から瞬時に察せられる「彼女の受けていた苦痛は、こちらの想像より何倍も大きな物だったのだ」という実感は、ツケが回ってくるみたいに、決壊した滝のような罪悪感を呼び起こす物だった。
だけどその直後にルカトゥが「にっ」と目の奥まで笑ったことで、私はなんとかギリギリ、そこまでを含めてがプレイなのだということを理解できたのだった。
……それでそんなプレイの経験から現在のルカトゥは、「浮気」についていったい何を思い出すことがあるというのだろうか?
「顔に紙袋とか被せて、しかもその袋に別の女の子の写真を貼るやつ……! あれエッチじゃないですか〜?」
「…………エッチかどうかといえば、間違いなくエッチだと思う」
「ですよね! わたし次はそれがやりたいです先生ぇ」
「いや、ルカトゥがやりたいって言うならいいけど……。誰の写真貼るの?」
「ん〜、先生が他に好きな女の子……は、いないかぁ」
「うん」
「じゃあオルディアの写真でも貼っておきます?」
「わぁ、ひどい話だ」
今までそれ系の作品は二次元の中に山ほど見てきたはずなのに、私はその時になって初めて気がついた。そうかああいうシチュエーションって、紙袋で顔を隠される側だけじゃなくて、そこに貼られた写真の主にも失礼なことなんだ……。
「オルディアも自分がダシにされてると知ったら苦笑いするだろうね」
「いやいや〜彼女はそれくらい許してくれますよ。大丈夫です」
「彼女の何を知ってるの……?」
「だって向こうもサキュバスですから」
「あ、そっかぁ」
ルカトゥ以外のサキュバスがどういう性格をしているものなのか、私はよく知らない。けれどここ数日から数週の間にサキュバスの力と、サキュバスであるルカトゥのイカれたメンタルをこれでもかというほどに見てきたからか、「サキュバスだから大丈夫」と言われれば、なんだかそれだけでその主張は正しい気がしてくるものだった。
そうして私たちはその日のうちに、話した通りのプレイを実行したのだった。ルカトゥが用意したオルディアの顔写真には独特の雰囲気があり、彼女がどういう仕事をしているのかが分かったような気がした。……写真の中でも彼女は髪で片目を隠して軍服を着ていたけれど、それ以上にその写真には、風俗店のパネルっぽさが漂っていた。
それを貼りつけた紙袋を顔に被せられて、首から下の体だけを求められるルカトゥの下腹部に、例のへなちょこパンチを連打する。もちろんそれも事前に決めた通り、ルカトゥから望まれてやったことだった。
……けれど私はある時ほんの少しだけ、本当に少しだけ、気持ち程度に力を込めた拳を彼女の淫紋めがけて振り下ろした。それは、決められた回数の弱いパンチの後でそうすると約束していたことだった。
「うぐっ……!?」
黙って体を差し出していたルカトゥが、紙袋の下から苦しそうなうめき声を上げる。誓って人を悶えさせるほどの力を込めて殴ったわけではなかったけれど、「突然の本気パンチに、それまで黙って犯されていた女が悶絶する」というのがルカトゥの書いた台本内容の一つだった。
私は、なるべく力を込めずに繰り出した拳がきちんと「約束のそれ」だと判別されたことに小さく安堵しながら、決められていた流れの通りに、同じくらいの力でまた何度も拳を振り下ろす。
「うっぐ……、ぐっ……、うっ……おっえ……。ちょ、ちょっと先生ぇ……痛いっ……」
「喋んないで。気が散る」
「で、でも、あの、殴っていいですから、もうちょっとだけ手加減を……」
「…………汚い声で喋んないでって言ってんの」
「……はい」
消え入るような返事の中に、彼女の悲痛な心境が凝縮されているように感じた。……それはもちろん演技でそうしているのだろうけど、今の彼女の顔は完全に隠されていて、ウィンクなどは見られるはずもない。
……私は、ルカトゥのぽわぽわした甘ったるい声が好きだ。ひどい目に遭っている時ですらどこか緊張感に欠けて、それがコントラストの効果を成立させてしまうような、ふわふわした彼女の声が好きだ。そういった表の印象と、本当につらそうな時に出る消え入りそうな声の落差も正直好きだ。普段楽しそうにお喋りしてくれる時も、幸せそうに好意を伝えてくれる時も、勝手に落ち込んだ私なんかを慰めてくれる時も、ルカトゥの声はいつも可愛らしくて耳触りが良くて好きだ、気に入っている。
……なのにどうしてだろう、人の心というものは、嘘は嘘として見抜かれることを知っているはずなのに、それでも今は痛むものだった。
私はルカトゥの手を握る。……するとルカトゥは人差し指と中指をハサミのようにして、私の中指をチョキンと挟んだ。
それは事前に決めておいた、「愉しい」のサインだった。誘拐ごっこの時に決めたサインを引き続き使っているのだ。
「オルディア……オルディア……」
ルカトゥのご所望で、私は一度会っただけのよく知りもしない女の名前を呼びながら腰を振る。そして忘れた頃に拳を振り下ろす。殴るというよりは軽く叩くようなパンチが何度もルカトゥの腹部を襲った。紙袋の下からは、必死に無反応を装う苦しそうな息遣いが漏れ聞こえてくる。
何の思い入れもないオルディアの写真と目を合わせながら、私はそのうち何も言わずにルカトゥの中に出した。
性の衝動が引いていくことを感じながら、紙袋を取り去ると、ルカトゥは虚ろな目をして無言の涙を流していた。……そしてその表情はあっという間に悦びの笑みへと移り変わっていく。すべて分かっていても、その笑みを見るまでのコンマ数秒はやけに長く感じて、心臓を締め付けられるような感覚がするものだった。
ルカトゥが両手を伸ばして、私のことを抱き寄せる。
「ふふ……♡ 今日も楽しかったぁ……♡ ぞくぞくしましたぁ……♡」
「そう? よかった」
「えへへ♡ 先生ぇありがとう〜♡ お礼にまたなんでもしますからね♡」
「ん、ありがとう」
初めはこちらからの仕打ちに対するルカトゥへのお礼として交換条件があったのに、すっかりそのあたりの構図は逆転している。
だけど、それで何か問題があるわけではない。なんやかんや言っても私はこういうプレイに徐々に慣れてきていて、この写真の主に生やしてもらった物だって、その慣れを拒んではいないのだ。
抱き合った私たちは、どちらともなくキスをする。当たり前のように我先にと舌を入れて、お互いのことを貪り合い、私はまた彼女に唾液を飲ませる。それもすっかりルーティーンと化したことだった。興奮というよりは心地良さ……安心感がそこにある。
「ルカトゥの舌、今日も甘いね。……前からこんな風だっけ」
「そうですよ〜?」
「……あぁそうか。ずっと前は、試さなかったんだ」
「ほえ?」
「なんでもないよ」
まるで遠い遠い昔のことのように、私はまだ自分がオルディアの魔法を受けていなかった頃を……混じり気のない女の体のままでルカトゥに実験を行っていた時のことを思い出していた。
去年の夏頃、ルカトゥは私への思いを明かして、気遣って距離を取られるくらいなら実験対象にでもなんでもしてくれた方がマシだ……とか、そんなようなことを言っていた。それで、すでに彼女をいたずらに愛撫し絶頂させてしまっていた私は、その場の勢いのまま彼女にお遊びのキスをしたのだ。そこで彼女の唇が、私の知るキスの感触よりもずっと柔らかいことを知った。
……同じようなことが、その後少しの間だけ続いたのだ。ルカトゥが「試してみたいことはないですか?」と聞くから、あの時まるで社交辞令のようにキスをしたとは思われたくなくて、その証明のために、私は彼女の体の感触をいくらか確かめた。……そこで私は、自分は女だけれども、考えてみれば「他人としての女性の体」のことは少しも知らないのだと気がついて、実際のところかなりの興味深さを感じたのだった。
けれどそうした実験の中でも、どうしても踏み切れないことがいくつかあった。ディープキスがその一つだった。……あの頃の私はそれをすることで、ルカトゥから求め返されることが怖かったのだ。
だけどもう、そんなことに怯える気持ちまでもは思い出すことができない。求め返されることは嬉しいことだと分かってしまったから、賢者タイムの中ですら私の脳みそは、完全には以前の状態には戻れないようだった。
そんな脳みそのままで、深くは考えずに、私はパッと思いついたことを口に出してしまう。気軽に、軽率に。
「……ねぇルカトゥ、一つ気になったんだけど」
「なんでしょう?」
「スマホを落としちゃっても、落としたって通知の魔法で分かるんだよね?」
「分かりますよ〜。……あ、もしかしてハメ撮りのリベンジですか〜?」
「いや、それも悪くはないけど。……たとえばそれって、人が近づいてきたこととかも分かる?」
「……え〜と、どういうシチュエーションの話でしょう……? お外でするとかですか……?」
「そう」
「あ〜、そうですねぇ……。感知すること自体は出来ますよ〜? 見られているとか、撮られているとかも、感知できます」
「じゃあ、その気になれば外でのエッチも出来るってこと?」
「できますよ〜。バレそうになった時に咄嗟に隠れられるような場所なら、ですけど〜」
「そっかぁ。……いやごめん、気になっただけ」
「え〜? 今のはもう完全に実践する流れでしたよね〜……? 先生もそのつもりで言ったんでしょ〜?」
「そんなことないよ」
「……むぅ」
本当にただの興味本意の質問であったことが、「そのつもりで言ったんでしょ?」に答えたことでルカトゥに伝わる。ハメ撮りの時は歯切れ悪そうにしていたから今回だってそうだろうと思ったのに、その不服そうな反応を見るに、なぜか彼女は野外プレイに関しては乗り気なようだった。
もしかすると、歯切れの悪かったハメ撮りを一応は実行したことで、彼女の中での何かが吹っ切れたのかもしれない。実際、そのハメ撮りのリベンジにだって今は乗り気なように見えるくらいだから。
……私としては、変なリスクは避けたいところだけれど。
「じゃあ、次の交換条件にわたしの方からお願いするなら、どうですか……?」
「野外プレイ?」
「ですです」
「万が一があるんじゃないの……?」
「それは、そうかもしれませんけど。でも、たとえばトイレとかなら、近づく人さえ感知できればバレようがなくないですか……?」
「うーん……。それは、私にはなんとも言えないけど……」
これもまたやはりというべきことなのか、私たちの間では、歯切れの悪さもいつの間にか逆転していた。
口にすればルカトゥが実践したがることくらい容易に想像できたはずなのに、どうして私はこんなことを聞いてしまったのだろう? 分からない。ついさっきまであった快楽に由来する余韻のせいなのか、二人の関係性の進行が成したことなのか、とにかくなんだか今は頭が上手く働いていないように感じた。
結局明確に拒否することも出来ず、私たちは近いうちに野外プレイを実践するような雰囲気になってしまう。ルカトゥが交換条件として提示するということは、きっとまた台本も用意することになるのだろう。今度はいったいどんな心無い言葉がそこに載るのだろう? 早くも想像が脳裏を駆け巡る。
なんでもするからどうか外でするのだけは許してほしいというルカトゥの懇願を無視して奉仕させ、「下手くそすぎ。本当は長引かせたいんじゃないの?」と嘲笑する……とかだろうか? 今までの流れからすると、そのくらいの内容は心構えておかなければならないように思う。きっとそこにはまたAVを見るのとは違う臨場感が……自らの手を汚すことの緊張と迫力があるのだろう。
どんどんそれに慣れていく自分に、最近は少し恐ろしさを覚えることもある。罪悪感が生じることは正直相変わらずつらいけれど、そのつらさが、悲痛な演技をやめて笑うルカトゥを見た時に、どこか快感のような物に置き変わっていくような感じがするのだ。その時に湧くその感情は、単なる安堵ではないような気がするのだ。
そして腹の底のどこかに、その安堵に似た快感を、より深く得ようとしている自分がいる。……このままだといつか自分は、本気の力でルカトゥの腹を殴れてしまう気がした。
……そういう時は、夜、ルカトゥの寝静まったあとで、悟られないようにこっそり自分の腹を殴ってみる。その痛みや苦痛、それに伴う恐怖感を思い出すことで、私はなんとか我に返るのだ。腹パンは、いくらお腹に力を入れたってこんなに痛いものじゃないか……。そういったことを身をもって思い出して、正気を保った。
本当に軽蔑に値することに、私から生えた陰茎は、そうやって自分を痛めつける時には絶対に勃起しないものだった。ルカトゥをいじめる時には決まって、いつもあんなに逞しい姿になるものなのに。
サディストであることの自覚は、それ自体に罪悪感が生じた。
漫画、ゆめ魔にっきの執筆はすこぶる順調に進んでいる。常習的なセックスによって時間は以前よりシビアな配分で消費されていくようになったはずなのに、日数単位での漫画の進捗には全く衰えがなかった。もしかすると賢者タイムこそが、作業能率を上げる一番のスイッチだったのかもしれない。プラマイゼロではあるのだけども。
随分前にルカトゥが送ってくれたので、私はすでに彼女の小学校時代の卒アルの写真を画像データとして入手していた。いわく彼女自身も、実家の母親からスマホカメラで地道に撮り写したそれを送ってもらったらしい。
小学生の頃のルカトゥの容姿は、なるほど本人が言う通り、時を巻き戻せばこの姿になるのだろうなと容易に想像がつくくらいには、幼さを除いて現在の姿にそっくりだった。また、そんな彼女の例の友人も特徴を聞いて想像していた通りの見た目で、異種族らしさというものは写真に見える範囲からはどこにも感じられなかった。
けれども集合写真を見てみれば、やはりそれは魔界で撮られた物なのだと分かる。各々の生徒に角や羽が生えていたりすることはもちろん、体のあちこちが機械のようになっている子や腕が四本ある子、その他諸々バラエティ豊かなごった煮の異種族パラダイス的な光景がそこに収められている。よく見ると背景の桜の木らしき物まで、幹があり得ない太さをしていた。
私はそこに写るルカトゥを参考にして、また再び本人から当時の話を聞き出しながら、彼女の過去エピソードを漫画にした。そしてそれが終わったら、次はコタツに入ったまま「今ここを締め出されて凍え死んでも文句は言えないな……」と暗いことを考えている自分を描く。
……改めて振り返ると、唐突に暗くなりすぎなんじゃないかと思った。しかしそれも仕方がない。夏の章と冬の章の間には、漫画に出来るような事はほとんど何も起こらなかったのだから。あるいは私がルカトゥに行った実験についてエロ漫画らしく詳細に描写するべきだろうか? ……仮に描いたとして、それが後々の暗さをどう説明してくれるというのだろう?
どう思い出そうとしてみても、私は自分がどのようにしてあの時のような後ろめたさの中に沈み込んで行ったのだったか、全く思い出せないのだった。あの暗さは、いつの間にかそうなっていたのだ。いつの間にか新作のアイデアが思いつかなくなって、いつの間にか冬になっていた。私の脳みそは、ネタにもならないようなことはすぐに忘れてしまうものなのかもしれない。
……あるいは、人間の脳みそというのは元々「感情の経緯」を忘れやすい物なのかもしれない。オルディアの魔法を受けて、初めてルカトゥとエッチをした時のことから、アブノーマルなプレイを常習する現在に至るまでの感情の変化の流れを具体的に説明しろ……と言われても、私にはそれも出来ない。起こった事実の内容と順番だけはそれなりに覚えているけれど、その中で自分がどのように変化していったのかだなんてことは、もう半分より遥かに多い割合で忘れてしまった。
……そんなことを考えながら黙々と漫画を描いていると、当たり前の生理現象が唐突に湧いては、私の意識を刺激してきた。性欲を催したわけではない。……これは、それよりももっとずっと当たり前の物だ。
「……ルカトゥ」
「はい♡」
私が席を立つと、ルカトゥも浮かれた様子で立ち上がる。彼女の通知の魔法から逃れる術はないから、「それ」については、いつの間にやら具体的な言葉すら必要なくなっていた。
トイレの扉を開くと、ルカトゥが先に入る。彼女は蓋の閉じた便座の横でぺたんと座り込んで、いつものように大きく口を開けて「それ」を待った。
……このプレイをするのが何度目なのか、私はとっくに数えることをやめている。同じようなことを繰り返し、また台本の中でルカトゥに心無い言葉を吐きかけているうちに、いろいろなことの回数も、抵抗感も、いつの間にか忘れてしまった。
同じプレイにいちいち交換条件を使わなくていいと言ったあの日以来、私は、ルカトゥが家にいる時に尿意を催す度に、その汚液を必ず今のように彼女へ飲ませている。通知の魔法でこちらのことを悟ったルカトゥは決まってそわそわする物だから、それを冷たく見て見ぬふりすることは、妙な啖呵を切ってしまった私にはできなかった。
……啖呵とは、交換条件が云々のことだけではない。無駄な良心は捨てる。こと私たち二人の間において、無意味な常識に縛られ余計な心労を起こすようなことはしない……そんな善処の誓いも啖呵のうちだ。
ルカトゥがやりたがっていることを自分が嫌と感じているわけでもないのに、常識だのなんだのを語って彼女に寂しそうな顔をさせることに何の意味がある? そう思うからこそ私は自分にできるプレイは、それが異常なことだと知っていても求められるがままに全て行ってきたつもりだ。……けれど、いま彼女に自分の下半身に生えたモノを咥えさせて、せいぜい僅かばかりの罪悪感を伴う程度であっさりと排尿できてしまっている事実には、さすがに気持ち的に引っかかる物がないわけではない。
私はここ数週の間にすっかりセックスに慣れただけではなく、恐るべき速度で「抵抗感」を失っているように思う。しかもそれは上手く捨て去ったというには印象が薄すぎて、まるでいつの間にか見かけなくなっていた野良猫のように気がつくとそうなっていた物だ。まだ本気の暴力を振るえてしまったり、ひどい言葉を吐いて少しも心が痛まなかったりするわけではないけれど、なんだかこのままだとそういったことだってそのうち出来てしまいそうな気がする。
ルカトゥはそれを望んでいるのだろうか? 私が台本の中で「暴力のフリ」をやめて本気になることや、嬉々として暴言を吐くことを望んでいるのだろうか? ……私にまだどうしようもないままの抵抗感が残っているのだとすれば、あとはそれくらいの物だろう。
「ごちそうさまでした……♡ 飲ませてくれて、ありがとうございます♡」
口の中を唾液で濯ぎ終えた彼女がにっこり微笑んで礼の口上を述べたかと思えば、恭しくその場で深々と……額が床に付きそうなくらいに頭を下げて見せる。
その頭を踏みつけにしてやれば、彼女はもっと喜ぶだろうか? それともそれはさすがに「違う」と感じるのだろうか? ……私は後者であってほしい。そうでなければ、こんな思考がよぎるようになってしまった私がこの先どこへ向かうのか、本当に分からなくなってしまうから。
外道の彼方へ向かうこと。それの何が恐ろしいのか、私にはまだ分からない。ルカトゥの望むがままを徹底するなら、なぜどこかへ向かってしまうことを恐ろしく思うのだろう。下げた頭を踏みつけにするだとか、彼女にそういった仕打ちをすること自体を恐ろしく思うなら、なぜ台本を実行する時の私はそれをある程度慣れて行うことが出来てしまっているのだろう。よく分からない。分からないけれど、なんだか嫌だと感じることはある。
だけどそれでも、その嫌悪感を理由にルカトゥへNOを突きつけるための「最低限のボーダーライン」という物が、今の私にはまだ、どこにあるのかもはっきりとは分からないのだ。
やろうと思えば、どこまでだってやれてしまいそうな気がする。踏んでほしいと言われれば、踏んでしまえるような……。
「ルカトゥ」
「んっ……♡」
しゃがみこんで肩を叩き、顔を上げた彼女の唇を奪う。抵抗感がないことの証明に舌を入れて、好意と称賛を込めた唾液を流し込む。……「お手」が出来た犬をえらいえらいと撫で回すかのように、それはすっかりお決まりのパターンになっていた。
トイレを出れば何事もなかったかのように私は執筆に戻る。ルカトゥはスマホをいじり始める。飲尿プレイの拍子に性欲を催してそのまま……という日もあるにはあるけれど、今日はそうではなかったし、そうでないことは珍しくもなかった。
……漫画の中に描いている実話が、ひどく懐かしいことのように思える。実際にもうアニメの入れ替わり一度分の時は過ぎているのだから昔といえば昔だけれども、ルカトゥの恋愛感情を聞いた夏には、友情だけがあるように見えた春が懐かしく思えたように、罪悪感に凍りつきかけた冬には、その夏ですら懐かしく思えたように、今はオルディア以前のことがひどく懐かしいことのように思えてしまう。自分の目に見える世界がそれだけ目まぐるしく変わっているのだ。
……その日の深夜、私はルカトゥと一緒に、家から少し離れた公園に向かって歩いた。
まだ少し肌寒い、月の明るい夜だった。
