明石の話が終わった。
激しい虚脱感に膝をつく。僕は照月を助けるのが不可能である事を悟った。
過去の話さえ聞ければ何か変わると思っていた。無力な僕でも何かしらの解決策を見つけられると思っていた。だけど、現実は非情な物だった。
照月の中の狂気は、完全に彼女の中に入り込んでいる。彼女のそれはずっと前からある物で、深海棲艦を拷問するのは元々の遊びの対象が小動物から深海棲艦に移っただけ。冬月が死んだ時の暴走により、それがより酷い物になっている。
照月とそれを切り離す事は不可能だろう。他人に優しくいつもニコニコして僕を助けてくれる彼女もいれば深海棲艦を拷問して笑い、性欲のために他人を襲う彼女もいる。どちらも同じ照月だ。
もう一人の照月は本来の照月が負う傷や衝動を代わりに受けて彼女を守っているだけで、彼女の行動を否定する事は照月自身を否定することに繋がる。ようやく、あの時にもう1人の照月が怒った理由が分かった。
「どうするおつもりですか? 厳しい言葉かもしれませんが断言します。照月さんを更生しようなんて甘い話は無理ですよ」
明石が真面目な顔で呟いた。
「分かってる……」
言われなくても分かってる。彼女の中のそれは彼女の生まれつきのものだ。僕なんかが手に終える代物じゃない。
「明石個人として 提督の為を思って提案します」
明石が小さく息を吸った。
「厳しい言葉になるかもしれませんが、提督を辞めるのはいかがでしょうか? 今の提督は、確かに何もお持ちではありません。ですが、まだ若いですし、五体満足の体なので人生のやり直しは幾らでもききます。毎日叢雲さんに虐められた上で、日が経つにつれて照月さんがおかしくなるのを見続けるのも辛いと思います。無理に、この鎮守府に勤める必要もありません。強制はできませんが、あくまでも選択肢の1つとして頭の中に入れておいて下さい」
僕を見つめながら喋る明石の声は落ち着いているけどもハッキリしていた。普段は軽い感じだけど今は、真摯に僕の事を考えてくれている。そう感じた。
「考えさせてもらうよ……」
鎮守府に来たばかりの僕だったら即座に断ったかもしれない。だけど、今の現状を考えるとこれからの方針の一つとして否定できない。
ジリリリリ
セットしていたタイマーが賑やかい音を立てた。
「すまん。そろそろ時間だな……」
本当は時間なんてどうでもいい。セットした時間は執務をこれからやる事を前提とした時間だったし、それをサボるとなると時間は幾らでもある。
だけど……今は1人でいたかった。
「逃げるなら、今のうちですよ」
明石が独り言のように呟いた。
ー--------------------
一週間。人生で最も長く感じた日々だったけど、色々なことがあった。叢雲には、毎日のように暴力を振るわれたし、過去の思い出の写真も昨日、僕の目の前で夕立(叢雲の命令の上ではあったし、嫌そうな顔をしていたが)にビリビリに破られた。
地獄のような日々だったけど、照月の為となればどんな理不尽な仕打ちにも耐えられた。
照月の為に何もかもを失ったのに……歯を食いしばって耐えてきたのに……唯一得た物は絶望だった。
目の前に大理石のように白い書類の山が積まれている。
真夏でエアコン無しの灼熱のように熱い執務室の中、椅子に座った僕はただそれをボーっと眺めていた。
何もやる気になれないある種の放心状態。執務室に戻ってからずっとこの状態だ。
あと、数分ほどで艦隊が返ってくる。叢雲に怒鳴られるかもしれないけど、どうでもいい。
執務室のドアが開いた。
「ただいま。出迎えが無いなんていい心がけね」
「お疲れ……」
いつもの叢雲の嫌みたらしい言い方の皮肉に謝罪の言葉すら返す余裕はなかった。
