※この作品はR-18です。

彼女には向かない業(月光照明4)   作:氷菓くん

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終 雛子ちゃん助かる

 性欲は、消したいと思うだけでは消えない。しかるべき処置がなければ……オルディアの魔法がなければ。

 だから意地を張ることはナンセンスの極みであり、そういった致し方なさの中で、私は最後までルカトゥに性欲の処理を頼んだ。ルカトゥ自身もまたそれを望んだ。……それでもお互いの同意や仕方ないと分かっていることが、複雑な気持ちを消してくれるわけではなかった。

 だけど今の状況では、それはお互い様だったのだと思う。残り一週間の内の最初の一日目にて、ルカトゥは思い詰めたような顔をして、珍しくフェラチオを中断した。

「……あの、先生」

「どうしたの……?」

「…………すみません、少し考え事をしてしまって。あとでちゃんと話しますね」

 そう言って咥えなおそうとする彼女を止める。

「いやいやいや、今話して……? なんか相当悩んでるでしょ……?」

「ですけど、このままじゃつらいでしょう……?」

「それどころじゃなさそうな子にこんなことさせるのも、まぁまぁつらいよ」

「……すみません、そうですよね。……でもお願いします、最後までさせてください。勝手ですけど、お互い落ち着いてから話したいんです……」

「……分かった」

 と、そんなやり取りがあったあとに、さほど時間もかからずに射精出来てしまったわけだから、私の態度や言葉からは説得力という物が本当に蒸発していた。「とりあえず今はフェラに集中して?」とでも言った方がまだ誠実だったのではないかとすら思う。

 けれども、「思い詰めた様子のルカトゥに奉仕させるのがつらい」という気持ちは、説得力こそなくても紛れもない本心だと私は思っている。私たちの間においては客観的な説得力よりもルカトゥの魔法の方がはるかに重要なのだから……口にした言葉と本心ばかりが重要なのだから、きっと説得力なんて概念のことは一度忘れてしまった方がいいのだろう。……理屈としてはそう思う。

 最後まで満足させてくれたルカトゥにありがとうのキスをする。いつもと違って、唇を合わせるだけの短いキスだった。二人の間に流れる空気がそうさせた。

「……それで? 考え事っていうのは?」

 いつもみたいに、脱いだ物を何事もなかったかのように穿いて、ベッドに腰かけて話す。

 ルカトゥの口から出た第一声は、まさに今の彼女の雰囲気にドンピシャな言葉だった。

「……懺悔室という物が、海外とかにはあると言うじゃないですか」

「うん」

「先生は、……懺悔することを甘えだと思いますか?」

「え? なんで……?」

「だって懺悔のほとんどは、黙っていればそれで済むことじゃないですか……。懺悔が、話す本人以外を喜ばせることってあるんでしょうか?」

「……可能性としては、ある」

「それってどんな時ですか……?」

「懺悔室の中の人が、シスターじゃなくて漫画家の時」

「……漫画のネタになるから喜んでくれるってことですか?」

「それもあるし、単に好奇心旺盛だから聞きたがりがちってところもある。……それに、懺悔室は赤の他人同士だから別だけど、親しい間柄なら打ち明けてほしいことだってあるんじゃないかな。ルカトゥもそう思うタイプじゃない?」

 私がそう言っても、ルカトゥは首を縦にも横にも振らなかった。

「……喜ばせられる話かどうか分からないんです」

「べつに喜ばせなくてもいいでしょ」

「なんでですか……。黙っておいた方がいいことなら、黙っておいた方がいいじゃないですか」

「うーん……。ルカトゥは、楽になりたいから話したいわけじゃなくて、私を喜ばせられるかどうかで迷ってるの?」

 今度はコクンと、彼女が頷いた。

「偽善に聞こえますよね……?」

「人間が言ってたらね。でもルカトゥなら、本気でそう考えてくれてそう」

「どうしてそう思ってくれるんですか……?」

「それは、ルカトゥが無敵だからだよ」

「……そうですけど」

 何があっても致命的には傷つかないと豪語して、それが事実であるかのような振る舞いを貫いている彼女が、今になって唐突に自分の心を楽にすることを最優先に考えている……と言われても違和感がある。それに比べれば本気で、彼女の言う通りの動機があり得るような気もするものだ。

 けれどもなぜだかルカトゥ自身が、自らの動機の在り方に異議を唱えようとする。それこそとっくに懺悔は始まっているような弱々しい声音で。

「でもわたしは、自分のことばかり考えてるじゃないですか……」

「え、どこが……?」

「先生におちんちんを生やさせたのはわたしです」

「それは、私も同意したじゃない。散々注意喚起もされたけど、それでも私はいいって言った」

「でも勧めたのはわたしです。わたしが、……先生とエッチなことがしたくて」

「ウィンウィンの関係になると思ったからでしょ? ルカトゥは、私が嫌がったらそれ以上食い下がらなかったと思うし、結局後出しでやっぱり嫌だって言いだした今の私にも、何も聞かずにすぐに辞めるって言ってくれて……。優しくしてくれてる」

「先生を嫌な気持ちにさせたのは、わたしが自分の性癖に先生を付き合わせてしまったせいじゃないですか」

「え、違うよ……! べつにああいうのも嫌じゃないって。私が嫌なのはそうじゃなくて、何にせよ性欲に頭を支配されることが嫌なの。プレイの内容は関係ないよ」

「でもわたしがそもそもオルディアの話なんて持ちかけなければ、先生は嫌な気持ちになんて少しもならなかったでしょう……?」

「……そうだね。その時は、セックスが気持ちいい物なんだっていう実感も、私は一生分からずにいたんだろうね」

「それは……」

「私がそれを喜ぶことまでは考えてなかった?」

 ルカトゥはうつむく。

 ぼそぼそと小さな返事が零れた。

「……考えてました」

「さすが」

「先生がセックスのことを好きになってくれて、わたしとたくさんセックスしてくれたらって、思ってました」

「……途中までは上手くいってたのに、ごめんね」

「先生が謝ることないですよ。先生は、全部わたしのわがままに付き合わされただけなんですから」

「……そんな風に言われたらさすがに寂しいな。私が不甲斐なかったのは分かってるけどさ」

「ちがっ、悪い意味じゃないんです……! わたしはただ、先生は本当に何も悪くないってことを言いたくて……」

「私はルカトゥも悪くないと思う」

「でも……」

「…………何か隠してることがあるの?」

 ドキッ……と分かりやすく、ルカトゥの顔には図星らしさが浮き出た。

 かつて、私たちがお互いの体を入れ替えて、それをきっかけに喧嘩してしまった時、ルカトゥは申し訳なさそうにこそしていたけれど、「そもそも私が提案しなければ」なんて話を、こんな風につらつらと嘆くことはしなかったはず。それを思えば今日の彼女には少しだけ違和感があったから、「懺悔」というフレーズから連想してカマをかけてみたのだけれど、それがものの見事に当たったらしい。 

 ……ここまで来て、隠された話の全貌を知らないわけにはいかないだろう。

「聞きたいな。ルカトゥが話すかどうかそんなに迷ってることって、何なんだろう……?」

「……わたしが先生を裏切ったっていう話です」

「裏切った?」

「はい。……でも、もしかしたら先生がそれを聞いて、「これは確かにルカトゥが悪い」って思ってくれたら、それで先生をいつも苦しめている罪悪感は、なくせるんじゃないかって思うんです。先生は悪くないって分かってくれるんじゃないかって」

「ふむ……」

「でも逆に、わたしの裏切りが普通に先生を傷つけてしまうかもしれないから……。そうだとしたら、このまま黙っておいた方がいいんだろうなって」

「なるほど。……まったく分からないな、話が見えてこない」

 私の罪悪感を消し得る裏切りとは、いったいなんだろう? 見当もつかない。……けれどなんとなく、ルカトゥがその「罪悪感」について勘違いをしているらしいことは察せてきた。

 きっと彼女は、私がオルディアの魔法を用いた生活に待ったをかけたことについて、「前言撤回をしてしまった」という罪悪感を持っていると考えて、今のようなことを言っているのだろう。……実際その考えは間違ってはいないのだけれど、完全な正解でもない。

 確かに私は散々彼女の体と心を貪った末に、自分勝手に前言を撤回して待ったをかけてしまった。……けれど私の罪悪感の最も大きなところはそこにはない。ルカトゥは私があの時「逃げ出したい」と思ってしまったことを、知らないのだ。

 仮に私が「そんな悪事を働いたサキュバスは、慰み物にされて当然だ!」と心の底から思ってしまうほどの行いをルカトゥが隠していたのだとしても、それはクリティカルなことにはなり切れない。……私はそれに対してどうせ怒りきれないのだ。都合が悪くなった途端に逃げ出したいと思ってしまったような人間には、ルカトゥに怒りを向ける権利がないから。

 ……けれど、ということはつまり、今の私は懺悔を聞くにはうってつけの状態であるようにも思える。私は彼女の裏切りとやらを、もはや甘んじて受け入れるしかないのだから。

「話すかどうかはルカトゥに任せるけど、一つだけ約束させてくれる?」

「約束ですか?」

「うん。……今の私には、たぶん何があっても、ルカトゥを怒る権利がないんだ。だから何を話されても、怒ったりはしないよって、そういう約束」

「な、なんでそんなこと言うんですか……。先生は悪いことしてないんですよ……? 怒る権利なんていくらでもありますよ」

「ルカトゥはそう思ってくれてるだろうけどね……。……試しに話してみる? それでどうなるか」

「…………わたしが話したら、先生も話してくれますか?」

「え?」

「先生も、隠してることがあるんですよね……? だからそんなに、自分のことを悪く言うんでしょう……?」

「……そうだね」

「わたしも絶対に怒りませんし、傷つきもしません。……だから、お返しに話してくれるって約束してくれませんか?」

「……私のは完全に、自分が楽になるためだけの懺悔にしかならないけど」

「それでいいんですよ。それがいいんです」

「あぁ、それもそうか……」

 そうだった、ルカトゥは今、私が喜ぶかどうかを基準に話をしているのだった……。それなら確かに、私は彼女に全てを話すべきなのかもしれない。このまま内心に秘密を閉じ込めたまま元気いっぱいに明るく振る舞ってみせるような演技は私には出来ないし、出来たとしても魔法でそのうちバレるに決まっている。

 ……だから私たちは、またしても交換条件を交わした。

「分かった、私のことも話すって約束する。……でもルカトゥのことから聞かせてくれる?」

「分かりました。……けど、想像を絶するほどひどい話になりますよ。いいんですか……?」

「なに、人でも殺してきたの?」

「そうではないですけど……」

「殺人レベルの話でもいいよ、教えて? ルカトゥは私を、どんな風に裏切っちゃったの?」

「……それは」

 ここまで来てなお珍しく、往生際悪く、ルカトゥはせり上ってくる言葉をもごもごと喉元で押しとどめているように一言目を躊躇った。

 ……それからしばらくしてようやく、彼女は観念したかのように口を開く。

「…………旅行の時、仕事で一日帰らなかった日があったじゃないですか」

「うん」

「あれは嘘なんです。仕事は半日で終わっていたんです」

「おぉ」

「残った半日は……」

「うん」

「…………………………………………風俗に行ってました」

「……風俗?」

 死にたくないのに切腹をするような悲痛な顔をして、ルカトゥは頷いた。

「それで、わたしは帰らなかったんです。夜中までずっとそこで遊んで、一度実家に帰ったんです」

「なるほど」

「……言い訳を聞いてくれますか?」

「もちろん」

「……そこにいた風俗嬢というのが、オルディアなんです」

「……あっ、えっ、なるほど!」

 やや遅ればせながら、脳細胞にひらめきの電流が走る。魔界と風俗とそれからオルディア……。それだけの情報が明かされたことで、私の頭の中では点と点が線で繋がり始めた。

「そうか、あの魔界旅行は、オルディアに会いに行くための旅行だったんだ! だからつまり……、えっと、たとえばオルディアが出勤しているのは夜だけだったから、彼女に会いに行きたいけど、夜中に魔界まで行って日帰りにするのはスケジュール的に厳しくて、泊まりにする必要があったとか……?」

「その通りです……」

「うんうん。で、しかもお客さんとして会いに行かなきゃいけなかったってことは、その時が初対面だったとか?」

「そうです……」

「なるほどやっぱり。いやそういうことか、合点がいったよ」

 初対面の状態から、友人のとある人間にあなたの魔法を使ってほしい……とそこで初めて交渉したなら、さぞや時間もかかっただろう。日帰りには出来ないわけだ。何せそのくらいの理由でもなければ、ルカトゥがわざわざ魔界までオルディアに会いに行く道理がない。魔法を借りる日ですら、彼女を私たちの住むこの家にまで呼び出したくらいだったのだから。面識がありそれが出来るのであれば、足を運ぶ必要もなかったはずなのだ。

 なるほどなぁ……と、私としてはその話を聞いて非常に納得が行きスッキリしたのだけれど、それとは対照的に、ルカトゥの顔色はどんどん青ざめていった。

「あの、先生……。言い訳に……言い訳にしかなりませんけど……」

「うん?」

「わたしはどうしても、現地に行かなければいけなかったんです。そこで十分な時間が必要だったんです。…………毒見をしないといけないから」

「毒見?」

「オルディアの魔法がどんな物なのか、その詳細を直接確かめもせずに、いきなり先生に使わせるわけにはいかないじゃないですか」

「あぁ、なるほど。確かに」

 どこかで見たエロ漫画に、定期的に射精しなければ陰茎が腫れて激痛を伴い、最終的には死に至るというとんでも設定の作品があった。もしオルディアの魔法によって生えるちんちんにその手のデメリットがあったら……と考えると、たしかに恐ろしい。詳細の確認は必須であり、不死身の毒見係がいるに越したことはない。

 そして、ということはつまり、

「じゃあ、ルカトゥは遊びに行ってたわけじゃないってことじゃん」

「へ?」

「オルディアのいる風俗に行って、そこで自分にちんちんを生やして、試しに使ってみたわけでしょ? それは毒見であって、遊びではないんじゃない?」

「……そう思ってくれるんですか?」

「そりゃ思うよ」

「わたしが性欲に任せてオルディアを抱いていたとしても……?」

「うん。それも含めて毒見だと思う。……ていうか正直ね、ルカトゥが風俗に行ったって聞いて、ちょっと安心しちゃった」

「え、な、なんで……?」

「だってルカトゥはずーっと我慢してくれてるでしょ……? その我慢のはけ口があるなら、その方が安心だなって」

 ……それはずっと気にしてはいたことだ。彼女は「食事」として誰かとセックスをするためによく出かけていくけれど、その相手とははたして女性なのだろうか……と。もしそうでないなら、彼女の同性に対する性欲には、どこにもはけ口がないのではと。

 気になってはいて、同時に、気にしないようにもしていた。自分自身がはけ口になることを申し出る覚悟がないのなら、私にはそれを心配する権利すらないと思っていたから。

「もし毒味なんかじゃなくてただの性欲発散でも、ルカトゥさえよければ風俗くらい好きに行ってほしい。……そんな風に言われたらルカトゥは傷つく?」

「傷つきませんよ。というか、先生ならそう言ってくれるような気はしてました。……でも旅行の時の話となると、別じゃないですか」

「別?」

「普段ならまだしも、せっかくの旅行中にわたしはそういうことをしてたんですよ……?」

「……じゃあどうして私を連れて行ったの?」

「それは……」

「あの旅行は、すごく楽しかった」

 ……ルカトゥの思考回路は時々、ほんの一瞬だけ、私に似ることがある。だから今度は逆に私の方が、彼女の考え方をコピーできたような気がした。

「いい口実だと思ったんじゃないの? どうせ泊まりで魔界に行くなら、私を連れていって旅行にしちゃえばいいって。一石二鳥だし。それこそ私を一人でおいて行きたくなかったとか」

「……上手くいくと思ったんです」

「上手くいったよ。楽しかったもん」

「わたしもそう思ってましたよ……! ……でも先生、わたしは、白状しますとね……」

「うん」

「……つい最近まで、これを悪いことだとは思ってなかったんです」

「あ、そうなんだ。じゃあそのままでよかったのに、どうして悪いって思うようになっちゃったの……?」

「先生が、エッチばかりの旅行は嫌っていうから」

「えっ……」

「わたし、本当に、それを聞いて初めて気づいたんです。自分が先生に何をしてしまったのか、本当に、初めて分かって……」

「…………そっか」

 だんだんと涙声になっていくルカトゥの感情を、完璧にコピーするかのように理解してあげることは私にはできなかった。……けれど、なんとなくそれを察することくらいなら出来る気がする。

 サキュバスの倫理観は、人間とはどこか違う。男を連れ込んだ際に使う玩具が親公認で実家に置いてあったり、自分が忙しい時には意中の相手にすら他の女をあてがおうとしたり、その他にだって、今まで私は彼女の「人間の心ではそうはならない部分」をたくさん見てきた。

 知り合ったばかりの頃からそうだ。いくらAV女優に就いていたって、普通なら、エロ漫画の資料にするからちょっと男とまぐわってきてほしいだなんて言われて、あんなににこにこ嬉しそうにする子はいない。それは狂気的な愛だけがそうさせているわけではなく、サキュバスらしい感性がそうさせていたのだろう。

 だからルカトゥが一石二鳥の旅行を計画した時、本当にそれを大して悪いことだとは思っていなかったのだと思う。人間の価値観に喩えて言えば、せいぜい何の特別性もない日常の中で恋人の目を盗んでアダルト作品を購入するくらいの気持ちだったのではないだろうか? 泣いて謝るような罪悪感は、きっとそこにはなかったのだと思う。

 けれど、私がうっかり彼女に「人間らしい価値観」を教えてしまったから、賢いルカトゥはきっと察してしまったのだ。もし、少なからず好き合っている自分たちがセックスに明け暮れること程度のことですら、旅行を台無しにしてしまうほどのことであるというのなら、内緒で赤の他人とのセックスに明け暮れた自分の行いというのはもしかして致命的に…………という具合に。

 そう考えると、私はルカトゥのことが心底気の毒になった。他人事のような気持ちで申し訳ないけれど、しかし「気の毒」としか言いようがない。彼女が「他人の痛みが分からない」と打ち明けてくれたあの冬に……乗り越えたはずのその問題に、今一度戻って来てしまったかのように感じる。

 ルカトゥはどうして、自分には理解できない他人の感性に寄り添って、そうやって泣くことが出来るのだろう……? 彼女は思わないのだろうか。お前たち人間のわけの分からない理屈なんて知ったことかと。後出しジャンケンで自分が悪者にされるのはもううんざりだと。……彼女はどうして、いつもそんなに気の毒な罪悪感を持てるのだろう? 自業自得な私とはまるで真逆だ。

 ……そう思ってから私は、いっそ開き直って笑った。あの冬の自分を思い出しながら。

「最高じゃん、ルカトゥ」

「え……?」

「この話、漫画にしたらめちゃくちゃ面白いでしょ」

「漫画……」

「それにさっきも言ったけど、私、ルカトゥが風俗に行くのは賛成。だからあの旅行は本当に一石二鳥……いやそれ以上だったと思う。楽しかったし、興味深かったし、思い出になることがたくさんあって、そこでオルディアに接触できたからこそ今日があって、ルカトゥは性欲をいくらか発散できたし、私はセックスの良さを知って、漫画のネタまで手に入れた。どこからどう見ても最高じゃない? 謝られることなんて一つもないよ」

「……先生ぇ」

 心細そうな声のルカトゥが、私の手をとる。揺れる心情を伝えるためか、あるいは、心細くなった子どもが親の手を握るみたいに。

「わたし……いいんでしょうか……? こんなに先生に甘えて、「じゃあいっか」って思ってしまって、取り返しのつかないことになりませんか……?」

「え、なんでそんな風に思うの……?」

「だって……」

「私はルカトゥに対して、いつも「じゃあいっか」っておんぶにだっこになってるつもりなんだけど。それって取り返しのつかないことになる……?」

「それは、わたしは大丈夫だからいいっていうか、むしろ嬉しいですけど……。でも先生は……」

「うん」

「…………先生は、か弱いじゃないですか」

「……まぁ確かに」

 それこそ私の心が弱くなければ、そもそもオルディアの魔法を辞めたいだなんて言い出しはしなかったのだろうけど……。

 いや、言われてみれば確かに難しい。境目が複雑すぎて、私にとっての「まったく平気なこと」と「そうでないこと」を他者へ正確に伝えるのは、これはもしかすると不可能なことなのかもしれない。そしてそれが正確に伝えられなければ、ルカトゥが不安になるのも最もなことだと思う。

 だけど、じゃあどうすればいい……? どうすれば私は、ルカトゥがいま気に病んでいることは、私にとってはノーダメージなことなのだと証明できる?

 思えば自分は、性欲にまみれた生活の何が嫌なのかを自覚するまでにこれだけの時間を要してしまったような……「大丈夫」と言った後から手のひら返しを決めてしまったような人間なのだ。そんな人間が、今度こそ本当に大丈夫であることを証明するには、どうしたらいいのだろう……? すでに終わったことについての秘密を打ち明けられて、それが全く気にならなかったから、今度こそはこれ以上変わりようもなく本当に間違いなく大丈夫だと断言できるのに。どうすればそれをルカトゥに上手く伝えられるのかが分からない。 

 確かに心の中にあることなのに、それを上手く伝えることは出来そうもない。……どうして毎度そうなってしまうのだろう? 愛ではなくても好きだとか、無敵ではないけど平気だとか、そういったことを相手へ正確に伝える方法は、この世に存在しない物なのだろうか……?