通知の魔法により人気がないことの保証された公衆トイレの中で、ルカトゥは着ていたシャツのボタンを全て外して、露出魔のように私の眼前に裸の上体を晒して見せた。唯一袖に隠された両手は自主的に後ろで組まれて、さらけ出された肌のどこを隠そうという気も感じられない。
台本による打ち合わせは済んでいた。
「わたし、ルカトゥは、先生のおちんぽ様にご奉仕するために生まれてきて肉便器奴隷です……♡ NGもギブアップも無しでなんでもしますから、どうかおちんぽ様にご奉仕させてください……♡♡」
「お、おぉ……」
そのくだりについては「いい感じの台詞でおねだりする」という程度にしか決めていなかったから、予想の斜め上を行く台詞についたじろいでしまう。
だけど打ち合わせの中で「汚いから土下座とかは禁止ね」と言った通り、その約束を守って控えめにしゃがみこみ舌を出すにとどまっているルカトゥを見て、こちらもシャンとしなければと気を取り戻した。……勃起しながらだけれども。
屋根や壁があるとはいえ、私たちの今いる場所は虫の音の聞こえるような野外である。そんな場所で上半身だけとはいえ、まるで家の中でする時と同じように軽々と裸になったルカトゥに、興奮とはまた別な意味でもドキドキする。野外プレイに特有の魅力があるのだとすれば、それは吊り橋効果に騙されやすい人の語り継いだ勘違いなのだろうと、私は当事者になってみることで初めて実感した。
だからこそ、台本通りに早々にルカトゥの手を取り、彼女を個室の中へと引きずり込む。ドアを閉めて、心もとなくガタついた鍵をかける。
今も硬くなっているこの不思議に生えた魔法の棒の存在を除けば、私たちは幸いにも女と女だから、その点ではいささか気が楽であると言えないこともない。公園のトイレなんて所はどこに触れても不潔であるような場所だけれど、だからこそ狭い個室の中で目に入る都合の良い箇所だけ豊満で艶かしい女の体が、いつにも増して非日常じみてはいた。
今ある感情が興奮なのか緊張なのか、いまいち区別がつかない。フィクションの中でトイレを舞台に犯されるヒロインを見るとエロスを感じたりはするけれども、そういうのはだからきっと、現実ではもう少し安全の保証された場所でやるべきことなのだろう。
……しかしさすが、すべてはルカトゥの予想した通りだ。と、そんな風にどこか他人事のように感心しながら、私は台本通り彼女に指示する。
「壁に手ついて、下脱いで、お尻こっち向けて」
「はぁい♡」
ルカトゥはシャツをはだけさせたまま言われた通りに脱いで、従順にこちらへ下半身を差し出す。……このまま私たちはセックスをして、終わり次第さっさと帰宅する算段になっている。ここで行うことはそれだけだ。
台本制作時、ルカトゥの立てた予想はこうだった。
「なんか今日の案はシンプルだね。いつももっとひどいこと言わせたり、させたりするのに」
「う〜ん、それが理想なんですけどねぇ。でもきっと先生、緊張しちゃってそれどころじゃないと思うんですよ〜。だから盛りすぎない方がいいと思うんですよねぇ」
「あー、まぁ確かに、全部の台詞が小声になるんじゃあね……」
……ルカトゥは実に正しかった。背徳感は、こんな場所での脱衣を見た時点でとっくにカンストしている。その後から押し寄せてくるのは、およそそれ以外の感情ばかりだ。
背を向けて差し出された彼女の体に、私は焦るような気持ちでペニスを突き挿れた。
……するとその瞬間、嬌声が虫の音をかき消して響き渡る。
「んんぅっ!♡ うあぁっ!♡♡」
「ばっ……!?」
壁を反響するようなその声に、心臓が口から飛び出るかと思った。
咄嗟にルカトゥの口を両手で塞ぐ。すると姿勢上、ペニスはより彼女の深いところをえぐる形になった。艶めきと共にくぐもった声が私の手の中で暴れ回る。
それを押さえつけながら、台詞でもなく、彼女の耳元で静かに叫ぶ。
「なに考えてんの……!? 誰か来たらどうすんの……!!」
「だ、だって……♡ なんか久しぶりに、すっごくドキドキして……♡ 声出ちゃいますよぅ……♡」
「いやいやいや、やめて」
「で、でも……全然近くに人いませんし、大丈夫ですよぅ……?」
「そういう問題じゃない! ……ねぇ、そんなこと言って次ちょっとでも声出したら…………もう絶交するからね」
「えっ……」
どうにかして喘ぐことをやめさせなければ。その一心で、私は彼女に最も効くであろう脅しを口にした。……するとそれは目に見えて抜群の効果を発揮した。
絶交。その言葉を聞いたルカトゥの表情は一瞬、耳を疑っているような困惑に包まれ、その直後、驚愕と恐怖に凍りついた。それは以前彼女に頼まれて読んだ「使わせてくれないんだったら、こんな穴壊しちゃおうか」という台詞に対するリアクションにそっくりだった。
聞き返すような弱々しい「えっ……」の一言も「声を出した」と判定されると思ったのか、ルカトゥは慌てて息を飲み、今度は自らの手で口に封をする。そしてそのまま首をめぐらせてすぐ耳元にいる私を見て、目だけで意思を伝えてくる。
ごめんなさい、もうしないから許して、絶交なんて嫌だ……。……と、潤んだ目だけでありありと伝えてくるのだからさすがだ。彼女のその必死さはいつも通り私の心をいくらか抉ってくるものだったけれど、その痛みとの付き合い方にはこちらだっていい加減コツを掴み始めている。
私は、指をチョキの形にして、ルカトゥの中指を何度も挟んだ。それは本来ルカトゥが私に向ける用の、声が出せない時にも使える「愉しい」のサインだけれど、まぁ大体こちらの意図は伝わるだろう。
実際、彼女は口元を手で覆い隠したまま、目だけで心底安堵したような微笑みを浮かべた。それを見て私は囁きかける。
「動いていい……?」
ルカトゥはコクンと頷き、お尻をつき出したまま今度こそ完全に背を向けた。
二本の足で立つやや不安定な腰を引き寄せながら、ペニスで彼女の奥までをかき分けると、まるで最初の頃のようにルカトゥは大きく肩を跳ねさせた。締まりまでギュッと強くなる。そしてその反応は、何度突いてみても同じように起こった。慣れという概念を忘れたかのように、ルカトゥは一突きごとに全身を震わせて悶えていた。
だけど言いつけ通り、もう彼女は喘がない。必死に声を抑えている様子で、深く……乱れた呼吸の音だけが聞こえてくる。彼女は片手だけを壁について体を支え、もう片方の手はずっと口に当てていた。
ピストンのペースを上げていくと、ルカトゥの反応は際限なしに激しさを増していく。痙攣するように常にビクビクと体を跳ねさせて、膝なんかはガクガク震えて今にも崩れ落ちそうなくらいだった。……というか実際に、間もなくそれは崩れ落ちた。
奥まで入れたまま抉るように腰を擦り付けていた時に、ルカトゥは突然壁をずり落ちるようにして体勢を崩した。驚いて思わず腰から手を離すと、びしょびしょに濡れていたそこからにゅるんとペニスが抜け出し、解放されたルカトゥは地べたにへたりこんでしまった。
……汚いからそういうことはやめようと取り決めていたからこそ、あの従順なルカトゥが、取り決めを守れないほど余裕を失っているのだということにその時初めて気がついた。
そして私はハッとした。まだセックスに慣れていなかった頃、快楽のあまりに痙攣するルカトゥを初めて見た私は彼女の身を案じていたのに、今はむしろその反応を楽しんでわざと彼女のよがりそうな犯し方をしていたのだということに、自分でも気がついたのだ。
半裸の状態で汚い床の上にへたりこみ肩で息をするルカトゥを見下ろしながら、罪悪感をいくらか克服しつつあることと引き換えに自分の心がどんどん醜くなってきていることを自覚する。
「だ、大丈夫……?」
無責任な……けれど決して白々しくはないつもりの声をかけると、ルカトゥがゆっくりとこちらを振り返る。
……真っ赤に腫らした彼女の目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ続けていた。拭いもされないそれは頬の上にはっきりと透明な線を引いている。声もなく、しゃくり上げるようなこともないまま、ルカトゥはいつからかずっと静かに泣いていたのだ。
私の問いに、彼女はどこか怯えたような目をして、コクコクと首を縦に振る。……けれどそれは肯定に頷いたのではなく、謝罪のために何度も頭を下げたようにも見えた。
私がそんな風に思ったのは、罪悪感から単なるネガティブを引き起こしたせいではない。私はルカトゥのその涙を見たことで、自分がとんでもない過ちを犯してしまったことにようやく気がついたのだ。
……「絶交する」なんて脅しの言葉は、これっぽっちも台本に書かれていなかった。
私はごっこ遊びの枠組みから外れて、私自身の言葉としてそれを言ってしまったのだ。考え得る限り最低最悪の言葉で、私はルカトゥのことを本当に脅迫してしまった。……その言葉はどのように彼女に伝わったのだろう?
ルカトゥは本気で驚いて、本気で怯えていたのではないか。ルカトゥは本当に必死になって、死に物狂いで声を抑えてくれていたのではないか。ルカトゥは……私に好意のあるルカトゥは、「声を出したら絶交される」と本気で思って、一人で泣きながら戦っていたんじゃないか。
あの時、声を抑えてほしい一心で言ったあの一言が、通知の魔法にどのように判定されたのかは分からない。だからもはや手遅れもいいところだけど、私は自分のしたことを後悔せずにはいられなかった。
どうしてあの時「お願いだから声を抑えてほしい。気が気じゃないから、どうか本当にお願い」と、普通に頼むことが出来なかったのだろう。どうしてちゃんと対話をしなかったのだろう。どうして、……どうして脅しなんてことを、あんなに迷いなく選べてしまったのだろう……?
「ご、ごめん……。ルカトゥ、ごめんね……?」
声が震えた。膝まづいたような彼女に目線の高さを合わせることすら忘れて、私は呆然と謝ることしかできなかった。自分の言動の理由すらはっきりしないままの謝罪にどれだけの価値があるかなんて知れていたけれど、それでもそうする以外にどうしようもなかった。
……ルカトゥは、こんな時でもこちらを見上げて笑ってくれた。だけどその微笑みには、いつもプレイが終わったあとに見せてくれるような頼れるプロフェッショナルの……あるいは怪物の様相がなかった。そこにあったのは、弱々しく振り絞ったような、少女じみて儚げな微笑みだけだった。
そんな彼女が、私の腰元と自分の口を交互に指さす。……その意図がこちらに上手く伝わっていないとみると、今度は口を大きくあけてその中を指し示す。そこでは舌が挑発的にれろれろと踊っていた。
……彼女がそういったジェスチャーに終始する理由に気がついた時、胸がキュッと締め付けられるように痛んだ。
私は今度こそ、きちんと彼女に目線を合わせて言う。
「ごめんっ、ルカトゥ、喋っていいよ……? 絶交なんて嘘だから、絶対そんなことしないから」
「あ、……えっと、ごめんなさい。続き、お口でしましょうか……?」
「つづき……?」
言われて注目すると、いくら良心に欠けた性欲の象徴でも、この時ばかりは精を吐き出すまでもなくすっかり萎えてしまっていた。
そのことが逆にルカトゥを傷つけてしまうのではないか……と咄嗟に不安になる。……ルカトゥは、この期に及んで続きをしたがっているのだろうか……?
私がどうとも答えられずに言葉を失っていると、彼女は困ったように苦笑した。
「もしかして、怖がらせちゃいましたか……?」
「え……?」
「わたし、感じすぎちゃったので……。引かれちゃいましたね……?」
「え、いや、違う、引いてない。そうじゃなくて……」
「じゃなくて……?」
「……絶交とか言って、ごめん。傷つかないように台本作ろうって私が言ったのに、本当にごめん……」
「えっ? いや、先生あれ本気で言ってませんよね? 魔法で分かりますよ?」
「え……?」
「えっ……?」
「え、じゃあなんで泣いてたの……?」
「それは……。久しぶりに興奮しすぎて、気持ち良かったのと……。……良すぎて、立っていられなくなっちゃったから不甲斐なくて……。先生のことをちゃんと気持ちよくしきれなかったことも申し訳なくて……。なんかそういう色々が合わさって、涙が出ちゃいましたけど」
「でも、必死になって声我慢してくれてたでしょ……?」
「それはまぁ、……だって先生から脅されるなんて、冗談でも初めてだったんですもん。従った方がいいかなって」
「嫌な思いさせた……?」
「まさかぁ! すっごくドキドキして気持ちよくなっちゃいましたぁ♡ ……あ、でもわたしの方こそ、大きな声出しちゃったこと、ごめんなさいです。もし先生に本当に嫌な思いさせちゃってたなら、ちゃんと反省します。……だから、どうかその……」
「……まぁ、あれは正直本気で焦ったけど」
「ごめんなさい……っ」
「いいよ。私の方こそひどいこと言ってごめんね」
「えへへ、全然大丈夫です♡ ……もう今日は帰りますか? なんだかグダグダになっちゃいましたし」
「うん……。そうだね、帰ろう」
服を着て、周囲に誰もいないことを魔法で確認してから、私たちは個室から脱出した。そうなってしまえば何もやましいことはなく、お喋りの声だって、ご近所さんの迷惑にならない範囲でならどんなに出してもいい。
家までは十分か十五分か歩けばたどり着く。大した距離でもなく、涼しいし、ルカトゥもすっかり元気になっていて、私としても体力が尽きるような激しいセックスをしたわけじゃない。…………なのに、ひどく疲れた。
前を歩いていたルカトゥがこちらを振り返る。私の歩くペースが、そういえば少し遅すぎたのかもしれない。
「先生ぇ、気にしてます……?」
「え……?」
「咄嗟に言っちゃったんですよね? 台本にないこと」
「……うん」
「わたし、大丈夫ですよ? むしろ楽しんでました。……って言っても、ダメなんですよね」
「……ごめん。でも、だって台本はさ、私が言い出したことなんだよ……」
まだオルディアの名前も知らなかった頃、今の基準から見ても相当アブノーマルで残酷なプレイをルカトゥと実施するために考案した物。「万が一の事故」を防ぐための物……それが台本だった。それが台本の存在意義であるはずだったのだ。
だけど見ての通り、その意義を失わせたのは私自身だった。今回ルカトゥが傷つかなかったのは全くの偶然であり、そういった運否天賦にお互いの大切な心を賭けないための台本であったはずなのに、私はそれを台無しにしてしまった。しかも殊更まずいことに、実際にそれを台無しにした瞬間には、私に全くその自覚がなかった。
ケアレスミスで台本の存在意義を台無しにしてしまっただけなら、まだ良い。だけど自覚も無しに自力でタブーを犯せてしまうような人間が、二度三度と同じ過ちを繰り返さないとどうして言い切れるだろう? 台本は今回だけ意義を失ったのではなく、永遠に意義を失ってしまったのではないか? そうであるなら、偶然のセーフだっていつまでも続くわけではないだろう。
何よりショックなのは、自分がいつの間にかそういう人間になっていたことだ。良心だなんだと善人ぶっても、気がついた時にはこれだった。それはもちろん今までだってルカトゥに数え切れないくらいひどいことをしてしまったけれど、その意図も経緯も様々で、中には今にも勝るようなどす黒い邪悪もあったかもしれないけれど……、しかし「気をつけよう」と自分で思いながら、自覚も無しにその心得を自ら蹴散らしたのは、さすがに今回が初めてのはずだ。罪悪感を抱いたことは数知れないにしても、それでも今までこんなに強烈な自己嫌悪に陥ることはなかった。
なんで、なんで、なんで……? どこで間違えた? 自分はいつの間にこんな風になってしまった……? これが私の志したような、余計な遠慮や良心を取り払った、ルカトゥと幸せに暮らすための最適な振る舞いなのか……? そんな馬鹿な。こんな……、私が思い描いていた物はこんな物ではないのに。だからこそ初めてルカトゥに暴力を振るうと決めた時には、きちんと台本を作ったんじゃないか。
……ただでさえ遅かった歩くペースが悪化して、足がどんどん重たくなって、ついには前に進まなくなってしまう。そんなことをしていたら、ルカトゥに余計な心配をかけるだけだと分かっているはずなのに。
「先生……」
「……ごめん。ちょっと、しんどい」
「疲れちゃいましたか……? …………罪悪感とかで」
「……そういうことなのかも」
大人すら寝静まる夜更けに、今は時々しか車の走らない通りに面した歩道の真ん中で、私は立ち尽くしてしまう。ルカトゥは、まるでそうすることが使命であると心得ているかのように優しげな微笑みを浮かべて、そんな私に付き合ってくれていた。
街頭の明かりの下で、彼女は車道との境のフェンスに腰かける。
「先生ぇ、少し気になるんですけど、聞いてもいいですか……?」
「うん。なに……?」
「……もし絶交っていうのが台本に書いてある台詞だったら、先生はそれを読んでも平気でしたか?」
「……平気っていうのがどの程度かにもよるけど、そりゃ台本に書いてたなら、落ち込みはしなかったと思う」
「じゃあ、「書いてあった」ってことにしませんか?」
「え……?」
「幸いデジタルですし、今からでも台本に書き込んじゃいましょうよ。絶交するぞ!って」
「……それに何の意味があるの?」
「先生は漫画家さんですよね?」
「え? ……まぁ趣味だけど」
「プロットになかった面白い展開を思いついて、それを難なく導入できるってなった時に、「でもプロットにはなかったから」って理由であえてそれをボツにしますか?」
「それはしないけどさ」
「台本もそうしましょうよ。現場で面白いことを思いついたら、それも台本に加えちゃいましょう。今回はそれがちょっと前のめりになっちゃっただけです」
「いや、ルカトゥ、台本は漫画と違って、面白くするための物ではないよ。お互いが傷つかないために書く物だから」
「そんなの、わたし嫌です」
「えっ……、い、今さら……?」
「違います、台本自体は好きです。でも面白さを求めない台本なんてつらいです。より良いことを望んじゃいけないセックスなんて悲しすぎます。この先ずっとそうなのかと思うとしんどいです……いくらわたしでも傷つきます。……それでも先生はダメって言うんですか?」
「いや、え、えぇ……? なんでそんな急に、無敵なんでしょ……? ルカトゥは。そんなことで傷つくとかなんとかって、急に、……それって今思いついたことを言ってるんでしょ?」
「さぁ、どうでしょう? ……でも先生がそこまで私の無敵さを信じてくれてるなら、台本は「お互いが傷つかないため」にあるわけじゃないですよね。無敵の私は絶対に傷つかないんですから、台本は「先生が傷つかないため」にあるはずです」
「……よく分かんないけど、そうだとしたら何なの……?」
「先生が傷つかないための台本を巡って、今こうして先生がしんどくなっていることは、おかしいと思うんです。……だから先生はわたしを喜ばせることだけ考えてくれませんか? わたしは台本を使ってするセックスも面白い方がいいし、アドリブはあった方がいいと思ってます。だから今日の先生は、そんなわたしを喜ばせてくれただけなんですよ。そしたらお互いのためを思ってアドリブを認めれば、台本の役割としてそれは正しいことじゃないですか。…………それじゃダメですか?」
「…………ルカトゥはたまにびっくりするくらい口が回るよね」
べつに彼女のことを口下手だと思ったことはないけれど。そんな感想をこぼさずにはいられなかった。
漫画の原作やゲームの脚本を考えたり、強烈な趣味の台本だって次から次へと提案してくる。そんなルカトゥの思考回路には時々、どこか自分に似た側面があることを感じる。彼女のように愛想よく献身的に振る舞うことは私には逆立ちしても出来ないけれど、なんだかつい最近、人の痛みが分からないと嘆く彼女に対して、私も同じくらい頑張って言葉と理屈をこねくり回したような記憶がある。……そう思うとどこか可笑しい反面、妙に心に染み入るものがあって、涙が出ないことが不思議なくらいの気持ちになった。
ルカトゥの理屈に耳を傾けているうちに、まるで開き直りだけれど、私の気持ちは半ば晴れてしまった。あぁそうか、また私は一人で勝手に鬱々としていたのか……と、そう思い知らされてしまったのだ。そうなるともう良くも悪くも、真剣に気に病むことはできなくなる。
そうだ、ルカトゥの言う通りだ。彼女が望むプレイをするために台本があるなら、彼女が望む通りにアドリブだって認めてしまえばいい。確かに私は自分で志した配慮すら守れなかったけれど、そもそもの話をすれば、そんな配慮自体がルカトゥに対しては間違いだったのだ。
遠慮をやめることや良心から解放されることの真の意味は、厳密には「ルカトゥを傷つけないため」じゃない。それだと一足飛びになってしまう。遠慮や良心を辞めることが目指すのは、「私が傷つかないこと」だ。私が傷つくことによって、そのこと自体がルカトゥを傷つけてしまうから、良心の克服はそれを避けるためにある話なのだ。そうだ、これはそういう理屈の話だった。だから彼女の言う通り、私が自分のアドリブで落ち込んでいては本末転倒なんだ……!