「良かったわね。お望みの物が手に入って」
叢雲からの嫌味に顔がひきつるのを感じた。
「知っていたのか……?」
「当たり前じゃない。あの子の事を調べようとしているって知っていたから、止めずに放っておいたのよ」
「つっ……」
僕が照月の為に提督としての地位を投げ出した時点で、どうなるかは決まっていた。
恐らく、明石は照月の過去を本当に知らなかったのだろう。彼女は性格が悪いけど根は悪い人間じゃない事ぐらいは分かる。だからこそ、金目当てで叢雲に僕の弱みを売ったのにも関わらず、照月の過去を諦めるなら取り返す事を提案してくれたのだと思う。
逆に叢雲は照月の過去を知っていた。だからこそ、徹底的に僕を否定した。リスクにリターンを求める人間の心理をつくために、今この瞬間の為に。
僕が今、こうして絶望しているのも全て叢雲の手の上だったわけ……だ。
もしかしたら照月の為に何もかもを投げ出すこと自体、彼女の予定通りだったのかもしれない。
「それで、どうするつもりなの?」
「明石にも同じことを聞かれたよ……」
「質問の答えになってないわ」
叢雲の問いに何かを言おうとしたが頭が回らない。
「分からない……」
長いと思った沈黙の末、唯一口から出た言葉がそれだった。
「だと思った。私から言わせてもらうわ」
叢雲が僕の目の前で机に手をついて前のめりになった。
「今すぐ提督を辞めなさい! アンタは何の役にも立たないわ。いてもいなくても同じ……いや、むしろ私をイライラさせたり、食事代が増える分いない方がいいわ」
「つっ……」
「アンタみたいなゴミがあの子の為に何ができるって言うの? アンタは、あの子に凹んでウジウジとしているところを慰めてもらっているだけでしょ? あの子の為に何もできてないでしょ? どうせ、これからも変わらないわよ。アンタはゴミよ。クズ、蛆虫! 当たり前の事すら満足にできていない人間がこれから何をするって言うの? まぁできようができまいがどっちにしても、照月は助けられるはずが無いんだし諦めなさいな」
叢雲の怒鳴り声に心臓を針で刺すような痛みを感じる。言葉の一つ一つが正論なのが尚更辛い。だけど……もう少し言い方があるじゃないか。
「嫌だ!」
気づいたら声が出ていた。
「は?」
「提督を辞める気は無い。僕の事が嫌いなら大本営にでも言いつければいいだろ? とにかく、僕自身の手で辞める気は無い!」
支離滅裂で自分でも理解できない怒鳴り声を上げて、後ろで何かを叫ぶ叢雲を無視して執務室を飛び出した。
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「チッ……やらかしたわね……」
一人残った叢雲が舌打ち混じりに呟いた。
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「はぁ……やらかしたな……」
執務室を飛び出して少しして、頭が冷えたのか自分のした過ちに気づいた。
この期に及んでプライドなんて欠片もないし、頭を下げて懇願してでも、提督として残る事を最優先するべきだった。
つい興奮して言ってしまったが叢雲に提督であることの生命線を握られていることをすっかり忘れていた。今頃、彼女は激怒しているに違いない。
「終わりか……。なんであんなこと言ったんだろ……」
今までなんで首を切られなかったのか不思議だったけど、今度こそ終わった。叢雲は大本営に訴えるだろう。その時点でどう足掻いても僕は提督を辞めざるを得ない。
僕にできる事は、運命を受け入れて死刑判決を待つ事だけだ。
残された時間は少ない。何をしようか?