 ……しかし、もしそうだったとしても、今ここで沈黙を返事とするわけにはいかない。だから無理に喋りながらでも言葉を探す。

「確かに私は弱い……けど、でも、現に今回は大丈夫だったんだよ? だからそんなに気に病まないで……?」

「そうなんですか……? なら、それは本当によかったです、命拾いしました……。…………でもやっぱり、それでも、わたしは先生に悪いことをしてしまったんだと思います」

「全然問題なかったのに……?」

「今回は、でしょう? このまま同じ感覚でいたら、次は本当に先生を傷つけてしまうかも……」

「……絶対にないとは断言できないのがつらいところだね。逆に断言できるルカトゥが凄すぎるんだけど」

「そこは、わたしが変なだけですから」

「そんな言い方しなくても……」

「……とにかく、わたしの懺悔はこれでおしまいです。よければ、次は先生の方の秘密も聞いてみたいです」

「あぁ、そうだった。約束だもんね」

 ……平静を装いつつも、ここまで話が進んで来てしまったことに「まずい」と感じる。

 結局、ルカトゥに「話してよかった」と思わせてあげられるような言葉は思いつかず、懺悔の順序が回ってきてしまった。しかもそこで私が話すべきこととは、あの時逃げ出したくなってしまったこと……すなわち、私の心の弱さについての話になる。私の懺悔は、ますますルカトゥを不安にさせることこの上ない内容になってしまう。

 不安にさせるくらいなら、何か出まかせの内緒事を打ち明けようか? 一瞬そう考えたけれど、下手なことをしてボロが出るといっそうまずい。ハッタリをかます覚悟なんて決まるはずもなく、沈黙を生むことを避けんとするばかりに、私の舌は半ば勝手に回り始める。

「……本当に、ルカトゥを傷つける内容でしかないんだけど、いい?」

「はい」

「…………じゃあ言うけど、私は、ルカトゥを見捨てようとしたことがある」

「見捨てる?」

 ルカトゥはキョトンとした顔をする。

「いつですか?」

「つい最近」

「見捨てられるようなことがありましたっけ……?」

「あったでしょ。ほら、……ダメって言われたのにお腹を殴った時」

「あ……」

 その話を持ち出した途端、予想通り彼女の表情は曇った。気を取り直して聞き役に回ったかと思われたルカトゥが、再度懺悔をする側に戻ってきたかのように。

「その節は本当にすみませんでした……」

「いいの、気にしてないよ。……でもね私その時、本当にルカトゥのことを見捨てようとしちゃったんだ」

「というと……?」

「……逃げ出したいって思ったの。あの時、殴ったところのアザが消えなくて、ルカトゥは魔法の力を失ったんだと思ったから、取り返しがつかないことをしたんだと思って。そしたら咄嗟に思ったことが、逃げなきゃって……。…………最低でしょ」

「……え、でもそうじゃないって分かったじゃないですか。わたしがうっかりしてた……というか、調子に乗りすぎただけだったって。現に先生は、今もこうして傍にいてくれてますし。少しも見捨てられてませんよ?」

「でもそれは結果論でしょ? 結果としてはそりゃ何事もなくてよかったけど、私はその結果が分かるより先に、逃げ出したいって思っちゃったんだよ。苦しんでるルカトゥを見ておきながら、自分のことだけ考えて……」

「……あぁ、なるほど」

 神妙な面持ちをしていたルカトゥが、途端にくすりと笑う。

「先生は、それを気にしてくれてたんですね」

「そうだけど。……おかしかった?」

「あ、いえ、ごめんなさい違うんです。その、……安心しちゃって」

「え、なんで……?」

「だって先生、わたしと同じなんですもん」

「ほう……?」

「わたしも、先生から逃げ出したくなっちゃったことがあります」

「えっ」

 思わぬタイミングで、心臓がキュッとなった。

 言われてみれば確かに、見捨てる見捨てないの話を、そもそも私の方がしていること自体がおかしかったのかもしれない。おんぶにだっこな頼りきりの身分のくせに、どうして自分は上から物を考えていたのか。

 次こそは平気ではないかもしれない。……ルカトゥの語ったそんな不安が、唐突にこちらへ跳ね返ってくる。

「ち、ちなみにそれはどういう時に……?」

「体を入れ替えた時に、ちょっと喧嘩しちゃったことがあったじゃないですか」

「あぁ、あったね」

「あの時は、どんな風に先生に謝ればいいのか分からなくて、なかなか顔を合わせられなくて……。それで随分長い間、先生から逃げてしまいました」

「……ん? うん、なるほど?」

「それに、先生から罪悪感のことを教えてもらった時も、自分の無神経ぶりを自覚した瞬間はかなりショックで……。思わずその場から逃げ出そうとしてしまいました。その時は、先生が引き止めてくれましたけど」

「う、うん」

「わたしですら、そういう風に逃げ出してしまいたくなることはあるんです。だから先生が同じことを思っても、気に病む必要なんて一ミリもないですよ」

「…………いや、えーと」

 頭の中に、大きな天秤が現れて、それがガタガタと揺れ始める。このまま「そうなんだ、なるほど、ありがとう。気が楽になった!」と言ってしまうのか。それとも、ルカトゥの語ってくれた「逃げる」は私が言っている物とは別物すぎる……と白状するのか。

 ……そうやって私が迷っている間に、何かを察したのか、ルカトゥが付け加えて言う。

「それに先生。もし先生を逃げ出したい気持ちにさせてしまったなら、それはわたしの責任です。……嫌な気持ちにさせてごめんなさい。本当に、もう二度とあんなことはしないようにしますから。誓います」

「え、いや、そんな、ルカトゥは悪くないでしょ……」

「……そう言ってくれるのは嬉しいですけど、抱え込みすぎないでくださいね? 先生が罪悪感に押しつぶされてしまうのが、たぶん、お互い一番つらいですから」

「……それはまぁ肝に銘じておく」

 遠慮や罪悪感からの脱却を冬からずっと胸中に掲げておきながら今はこの様なのだから、肝に銘じることにどれだけの意味があるのかはもはや分からないけれども。

 ……お互いが秘密を明かしあって、それを許しあったから、なんとなく話がひと段落したような雰囲気が出てくる。だからその日はそれで私たちの懺悔会はお開きになった。……だけど、ベッドから離れて日常に戻って行く中で私たちが感じていたことは、おそらく同じだった。

 懺悔という物は、思いのほか気が晴れない物だ。秘密を明かし、それを許してもらえたはずなのに、気持ちとしてはなぜか懺悔の前とほとんど変わらない。私だけならともかく、ルカトゥも見るからにそう感じているようだった。その後一日中、彼女はどこかしおらしかったから。

 ……もしかすると、許されるかどうかには関係なく、ただ「自分がどう思うのか」ということだけが罪悪感の全てなのだと感じているのは、私だけではないのかもしれない。

 そうやって相手にシンパシーを見出したところで、べつに気持ちが軽くなるわけではないのだけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の日もルカトゥは口で性処理をしてくれた。

 そして、ありがとうのキスまで済んでから、彼女は私の目を不思議そうに覗き込んできた。

「……先生は」

「うん?」

「わたしから「好き」って言われるの苦手ですか?」

「えっ」

 その抉るような質問に、私は昨日から続くモヤモヤした気持ちの原因を理解した。……懺悔が気を晴らしてくれなかったのではない。私がきちんと懺悔をし切れていなかったから、気も晴れなかったのだ。

 思わず逸らしてしまった目が、返答になってしまった。

「……あの、苦手とかじゃないんだけど、なんていうかさ……」

「はい」

「…………申し訳なくて、ルカトゥに」

「……よかったらその話、詳しく聞かせてもらえませんか?」

「……うん」

 断ることは出来なかった。聞いても嫌な話になるだけだとか、そんなことを言う権利は私にはないように思えた。

 今、面と向かったルカトゥは、機嫌を悪くしているわけでもなければ、悲しんでいるわけでもないように見える。かといって興味や好奇心に目を輝かせているわけでもない。そしていつも身にまとっている持ち前の余裕も、今の彼女にはないようだった。

 私はつい最近の彼女にも同じような表情を見た気がする。まるで子どもを心配する親のようなその表情に覚えがある。

 ……そんな彼女にジッと見られながら、私は昨日の懺悔の続きを始める。言葉は今この場で探しながら。

「……夜中、外に行った日の帰りにさ、私、話したでしょ? 恋愛感情みたいな物が、そもそも分からないって」

「言ってましたね」

「ルカトゥの言ってくれる「好き」に、だから、私じゃ応えられないと思って……」

「……でも少し前までは、わたしが好きって言ったら、先生も好きって返してくれてたじゃないですか」

「それは……。……好きなのは本当だよ」

「知ってます」

「え……?」

「先生はわたしに嘘をつけないでしょう? わたしに魔法があるから」

「でも……」

「恋愛かどうか以前に、とりあえず先生がわたしを好きでいてくれていることは知ってます。……だから好きって言ってもらえるたび、すごく嬉しかったです」

「……じゃあよかったけど」

「でもここ最近の先生は、わたしが好きって言うと、すごく苦しそうな顔をしますよね……? 前はそんなことなかったのに」

「だって、それは……」

 トラウマにはならないと言ったのに。腹に痛々しいアザを付けて目の前で泣きじゃくるルカトゥの姿が今、脳裏に鮮明によみがえった。

 ……私は、自分の思いを伝えたくて彼女に「好き」と言っていたわけじゃない。ともかく好きだとは思っていても、それを口にする動機は……そんな愛から湧き出るような衝動は、愛どころか恋すら分からない私のような人間からは出てこない。私がルカトゥに好きと言う時は、彼女を喜ばせたい時や安心させたい時、あるいは感謝を伝えたい時くらいだった。

 それはつまり、私にとって「ルカトゥに好きと言うこと」とは、彼女の首を絞めたり腹を殴ったりすることや、あるいは深いキスをしながら唾液を飲ませることと、趣旨としては何も変わらないということを意味する。ルカトゥが喜んでくれることをただただ期待して、私は好きのオウム返しをしていたのだ。

 けれど、あの日絶望の表情を浮かべて泣いたルカトゥを見てからは……そんな彼女を見て「逃げ出したい」と思ってしまってからは事情が変わった。上辺だけの耳触りが良い言葉を並べるにしても、その在り方には限度という物があることに私は気づいたのだ。

 ルカトゥは昨日の私が話した懺悔の内容を、本当に分かっていないのだろうか……?

「……逆に聞きたいよ、ルカトゥ」

「え……?」

「あの時、逃げ出したいって、ルカトゥのことを見捨てようとした私に、そんな私から好きって言われて、嬉しいわけなくない……?」

「……そう思いますか?」

「そりゃ思うしかないでしょ……。恋愛じゃない好きだって好きの内でしょって、私だって思いたかったけどさ。けど、いざとなってみて分かったんだよ。私の言う好きはそれ以下の、上っ面以下の、何の価値もないひどい物なんだって……」

「…………悲しいことを言いますね」

「…………」

 ルカトゥが本当にあまりにも悲しそうにするから、謝罪の言葉も怯えてしまって出てこなかった。……まるで気が動転したまま、包丁を彼女の腹に突き立ててしまったかのような気持ちがした。

 いつも当たり前のようにもらえていた慈悲の代わりであるかのように、自嘲の笑みがルカトゥに垣間見える。

「じゃあ、それでも好きって言ってほしいと思うわたしの気持ちも、上っ面以下のゴミみたいな物なんでしょうか」

「そ、そんなわけない……!」

「でしょう?」

「え、……う、うんっ」

「わたしも、自分の気持ちがひどい物だとは思いません。同じように、先生の言ってくれる「好き」も、逃げ出したいとかそういう話を聞いた上でなお、ひどい物だなんて全然思いません。先生から好きって言ってもらえるのは、いつだって嬉しいんですよ」

「……な、なんで? ルカトゥがそう言ってくれるのは嬉しいけど、私はひどいことしか出来てない……」

「いいえ、先生はひどいことなんてしてません。……だってそうでしょう? 先生がもし、背負いきれないような重すぎる責任に遭遇してしまった時はわたしを見捨てるって、だから何なんですか……? そんな時は来ませんよ。今日来なかったみたいに、一生来ないんです」

「いや、それは、そうだったら良いけど……」

「じゃあそれでいいじゃないですか。……それとも人間の価値観では、もし相手が植物状態でベッドの上から動けなくなって、コミュニケーションの一つすら交わせなくなったりしても、それでも一生介護を続けられるというほどの覚悟をあらかじめ持ってなければ、たった一言の「好き」さえ言うことが許されないんですか……? それが当たり前なんですか?」

「……いや、えっ、えぇ……?」

 気圧されて上手く答えられなかった。というか思考が追いつかなかった。……まずルカトゥがこんなに圧のある語気でまくし立てるということ自体が、夏に雪が降るかのごとく常識を覆すことのように思えてしまって、そのギャップの衝撃に私の思考力の大半は攫われていた。

 けれど、そうしたいつにない振る舞いの根の方にある情緒だけは、あらゆる理屈を通り越して感覚で理解できた気がする。そしてその理解が、思わずそのまま口に出てしまう。

「……ルカトゥ、怒ってる?」

 言ってから、自分の言葉のあまりの無神経さに、白々しくも息を飲んだ。

 それに対して、ルカトゥは小さく微笑んで見せてくれる。

「怒ってませんよ。……でも、少し悲しいのと、先生のことが心配なんです」

「心配……?」

「罪悪感に押し潰されちゃうんじゃないかって」

「……そっか」

 ……自分はまた振り出しに戻ったのだと、痛感させられた。

 ルカトゥは、とにかく私に重荷を背負わせたくないのだと思う。彼女の行動原理にはいつもその一点が重く存在している。愛されたいとか大切にされたいとか、自分の欲求を満たしたいだとか、そういった気持ちよりもおそらくもっと大きく重く、その聖人じみた願いが存在しているように私からは見える。

 なのに私は、その優しさにすら応えられない。勝手な罪悪感で精神的な自傷じみたことを繰り返して、それがどうしてもやめられない。いろいろなことを「ルカトゥなら平気そうだし、べつにいいか」と開き直って、諸々の苦労を彼女に押しつけておきながら平気な顔をして毎日暮らしているはずなのに、なぜかその暮らしの中でまだ罪悪感を捨てられずにいる。後生大事に守るような物でもないだろうに、私はまた、好きの価値だとか何だとか、そんなひとりよがりな話をしている。

 ……分かってはいるけどダメなんだ。気がついたら自分はこうなっていて、魔法を使うまでもなくルカトゥに察せられて、彼女に気を遣わせて、何も良い結果に繋げられなくて……。

「…………ごめんルカトゥ、無理なのかも」

「えっ?」

「私には罪悪感を捨てるなんて、出来ないのかも」

「……無理ではないと思います。先生は、できる時はできる人です」

「無理だよ。一つ捨てたと思ったら次が来るんだ。たぶん一生そうだよ」

「…………先生は、わたしと居るとつらいですか?」

「ううん、つらくない。むしろ、ルカトゥがいてくれないと、その方が絶対つらい」

「でも……」

「ルカトゥは、罪悪感が捨てられない私のことは嫌い?」

「嫌いなわけないです。……ただ」

「ただ?」

「…………先生、一つだけ、嫌な話をしてもいいですか?」

「な、なに……?」

 その時ルカトゥが浮かべた微笑みは、すごく穏やかなのに、今まで見たどんな表情とも違う感じがした。どういう感情がそこに秘められているのかは分からなかった。

「……先生は、どう足掻いてもわたしより先に死ぬんですよ」

「え……。……まぁ、そうだろうけど」

「先生は、どんなに真摯に一生を誓ってくれたとしても、結局はわたしを残して、わたしにとっては人生の半ばもいいところで、どうしたって必ずいなくなってしまうんですよ」

「……うん」

「そう考えたら、今を楽しむしかないって思えませんか? 今こそを、今だけをです」

「今だけ……?」

 そう声に出して反芻すると、ある連想が思い浮かんでくる。

 性欲の処理をしてもらったあとにベッドへ腰かけて話していたからなのか、それともルカトゥのことをサキュバスだと知っているからなのか。その連想は、行ったこともない夜の街からもたらされたかのような物だった。

「……それはもしかして、ワンナイトラブの延長線上みたいな話をしているの?」

「そうです」

「じゃあ今だけなんて、そんな言い方は詭弁だよ」

「わたしにとっては大真面目な話なんですよ」

「だから出まかせで愛してるって言えって?」

「そこまでは言いませんけど。先生がいつも「愛してる」ではなく「好き」と言ってくれていたのは、訳があることなんでしょう?」

「……本当になんでも筒抜けか」

 きっと通知の魔法が「好き」を嘘とは判定しなくても、ルカトゥはとっくに気づいているのだろうとは思っていた。自分の言う好きと、それに返される好きでは意味が違うことに……「愛してる」では嘘になってしまうということに、彼女は気づいている。……それはそうだ、そんなことが、誤魔化しきれるわけはない。

 なのに気づいた上で、ルカトゥはそれでもいいと言ってくれているのだ。しかも今初めてそう表明したわけじゃない。私が言う「好き」を聞いて、それで喜んで見せてくれる彼女の振る舞いの全てが、こんな話し合いをするまでもなく初めから明確な意思表示だった。ルカトゥはずっとそういう風にしていてくれた。

 ……でも、それなのに、なんてことだろう。ルカトゥの通知の魔法は目が粗く、彼女自身の観察眼はエスパーじゃない。彼女はまだ私の本心を知らない。……だからここへ来てついに私は、今までずっと彼女に黙ってきたことを白状するしかなくなった。

 それを白状する理由は、私がどれだけ醜悪な心を持っているのかを、せめてもの誠意として底まで明かし尽くさなければならないから……ではない。単純に私自身が、その隠し事を墓場まで背負っていくことに耐えられそうもなくなってきたからだ。

 重荷を背負いたくないという気持ち自体は、私にだってずっとある。だから、口にすることの罪よりもこの期に及んで隠すことの罪が重くなったなら、白状するしかなくなる。

 懺悔に次ぐ懺悔だった。

「いいよ? ルカトゥ。そこまで言うなら、私だってルカトゥのことが好きだし、いくらでも言うよ、「好き」くらい」

「ほんとですかっ」

「うん。……でもその前に一つだけ白状させて」

「なんですか?」

「初めてルカトゥに性欲をぶつけた時、私、言ったよね。なんでも全部受け入れてもらえることが嬉しい、興奮するって。…………あれね、嘘だった」

「え? そんなはずは」

「いや、嘘をつくつもりじゃなかったんだよ。勘違いだったの。あのあとルカトゥといろんなことをしていくうちに気づいたんだ。……受け入れてもらえることが嬉しいんじゃない。ルカトゥが私の思い通りになることが嬉しいんだって。そこに興奮してるんだって」

「思い通り……」

「私の言いなりになって、なんでもさせてくれたでしょ? どんなことをしても、ルカトゥは絶対に私のことを嫌いになったりしないし、ただの一つも文句を言わなくて、いつも上機嫌だった。私がやることなすこと全部を許してくれて、それどころか喜んでくれた。……それが楽しかったんだよ私は」

「……そうだったんですね」

「そう、だから! ルカトゥに「好き」って言ったら、伝えたら、ルカトゥが私の思う通りに喜んでくれるから、それが楽しかったんだよ……! ルカトゥからの交換条件に応じてたのもそう。応じたら、見てて気持ちいいくらい嬉しそうにして、喜んでくれるんだもん。それが楽しくて、それを目当てに、私は……」

「……ずっと、単純なわたしが簡単に喜ぶところが見たくて、そうしてくれてたんですね?」

「そうだよ……! それでもまだ私から好きって言われたいだなんて言える……!?」

「言えますよ? 気持ちは一切変わりません。……ただ、一つだけ言わせてもらうとしたら」

「なに……?」

 ルカトゥの顔に、今度は見慣れた調子の微笑みが浮かぶ。

「わたしは今、先生のことをもっともっと好きになりました。すごく嬉しいです、今の話」

「……はぁ? なに……なにが? はぁ? 意味が分からない、適当なこと言わないでよ」

「適当じゃないですよ。だって先生、わたしに似てるんですもん」

「似てる?」

「わたしも先生を喜ばせたくて、なんでも受け入れてきたんですよ。似てるでしょう?」

「……それは、だって、ルカトゥのそういうのは、恋愛的なアレっていうことでしょ……?」

「そうかもしれませんけど。でも、じゃあ言い方を変えましょう」

 とんとん……と彼女は自分の喉を指さす。

「こんなところに硬い棒をねじ込まれて、気持ちいいわけないじゃないですか。苦しいだけですよ。でも先生が気持ちよさそうにしてくれるから、それが快感なんです」

「……えっ?」

「先生もそうなんでしょう? わたしのために台本を読んでくれたんですよね。わたしを喜ばせようとして、暴力は苦手なのに、それでもわたしのことをいじめてくれたんですよね?」

「……そう、だけど」

「だから似た者同士なんです。同じことを考えていたなんて嬉しいっ」

「いや、いやいやいやちょっと待って、それはおかしい」

 よく舌の回るルカトゥがあの手この手で私を慰めようとしてくれていることが……あるいは丸め込もうとしてくれていることが痛いほど分かる。けれども、今彼女が言っていることには明らかに、あの夜のようにガタついた出まかせの論理が使われていた。

 そういった「彷彿」に触れるだけでも、あの淫紋を濁らせるアザの消えていかない様を思い出してしまうのだから、実際のところトラウマはしっかりと私の心に刻まれてしまっているらしい。……でもだからこそ、それを振り払うかのように、論理の穴を指摘せずにはいられない。「嘘臭いけど本当のこと」なんてどこにも実在しないのだと確信したかった。

「ルカトゥの考えた台本は、ルカトゥから言い出したことでしょ? つらいだけのことを自分からやりたいって言い出したのはルカトゥじゃないの。だから私は確かにそれに付き合ったよ。でもルカトゥの考えた台本はルカトゥのための物なんだから、私を喜ばせようとしたことではないでしょ。「相手を喜ばせる」ってことを冒涜してるのは私だけだよ。ルカトゥは同じじゃない」

「……やっぱりそう思いますよね」

「そりゃそうだよ……。さすがにそんな適当を言われても、そっかそうなんだとは思えない」

「適当……。……そうですよね、すみません。ちゃんと一から説明します」

「え……?」

 改まった様子で、ルカトゥは私の隣で身じろぎをして座り直す。マットレスのバネの軋む音が、二人きりの部屋に染み入るように鳴った。

「まず、一つ約束したいことがあります」

「え、うん。……ん? してほしいではなく? そっちがするの?」

「はい、わたしが勝手に約束したいんです。……知っての通り、わたしは演技をすることがあります。先生に嘘はつきたくないと日頃から思っていますけど、隠し事は……すみません、全くしないというわけにはなかなかいられません。それに「演技」というのは、根本的に「嘘」の言い換えです」

「あ、うん。それは大丈夫だよ……? ルカトゥの隠し事に悪意がないのは知ってるし、演技だってそうでしょ?」

 旅行の最中に毒見をかねて内緒で風俗へ行くことだって、サキュバスであるルカトゥとしては本当に大して悪気のないことだったのだろうし、それ自体は私だって気にしていない。……というかそれ以前に、ある時彼女からいたずらに隠し事を暴こうとした結果、彼女のいわゆるクローゼットを強引に開いてしまったという前科も私にはある。そんな私に彼女の隠し事その物を嫌う道理なんてあるわけがないし、演技についてだって、ルカトゥに興味を持ったきっかけがそこにあるくらいなのだから、悪く思うわけがない。

 実際、ルカトゥもそのあたりのことについてはそれほど深刻には考えていないように見える。相槌を打つように軽く頷くことでもって、彼女は私の言葉をすんなりと受け入れたようだった。

「もちろんそうです。……ただ、その上で先生に約束したいことがあるんです」

「なんだろう?」

「……あのですね、わたし、先生には喜んだフリをしません。嬉しいフリをしません。だからわたしが喜んでいる時は、それが全て本心であることを、今ここで約束させてください」

「……なるほど?」

 喜んだフリはしない。……そう言われて一瞬、密かにぞっとしてしまった。

 確かに彼女は演技の名手なのだから、今まで私が「思い通りに喜んでくれる」と思っていたことだって、言われてみればただ手のひらの上で踊らされていただけだったのかもしれないとも考えられる。そう思うと自分の認識が足元から崩れていくような感覚に陥って、不安感に背筋が冷えた。

 けれどもっとよく考えてみると、ルカトゥについてはそれなりの数の「嬉しい」が本当であってくれないと、そもそも彼女が私に愛想を尽かしていないことについての説明がつかなくなる。それにルカトゥは隠し事や演技はしても、こんな場面でシンプルに嘘をつくような性格はしていないはずだから、その「約束」の信頼性は高い。

 ……そんな風に考えて私はまた、一人で勝手に不安になっては、一人で勝手に安心していた。

「それで、その約束を踏まえた上での話なんですけど。わたし、人のために何かすることが好きなんです」

「うん」

「元々は、人に喜んでもらうことが好きだったんです。ありがとうって言われたり、褒めてもらえたりするのが嬉しくて。先生に話した納豆の話も、その一環だったと思います」

「あぁ、じゃあ本当に昔からの話なんだ。子どもの頃からの」

「そうなんです。……でも、こう、わたしはサキュバスじゃないですか。サキュバスが人に喜んでもらおうとすると、自然と……こう……、……屈折した感じの人とも出会うことがあって」

「あー……。うん、だろうね……」

 人に尽くすのが好き、喜んでもらうのが好き。わたしに出来ることならなんでも頑張ります! ……みたいな女の子が性を司り、性を中心とした世界に身を置いていれば、それは当然、無数の羽虫がどこからともなく光へ寄ってくることと同じように、気持ちの悪い「他からは断られた人」が大勢寄ってくることだろう。大した経験も積んでいない人間である私にすらそれは容易に想像できる。

 今でこそルカトゥは全てを受け入れる懐の深さを持った無敵の存在だけれども、昔の……まだ子どもと大人の間だった頃の彼女は、もしかしていわゆる「断れない性格」だったのではないだろうか。容易にできた想像の先でそんな風に、今から心配しても仕方がないようなことが心配になってくる。

 一方でルカトゥの話しぶりは、これといって悪い思い出をしているような暗い調子ではなかった。彼女はしれっとした具合にそれを語る。 

「そうなんです。過激なAVだって、買う人がたくさんいるから作られるわけですし、そういう人っていうのは探さなくても見つかるくらいには多いんですよ。……それでわたしはその人たちに喜んでほしくて、せいいっぱい頑張りました」

「うん……」

「するとですね、だんだんその頑張りが、体の感覚と結びついて来ちゃうんですよ。痛いとか苦しいとか、心を踏みにじられた時の、心臓がキュッとなったり涙が出てきてしまうような感じが、「頑張る」っていうことと結びついちゃうんです」

「えっと、それは……。どういうこと……?」

「つまりですね。……苦しい思いをすると、相手のために頑張ってるっていう気がしてきちゃうんですよ。それが実際に相手のためであるかどうかには関係なくです」

「……あぁ、なるほど? 条件反射的な?」

「そうです」

 私がその時思い出したのは、昔どこかで聞いた、性感帯の開発についての話だった。

 聞きかじった話、新しい性感帯を開発するには、すでに十分な快感を感じることができる箇所と、新たに開発したい箇所の両方へ同時にアプローチすることが効果的らしい。それによって脳が快感の出処を誤認し始め、いわゆるパブロフの犬的な効果が現れるようになり、やがては後者の方からも本当に快感が得られるようになる……らしい。そもそも最初の性感帯を思うようには見つけられなかった私からすれば、自分の感覚としては確かめようもないことなのだけれど。

 ……ともかく、ルカトゥの言っていることはつまり、その延長線上のことなのではないかと考えられる。彼女にとって人に尽くすことは「好きなこと」だったけれど、「人に尽くす=苦痛を伴うプレイを受ける」の図式が定着した結果、彼女の中では「苦痛を伴うプレイ=好きなこと」という結びつきが生まれてしまった。……と、話を聞く限りそういうことではないだろうか?