どんよりと鉛のようになっていた心が、暗雲の立ち込めていたような思考が、みるみるうちに晴れて軽くなっていく。なんて単純な性格なんだろうと自分でも思うけれど、それは大した自己嫌悪にならなかった。
ルカトゥがピョンとフェンスから降りる。私たちは再び家路を歩き出した。
「……ねぇ、じゃあもし、私が本気で絶交するって言っちゃってたら、ルカトゥはどうしてたの? それでも傷つかなかったの……?」
「その時は、嫌われないように全力で頑張るだけです。さっきだってちゃんと声を我慢できたでしょう? 大丈夫なんですよ」
「そっか。……まぁ、もし仮に一瞬本気でそんなことを言っちゃったとしても、私が今さらルカトゥから離れられるわけないんだけどね。絶交なんて何があってもしない」
「え〜、本当ですか〜?」
「ほんとだよ。だって仮に白馬の王子様が来たとしても、私はルカトゥを選ぶくらいだし」
「……それ本気ですか?」
今度はルカトゥが足を止めた。
いつも柔和だった彼女の表情に、寝静まった夜の街と一体化していくようなシンとした緊張が張る。……それはまるで、初めて踏む地雷のように見える物だった。
「えっ?」
「先生は、もし理想的な男性が現れたら、そっちを選ぶんじゃないですか……?」
「そんなことないけど……。なんで?」
「だって先生は異性が好きでしょう?」
「……あー」
ルカトゥが歩き始めたから、私もそれに続く。彼女のピンと伸びた背筋がなぜだかよく目を引いた。
私のパーソナリティについてストーカー並に詳しいのに、ルカトゥはその辺りの話については知らないのだな……と意外に思う。けれど言われてみれば確かに、恋愛観について語った覚えは遥か過去まで遡ってみても全然無い。
……するとそれを語ろうとして初めて、私は自分の失言を悟った。ほんの数秒前の軽口ですら、覆水盆に返らずなのだと知る。そうだったとしても、仕方がないので語るべきことを語るしかないのだけれど。
我ながら痛々しい内容だから、私はまだその話を誰にもどこにも言葉にしたことがない。今が初めてになる。けれどそれはずっと思っていたことだった。
「……理想の男性って言うけど、私、それが何なのか分からないんだよね。恋愛的に人を好きになったことがないから」
「高校時代の彼氏さんは、向こうから告白してきたんでしたっけ?」
「そうそう。だから受けてみたの、百聞は一見にしかずだと思って。エッチにも興味あったし」
「でもそのエッチが上手くいかなかった……。……別れた原因ってそれだったんですか?」
「どうなんだろう……。それもあった、って感じじゃない? なんかべつに、お互い未練とか全然ない感じだったし。……だから、もし彼がもっとこうだったら続いたのに〜とか、次はこういう人とだったら付き合いたい〜とか、そういうのも無いんだよね。なんかもう付き合うとかそういうのは、タスクでチェック済みになったっていうかさ」
「なるほど。……先生は、恋愛自体にあんまり興味がない?」
「……って言ったら怒る?」
「なんでですか、怒りませんよ」
「じゃあ悲しい……?」
「なんでそうなるんですか……?」
「……ううん、なんでもない」
白馬の王子様よりルカトゥを選ぶ……という発言の「選ぶ」という表現はまずかった、と私は今反省している。それではまるで恋愛的な意味のように聞こえてしまうから。……その気もないのに。
私としては今改めて、ルカトゥに対して恋愛感情もない自分が、魔法によって得た性欲だけで……そう性欲だけで! 彼女の体を求めてしまっているのだという事実を再認識している。そして、これは元々そういう話だとお互い分かった上で始めたことのはずなのに、今さらになって心が痛み始める。
誠実ぶって壁を隔てたような友情に徹されるより、今のような関係性がいい。以前そのようなことを言ったのはルカトゥで、それを言ったことに悔いはなさそうなのもルカトゥだけど、……でもそれはどこまで行っても消去法の話でしかないのだ。
彼女は仕方がないから譲歩して、妥協して私にそういうことを言ったのであって、ルカトゥから見れば私のことだって「理想の相手」とは程遠くなってしまっているはず。「ルカトゥに恋愛感情を抱く私」がもし居るなら、彼女はそちらを選ぶだろう。私はただルカトゥに妥協を強いているだけなのだ……。
……が、そんなことを考えていたって仕方がないということを私はついさっき悟ったばかりだ。散々性欲のはけ口にされたあとで恋愛感情はないと言われても、怒りも悲しみもせずにキョトンとしているルカトゥの横で、私一人が勝手に申し訳なさそうにしていたって仕方がない。努めて意識を切り替えなければ。
「とにかく、そういう感じだから。白馬の王子様っていうのは物の例えで、理想も何もない私にとっては、そういう存在はそもそもどこにも居ないんだよ。だから誰かに取られたりとか、そういうのもないから。安心してくれていいよ」
「そういうものですか……?」
「うん、そういうもの」
「……じゃあ先生は、性別の違うわたしがもう一人現れても、わたしのことを選んでくれますか?」
「えっ? どういうこと?」
「異性愛者の先生は、できれば女のルカトゥより、男のルカトゥの方がよかったんじゃないですか……? もしわたしが男だったら、恋愛感情がなくても、流れに身を任せるだけでも、とりあえず付き合ってくれてたりしたんじゃないですか……?」
「いや、それはない」
ルカトゥの立場からすればあまりにも妥当な発想で、なのに今日までそれを聞かなかったということはこのまま一生聞かないのではと思っていた言葉、「わたしが男だったら……」。
ルカトゥにとってその「もしも」は何よりつらい考えだったのかもしれない。私の知らないうちに今日までひどく思い詰めていたのかもしれない。……だけど申し訳ないことに、それについての答えはとっくの昔に私の中では決まっていた。
「だって私、ルカトゥが男だったら一番最初の時にまず会ってないもん。DMもらっても絶対会ったりなんてしなかった」
「あ……。そっか、たしかに」
「それに仮に会ってたとしても、さすがに一人暮らしの家に軽々しく上げたりしないって。同棲なんてもっと無理。さすがに怖い」
「あぁ、それはそうですよね、言われてみれば確かにそう……。……じゃあ女同士でよかった、のかな?」
「うん。ルカトゥが女の子でよかった、本当に」
「……あ、でもそしたら、やっぱりレズ女と一緒にいるなんて相当なストレスなんじゃ……」
「いや別に? 最初から「レズなんです!」って来られてたら怖かっただろうけど、実際は、それはもう散々信頼を築かれた挙句に、隠したがってるところをこっちから暴いちゃったからね……。私がストレスを受ける理由なんて、一つもないよ」
「本当ですか……?」
「本当だよ」
「……えへへ♡ ならよかったです」
「ルカトゥがよかったなら、私もよかった」
「ふふっ」
心なしかルカトゥの足取りが軽くなる。
せっかく機嫌良さげな彼女を見ていると、これ以上余計なことは言わなくてもいいのでは……という気になってくるけれど、彼女が妥当すぎる思考をついに口にした物だから、私の方もいよいよ同じようなことを聞きたくなってしまった。
そして私はその答えが、たとえどちらに転ぼうと構わないと思っていた。
「ねぇ、私も気になったんだけどさ」
「はい」
「ルカトゥは、私が男の方がよかった? ……だからオルディアを見つけてきたの?」
「……それは難しい質問ですね」
「いいよべつに、男の方がよかったていうならそれでも。現にこれだけ男性のシンボルを借りて楽しんじゃってるわけだし」
「う〜ん……。どっちが好きかって意味なら、正直、あまり頓着しません。女の子の先生は可愛いですけど、仮に先生が男の子だったとしても、それは大して変わらない気がするので」
「なるほど……?」
「でも、どっちが安心できるかって意味なら……、たしかに正直、男性でいてくれた方が安心できたと思います」
「それはどうして?」
「男性なら、わたしがその人の望みにきちんと答えられていれば、二人の関係性に後々何かあったとしても、まぁセフレくらいにはしてもらえるじゃないですか」
「……え、それはむしろ危惧すべきことなのでは」
「危惧?」
「だって女同士だったら、その万が一が……まぁ無いんだけど、でも仮にその万が一の何かがあったとしたら、セフレじゃなくて「普通の友達」になるわけでしょ? そっちの方がいいじゃん」
「……そうでしょうか。親友から戻った「普通の友達」なんて、セフレ以下じゃないですか?」
「……そうなの?」
それがサキュバス特有の考え方なのか、それともルカトゥ特有の考え方なのか、私には分からなかった。
だけど、ルカトゥからその見解を聞いた瞬間に、私はふと想像させられた。なんとなく口にした「普通の友達」という言葉が指す物は、もしかしてずっと前の、まだルカトゥが何を考えているのかなんてこれっぽっちも分かっていなかった頃の私たちの関係性なのだろうか……と。
セフレというのが実際のところどういう物なのかなんてことは、私はよく知らない。ここ最近の性欲をルカトゥにぶつけ続けている生活がそれに該当してしまうのかどうかも分からない。でもだからこそ、ルカトゥがもし「普通の友達」の価値を低く見積もっているなら、その気持ちも少しは分かるような気がした。仮にそれが私たちの今と昔を比べることなら、確かに今の方がいい。
……そんなことをあれこれ話し考えている間に、自分たちの住むマンションまで帰ってきた。たった三階とはいえエレベーターを使って上がる。
すると降りた廊下の先で、最悪なことに自宅玄関のすぐ傍にある照明に結構大きめの羽虫が寄ってきていた。バサバサと不規則にもがくように飛んでいる気色の悪いそいつは、もはやいつこちらに飛びかかってきてもおかしくないように見える。
普段は良心だなんだと考えておきながら、こういう時にルカトゥを盾にすることについては一切の迷いも罪悪感もなかった。だって彼女は虫が平気なのだ。頼って何が悪い。
「虫がいない場所で暮らしたいよ〜」
「あはは、タワマンとかに住まないとですねぇ」
軽口で気を紛らわしながら、私たちは速やかに玄関へ入りドアを閉める。幸いにも羽虫が襲いかかってくるようなことはなかった。
靴を脱ぎながら、あくびが出た。
「あーあ、お風呂めんどくさいなぁ」
「明日の朝にしますか〜?」
「いや、入るけどさ。待ってたら寝ちゃいそうだから、先でいい?」
「どうぞどうぞ〜」
私はそのまま脱衣場へ直行した。
そしてそこで何の気なしに、いつかルカトゥが言っていたことを思い出す。いやに印象に残っている豆知識のことを。
照明に集まる羽虫は、それを月だと勘違いしているらしい。羽虫たちは元々月の光を頼りに方向感覚を機能させているらしいのだけど、人間が後から月よりも強烈な光を作ってしまったものだから、その光に感覚を狂わされてしまって前後不覚となり、吸い寄せられては離れられなくなってしまうのだとか。……たしか、そんな感じの話だった。
せめて見た目が可愛ければよかったのに。いかに原理を聞いたところで、結局感想はそれに尽きる。
ある日、私は一人ぼっちで唐突にオナ禁を実行した。実験もいよいよネタ切れだったのだ。
セックスはすっかり身に染み付いてしまったから、今では繰り返す性欲の再燃に何の特別感もない。非日常が戻ってくるというほどの感覚もなく、ただいつも起こることが今日も起こったという程度の話に感じる。……ただそれがルカトゥのいない中一人で漫画を描いていた時に起こったとなると少しだけ厄介だ。
性欲を催した時にそう都合よくルカトゥが暇にしているわけではないという当たり前は最初の頃から何も変わっていない。だからそういう時にオナニーをすることで、この普遍的ながら執筆も手につかなくなるような衝動を中和する試みは今までに何度も行ってきた。そしてその際に視聴する物はルカトゥの出演作だとすっかり決まっている。
さすがに彼女とのセックスに慣れてしまってからは、映像の中の彼女をそういった目で見ることにも抵抗感がなくなってきた。……が、その上でなお、その視聴に関して自分には相当の偏食があるということも分かってきている。どの作品でも良いというわけではないどころか、むしろ特定の作品でしか上手に気持ちよくなることが出来ない……ということが段々と分かってきてしまった。
元々がお気に入り作品のコレクションである都合上、私にとって好ましい作品は消去法によって決まるのだけれど、その篩の目には主に三層ある。一つは、劇中のルカトゥが私に一切関連しない役柄であること。もう一つは、男性側が気持ちよさそうであること。そして最後の一つは、ルカトゥがひどい目に遭っていないこと。
一つ目で言うところの「関連」とは、たとえばルカトゥがかつての私が通った道である「女子高生」だったり、現在の私がほぼほぼそうであるような「引きこもり」だったり、「絵描きのオタク」だったり、その他諸々私に当てはまる特徴を持った役柄についていると、気が散ってしまうという意味になる。
初めてルカトゥの作品を見て射精してしまった時、画面の中の彼女は女子高生の役をしていたけれど、結局のところ今ではその作品でも気持ちが引っかかってしまうようになった。オカズに使うことの罪悪感を忘れてその作品を見てみると、どうにも高校時代の自分と彼氏のあれこれを思い出してしまって、その余計なリフレインによって、ルカトゥとエッチをする時のような満たされた気持ちには程遠くなってしまう。
他の同条件の作品でも同じことで、とにかく私という人間は、自慰の最中に「もしこの役柄が自分だったら」と想像させられると気が沈んでしまうらしい。昔はエロ漫画でヒロインに自己投影していたこともあったくらいなのに不思議だけれど、要するに私は心のどこかで、ルカトゥの性の才能に……あるいはそれ以外の全てにも嫉妬しているのだと思う。
二つ目の条件は簡単で、自分がエッチについて男性的な立場に立ってしまった以上、そうでなければつまらないと感じてしまうのである。これについては需要の問題なのか、AVという物はそもそもその点をクリアできるように作られていることが多いようだと最近になって気がついてきた。だから要するに大抵の場合では問題ない。
……そして、それら二つの要項からは少し毛色が変わって、三つ目の条件については、新たに芽生えた罪悪感がネックになっている。私が興味本位の延長、感心、あるいは資料収集的な心づもりで揃えた「ルカトゥがひどい目に遭う作品」は、それはもう内容に容赦がなさすぎるから、今の私には見ることがつらく感じてしまう物だった。
例を挙げると、たとえば腹パンをテーマにした作品では、ルカトゥはゴツゴツとして大きい男の拳によって、ヘソの周りに青黒いアザが出来るほどの本気で何度も何度も殴られている。立ったまま殴られれば反動で後ずさる体、内臓から強制的に絞り出されたような悲鳴や、嘔吐、意識の混濁、羽交い締めにされて無理やり引き起こされる彼女の姿……そういった物が映っている。
私はここ最近で過激なプレイに手を出しすぎて、今やその手の映像を見ると、まるで自分がルカトゥを傷つけているような気持ちになってしまう。自分が実際にしていることといえば「殴るフリ」だけれど、そのプレイの「本来」とは映像にあるこの通りの物で、自分は本質的にはそういうことをしているんだぞ……と見せつけられているような感じがして、興奮どころではなくなってしまう。
それに、映像内で青アザを乱暴に撫でられて「痛いの気持ちいい?」と聞かれたルカトゥが、怯えた目と脂汗に塗れて引き攣った笑顔から、震える声で「き、気持ちいいです……」と答えている様なんかを見た日には、私には、どちらが演技なのか分からなくなってしまうのだ。目にハートマークを浮かべたような振る舞いで「痛いの気持ちいい♡」と言ってのけるようなプライベートの彼女の方が、本当は演技をしているのではないか……と、どうしても考えてしまうのだ。
そういう訳があって、そういった内容の作品を性的興奮の対象として見ることが私には出来ない。……けれどコレクションの中には、その手の内容の物がまぁ多かった。かつての自分が彼女の仕事ぶりの主にどこを評価していたのかが如実に現れてしまっているように思う。
……それで、そのような篩の目をかいくぐった選り好まれし作品たちもあるにはあるのだけれど、どうしてもその数は限られてしまい、限られた数の物を見ていると、どうしても飽きが来てしまう。そうするといつの間にか私は、ルカトゥの「私でも心置きなく興奮できる内容の新作」を待ち望むようになっていた。
けれど今日になってようやく、私はそれをなんだかおかしな考えだと思うようになった。何がおかしいのかといえば、自分はべつにオナニーがしたいわけではないのだということ。私はルカトゥがいないから仕方なくオナニーで性欲を鎮めようとしているのに、そのためのオカズを「待ち望む」というのは、なんだか本末転倒でおかしい。私が本当に待ち望んでいるのは、ルカトゥの帰宅のはずなのでは?
そう気づいたことがきっかけで、私はオナ禁を思いついたのだった。それは「あえてオナニーをしないこと」に男女の感覚で差はあるのかという実験……と呼べないこともないけれど、真に重要なのは、ルカトゥの帰りを待ち望むなら、そのまま本当にただ待っていればいいのではないか……という試みの方にある。
要するに平たく言うと、空腹をスパイスとする要領で、性的な我慢がセックスからまだ見ぬ快感を引き出してくれるのでは? と私は考えた。……性欲に苛まれ、半ば正常な判断からは離れつつあった脳みそで、全くもってそんなことを思いついてしまったのである。
けれどそうは言っても、ムラムラしてくると落ち着いて漫画も描いていられなくなることに変わりはない。自分の絵ですらオカズに見えてくるのだ……。ムラムラとイライラがかなり近しい感情であることを学びながら、私はとにかく「ルカトゥ」から離れなければならないと直感するようになる。映像にしろ自作の絵にしろ、ありとあらゆる定義の「ルカトゥ」から離れないことには、この性欲はどうしようもない。
もうそれだけ私の中で、彼女の存在は性と結びついてしまっていた。象徴と化していた。それを悪いことだとはもはや思わない。だってルカトゥはそれを喜ぶだろう。今日彼女が帰ってきた時、仮に玄関でそのまま押し倒したとしても、彼女は喜ぶはずだ。だから私はこの性欲を、認識を、もう気に病んだりはしない。……だけどそれはそれとして、今はルカトゥから離れなければ……。飽きてきたAVをそれでも眺めながらオナニーせずにはいられないだなんて、良心等々は関係なくただ知性ある人間として、そんな自分をそう易々とは認められないから。
動画サイトで適当なエンタメ動画を探して見よう。そう思い立った私はおすすめ欄を漁り、何の気なしにゲーム実況を見始めた。……けれどふと、そこで喋っているのはルカトゥがよく見ていたVtuberのうちの一人だと気がつく。
あの子はこういう女子が性的に好みなタイプなんだろうか……自分とは似ても似つかないタイプだな……、なんて思考が頭をよぎった。するとそれは要するにルカトゥの連想であり、欲求不満状態の自分を穏やかではない気持ちにさせるのは、そんな連想だけでも十分なものだった。
見る動画を変える。地域猫と交流するほのぼのした動画を見た。いつかルカトゥがペットを飼いたいと言い出したらどうしよう、いや、ここがマンションだから、すでに思ってはいるけど口に出してないだけなのかな……? ……と、また気が散った。
音楽を聴くと、いつかルカトゥとのカラオケにリベンジしたいと思った。豆知識解説系の動画を見ると、これは普通に話が頭に入ってこなくて、解説中の適当な単語をきっかけに、気づいた時にはまた良からぬ妄想というか記憶の振り返りが頭の中に浮かんでいた。……そのあたりでいい加減にナンセンスを感じてページを閉じた。
動画じゃダメだ。ゲームでもしよう。……とその後もあれこれ気を紛らわせる方法を片っ端から試したのだけど、なんとそこから性欲と完全に無縁になれるほど没頭できる物を私はついに発見できなかった。
何をしていても、頭の中には「ルカトゥが帰ってきた後のこと」の想像が幅を利かせてしまう。以前はさすがにここまでひどくなかったはずだ、漫画だって一応は描けていたのだし……。そう振り返ったことで、自分の性欲が今も悪化の一途を辿っていることを自覚する。
……しかもそうやってもがいている間に、私の中には新たな感情が芽生えた。いつの間にか湧き出ては固着していたそれというのは、「ここまで我慢したのに自分の手で射精してしまったら面白くない、もったいない……」という思いだった。
たかだか手に出来ることでは、粘膜がもたらす快感の足元にも及ばない。そんな物で、せっかくここまで耐えて溜め込んだ欲望を業務的に吐き出してしまったら、それは「最初からそうしていればよかった」という失敗を認めるだけのことになってしまう。だから意地でもルカトゥとのエッチでこの欲求を発散してやる……。いつしかそう考えるようになった。
そして、夏の空の果てへ沈む速度が日に日に遅くなっている太陽が橙色に変わった時、いよいよ彼女はこの家へ帰ってきた。
「ただいまです〜」
「ルカトゥ!」
私は玄関へ駆けて行く。ルカトゥはすぐに私の内心を見抜くだろう。熱心に迎えに出てくれるのはそういう時だけなの? と今度こそ思われるかもしれない。確かにそう考えはしたけれど、今はそんなことどうでもよかった。
私の顔を見たルカトゥがノータイムで全てを理解した笑みを浮かべる。淫らな娼婦と恋する乙女が入り混じったようなその不思議な表情に、人ならざるものを感じた。……あぁそれとも私が知らないだけで、好意の対象から向けられる性欲に対しては、多くの人間がそのような顔をするものなのだろうか?