照月の顔が浮かんだ。
「照月に会いに行くか……」
おぼつかない足取りで第2倉庫を目指した。
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倉庫を開けると生臭い悪臭が鼻をついた。
「あっ、提督。お疲れ様です」
「お疲れ様……」
口元を隠して悲惨な状況をできるだけ目に入れないようにしながら言った。
今日の獲物は2匹の駆逐艦イ級らしく、2匹が吊るされている。1匹は、体のあちこちの肉を削ぎ落とされていて、赤黒い肉の中に石灰のような白い骨が見えていた。
もう1匹の方はこれかららしく、無傷だったが傍らに電気ドリルと透明な薬品が置かれている。照月はもう一匹の前にいて制服や頬に血がべっとりとこびりついていた。
「何か御用ですか? 前みたいに辞めろというのは嫌ですよ」
「少し様子を見ておきたくなってな……今日は何をしてるんだ?」
「凌遅刑とロボトミー手術です。凌遅刑はたまにやりたくなるんですよねー。ロボトミー手術はジェフリー・ダーマー(アメリカの連続殺人犯)の話を読んでたら書いてあったのでどうなるのか気になって実際にやってみたくなったんです」
「具体的にはどういうものなんだ?」
「凌遅刑もいうのは中国の拷問です。こんな風に生きたまま体を少しずつ削っていきます。ロボトミー手術というのは頭を直接弄る手術ですね。今回は頭に穴を開けてそこに塩酸を……」
「すまん。聞いた僕が悪かった」
「苦手なら見ない方がいいですよ」
照月がそう呟いて電気ドリルを手に取った。
金属音と悲鳴が響き渡り、イ級がバタバタと暴れる。空いた赤黒い場所に照月が塩酸をスポイトでかけると悲鳴が一層と強くなった。
照月はそれを見て興奮した笑みを作りゲラゲラと笑う。
地獄のような光景だ。
イ級は5分ほど暴れて静かになった。
「あーあ、壊れちゃった。後片付けがめんどくさいなぁ……」
つまらなさそうに呟く照月にふと、後片付けをどうしているのか気になった。前に、叢雲からは本人にやらせているときいていたけど、後始末は大変なはずだ。
後片付けを手伝うことが提督をクビにされる前に最後に彼女の為にやってあげれることになるのではないだろうか?
吐き気を抑えながら僕は近くに落ちていた死体の残骸を拾い集めた。
「何をしてるんですか?」
照月が怪訝な顔をしながら言った。
「手伝うよ」
「えっ?」
「後始末は大変だろ? 手伝わせてくれないか?」
「いいんですか?」
照月が嬉しさが混ざったの驚愕の声を上げた。
「ああ、かまわない。今日の執務は終わらせてあるし、後は暇なだけだからな」
当たり前だが真っ赤な大嘘だ。照月にバレるかもしれないと思ったけど無理に言ってでも手伝うつもりだった。
「では、お言葉に甘えさせていただきますね。その残骸は、そこの水酸化ナトリウム水溶液の溜まりに入れておいて下さい。服にちょっとでも付いたら穴が空くのでご注意を」
照月が指差した所にあった透明な液体に入れると小さくなっていき、やがて消えた。
肉片を集めては照月の指示に従って処理して、血液はオキシドールを含ませた雑巾で拭く。そんな調子で片づけを手伝っていたら、意外と早く片付いた。
「ありがとうございました。また、いつかお願いしますね」
目の前のもう1人の照月の笑顔に涙が出そうになった。
思えば、最初からこうしていれば良かったのではないだろうか? 彼女がたとえ狂っていたとしても、彼女を受け入れて彼女が喜んでくれる事をする。それで十分だった。
今更気づいた所でもう遅い。彼女の笑顔を見るのはこれが最後になるだろう。もっと早く気づけていれば……
「また、機会があれば……な」
「機会があればって変なこと言いますね。何かあったんですか?」
視界が滲む。
一瞬、提督を辞めることになった事を打ち明けようかと思った。だけど、照月に軽く流され、自分が彼女の中でその程度の存在と自覚させられる未来という恐怖感に襲われた。
「いや……なんでもない」
口から出た言葉は、下らない嘘だった。
「そうですか……。良かったら後で夕飯でも一緒に食べませんか? 話なら聞きますよ」
「いや、いいよ。今日は1人でいたいんだ」
「そうですか……」
「お疲れ様」
「提督もお疲れ様でした」