 もしそうであるなら、「苦しいことは気持ちいいのではなく、苦しい」と正常極まることを言ったルカトゥが、異常性癖と呼ぶにふさわしいあの自虐的な台本を書いたことについても合点がいく。

「ルカトゥは、人のために何かすることが好きだけど、その「何かしてる感」を得るために、きついプレイをしたがってたの……?」

「その通りです。……だからわたし、自分のそういう性癖を自覚してからは、「人を喜ばせるのが好き」とは言えなくなりました。本当のわたしは人を喜ばせることというよりも、人のために何かをすること、……ひいては「何かしている感」を得ることが好きなだけなんです」

「なるほど……」

「だから、ね……? 先生とは似た者同士でしょう……? 先生が、人の喜びではなくて、人を喜ばせられるという実感だけを好んでいるなら……。相手の心その物は関係ないという意味で、わたしたちは同じじゃないですか……?」

「…………うん、確かに、一理ある。ルカトゥの言っていることが本当ならだけど」

「あ、だからそれは言ったじゃないですか。わたし、先生に対して「嬉しいフリ」はしませんって」

「あぁそうだった」

 嬉しいフリをしないとは、自分はこういう条件で嬉しくなるのだという話の中にも嘘をつかないという意味だったのか。それでルカトゥは、前置きのようにあんな約束を口にしていたのか。

 ……だとすれば気味が悪いほどに、彼女の話は理にかなっていた。何せ彼女は私に向かって「先生には幸せになってほしいというより、わたしの手で幸せにしたいと思う」という話をしたことがあった。彼女のそういった価値観と、今語られた性癖の話は完璧に一致する。ルカトゥという人物は相手の幸福その物よりも、どちらかといえば「幸せにしてあげている感」を優先する性格をしているらしい。そう考えれば全ての辻褄が合う。

 彼女が私を養ってくれているのも、毎日家事をしてくれるのも、性欲がないフリをしてくれていたのも、とにかくなんでも受け入れてくれようとすることも、全てはルカトゥ本人が「してあげている感」を得るためで、私は彼女のその目的の下で、副産物的なおこぼれの幸福を与っていただけなのかもしれない。……そう思うとパズルのピースがピタリとはまるような感じがする。もちろん「してあげる」の対象が誰でもいいのであれば、あえて私が選ばれる理由はなかったのだろうから、恋愛感情があるという話にも嘘はないのだろうけど……。

 ……しかし、いったい何だろう、今の私の心を覆っていくこの気持ちは。良からぬ真理に触れてしまったかのような、明確な理由もなく不安になる感覚だ。

 私はいま初めて、決して悪い意味ではないけれど、自分の目の前にいる人物が精神的な怪物であることを正しく思い知らされた気がする。それは痛みが分からないどころの話ではないし、「サキュバスだから」で済まされるような、圧倒的なパワーや独特の倫理観を見た時の感覚とも違う。

 ルカトゥの心は、人間だとかサキュバスだとかに関係なく、それ単体で、私の知る価値基準とは別軸のところに存在しているような気がした。別種の生き物だ……と、寿命差でもなく力の差でもなく魔法の有無でもなく有する常識の差でもなく、ただ彼女個人の思想とその実行性によって思い知らされる。

「……似てはいないかもしれない」

「えっ」

「私は、いくらルカトゥが喜んでくれるって分かってても、やっぱり自分がつらくなるようなことは出来ないし。……なんか、次元が違うかなって」

「……引きました?」 

「引いてはないけど、恐れ多いよ」

「……なるほど。…………でも、それなら分かってもらえたでしょう?」

「なにが?」

「先生が気に病んでいることは、わたしを傷つけるには遠く及ばないということです」

「……たしかに」

 少し考えてから、私はついに納得してしまった。

 ルカトゥの無敵のメンタルに「してあげている感」の話が合わさると、そこには本当に少しの隙もなくなる。たとえば私が「ルカトゥを思い通りにできること」を楽しんでいても、しかもその上「受け入れてもらえることが嬉しい」なんて小賢しくあざとい事実上の嘘をついていたとしても、その全てが「それでもいいよ」と「言ってあげる」ことによって、ルカトゥの中では「満足な出来事」として処理されていく。ありとあらゆる全ての出来事が、そうして彼女を芯から傷付けるには至らないまま吸収されていく。

 そこに唯一例外があるのだとすれば、恋愛感情についてのことになるのだと思う。一切の隙なく無敵のメンタルを持っているように見えるルカトゥでも、「嫌われる」とか「傍にいられなくなる」ということについては本気で嫌がるし、オルディアの魔法を提案した動機も、最近の彼女の自責的な落ち込みようを見れば、「先生にしてあげること」ではなく自分の欲のためであったのだろうと考えられる。……おそらくそういう風に、彼女の振る舞いには少しずつ恋愛感情やそれに連なる欲が紛れ込んでいて、それにまつわることだけが、何でも悦びに変換する彼女を唯一本当に傷つけ得てしまうのだろう。

 ……恋愛感情という物がいったい何物なのか、だから私にはますます分からなくなった。ルカトゥの無敵さすらぐらつかせるほどの物が、本当にそんなに多くの人間の中に備わっているのだろうか? にわかには信じられない。

 そしてその「信じ難い・理解できない」という気持ちは、次のルカトゥの一言でさらに深まることになった。

「……ところで先生? 分かってもらえたなら、お願いがあるんですけど……」

「ん、なに……?」

「その、そんなに深く考えなくていいですから、また先生に「好き」って言ってもらいたいな〜……って」

「…………いいよ?」

 我ながら、おそろしいほどの棒読み声しか出なかったけれど。

「ルカトゥ、好き」

「えへへ……♪ もう一回言って〜?」

「ルカトゥ大好き」

「もう一回っ」

「ルカトゥ大好きだよ」

「えへへ〜。わたしも先生のこと大好きですよ〜!」

 嬉しいフリはしないと約束した彼女が、そう言って突然熱烈なハグをしてくる。……そのやわらかい温もりの中で、私は思った。

 ルカトゥの中にある恋愛感情という物が何なのか、もはや私にはよく分からない。けれども、たぶんそれは誰が見たって同じことだろう。いつかテレビで見た恋愛に一家言ある芸能人でも、それに連なる全国の恋愛通の人間でも、あるいはサキュバスでも、もし私たちのやり取りを誰かが見たなら、あらゆる全ての他人が一様に困惑するだろう。その様が目に浮かぶようですらある。

 だけどそれについては、私だって少しも気にならなかった。恋愛なんて、そもそも元からよく分からない物なのだから、より分からなくなったところでなんてことはないのである。

 懺悔に次ぐ懺悔によって、今度こそ少しは心が軽くなった気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私がルカトゥに好きを言えるようになると、久しぶりに向こうからセックスに誘われるようになった。セックスをすることで、少しでも彼女に悔いを残させずに済むなら、それは私にとってもすごく望ましいことだった。

 しかし今となってはもう、ルカトゥが行為の最中に激しく喘ぐようなことはなかった。我を忘れたかのように乱れていた頃の片鱗……初めの頃の面影といったものが、今の彼女からは全く感じられない。……それについては完全にお互い様なのだけれど。

 私の上に跨って腰を振るルカトゥは、「あっ……んっ……」と控えめに吐息混じりの声をこぼしながら、あとは薄らと上気した頬に満足げな微笑みを浮かべるだけに留まる。

「せんせぇ……♡ すき……♡ 好きぃ……♡」

「私も好きだよ」

「んっ♡ うれしいっ……♡」

 好意を開けっぴろげにした彼女が休むことを知らずに何度もピストンして、ぬるぬるした圧迫感と熱をたっぷり送り込んでくる。……そうされるとどうしようもなく気持ちがいいもので、条件反射じみていると分かっているのに性的興奮をかき立てられる。

 ……けれど今日の私はその興奮の中で、「自分は最後まで残酷な行いをしているのだ」ということを自覚していた。目の前のルカトゥが艶めきながらも落ち着いているのは単なる慣れによることだけではないと、彼女の心の内を色々聞かせてもらった今なら分かる。

 初めの頃はきっと、沸騰するような恋愛感情が彼女の中にあって、それが慣れによって次第に丸くなっていったのだと思う。けれど、その後にルカトゥは様々なプレイを持ち出して、「してあげてる感」から興奮を得ようとしていた。……私はオルディアの魔法がある生活を否定したことで、彼女からその興奮までをも奪ってしまったのである。

 私に嫌われたくないルカトゥは、辞めたくなるほど性行為がしんどいと訴えられたからには、二度とあんなハイカロリーなプレイを申し出たりはしないだろう。それに実際のところ私だって、トラウマにならないというのは口ばかりのことだったのだから、いざハードなプレイを所望されたとしてもその期待に上手く応えられるのかどうかすら分からない。そこまでを踏まえてルカトゥは今、至って普通のセックスで、つつましくも満足してくれているのだと思う。

 なのに、結局私には恋愛的なことも分からないから、彼女を恋愛的に満たしてあげることも出来ない。恋愛の追求もダメ、性癖の追求もダメとなれば、それはもう、盛り上がれという方が無理な話になる。

 ……それでも時間が経てば性欲は溜まるし、性欲が溜まれば些細なきっかけで勃起してしまうし、そのまま性処理をしてもらえれば気持ちよくなれてしまう。……だからこそ、辞めたい、辞めたい……という気持ちが、私の中から薄まることは決してなかった。

 普通の人ならきっと、性欲を捨てたいと言いながら勃起しては自分の体を求めてくるような支離滅裂な相手に、こんなに好意的に接することはできないだろう。だけどルカトゥはそれをしてくれている。……私は彼女にそういうことを強いているのだ。

 ルカトゥがそれすら楽しめることと、自分の行動が最低であることは矛盾しない。……その自覚だけはどうしてもやめられそうになかった。

「……ルカトゥ、ちゅーしよ?」

「ん、やったぁ♡ んっ……♡ む……♡ んぁ……れろ……♡」

 舌を絡めあいながら目を閉じる。……キスをしている時なら目を閉じることが許されるような気がした。たとえそれが、本当は現実逃避的な行為であったのだとしても。

 まぶたの裏の暗闇の中には、お互いの息遣いやベッドの軋む音、触れ合う肌のぬくもり、そして与えられ続ける快楽だけがある。それだけが全ての閉じた世界で、電車の揺れに眠気を誘われるかのように、私は自然と絶頂に導かれた。ただ迫り来るその快楽の臨界点に身を任せた。

 ルカトゥが両手を恋人繋ぎにして、ぐりぐりと腰を押し付けるようにくねらせる。「あ〜……♡」と染み渡るような声と共に、彼女はいつにも増して余韻を楽しんでいた。

 一方で私は、いつにも増して深い賢者タイムに落ちていく。

「…………ルカトゥは、セックス好き?」

「ふぇ? ん〜、好きですよぉ……?」

「そっかぁ」

「…………もう〜先生ぇ、またつらいこと考えてるでしょ〜?」

「ごめん……。たぶん賢者タイム的なやつだから」

「ふむ〜。……どうしてあげたらいいんでしょうねぇ」

「私も分かんない。ごめんね」

「謝ることないですよぉ。……お掃除しますね〜?」

「あ、うん……」

 しばらく口でばかりしてもらっていたから、そういえばそんな物もあったんだ……と懐かしいような気持ちになる。今にして思えば、なるほどお掃除フェラというのは「してあげてる感」が濃い目のプレイだった。

 萎えたペニスが器用な舌に包まれて、中に残っているわずかな精液まで一滴も余さず吸い出される。……身震いするような気持ちよさを覚えながらも、私はほとんど手癖によってルカトゥの頭を撫でていた。

 ほどなくして掃除を終えた彼女は、ゴクンと喉を鳴らしてから、開口一番に言う。

「えへへ♡ 先生になでなでしてもらうの好き〜♡」

 ……人懐っこくすり寄りながら、本当に幸せそうな顔をして、そんなことを言ってくれるのだ。これを心地よく思わない人間なんていないんじゃないかと思う。

 ……そしてそう考えた時、私はふと気がついた。

「そう……? ありがとね、気持ちよかった」

「わたしもです〜♡ 先生ぇありがとう♡」

 満面の笑みでそう返してくれるルカトゥに、私は「やっぱりそうだ」と思う。

 ルカトゥは喜ぶフリをしない。……改まって約束をしてくれた以上、これについては絶対に揺るがない真実だと言える。あるいは別の言い方をすれば、もしルカトゥが改まって約束をするフリをして嘘をつくような子だったら、私にはもう信用できる物なんて何一つなくなってしまう。

 それでその約束を踏まえて今一度考えてみると、私は今この目で、きっとすごく重要なことを……心の機微といった物を目撃したような気がした。

 目の前のルカトゥが今、喜んで見せてくれているということは……。

「……ルカトゥは、私が喜ぶと嬉しい?」

「え、はい。もちろんですよ……?」

「してあげてる感とは別に、喜んでもらうことっていうのも、やっぱり嬉しいもの……?」

「え〜、あ〜、うん、そうですねぇ。そうだと思います。喜んでもらうのはやっぱり嬉しいです。…………えっ、どうしてそんな顔するんですかぁ……」

「いや……」

 そんな顔とやらがどんな顔なのか自分では分からないけれど、私はルカトゥの答えを聞いて、安堵が半分、後悔が半分の気持ちになった。

 何か大いなる動機があったからといって、その下に覆われた物が無に帰すわけじゃない。ルカトゥのしてあげてる感の下にある「喜んでもらえるのが嬉しい」という気持ちが消えないように、心という物は、きっとそういう風に出来ているのだ。……私だって、ルカトゥが喜んでくれたら嬉しい。この気持ちは、上に何が被さっていても、決して消えてなくなる物ではない。ルカトゥの振る舞いを改めて観察したことで、より強くそう思うことが出来た。

 するとまるで、多くの他人には出来るのに自分には出来なかったことがようやく克服出来たかのような気持ちになって、えも言われぬ安堵が心の内に湧いてくる。自分にもルカトゥと同じ喜びを共有することが出来るんだ……与えられるばかりではないんだ……と。

 けれどその一方で、後悔がある。湧いてきた安堵の中には、多くの幸福を、みすみす捨ててきたかのような心当たりもあったから。

「……ルカトゥはさ」

「はい」

「私から謝られることが、もしかして苦手だったりする……?」

「……いいえ? どうしてですか?」

「だってルカトゥは、私に喜んでもらえた方が嬉しいんでしょ? ……それに」

「それに……?」

「……今考えてみると、ルカトゥっていつも必ず、「謝らなくていい」って言ってた気がするから」

「えっ」

 彼女は目を丸くする。「意外だ」とでも言わんばかりに。

「わたし、そんなこと言ってましたか……?」

「たぶん。さっきも言ってたし」

「うそ……。……じゃあすみません、それはわたしがまだ未熟だったせいです」

「未熟……?」

「……たしかに少し前までのわたしは、先生に謝られてもあまり嬉しくありませんでした。けど、先生に罪悪感のことを教えてもらってからは、心を入れ替えたつもりだったんです。先生の「ごめんなさい」を受け入れられるようになりたいって、そう思うようになったんです」

「あっ……、なるほど、そうか……」

「そうです。……それがわたしの、新しい「してあげる」のつもりだったんです」

 至極真剣な面持ちで、彼女はそうやって自らの手の内を明かした。

 ……私の知らない間に、ルカトゥは想像していたよりも遥かに深く、罪悪感という物の性質を学習しきっているようだった。彼女の新しい「してあげる」は……それが「してあげる」になり得るのだという認識は、ついこの前まで罪悪感に疎かった者の考えることにしては、あまりにも的確すぎる。

 私は、恥じ入らずにはいられなかった。

「……ルカトゥは分かってたんだ」

「え?」

「ごめんって謝ることが、自己満足なんだってこと。分かってたんだ……」

「そ、そんなことは言ってませんけど……」

「だってそうじゃない。ルカトゥのためを思うなら、私はごめんじゃなくてありがとうを言うべきだったんだから。それか、謝るからには、自分の行いを改めるべきだった。……私はずっとそれが、どっちも出来なかった」

「先生のそういうところも、わたしは受け入れてあげたいんです」

「そういうところって、自分の気を紛らわせるために謝っちゃうようなところ……? それとも口だけで何もしないところ? ……ルカトゥは、そもそも私なんかのどこがいいの……?」

「どこがって、まさにそういうところですよ……? 先生はそうやって、すぐ自分のことばかり悪く言ってしまうでしょう。でもそこがいいんですよね」

「……なんでよ。それを言うならルカトゥは、なんでもかんでも私を過大評価しすぎだよ」

「そんなことないです」

「どうして? そんなことあるよ」

「……どうしてと言われても、上手く言えません。けどとにかく好きなんです、分かってください」

「……そうなの? 上手く言えない……?」

「はい」

「…………そうなんだ」

 あれだけ口の回るルカトゥが、急にそこだけ上手く言えなくなるだなんて、そんなことがあるだろうか……?

 仮に、言えない……もとい言いたくないというのなら、私にそれ以上の追求は出来ない。ルカトゥの秘密を無理に暴くことの重大性は身をもって知っているから。たとえば同性愛が判明する前のルカトゥに同じ質問をしていたとしても、彼女は「上手く言えないけど好き」と答えていただろうし……。

 ……けれどもなんとなく予想はついてしまう。ルカトゥが私に言えないことといえば、大きくまとめると「先生を傷つけかねないこと」が筆頭だ。嫌われるかもとか軽蔑されるかもとか引かれるかもとか、そういう諸々がその括りの中に収まりきる。

 では、私が聞けば傷つきかねないことの中で、ルカトゥが私を好いてくれる理由であり、なおかつ私を過大評価しているわけではないと断言できる理由としては、いったいどんな物が考えられるだろう? ……少し考えれば容易に想像はつくことじゃないか?

 ルカトゥは私のことを、私の中学時代から追っていたのだという。だから、彼女が好きになった私というのは、元を正せば「大人になってからの卯月雛子」ではない。子どもの頃と地続きな私を、ルカトゥは好いてくれている。……けれど中学時代の自分というのは、そんなに立派な人間だっただろうか? ルカトゥは当時の私を尊敬していたから、私のことを好きになったのか? いや、そんなわけはない。

 本人だって、たしか要約すればこのようなことを言っていた。プライベートなことをペラペラ喋りながらひねくれた持論を語り、セックスの味を知らないどころかロクに友達もいないような陰キャの女子中学生がエロ創作をする様を見ていて、それが気に留まったのだと。

 ……べつに今さら隠さなくたって、そういうのはとっくに分かっていたことだ。

 分かっているけれど、それでも追求してはいけない。ルカトゥが自ら話したがっている場合ならまだしも、そうですらない時に余計なことをするとどうなるのか、彼女の恋愛対象を知らなかった頃と知った後の事を見比べられる今の自分になら、それが生半可な覚悟でやっていいことではないと分かるから。二の轍を踏むわけにはいかない。

 だから、こちらの気づきを悟られないように、なおかつ嘘にもならないように。……言葉選びには気をつけて話す。

「……ルカトゥ。私はやっぱり、ルカトゥのことが好きだな。かなり好き」

「えっ、あ、ほんとですか! うれしい……わたしも先生のこと大好きですよぅ」

「うん、ありがとう。……たぶん私、ルカトゥになら何を言われても平気な気がする」

「へ……?」

「じゃあすっきりさせてもらったし、私はまた漫画制作に戻ろうかな」

「あ、は〜い」

 聞き返すような反応には、わざと気づかないフリをした。

 ピロートークにしては長すぎる話を終えて、私たちは狭い家の中で一度解散する。オルディアが来るまでの最後の一週間は、毎日こんなことばかりになるような気がした。

 パソコンの前に座り、これまでに自分が描いてきた漫画を振り返る。例の冬の話は、それがゆめ魔にっきの制作秘話であったことが明かされるくだりまで含めて、もうほとんど清書が完成していた。

 ……だけど今日の私が見返したのは、終盤よりは少し前の、焼肉屋とカラオケのくだりだった。肉を焼く係を全てルカトゥに任せ、酔っ払い、自分からカラオケに行きたいと言ったくせに到着した瞬間に寝落ちして、家まで運んで帰ってもらって……。

「……はぁ」

 それを描いていた時とはまた違った意味で、思わずため息が出る。昨日までの罪悪感のため息とは違うそれは、なんというか、感嘆の表れだった。

 こうして見返してみると、ルカトゥの視点からはなるほど本当に「してあげたこと」だらけになっている。私はそこにずっと申し訳なさを感じていたけれど、その裏で彼女は、それはもう充実した気持ちでいたのだろう。今日は先生にこんなに尽くしてあげたぞ……と。

 もし私がなんでも一人で出来て、同居人にすらだらしない姿を少しも見せないような完璧人間だったりしたら、ルカトゥはきっとひどくつまらない思いをしただろう。そういう意味ではある種、私たちは運命の組み合わせだとも言えそうだけれど……。

 実際にはその運命はいくらか仕組まれた物なのだと、私は今日になってようやく思い至った。その昔、子どもだった頃の私をルカトゥがインターネット上で発見したことまでは、完全なる運命……もとい偶然なのだけれども。その後のことについては違う。

 ルカトゥはきっと、ダメ人間が好きなのだ。それが子どもか大人かなんてことは、たぶんどうでもよかったのだと思う。とにかく、尖って孤立していて内弁慶で偏屈でプライドが高そうで、ひたすらひねくれたエロ漫画を描き続けているような変わり者の女に目をつけて、ルカトゥはきっとこう思ったのだ。この子にならたくさん「してあげられる事」がありそうだ……と。そしてそれで完全に、私に狙いを定めたのだ。

 ……そうだったとして、それを悪く言う気にもなれなければショックに思うこともできない私のような人間を、そこまで狙ってチョイスしたのだとしたら、ルカトゥの人を見る目は相当なものだと思う。

 私としては、もはやそこに感心と、それからこの上ない感謝を向けるしかなかった。もしかするとルカトゥに目をつけられなければ、私は今頃もう少し社会的にまともな人間になれていたのかもしれないけれど、そのまともな私の歩む人生が今より幸せだったとはまったく思えないから。……だってその世界線の私はきっとまだ、この家に招くことができる友人の一人すら作れていないだろう。

 執筆の手を止めて振り返ると、ルカトゥは録画してあったバラエティ番組を見ていた。そしてそこで、パジャマ姿のままコンビニに行くことをなんとも思っていない若い女性の話を聞いては、けらけらと楽しそうに笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オルディアが来るまでの最後の日。明日にはもう魔法を解除してもらえるという日になっても、私たちはセックスをしていた。最後だからといって何を工夫するでもなく、ただ性欲を処理するために体を重ねあって、向こうは底知れない愛を、こちらは上っ面の好意を、短い言葉でささやきあった。

 セックスに慣れたとは言っても、気持ちよくなりたいあまりに勝手に腰が動いたりするようなことは未だにある。……だけどそんな本能に忠実な時間の中ですら、「これが最後か……」という意識は頭から離れなくて、そういった意識が呼び込むような物思いもまた、一度耳障りに感じた秒針の音のようにいつまでも私の心を引っかき続けた。

 ……快楽を貪りながらも思う。明日になったら、異性のシンボルや制御不能な性欲は私の中から消え失せるのだとして、しかしそれで、元通りの生活は本当に戻ってくるのだろうか……?