何にせよ、もう元々なかったような迷いは、そんなルカトゥの表情を見た瞬間に根まで余さず吹き飛んだ。私は両手を彼女の肩に置く、……全体重をかけるようにして。
「ごめんルカトゥ、口でして。今ここで」
「いいですよ〜?♡ もう〜、そんなに我慢してたんですか〜?♡」
「いいから早く、しゃがんで口開けて! 早くして……!」
「は〜い♡ ……んぐっ♡ んっ……じゅる……♡ んぇ……ぐっ……♡」
急かして膝まづかせたルカトゥの口に挿入した瞬間、私は彼女の頭を押さえつけて待ちわびた思いの丈を根元までねじ込んだ。そしてそのぬめついた温もりの中で、あぁそうだそうだ、自分はこれが欲しかったんだ……と恍惚じみた快感を堪能する。
念願の成就をひとしきり噛みしめたあとは、本能が赴くままに腰を振って快楽を貪った。セックスをする時と全く同じように思い切り引いて限界まで突き込むことを繰り返した。ルカトゥの浮ついたような呻き声と唾液の撹拌される音がひっきりなしに響いたけどあまり気にならなくて、それどころかむしろ、そういう音は興奮をさらに高めるスパイスにすらなった。
次第に快感は腰を砕きかねないほどの濃さとなって、私の喉からは自然と愉悦の声が引き出される。目は開いていてもどこを見るでもなく、ただ絶え間ない気持ちよさの中で無我夢中になって、自分だけの世界で天国を感じていた。
「あぁ〜……♡ あ〜気持ちいい……。きもちいい〜……♡ …………うっ、あっ、くぅっ……♡」
「んぐぅっ♡ ……んっ♡ ごくっ♡ んっぐ……んっ♡」
気がつくと私は、彼女の鼻が潰れるくらい思い切り腰を押しつけて、頭の中を真っ白にしたまま射精していた。
最後の一滴まで全て出し終えて、手をはなした時になってようやく自分の全力ぶりに気が回る。腕に痺れるような感覚を覚えて、まるで殺意でもあったかのようにルカトゥの頭を渾身の力で押さえつけていたことを自覚した。次いで、自分が彼女に息継ぎの暇も与えなかったことや、そんなことを考えすらしなかったこと、行為中に彼女がどんな反応をしているのかを確認しようともしなかったこと……を思い出す。
顔を赤くして恍惚の笑みを浮かべたルカトゥがこちらを見上げた。……彼女のあごは溢れだした唾液にべとべと塗れていて、真下の床にはそこから垂れ落ちた分が小さな水溜まりを作っている。それはまるで、彼女の受けた苦悶のほどを表した透明の吐瀉物のように見えた。
「ごちそうさまでしたぁ……♡ とっても濃くておいしかったです……♡」
口を開けて見せたルカトゥが、吐き出された欲望を全て飲み込んだことを証明する。彼女は舌をかき回すように動かして、その余裕ぶりまでをも私に見せつけた。
私の手は反射的に彼女の頭へ伸びる。いつも通り頭を撫でて、いつも通り感謝の言葉を口にしようとする。ほとんどルーティーンで自動的に、体が慣れた流れをなぞろうとする。
相手が無敵のサキュバスじゃなかったら、今頃は窒息させて殺していたかもしれないと思いながら……。
「ありがとう。お疲れ様」
「えへへ♡ いえいえ〜♡」
「……ごめんね」
謝罪の言葉も、ほとんど反射で出た物だった。
仕事から帰ってきた彼女を労いもせず、一息つく暇も与えずに性処理の道具のように扱って、相手の心なんか無いも同然のようにひとりよがりで乱暴な扱いをしておいて、今さら「ありがとう」だとか「お疲れ様」だとか、あまりにも白々しすぎる。しかもそのひどい扱いが、我慢の限界を迎えた私からの懇願によって行われた事だったならまだしも、実際にはもっと高圧的な態度によるものでしかなかった。あんな頼み方はもはや「お願い」ですらなかった。
自分で勝手に自慰を禁じて、勝手に追い込まれたり執着したりして、その結果、ルカトゥに今までの比ではないような乱暴をしてしまった……。いくら台本無しでやろうとは言っても、これは度が過ぎることなんじゃないか……? 溜まった欲求を好きなように発散してようやく、私の頭はそういうことを考えられるようになってきた。
だけど、にこにこと屈託ない笑顔を浮かべるルカトゥを見ていると、なんだか何もかもよく分からなくなってくる。自分がいま何をしたのかも、彼女がいま何を考えているのかも。
「謝らなくていいんですよ〜? 今日の先生はげしくて、とっても嬉しいです♡ それにわたしこのシチュエーションが憧れでした♡ ふふ……♡」
「……つらくない?」
「もちろん。つらくなる要素が一個もないですよぉ」
「そっか……。ならよかった」
「はいっ♡ ……それでせんせぇ、続きはベッドでしますか〜?♡」
「うん、……お願いできる?」
まともな思考を呼び戻せる程度には搾り取られたペニスが、しかしまだしぶとく半勃ち程度の状態を維持して脈打っている。ルカトゥに求められなければ自然に収まることを待っていただろうけど、実際は彼女の体に溜まった欲望を底まで吐き出すことになった。
セックスの最中、いつものようにルカトゥから首絞めを求められる。しかも、今日の彼女はいつもよりもう一歩踏み込んできた。
「せんせぇ……♡ 一瞬だけでいいから、本気で絞めてくれませんか……?♡ ほんの一瞬だけでいいですからぁ……♡」
……それを聞いて、私は責任を感じる。もしその懇願が昨日までの物であったら、ドが付くマゾのルカトゥが物足りなさやマンネリを感じて言い出したことなのだろうと、純粋にそう捉えて、素直に躊躇することも出来たのだろうけど……。
実際にはその懇願は、狙ったかのように今日初めて起こったことだったから、もしかしてさっきのイラマチオに無慈悲さを感じたルカトゥが、同じ物をいま再び求めているのかもしれない……と、そう考えてしまう。単なる味を占めたリピーターなのか、それとも今まで遠慮していた彼女が「なんだ、出来るじゃん」と判断して言い出したことなのか、細かい真意までは私には分からない。けれど、私があんな乱暴をしなければ、きっとこの懇願を今日耳にすることはなかったのだろう……ということは確信出来てしまう。
だから私には責任があって、それを断るなんてことは出来なかった。罪悪感を理由に断っては白々しすぎるから、それならせめて彼女の欲求に応えたいと思った。
「いいよ? 一瞬だけね」
「わっ、はい♡ やったぁ♡」
「……いくよ」
無邪気に喜ぶルカトゥの首筋に手を添えて、ほんの一瞬……殺す気で絞める。一瞬であれば絶対に死なないと本能的にも確信できるから、それくらいならなんとか出来た。
かはっ……と目を見開き舌を突き出した彼女が、だけど解放された次の瞬間にはこう言う。
「すごいっ……♡ せんせぇ……もう一回……♡」
「……ん、いくよ?」
私はその日、一瞬の本気でもって何度でも彼女の首を絞めた。繰り返しているうちに、余裕げな相手の息継ぎの時間に気を遣うことすら段々白々しく思えてきて、次第にペースを上げながら、断続的に彼女へ嘘っぱちの殺意を向けた。
首を絞めるたび、彼女の中もそれに応えてギュッと締まる。声もなく窒息するルカトゥと、それによって暗黙のコミュニケーションが行えているような気がして……思い違いならとんでもなくサイコな話だと思った。
……程なくして射精感が上り詰めてくる。二連続となると時間がかかることもあったのに、いつにも増した汗をかくほどの全力で何度もルカトゥの首を絞めてみせた今日はそうでもなかった。この後に及んで射精の瞬間に首を絞めなかったのではプレイとして手落ちのような気がして、私は、一瞬というには長すぎる吐精の時間が過ぎる間ずっと、彼女の気道を絞めて塞いだ。
いくらセックスに慣れても、射精の際には力まずにはいられない。だから最後の一滴をしぼり尽くすまでの間ずっと、本当にずっと、ルカトゥの首を力いっぱい絞め続けた。……そうしていると、押し寄せる快感に流されるみたいにまぶたが落ちてきて、私はそのまま一人きりの暗闇の中で長い長い一瞬を噛みしめた。
……その時ルカトゥが初めて、私の腕をタップした。
「あっ、ごめん……っ」
我に返り慌てて手をはなす。
目を開くとそこには、溶けるような幸福感を顔に浮かべたルカトゥがいた。
「えへへ……♡ せんせぇ♡ 好きぃ……♡」
両手を広げたルカトゥに身を任せるがままに抱きしめられる。火照った体はお互い様だろうに暖かくて、その熱が、彼女が何も特別な存在なんかではないことを、ただ一つの命であることを証明しているかのようだった。人並みの温もりは、人並みの心から発されているような気がしたのである。いっそその体が氷のように冷たければ、私だって怪物を相手にしているのだと認識したのだろうけど。
彼女の腕の中で寸前の出来事を振り返ってみれば、さっき彼女が初めて行ったタップには、必死さの欠片もなかったように思えた。たしなめるように穏やかに、細い手が私を呼んだだけだったように思える。決して窒息の苦しみにもがくような素振りではなかった、そう思える。……つまりそれも単にプレイを彩る演技の一つだったのではないだろうか?
そこまで落ち着いてからようやく、私はため息を一つ吐いて、ルカトゥに聞くことができた。
「苦しかった……?」
「ううん、気持ちよかったです……♡」
「……じゃあなんでタップしたの?」
「それは、……もしかしたら今の先生なら、無視するかもって思って。試したくなって……♡」
「無視してほしかった?」
「いいえ〜。優しい先生も激しい先生も、どっちも大好きですよ♡」
「そっかぁ。……お疲れ様、ありがとね。気持ちよかった」
「こちらこそ〜♡ 先生とのエッチは、「最高」がどんどん更新されていきます♡」
「それはよかった。……私も、いろんなことしたなぁ」
「えへへ♡ ……んっ♡」
いつものように頭を撫でて、キスをしながら唾液を飲ませる。ルカトゥを労いたい気持ち、喜ばせたい気持ちは確かにあるけれど、同時にこれが自分を安心させる方法であることもいい加減に自覚していた。時間を巻き戻すような感覚で、どんなにひどい暴力の後でも、こうすることで元通りの仲良しに戻れる気がしてしまう。
……だけどそうであるからこそ、一度望まれるがままに実行したプレイが封印されることはなかった。「もう二度としたくない」というような禍根が残らないからこそ、行為はエスカレートの一途を辿っていく。
私がルカトゥの控えめなタップを無視するようになるまで、そう時間はかからなかった。
子どもの頃は、子どもとしての自分が永遠に続くように思っていたけれど、そんな自分がいつの間にか大人と呼ばれるような年齢になっていた。
同じように、いつまでもいるような雰囲気だけは出ている両親だって、いずれは死んでしまうのだろうし、私自身だって、今は実感がなくてもそのうちには死ぬのだろう。……無限ではない物が無限のように見えてしまうことは、人間なら日常茶飯事なことなのだ。
オルディアの魔法を受けてからどれくらいの時が経ったのかを数えることにとっくに飽きた頃、私はいつの間にか、ルカトゥに対して試したいことのストックを失っていた。山のようにあると思われた実験の数々はあっさりとネタ切れを起こし、ただしぶとい性欲と後付けの肉棒だけが私に残ったのだ。
この無限と見紛う性欲も、やはりいつかは尽きる物なのだろうか? ……尽きるにしてもどうにもそれは、私自身の寿命に限りなく近い未来にまで生き残っているような気がしてならない。それだけの「根付き」を感じる。
「ルカトゥ、いい……?」
「は〜い♡ 待ってました♡」
日に数回、……数日に一回ではなく日に数回、私はルカトゥの体を求める。こちらからは新しいプレイを提案することがなくなった分、空いた枠を埋めるみたいに、ルカトゥがいろいろと望みを申し出るようになった。
彼女が望むのは、主に暴力のアップデート、またはインフレだった。私がそれに応えることで、「暴力を振るうフリ」は日に日に過去の物になっていく。
本気で首を絞める秒数が増えていき、穏やかなタップは時々無視するようになった。必死さを伴い始めた抵抗を受けてようやく手を緩めると、過呼吸じみて危なっかしく酸素を取り込みながらも、ルカトゥは私の手をチョキチョキと指で挟む。そして苦しそうな息の中ですら、満足げな笑みを浮かべてみせるのだ。
腹パンも殴るフリではなくなった。ルカトゥが「もう少しだけ強く」「もう少しだけ強く」と望むうちに、いつの間にか殴った箇所には青アザが浮くようになっていた。
初めてそのアザを見た時、私たちは一つだけ新しい約束をした。
「ルカトゥ、殴られる時腹筋に力入れてる……?」
「ん……入れてない♡」
「だよね。なんで……?」
「その方が、うっ……って息できなくなって、内臓が揺れてる感じがして、興奮するし気持ちいいから……♡」
「そっか。……でもごめん、それはやめてくれない?」
「えっ」
「なんかやっぱり、その、内臓に届いてる感じ? みたいなのが、どうしても怖いっていうか……。腹筋に力入れてくれたら、もうちょっとちゃんと出来そうなんだけど……」
「……ん〜、分かりましたぁ。そういうことなら、ちゃんとするって約束します」
「ん、ありがとう」
そして私はその先ずっと、彼女の内臓ではなく腹筋を殴り続けた。どちらにしたって暴力なのだからアザは出来たけれど、それはいつもクッションが元の形に戻るみたいな自然さと速度で、白くて健康的な肌色に戻っていった。
窒息して声も出せずに目の焦点が定まらなくなっていくような首絞めと、短い悲鳴を上げながらもお腹に力をこめて無抵抗を貫く腹パンが、そうして徐々にセックスの標準と化していった。胸を揉む時だって握りつぶすつもりで揉んで、そのまま乱暴に引っ張ったりするようになった。……これといったきっかけもなくムラムラしてはルカトゥの体を求める時、そこに暴力が伴わないということはついに無くなったのだ。
いや、それともそれはとっくの昔からそうなっていたことだったろうか? もはや覚えてもいない。セックス中に初めて彼女に暴力を振るったのはいつだったか……。
交換条件のルールは、私のアイデアが枯渇したことによって形骸化した。けれども私はその上で時々ルカトゥに聞く。毎回ではないけれど気分が乗った時に……あるいは気を紛らわせたい時に、「他にしたいことある?」と彼女に聞く。それは私にとって、ルカトゥの頭を撫でたり、キスをしながら唾を飲ませたりすることと同じ意味合いを持っていた。
するとある日、これだけ爛れた性の深みに浸かっていながら今さらモジモジし始めた彼女が、こんなことを申し出てきた。
「あの、じゃあ、エッチのこと以外でもいいですか〜……?」
「エッチ以外? いいけど」
「あ、いや、エッチ以外っていうか、これをエッチと呼んでしまったら失礼になってしまうかもっていうか〜……」
「なに……? はっきり言えなさそうな話……?」
「い、言えますっ。…………あの、わたし、先生と一緒に、お風呂に入ってみたいです」
「お風呂? いいよ? ……逆になんで今さらそんなことでモジモジしてるのさ」
「だ、だって一回旅行の時に、一緒に入っちゃったじゃないですかぁ」
「なおさら今さらじゃん」
「……エッチな流れでこんなお願いをしたら、その時のことまで穢れちゃいませんか……?」
「……ははぁなるほど」
つまりルカトゥは、あの魔界旅行の大浴場にいた頃から内心は性的な気持ちに満ちていて、けれどもそれを巧みに隠していたからこそ、そのネタバラシをすることを躊躇っていた……ということのようだった。
台本なんかいらないと言った彼女が、そのような「区切り」の分別を口にすることが意外だった。……そしてそれと同時に、こんな時でもなければ聞けないような疑問がこちらの脳裏にも浮かび上がる。
「逆に聞きたいんだけど」
「はい」
「ルカトゥには、私のことをエッチな目で見てない時ってあるの……?」
「え……? それは、もちろん……エッチなことをする時とか、裸を見ちゃう時とか、そういう時以外はべつに……」
「でも、たとえば歳頃の……すごく仲のいい男女がさ、突然一つ屋根の下に二人きりで暮らす展開になる漫画があったりしたら、そしたら、その二人の普通の会話までなんだかエッチな感じに見えてきちゃったりとか、そういうことってない?」
「……ありますね」
「ルカトゥは、私のことをそういう風に見てるのかと思ってた。隠してくれてるけど、内心はそうなのかなって」
「…………それはつまり、隠しきれてなかったってことですか……?」
「いや全然。漫画脳の私が勝手にそういう風に想像してただけ」
「……でもやっぱり、分別つかないのは嫌ですよね?」
「べつに? ……こう例えてしまうと悪いけど、衛生的な話と同じなんだよね」
「衛生……?」
「汚いって実感がなければ、実際のところがどうでも気にならないみたいに。性欲を向けられてる実感がなければ、ルカトゥの内心は気にならないんだ。……ごめんね」
「先生……。謝らないでくださいよぉ、わたし、先生のそういうところに助けられてます」
「そう……? じゃあ私も、ルカトゥのそういうところに助けられてる」
「どんなところ……?」
「無敵なところ」
「……えへへぇ♡」
「いつもありがとうね。……それで今日は一緒にお風呂入る? 今日だけじゃなくてもいいけど」
「あ、えっと……。先生が嫌じゃなければ、お願いしたいです」
「私は嫌なことはできないよ」
諸々の言葉が真実だと分かったことが嬉しかったのか、ルカトゥは幸福感がにじみ出たような笑みを浮かべていた。
その日の夜、私たちは言った通り一緒にお風呂に入った。脱衣場が狭いことから、先に入った私が湯船の中でルカトゥを待つ形になった。……今まで何度もセックスしてきたのに、モザイク状の人影と衣擦れの音が扉の向こうにあると、なんだか妙に緊張してしまうものだった。
その緊張は向こうも同じだったようで、ルカトゥは旅行の時と違ってオドオドした様子で、タオルで体を隠しながら狭い浴室に入ってきた。彼女がベッドの上で体を隠したことなんて一度もなかったのに。
「お、お邪魔しま〜す……」
「……狭いね」
「ですねぇ」
浴槽を除けば一畳ほどしかない風呂に大人二人が入ればそうもなる。私たちがこれまで一度も風呂を共にしようとしなかった理由には、単純にそういった物もあるのだ。
けれどもまぁ、物理的にどうにもならないというほどでもない。私は促されるままに椅子に座って、いかにもお世話したげな風だったルカトゥにそのまま身を任せる。大浴場のような人目をはばかる場所では隠していたものの、つまりルカトゥは背中を流すだとか全身を流すだとか……私に対してそういうことをしたかったのだろう。
……風呂場に鏡はなくても、そこで起こる問題は相手がサキュバスであれば同じことだった。
「ルカトゥ、…………勃ってきちゃった」
「あらあら〜♡」
泡に塗れた手で、彼女は下半身のモノに触れてくる。硬さを確かめるようににぎにぎとそれを包み込んで、……それ以上はひとまず何もしなかった。
「どうしてほしいですか〜?♡」
「う……、く、口で……いい?」
「は〜い♡ でもその前にお体洗っちゃいましょうね〜」
「うぅ……」
まさか体中に泡をまぶして流すだけの時間すら待ちきれないというわけではなかったけれど、なんとなく屈辱的なものを感じる。あるいはそれは単に羞恥心だったのかもしれない。ベッドの上でならなんでもないことが、ここではなぜか恥ずかしく感じる。「ここはセックスのための場ではない」という認識が働いているせいだろうか。
泡だらけのタオルで私の体を洗う間、ルカトゥは明らかにわざと胸を押し当ててきた。しかもずっとだ。暖かくてやわらかい大きな塊が、石鹸をローション代わりに背中へこすりつけられている。……妙な羞恥心が働いているせいで、それに対して私はロクなリアクションも返せず、心地よさと悶々とした気持ちでごちゃ混ぜになりながら、ただ密かに息を荒らげていることしか出来なかった。
「は〜いお待たせしました〜♡ それじゃあ、お口で一旦すっきりしちゃいましょうね〜♡」
体を流し終えたら促されるがままに椅子を引き、空いたスペースにルカトゥがぺたんと座り込む。……そこからはいつも通りのフェラチオが、というよりはディープスロートが行われた。
奉仕を受けている最中、手持ち無沙汰なこともあってルカトゥの頭を撫でる。そうすると彼女はいつも喜んで、自慢するかのように、ペニスを根元まで飲み込んだまま激しく舌を動かしたりしてくれる。単純に気持ちがいいし、なんだかきちんとコミュニケーションが取れているような気もして、私はその流れが好きだった。
……けれども時々、そうやって彼女の頭を撫でていると、魔が差すことがある。そうした時の私は、素直にルカトゥへ聞くことにしている。
「ねぇルカトゥ」
「んぅ〜?」
「……イラマしていい?」
フェラチオ中のこの手の問いには、彼女の答えは今まで決まって一つしかなかった。……私の空いている方の手を引いて、「どうぞ」と言わんばかりに自分の頭の上に乗せるのだ。
が、今日だけはそうはならなかった。ぐぽっ……と粘つく液が込み上げるような音を立てながら口を離して、無敵に整ったままの呼吸で彼女が言う。
「先生ぇ。そういうの全部、何も言わずにやってくれてもいいんですよぉ……?」
「えっ……」
「台本はいらないって、アドリブでいいって言ったじゃないですかぁ♡」
「それは、確かに言ってたけど……」
実際これまでにも、セックス中に何も言わず突然首を絞めたりしたことはあったけれど。そういうことをしてもルカトゥは平気なのだと、確かに知ってはいるのだけれど……。
「……でもそんなことしたら、頭を撫でられた時に警戒しちゃわない? 変な意味以外で撫でられなくなったりするのは、お互い嫌かなって……」
「あ〜、なるほどぉ」
湯なのか汗なのか分からない滴に濡れた体のルカトゥが、チラりとペニスの方を見る。
「……ごめんなさい先生ぇ。正直わたし、ずっと期待してました」
「期待……?」
「なでなでしてもらえる度に、……次の瞬間には頭を押さえつけられるんじゃないかって、期待してましたぁ……♡」
「……なるほど」
まだ今は警戒されてない……と思っていたこと自体が甘かったのだと思い知らされる。しかしなるほど、そう言われてみれば確かに合点が行くことだった。
ルカトゥは不意打ちに弱い。不慮の自体には気が動転して泣いてしまうこともあるほどに弱い。その彼女がこれまでずっと余裕ぶっていられたのは、単にサキュバスだからというだけではなく、全てが彼女の予想の範疇でしかなかったからだ……。そう考えればしっくり来た。
だけどそれは、なんだかほんの少しだけ悲しいことでもあるような気がした。またしても自分は一人相撲をしていたのだということを知ってしまったから。
そしてそれを自覚したことで、私も少し気が変わった。
「じゃあルカトゥはいつも、急に、何の断りもなくひどいことをされたいって思ってたの?」