 秘密を暴いてしまえば後戻りできなくなるとは知っているけれど、暴く暴かれるの話をするまでもなく、私たちは少しお互いのことを知りすぎてしまったのではないか。本当にちんぽと性欲さえなくなれば、私たちは……いや私は、以前のように振る舞い、以前のように考えたり感じたりしながら、以前のように生きることが出来るのだろうか? ……私はルカトゥから一度は掴んだ幸せを取り上げるのだ。そしてそれが分かっていながら、オルディアの魔法からは解放されたいと思ってしまっているし、それを言葉にもした。

 ルカトゥはきっと、また私のために自分に酔ってくれるのだろう。「それすら許してあげる自分」を支えに、私のことを許してくれるのだろう。だから問題は、私の方に「許される準備」があるのかどうか。その一点に集約される。

 ……一つだけ、その準備を済ませるための案が頭の中にあった。けれどそれを実行するべきなのか、もとい、そもそも口にするべきなのかは、いくら考えてみても一向に分からない。

 そんな分からないことをずっと考えているものだから、押し寄せるがままに濁った白を彼女の奥にぶちまけた後には、余韻を楽しむこととはまた違ったため息を吐く羽目にもなる。

 今日の月の形も知らないほど引きこもりきった日の夜に、そんな風にして最後のセックスは終えられた。……日に日に上がっていく気温に合わせて最近の掛け布団はタオルケットにしているのだけど、その一つのタオルケットを二人で肩まで被って、私はルカトゥに聞く。

「……無神経なこと聞いてもいい?」

「なんでしょう〜?」

 まるで、これが最後のピロートークになるとは知らないかのように、彼女の声には緊張感がなかった。努めてそうしている風にも感じられるほどに。

「……ルカトゥはどうして、苦しい思いをしてまで、人に喜んでもらうことが好きなの?」

「どうして……と言われましても〜。逆にそうではない人は、どうしてそうではないんでしょう……?」

「……なるほど。そう言われると確かに、困るね」

「あはは、ですよねぇ」

「……無神経なことっていうのは、ここからなんだけど」

 天井に目を向けて、ほんの小さな深呼吸をする。

 いざ話を切り出す前に、内心で最後の自問自答をする。今からしようとしている質問は、本当に口にするべきことなのか? ……しかしやはりいくら考えたところで、この期に及んで答えは出そうもない。

 隣を見ると、絵本の読み聞かせに耳を傾ける子どもみたいな顔をして、私の言葉の続きを待ちわびるルカトゥがいた。今「やっぱりなんでもない」と言ったら、彼女の表情はどんな風に変わるだろう……? 落胆されるだろうか。

 私は戸惑った。「ルカトゥを喜ばせるため」という名目は、好きでもない暴力を振るう際には歪んだ善意にもなるのかもしれないけれど。自己犠牲を欠片も伴わない今のような場面には、それは正真正銘の責任転嫁になってしまうのではないか……と、今さらになってそう思い至って、戸惑った。

 ……だけど私はついにそのまま、踏みとどまることが出来なかった。沈黙を恐れるかのような浅はかな焦りがほんの少しだけ心に湧いて、たったそれだけの物が、ギリギリのところで躊躇を押し流してしまった。

「……ルカトゥは、その、もしかしてルカトゥはさ」

「はい」

「…………承認欲求に飢えてたりしない?」

「……ふふっ」

 ルカトゥは笑った。少しの間を置いて、どこか嘲るみたいに。

 その次に彼女の浮かべた意地悪そうな笑みが演技だったのかどうかは、私には分からない。

「人を喜ばせたいって子には、そういう子多いですもんね。褒められたり必要とされるためなら、結構な無理もしちゃう子とか。……だからわたしのこともそうかもって思ったんですね?」

「……ごめん」

「いいんですよ。自然な発想じゃないですか。……まぁ答えはノーなんですけどね。わたしは幸いにも、褒めて育てられた子なので」

「そうなんだ。よかった……、そういう方向に重い過去とかなくて」

「あはは、心配してくれてありがとうです」

「いえいえ。…………でもじゃあもう一つ聞いていい?」

「なんですか?」

「……明日、オルディアが来て、私は元に戻るでしょ? そのあとの、これからの生活のことで、提案……というか、お願いがあるの」

「お〜、なんでしょう……?」

「……あのね」

 そこで私は、ルカトゥに多くのことを語った。

 魔法を解除したあとに残る不安と、それに対する解決策の提案。また、私がその案を発想するまでの思考のプロセスと、提案している今でも自分の考えに自信は持てていないこと。……明日からのことについて私の頭の中にある全てを話した。

 ルカトゥはそれを聞いて、初めは見るからに戸惑っていた。けれどやっぱり最後には「分かりました」と頷いてくれる。私がつい最近本人から聞いた通り、ルカトゥという人はどこまでもそういう性格をしているから。

「ルカトゥならそう言ってくれると思ってた。……これも打算だね」

「わたしは……、先生からこんな話をされるなんて、予想だにしてませんでした」

「話さない方がよかった……?」

「いいえ、まさか。……でも先生こそ、やめたくなったらすぐに言ってくださいね? 絶対ですよ?」

「うん。約束する、絶対ね。なんならルカトゥの魔法を使って、毎日聞いてくれてもいいよ」

「……わかりました。ありがとうございます」

「こちらこそ」

「……あぁ、それと先生、わたしからも一ついいですか?」

「なに?」

「……明日からは、お風呂は別々に入りましょう。先生の提案してくれたことにメリハリをつけるためにも」

「あぁ、うん、分かった。それは私もどうしようって思ってたんだ」

「え〜、じゃあ言ってくださいよぉ」

「ごめんごめん」

 そんな風に明日以降のことに話をつけてから、私たちは最後に一緒にお風呂に入って、それからいつも通り別々のベッドや布団で眠った。さすがにもう性欲は搾り尽くされたきり戻ってこなかった。

 最後の一日は、そうしてこれといった特別感もなく終わる。……あるいは、最後に至るまでの全てが特別だった。

 次の日、オルディアはちょうど昼頃に家まで来てくれた。黒い男物の軍服に、片目を隠す髪型。それに言葉遣いや態度といった彼女の特徴の全てが、あの日一目見た時から何一つ変わっていなかった。

 ただ、唯一初対面の頃との違いとして、私と目を合わせた彼女の第一声はイラだちに満ちていた。

「ウズラ・メルガルスだったな……? 辞めたい時は一か月前を目安に連絡をしろとルカトゥからは聞かされなかったのか?」

「あ、いや、すみません……。聞いてました」

「……チッ。いいよ。ほら、さっさと手を出して、やり方は前と同じだ」

「あ、はいっ」

 全面的にこちらのせいで機嫌の悪いオルディアと気まずくも至近距離で向かい合い、お互いに両手を掲げて指を絡ませるように手を繋ぐ。このまま呪文を十回繰り返せば、全てにケリがつく。

 ……前回唱えた呪文がどんな物だったかうろ覚えで、改めて聞くのは相手の機嫌的に勇気がいるなぁ……と躊躇っていたところで、ちょうどオルディアが言った。

「解除の言葉を教えるからよく聞け」

「あ、はい」

「……「ごめんなさい、おちんちんもう嫌です。許してください」だ」

「……え、すみません、なんて?」

「あ?」

「ごめんなさいっ、たぶん覚えましたっ」

 片目だけの眼力に射殺(いころ)されるかと思った。

 ……しかしこの呪文というのは、本当に元々決まっている物なんだろうか? 実はオルディアがその都度考えているだけなのではないか……と思わず邪推してしまう。というのも、それがあまりにも私の心中にマッチしていて、正直口に出したくはない文言だったから。

 しかしもちろんこの程度の抵抗感で言い淀むようなら、初めからルカトゥに「辞めたい」だなんて申し出ていない。私はなるべく無心で、指示通りに呪文を十回大きく声に出して読み上げた。……途中から少しだけ本気で自分が情けなくなってきたけれど、それでもきちんとやり遂げることができた。

「……おめでとう。これで君は元通り、ただの女に戻った」

 手をはなしたオルディアが、吐き捨てるようにそう言った。

 服の上から触れるだけでももう分かる。確かに彼女の言う通り、本来あるべきじゃなかった物はすでに私の体から消え去っていた。ルカトゥの毒見の甲斐もあって、オルディアの魔法は何事もなく解除されたのである。

「それじゃあ、余裕をもった連絡が出来るのなら、また次の機会も期待している。さようなら」

「あっ、ありがとうございました!」

 背中を向けたまま手を振って、オルディアは風のように去っていった。この家への滞在時間はおそらく五分を切っていて、昼食に誘うような隙だとかは皆無だった。

 ……私の背後で全てを見守っていたルカトゥが長いため息を吐く。

「無事に終わりましたね」

「だね」

「もっと確認とかしなくていいんですか?」

「え、した方がいい? 毒見してくれてるし、服の上から触った感じ平気かなって」

「えっ……。なんか意外です、先生がそんなあざといことを言うなんて」

「あざとかった……?」

 そんなつもりで言ったわけではなかったのだけど、まぁそのあたりの解釈はなんでもいいだろう。

 それよりも……と、私はルカトゥに尋ねる。

「ところで今晩、例のやつ、さっそくしてみる?」

「……それなんですけど」

 ほんの一瞬だけ言い淀んだルカトゥに、長い沈黙に匹敵するような迷いや葛藤が見て取れた気がした。こういう時の彼女の表情は分かりやすいのか、それとも分かりやすくしてくれているのか……。

 窓の外からは晴天の明るさがカーテン越しに差し込んでいて、半日後には訪れる夜の存在を遥か遠い物のように感じさせる。たかだか数時間と永遠の区別が、その日差しを見ていると曖昧になっていく。

 だけど、もちろん永遠なんてない。あっという間に夜は来るだろう。それまでに相手へ伝える言葉を紡ぐべく、ルカトゥの短くて重い沈黙は、本人の意思により打ち切られた。

「……もう少しだけ、考えさせてもらえないでしょうか」

「いいけど。嫌だったら断ってくれていいんだよ? むしろそうしてくれないと困る」

「いや、違うんです。嫌ではないですし、むしろ、その……。たぶん、結局は甘えさせてもらうことになると思うんですけど……」

「うん」

「でも、これからの生活がどんな風になっていくのかって、正直わたしにもまだ分からないんです。だから、あともう少しだけ様子を見てから考えたいな……と思ってしまって」

「全然いいよ」

「すみません、ありがとうございます」

 ……何のプレイをしているわけでもないのに、今日のルカトゥはいつになく弱々しいな……。私がそう思ったことが伝わったのか、ルカトゥは自嘲の笑みを浮かべて、

「無敵っぽくないですかね、こういうの……」

 と自信なさげに言った。

 そうなると私も、同じような自嘲の笑みで返すしかなくなる。

「弱っちい私が絡んでるからでしょ」

「そんなことは……」

「違うの?」

「…………もうちょっといい言い方があると思います」

「あはは、それはまぁそうだ」

 お互い空笑いを交わしあった。

 私が「解決策」なんて提案しなければ、今頃はもっと気楽にいられたのかもしれない。そうも思うけれど、もし今をそうやって気楽に過ごしていたら、もっと先の未来にもっと深刻な気まずさを感じていたような気もする。それを避けるためにはこうするしかなかったのだと、きっとお互いが自分に言い聞かせていた。

 その後、「さぁ、それはそうとお昼にでもしましょうか」と言って冷蔵庫の中を確認し始めたルカトゥは、それを機にスイッチを切り替えたかのように普段通りの調子に戻った。

 昼食の後には一緒にマリオカートをして遊んだ。バナナを背負っていたのに絶妙な角度から入ってきた赤コウラに射抜かれて、ぎゃーぎゃー騒いだりした。……全身で感情を表現しながらゲームに熱中するルカトゥに目を向けても、込み上げてくる物は一切なかった。

 その込み上げてくる物の無さは、台所に立つ彼女の姿を……何度となく犯した後ろ姿を見ても同じだった。向かい合った食事中に彼女の口元に注目しても同じだった。それから夜になって、風呂場から聞こえてくる水の音、乾かしたばかりの髪、無防備に布団へ寝転がる彼女……を見ても、やっぱり全て同じだった。

 それは脳みそを少しばかり切り取られたような感覚だった。実際に除去された物は下半身にあったのだけれど、そして何も湧いて来る物がない今の私こそが、本来の私なのだけれど。

 その日はそのままおやすみなさいを言って一日を終える。一切お互いの体に触れないで生活しているともはや違和感を覚えるくらいだったけれど、その反面、触れたいとか触れられたいだとかは全く思わない。そんな不思議な感覚があった。

 ……保留していたことにルカトゥが答えを出したのは、その次の日の夜のことだった。

 彼女があまりにも普段通りに……それこそオルディアの名を聞く前の生活にまで時を巻き戻したかのように自然に振る舞うものだから、私は早くも、彼女の言っていた「もう少し考える」は永遠と同義に化したものなのかと思っていた。けれどそうではなかった。こう言っては当然のことだけれど、ルカトゥはたった一日という短い期間を、熟考に費やしただけだったのだ。

 それは朗らかな雰囲気の中でおやすみなさいを言い合って、部屋の明かりを消した後のことだった。真っ暗に静まり返った部屋の中で、まるでその消灯を待っていたかのように、目を閉じてから数分も経たないうちに、ルカトゥの不安そうな声が耳に入ってくる。

「先生ぇ……?」

「うん……?」

「起きてますか……?」

「そりゃ、まぁ」

「…………保留していた、先生の提案について、話してもいいですか?」

 そう言われてようやく、私も身構えの段階に入る。

「……いいよ?」

「じゃあ、今からしたいって言ったら、ダメですか……?」

「……いや、いいよ? ダメじゃない」

 そう答えると、ルカトゥの息を飲む声が聞こえた気がした。

 暗闇の中に人の立ち上がる気配がする。その気配が、ベッドに寝そべる私に一歩一歩近づいてくる。……足音をたてず、まるで薄氷の上を来るかのような慎重さで、ルカトゥは私の枕元に立った。

 おいで……と、その気配に向かって被っていたタオルケットを持ち上げると、彼女は素直に私のとなりにもぐり込んでくる。……お互いの息遣いが聞こえるほどの距離になっても、まだ彼女の表情を見ることは叶わなかった。明かりのない世界に目が慣れない。

 ……細い指先が、ツンと私の手の甲に触れた。

「……あの、どういう風にしたら……」

「ルカトゥがしたいようにしていいよ」

「……ほんとに?」

「うん。嘘ついてたら分かるでしょ」

 ……ルカトゥは、たぶん頷いた。

 私のすぐ隣で、彼女がもぞもぞと身をよじる。足を曲げて、するりと布が抜けるような音がする。

 遠慮がちに触れていた指先が、観察するばかりで気の抜けていた私の手に絡みついてくる。恋人繋ぎを望んで来たその華奢な手をこちらからも握り返してみる。

 あっ……と、切なそうな声が響いた。

「……んっ、……ふぅっ……んっ……あっ……、あぁ……」

 見違えて弱々しい、丸一日ぶりに聞くルカトゥの喘ぎ声。それに混じって、次第にくちゅくちゅ……と水音が聞こえ始める。

 たった一日ぶりに握っただけなのに、ルカトゥの手から伝わってくる体温に、こんなに暖かいものだったっけ……と懐かしさのような物を感じた。私はそのまま手持ち無沙汰になったもう片方の手で、なんとなく彼女の頭を撫でてみる。

「あっ……♡」

 それだけでルカトゥは恍惚の声を上げて、タオルケットの下で淫猥な音を響かせるペースを上げた。

 ……これが、私がルカトゥに提案した解決策なのだ。

 散々お互いの体と心を貪りあって、今さら全てを忘れて元に戻りましょうだなんて、そんなことが本当に可能なのだろうか? 仮に無敵のルカトゥにはそれが可能なのだとしても、私自身が耐えられるのだろうか? 平気そうな素振りの裏側にどんな欲望が秘められているのかを具体的に知っておいて、本当にそれを知らなかった頃の生活に戻れるのか……?

 私が一番心配していたのは、自分自身のコントロールを失うことだった。底抜けに優しいルカトゥの裏側に潜んでいる欲望の内容が具体的に分かって、それが怖くなったというわけではない。怖いのは、「ルカトゥにその欲望を隠させることを、こんなに簡単に強制出来てしまう」という実感を得た自分が、善悪の感覚を完全に見失うことの方だった。

 出先で爆睡してルカトゥに迷惑をかけても、そんな風に迷惑をかけられることが嬉しいんでしょ? と思ってしまう自分がきっといる。性欲を隠してくれているのは私のためでもあるけど、「先生のために我慢してあげる自分」のためでもあるんでしょ? と思ってしまう自分が必ずいる。私は彼女のことを知りすぎてしまったからだ。言葉の上だけでなく、その言葉に空疎なところは欠片もないということまで、この身で実感してしまったからだ。

 そうして私が善悪の区別を失って、より一層ルカトゥに依存するようになれば、彼女はそのこと自体は喜ぶのだろう。けれどもその時の私が、おかしくなっていく自分を自覚することで湧き出す罪悪感までをも克服できるかどうかには自信がない。ルカトゥだって罪悪感に振り回される私を見たくはないはずだ。そこまで分かってはいるのだけれど、不要だと分かるだけでは罪悪感は消えてくれない。それを私は嫌というほど知っている。

 ……そこで私は考えた。善悪の区別を失った上で、そのことにまつわる罪悪感をやわらげる方法とはなんだろう? ルカトゥのことを自分の意のままに出来てしまうことを自覚した上で、もう以前の自分には戻れない私は、どのようにすればそんな自分自身を肯定できるだろう?

 そう考えて思いついたのが、私がルカトゥの性欲を少しだけ受け止めてあげることだった。ルカトゥが私の望みならなんでも受け入れてくれることを利用して、「してあげる」を私の方からも「し返す」ことだった。

 罪悪感を消す方法はきっと「与える側になること」だ。だけど、自棄にならずに人に何かを与えるには、まず相手よりも自分に余裕がないといけない。しかもそもそもの話として、ルカトゥは「頼られること」こそを望んでいるのであって、自身が与えられる側に立つことはそもそも望んでいない。だから私から彼女に与えられる物なんてほとんどないように思う。子どもが母の日に似顔絵や感謝の手紙を描くように、何らかのサプライズなら出来るのかもしれないけれど、毎日寝ても覚めてもまとわりつくような罪悪感が、そんな小手先のイベントでかき消しきれるとも思えない。

 ……だけど性欲の解消ならどうだ? 罪悪感と同じくらいそれは日常的にまとわりついている物で、なおかつ、ルカトゥだって本当はその欲望を解放することを望んでいる。オルディアの魔法を提案してきた程度には、その欲求は彼女の水面下に確かにある物なのだ。

 嫌々付き合うような素振りの相手に性欲を解放して見せるだなんて、向こうからすれば単純な我慢を強いられるよりもずっと不愉快なことになるのかもしれない。……だから私は全てをルカトゥに話して、手の内の全てを明かした上で、彼女に提案した。私の罪悪感をやわらげるために、そのより一層の不愉快を我慢「してあげる」ことは出来ないだろうか……と。

 そして見ての通り、ルカトゥはついにそんな申し出をも受け入れてくれたのだ。彼女は私に頼まれて、私の目の前で、私をオカズに自慰をしている。

「あっ……う……♡ いっ……イく……♡ イきますっ……せんせぇ……♡」

「ん、いいよ……?」

「あっ♡ あっ……♡ くっ……はあっ……♡」

 びくびくと肩を震わせて、つないだ手をギュッと握って、ルカトゥはあっけなく絶頂に達した。……始まってからまだ五分も経たないうちのことだった。

 走り込んだあとのような乱れた息遣いが自分の胸元あたりから聞こえてくる。猫のように丸まったルカトゥが名残惜しそうに手をはなした後、こちらを見上げたのが雰囲気で分かった。

「せんせぇ、ありがとう……♡」

「いや、こちらこそ。ありがとね」

 言いながら手癖で頭をなでる。するとルカトゥから喘ぐような声が響いた。

「あっ……♡ なでなで……えへへ……♡」

「……そんなになでられるの好きだっけ?」

「ん、好きですよぅ……?」

「そう……? ならよかった。私もルカトゥのことなでるの好き」

「んっ♡ えへへ、ほんと……? うれしい……♡ せんせぇだいすき♡」

「私もルカトゥのこと大好きだよ」

「んへへぇ♡」

 ……どうすればいいのかよく分からなくて、私はしばらくの間そのままルカトゥのことをひたすら撫でていた。するとどこかしらで落ち着いたのだろうか、身を委ねるようにしていた彼女がもぞもぞと脱いだ物を穿き直し初めて、そのうちタオルケットから這い出ていく。

 ベッドから降りた彼女の冷静さを取り戻した声が、寝転がっている私よりも高い位置から聞こえた。

「先生……?」

「うん?」

「どうでしたか……?」

「……まだよく分からないかも。ルカトゥはどうだった?」

「わたしは……。その……」

「うん」

「……正直、夢みたいでした」

「あぁ、それならよかった。……また今度もする?」

「それは、先生が決めてください」

「……わかった」

 分かりきった答えを、もしかしてルカトゥは言わせたいのかもしれないと、そう思う。それは情緒的なことなのかもしれないし、単に通知の魔法のためなのかもしれない。

 そこまで考えた上で、私はどちらの意図にも添えるように答える。

「じゃあ、したくなったらまたおいで。私の方は全然大丈夫だから」

「……はい♡」

 喜びを噛み締めるような声で返事をして、ルカトゥは自分の布団の中に戻っていった。

 ……その次の次の日の夜。一日間を置いた彼女は、またしても消灯後に私の枕元に忍び寄った。

「先生ぇ……。その……」

「いいよ、おいで?」

 ほとんど何も見えない暗闇の中で、発情したルカトゥが自分のとなりに潜り込んでくることを感じる。

 ……あっという間に、それが私たちにとっての当たり前になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ルカトゥの自慰によって、私を「与える側」にしてもらう。その案を受け入れてもらえた時に、二人でいくつかルールを決めた。

 一つ目、案の実施は最短でも一日置きにしか行われないこと。毎日だとしんどくなってしまう可能性があるものの、では具体的にどのくらいのペースなら大丈夫なのかと考えても全く見当がつかなかったため、とりあえずは少なくとも一日のインターバルを挟むところから始めてみようという話になってこのルールの制定に至った。……この二日に一度というペースがやがて週一や月一になっていったとしても全然構わないと、ルカトゥはあらかじめ私に言ってくれた。

 二つ目、ルカトゥからは私に対して何もしないこと。これは、そういう風に線引きしておかなければ「自慰」の定義があやふやになって、同意の上なのか断りきれなかっただけなのかがはっきりしない半レイプ的な状態を生んでしまう恐れがあったのでルールとして定められた。なので趣旨から考えて、手をつなぐ程度のことはもちろんこのルールに抵触しない。行為中に話しかけたりすることも同じく。

 三つ目、この案の実施は必ず自宅の夜にのみ一度だけ行われること。外泊時や昼間からの実施、または一日に複数回の実施は禁止としている。なぜならそうしなければ、私たちは健全な「友達」としての関係を保てなくなりかねないから。オルディアの魔法を解除した意味がなくなってしまうから。

 ……と、以上が、この件に関する大まかなルールになっている。もちろん今後ルールが追加・変更されていくことは大いにあり得るというお互いの了解を踏まえた上で、私たちはひとまずそういう具合の同意を交わしあった。

 そして……暗闇の中でとはいえ始めてルカトゥが私の目の前でオナニーをした日を皮切りに、彼女は限度回数ギリギリの……つまり二日に一度の自慰行為を欠かさず申し出てくるようになった。

 彼女はいつも消灯後にそれを切り出す。ルカトゥともあろう者が明かりの下では恥ずかしいと感じるのだろうか……と初めのうちは疑問に思っていたのだけれど、彼女の意図は別にあるのではないかということにある日私は気がついた。

 ルカトゥは、嫌そうな顔やつまらなさそう顔をした私を見たくないのではないか。だからそれを見なくて済むように必ず電気が消えてから這い寄って来るのでは。そして出来るだけ余計なことを考えないように、感じ取らないように、黙々と自慰に耽る。……私の目からは、彼女の様子はそういう風に見えた。

 けれど、何度目のことだったろうか。いつも通り手をつないで、頭をなでながら、私はルカトゥの自慰を見えずとも見守っていたのだけれど、その日の彼女はなかなか達することが出来ずにいるようだった。そして注意深く耳をそばだててみれば、それまでは喜びに跳ねるようだった喘ぎ声も、いつの間にかうなされるように苦しげな物へと変わっていた。

 ……私はなんとなく彼女の苦悩が分かってしまった気がした。オルディアの魔法を受けた時、私はあらゆる望みを受け入れてもらえる環境下でセックスに慣れていったけれど、今のルカトゥはそうではない。彼女はただ慣れだけが迫り来る中で、未だ抑圧したままの欲望を胸の内に膨大に秘めているはず。……それがどれだけ苦しいことなのかまでは私には分からない。オルディアの話が出る前まではずっと根本的な抑圧の中で平気な顔をしていてくれた彼女にとって、今この場にある我慢がどれだけの意味を持っているのかと考えると、私程度の者にはもはやその心中を想像することさえ出来ない。平気なはずではないのか……? と無神経なことすら思ってしまう。

 けれど、現に今目の前にいるルカトゥは苦しんでいるように見える。……そうすると私に出来ることは一つしかない。私は、おそらく彼女の中に渦巻いているのだろう抑圧を、少しでもやわらげてあげたいと思わずにはいられなかった。だけどそれは純粋な善意じゃない。

 性的な抑圧に苦しんでいるルカトゥに手を差し伸べたら、その時の彼女はいったいどんなに可愛らしく、こちらの心を満たすような喜び方をしてくれるのだろう? ……私の心はそう期待せずにはいられなかったのだ。

「ルカトゥ……? なにか、私からしてほしいこととかある……?」

 聞くとその瞬間、ルカトゥの口からは一際大きく、それでいて苦しそうな吐息が漏れる。

「わかんないっ……。せんせぇは、どんなことなら平気……?」

 目が慣れて、輪郭くらいは見えるようになってきた暗さの中で、体を丸めたルカトゥがこちらを見上げている。視覚ではなく勘で、彼女が今にも涙のこぼれ落ちそうなほどに瞳を潤ませていることを感じた。

 ……自分の中に懐かしい衝動が戻ってくる。あぁやっぱりそれは性欲とは関係のない物だったんだと実感しながら、私はルカトゥの頬を撫でてみた。

 その手のひらに収まってしまいそうな暖かくてもちもちした感触に触れてみても、性的な興奮は全く湧いてこない。そこにはただ触り心地の良さだけがある。……けれどもそう、きっと私は以前から、ルカトゥに対して時々こんな風にも思っていたのだ。

 ルカトゥはかわいい。かわいいから、自分に性欲なんかなくても喜ばせたくなってしまう。喜ばせて、優越感に浸りたくなってしまう。

 ……そして私はもう、彼女の喜ばせ方の致命的な部分を知っている。

「……何をしてほしいかって聞いてるんだよ? 平気かどうかは私が決めるから、ルカトゥはちゃんと答えて?」

「あ……あぅ……」

「言えない?」

「い、言えます……けど……」

「じゃあ言って? 何をしてほしいの?」

「……で、でも」

「……はっきり言わないと嫌いになっちゃうよ?」

「そ、そんなっ。あ、でも……うぅ……」

 嫌いになるだなんて、嘘に決まっている。ルカトゥにはそれが魔法で伝わる。……けれど、伝わると分かった上でわざわざ私がそれを言った意図だって、賢いルカトゥには同時に伝わっているはずだ。

 ……それでもなお数秒の逡巡を経てから、ルカトゥはようやく素直になって、私の誘惑に乗ってきた。

「……先生の、においを嗅ぎたい……です」

「におい? ……え、どこの?」

「あ、えっと、体……?」

「嗅ぐってどんな風に……?」

「え、あ、だから、顔を近づけて……その……」

「……ふむ」

 お風呂に入ったあととはいえ、改めて嗅ぎたいと言われるといろいろ不安になってくるけれど……。今はそういうことは考えないようにする。

 私はすぐにギュッとルカトゥを抱きしめた。彼女の火照った顔を、パジャマ越しにこの平たい胸へ擦りつけるかのように。

「んぅっ……!?♡」

「これでいい……?」

「う……♡ んぅ……♡」

 するとなんと、彼女は私の胸に顔をうずめたまま、すーはーと深呼吸をし始めた。

 えっ、セックスしてた頃はそんなこと全然してこなかったじゃん……!? と思わず動揺してしまう。けれどそんなルカトゥの行動を目の当たりにしたことで、なんだか全てが腑に落ちた気がした。

 初めてここでオナニーをして見せてくれた時、彼女はそれを「夢みたい」だと言ってくれた。それ自体は嬉しいことだったけれど、本物のセックスに入り浸った生活のあとに、今さらたかだかオナニーを認められたくらいで、夢みたいだなんて感じるものだろうか……? と疑問にも思っていたのだ。

 だけど考えてみれば、ルカトゥは今までずっと「先生を嫌な気持ちにさせないように」という理由だけで、私に性欲をぶつけることを控えてくれていたのだ。本当はサキュバスの力でねじ伏せてレイプしたかったくらいなのに、それをせずにいてくれたらしい。……でもじゃあそもそも、そのレイプという行為には、どこに「してあげる」要素がある……?

 ……つまりルカトゥの性欲は、「してあげたい欲」だけで構成されている物ではないということではないか? 彼女にも人並みに「したい・受け入れてほしい」という気持ちがあるのではないか。そしてそれは、私がオルディアの魔法の影響を受けていた時にすら、隠されていた物なのではないか。

 初めての性欲に振り回される私に対して、ルカトゥはずっとそれを受け入れてくれる側の存在だった。そりゃ過激なことはたくさん望まれたけれど、あれらだって今にして思えば、まるで「ルカトゥから卯月雛子に対しては何もしない」というルールに則っているかのようなプレイのチョイスだった。……いや、違う。正確には、彼女が一度だけ私の胸を愛撫したことがあった。けれど一度だけだった。それはなぜか? 私がつまらなさそうにしたからではないか……?

 だからルカトゥは最近になって初めて、本当に初めて、ただ自分がしたいだけのことをしているのかもしれない。私から頼まれたという口実をもって、私を興奮させられないことを知りながら、それでも目の前で自慰に耽ること。そしてその自慰を受け入れられること。……そういった同意の中でひっそりと、相手に構わずただ自分の欲求を満たそうとする行いを、彼女は初めて経験しているのかもしれない。

 そう思うと、体のにおいを嗅ぎたいだなんて言い出したことは彼女にとって、こちらが想像するよりもものすごく大きな決断だったのかもしれない。……深呼吸をしながらぐちゅぐちゅと淫猥な音を響かせるルカトゥを抱きしめながら、私はそんな風に彼女の胸中を想像した。

 偶然にも、ちんぽを生やすことなんかよりもっとクリティカルに、私はルカトゥの抑圧を晴らすことができているのかもしれない。……そう考えてしまうのは、自分に甘すぎることだろうか?

「はぁっ……♡ ごめんなさっ……イッ……♡ イくっ……うっ……あっ……♡」

 びくびくと、ルカトゥの全身が震えてこわばる。抱きしめている分、彼女の絶頂はいつもよりも生々しくこちらにまで伝わってきた。

 息苦しくないかと思って抱擁を解くと、向こうもそれに合わせて私との密着をやめる。……私はまたなんとなく癖で彼女の頭をなでる。労いなのか、それとも猫をなでるような感覚なのか、自分でもよく分からない。

 ……すると、まさかそんな雑な気持ちで撫でられていることを今さら嘆くわけでもないだろうに、今日のルカトゥは、私の想定とは全く違う反応を見せた。

 興奮した息遣いが落ち着きを取り戻していくにつれて、ぐすっ……ぐすん……と、夜更けの部屋にすすり泣きの声がこだまし始める。ギョッとして、思わず私の手も止まった。

「ごめんなさい……」

「えっ、ど、どうしたの……?」

「わたしからは何もしないって約束したのに……。したのに……ごめんなさい……」

「え……。……あぁ、ご要望通りすーはーしてたこと?」

「うぅ……」

 自責の念なのか何なのか、とにかくルカトゥは、どちらかといえば無理やり犯された人みたいな悲愴な泣き方をしていた。プレイでもないのに目の前でそういうことをされると理屈抜きに心が痛む……。

 私はそのあとしばらくルカトゥのことを抱きしめたりなでたりしながら、なんとか泣き止んでもらおうと彼女のことをなだめ続けた。ルカトゥはしたいことを言っただけで、実際にハグしたのは私の方からなんだから今のはセーフでしょ、そもそも全然嫌じゃなかったよ……と言い聞かせて、どうにかこうにか丸め込もうとする。

 それに納得してくれたのかは分からないけれど、ルカトゥは次第に冷静さを取り戻していった。

「あの、すみません……。わたしまた泣いて……」

「いいよ、大丈夫。泣いても平気なのがルカトゥなんでしょ?」

「そうですけど……。先生に迷惑かけてばかりで……」

「いいのいいの。せっかくこういうことしてるんだから、たまにはこういう日もないとね。……それより、次からもして欲しいことがあったら言ってね? 苦じゃない範囲で協力するから」

「それは嬉しいですけど……。ほんの少しでも嫌だったら絶対言ってくださいね……?」

「分かってるって」

 もう一度頭をなでると、今度こそ少しは安心してくれたようで、ルカトゥはいつもの笑顔を見せてくれた。

 ……その日からというもの、なんだかデジャブを感じるような勢いで、ルカトゥからの要求はみるみるうちに加速して行った。

 初めのうちは体を触ってほしいという要望を受けて、とりあえずはこれみよがしに大きな胸に手を伸ばしてみたりしていた。自分に性欲があった頃は、そのふわふわしながらも重量感のある肉の感触にえも言われぬ興奮を感じたものだけれど、今となっては「こんなに重い物がぶら下がっていてよく生活できるな……」とムードの欠片もない感想が頭をよぎる。……それでもルカトゥが面白いくらいに喘いでくれるので、退屈を感じることはなかったけれど。

 時々わざと乱暴に扱ったり、乳首をつねったりしてあげると、彼女はあからさまに喜ぶ。決して「乱暴にしてほしい」とは口に出さないのに、ルカトゥは明らかにかつての暴力的なプレイを私に求めていた。その望みが手に取るように分かるから、私は徐々に力加減を強めていくことでそれに応える。できるだけルカトゥが飽きないように、少しずつ少しずつ、彼女にハートマーク付きの悲鳴を上げさせる機会を増やしていく。

 ……するとある日、ついに彼女の口から新しい要望が唱えられた。

「先生ぇ……。その、するフリだけでいいですから……、首絞めとかしてほしい……って、ダメですか……?」

「……本当変わらないね。いいよ? フリだけでいいんでしょ?」

「は、はい。お願いします……」

 言われて、その細い首に手をかけること自体は躊躇わなかった。

 ……が、彼女の首を握る感触を思い出した瞬間に、あの日の光景が脳裏を駆けめぐる。一線を超えてルカトゥを傷つけてしまったと思い込んだ自分が、その場から逃げ出すことだけを考えていた時に見た景色が、走馬灯のように今でも鮮明によみがえる……。

 一糸まとわぬ無防備な姿で、腹に痛々しい青アザを浮かべたまま「痛い……ひどい……」と泣きじゃくる「友達」であったはずの少女の姿。……私はその時の光景を、その罪悪感をまだ心の中から振り払えていない。

 今、この手に渾身の力をこめてルカトゥを窒息させれば、彼女はきっと喜んでくれるだろう。……フリでいいからと言われて手をかけた瞬間に、私はそんなことを考えてしまった。だから走馬灯を見た。その暴力的な「気遣い」が、まさにあの時自分の醜さを露呈させたのではないかと。その醜さを克服したわけでもないのに、私はまた同じことをする気なのかと。

 ……そう思うなら、やめればいいだけなのに。言われた通り、ただ絞めるフリをすればいいだけなのに。分かっていても、実際にはそう簡単に割り切ることもできなかった。あのトラウマ的な光景よりもずっと後にかけられたルカトゥからの言葉の数々が、これもまた頭の中で次々とリフレインしたからだ。

 苦痛と慈愛の心と性感がごちゃ混ぜになって境目を失った彼女の感覚。寿命差のある私たちには「今」しかないのだという論。それから暗に示された、ルカトゥは「ダメな子」が好きなのだということ。……まるで全てが、私に暴力を勧めているかのようだった。だけど、そういった見立てに絶対の自信を持てるなら、そもそもあんなことがトラウマになるはずもなかったのだ。見立ては見立てでしかないから、それ以上でもそれ以下でもない不確定事項だから恐ろしいのだ。

 私は分からなくなった。どうするべきなのか? またルカトゥに暴力を振るうべきなのか……?

 彼女は今ここに、私の心を満たすことと同時に、彼女自身の欲望を満たすためにも居てくれている。彼女は承認欲求に飢えて私の言うことに従っているわけではない。私を喜ばせるために歯を食いしばって耐えているわけでもない。ただ「したくなったら言ってほしい」という私のお願いに従って、私の目の前で自慰をしたくなった彼女が、その通りにしているだけだ。そんな彼女を私はどうする……? 何のために私は彼女にそんなことをさせている? ……無論、罪滅ぼしのためだ。いたずらに彼女の性欲を弄んだことに対するせめてもの罪滅ぼしのために、私は自らをオカズとして提供している。そしてそれによって、自分自身が楽になろうとしている。

 ……ならやっぱり私は、ルカトゥの望む通りの暴力を提供してやるべきなんじゃないか。そうしてほしいとは一言も言われていないけれど、間接的に見える情報の全てが、そうしてほしいと私に訴えている。現に胸を愛撫した時だって、乱暴にしてほしそうだったから乱暴にしてみたところ、ルカトゥは明らかに喜んでいた。……でも、なのに、なぜなのか、その見立てに従うとトラウマをなぞることになってしまう。

 ……いや、そうだ、一番の疑問はそこだ。

 どうして私はこんなにルカトゥのことを考えているのに、あの時だってそうだったのに、それがあんなひどい事態を生んでしまったのだろう……? 実際、あの時だって私の推論は間違っていなかった。過程を見ても結果を見ても、私がひとりよがりの暴力をルカトゥに押しつけたわけでは断じてなかった。なのに、それがどうしてあんなことになってしまったのか……?

 ……世間一般の道徳的に間違ったことをしていると、私とルカトゥの間においてはそれがどんなに正しくても、いずれはああいうことになってしまう物なのだろうか? 私が受けたのは、道徳に背いた報いだったのだろうか。私はルカトゥのことをせいいっぱい考えたのに、それに報いが下るだなんて、そんな……そんなことがあってもいい物なのか……?

 ……そんな理不尽な神の力のような物があるはずがない。そんな物があってはたまらない。私は、そんな物の存在は信じない。

「かっ……ぁ……。……せっ……っんせ……っ」

「えっ」

 気がつくと、ルカトゥが私の腕をタップしていた。

 一瞬、そういう演技なのかと思った。けれど電気を消した部屋の中では表情が読めない。念の為手を離すと、その時初めて自分の腕から力みすぎた時特有の痛みを感じた。

 解放されたルカトゥは、咳き込んだり苦しそうに息をしたりはしなかった。……そのかわり、闇の中から不安そうな声が染み入るように聞こえてくる。

「先生……? あの、フリだけって……」

「…………ごめん」

「いや、あの、わたしは大丈夫ですけど……。先生、無理してませんか……?」

「……怒らないで聞いてくれる?」

「は、はい」

「……今ね、絞めるつもりじゃなかった。でもちょっといろいろ考えちゃって、そしたらなんか、本当に……」

「……先生ぇ」

 不安そうな雰囲気はそのままに、ルカトゥの細い指がまとわりつくように私の手を取る。そして優しげに握られたその手は、再び彼女の首筋へと誘われる。

「……じゃあ次は、思い切り絞めて? わたし、その方が気持ちよくなれますから……♡」

 ……それはもはや聞き馴染んだと言ってもいいような誘惑だった。私を慰めるためとあらば、彼女は平気でそういうことをする。

 その時ようやく私は、暴力はもうしないと自分が宣言したはずだったことを思い出した。そしてそのナンセンスさを自覚する。

 道徳だとか、良心だとか、暴力を振るうことへの怯えだとか……。あれだけ捨てきれないと感じていた物たちは、しかし一度でも捨ててしまえば、二度三度を繰り返すことは恐ろしく容易いことなのだと、私は知った。

「……分かった」

 ルカトゥの体が絶頂に跳ねるまで、半ば殺す気で彼女の首を絞めることを私は躊躇わなかった。

 トラウマはもうよみがえらなかった。考えてみれば簡単なことだ。ルカトゥが「してほしい」とはっきり直接の言葉にしている時は、それに従っているだけなら、傷つけたとか傷つけてないとか、そんな話にはそもそもなりようがない。……暴力の帰還はただそれだけの理由で叶うものだった。

 いつもは可愛らしい喘ぎ声と共に聞こえてくる秘部をかき混ぜる音が、今はかすれた鳴き声のような物をかき消すようにして部屋に響く。意識と幸福がそこにあることを証明するかのように、その音は決して途切れることがなかった。

 ……いくら引きこもりの女の弱々しい腕でも、これだけ本気でこれだけ絶え間なく首を絞め続ければ普通は窒息するだろう……と確信できる程度には頑張ったはずなのだけど、やがてびくびくと全身を震わせたルカトゥを解放すると、その息遣いは、発情していることを除けば当たり前のように安定していた。

「あぁっ……えへへ……♡ イっちゃったぁ……♡」

 そんな彼女の声を聞くと、暗闇の中にはっきりとは見えなくても、幾度となく見た恍惚とした表情が目に浮かんでくる。まるで愛を確かめ合うセックスをしたかのような、あの幸せそうな顔が思い浮かぶ。

 ……そうやってこれまでしてきたことを思い出しながら、その記憶をなぞるみたいに、私はルカトゥの頭をなでた。手癖でそうすることとは少し違う。無意識ではなく意図的に、私は「上手くいっていた時」に縋ったのだ。それを捨てたのは自分なのに。

「せんせぇ、ありがとう……♡」

「……こっちこそ、ありがとうルカトゥ」

「えへへ♡」

 上機嫌なルカトゥはしばらく余韻を楽しんだあと、タオルケットから抜け出して私の隣から立ち去っていく。

 気のせいでなければ、彼女はさっと私の手の甲にキスをしてから、自分の布団に戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……気持ちよく微睡んでいたのに、おおげさに体が揺すられる。

「先生ぇ〜。もう朝ですよ〜」

「ん〜……」

 ルカトゥの自慰を見届けた夜が明けても、そうでない夜が明けても、私はいつも変わらずこのように朝を迎える。ルカトゥに一日の始まりを報されることで、何事もなかったかのように平和な朝の風景の一員になる。

 起こされる寸前まで、今朝の私は夢を見ていた。いたずらをするみたいな軽いノリで、ルカトゥが夜のベットの上で私に思いきり抱きついてきて、そのまま眠ってしまう夢だった。……彼女の首を絞めた夜の後でも、私にはそんな夢が見れてしまうものだった。

 ベットから降りて、着替えたり顔を洗ったりする。もしルカトゥにこれからは抱き合って寝たいと言われたらどうしようか……と夢の続きを考えていたら、彼女の寝相の悪さを思い出した。

 朝食の席に着くと、並べられた和風の品々の中に、何やら見慣れない食べ物が紛れ込んでいることに気がつく。器に盛られたそれは細切れにされた数種類のカラフルな生野菜が混ぜ合わさっている物で、山芋なのかオクラなのかそれ以外の何らかが入っているのか、とにかく何やらねばねばしていた。

 大豆と夏野菜が交代して入れ替わった納豆みたいだ、という第一印象を持ちながら、私は聞く。

「この挽割り夏野菜みたいな物はいったい……?」

「それはですね〜、「だし」です」

「出汁?」

「そう、出汁(でじる)じゃなくて、ひらがなで「だし」。山形の郷土料理なんだとか〜」

「なぜ急に山形がここへ」

「YouTubeで見たんですよ〜。アク抜きした生のナスとか入ってるんです、面白くないですか?」

「あ、この紫色はそれか。へぇ〜。まぁなんか夏っぽさは感じる」

「でしょでしょ。ちなみにねばねば要素は昆布から出てるんです」

「昆布? あー、とろろ昆布的なやつね」

「そうそう〜」

 話しながら、ルカトゥはその「だし」をスプーンで白米の上にかけ始める。私もそれを真似してみる。

 いざ食べてみると、みずみずしさの中にほどよい塩気があって、見た目の第一印象ほど癖のある物でもなく普通においしかった。大葉やみょうがの香りもして、ねばねば感と野菜の食感が合わさって妙な心地良さがある。

 そしてその食感と味の中にキュウリの存在を感じて、去年のことを思い出した。

「あ、おいしい」

「やったぁ。成功ですね」

「うんうん。……あ、そういえばさ、今年は家庭菜園しないの?」

「あ〜、一回やりましたし、もういいかなぁって。先生が言ってた「普通に買った方がおいしい」の意味もだいぶ分かりましたし」

「あぁ、なるほど。スイカのおそるべき実らなさは目の当たりにしなくていい?」

「あはは、そうですねぇ。まぁ、先生と一緒に家庭菜園を出来たっていうだけで、わたしは結構満足しちゃったので〜。……先生は今年もしたいですか?」

「私……?」

 言葉選びに困った末に苦笑いで返すと、それを受けてルカトゥは楽しそうに笑った。

 彼女はそのまま、テーブルの上にあったテレビのリモコンに手を伸ばす。朝の情報番組にはゲストにピアニストが来ていて、何やらリクエストの曲を弾いていた。

「今日は仕事?」

 私が聞くと、テレビの方を見たまま「ですね。午後から」と彼女が答える。……画面に映る物は、凝視するほど面白い物ではないように思う。

 演奏が終わって、スタジオの人たちが拍手と賞賛の言葉を送る光景から、ルカトゥは名残惜しそうに目を離した。

「……先生、あの」

「うん?」

「わたし、夜、二日に一回、上限いっぱいにずっとお願いしちゃってますけど、…………つらくないですか?」

 ……心を病んだ恋人を見つめるかのような不安そうな目が、こちらをまっすぐ見つめてくる。

 もしそれが、頼むからつらくないと言ってくれ……という目をしていたなら、私も少しは笑えたのだろうけど。ルカトゥはむしろ「やっぱりつらい」と言ってほしそうな顔をしていて、だから私は仏教面で答えるしかなかった。

「つらくないよ。ルカトゥはいつも朝になったら、何事もなかったみたいにしてくれるからね」

 そう口に出した瞬間、デジャブを感じる。

 またやってしまった……。また「言ってから、嫌味な聞こえ方をすることに気づいた」だ。

 私はあわてて付け加える。

「今のは嫌味じゃない」

「……ぷっ」

 ルカトゥは笑った。ギャグを聞いたみたいに。

「ふふっ、すみません。分かってますよ、大丈夫です」

「ならよかった」

「いえ、むしろわたしの方こそごめんなさい。バカにしたんじゃないんです」

「分かってるよ」

 私とは違ってルカトゥが嫌味を言っているところなんて見たことがないから。魔法がなくてもそれは分かるのだ。

 なんであれ、とにかく一度笑ってしまえば、なんだか場の空気は自然とやわらかくなるものだった。伝えたいことも伝えやすくなった気がして、ここぞとばかりに話す。

「ところでだけど、私は最近の感じが一番楽だよ。ルカトゥに我慢ばかりさせてるわけじゃないって思えるし、メリハリをつけて振る舞ってくれるルカトゥを見てると、あぁやっぱりルカトゥはルカトゥだなぁって、なんか安心する」