「えへ……♡ はい……♡ だってそういうのって興奮しませんか……?♡」
「……それはイラマ以外にもNG無しってことでいいんだよね?」
「はい、もちろん♡ え、なんですか〜? 何かしてくれるんですか〜?♡」
「うん。……そこ、浴槽に手ついてお尻こっち向けて。気が変わったから、イラマはもういいや」
「は〜い♡ わくわくです……♡」
狭い浴室の中で、彼女は言われた通りの姿勢になって従順に尻を突き出す。尻尾が生えていたら振っていただろうなというくらい、期待に満ちたその素振りは見るからに上機嫌だった。
私はその十分すぎるくらい濡れた割れ目にガチガチに勃ったモノを挿入して、そのまま一度も腰を引かずに頑なに奥をえぐった。……初めは気持ちよさそうに喘いでいたルカトゥも、いつまでもピストンが始まらないことに違和感を覚えてそのうちこちらを振り返る。
「せんせぇ……? ……わっ、ぶっ」
そんな彼女の頭を掴んで、黙って湯船の中に押し込んだ。
悲鳴らしい悲鳴が響く暇もなく、ルカトゥの頭は湯の中に埋もれる。髪がクラゲの足みたいに浮いて、手足が力無い感じでジタバタ暴れた。……そう、あくまでも「力無い感じ」だった。
魔力でなんでも出来てしまうサキュバスのルカトゥが、本気で抵抗して私を跳ね除けられないわけがない。こういった穏やかな抵抗は言わば「抵抗するフリ」、プレイなのだ。首絞めプレイを繰り返してきた私にはそれがよく分かる。
急すぎて水を飲んでしまったかもしれないとか、耳に水が入ってしまうかもとか、そういったことを考える必要もない。全ては「サキュバスだから大丈夫だろう」で済む。……だけどそれでも一応は、息継ぎのために彼女の顔を一度水の外まで引き上げてみる。
……ゲホゴホと肺から絞ったような深刻そうな咳をしたルカトゥが、濡れた髪を顔に張り付かせたまま必死に呼吸を繰り返す。ほんの数秒の水責めで肩を震わせながら切実に酸素を求めるほどに追い込まれた彼女には、早くも死の面影が漂っていた。
だけど私は同じ物を、彼女の出演作のうちの一つに見たことがある。余裕げな撮影後のインタビュー映像まで含めてだ。
「苦しい? やめる?」
問いかけても、息をすることに必死な彼女からの返答はない。……と思いきや、言葉がないかわりに二本の指が伸びてきて、私の腕をチョキチョキと挟んだ。
本当に変態なんだな……と改めて思う。硬くなったままの物を挿れこんだままでは、私も人のことを言えないのだろうけど。
まだ息の整いきらないルカトゥの頭を、また容赦なく湯船に突き込む。私のひ弱な腕でも押さえ込める程度の抵抗しかしない彼女から呼吸の権利を奪ったまま、喘ぐかわりに締め付けてくる肉壁の中で腰を振る。……ばしゃばしゃと水面を叩く音が、肉の打ちつけられる音をかき消した。
時々ルカトゥに息継ぎをさせながら、「やめたくなったら言ってね」なんて声をかけつつ、乱れた呼吸が整う前に意地悪く水没させる。……そういうことを繰り返して、最後は彼女の顔を湯船に沈めたまま射精した。
余韻もそこそこにペニスを引き抜き、押さえつけていた頭から手を離すと、ルカトゥが勢いよく水中から逃げ出す。背中を丸めて何度も咳を繰り返しながら、弱々しく浴室のタイルの上に四つん這いになったかと思えば、そのままうずくまる。
「げほっごほっ! ひゅっ……ひゅー……、ぜぇ……はぁ…………ごほっごほっ……!」
「……る、ルカトゥ?」
その姿を見ると、さすがにやりすぎてしまったのかと不安になった。……それは何か生々しい物を踏み潰した感触がしたあとに、ゆっくりと足元に視線を落とす時のような不安感だった。
けれど声をかけられた彼女は、さっぱりとした素振りで顔に張り付いた髪をかき上げる。そして疲れながらも満ち足りたような表情をまざまざと見せつけて、
「お掃除しますねぇ……♡」
と、半勃ちになったモノに這い寄ってきた。
さっきまで必死に酸素を求めていた彼女が、今はむしろリラックスした様子でペニスに吸い付いている。すするような音を立てて、そこに付着したどちらの物とも知れない体液を余すことなく飲み込もうとしている。……言葉もサインも必要なく、明らかに彼女はもう「大丈夫」だった。いや、それどころかむしろ、まだまだそこには余裕が……あるいは期待が、有り余っているようにすら見える。
だから私は、何の断りもなく彼女の頭に手を添えて、半勃ちのモノを思い切りその喉に突き込んだ。
「んぐぇっ♡」
抗議のニュアンスなんかは全く感じられない、明らかな興奮と喜びを秘めた瞳がこちらを見上げてくる。……今日は昼間だってしたのに、数秒前までどっちつかずの状態になっていた性欲の象徴は、そんな彼女の舌の上で徐々に力を取り戻していった。
元々そういう創作をしていた経験もあるからか、私にはすでにこういう時のルカトゥの喜ばせ方……もとい台詞が分かってしまう。
「勃ってきちゃったから、このままルカトゥの喉使うね? いい?」
「んぐっ♡ んっ、んぅ♡」
「ハハ、なに言ってるか分かんないけど、まぁいっか」
相手のことを軽んじるような台詞をわざと口にして、頭を押さえつけたまま遠慮なく腰を振る。どうせ遠慮をしてみたところでルカトゥの方からセルフで激しく奉仕してくれることを知っているから、他の暴力と同じように「ルカトゥが平気ならいいか」と割り切ることが出来た。
けれど日に三度目となると、さすがに射精までに時間がかかってしまう。普通のフェラですら十分も続けているとつらくなるんだよな……と昔を思い出しながらルカトゥのことを見下ろすと、彼女は楽しそうに目を細めて、ペニスの根元でめちゃくちゃに舌を動かして見せた。
すごいね。そう称賛の意味をこめてポンポンと頭を撫でる。本来ならそんなことしていないで一秒でも早く終わらせてあげることが救いになるのだろうけど、ルカトゥにそういう人間的な感覚は通用しない。彼女には彼女専用の喜ばせ方がある。
どれくらいの時間が経ったのか時計がないから分からないけれど、体感では相当ぐだついてしまったあと、私はようやく今日最後の精を彼女の喉に射ちつけた。
頭から手をはなしても、ルカトゥはすぐには奉仕をやめず、そのまま尿道に残った分の精液まで吸い取ろうとする。そしてその後ようやく口をはなすと高揚した様子で、
「たくさん精液ありがとうございましたぁ……♡ もうすっごく幸せですぅ♡♡♡」
と微笑みかけてくれる。……それだけを切り取って見れば、まるで愛をささやき合いながらお互いを気遣うセックスを堪能した後みたいだった。
それからというもの、私たちがほとんど毎日入浴を共にして、そのたびに体を求め合ったことは言うまでもない。
「ねぇ先生ぇ、あれやってくださいよ〜。タオルを顔にかけて、その上に水を浴びせるやつ〜」
「いやガチの拷問じゃん。やだよ」
「えぇ〜、タオル無しならしてくれたのにぃ」
「あれはまだお遊びって雰囲気がするでしょ」
「むぅ、じゃあ次はお風呂で何してくれるんですか〜?」
「何も決めてないよ。最初の時だって、べつに意気込んでたわけじゃなかったんだから」
「え〜、なるほどぉ」
一緒にお風呂に入るようになってから数日、元々フルスロットルなのかと思っていたルカトゥの性癖は、未だに加速を続けていた。文字通り湯水の如く使えてしまう湯船だとかシャワーといった物たちが、事を「暴力」から「拷問」に引き上げてしまったのだ。
邪魔な椅子を脱衣場に放り出して、固いタイルの上に寝かせたルカトゥを犯したことがあった。その際、いつものように首を絞めようとした拍子にふと思いついて、シャワーで彼女の顔に水を浴びせ続けてみると、必死にそこから逃げ出そうともがいていたルカトゥが事後にこう言った。
「先生は優しいですよねぇ。ちゃんとお湯を出してくれるんですもん」
……翌日に冷水で同じプレイを行ったことは想像に難くないだろう。
そういった風にずっと、ルカトゥを痛めつける方法は多岐に渡り続けていた。彼女の口から「そろそろしんどくなってきた」とか、「たまには普通のエッチがしたい」を聞く日は一度もなかった。一応こちらからそういった旨の心配を問いかけた際には、
「先生は疲れちゃいました……? わたしは普通のエッチも大歓迎ですよ〜?♡」
と答えが返ってくる始末だった。
……最悪なのは、私がその「普通のエッチ」に応じられなかったことだ。
性欲とセックスが当たり前になって、暴力に付き纏う罪悪感すらほとんど克服して、私はようやくその応じられなさに気がつくことが出来た。……今の自分はルカトゥを性の対象として見ているし、同時に彼女を大切な存在だとも思っているけれど、それらは決して恋愛感情ではないのだということを、今さら改めて自覚したのである。
恋愛感情を向けられない相手との「普通のセックス」……いわゆる「イチャラブ」のやり方が、私には分からない。だからルカトゥの歓迎には応じられず、私は相変わらず望まれるがまま、彼女に暴力を振るい続けながら自分の性欲を解消している。
元々分からなかった恋愛感情という物はなおさら分からなくなった。拷問じみたプレイだってルカトゥが喜ぶからしていることなのに、相手の喜ぶことをしたいと思う心が恋愛とは別だというなら、じゃあ恋愛とはいったい何なのだろう? どうして私はルカトゥに「好き」とは言えても「愛してる」とは言えないのだろう? キスをする時いつもいつも、彼女が喜んでくれることへの安堵と、舌を介して伝わる性的な快楽だけを感じて、それ以外には何も感じないのだろう? こんな冷めた感情が恋愛だとでもいうのだろうか……? 性に爛れながらも続く友情は分かっても、私には恋愛が分からない。見当もつかない。
それである時、私は、分かっているらしい本人に聞いてみることにした。いわゆるピロートークの形を取ると、そういった繊細な話題でもすこぶる投げかけやすいものだった。
「ねぇルカトゥ、私のこと好き?」
「好きです。……どうしたんですか〜急に」
「その好きは、友達としての好きとは違うの?」
「そう思ってますよぉ……?。 ……あ、もしかして哲学的な話ですか? そしたらわたし、あんまり深くは考えてないかもです」
「ルカトゥがなんで私のことを友達とかセフレじゃなくて、もっと特別に思ってくれてるのか、気になっちゃって」
「え〜、なんでって言われても〜。ずっと先生のことを追っているうちに、いつの間にかそうなってたんですよぉ。わたしがこの子を……じゃない、この人を幸せにしたいなぁって。……あまり聞こえのいい言い方じゃないかもしれないです、すみません」
「……なるほど。つまりルカトゥは私に幸せになってほしいっていうより、自分の手で私を幸せにしたいと思ってるの?」
「……はい。あの、でも、もちろんどうやって幸せになるのかを選ぶのは先生自身ですから、今は聞かれたから答えましたけど、気を悪くされたりしたら……」
「いや、悪くされるわけないでしょーに。……あぁ、でもそうなんだ、ちょっと分かったかもしれない」
「分かった……?」
「……わたしは、自分の手でルカトゥを幸せにさせるような気概は、持てないなぁって」
「あぁ、いいんですよぉそんなの〜。先生が幸せでいてくれたら、わたしも幸せになりますから。光と影みたいなものです。そんなに気負わないでください」
「……うん。でも、ごめんね」
「謝らなくていいのに〜。先生は、ずっとわたしと一緒にいてくれてるじゃないですか。おかげですごく幸せにしてもらってますよ〜?」
「……まぁそれならよかった、かな?」
「ふふ、そうです。よかったんです」
一緒にいてくれるだけでいいだなんて、ルカトゥが私にしてくれている数々の献身を思うと、そういう問題ではない気がしたけれど……。その辺りはうやむやにして会話を終えた。
そのうち、私がルカトゥに希望のプレイを尋ねる頻度が増えて、それはほとんど毎晩の定期的な物になった。そして私の見かけ倒しな好奇心と違って、それだけの頻度で聞いてもルカトゥからの希望が途絶えることはなかった。
目覚ましフェラをしてみたい。髪を引っ張られてみたい。次は玄関で本番をしてほしい。体のどこかを噛まれたい。仰向けでイラマをしてほしい。鞭を受けたい。AV鑑賞中に自分をオナホ扱いしてほしい。エトセトラ、エトセトラ……。
それら希望されたプレイには時々シチュエーションプレイの要素も付随したのだけれど、彼女がついに例のダンボール箱の底に眠っている物を使いたがった時のことは、その中でも一際印象に残っている。
「先生ぇ、もし無理でなければ……その……、次はこれを使ってもらえたらなって……」
ルカトゥの小さな両手からおずおずと差し出された物は、タバコの箱だった。
……私はその日、火傷なんか秒で治ってしまう相手にその火を押し当てることは、首を絞めたり腹を殴ったりすることよりも、やってみればむしろ簡単なのだということを知った。なにせその火を押しつけることには、手応えがなかったから。
ルカトゥいわくそれは単純な暴力と違って、お仕置きとして使うからこそ興奮する物らしい。……その論には正直、エロ漫画家としては共感できるところがあった。
「おえ゙ぇ゙……! うぉえ゙……げぇっ……ぇ゙お゙っ……! かはっ……げほっげほっ……」
ベッドに腰かけてルカトゥからいつも通り口での奉仕を受けていると、何度目かの深いストロークで彼女は突然激しくえずき初めた。そのうち堪えきれずに含んでいたモノを吐き出して、亀頭と唇の間に唾液のアーチをかける。……うつむいて咳き込む彼女は痛々しく自分の喉を押さえていた。
正確な台本は作っていないけれど、ある程度のことは相談して決めてある。だから私は苦しそうにするルカトゥを見下ろして、その意図に沿う台詞を今適当に考えて言った。
「なに勝手に吐き出してるの?」
「うっ……はぁ……はぁ……。ご、ごめんなさい……」
「おしおきね」
「……はい」
すかすかと軽い箱からタバコを一本取り出して、それをルカトゥに差し出す。ルカトゥは足元に置いてあったライターを持ってそこに火をつける。……彼女の足元には水の張ったバケツもあった。去年の夏、手持ち花火で遊んだ時に使った物だ。
歯車のようなヤスリが回って、しゅぼっと音を立てながら小さな火の柱が立つ。……情けないことに、事前に確認してみたところ、私にはその仕組みのライターを自力では点火できないことが判明していた。どうにも親指の力が足りないらしくて、その結果こうしてルカトゥがライターを握ることになったのだ。
タバコを火にかざして先端を燃やす。細く煙が上り、ふわりと舞うそれは天井付近で照明の光の中に消えていく。コトリとフローリングの床にライターを置いたルカトゥは、今度は両の手のひらを私に差し出した。
手は甲よりも平の方に多く神経が通っていて、痛覚についてもその法則に従っているらしいことを思い出しながら、私はわざわざ平の方を広げられたその「灰皿」でタバコの火を揉み消す。
「ぃ……っ゙……!」
「……ほら、続きして」
「は、はい……」
ルカトゥは火傷の痕が手の平から瞬く間に消えていくことをしっかりと見せつけたあと、私の手からタバコをかっさらい、バケツの水の中に放り捨てた。それからまたディープスロートによる奉仕を再開する。
……当然、あとは同じことの繰り返しだった。
「お゙っ……ごっ……え゙っ……、うお゙ぇっ……。げほっ……ごほっ……」
「はぁ……。またなの? ほら、火」
「は、はい……。…………あ゙っ……ぎ……っ!」
「次吐き出したら顔に当てるからね」
「ひっ、は、はいっ」
「続けて」
「はいっ……」
怯えた様子のルカトゥがしばらく淡々とした奉仕を繰り返すけれど、数分もしないうちにまた激しくむせてペニスを吐き出してしまう。げほごほっ……と深刻そうに咳き込んだ彼女が口元を唾液でべたべたにしたままこちらを見上げた時、その目には明らかに恐怖の色が浮かんでいた。
もし出会ってばかりの頃に同じプレイを注文していたら、彼女は心の底から同じ目をしたのだろうか? ふとそんな想像をしてしまう。あり得ない想定だけれども。
「学習しないね」
「ご、ごめんなさっ……」
謝りながら咥えなおそうとするルカトゥの耳を引っ張る。それもわざと本気の握力で。
「ぎゃっ! いっ、痛いっ!」
「なにしてんの。火」
「……は、はいっ。…………うぅ」
自らの肌を焼くための火を灯すルカトゥの手は、ガタガタと震えていた。点火されたタバコを持った私はしゃがみこみ、空いている方の手で彼女の前髪をかき上げる。……出来るだけ何も考えないようにしながら、その綺麗な額を灰皿にする。
この時のルカトゥは悲鳴を上げなかった。そのかわり、両の拳を握って全身を震わせ、息を呑んだまま大粒の涙をこぼしている。……必死に耐えているのだ。もとい、そういう風に見せているのだ。
先の潰れたタバコをバケツの中に捨てて、私はまたベッドに腰かけ直す。……陰茎は一切の同情なくいきり勃ったままだった。苦しむルカトゥの喉から防衛本能によって分泌されたドロドロの唾液にコーティングされて、それは部屋の明かりの下でギラギラと輝き続けている。
今やルカトゥの恐怖の視線は、私の目ではなくそちらの方に向けられていた。
「……どうしたの? 続けて」
「…………はい」
次に彼女がそれを吐き出してしまうまでには一分もかからなかった。単なる酸欠や嘔吐反射だけではなく恐怖と動揺もあってのことだろう。その時のルカトゥの呼吸は、詰まりかけの笛の音のような異様な物になっていた。
だけど、本気でつらければ「カット」を言えばいい。息ができなかったり喉が潰れて声が出せないなら、足をタップしてくれればその代わりとすることだって事前に伝えてある。……だから、だからルカトゥはこう見えて今もなお、内心では恍惚に笑っているのだ。
「ほら、火」
「…………は、はい」
震える手で灯された火がタバコの先に移る。……すると、手と同じように怯えて震えた声でルカトゥが突然言った。
「あ、あのっ、もう、もう許してください……」
「……なにって?」
「先生が満足するまで、ちゃんと喉で奉仕します、約束します。下手くそでごめんなさい、学習しなくてごめんなさい、役立ずでごめんなさい……。でも、必ず何時間でも、満足してもらえるまで絶対にしますから、もう、もうお仕置きだけは、許してください……」
「…………舌出して」
「へ……?」
「べーって、舌出して」
「え……、あ、あの……」
「もっとひどいことされたい?」
「あっ、い、いやっ、ごめんなさいっ。……んべぇ」
「動かないでね。舌引っ込めたりしたら、許さないから」
「ひっ……」
本気で嫌なら、点火する前に言えばいいのに。わざわざ火をつけてから言うということは、それは「もっとひどいことをしてほしい」というサインに違いなかった。シチュエーションの雰囲気を崩さないようにしながらそういった要望をアドリブで出してくることがルカトゥは上手い。そしてその上手さを目撃する機会にはここしばらくの間でまったく事欠かなかった。だから私は慣れたのだ。
脅されたルカトゥが大きく口を開けて、言われるがままに舌を伸ばしている。彼女の懇願がもし本心からの物であれば、そこにちんぽを突きこんでやった方がまだいくらか温情的なのだろうけど……。本当の彼女が求めているのはそんな生半可なことではない。
その涙に潤んだ瞳が、迫り来るタバコの姿を捉えた時、ルカトゥは声にならない悲鳴を上げて、小刻みに首を横に振った。……合理的に考えればそれは喜びの裏返しだった。
…………けれど、狙いを定めるために彼女の発色のいい舌を見つめていると、寸前で気が変わってしまう。
私は火のついたままのタバコを慎重にバケツの水の中へ落とす。ジュッ……と花火の時と同じ音がした。
「あれっ……?」
「ごめんルカトゥ。……カット」
「あら、残念〜……。どこがダメでしたか〜……?」
「……粘膜はさすがにちょっとなぁって」
「え〜」
「ごめん」
「ふふっ、謝ることないですよ〜? すでに大満足ですもん♡ ありがとうでした〜先生ぇ♡」
「ん、よかった」
「えへへ〜。それじゃあ次は、わたしが先生のこと満足させますね……?♡」
「うん、お願い」
その後ルカトゥが行った口淫は、柔らかい喉の奥を自ら抉って削るようなハードな……そしていつも通りの物だった。演技をやめた彼女は涼しい顔でそれをこなして見せる。私はそんな彼女の頭を撫でて、時々いたずらにいじめてみた。そうしているうちに射精感は自然と湧いてくるものだった。
タバコの箱の中身は今日でちょうど空になって、落ち着いた後ゴミ箱に捨てられた。
いよいよルカトゥの要望すらネタ切れになってきた頃には、どうしても暑い日には冷房を使わざるを得ないようになっていた。特にセックスをするにはそれが必須な日が多く、暑さの中でも性欲が減退することはなかった。
毎日でも一日中でも冷房くらいかければいい我慢する必要なんてないとルカトゥは言う。が、べつに罪悪感とかそういう物とは関係なしに、それには素直には従いかねた。節約だとか以前に、なんというか染み付いた家庭の風習として、出来るだけ冷房には頼らずに今年初のセミの鳴き声を待ちたいと思うのである。庶民の安寧には庶民らしい行動が必要だということなのかもしれない。
……けれどその一方で、庶民らしくもなく、私の中にあったはずの「罪悪感」は、もうそのほとんどが消えてなくなっていた。ルカトゥに振るう暴力を時々自身に向けてみて戒めることもしなくなった。結局のところ私には自分を全力で殴る覚悟なんかなくて、なのにルカトゥ相手にはそれが出来てしまうことをプレイの中で認めざるを得なかったからだ。……つまり罪悪感を克服するために必要だったのは覚悟ではなく、惰性と諦めだったということになる。
漫画は描き続けていた。コマの中でルカトゥを模したキャラクター「アオイ」は言う、「わたしには人の痛みが分からない……」。彼女がそう語ったのは、そもそも彼女が自分自身の痛みをよく分かっていないからだろう。それの意味するところを私はここしばらくの間に見続けてきた。
ルカトゥは、痛みを感じないのではないのだろうけど、きっと心身共にその感じ方が違うのだ。でなければあんなむごいプレイの数々を、自ら望み続けられたとはとても思えない。少なくとも私が逆の立場になるのは御免だ。……その「御免だ」という気持ちこそが、きっとルカトゥには理解できない物なのだろうけど。
漫画を描いている最中にムラついた時は、迷わずルカトゥに言い寄る。私の性欲はいつでも二つ返事で受け入れてもらえた。手を繋いだまま腰を振る日もあれば、その手で彼女を痛めつける日もある。首に手を添えたり、胸を軽く揉んだり、腹に拳をすりつけたりすると、ルカトゥはいつも期待の目で私を見るのだ。……それを可愛いと感じてしまうのは、おかしなことだろうか?