「ほんとですか……? ……メリハリ、つけられてます?」

「うん。だっていつも本当に何事もなかったかのようだもん。変に引きずらないでくれるから助かってる」

「あ〜、それはそうかもしれませんけど……。そうじゃなくて……」

「他に何かある……?」

「わたし、先生にあれこれ注文しすぎてるじゃないですか……?」

「あ〜……」

 納得しているかのような声が出てしまった。

 しすぎているかはともかく、確かに注文は多い。最初は手を繋いでいるだけだったのに、いつの間にか言われるがまま首を絞めていたくらいだ。……けれどそれはある程度なら想定内のことでもあった。

 性欲はエスカレートしていく物なのだということが、今では私にもよく分かる。もちろん増していく物の全てを受け止められるだなんて思えはしないけど、「増していく」という性質の把握だけは私にも出来ている。そして把握ができていれば、そうでない場合よりは身構えることができる分だけ余裕が生まれるというものだ。

 だから今のところルカトゥからの注文に対しては、楽勝とまでは言えなくても、ついていけないというほどでもない状態にある。それについてはそのまま本人に伝えるしかないだろう。ルカトゥ相手に嘘はつけない。

「注文されることは、今のところは嫌じゃないよ。けどまぁ確かに、なんでもドンと来いとまでは言えないね。無責任になっちゃうから」

「えっと、じゃあ、昨日までと同じ感じなら大丈夫そうですか……?」

「うん、そうだね。……でもルカトゥはまだ、他にもしてほしいことがある?」

「えっ、いや、えっと……」

「あるんだ?」

 あるのは分かりきっていたけど、あえて聞く。ルカトゥの性欲が、そのバリエーションと濃さが、昨晩のことくらいで頭打ちになっているはずがないと確信しているからこそ、まずはそれを具体的に言葉にしてもらうことが必要だった。

 その気持ちは果たして、ルカトゥの抱えている「言いたいけど言いづらいこと」を引き出してあげるための善意だったろうか? ……我ながらそうは思えない。

 私という人間は、ただ自慰を手伝うことしかできない無力な存在なのに。発散には困らないはずの植え付けられた性欲にすら耐えられなかったような、ただひたすらに弱い存在でしかないのに。それでも私はまだ、ルカトゥに「待った」を言う気にはなれなかった。

「限界を探してみるのもいいかなって気がしない? どうせならさ」

「それは嫌です」

「えっ、いやなの……?」

「嫌ですよ。わたし、できるだけ先生に無理をさせたくありません。……語弊のある言い方をしてもいいですか?」

「いいよ」

「わたしは、先生にできるだけ負担をかけずに、先生に「ルカトゥの性欲に付き合ってあげている」という実感を与えたいんです。……先生がわたしの無茶ぶりを許してくれてるのは、そういうことですよね?」

「……ものすごく語弊のある答え方をするなら、うん、その通り」

 この時の私の答えは一部だけ嘘だった。だって語弊なんて何一つないから。全てはそういう魂胆で始めたことで、それはルカトゥにも説明した通りのことだ。私は自分の気を楽にする打算込みで彼女への罪滅ぼしを望んでいて、ルカトゥは私にそれを「させてあげたい」。そういう利害の一致があるからこそ、私たちは夜な夜なあんなことをしている。

 でも、それならルカトゥが二日に一度の夜に見せる振る舞いは、全て私のための演技なのだろうか? ……いや、あり得ない。彼女は私に「喜ぶフリはしない」と約束してくれたのだから。

「そうでしょう……? だからそんな、限界ギリギリなんて探らなくても……」

「でもその限界を探るっていうのが、してあげてる感に繋がると思わない?」

「……それはちょっと分かりますけど。でも、それでもわたしは……」

「……あのねルカトゥ、じゃあ聞くんだけど」

 嘘を見抜く手段をもたないまま、彼女への信頼だけを頼りに聞く。

「ルカトゥは全部私のためだけにしてくれてるの? いろいろな注文をつけてくれたのも全部私のためだけのことで、本当はしてほしいことなんて何もなかった? ……もしそうならルカトゥは、私との約束を破ったことになるよね」

「約束は破りませんっ。……たしかに正直、している最中は煩悩で頭がいっぱいになっていたことを否定できませんけど。でも、一時でもそうなったら、もう相手のことを気遣っちゃいけないですか……?」

「気遣ってくれるのは嬉しいよ。でもそれと同じくらい、ルカトゥが素で私のことを求めてくれるのも嬉しいの。だから私に限界が来るまでの間は、そんなに心配してくれなくても大丈夫だよ……?」

「……なんでですか」

 ルカトゥが歯噛みするように唇を歪める。「納得がいかない」と顔に書いてあった。

「先生は、同性から言い寄られても応えられないんですよね……? なのになんで、求めてくれるのが嬉しいなんて、……なんでそんなことが本心から言えるんですか?」

「なんでって、聞きたい……?」

「そりゃ……」

「ルカトゥには一度話したことだよ」

 私には、ルカトゥの恋愛感情や性欲に心から向き合うことはできない。だけど求めてもらえるのは嬉しい。……この矛盾するような二つがどちらも本心であることを、ルカトゥは魔法で理解してくれている。さすがに簡単に納得まではしてくれなくても、「両方とも本心である」という事実をありのまま受け止めてくれるのは、ありがたいことだと感じる。

 オルディアの魔法が終わる寸前に、すでにルカトゥが一度肯定してくれたから。私はある好ましくない事実の発見を、いくらか気楽に話すことができた。

「しばらく夜にいろいろしてみて、私、分かっちゃったんだよね。……相手が自分の思い通りになることの快感は、性欲とは関係なかったんだって」

「え……?」

「残ってるんだよ、私の中に。性欲は確かに消えたのにさ、ルカトゥにいろんなことして、それでルカトゥが喜んでくれると、やっぱり嬉しいの。……でもそれはやっぱり、ルカトゥを自分の思い通りにできることが嬉しいだけなんだと思う」

「……どうしてそう思うんですか?」

「首を絞めた時、そう思ったから。ちんちんが生えてた時と一緒だなって」

「…………なるほど」

 実際にはただほんの少し俯いただけなのに、その時のルカトゥには大きなため息と共に肩を落とすような落胆が……あるいは絶望が見て取れた。

「遅すぎたんですね。わたし……」

「首絞めなんてさせなければって……?」

「はい。だって先生、あんまりそういう感覚を気に入ってないでしょう……?」

「……どうかな」

 私たちは似ていると、ルカトゥのような並外れた精神力の持ち主から言われて、あの時私は納得しかねた。そして納得できなさの中で、ともかく自分の罪悪感には意味がないことだけを自覚した。

 けれどそれからまたしばらくの間、私も一人で考えてみたのだ。自分の中に依然として「ルカトゥを思い通りにする楽しさ」が有ることに気づいた時は確かにショックだった。しかしそれは本当に悪い物なのだろうか……と。

 なにせ、私と似ているというルカトゥに「してあげたい欲」がなければ、きっと今頃私たちはこんなに親密にはなっていなかった。ならその逆のことだって言えるのではないかと、考えてみたのだ。もし自分がルカトゥを思い通りにすることに快感なんか覚えていなかったら、それでも私たちは今のように親密になれていたのだろうか……と。

「もし私が優越感だとか、そういう視点ですらルカトゥからの好意に興味を持ててなかったら、それでもルカトゥと仲良くなれてたのかな……?」

「……どうでしょう? そう言われてみると確かに、もし初めから明らかに邪険にされていたら、わたしも先生のことを諦めていたかもしれません。こちらのやることなすことが全て迷惑になるようなら、離れていた方がマシですからね……」

「……そう考えると、あんまり悪くも言えないよね。自分のこういう感覚のことを」

「そう思ってくれますか……?」

「そう思いたいよ」

 ずっと前にルカトゥの真意を知ったあの時、雑にでもいいから傍にいてほしいと言われたあの時、もしも私が頑なに「そんなのはダメだ」と言っていたら、きっとルカトゥとはお別れをしていた。確かにルカトゥはわたしに対して猛烈な好意を寄せてくれているけれど、それは絶対不変の物というわけじゃない。なぜなら彼女は「してあげること」が大好きで、人間関係の中には「離れてあげること」が唯一の正解となる場合だってあるからだ。

 自分が倫理的に潔癖症だったら、今ルカトゥはここにいなかった。それを想像すると、あまり正しくあろうとしすぎてはいけないのかもしれない……と思えてくる。自分の善悪の指標は、ルカトゥの笑顔と涙に依存する物なのだと考えていた方が、お互いのためになるのではないかと思えてくる。

 だから私にできることは、私にできる範囲で、なおかつ本人が望む範囲で、ルカトゥを気遣うことだけのように思う。……たとえそれの意味するところが実際にはどれだけ利己的な物になるのだとしても。

「ねぇ、だからさ、もしまだしてほしいことがあるなら教えてよ。ルカトゥはしたいことをして気持ちよくなる、私はそれを受け入れて気持ちよくなる。それか、私がNGを出して、ルカトゥは潔く諦める。私が一言ダメと言ったら、ルカトゥは本当はそれがものすごくしたくても、諦めるんだ。……そういうことをしようよ? ね?」

「……先生ぇ」

 見損なった風でもなく、呆れた風でもなく、かといってハッピーな様子も見せないで、ルカトゥはわずかに笑った。

 彼女もまた内心で私と似たように、私たち二人の間だけに通用する理屈をこねくり回して、独特の覚悟を決めてくれたのかもしれない。

「わかりました。それじゃあ明日の夜から、またいろいろお願いしてもいいですか……?」

「もちろん。でもジャブからお願いね」

「ふふ、首絞めはジャブですかね〜……?」

「どうかな〜……」

 窓の外を飛び立つスズメが数匹横切って、チュンチュンという鳴き声が家の中まで聞こえてきた。……全てはまったく朝食らしくもない会話だったように思う。

 けれど私たちはそれでいいのだ。らしさという物は、私たち二人の中にだけあればいい。他人も、時間も、常識も、何物もそこに介入することはできない。

 ルカトゥが仕事に向かうまで、私たちはだらだらとそれぞれの時間を過ごしたり、時々一緒に遊んだりした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の日の夜、ルカトゥのジャブとはキスであることが明かされた。

 私は良かれと思って舌を入れた。

「んぅっ……!?♡ んむ……!♡ ん〜……!♡」

 ルカトゥは露骨に驚いていたけれど、抵抗は一切しなかった。ちんぽの生えていない私から深いキスをされたのは初めてだったから驚いたのだろうけど、内心期待もしていたに違いない。

 一方で私は、彼女と絡めあった舌から感じる味に、違和感と不思議さの間くらいの感情を抱いていた。……彼女の唾液が、私の知っている味とは違ったのだ。

 自分に性欲があった頃は、ルカトゥの口内からは甘い香りがするように感じた。けれど今はそれがなんというか、あからさまに甘すぎる。甘ったるくて、正直あまり良い感じはしない。かき氷のシロップを舐めているような気持ちになる。

 この感情はルカトゥに悟られているだろうか。今の私は、彼女が危惧する「嫌そうな顔」をしてしまっているだろうか。暗闇の中でならそれも見えないだろうという考えは油断だろうか。……そんなことばかり考えながらするキスは、正直なところ終わった瞬間から早々に印象が薄れていくものだった。車窓から見えては遠ざかっていく景色みたいに、余韻も何もない。

「せんせぇ……♡ 好きぃ……♡ ちゅーありがとう……♡」

「ん、いえいえ」

 そのデレデレした声を聞くだけで、ルカトゥの目から放たれるハートマークが真っ暗な部屋の中でも色濃く見えるような気がした。

 ……こちらの冷めた感情とのギャップに罪悪感が湧く。けれどそんな物は、優越感で無理にでも塗りつぶしていく。

 頭をなでながら抱き寄せてみると、ルカトゥは当然のように私の胸に顔をうずめる。耳を澄ますまでもなく、すぐに深く呼吸をする音まで聞こえてくる。……一度受け入れたことがこうして定番と化していく流れは、こちらに性欲があってもなくても同じことだった。

 私もいいかげん、それに慣れようと思う。

「かわいいね、ルカトゥ」

「えっ……♡ あっ♡ あぁっ……うぅ……♡」

 ルカトゥは物理的な快感というよりは、精神的な快感によってエクスタシーを覚えるらしい。だから彼女の喜びそうなことは、それが嘘でなければ口に出してみる。するとどんなにひどい棒読みでも、彼女は見るからに悦んでくれた。

 あぁそうだこんな感じだった……と、私はもはや遠い過去のように感じていた「自分に性欲があった頃」を思い出す。あの時もこうして悦んでくれることに気をよくして、倫理的に無茶苦茶な内容の台本にも乗り気で臨んでいたんだなぁ、それと性欲とはほとんど関係のないことだったんだなぁ……と感傷的な気持ちになる。

 こちらがそうしている間にも、ルカトゥの絶頂が腕の中から伝わってきた。

「あっ……はぁ……♡ い、イッちゃいましたぁ……♡」

「そう? よかった。……大好きだよルカトゥ」

「えへ……♡ わたしも先生だいすきです〜♡」

 暗くても分かるようなとろけた笑みに向かって、最後にもう一度キスをした。手を繋ぎながら舌を絡ませると、さっきせがまれてした時よりもさらに彼女の体から熱を感じた。

 ……そういえばこれ好きだったよなぁ、と思い出して、その火照った体の中に唾を流し込む。

 すると長いおしまいのキスを終えたあとで、唐突に素面に戻った声でルカトゥが言った。

「あの……先生ぇ……? 今日、大丈夫でした……?」

「え?」

「嫌じゃなかったですか……?」

「えっ、あー、うん。まぁ、普通……?」

「ほんとに……?」

「うん、嫌じゃなかったよ。……逆になんでそんなに聞くの?」

「だ、だってその……。なんというか……」

「うん」

「…………サービスが良すぎませんか?」

「……なるほど」

 そういう理由で不安になったりもするのか……。そこまでは気が回ってなかった。

 そしてそれへ対する返事は、自分でも思っていたよりイキった物になってしまった。

「まぁ、ルカトゥが悦ぶことって大体想像つくし……」

「えぇっ、そうなんですかぁ」

「まぁ……」

「じゃあなんで、してほしいことがあったら言ってなんて言ったんですかぁ……」

「それはほら、あくまでも私はオナニーの手伝いをしてるだけだから。こっちから自発的にしすぎるのも違うだろうし」

「……まぁいいですけど〜。先生が平気ならなによりです」

 脱力した腕の中から、ぬくもりがもぞもぞと這い出て行く。狭いベッドの上には、私のすぐ横にさっきまでもう一人がいた雰囲気だけが残って、その残滓の主が床に膝をついて私の手を握った。

「……先生ぇ、ありがとう。すっごく幸せでした」

「……なんか横になったまま手を握られてそう言われると、余命が迫ってる気がしてくるね」

「や、やめてください、縁起でもない」

「あはは、ごめん」

「もうっ」

 どこか嬉しそうな声で不満を表して、ルカトゥは自分の布団の中へと戻っていった。それからはおやすみを言い合って、お互いただ目を閉じる。

 ……眠気が来るよりも先に膨らんでいった感情に突き動かされて、五分も経たないうちに私はその穏やかな沈黙を切った。

「ルカトゥ、起きてる……?」

「おきてますよ〜……?」

「……さっき茶化してごめんね」

「えっ。いいんですよぉ、気にしないでください」

 まぁ、そう言ってもらえるだろうと思ってはいたのだけれど。それでも黙っていたらしこりが残るような気がしたから、一応言葉にしておいた。

 そうやって勝手にすっきりして、私は今度こそぐっすり眠ろうとする。しかし今度はルカトゥがそれを呼び止めた。

「先生ぇ?」

「んー?」

「先生はなんだか最近、あざとくなりましたね?」

「えぇ……? うそ……?」

 心外である。……と私が思うやいなや、ルカトゥがくすくすと笑った。

「冗談ですよ。おやすみなさい、先生ぇ」

「いやどういう冗談……? ……まぁいいや、おやすみ」

 ……もしかして「おあいこ」にしてくれたのかな。と、ささやかに無駄な勘ぐりを持ちながら、私は眠りについた。

 その次の次の日の夜、今度のルカトゥが所望してきたことは、私の予想を少しだけ超えていた。

 いわく、先生の指でオナニーがしたいとのこと。……なるほど愛撫にそんな言い換えがあるとは、その注文を予期できなかったことは、エロ漫画家としては恥ずべきことだった。

 ともかくこれといって断る理由もなく、私は私の指をルカトゥに貸した。色気もなく無抵抗なその手をとったルカトゥは、自身の欲の中へとそれを近づけていく。

 ……そのまま放っておくと、彼女は本当に私の指を小さなディルドのように使い始めた。人差し指と中指を棒に見立てて、腰をくねらせてはいやらしく抜き挿しを繰り返す。んっ……あぁ……♡ と、喘ぎ声がいつも通りすぐ近くから聞こえてくる。

 初めのうちは、彼女の内側に宿る熱とぬるっとした潤滑に、思わずこちらまで声を出しそうになってしまった。性感を覚えたわけではないけれど、えも言われぬ感動、あるいは驚嘆のような物があった。……うわっ……すご……、という声を私はなんとか飲み込む。

 けれどそのうち、こちらとしてはそんな体験にも慣れて、相手の反応を見る余裕が生まれてくる。切なそうに、ペニスに比べれば物足りないにも程があるだろうただの指を必死にすりつけるルカトゥを見ていると、彼女がそんな目に遭っているのは誰のせいなのかということも忘れて、だんだんと哀れみの情が湧いてくるようになり……。

「あっ!?♡ んっ……!♡ ……せ、せんせぇ?」

 私はただ貸し出しているだけだった自分の指を、同情という名の気まぐれでおっかなびっくりながら動かしてみた。するとルカトゥはピタリと自慰の動きを止めて、こちらの心中を慮るように私のことを呼ぶ。

 ……相変わらず私の口から出る言葉はすべて乾いた棒読みだった。

「いや、ちょっとくらい手伝った方がいいかな……って」

「……イヤじゃない?」

「嫌ではないけど」

 女の私が、指をディルド代わりにされた際に驚嘆を受けた理由は一つ。私自身の痛みばかりに敏感な性器では、あんなに深く指を咥え込むことや、あんなに溢れんばかりの愛液で包むことはできないから、だから驚いたのだ。

 しかしそういった背景が、オナニーの手伝いをするとなると支障をきたしてしまう。

「けど……?」

「……加減が分かんない。どのくらい動かしたらいいのかとか……」

 言っていて、我ながらなんて童貞くさい台詞だ……と思う。本来は童貞どころか、少し前までは性の赴くままにルカトゥの体を毎日貪っていたはずなのに、そういえばその頃は、いつも私が言い寄ったその時にはすでに彼女の方が濡れていたから、前戯なんてした試しがなかったのだった。

 その事実も含めて、なんだか途端に自分が恥ずかしくなってくる。自分は人を哀れむことができるほどの人間じゃない……ということを思い出してきた。

 ……でもルカトゥは決してそれを笑ったりしない。そのかわりに、悪魔のように甘い声で彼女はささやく。

「壊すつもりでしてくれたら嬉しいです……♡」

「え……」

「先生は、わたしが乱暴なの好きって知ってるでしょ……?」

「そ、そうだけど……」

 確かにそれは知っているけれども。そんな腹パンや首絞めと同列に語っていい問題なのだろうかこれは。どちらの乱暴に晒されるのかをどうしても選ばなければならなくなったら、私なら迷いなく殴られる方を選ぶのだけど……。

 でも、サキュバスと人間の感覚は違うのかもしれない。……挿入されたままだった指が、手で握られるみたいにギュッと強い力で締め付けられたことで、そうだ相手は人間ではないのだったということを思い出させられる。

「……本当に加減なしでやっていい?」

「はい♡」

「ギブアップだったらすぐ言ってね……?」

「ふふっ、はい♡」

「……じゃあするよ?」

 ギブアップなんてさせられる物ならさせてみろ。そんなニュアンスを感じるちょっとした笑い声に特に背中を押されて、私は自分の思う限り……本当に壊すつもりで滅茶苦茶に指を動かした。

 とろとろした液体をかき混ぜる音が、嬌声越しにでもはっきりと聞こえるほどに響いた。

「あうっ♡ あっ♡ あっあっ……♡ うっ……あぅ……うっあっ……♡ あぁっ♡」

 ルカトゥが私の肩にしがみつく。その弱々しくも必死な手から、ひ弱な子が出せるせいいっぱいの力を感じる。

 ……つまり、そんなか弱いフリが出来るということは余裕があるということで、痛みに耐えているわけではないということ……と思っていいのだろうか? 確信が持てなくて、愛撫を一度止めてみる。するとルカトゥは息切れと共に切ない声を上げながら、私の首元に手を伸ばしてきた。

 Vの字に開かれた指が、鋏のようにちょきちょきと首筋を撫でる。

「うぅ……♡ はぁ……せんせぇ……♡」

 もはや懐かしさすら感じる「大丈夫」のサイン。言葉より雄弁なおねだりとして、二本指が何度も何度も私の首をなぞる。少しくすぐったいくらいに。

 それで私は、また懐かしい感覚を思い出した。見方によってはあまりにも恐ろしい……自分がルカトゥに向ける感情の中でも一二を争うほど醜い感覚のことを、久しぶりに思い出してしまった。

 ……傷つく様子が微塵もない相手を心配することが、馬鹿馬鹿しくなってしまったのだ。

「あぁっ♡ あっぐっ♡ うぅっ、はぁ……♡ ぐっうっ……うぅあっ♡ あっあんっ♡ あっ……いっ……♡ いっ……あっ……ひっ……んっっ♡♡」

 自分が同じことをされたら本気で泣き叫ぶだろうな……と思いながら、私はただただ力任せに彼女の中をかき回した。

 するとある時、ルカトゥがガクガクと腰を震わせる。それまで響いていた喘ぎ声が途切れて、首を絞めている時にも似た絞り出されるような息の音が、耳を澄ませばかろうじて聞こえてくるようになった。

「イけた……?」

「ひゃ、ひゃい……っ♡♡」

 返事を聞いて指を抜く。根元まで濡れたその二本は、部屋の空気をやけに冷たく感じさせた。

 乱れきった吐息を暗がりに聞きながら、空いている方の手でルカトゥの頭をなでる。……なでながら、自分の中に相変わらず湧く、後ろめたくもたまらない心地良さを噛みしめる。

 それは以前からずっと自分の中にあったのに、性欲を与えられて、それをぶつけてみるまでは自覚していなかった物。差別や偏見に匹敵する無自覚さでいつの間にか自分に根付いていた、雑に扱うだけでこんなにも喜んでもらえるということから受ける心地の良さその物だ。

 ルカトゥの頭をなでられることも……あるいは「なでてあげている」と思えることも、全ては彼女の懐の深さが実現させてくれていることであり、何一つ私の手柄ではない。そのことを噛みしめながら、あえてそれをぞんざいに扱う覚悟を改めて決める。きっと小難しいことを考えずただ与えられる物を純粋に楽しむことこそが、与えたがりのルカトゥへ報いることに繋がるから。

 ルカトゥが私のお母さんをやりたいと言っていた意味が、また少し分かった気がした。要するに彼女が言っていたのはこういうことでもあるのだろう。水の一滴にまでいちいち感謝する子どもなどは気持ちが悪い、ある程度は驕ってもらえなければやりづらいと。

 その「ある程度」というのが人間の常識とはあまりにも違うのだけれど、だからこそ親と子に例えられるのだと思う。大人と子どもとでは百円玉の価値が大きく違うみたいに、人間とサキュバスとでは何もかもが違うのだ。

「せんせぇ……♡ ありがとう……♡」

 いつにも増して甘ったるい声。あたかもこちらを盲信しているかのような、何をしても許してくれそうな声。……そんな声にすら私は聞き慣れてしまって、だからこそ意識して当たり前のように返事をする。

「いえいえ、どういたしま……わっ」

 その瞬間、またしても予期していないことが起こった。冷たい外気を感じていた二本の指が、再び生々しい温もりに包まれたのだ。そしてその中を、生き物のように肉厚な物がにゅるりと這い回る。

 指フェラをされているのだと理解するまでに数秒かかった。

「んぁ……♡ はい♡ 綺麗になりましたぁ♡」

「あ、ありがと。……こういう時もお掃除フェラ的なことってあるんだね」

「あっ、ごめんなさい、嫌でした……?」

「嫌ではないけど、完全に忘れてたから何事かと思った」

「あ〜、あはは。すみません」

 さほど悪いと思ってなさそうな声でルカトゥが笑いながら謝るから、なんとなくこちらとしてもホッとした。

 彼女が自分の布団に戻る最中、部屋が夜の闇の中にあるのをいいことに、さっきまで舌になで回されていた方の指を鼻先に近づけて匂ってみる。……甘ったるい香りでもするのかと思ったらそんなことはなく、むしろもっと予想外のことがあった。

 まったくの無臭だ。ただ自分の皮膚の匂いだけがして、しかもいつの間にか何事もなかったかのように完全に乾いている。……もしかするとサキュバスの言う「綺麗にした」とは比喩ではないのかもしれない。今さらながらそんなことに気がつく。

 ……ルカトゥのリクエストは、その日以降も加速を続けた。丸一日のインターバルを挟んだあとの夜に、彼女が望んだことはアナルプレイだった。

「あの、指だと嫌だと思うので、そこにある玩具とか使ってもらえたら……」

「……私がディルドで手伝いをしてる間、ルカトゥは前の方でオナニーするってこと?」

「あ……えと……。……ダメならやめておきます」

「いやダメではないけど。ルカトゥってアナルあんまりなんじゃなかったっけ?」

「え? そんなこと言いましたっけ……?」

「ありゃ、記憶違い……? ……まぁいいや。一回電気つけるよ」

「は、はいっ。すみませんっ……」

 部屋の電気をつけると、さっそく照明が肉眼で見上げる太陽のように眩しく感じる。その白い明かりの下で、私は久しぶりに例のダンボール箱を開けた。

 性的に禍々しいグッズの中から一本のディルドを取り出す。ルカトゥの台本に沿っていた頃はアナル系のプレイをすることもあったけど、あれは陵辱感を出すためというか、ルカトゥ的にはあまり嬉しくないことをあえて……という形でやっている物だとばかり思っていたから、今回のようなシチュエーションになるとちょっと解釈がよく分からなくなってくる。ルカトゥはいつだったか私の「普通のセックスの方がいいな」という感想に対して確かに同意してくれていたはずなのだけれど、あれは社交辞令だったのだろうか……?