暑くなるとお茶を飲む量が増えて、トイレに行くことも増えた気がする。そのたびに期待の視線を送ってくるルカトゥのことを可愛いと感じてしまうのは、おかしなことなのだろうか? 私だって異常なことをしている自覚まで失ったわけではないけれど、それはただ自覚という意識がポツンと心の宙空に存在しているだけで、それ以上には何の意味も発揮しないことだった。
……そんな風に性と倫理の乱れが煮詰まった、ある日の夜のことだった。私は食後にルカトゥを犯していた。ベッドに押し倒した彼女の中に欲望の丈を出し入れしながら、これからすることの申し開きをするみたいにキスをして、胃のあたりを拳でぐりぐりと押し潰す。不規則なリズムでそうしているといくらサキュバスでも隙が出来るようで、あんなに約束したのに、時々腹筋の力が抜けて内臓に拳がめり込むことがあった。
夕食を食べたばかりのルカトゥがさすがに……もとい例のごとく演技によって、食道を逆流してくる物があるかのように咄嗟に口元に手を添える。それを見て私はまた、彼女の喜びそうな台詞を思いついた。
「おぇっ……うっ……」
「ルカトゥ? 絶対吐かないでね、汚いから」
「は、はいっ……。……うっ、おっぐ……」
苦しむ彼女に言いつけながら、私はしつこく胃を責める。……その状況だけ見ると残酷にも思えるだろうけど、これまでの経緯を振り返れば、今私たちのしていることは明確に茶番だった。性的興奮のための茶番だ。
言いつけるまでもなく、ルカトゥはこれまでに一度も吐いたことがない。どんなシチュエーションでどんなことをされてもである。なんならあまりにもハードなプレイをする際に直接聞いたくらいだ、そんなことをして吐いてしまいそうにはならないのかと。答えは即答だった。「万が一にでも吐く心配があったら、先生にこんなプレイ提案しませんよ」。
嘔吐は、私の苦手な「実感のある汚さ」だ。ルカトゥはそれが分かっているから、どんなプレイをしていてもまず吐かない。その実績がある。だから今さら少し胃を圧迫するくらい、おままごとみたいな物だった。
……ずっとルカトゥの腹を見ていると、下腹部の淫紋が目につく。子宮の上に浮かび上がっているのだろうそれは、暴力的な観点でもって見てみると、さながらちょうど良い的のようだった。
不意打ちでその的の中心を殴ると、いつにも増して激しい悲鳴が上がった。
「ぎゃああっ!! いっ……いっ!?」
「大袈裟だなぁ。殴られるの好きでしょ?」
適当にそれっぽいことを言いながらもう一度拳を振り上げる。エネルギーを溜めるみたいに高く高く、ギロチンのように暴力を掲げる。
……すると、今日までずっとノーガードを貫いていたルカトゥが初めて、必死の形相をしながら自分の淫紋を両手で覆い隠した。
今まで一度もそんなことはしてこなかったのに、今日になって突然、彼女は月並みに身を守ったのだ。
「まっ、ま、待ってください先生ぇ」
「ん?」
「あの、今日はお腹……子宮はダメですっ、やめてください」
「え、なんで」
「あ、えっと、その、……サキュバスにとっての生理? みたいな物があって、今日がそれなんですけど、その時に子宮を殴られるのだけはダメなんです。しゃ、洒落にならないくらい痛くて、怪我も治せなくなるんです」
「あぁ、生理か。……生理ね」
そういえばそんな物もあったっけ、なんて他人事みたいな気分になってしまう。オルディアの魔法を受けて以降、自分にはまだ一度も生理が来たことがない……というか、たぶん魔法を解除しない限り一生来ないのだと思う。何せちんぽと引き換えに女性器が丸ごと失われているのだから、生理なんて、来るにも来れないに決まっている。
私の体はセックスに向いてない一方で、生理の負荷については生来非常に軽度な物だった。世の同性たちが定期的に悶え苦しむ様を見ていると、なんだか裏切っているみたいで後ろめたくなってくる程度にはそうだった。
一方でセックス=食事であるサキュバスに生理なんて不便な物はないから、そんな存在と二人きりで、しかも体をほとんど男性にされた状態で暮らしていると、もはや生理という概念のことを半ば忘れかけてきてしまう。私は今ルカトゥの口からその単語を聞いて、物凄く久しぶりに生理という概念のことを思い出した気がした。
……そして「久しぶりにルカトゥがプレイを仕掛けてきたのだ」と、彼女の意図を察した。
「いや、生理なわけないでしょ。今普通にセックスしてるんだよ?」
言いながら、硬いペニスで奥を突く。子宮を安静にしておかなければならないらしいルカトゥは、しかし「んっ♡」と明らかな嬌声を上げた。
「ち、ちがっ……♡ あの、だから、殴るとか、そういうのだけがダメなんです……! セックスは大丈夫なんです、サキュバスですからっ」
「そんなことある?」
「あるんです」
「今日の昼間にセックスした時も同じようにパンチした気がするんだけど、その時は何も言ってなかったよね」
「そ、それは、…………いま! 今、始まっちゃったんです、生理的なやつが!」
「生理的なやつが、今ねぇ……。……じゃあなんで先に言ってくれなかったの? 腹パンなんていつものことなんだから、先に言っておかないとやばいかもって思うでしょ普通」
「それは、その、……わたしも気づいてなかったんです。今殴られて、すごく痛くて、それで分かったんです」
「ふーん……?」
「そ、それに! 先生、今日はご飯のあと急に……ちょっと強引に迫ってきたから、なんかその、ムード的に……? 言い出せなかったっていうか……」
「……殴られてから生理に気づいたんじゃなかった? ムード的に言い出せなかったっていうのは……?」
「あっ……。……あ、えっと、違うくて、だからその、なんか、それっぽいなーみたいな雰囲気はしてたけど確信はなくて、それを確信した!って意味での、気づいたってことだったんです」
「……ふーん?」
「……せ、先生? だからその、今日はそこにパンチするのはやめてください。……ね? もうちょっと上の方なら大丈夫ですから、吐きませんし、べつに顔とかでも、いくらでもなんでもしていいですから。……ねっ? 他のことならなんでもしますから、今日はそれだけはやめてくださいね……? ……せんせぇ?」
愛くるしい瞳が、こちらを見つめてくる。
私はそこに、疑いの眼差しを向ける。全ての理屈がガタついているというか、いかにも即興で考えたような話だし、もしも今本当に洒落にならないことが起こっているのだとすれば、いくらルカトゥが無敵でももっとしっかり深刻そうに振る舞うだろう。……なのに、今必死にまくし立てている彼女には、ハメ撮りを渋った時の振る舞いとは似ても似つかぬ間抜けさがある。真剣な時の彼女と比べると、今の彼女には明らかに温度差がある。
これではまるで、いつもの「いじめてほしいサイン」と見分けがつかないじゃないか。……そう感じたことが、つまりは答えその物なのだと私は思った。
「ルカトゥ、それは本当に本当の話?」
「そ、そうですよ……? なんで疑うんですか……? ひ、ひどいですよ」
ルカトゥは目を逸らしながら、珍しく私を責めるようなことを言った。
「じゃあ私の目を見て答えて。…………今の話、誓って本当に本当なんだね?」
「……え、えっと、……………………あぅ」
返事と呼べるほどの返事はなく、また彼女は頑なに私の目を見なかった。気まずそうにそっぽを向き続けた。
……決まりだ。ルカトゥの意図は完璧に読み取れた。つまり彼女は「そういうフリ」をしたいから、それこそムードのために、質問に正直に答えるわけにはいかなかったのだろう。だけど本気で嘘をつくこともできないから、こんな反応をするのだ。
それに、万が一本気でつらいなら、いつかの時のように私のことを突き飛ばせばいい。人間より遥かに強いサキュバスであるルカトゥにはそれが容易に出来るはずだ。なのにそれをしないということは、その意図は自明だろう。
……だから私はルカトゥの耳元で、彼女が望んでいる通りのことをささやいた。
「じゃあ、〜〜……って言ったら、今日のところは許してあげる」
「えっ……」
台詞の内容を聞いて、ルカトゥは耳を疑うような顔をした。さっきまでの愛くるしい瞳は困惑に揺れて、半分ほど怯えや恐怖の色がにじみ始める。言葉以前のところから彼女はつくづく演技の上手いサキュバスだった。
あの、先生、今は本当にそういう感じではないんです……だとかは、やはり彼女は一言たりとも言わなかった。おどおどした様子にはなっても、抗議するような雰囲気はおくびにも出さなかった。
そのかわりに彼女は、タバコの火に怯えていた時とそっくりな声で言う。
「……ほ、本当ですよね? ちゃんと言えたら、子宮パンチは無しですよね……?」
「うん」
「絶対ですよね……? 本当の本当ですよね……?」
「……うん。どうして疑うの? ひどいなぁ」
「あ、いや、そうですよね……。…………分かりました、言います」
覚悟を決めたらしく、ルカトゥは深呼吸を一つ済ませる。
べつにそうしろと命じたわけでもないのに、彼女の両手は降参するみたいに耳の横まで上げられて、その表情にはらしくもなく不器用な作り笑いが浮かべられた。
……それかもう一度だけ深く呼吸をしてから、彼女は私の目を見て、言う。
「……し、締まりの悪いダメまんこでごめんなさい。先生が満足できるように、わたしのお腹を、子宮を、…………あっ、赤ちゃんが産めなくなるくらい、ボコボコにぶん殴って、気持ちよく射精してください……」
「……よく出来ました」
しっかりと台詞を聞き届けてから、私は、高々と拳を掲げた。
その時のルカトゥの表情は筆舌に尽くし難い。それを見て私は、絶望とは、きっとそういう物のことを言うのだと思った。一縷の望みが、あるいは積み上げてきた信頼が、永遠かと思われた友情が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていくような……。ルカトゥはそんな顔をしていた。
さすがに私も一瞬、それを見て本能的に思いとどまってしまう。考えるよりも先に、ピタリと体の動きが止まる。
……けれど、高いところから落とす練習ばかりしていた拳の引っ込め方は、土壇場になると分からなくなった。振り上げた腕はやけに重く感じて、絶望の表情を浮かべるルカトゥに気まずさのようなものをおぼえて目をそらすと、視界には見慣れた的のような物が映った。
……私の暴力はいつだって惰性だった。
「ぎゃああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
今までに聞いたことがないような悲鳴が上がった。……けれども矛盾して、そこにはデジャヴ感もあった。
殺虫剤をかけられた虫みたいにルカトゥが手足をめちゃくちゃにばたつかせる。ギョッとして思わず彼女の顔を見ると、……泣きながら媚びたような笑みを浮かべるサキュバスがそこにいた。それで私は思い出す。同じ悲鳴を、彼女の出演作の中に聞いたことがあったのだと。詳しい内容までは思い出せないけれど、デジャブはそこから来ているのだと。
様子の違う悲鳴を聞いた一瞬だけ、何かとんでもないことをしてしまったのかと思って肝を冷やしたけれど、どうやらその心配はないらしい。考えてみればさっきの悲鳴も、近所迷惑になったり誤解を受けて通報されたりといったリスクに気を遣って、声量をいくらか抑え気味にしてくれていたように思う。つまりはそれだけの余裕があったということだ。
そうと分かれば、私のするべきことは決まっている。私には、当たり前のように手酷く約束を破って彼女を殴りつけたことの責任として、このプレイを白けさせないようにする義務があるのだ。
だから、青黒いアザがその淫紋を濁して見せるまで、私は何度でも力いっぱい拳を振り下ろした。ヘソより下を殴っているのに腹筋の中心のような硬さを感じて、ルカトゥは過剰なまでに約束を守ってくれているんだということが分かった。
拳が一発命中するごとに、狂ったような悲鳴が上がる。
「ぎゃああっ!! うぎゃああっ!! ひいっ……! いっ……いだいっ、痛いいだっ……いだいぃぃ……!! やめでっ……やめっ……ぎい゙っ!? な、なんで……せんせっ……なんっ……ひぎゃあ゙っ!! ぎゃあっ!! ぎゃあああぁぁぁぁぁ!!」
……ひときわ大きな悲鳴にピリオドのようなニュアンスを感じた。そろそろいいだろう思ったところで殴るのをやめると、さっきまで悲鳴を上げていた口からは過呼吸のような音が聞こえてきていた。
……私はどこか上の空で、自分のつけた青アザだけを見下ろしていた。
呼吸が少しでも落ち着くと、ルカトゥは途端に号泣し始める。これまで尊厳を踏みにじるようなプレイの数々を散々彩ってきたようなすすり泣きとは違って、今日のルカトゥはわんわんと声を上げて泣いた。痛い……痛いよ……ひどい……と、私のメンタルが慣れてきているのをいいことに、針のような台詞を口にしながら涙を流してしゃくり上げる。
……私はずっと、痛々しい青黒い色に沈んだ淫紋を見ていた。どうしてか、ルカトゥの顔を見るのに勇気がいる。真っ赤に腫らした目でにやけ面を浮かべる彼女がそこにいればいいのだけれど、もしまだ迫真の演技で苦痛のリアクションを続けられていたりしたら、それを見るとさすがに致命的に良心が痛みそうな気がした。どうしてだろう? これまで散々、彼女の泣き顔を見ながらひどいプレイに手を染めてきたのに、どうして今さら……? …………何が違う?
分からない。喉元まで違和感の正体が出かかっているのに、あともう少しというところで見えてこない。けれども今までとは何かが違う気がする。昨日までの、タップされても首絞めを止めずに、苦痛に歪むルカトゥの顔を見下ろしながら腰を振っていたような時とは、何かが違うのだ。
……一秒一秒がずっと長く感じた。ルカトゥの泣き声が鼓膜に響く中で、息を一つ吸って吐くだけの時間がものすごく長く感じた。違和感のモヤに包まれてロクな思考も出来ずにいながら、私はなんだかその時、走馬灯のような感覚を覚えていた。モヤのかかった真っ暗な走馬灯を見ているような感覚を……。
……そしてある時、突然にそのモヤが晴れた。私は違和感の正体に……何が今までと違っているのかに気がついた。
…………ずっと見ているのに、いつまで経っても青アザが引いていかないのだ。ルカトゥの体につけた傷や痕は、いつもすぐに視線に洗い流されるようにして消えていたのに。それはいつもすぐに起こっていたことなのに。タバコの火を押しつけた時なんかは、バケツの中に落とされた火が水に濡れるよりも早く、もう彼女の体から火傷跡は消えて、白くて綺麗な元通りの肌が戻ってきていたのに。
私は、日頃のルカトゥがなぜすぐに傷跡を消してくれていたのか、その理由に察しがついている。それは彼女の「大丈夫アピール」なのだ。ウインクするみたいに、指でサインを送るみたいに、笑うみたいに、喘ぐみたいに、彼女はすぐに傷跡を消してくれる。こう見えて全然大丈夫なんですよという風に。
なのに、今日はいつまで経っても、殴られた箇所のアザが消えていかなかった。
……ゾッとした。頭の中に、ルカトゥの言葉の数々が雪崩のように戻ってくる。まるで全てを今思いついて出まかせで言っているかのようだった、あの言葉の数々が戻ってくる……。
……ルカトゥが言っていたことは、全て本当だったんじゃないか?
その発想に至った瞬間、考えるよりも先に彼女の顔に目を向けていた。それは、涙の溢れて止まらない瞳を両手で覆い隠した彼女が、怨嗟のこもった声で静かに叫ぶのと同時だった。
「ひどい……ひどすぎる……。先生ぇ……いくらなんでもこんなのって……」
そう言って、彼女はまた嘆くように泣きだす。
……シンと静まり返った部屋の中に、葬儀場のような空気が流れた。そして私はまるで、殺人者としてその場に居合わせていた。
その殺人者がいたたまれなくって、考える間もなく叫ぶ。
「か……カット、カット……!」
「……え?」
その瞬間、ルカトゥの両目が私を見据えた。
真っ赤に腫れた目が、正気を疑うような素振りでこちらを見てくる。……それで私は今さら、自分が今なにを言ったのかということを理解した。
想像を絶する痛みと裏切りを受けたことでついに心が折れてしまった友人に、……私のせいでそうなってしまったルカトゥに、いま自分はなんと言ったのか……?