 電気を消して、ディルドを持ったままベッドの上に戻り寝転がる。この前まで自分に生えていた物とよく似た太さのそれは、暗闇に見えなくなってしまえば、その暴力性までもがなりを潜めたかのように錯覚するものだった。

 ルカトゥにディルドを握った手をとらせる。すると意図を察して、彼女はそれを無言で望ましい箇所へと誘導した。ローションもいらない、不浄かどうかももはや分からない、性行為の深みのために用意されているかのようなサキュバスの後ろの穴へ。

「う……♡ おっ……お……あぁ……♡」

 まるであるべき場所へ戻っていくかのように、握りしめたそれは抵抗らしい抵抗もなく根元まで飲み込まれていった。

 そのまま私がどうしていいのか分からず固まっていると、いつもとは違う悩ましげに呻くような声を次第に大きくしながら、ルカトゥは一人で喘ぎ始める。こちらが何もしなくても、濡れた内側をぐちゅぐちゅと容赦なくかき混ぜる音が聞こえてくる。

 ……邪魔になりはしないかとも思いつつ、一応問いかけてみる。

「どうしたらいい……?」

 返事の前に、んへへ……♡ とにやけた声がした。

「せんせぇが思いつく限り、めちゃくちゃにしてください♡」

「……ん」

 それは本来なら私の苦手としている台詞だった。かつての私はエロ漫画でその手の台詞を見るたびによく思ったのだ。痛くされたら普通に嫌だろうに、そんな「おまかせで」みたいなアバウトな注文があるかと。

 だけど今、目の前のサキュバスからその言葉が出たのなら、自分に望まれていることとは何なのかが具体的なところまでよく分かる。……ルカトゥの性癖ならよく知っている。

 私は、自分がされるのは絶対に嫌だと思うことを想像力の限り、ルカトゥに向けて実行した。わざと痛むように乱暴に抜き挿しする。腸内をえぐるようにディルドをあちこち強引に傾ける。ルカトゥがさすがにギブアップだと言うまで、……今度こそそう言われた時にはすぐにストップできるように構えながら、彼女をめちゃくちゃに壊そうとしてみせた。

 私の知らない遠い昔に、こんな拷問じみたことを嬉々として彼女にぶつけた男がどこかにいたのだろうか……。と、こちらがそんな想像をしている間に、ルカトゥはあっという間に全身をビクンッと跳ねさせる。

 その全身の硬直は何度も繰り返される。やがて少しは落ち着いた彼女が、呼吸の仕方を思い出すその時まで。

「お゙っ……♡ お゙ぉ……♡ あ゙……ゔっ……♡♡」

 嬉しいフリをしないという約束がオーバーな表現の禁止までをも含めているなら、ルカトゥの悦びようはいつも相当なものだ。ただ乱暴にされただけでどういうわけか快感を貪ったらしい彼女が絶頂に打ち震える様を肌で感じながら、自分には分からないなぁ……と改めて思う。彼女の性癖は、把握することはできても理解することはできない。

 でも、それで全然よかった。ただ把握が出来るというだけでも、それによって相手に大きな悦びを与えられることの実感が得られるから。いつも通りの後ろめたい手応えを得られて、相手のためにもなるのだから、それ以上のことは望む必要もない。

「……どう?」

 私が聞くと、ルカトゥは一度深く息を吸い込む。

「最っっ高でしたぁ……♡♡」

「ならよかった」

 いつまでもディルドを握っていては間抜けな感じがして、そこから手を離して彼女の頭をなでる。

 可愛がられることは恋愛的に好きで、虐められることは性癖的に好きで……と理屈にしてみると、ルカトゥの好意は全方位的で忙しい物に思えるのに、実際の行動にしてみるとそれはこんなにも単純になる。

「えへ……♡ なでなで好き〜♡」

「知ってる」

「ふふ……♡」

「……あっ」

「ふぇ? どうしました〜?」

「あ、いや、ううん。なんでもない」

 私は不意に、わりとどうでもいい真実に思い当たった気がした。

 アナルセックスについて「普通のセックスの方がいい」と私が言った時、ルカトゥは確かにそこに同意していたはず。……しかしその同意とはつまり、「挿れる側の感想」としての同意だったんじゃないか? オルディアを相手に「毒見」をしたルカトゥが、その時の感想を踏まえて同意の言葉を口にしたのではないか。

 とろけたルカトゥと愛想もない自分の温度差の対比に、なんとなくそんな推理を思いついた。毒見をした時のルカトゥも「あれ、こんなものか」と冷めた感想を持っていたのではないかと。……わざわざ答え合わせをしたいとも思わなかったけれど。

 ギシギシとベッドが軋んで、用の済んだ一人が夜の舞台を降りていく。

「先生ぇ、今日もありがとう」

「いえいえ」

「おやすみなさい」

「おやすみ」

 目を閉じたあとで、最後に一度だけ「ん……♡」と艶かしい声が聞こえた。……きっと挿れっぱなしになっていた物が抜かれたのだろう。

 私はそのあたりですでに、この定期的に性に乱れる夜がある生活にもすっかり慣れ始めていた。明日の朝にはまた何事もなかったかのように母親力の高い友人に起こしてもらえることを思うと、そこに何の疑いもない安心を感じながら眠ることができる。どんなプレイをした後だって眠る段になれば、もはや不安も負担も少しも感じなかった。

 ……だけどその次の次の日には、これまで「手伝い」の解釈を徐々にエスカレートさせていたルカトゥが、ついにある一線を超えた。

「先生ぇ。今日のお願いは本当に、本当に断ってもらって大丈夫なんですけど……。……その、もし万が一、先生がこれっぽっちも嫌でなかったりしたら、お願いしたいことがあって……」

「うん。なに?」

「…………その、先生がしてるところも、見てみたいな〜って」

「……私の?」

 思い出が……あるいは黒歴史が脳裏によみがえる。初めての彼氏ができた時、私も気になって頼んだことがあった。男の人の自慰とやらを見せてもらえないだろうかと。

 それを頼んだ時の相手の顔をよく覚えている。引くでもなく、快く微笑むでもなく……。あの男子高校生は、鼻の下を伸ばして言った。「じゃあ、お互いに見せ合う……?」

 ……見る物を見せてもらったので文句は言えないのだけれど、あれは私の人生で一番の無味乾燥とした自慰行為だったように思う。

「見るって、電気をつけてってこと……?」

「い、いやいやっ、暗いままでも大丈夫です」

「それで見える……?」

「なんとなくだけでいいんです」

「……じゃあまぁいいけど、絶対面白くならないよ?」

「そんなこと……。……あ、でも嫌なら」

「嫌ではない」

 同性の自慰なんて鏡でも見ればいい……と私なんかは思ってしまうけれど、ルカトゥにとってはきっと何か意味のあることなのだろう。それを察せた上でなお断るほどの理由があるのかというと、ない。

 その鈍感な羞恥心が私本来の性分なのか、オルディアの魔法による諸々の体験を経たことによる麻痺なのかはもはや分からないけれど、そんなことはどちらでもよかった。

「……じゃあするね」

「あっ、は、はいっ」

 パジャマの中に手を滑り込ませて下着もずらして、私は女としては初めてルカトゥの前で自らの下に触れる。こうしてみると緩いゴムのウエストはまるでそのためにあるかのようだけれど、ルカトゥと暮らし始めてからは、この服装で自慰をした覚えは一度もない。

 暗がりに居るどころか仮に目隠しをしていたとしても、ルカトゥには通知の魔法によって私の行動が伝わる。だからなのか、こちらが濡れてもいない割れ目を儀式じみてなぞり始めると、連動するかのようにすぐ傍で衣擦れの音が聞こえてきた。

 自慰を始めたルカトゥがおもむろにすり寄ってくる。どさくさに紛れてまた私の匂いとやらを嗅ぎに来た彼女をべつに咎めはしない。……慣れてくると、そうしてすーはーと息を立てられることにも悪い気はしないのだ。

 しばらくの間、寝言のように小さく慎ましく……しかし途切れることのないいじらしい声が、私の耳をくすぐった。艶っぽい吐息の中から時々、「せんせぇ……♡ せんせぇ……♡」と私を呼ぶ声も聞こえてくる。

 ……けれどある時それは止んで、人に聞かせるための普段通りの声に切り替わった。

「……あの、先生ぇ」

「うん?」

「えっと、もし良ければなんですけどね……。……オカズとか見てもらった方が、先生も楽なんじゃないかなって……」

「……なるほど」

 ルカトゥがそうしてほしいというなら、従うのもやぶさかではないけれども。

 彼女はサキュバスだから、人の性欲を察知できてしまう。それはすなわち消去法的に、今この場にいる私がこれっぽっちも性的興奮を感じていないことを察知できてしまうということも意味している。愛撫を受けるならまだしも、その状態で自慰を所望することはいくら無敵のサキュバスでも心苦しかったのかもしれない。

 キスも愛撫も暴力も、こちらに性欲や興奮が伴っていないことを百も承知で喜んでくれていたのに、今回はそうもいかないようで難儀だな……。と、正直思う。しかしもちろん嫌なわけではない。むしろその難儀さに付き合うことにもまた価値があるというものだ。

 ……ただ、そうして善処はするけれども、どの道彼女を満足させることは出来ないようにも思う。

「いいけど、それでもあんまり変わらないかもよ……?」

「……すみません、無理なお願いしてしまって」

「いいよ全然。……でもじゃあ電気つけていい?」

「えっ」

「目悪くなるじゃん。ただでさえなのに」

「あっ、そ、そうですよねっ」

 ルカトゥ本人に向けて興奮できない以上、この家のオカズになる物といえば他にはデジタルな物しかない。それは普段使いのタブレットの中に保存されている。……改めてルカトゥの立場からすればいかにも屈辱的なシチュエーションではないかと思うのだけど、私には彼女の期待も分かる。

 自分の作品を見てほしいのだろう。彼女はAV女優だから、画面の中に注目することは必ずしも彼女を蔑ろにすることとも限らない。……あるいはそうでなくても、「自慰のフリ」よりはマシなのだろう。

 部屋の明かりをつけてタブレットを探し出す。一応充電を確認して、それから必需品としてイヤホンも差し込む。

 イヤホンコードを指に絡ませつつそれを片手にベッドへ戻ると、下衣を足首まで脱いで顔を真っ赤にしたルカトゥが、もじもじとそこに丸まっていた。

 ……これだけ色々なことをしておいて、彼女のそんな顔は初めて見た。

「……恥ずかしいの?」

「いや、あの違うくて……。なんていうか、こういうの初めてで、申し訳ないっていうか……」

「ふむ……?」

 こういうのとは……? と一瞬考えて、「自分に性的興味のない相手の目の前で発情してオナニーをすること」だろうかと思い当たる。男を手玉に取った経験には事欠かないであろうサキュバスが体験したことのないシチュエーションで今ある物といえばそれくらいしか思いつかないから。

 同じ状況に立ったことがないからなんとも言えない気もするけれど、私には自分の自慰を誰かに見られて恥ずかしいと感じることが想像できない。不愉快とか気まずいとか世間体としてまずいなら大いにあるだろうけど、恥ずかしいというのはよく分からない。……サキュバスに分かる恥じらいが人間である自分には分からないだなんて、なんだか人として欠けている気分になると言ったらサキュバスに失礼だろうか。

 私は白い照明の下でベッドの上に寝転がり、イヤホンを片耳だけ入れてタブレットの中のお気に入りの品々を漁る。片手で画面を操作して、もう片手でパジャマの中に指を……滑り込ませようとして、こちらだけそういう風にするのもどうなんだろうと不意に思い、ルカトゥと同じように下を脱ぎ去ることにした。

 旅行中に一緒に温泉に入る時のような感覚で私はそうしたのだけれど。ほんの小さな声で、ルカトゥの息を飲む様が聞こえた。

 デリカシーのない私は、それで何も考えずに彼女の方をチラと見てしまった。視界の端で素早くそれを察知したのだろうルカトゥがうつむくように目をそらす。

「うぅ……」

「な、なんでそんなに恥ずかしがる……?」

「は、恥ずかしいわけじゃないですけど……。……逆にですよ先生ぇ、わたしが先生のことガン見してたらどう思います……?」

「え〜? ……ちょっと気まずいから、ルカトゥが満足してくれるまでは画面の方を見とくかな」

「それってつまり、嫌な気持ちに……」

「には、なってない。いいよべつに? 見たければ見ても。私もいろいろ開き直るから」

「えぇ……うぅ……。そう言われても〜……」

 なんとなく、ルカトゥの言わんとしていることが分かってきた気がした。やはりサキュバスである彼女は、単純な恥じらいを感じているわけではないらしい。

 要は暗闇の中に紛れ込めば、遠慮なくオナニーをしようと生身のオカズに注目しようと、その時の彼女の様子は私に詳細には悟られず、よって不愉快な思いをさせることもなければ幻滅されることもない……と、ルカトゥはおそらくそんな風に思っているのだろう。胸に顔をうずめて深呼吸をするのも姿が見えない環境ならではのことで、明かりの下で同じことをすれば軽蔑されるとでも思っているのだろう。そうでなければ、たぶん今の会話にはならない。

 ……意外すぎるほど手のかかる子だなぁと感じる。種族が逆転しているかのようだった。

 私は少しだけ迷ってから、自慰を放り出して、両手をルカトゥの背に回して彼女のことを抱きしめる。そしてその勢いで唇をふさぐ。

「ひゃっ……!? んむっ……ん〜!?」

 そのままムードの欠片もなく舌を入れる。これまでに何度もしてきたみたいにルカトゥの口内をなるべく無遠慮に味わって、右往左往する相手の舌をちゅうと吸いながら、歯の先でなでるようにほんの少しだけ甘噛みをする。そしてそのまま唾液を流し込む。

 甘ったるい匂いが胸の奥まで染め上げていくことを感じつつも、とにかくルカトゥの喜びそうなことを手当り次第にやってみた。

「んっ、んう……!♡ んむ……んぁ♡ れろ……れぇ……♡ れる……んぅ……♡」

 幸いにも、いとも簡単に彼女の瞳はとろんとした物になって、余計な感情は溶けていったようだった。戸惑っていた舌も積極的にこちらを求めてくるようになり、いつもの調子が戻ってくる。

 けれど、私の指が最も敏感な部分へ這いよると、ルカトゥは再び驚いて声を上げた。

「んっ!?♡ んぅっ……!?♡」

 慌てふためくリアクションに反して、ぐっしょり濡れたその狭い穴は、口内よりもさらにずっと熱い抱擁でもってあっさりと私の侵入を受け入れる。

 気遣いもなく奥まで突き入れた指で、健気に締め付けてくる肉壁を何度も引っ掻く。……悲鳴にも似た嬌声が上がったところで、私は唇も手も引いて、彼女に触れることをやめる。

「……このまましてるとこっちはオナニーできないけど、どうする?」

「ふぇ……」

「ルカトゥが決めていいよ」

「あ……あぅ……」

 これだけお膳立てしても、彼女はまだ迷っているようだった。自分の欲望を文字通り明るみに出す決心がまだつかないらしい。もし私が一言指示すればルカトゥは何にでも従ってくれるのだろうけど、自発的なこととなると一転して、彼女は妙なタイミングで乙女心のような物を発揮してしまうらしい。

 いっそ視力くらい犠牲にして電気を消してしまおうか……。そう思うけれど、ルカトゥは私に少しでも「犠牲」が生まれることを良しとしないだろう。……だけどむしろその一方で、彼女ならこうも考えるはずだ。いつまでも優柔不断でいたら、それこそ不愉快に思われるかもしれない……と。

 そしてたぶんその予想は当たった。きっと時間にして十秒もなかったような短く濃い躊躇を経て、ルカトゥはうつむきながら口を開いた。

「……先生ぇ、ごめんなさい。馬鹿なことをお願いしてもいいですか……?」

「いいよ」

「…………自分でするので、くっつきながらさせてください」

「……ん、いいよ。おいで」

 枕元付近に散らかったイヤホンの線を退けて手を広げ、ルカトゥを迎え入れる。すると彼女は遠慮がちにそこへ飛び込んできた。密着した体から、ついさっきも感じたような温かさがまた伝わってくる。

 ……私の体温はどんな風に伝わっているだろう? つまらなさそうな冷たさをしていなければいいけれど……。

 そう今さら不安に思っていると、ルカトゥが呟いた。

「あったかい……」

「……よかった」

 片腕だけで彼女を改めて抱きしめる。そして残りの片方の手で、少々不便ながらもタブレットを操作して見るべき物を探す。……しかしそこで、いよいよ分かりきった問題に私は直面するのだ。

 抱きしめるためにあった手を解いて、自分の下半身の方へ持っていく。私はそこにある小さな弱点に触れる。なでるように、あるいは丁寧に揉むように、ささやかにそれを愛撫する。

 クリトリスでの自慰を覚えたのは小学生の頃だった。当時のマセたメスガキは、そこから得られる繊細で頼りない快感だけが、自分が女として味わい得る全ての快感なのだとはまだ知らなかった。大人になれば中イキだって自然と出来るようになるはずだと思っていた。

 ……だけど今日は、そこにいくら触れてみてもいまいち濡れてこない。原因ははっきりしていて、ルカトゥが傍にいることはそれに関係ない。濡れない原因は、私が、これまでに集めたどの性的コンテンツにも上手く興奮できなくなっているからだ。

 このことに気がついたのは、ルカトゥの自慰を手助けする試みを始めてからしばらく経った日のことだった。人の手助けをしていれば、私だってまったく影響を受けないわけではない。ルカトゥが仕事でいない日にこっそりオナニーをしようとしたことが当然あった。……だけどそこで、自分がこれまでのようには興奮できていないことに気がついた。

 女ばかりがよがる作品では、男視点の快感のなさ……味気なさが気になって集中できない。自分が一度男の立場に立ったからだ。かといって男だけが気持ちよくなる作品を見ても、もはや自分にそのシンボルはなく、実際の自慰との間に空虚なギャップが生まれるだけだった。……では、男も女も気持ちよくなれる作品は? というと、私には女の視点で見るそれがどうしてもリアリティに欠ける物に思えてしまって、その点がどうしても引っかかって、上手く自分を濡らすことができなかった。

 もしかすると、案外深層心理の部分なんかでは、私は処女を卒業した時のことをトラウマにしているのかもしれない。そんなことを考え始める程度には、本当にどれにもいまいち興奮できなかった。

 だからそんな私にとって「オカズを見てオナニーしろ」というのは、実は難題なのだ。暗闇の中で黙々と「オナニーのフリ」をするだけではルカトゥを満足させられなかったことを思うと、彼女をさらに落胆させてしまう展開まですでに秒読みが始まっているようにも感じる。

 ……私は、今お互いの熱を分かちあっているルカトゥに突きつけてしまうのだろうか。他の作品と同じように、君の作品では何をどうしても興奮できないんだと。

「はぁ……♡ ん……♡ あっ……♡」

 胸のあたりからつつましい喘ぎ声が聞こえてくる。いつもの激しさはないけれど、それでも確かにルカトゥは自分を慰め始めているようだった。

 ……暴力みたいに、オナニーだってただ定義通りに動けばそれで成立すればいいのに。と、そんなことを考えてしまう。自分の中で暴力のハードルが下がりすぎているのか、それともオナニーが難しい物になりすぎているのか、もはやよく分からない。

 まぁ、でも、どうしてもしんどくなったらやめよう……。元々そういう約束だったんだ。そう努めて気楽に構えて、変わり映えしない自分自身を愛撫し続けてみる。そしてそれと同時に、何かまだ見ぬ作品の中に活路はないかとネットの海をさまよう。今日のことを抜きにしたって、世のどこかにそういうオカズがあるなら普通に手に入れたい気持ちもある。

 ……そしてそこで、一つ目立った物を見つけた。

 それはルカトゥの出演している新作のAVだった。過激なパッケージに、角張ったフォントの赤い文字でタイトルが書かれている。

 

『レズ女お仕置きレイプ。男嫌いの生意気マンコを犯して分からせてみた』

 

 ……その悪趣味なタイトルに、いつの日だったかの記憶がよみがえった。

 そうだ、そういえば確かに、ルカトゥはそのような内容の作品に出演すると言っていた。今時そんな作風で炎上しない? と心配した覚えがある。けれどその時のルカトゥは炎上のことなんか全く危惧していなくて、全然別の点に注目していたのだ。

 彼女は作中での描写として、私の本名を呼びたいと言っていた。べつにフルネームじゃないらしいし、さほど珍しい名前でもないし、それくらいならいいよと許可を出したことを覚えている。……ということはつまり、諸々の都合でカット等されていなければ、該当シーンがこの新作の中に収録されているということになる。

 許可を問うのは野暮だと思って、私は黙ってその場でその作品を購入した。そしてさっそく再生してみて、該当シーンを探す。名前を呼ぶということは口淫のシーンではないだろうし、始まってすぐにいきなりということも脈絡がなさすぎて考えづらい。作風の悪趣味さを思えば、きっと中出しの直前や、ボロボロに犯された際のうわ言としてその台詞は運用されているはず……。

 ……そうやって推理しながら動画を飛ばし飛ばし見ていると、ある時ついにそれを発見した。見立て通り、やはりそれは中出し射精の直前にあるシーンだった。

 廃墟のような場所に敷かれたダンボールをベッド代わりに、後ろ手に手錠をかけられたルカトゥが顔を床にこすり付けるような後背位で犯されている。「うっ……ぐっ……! ぎっ……いっ……!」と突かれるたびに絞り出される声は、感じているというよりは隠しきれない苦痛の表れのようで、特に奥まで挿入されたまま腰を押しつけられると、画面の中の彼女は眉をひそめた額に汗を浮かせて、呼吸もおぼつかなくなるくらいだった。

 そんな女の尻を力任せに叩きながら、苦痛に悶える姿を楽しむように犯し、アナルにまで指を入れて、ついには心を折り「もうやめて……」と号泣までさせた男が、ひときわ早いペースで腰を振り始める。

「あぁ、出そうだ。中に出すからな」

「い……嫌……。おねがいやめて、おねがい、それだけは……」

「やめてほしいか? じゃあ恋人に助けを求めてみろよ。面白かったら気が変わるかもな」

「え……? そ、そんなこと……」

「あ? 拒否ってことでいいんだな?」

「うぅ……。…………た、たすけて」

「あぁ?」

「たっ、たすけて……。ひなこちゃん助けて……」

「聞こえねぇよ!」

「ぎゃあ! ひ、ひなこちゃん……! ひなこちゃん助けてぇ……! お願いたすけてぇ!」

「あ、ごめん。もう出たわ」

「え……。……あっ……あぁ……」

「ほら、雛子ちゃんに向かって、中出しされてごめんなさいは? ……言わないとどうなるか分かるだろ?」

「うぅっ……ぐすっ……。……な、中出し……されちゃった……。ひなこちゃん……ごめんね……」

「はははっ、ごめんじゃ済まねぇだろバーカw」

「うっ……うぅ……。ごめんね……ごめん……」

 ……その後、作品の中のルカトゥは完全に心が折れてしまったようで、どんな扱いを受けてもうつろな表情で男の言いなりになっていた。

 けれど、その心を殺された女とまったく同じ声で、やけに幸せそうな声がどこからか聞こえてくる。

「せんせぇ……♡ あぁっ……せんせぇ……♡」

 イヤホンをしていない片耳に、気づけば聞きなれた水音が響いていた。ぐちゅぐちゅぐちゅ……と乱暴にかき回す、行き場のない欲求をなだめる音だ。

 その声のする先に目を向けると、体を丸め込んだルカトゥが目を閉じて、一心不乱にせいいっぱいの快楽を味わっていた。大きな胎児のようなその姿にはおよそ体裁という物がなく、あれだけ躊躇で雁字搦めになっていたことが嘘だったかのように、いつの間にやら彼女は自分だけの世界に入っていた。

 ……これだけの至近距離である種のコミュニケーションの到達点のような行為をしていても、一人の世界という物はいとも簡単に訪れる。男の立場でもってルカトゥを後ろから犯した時に私自身それを感じたから、今回は同じ轍を踏まないように、きちんと現実のルカトゥの存在を感じるべく私はイヤホンを片耳だけにしていた。……けれども気がついてみれば、今度はルカトゥの方がトリップしている。

 私はそれを見て、自分の考えを今さらながらに改めた。お互いの存在あっての性行為の最中に一人の世界に入ることはよくないことだとばかり思っていたけれど、それこそが当人の心を救うことだってあるのだと。……報われない巨大感情を持つ心を救うには、そういう方法だってフルに使っていくしかないのではないかと。

 私の目を気にして顔を赤らめるルカトゥより、体裁なんか忘れて恍惚としているルカトゥの方が、なんだか見ていて安心できる。……きっと全ては私のエゴなのだろうけど。

「……はぁ」

 自分の指先の幸いであるはずの感覚に、最悪だ……と思わせられてため息が出る。

 ……濡れていた。少しだけだけれど、さっきのAVを見て興奮している自分がいた。そしてその興奮は生身のルカトゥを見ても、燃え上がりはしないかわりに冷めることもなかった。

「あんっ……♡ んぁっ……♡ あっ……♡ イく、イく……♡ イきます……せんせぇ♡ あぁっ……あっ……♡ うあぁっ♡」

 ルカトゥの体が跳ねるようにこわばる。肩が跳ねて全身が力んで、一番強い快楽の波を懸命に味わっている。

 ……その最中にも停止し忘れた動画が、私の片耳に背徳的な台詞を聞かせてくる。

「お、おちんちんだいすきです……。男の人だいすきです……。レズなんか気取って、すみませんでした……」

 それは目の前に見える幸せそうなルカトゥとは似ても似つかない、ひび割れた心が絶望を纏ったような声で読み上げられていた。

 いったいいつの間に撮影を済ませていたのだろう……と思わず過去を振り返ってしまうような、プライベートのルカトゥと映像の中のルカトゥの間に隔たる統一性の無さ。彼女の無敵さを証明する物の内の一つが、これでもかと浮き彫りになる。

 こんな台詞を言わされていても、いつも平気な顔をして私に好意を振りまいてくれるのがルカトゥなのだ。「平気なフリ」をしているわけでは断じてなく、彼女はいつも心底平気でいる。なぜなら彼女は、同じくらいひどい人格否定をする台本を自ら書いて、好意の対象である私にわざわざ読ませたくらいなのだから。それでいて危うさを感じさせることは全くなかった。

 そんな無敵のメンタルを持つルカトゥが、いよいよ一人きりの世界から戻ってくる。夏でも白く煙って見えそうなほど熱っぽい吐息と共に、うるんだ瞳がゆっくりと開かれる。……そして私の、微笑むことも覚えられない目と視線を衝突させる。

「……あっ、ご、ごめんなさい……っ」

 消え入りそうな声を発して彼女は目を伏せた。それだけ見れば、気弱で傷つきやすくて、一度ヒビが入れば二度と立ち直れないような儚い少女にも見える。

 不思議だった。こちらに性欲がない状態で闇に紛れずにエッチなことをすると、あのルカトゥがこんな風になってしまうのかと。なるほど道理で、精神力だけでレイプ衝動すら抑えてくれていたわけだ。

 今なら想像できる。私を無理やり押し倒して、せいぜい上を脱がせてキスくらいまでは強行したルカトゥが、突如として命乞いをするかのように土下座付きの謝罪を始めるところが。ルカトゥにとって相手が興奮しているかどうかはそれくらい重要なのだと見える。

 でもまぁ考えてみればそれもそうなのだろう。性欲を食べるために性の分野に特化しているサキュバスが、性欲のセの字もない相手への耐性を持っていないことは、ある種自然ではある。

 だから私は「大丈夫だよ」の意味をこめて、彼女の頭をできるだけ優しくなでた。

「……つらかった?」

「え……?」

「ごめんね、電気つけるなんて言って」

「え、いえ、全然……。……むしろお見苦しい物を見せてしまって、すみません」

「お見苦しいわけないでしょ」

「で、でも、ひとりよがりですし……」

「……ふむ」

 なるほど、出演作品は嬉々として見せたがるのに、生身のそれを「見苦しい」と表現する理由はそこにあるのか……と納得する。確かに彼女の作品はひとりよがりなわけがないし、私がオルディアの魔法の影響下にいた時には一度もそういう話をしなかったことを思うと、ルカトゥにとってかつて私の中にあった「処理するべき性欲」とは「免罪符」だったのだろうと察せられる。暗闇はそのせめてもの代用だったのだ。

 そうと分かれば、私から言うことは一つしかない。

「こういう時くらいはそうであってくれた方が、私としては嬉しいな」

「……そういうものなんですね」

「うん。そういうものだよ」

 リップサービスではなく本心から言っているのだということは、魔法で難なく伝わる。

 それが分かったルカトゥは、喉につっかえた物を飲み込むような一瞬の逡巡のあとで、困ったような顔をして微笑んだ。

「じゃあ、ありがとう……?」

「どういたしまして。……というか、こちらこそありがとね」

「えへへ。どういたしまして〜」

 それだけが全てではなかったのだろうけど、主にオルディアの魔法を用いて免罪符を手に入れたかったルカトゥと、罪悪感に苛まれては彼女の望みに応えきれず、良心の皮を被った欲望の存在を自覚した私。……どこからどこまでが欲で、どこからどこまでが良心で、どの行動をどちらのために行っているのか、もはや分からないほどに絡まった私たちは、最終的にそうしてありがとうを言い合った。

 たとえ中身がどんなにぐちゃぐちゃのカオスでも、中身がないよりはマシだと信じたい。カオスな関係性だって、性欲に支配される生活よりはずいぶん澄んで見えるものだから、その感覚がひとりよがりではないことを信じたい。今の私たちは性欲と上手く付き合って、お互いが幸せになれるような生活をしているのだと。

 ……そんな私の願いを叶えるかのように、ルカトゥが次第ににやにやと、何かを待ちきれなさそうな笑みを浮かべ始める。

「ところで先生ぇ。例のやつ、見たんですねぇ」

「え? あぁ、レズをお仕置きってやつね」

「そうそう。どうでしたか〜?」

「どうって……」

 そんなに楽しそうな顔をして聞いてくるということは、私が口にするまでもなくルカトゥには答えが分かっているのだと思う。……サキュバスの性欲センサーは随分と敏感らしい。

「正直、ちょっと興奮した」

「どのシーンがよかったですか」

「私の名前を呼ばれるシーン」

「おぉ〜。なんでまたそこを気に入ってもらえたんでしょう?」

「なに? 妙に根掘り葉掘りするね」

「だって先生、おちんちんが生えてた時もああいうプレイが好きってわけじゃなかったじゃないですか〜。克服できた理由が気になって」

「なるほど……」

 それについてはもちろん私だって考えた。良心を語り、性欲の無さを語り、自慰の難を語り、目の前のルカトゥに興奮しない私が、あんな内容のAVには興奮を覚えるだなんて不可思議だし一大事だ。一見して意味不明だ。だからなぜだろうと、まるで言い訳を探すみたいな必死さで考えた。

 そしてその末に、一応の答えを見つけている。少し濡れただけで結局絶頂にまでは遠く至らなかった私は、エクスタシーのかわりにそれを見つけたのだ。

「ちょっと長くなるけどいい?」

「もちろん」

「じゃあ、……まず私は、趣味の悪い作品自体は嫌いではないのね」

「ふむふむ」

「けど、自分で手を下すのは苦手なの。描くという意味ではなくて、本当にプレイとしてやることがって意味で」

「なるほどぉ」

 それは当たり前といえば当たり前のこと。漫画の中に凄惨なレイプを描ける人間が、もし許されるなら同じことを平気で現実でも行えてしまうのかというと、それとこれとは余りにも別である。エッセイ漫画の中で「未来でルカトゥを蹴り飛ばす自分」を描くことと、それを現実にすることのハードルは大きく違ったことのように間違いなく別なのだ。そしてその「作品と現実の間にある壁」は、三次元においても存在している。

 レイプ物のAVの視聴者たちがもし許しと力を得たのなら、本当にその全員が泣き叫ぶ女を無慈悲に犯せるようになるのだろうか? 私はそんなはずはないと考えている。実際に自分がそうだったからだ。元々私はルカトゥのNG無しという過激さに引かれて作品を見漁っていた。それが私の彼女に対する第一印象だった。けれど、だからといってAVを見るような気楽さでルカトゥに暴力を振るえるのかというと、そんなことはない。せいぜい「喜んでくれるから」を理由にしなければ振るえない暴力と、彼女の無敵さを証明する過激なプレイの数々とでは釣り合いが取れていないというものだろう。

 ……だけど、だからこそだった。だからこそ私は自分の手を汚さずに、なおかつ「そういった物」は見たかったのだと思う。

「でもね、助けてって必死に私の名前を呼ぶルカトゥを見て、分かっちゃったんだ。あぁこれだ……って。この、当事者でありつつ自分の手は汚さない傍観者の立場が、私そのものなんだって」

「ふむ……?」

「もし自分を主人公にしたエロ漫画があったら、こういう物だろうなって思ったの。犯される友達を見ながら内心で興奮してしまってるような……これが私だ……って思ったの」

「あぁ、なるほどぉ。……NTRみたいなことですね?」

「どうだろう。そうかも」

 正確に言えば違う気はした。だって私は心の底から、画面の中で心折れるルカトゥが演技をしていることを確信していたから。喜ぶフリはしないと約束してくれるような子が、それでいて相変わらずひどいプレイを自らリクエストして来るような子が、これくらいで傷を負うはずがないって。全部嘘っぱちだと思って見ていた。

 けれど、むしろそうだったからこそ、私はかつてないほどに感情移入できたのだ。ルカトゥを信頼するその構図こそがリアリティだった。だから名前を呼ばれて、自分が傍観者であることを自覚すると、ひどい目に遭ったフリをしている彼女を見ながら興奮してしまった。

 その興奮は、我ながらの困惑と、今自分が一人ではないことと、それから照明の白光に紛らわされてほとんど霧散してしまったけれど、しかし確かにそこにあったのだ。

 ……それに興奮の理由はそれだけではなかった。

「あと、ルカトゥから名前で呼ばれるのって、そういえばたぶん初めてだよね?」

「あ〜、そういえばそうかもですねぇ」

「……なんかそれがちょっと、いいかもって思った。新鮮っていうか……」

「え!」

 途端にルカトゥが目を輝かせる。そのまま絡みつくようにすり寄られて、触れたお互いの生足がじわりと人肌の熱を伝え合う。……オルディアの魔法の影響を経たことで、私たちは少しベッドの上で肌を晒すことに慣れすぎたのかもしれない。

 そんな触れ合いの最中に満面の笑みで、ルカトゥは猫なで声を出した。

「ひなこちゃん♡」

「なあに」

「ひなこちゃん〜♡」

「そんなに呼ばれると新鮮みがなくなるよ」

「えぇっ、そんなぁ」

「なんかもっとドキッとしたんだもん、動画で見た時は」

「なるほどぉ。……じゃあ、こういうのは〜?」

 言って、密着していたルカトゥがさらにもっとこちらへ顔を近づけてくる。瞳の中にお互いの姿が見えるような、唇の触れ合いそうな距離……を、すれ違うようにスルーして、彼女は私の耳元にまで息遣いの音を寄せた。

 内緒話をするみたいに、すぐ傍でささやかれる。

「ひなこちゃん、だいすき……♡」

「……あ、あざといっ」

「ふふっ♡ ひなこちゃん可愛いねぇ♡ ドキッとしてくれるの可愛いよ〜♡」

「…………」

「……だめでした?」

「いや、悪い気はしない」

「お〜」

 少なくとも、どう考えても自分より二段階くらい違う次元で美人で可愛げもあるルカトゥから「可愛い」と言われてちょっと気を良くする程度には、私はすでに彼女からの好意に確かな信頼を置いていた。言葉の意味合いではなく、その好意を直接糧にして気を良くするのだ。

 本当は以前からずっとそうだったのだと思う。自覚の有無があるだけで、本当はずっとお世辞を聞き流しているつもりで内心喜んでいたのだと思う。……だからそれを自覚した今はせめて、その心を言葉にしておいた方がいい気がした。

 抱きしめられたままどこを見るでもなく、耳元の彼女に向けて言う。

「私、ルカトゥに褒められるの結構好きなんだよね」

「え、そうなんですか……?」

「そう見えなかった?」

「ん〜、見えなかったとまでは言いませんけど〜」

 ルカトゥほど分かりやすくもなかったのだろう。それはそうに違いない。

 けれど私の言葉に嘘がないことは魔法できちんと伝わるから、ルカトゥはまたここぞとばかりににやけた笑みを浮かべた。

「じゃあこれからはもっと先生……じゃなくて、ひなこちゃんのことたくさん褒めるねぇ」

「おぉ、それはどうも」

「えへへ〜。ひなこちゃんはね〜、可愛いし優しいし、あと面白くて、一緒にいるとすっごく幸せな気持ちにさせてくれるんだよ。しかも毎日一緒にいてくれるから、ずっと嬉しいの」

「全肯定だ」

「へへ、だって本当にそうなんだもん。ていうか、ひなこちゃんの方こそ、いつもわたしのこと全肯定してくれるでしょ?」

「できてる?」

「うんっ。……本当に全部許してくれて、傍にいてくれるんだもん。ひなこちゃんに否定されたことなんて一度もないの、すごいなっていつも思ってる」

「それならよかった」

 内心嬉しいに決まっているのに、どうにもそっけない返事しか出来なかった。……自分のそういう愛想のない性分が、もしかすると今まで自分自身をも騙していたのかもしれないと感じる。

 ひとしきり褒め終えたからか、ルカトゥは抱擁を解いて密着することをやめた。だけど耳元から離れただけで、それ以上に距離を置くわけではない。

 目の前に少し照れた笑顔の彼女が現れる。……吐く息も当たるような距離で相手の顔を見ると、私も少しばかり小っ恥ずかしくなってくる。

 けれど、まだルカトゥのサービスタイムは終わっていないようだった。たぶん彼女は、肌を合わせたまま次の話をすることに気が引けたのだと思う。

「あと、その……。性欲を受け入れてくれたり、性癖に引かないでいてくれたり、ひなこちゃんってそういうところもすごいよね。本当にすごく感謝してる」

「そう……? よかった」

「うんっ。あとね、わたしやっぱりひなこちゃんの漫画が好き。昔の短編も全部好きだけど、半分エッセイみたいになってからはなおさら楽しみで、……正直今も自分がどんな風に漫画にしてもらえるのかって、ウキウキしてるんだ」

「…………」

「……あ、ごめん、変にプレッシャーかけちゃった……?」

「あ、いや、ううん。違う」

 私が唐突に生んでしまった妙な沈黙に、ルカトゥは途端に不安そうな顔をする。悪いことをした……と悔やみながらも、しかし私は困惑していた。

 ルカトゥの褒め言葉が、私の心のずっと奥底で閉ざされていた場所を開けたのだ。そこには最後のピースが入っていた。私が彼女に名前を呼ばれてドキッとした理由……。私が本当に考えていたことの答えの、最後の一欠片が。

 それはなんともいえずショッキングな物だった。なおかつ、それはひとたび分かってしまえば、一人で抱え込むにしては荷が重すぎる物でもあった。

 私は気づいてしまったのだ。

「……なんかね、今気づいちゃったんだ。自分が何を考えてたのか、なんで名前を呼ばれてちょっとドキッとしたのか」

「え、なに〜……?」

「……私、本当は親に漫画を褒められたかったのかもしれない。私のことを名前で呼ぶのは親だけだったから」

「あっ……」

 ルカトゥが声を上げる。私の生態に詳しい彼女なら、その言葉の意味をすぐに理解できてしまったのだろう。

 私にはルカトゥ以外に親しい友人がいない。学生時代の人間関係は全て過去の物として自然消滅的に葬り去られたし、ヤグラ君のようなそれなりに話せる仲の相手はいなくもないけれど、べつに特別仲が良いというわけでもなければ、そういう相手から私が「雛子」と名前で呼ばれることもない。……親以外からその名前を呼ばれなくなって何年経ったのか、数えようとしたことすらなかった。

 だからルカトゥに名前を呼ばれてドキッとした。新鮮さを感じるからそういう気持ちになったのだと思っていたけれど、たぶんそれは違った。もしもっと別なタイミングで呼ばれいたら、私はこう言って笑っていたはずなのだ。「親以外から久しぶりに名前で呼ばれたよ」。

 でも実際には、その呼び名は悪趣味なAVの中からやって来た。親とは関連しようもないところからやって来た。だから私はドキッとしたのだ。そしてそれと同時に、その感覚を好ましいとも思った。

 なぜ好ましいと思ったのか。その理由を今ルカトゥが明白にした。名前で呼ばれて、漫画を褒められて……。エロ漫画家として本格的に活動するなら実家では……親の目のある場所では集中できないと考えて一人暮らしを始めた私は、今までこれといった不自由もなく暮らしてきたつもりだったのに、それで初めて自分の気持ちに気がついてしまった。

 この家に置かれた物の中で、大人の玩具が詰まったダンボール箱だけが浮いている。ルカトゥの実家から彼女の母親の手によって送られた、娘の性的な側面の全てを肯定するかのような環境の象徴。……それを見た時だってまだ、話を聞いた時だってまだ、羨ましいという気持ちは本気ではなかったのに。

 私は親に漫画を見せたことがない。うちの両親は優しいから、私がエロ漫画を描いていると知った上で一度も苦言を呈したことはないし、それが商業誌に載るんだと聞いた時には身を乗り出すような勢いで喜んでくれた。……でも一度も読んだことはないのだ。SNSのアカウントだって当然知らない。教えていない。優しさの中から確かに感じるからだ。踏み込むことを試すまでもないような、薄くとも決して消えない線引きがされていることを。埋まらない溝があることを。

 仕事としての漫画家を辞めたことも、自分を養ってくれるサキュバスと同棲していることも、彼女と一線を超えてしまったことだってもちろん、親には何一つ伝えていない。漫画と同じように隠している。……だけど今になって分かった。私はこの期に及んでも、親との関係を割り切れているわけではないらしい。

 私に尽くしてくれて、私に最大の好意を向けてくれて、私の母親になりたいとまで言ってくれたルカトゥがそれを知ったらどう思うか。自分はついに母親を超えたのだと思ってくれるだろうか? それとも、自分の褒め言葉で別人を連想されることに嫉妬するだけだろうか……? どちらになるのかは分からない。けれどだからこそそれは、一人で抱え込むにしては重すぎることだった。

 私はオルディアの魔法の中で、罪悪感を抱え込むことのつらさと、それを打ち明けてしまうことで得られる救いの大きさを覚えてしまったのだ。

「先生……」

 私を指す言葉が呼び慣れたあだ名に戻る。今日ここへ至るまでの数年間に幾度となく耳にしてきた響きだ。思えばたった二文字のその呼び名だって、ただのアマチュア漫画描きに戻った私にとっては、もはやルカトゥ以外からは呼ばれることのない特別な名前になっている。

 ……私は今、いったいどんな顔をしているのだろう? さっきまで上機嫌だったルカトゥの顔が瞬く間に曇っていく様を見て、自分はもっとひどい顔をしているのではないかと不安になる。

 けれどルカトゥは、それでも私を否定しない。不機嫌になることもない。……ただ一言、不安そうに媚びるような声で言うだけだった。

「先生、わたしじゃダメですか……?」

 ……その言葉の、なんと切実で、彼女にとって酷なこと。

 洗濯をして、掃除をして、ご飯を食べさせて、一緒に遊んで、話を聞いて、欲しい物があれば買ってあげて、旅行にだって連れていって、つらいことがあったと知れば優しく慰め、その上趣味まで褒めてくれる。……それだけ尽くしに尽くしてなお、彼女は自分が否定される可能性があることを知っている。それでも卯月雛子の親はたった二人の両親しかいなくて、私が褒められたかったのはその二人にであって、何があってもそれ以外の何者でもないのだ……と突き放されかねないと思っているから、ルカトゥはそんなことを言うのだ。

 好かれることには正直、優越感がある。けれど、それがまるで相手の命運を握るかのような重さにまでなれば、さすがにそんな呑気なことも言っていられなくなる。ルカトゥは無敵だから、もし突き放されてもその心は折れないのだろうけど……。これはそういう問題じゃない。

 ……一瞬だけだ。本当に一瞬だけ、私は、自分の親のことを心の底からどうでもいいと思った。……ルカトゥはそれが永遠になることを望むのかもしれないけれど。

「むしろ、ルカトゥじゃないとダメだよ。全部ルカトゥが助けてくれないと、私はもうダメだよ。……分かるでしょ?」

「…………えへへ」

 押し殺したような間の後で、彼女は笑った。

 ダメなんかじゃないよ、先生なら大丈夫……とは言わなかった。

 彼女はただ、押し殺しきれなかった悦びを滲ませるように笑ったのだ。

 ……私には、彼女を幸せにしたいだなんて大それたことは言えない。彼女への恩を返せる気だってしない。ただそれでも、彼女を傷つけることだけは避けたいと思っている。

 だから今、満更でもなさそうなルカトゥを見て、思わず安心して私も笑った。

 

 

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