「不愉快だから、その嘘泣きを今すぐ止めろ」
……私は今、カットという言葉を利用して、そう言ったのだ。
その非道さに気がついた瞬間から、自分のしたことの重大さが連鎖的に輪郭を帯びていく。「ひどすぎる」というルカトゥの言葉の意味が、ようやく分かった気がする。
彼女はなぜアザを消さないのか? 痛みでそれどころではないからか? それとも私に対する抗議なのだろうか? ……もしそのどれでもないとしたら? たとえば、唯一の弱点を完膚なきまでに叩きのめされた今の彼女には、サキュバスとしての力が残っていないとしたら……。
……あるいは、もしそれが今日だけでなく、今後一生のことだったとしたら。彼女の力は残っていないのではなく、壊れてしまったのだとしたら……。
キョトンとした目でこちらを見つめるルカトゥが、コンマ一秒先の未来でものすごい形相をして怒鳴っているところを想像した。サキュバスとしての機能を失った彼女の今後の人生を想像した。……私を一生許さないだろう彼女のことを想像した。
…………すると私は、この場から逃げ出したくなってしまった。この部屋から逃げ出して、二度と戻って来ないようにしなければと思った。誰もいない場所へ行って、二度とそこから動かないようにしなければと思った。……だって、取り返しのつかないことの責任を取ろうにも、ルカトゥ本人がそれを許してくれる気がしなかったから。
だから謝罪の言葉の一つすら喉につっかえたまま、ついに出てくることはなかった。
「先生……!」
ドン……と重たい衝撃が走る。呆然としていた私は、それで目が覚めたようになる。まるでいつかの、キスをしようとして突き飛ばされた時のような感覚だった。
だけど今回は、その衝撃の正体がいつまでも離れていかなかった。突き飛ばすようだったそれは次の瞬間には私の体に絡みついていて、どこにも行かせまいとばかりにきつくきつく、人肌の熱を密着させていた。
ルカトゥがいつの間にか私を抱きしめて、震える声で必死に言っていたのだ。
「先生、全部嘘ですからね……? 全部演技ですからね……? 大丈夫だから、何も起こってないから、悪いことしてないから、全部全部、大丈夫だから……。……ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい……」
「え……?」
「ごめんなさい先生、全部嘘なんです……。全部嘘だったんです……」
「え、う、うん。わかったわかった。……それならよかった」
理解が追いつかなかったけれど、なんとなくポンポンと彼女の背を叩くと、おそるおそるといった様子で抱擁は解かれた。そのかわり、こちらを真っ直ぐ見据えた彼女が今度は両手を繋ぐ。ツウ……とまだその目からは涙が流れ続けていた。
私は手を握られたまま、何よりもまず彼女の下腹部に目を通す。そして青アザがすっかり消えたそこをしっかりと目に焼き付けたことで、ようやく事態が分かり始めてきた。……思わず、えずきそうになるくらい深くて大きなため息が出る。
よかった……とも、助かった……とも表現できる安堵感。それがルカトゥの身を案じた物だったのかどうかは、正直なところよく分からなかった。
そして、ともかく安堵した私とは対照的に、ルカトゥの口からは苦しそうな謝罪の言葉しか出てこなくなっていた。
「先生ごめんなさい……。だいじょうぶ……? ごめんね……ごめんなさい……」
「どうしたの……。大丈夫だよ。ほら、ルカトゥが平気なら私も平気」
「でも……、でもどうしよう、わたし、取り返しのつかないことをしちゃった……」
「してない。してないでしょ、そんなこと。……ちょっと演技に熱が入っちゃったんだよね?」
こくんと頷きが返される。何かに観念したかのような、悲哀のこもった一度きりの頷きだった。
その後それなりのやり取りを経て、私は今ここで何が起こっていたのかということを正確に把握した。取り調べの如く質問責めにされたルカトゥには気の毒だけれども、事の全体像が見えてくればくるほどに私は安心感を得られるものだった。
いわく、サキュバスに特有の生理だとかなんだとか、そんな嘘くさい物はまさに実際のところ嘘であり、それ自体がルカトゥからの誘いなのだ……という当初の私の考えは、一から十まで余すところなく正しかったらしい。そして、事の真相は至ってシンプルだった。
予想以上の満足感と興奮を得たルカトゥが、アザを消すことや大丈夫のサインを見せることを忘れて、ただ全力でプレイを楽しんでいただけ……というのが、全ての真相だったらしい。そしてそんな彼女は私からの「カット」を聞いた瞬間に我に返って、その時の私の心中を大方察し、血の気が引くような罪悪感を得てしまったのだという。
人の痛みが分からないというルカトゥだけれども、「演技だということが伝わっていない」と気付いた瞬間にゾッとできる心があるということは、「演技ではないかもしれない」と肝を冷やした瞬間の私の心についても綺麗に寄り添えてしまったのだろう。だから彼女はしばらくの間、私が一瞬逃げ出したくなったことまで見透かしているかのように、ずっと私から物理的に離れようとしなかった。抱きつき、手を握り、すり寄り、また抱きついて……、とにかく距離を離すまいとする。
だから私はそんな彼女を励まし続けた。大丈夫だよ、私は全然平気だよ……と、さっきまで彼女を殴りつけていた手で、頭を撫でてみたりして。
だけど今日のルカトゥはついに、安心しきってくれるようなことはなかった。いくら慰めても彼女は言う。取り返しのつかないことをしてしまったと。
全てはいつも通り演技でしたと判明して、私も最終的には安心したし、ルカトゥは途中までを楽しんだ。それで何の問題があるのか? 何も取り返しのつかないことなんかないでしょ……と言うと、彼女はこう答える。
「先生に、トラウマを作ってしまいました」
「トラウマ……?」
私はベッドの上でそれを聞いていた。お互い服を着て、まるでこれからここで一緒に眠ろうとしているみたいだった。
「先生はこれからもうずっと、今日のことを思い出しちゃうじゃないですか……」
「いや、そんなことないと思うけど……。夢にでも出ると思うの?」
「ちがいますよ。……だってほら、わたしたちはこれからもセックスをするでしょう……? 性欲は湧くんですから」
「そうだね」
「そしたら思い出しちゃうでしょう……? 先生は、もう同じことを出来なくなってしまったんじゃないですか……?」
「同じことって、腹パンをってこと?」
想像してみる。今までの、もはやいちいち確認もせずに行為中に彼女の腹を殴りつけていたような性生活に、私は難なく戻ることが出来るのだろうか? いつもと様子の違う悲鳴を上げて泣き叫び、ひどい、ひどい……と嘆くルカトゥの姿が容易に思い返せてしまうようになると、恐ろしくてとてもそんなことは出来なくなってしまうのだろうか……?
……いや、出来なくなるだなんて、そんなことはないように思えた。なにせ仮にまた同じようなことが起こったとしても、私は今度こそそれを演技だと確信出来るのだから。理論上、何も恐れることはない。
「……出来るよ、今まで通りに、腹パンくらい。ルカトゥはして欲しいでしょ?」
「わたしは、そうですけど……。でも、先生に無理をさせるのは……、いや、そういう問題でもなくて……」
「無理なんかじゃないって。思い出したって、べつにつらくもないし」
「……本当ですか?」
「うん。だって、次こそは演技を疑わないもん」
だから何も心配はいらないよ。だけど今日はもう夜遅いから、一緒にお風呂に入ったあととりあえず寝よう。……そうルカトゥをなだめて、私はその日を終えた。この上ない動揺によって萎えてしまったモノも、風呂の中ではあっさりといつもの調子を取り戻して、ルカトゥに手早く口で鎮めてもらった。
狭いという意味では同じなのだけれど、私たちは一緒に風呂に入るようになったとはいえ、それでも毎日別々の布団で眠りにつく。電気を消しておやすみを言って、暗闇の中にお互いの気配だけを感じながら目を閉じる。
……くぐもった泣き声のような物が聞こえてきた気がしたけれど、私にはどうすることも出来なかった。声をかけるべきかどうかをいつまでも測りかねることを、どうすることも出来ないというのである。
どうやら私は嘘をついてしまったようだった。
翌日、ルカトゥとセックスをした時に、私は彼女の腹を殴ろうとした。どうもルカトゥはこちらにトラウマを与えてしまったと思い込み、そこに責任を感じて……あるいは元通りのバイオレンスながら平和な性行為は二度と戻らないのではないかと嘆いて、ずっと沈んだ空気を身にまとっていたから、私はその重苦しい空気を暴力で霧散させて見せようとしたのだ。
けれど、いざ殴ろうと拳を振りかぶった瞬間、私の脳裏によみがえったのは泣き叫ぶルカトゥの姿ではなかった。……私の脳裏によみがえったのは、泣き叫ぶルカトゥの姿を見て最悪の事態を察知した自分が「逃げ出したい」と心の底から思ってしまったことの方だった。
自分という人間は、都合が悪くなれば平気でルカトゥを見捨てて逃げ出そうとするクズだ。それはさながら妊娠させた女を捨てる男の如くそうだ。まさか自分がそんな人間だとは思っていなかったけど、昨日の一件でそれは言い逃れのしようもなく明らかになってしまった。
とはいえ、考えてみれば何も意外なことではないのかもしれない。元々私は、ルカトゥの親には会いたくないと思っていたのだ。自分のそういった側面を見れば、いざという時に逃げ出すだとかは、なんともまぁそれなりに一貫性のある話ではないか。
……けれどもそうして改めて考えてみると、たとえルカトゥがいくら望んだとしても、喜んでくれたとしてもで、そもそも私には彼女を殴る資格なんて無いのではないか? いやむしろ、私が彼女に対して確保できている資格とは何なのだろう? 私のする、ありとあらゆる全てのことが、「どの面下げて」ではないのか?
「先生……?」
「あ……」
呼ばれて、ハッと気を取りなおす。拳を振り上げたまま何秒経ったのか知れなかった。けれど声をかけられたからには、明らかに不自然な……良くない間が生まれていたのだろう。
ルカトゥが心配そうにこちらを見上げていた。そこには喜びも興奮もなく、怯えも恐怖もなく、まるで熱を出した子どもを看病する親のような……心配そうな面持ちだけがあった。
……それを見て分かった。迷うだなんて、何を今さらという話なのだと。私のやることなすことが全てどの面下げてのことだったとしても、私がどうしようもないクズだったとしても、ルカトゥは私がそれを悔やむことよりも、開き直ることを望んでいる。「だから」と行動することが責任転嫁以外の何物でもないのだとしても、私たちは、それがなんだと言って今まで暮らしてきたのではなかったか。今それをやめたら、じゃあそれこそこれまでの仕打ちはなんだったんだ、どういうつもりだったんだという話になるだろう。
殴られる痛みがこちらに跳ね返って来るわけでもないのに、殴る側が何を恐れる必要がある? 今まで常習出来ていたくらいに簡単なことだ。こんな拳、さっさと振り下ろしてしまえばいい。コンマ一秒でも早く、お互いの心配性を消し飛ばしてしまうくらい強く、目の前の彼女を殴ってしまえばいい。…………やってやる! そのくらいは出来る!
私は、半ばやけくその力任せに拳を振り下ろした。
……けれどそれは、ルカトゥの手によって防がれた。
「えっ……」
昨日のように咄嗟に適当な防御をされたわけではない。明確に拳を手のひらで受け止められて、その細腕からは想像できないような握力で私の利き手は捕らえられた。
「先生、やめてください」
「な、なんで? 今度はなに? 体調でも悪いの?」
「ちがいます。……先生、いま無理してるでしょう?」
「……なんでそう思うの?」
「顔を見たらわかりますよ」
ルカトゥが私の手をはなす。
内心を言い当てられたことで、何か糸が切れたかのように、もう一度その腕を振り上げようだなんて気力はどこからも湧いてこなくなってしまった。
「……そんな顔してる?」
「してます」
「あはは、そっか。…………なんでだろうなぁ。昨日は出来ると思ったのに」
「先生……」
本当に出来ると思っていたのに、こうなってしまっては、まるで昨日から無理をしていたみたいに映ってしまう。……そうではないのだということが、言葉にさえすれば魔法を通して正しく伝わることは救いだった。
「ねぇルカトゥ、私べつに、昨日のことがトラウマになってるわけじゃないよ。本当に。ルカトゥが泣き叫んでるところなんて、AVでも見たし、生で見たからってべつにそんなにだよ。そりゃびっくりはしたけど、それだけで」
「……はい」
「じゃあなんでそんな顔するのって思ってる?」
「……気にはなります。でも、無理に聞きたいとは言いませんし、無理なプレイに付き合わせたいとも思いません」
「そっか……」
「……先生? お願いですから先生は、自分のことだけを考えてください。自分を一番大切にして、二番目にも三番目にも、全部とにかく自分のことだけを考えてください。……わたしのことなんかより、先生の方がよっぽど心配しなきゃいけないのに……」
「うん。そうしてるよ」
「出来てないじゃないですか……! なんで、……なんで先生が申し訳なさそうな顔をするんですか」
「……そんな顔してるんだ」
気づかなかった。あるいは、私といえば罪悪感だという認識をしているルカトゥの目には、色眼鏡でそう見えているだけなんじゃないかと思った。
けれども何にせよ、私はまた、彼女を一番悩ませる態度を取ってしまったらしい。そう思うとなるほど申し訳ないと思ってしまうし、何より不甲斐ない。
また、どうもそういった不甲斐なさは連鎖する物のようで、ため息を一つ吐く頃には、私はセックスをするための棒きれ一つも維持できなくなっていた。
「……終わりにしようか」
見栄の張り方も分からないので、仕方なしに私がそう言うと、ルカトゥは一瞬見るからにギョッとした。口元がわなわなと震えて、今にもそこから魂のこもった言葉が飛び出そうとしていたけれど、最終的には不発のため息だけが唇の間を割って出る。
「……そうですね。次は、もっとラブアンドピースなセックスにしましょう」
「うん。そうしよう」
ラブアンドピース。……聞き覚えのある言葉だった。どこで聞いたのかと思えば、それはたしか過去の自分が発した言葉だった。
初めてルカトゥに暴力を振るった日、その帰り道で彼女は言ったのだ。そんなに落ち込むなら、先生はもう暴力禁止です。……それに対して私は答えたはずだった。禁止されるまでもなくもうしない、これからはラブアンドピースで行こう……と。
その禁止を当然のように破ってずいぶん経った。何度破ったのかはもはや数えられもしない。その結果が現状である。
服を着て、どうにも漫画を描く気にもなれず、私たちは手持ち無沙汰の感を埋めるために……あるいは気まずい沈黙を埋めるために、何とはなしにテレビを点けて一緒に見た。そのまま一時間も二時間もそうしていた。
恋人のように腕に絡みついてくるルカトゥと過ごしているうちに、ふと気がつく。もしかして彼女はさっき、私の「終わりにしよう」という言葉を全然違う意味で捉えて……一瞬だけ遥かに重い勘違いをしていたんじゃないか。セックスを止めたくらいでギョッとするだなんて少し変だとは思ったから、きっとそうだったんじゃないか。……そう考えつつ、本人に聞いて答え合わせをする気にはなれなかった。
テレビの愉快な場面に私がくすりと笑うと、ルカトゥもつられて笑う。不思議と今は、身を寄せあっていても性欲には見舞われなかった。……それで私は当然なことを改めて思う。自分は、性欲を満たすためにここにいるわけではないのだと。
一方で、私はルカトゥに「ずっと一緒にいようね」とはもう言えない。その上辺だけの言葉が彼女の魔法にどう判定されるのか分かったものではないから。結局、ルカトゥを喜ばせたいという私の気持ちは、良心の克服だとかなんだとかは、そういう上辺だけの物でしかなかった。
……でも、ルカトゥとずっと一緒にいたいと思っていること自体は、それ自体は、決して嘘なんかじゃないはずなのに……。
もはや、自分の考えていることがよく分からなかった。振り返ってみればもうずっとそうだ。芯がなくて、行動も思想もコロコロ変わって、なのに何も良い風には出来やしない。そのダメさだけが一貫していた。
一度降りた沈黙を打ち切る方法が見つけ出せず、ルカトゥが「そろそろお腹空きましたね」と夕飯の準備にとりかかるまでの間、私は一言たりとも会話をすることができなかった。向こうもあえて何も言わなかったのだと思う。でも、そんな中でも彼女は私と目が合うと、何度でも幸せそうに笑いかけてくれるものだった。
サキュバスにも、性欲以外で「お腹が空く」という感覚が分かるの? ……蜘蛛の糸を掴むような気持ちで私がそう聞くと、「お腹いっぱいじゃない、が分かります」と、なぜか嬉しそうにルカトゥは答えた。
私もなぜか、そのやり取りが出来て嬉しかった。べつに喧嘩していたわけでもないのに、話そうと思えばなんだっていくらでも話せたはずなのに、それでもそんな何でもないやり取りがようやく出来て嬉しかったのである。
かつて、ついに得た性欲でもってルカトゥの期待に初めて応えられた時、自分はそこに同じくらいの喜びを感じたのではなかったか? その時感じた物は今となってはもう、慣れの中に消えてしまったのだろうか?
台所に立つルカトゥの背中を眺める。性欲は未だ蘇らず、そのかわりに、彼女との間にはまだ解き明かしきれていない違和感があることを、どこからともない勘が報せていた。
私にはまだ、ルカトゥに言わなければいけないことがあるような……。そんな気がした。
ラブアンドピースは今度こそ守られた。私はルカトゥに暴力を振るわなくなったし、彼女の方が過激さを望むこともなくなった。散々続いていた飲尿プレイもあっさりと打ち切られて、健全なセックスや性的行為が「初めての頃」から戻ってきた。
だけど、情熱だけは戻ってこなかった。ルカトゥが気をやってしまうほど乱れよがることもなければ、私がキスや愛撫の一つ一つに深い思いを寄せることもない。戻ってきた健全な性の全ては、まるで手癖のように出来てしまうことだった。
セックスの最中は、手持ち無沙汰ゆえのキスをした。腹を殴れず、首を絞められず、それならと手を繋いだら、なんとなく次はキスをするような流れになるから……そんな理由でキスをした。もちろんキスは好きだし気持ちいいけれど、愛しくて愛しくて仕方がないからするだとか、そういうようなことは起こらなかった。昂る性欲の抑えが利かなくなってするということもなかった。ただこのまま抑え込んでいれば近いうちにロクな拗らせ方をしなくなると分かっている性欲を、早め早めに粛々と解消するようなことが続いて、私たちはあくまでもその中でキスをした。
……つまり、私はルカトゥの体を使ってオナニーをしていたのだと思う。それのどこが健全なのか、考え出すと分からなくなってくるけれど、しかし確かにそれは、暴力と侮辱に塗れたセックスよりはどうしたって健全だったはずなのだ。
けれど行為の最中、特にキスを終えた瞬間には頻繁に、心に爪を立てられるような気持ちになる。
「せんせぇ好き♡ 大好きぃ♡」
ぷは、と息継ぎもそこそこに、甘ったるい声でルカトゥが「好き」を連呼する。……私はそれに対する答え方を一つしか知らない。
「私も好きだよ」
「えへへ〜♡ うれしい♡」
そうしていつも、ルカトゥの中は喜んでいるみたいにキュンキュン締まる。……私はそれが、サキュバスである彼女には意思一つで出来ることだと知っている。そしてそうであるが故に、その生理的反応のように見える物が無意識による物であるとは思い込めない。何も知らなければ、ルカトゥの喜びは体の反射に現れているのだと、だから自分の口から出る「好き」はきちんと本当のこととして伝わっているのだと、思っていたのだろうけど。
……だけど、もしも私の言う「好き」が嘘として伝わってしまっているなら、ルカトゥならきっともっとギョッとするはずだ。彼女は名女優だけどプライベートな不意打ちには弱いから、演技で本心を完璧に隠すことなど出来ないはずだ。だから私の言葉は、好意は、きちんと本当のこととして伝わっているはずだ。きっとそうだろう。
……と、毎度自分に言い聞かせなければならない。ルカトゥに向かって好きと言うたび、それだけがいつも恐ろしかった。また、自分の本心とやらを自分で疑わなければならないことも、どうにも情けなかった。
好きってなんだろう……と考えることが増えた。私はルカトゥのことが好きだ。間違いなく好きだ。でもそれは愛おしさからキスをするような気持ちではない。永遠を誓えるほどの覚悟でもない。でも好きなのだ。これはいったいどういうことなのだろう? 私の言う好きとは、いったい何なのか。もしかしてそれは恐ろしく冷たい利己主義の言い換えなのかもしれない。私は、ルカトゥが自分の役に立たなくなったら、彼女のことを好きではなくなってしまうのだろうか……?
そんなこともはっきりしないままキスをされて、好きだとか言われていることをもしルカトゥが知ったら、どう思われるのだろう。真摯に距離をおくよりも雑に傍にいて欲しいという彼女の主張は、それでも曲げずにいられる物なのだろうか。
……いや、こんな考え方はおかしい。
今のようなことを考えるたび、私は自分のおかしさに気がつく。なぜならその思考パターンはもう、今までに何度も何度も繰り返してきた物のはずで、そのたびに「何も改めないこと」をすでに選んできたはずだから。しかもそれはずっと前からのことだ。オルディアの魔法なんか関係ないずっと前、私がルカトゥの本心を聞いたあとで興味本位のキスをした頃から、私はずっと同じことをぐるぐるぐるぐる……、ずっと考えている。
何一つ成長してない。何一つ改善されてない。なんて無駄なループだろう。分かっているのに、私にはその無駄がやめられない。誰も喜ばないし得しないと分かっているのにやめられない……。
……自分のことを人として優れていると思ったことは今までに一度もないけれど、それでも、まさか、このレベルでひどい有様だとは思わなかった。良心の克服だとか、そんな物は本質ではないのだと思う。私が克服しなければならないのは、無意味な思考のループの方だった。あぁ、でもそれだって、暴力を通すことでどうにかなりそうな気がしたのに、結局はこうなってしまった。ことごとくだ。私は、私なんかでは、ルカトゥに対して何もしてあげられない。半端とはいえ好きなのに、半端じゃどうにもならない。
そうやって無力を思い知ると、時々、もうどうにでもなれと思うことがある。どうにもならないなら、制御を諦めればいい、考えることをやめればいい。ルカトゥが何をどう思おうと知ったことじゃない。キスしたければすればいいんだ、好きと言いたければ言えばいいんだ。……そう思って、実際にそうしてみることも増えた。けれど私がそんな気持ちでキスをしても、セックスをしても、好きと言っても、頭を撫でたり抱きしめたりしても、ルカトゥは必ず幸せそうな顔をして言うのだ。
「せんせぇ大好きぃ♡ ありがとう♡ しあわせぇ♡ だいすきだいすきっ♡」
「……私も大好きだよ、ルカトゥ」
そう返事をするたびに、どうしても心が痛む。……正直、彼女の首を絞めている方がずっと楽だった。
でもどうしてだろう? 暴力の最中でだって、ルカトゥは私に愛を囁いたのに。どうしてその時は平気だったのだろう? ……あぁそうか、あの頃はまだ、自分がいざという時にルカトゥを見捨てるようなクズだとは知らなかったからか! 馬鹿な話だ、べつに行為の内容なんて関係なかった。最初からずっとそうだ、ただ自覚の有無だけが、私にとっての世界の見え方の全てだった。どう思うのかが全てで、何をしているのかなんて初めからどうでもよかったんだ。初めから自分の心の在りようだけが全てで、ルカトゥの心のことなんかは、なんとまぁ元々眼中にすらなかったんだ。
……やがて、おそらくはルカトゥも私の変化に気付き始めた。私のような凡人が心の内を隠し通せるわけも無いからはそれは仕方がないのだけれど、その気付かれ方というのがまたひどかった。
ルカトゥは、明らかに何かに勘づいているのに、それを表にはださなかったのだ。
「今日はお口でもいいですか……? 最近してなかったですし、たまには……ね?♡」
そう言ってフェラチオをしてくれたのが契機だった。ルカトゥはそれ以降ことあるごとに口での奉仕に積極性を見せて、言外だけれどあからさまにセックスを避けるようになった。
きっと彼女は「セックスをすると先生の表情が曇る」と気がついたのだ。……いや、それとも、口淫をする際の彼女が「好き」という言葉を発さないことは偶然ではなかったのだろうか。「おいしい」「ありがとう」「幸せ」という言葉は相変わらずよく聞いても、「好き」を聞くことはなくなった。すると当然、私のオウム返しからも「好き」は取り除かれる。
……正直それは本当に助かることだった。気を遣わせていると分かっていても、その上でなお見違えるように気が楽になることだった。
暴力はやめるという決まりになっていたから、イラマチオをすることはなかったし、ルカトゥの方からそれを望むようなこともなかった。ただ、彼女はいつも喉の奥まで自発的に咥えてくれて、なんならそのまま居眠りだって出来てしまいそうなくらいに、これっぽっちも苦しむような素振りを見せなかった。
だからこそ私は、暴力とは何なのだろう……と時々考えてしまう。もしルカトゥが喉の奥に触れられると苦しがる普通の人間だったら、私が今一言でも「奥までしてくれるの好き、もっとしてほしい」と言えば、それも暴力になるのだろうか? それが暴力になるのだとすれば、では黙っている間に今まさに行われているこれは、ディープスロートという行為としては同じなのに、暴力ではないのか?
……そんなことを考えながらでも、射精は出来てしまうものだった。ルカトゥの奉仕は余裕に満ちて、楽しそうですらありながら淡々としていて、私はその奉仕に一向に飽きることが出来なかった。
ベッドで、風呂で、あるいはリビングや台所でも、性欲が湧くたびに何回でもその小さな口に咥えてもらう。……それが当たり前になっていたある日、漫画を描いている最中にいつものようにムラついた私は、テレビを見ていたルカトゥに性欲を処理してもらおうと思ってパソコンの前の席を立った。
こちらを向いた彼女がにこっと笑って、その場で座ったまま口を開く。いくら健全な性行為を心がけてみても、その顔先にどうしようもなく昂ったモノを出すくらいのことは、とっくに当たり前の行いになってしまっていた。
見せつけたモノが、ぬるりとした温もりに包まれる。快感に集中しようと目を閉じると、ルカトゥのくぐもった息遣いと、それを覆い隠すようなテレビの音がことさらよく耳に届いた。
そのまましばらく気持ち良さに身を任せていると、こちらの腰を掴んだルカトゥが喉の奥の奥までを使って奉仕してくれている最中に、昼間の情報番組の過剰に楽しげなナレーションが妙に鮮明に聞こえてくる。
『夏休み先取り! 海派vs山派、旅行スペシャル!』
……それを聞いた瞬間、私はハッとした。目を開き、思わずテレビの方を見る。するとそこではお笑い芸人やタレントが、今これから観光地のロケに行こうとしている真っ最中だった。
ロケ本編が始まる直前に、視聴者の気を引くための見どころのダイジェスト編集が映される。場を盛り上げる気満々の男女が楽しそうに笑いあって、ボケたりツッコんだりしながらホテルや旅館をリポートする様子が流れた。そこでは皆、部屋や料理に感動したり、ひっきりなしにふざけあったりする。外のお店やレジャー施設、海なんかにも行ったりして、そしてそこかしこで、いい大人が子どもみたいにはしゃいじゃったりして……。
……それを見ていた私の思考に、青天の霹靂が起こった。長い夢から目覚めたような衝撃が……しおれていた脳細胞が久しぶりに開花したような感覚が脳裏を駆け巡った。どうして今までこんなことに気がつかなかったのだろう、あれだけうじうじと無駄なことを考えて、どうしてそれが一つもここに結びつかなかったのだろう……。……そんな風に愕然としてしまう。
私の上の空に気がついてか、これまで射精が果たされるまでは一度も口を離したことがなかったルカトゥがそのこだわりを破って、
「先生……? やっぱり毎日お口だけだと飽きちゃいますか……?」
と、困ったように笑った。
私は、自分の腰元で唾液にまみれて輝く硬いままの陰茎と、その目前で口元をべたべたにしながらこちらの顔色をうかがうルカトゥを見て、……悲しくなった。
それを悲しいと思うのは、遅すぎたくらいだった。
「……あのね、ルカトゥ」
「はい」
「…………えっとね」
「はい。……なんでもいいんですよ? どんなことでも、遠慮なく言ってください」
言わなければと思っていても言い淀んでしまう私に、ルカトゥがサキュバスらしい声音で促す。無敵の精神の持ち主らしく、そこには虚勢でも演技でもない、上辺だけの愛想でもない、純粋な余裕があったように思う。
テレビの音が聞こえ続けている。その音とは、引きこもって後ろめたいセックスを続けている自分なんかとは対照的な、幸せそうな声だ。
……人間は、見たいようにしか物事を見れないというけれど、それと同じように、思い出したい記憶ばかりを思い出す物なのかもしれない。私は旅行の記憶を……、ルカトゥと行った旅行の中の、ほんの小さな一場面を思い出していた。……あの時の彼女のほんの一言を、縋るように思い出していた。
……どうしても怖いことがあったら、心の中で「ルカトゥ助けて」って念じてくださいね。通知が来ますから。
「……今までで一番、ぶっちぎりで一番ひどいことだけど、言ってもいい……?」
「はい、任せてください! わたしに出来ることなら、なんだってしてみせますよ」
「……じゃあ、ルカトゥにお願いがある」
「なんでしょう?」
「…………もうこの生活を、性欲がある生活を、辞めにしたい。こんな物が生える前の生活に、魔法を受ける前の頃に戻りたい。前みたいに、こんなのじゃなくて、二人で友達として……前みたいにさ……」
……どの口が言うのだろうという思いが限界に来て、白々しくも、それ以上先を言葉にすることは出来なかった。
見下ろせばある物は、せいぜい半勃ちというところまでしか収まっていない。私の意識なんかより、本能の方がよほど覚えているのだろう。これまで私がルカトゥに何をして、何を望み、どれだけ貪りどれだけ良い思いをして、どんな態度で接してきたのかを、その棒きれの方がはっきりと覚えているのだろう。
今さら「やっぱり嫌でした」なんて、自分でも意味が分からない。白々しいどころではなく、頭がおかしいんじゃないかと思う。…………けど、本当に辞めたい。ほんの数秒前に気がついたその気持ちが、私の本心だった。
楽しく旅行が出来ていた頃の自分に戻りたい。暇さえあればセックスをするような生活は……そうしてしまいたくなる自分はもう嫌だ。うんざりだ。
とても声には出せないから、心の中で叫ぶ。おかしいと思うだろうけど、私だっておかしいと思うけど、でもこれが本心だから、だからお願いルカトゥ、なんでもしてくれるっていうなら、助けて……。
「……………………もっと早く言うべきだったんです」
「えっ……」
「わたしの方から、もっと早く言うべきでした」
冷たくて、沈んだ声だった。ともすれば愛想を尽かした相手に向けられる、落胆と失望の表れにも聞こえるような……。
……けれど、ルカトゥが手を握ってくれたから、そういうわけではないのだと分かった。立ち上がった彼女が、真剣な目でこちらを見つめて言う。
「できるだけ早くオルディアに来てもらえるようにします。本当にできるだけ早くです。……ですから、どうかそれまで、あともう少しだけ、耐えてはもらえませんか……? わたしに出来ることならなんでもしますから……」
「え、う、うん」
自分で頼んだことなのに、思わずうろたえてしまう。理由も聞かれずに、待ち構えていたかのように話が進むだなんて、想像もしていなかったから。
呆気にとられた私を、ルカトゥが正面からひしと抱きしめる。
「ありがとう。ありがとう、先生。大好き。…………ごめんなさい」
……理解が追いつかなくなった私はついに、オウム返しをすることすら忘れてしまった。
本当にうんざりすることだけれど、ルカトゥに抱きつかれただけで勃起を取り戻してしまった私は、その後一度彼女の口で処理してもらった。
……だから客観的に見ると全てのことから説得力は失われたのだけれど、ルカトゥだけはそう考えないでいてくれることを、私は身勝手にも期待した。
何事もなかったかのように服を着て、二人してベッドに腰かける。運良く繋がった電話によって、オルディアはちょうど一週間後に来てくれるということで、ルカトゥが話をつけてくれた。
「先生……?」
「うん?」
「……辞めたくなった理由は、聞かない方がいいですか?」
「ううん、べつに。……むしろ、話す義務があると思ってた」
「義務だなんてそんな……。無理にとは言いませんよ……?」
「無理じゃないよ。聞いてほしいくらい」
「そういうことなら……。聞きたいは聞きたいです」
「うん、聞いて」
私は自分の思ったことを、気付きを語る。まるでずっと前から考えていたかのようで、ついさっき思い至ったばかりの話を。
とても上手く語れそうにはなかったけれど、ルカトゥはずっとその目に興味を宿したまま耳を傾けてくれた。
「……昔チラッと見た漫画に、ヤンキーっていうか半グレみたいな彼氏と付き合ってる、不憫なギャルがいてね。その子は彼氏に言われて、美人局に加担したりしてたの」
「へぇ、美人局」
「そう。で、その彼氏っていうのはひどい男でさ。彼女のことを人間として見てないんだよね。道具だと思ってるのか奴隷だと思ってるのか……そもそもその男に他人を尊重するような知能はなさそうだったりする感じの、そういうクズ男の話だったんだけど。それである日その二人が家でテレビを見てた時、旅行の特集か何かを目にしたのね」
「ふむふむ」
「そしたら、普段はヤれさえすればいいって態度で全然彼女のことなんか大切にしてなかった男が、一緒に旅行とか行ってみてぇな〜って言いだすの。それでそれを聞いた彼女がさ、ちょっとトキメクんだよね。もうこの男からはそんなことは一生言ってもらえないのかと思ってた、嬉しいっ、行きたい行きたい……! って、パァっと顔を輝かせてさ。…………で、そんなあからさまに喜ぶ彼女を見て、そのクズ男はなんて言ったと思う……?」
「え〜。旅費はお前が体で稼いで来いよ! とか?」
「…………」
「……先生?」
喉に鉛が詰まるような、心臓を鷲掴みにされるような感覚に不意打ちをくらってしまった。正解を言い当てられたわけでもないのに、だからこその罪悪感が胸の中で急激に膨らむ。
……が、それは一度忘れることにして話を続ける。脱線せず、ちゃんと最後まで話さなければ意味がないから。
「……いや、違うんだよ、それが。正解はね、旅館で一日中ヤりてぇな〜って言いだしたの」
「あ……、それはちょっと分かるかも……」
「いや分からないでよ。……しかもだよ? その男はなんか想像したらムラムラしてきたとか言って、彼女にその場でフェラを強要するの。しかも無理やり奥まで咥えさせようとして、彼女が苦しくて吐いたら、うわっ汚ぇ、下手くそ、使えねぇ、萎えたからもういいわ掃除しとけよ……って、散々なことを言うの。それでさっきまで明るい顔をしてた彼女は、また尊厳を傷つけられた沈んだ気持ちに戻るのね」
「ほえ〜……」
「……それで、私それを読んだ当時こう思ったんだよ。仮にこんな男とそれなりに真っ当な旅行に行けたとして、それの何が嬉しいんだろう? 彼女の方は、なんで一緒に旅行に行きたいって言われて、一瞬でも喜んだんだろう? 馬鹿なんじゃないの? ……って。そもそもなんで付き合ってるのかも分からないけど、きっとキレられるのが怖くて別れ話なんて切り出せないんだろうな……とか思ってたら、もしかして普通に彼女の方も頭がおかしいんじゃないの? って思ったんだよ。被害者面してる彼女の方だって、クズ男のことはちゃんと内心で嫌ってないとダメでしょって」
「なるほど」
「……でも気がついたら、私はそのクズ男の方になってたんだよね。オルディアの魔法を受けてからいつの間にかさぁ。……そんなだから、もし今また旅行に行ったら、いやそうじゃなくて普通に暮らしてるだけでも、とにかく私はルカトゥに対してセックスセックスで、それにそのやり方だって……ねぇ」
「……なるほど」
「正直、こんな風にはなりたくなかった」
さもずっと思っていたかのように言ってしまうけれど、私が自分の思いに気がついたのは、昔読んだ漫画のことを思い出したのは、ついさっきテレビで旅行の特集を見たその瞬間のことだった。それまでの私は自分の心にも気付けず、何も思い出さず、漠然と過ごしているだけだった。
けれど分かってみれば、なるほど軽蔑しながら読んでいた話の一員に……それも「こいつは嫌われるべきだ」と思いながら読んでいた人物の振る舞いに自分自身が染まっていたとなると、さすがにしんどい物がある。……そしてテレビを見てそう思ったと同時に、私にはルカトゥがするだろう反論まであらかじめ手に取るように予測できてしまった。
彼女は今、実際にその予測通りのことを口にする。
「でも先生、わたしは」
「うん」
「わたしは、もし先生からそういう扱いをされても、ちゃんと楽しめます。美人局はさすがに賛成できませんけど……。セックス三昧の旅行、急に求められるフェラ、イラマ、暴力に暴言……。そういうのは全部いいじゃないですか。わたしはちゃんと全部楽しめます、沈んだ気持ちになんてなりません。それなら良くないですか……?」
「ルカトゥならそう言うと思った」
「……暴力を振るう相手との旅行を楽しめる女が、先生はお嫌いですか?」
……顔色を伺うような目に、人の痛みが分からないと自称する彼女の抱えるトラウマを見たような気がした。
ルカトゥに嘘はつけないから、私は全て正直に答える。
「もしそれが人間なら嫌いかな。……でもサキュバスなら、ルカトゥのことなら分かるよ。そういうのが本当に平気なんだって。我慢とかじゃなくて、麻痺してるとかでもなくて、本当に楽しめちゃうんだって」
「はい……」
「でも私が嫌なのはさ、ルカトゥ。……この前連れて行ってくれた旅行みたいに、あちこち見て回って、遊んで、お喋りして、本当ならそうやって楽しめるのにさ、性欲のせいでそれが全部塗り潰されるっていうのが嫌なの。私が人間だからなのかな……。この前の旅行が最高で、性欲まみれの旅行は……そんな寂しい旅行は嫌なのに、でもこのままだと自分がそうなりそうで怖いの」
「……そういうものですか」
「そういうものだよ。せっかくの旅行なのに部屋でセックスばかりして、なんなら外でも人目につかない場所を探してエッチして……、そんなことばっかりになるのは嫌。自分がそうなるのは嫌。もしルカトゥはそれを望んでいるんだとしても、それでもどうしても嫌なの」
「……なるほどです」
ついさっきは弱々しい顔をしていたルカトゥが、今度は難しい顔つきになってう〜むと唸る。
「……言われてみると不思議ですね」
「不思議?」
「先生、わたしは、先生とエッチなことが出来るのは幸せですけど、エッチ無しで先生と一緒にいるのも同じくらい幸せなんです。だから、もしあの旅行が終始エッチをするだけで終わっていたとしても、それはそれで幸せだったと思うし、悔いは残らなかったと思うんです」
「うん」
「でも、ずっとエッチをするだけで終わるということは、実際にこの前の旅行であったような思い出は、全てなかったことになるってことですよね? エッチばかりしていたら、図書館や海や動物園に行く時間とか、そこでじっくりお話をする間はなかったわけですから」
「そうだね」
「……そう考えると、それはすごく残念なことの気がします。……なんででしょうね? すみません、変なことを言いますけど……。仮にあの旅行がエッチ三昧でもそれはそれでよかったって思えるのに、一方で、今ある思い出が消えてもいいとは絶対に思えないんです」
「そう思ってくれる……?」
「思いますよ。……でもわたしの言ってることって矛盾してますよね」
「そうだね。でも、なんか嬉しいよ。うれしい」
もしルカトゥがそういうことを言ってくれる人でなかったら、私たちの関係はとっくの昔に破綻していたのだろう。……今の話を聞いて、私は改めてそう思った。
結局、友達だろうと爛れた関係だろうと、それはルカトゥの、矛盾を引き起こすほどに大きな無敵さと好意に依存することでしか成立させられないのだと思う。……だけどどうしてだろう、今はそれが本当に嬉しかった。ただただ彼女一人に全ての苦労を押しつけているだけなのに、私は本当に、ある種の罪悪感を忘れてしまったのかもしれない。
「先生が嬉しいならよかったぁ」
となりでルカトゥが笑う。それはいつも通りの幸せそうな顔で、私はそれを見ていてふと、彼女の笑顔は何度見ても飽きることがないな、と思った。……それも性欲によることなのだろうか? そうでなければいいのにとは、思うけれども。
何事もなければあと一週間で、私を支配している性欲は解除される。元通りの自分に戻りたいと言いつつも、それが具体的にどんな感覚の物だったのかは、今となってはもう完璧には思い出せない。分かるのはせいぜい、どちらにしたって私にはルカトゥを好きになることは出来ても、愛せはしないのだということだけ。
逃げ出したいと咄嗟に思ってしまったことを、忘れたわけじゃない。性欲が消えれば万事解決というわけではないと分かっている。……それでもなんだか、この性欲とおさらば出来ると思うと、ここ最近で一番希望に満ちた気持ちになれた。ルカトゥには悪いけれど……。
…………あ、ダメだ、やっぱり一度「悪い」と思うと、罪悪感というのは帰ってくる物だ。
「ねぇルカトゥ」
「は〜い」
「……やっぱりなんでもない」
再発しかけた罪悪感をなんとかしようと、ルカトゥを頼ろうとしたしたけれど、自分が何を言おうとしたのかが分からなくなってしまった。
そんなわけの分からない様子の私を見て、ルカトゥはにこりと何かを見透かしたように微笑む。そして突然ハグをしてきて、まるでいつもとは逆になったみたいに、私の頭を撫ではじめた。
「大丈夫だよ〜先生ぇ。だいじょうぶ〜」
「……なんか子どもになったみたいな」
「ママって呼んでもいいですよ〜?」
「……いや、呼ばない」
「あはは、ダメか〜」
「…………でもちょっと、心地はいいかも」
「いいんですよ〜? ずっとこうしてても」
「ずっとはしないよ。……ちょっとだけね」
「ふふ、は〜い」
……彼女の胸の中でよしよしされているうちに、私は次第に、自分が何をしたいのかよく分からなくなってきて、性欲とそれ以外の心の境目も、元々分かってなんていなかったのになおさら分からなくなってきて、下半身の物が反応しないことにとりあえず安心しながら……、出来るだけ何も考えないようにした。
外はきっと暑くて、たくさんの人間がお互いに干渉しながら笑ったり悩んだり、喜んだり苦しんだりしているのだろうけど、私にはこの部屋の中のことだけで精一杯だった。