照月の元気な声に泣きたくなるのを堪えながら、僕は照月に背を向けた。
ー--------------------
「ふぅ……」
防波堤に腰を掛けると涼しい風が吹き付けた。
波は少し立っていたけど、雲ひとつ無い穏やかな気候だった。夏が終わったばかりだけど今年は残暑が少ない。冬は寒くなるだろう。
小説の描写で周りの風景が心境に寄り添ったように見えるシーンがあるけど不規則に打ち寄せる波に僕はそのような物は感じられない。波に お前の心境など知った事か と言われた気がした。士官学校時代に何度も見てきた光景。相変わらずだ。
「……!」
急に津波のような激しい喪失感に襲われた。今までの努力は全て無駄だった。ここに至るまでに何もかもを失った事全てが無意味だった。
もう少し冷静に考えるべきだったのかもしれない。逆上してしまい、ついあんな事をしてしまったが、叢雲に懇願すれば何とか鎮守に居続ける事は可能だったのかもしれない。靴を舐めてでも、残してもらうよう頼むべきだった。
なんで、あんな感情論を飛ばしてしまったのだろうか? 改めて自分は脳無しの馬鹿だと自覚した。
今なら分かる。僕は、照月と一緒にいれさえすれば良かった。僕は彼女が好きだ。彼女の笑顔が好きだ。狂っていても逆レイプされても、救いようが無くても、性処理の道具としてしか見られていなくても、彼女が好きだった。
彼女を助けようとしたのが、おこがましい考えだったし、間違いの始まりだった。今の僕の境遇はその事への罰なのかもしれない。身勝手な善意で勝手に動いて何もかもを失い、勝手に自滅しただけの人間。馬鹿馬鹿しい喜劇以外の何があるのだろうか?
気づいたところでもう手遅れだ。
涙が頬を伝う。
これからどうしようか? 今日中に提督を辞めさせられるだろう。そうなればこの鎮守府には居られない。当然ながら、照月にも二度と会えないし、路頭に迷うことになるだろう。今の僕には何も残っていない。
そうなるとできることは……
「死ぬしかないか……」
昔読んだ哲学書に自殺は十分に生きたことの表れと書いてあったことを思い出した。
ああもう十分だ。僕は十分に生きた。
明石は、若いからまだやり直しがきくと言ってくれたけど僕みたいな人間がやり直せるはずがない。どうせ、どこに行っても何も出来ずに惨めな思いをするだけだ。
それなら、いっその事自らの命を絶ってしまおう。
どうしようもない人生だったけど、照月に会えて本当に良かった。
否定されてばかりの世界で彼女だけが僕を肯定してくれたし、励ましてくれた。プライベートで愚痴を聞いてくれた。性行為の時もろくに経験が無くて、みっともない僕を受け入れてくれた。
彼女に出会えて本当に幸せだった。
照月に 今までありがとう と言いたかったけど今の僕に彼女を探す精神的な余裕は無い。諦めるしかなさそうだ。
顔を上げた。先程は、無機質に見えた世界が違って見えた。視線の先の海岸線が夕日でオレンジ色に輝き、とても美しく見える。死ぬ直前に世界が綺麗に見えるのは事実なのかもしれない。そう思った。
どうやって死のうか? 方法はすぐに思いついた。
単純な方法だけど、目の前の海に飛び込んで死のうかと思う。僕が死んだところで誰にも迷惑はかからないし、それが良いかもしれない。
死ぬまで時間がかかるし苦しいかもしれないけどしょうがない事だ。
覚悟を決めよう。臆病で弱気で何一ついい事がない僕だけど、最後にそれぐらいの勇気は出すべきだ。
海に飛び込もうと立ち上がろうと足に力をかけた。
「待ちなよ」
後ろから冷たい声に反射的に振り向くと響がいた。
「響か……。どうしたんだ?」
「執務室から声が聞こえてね。何があったんだい?」
響か僕の横に腰を掛けた。
「響。悪いな。提督を辞めることになった.。まぁ……元々提督なのかどうかも怪しい人間だけどな」
「どういうこと?」
僕は一週間あったこと全てを響に話した。写真が破られた話を聞いた時に一瞬だけ響が右手に握りこぶしを作るのが見えた気がした。
「そっか……。残念だね」
「すまん。お前には仕事で迷惑をかけることになるな……」
「確かに提督が居なくなると叢雲からやらされる仕事は増えそうだね」
「悪いな……」
沈黙が流れる。てっきり、響が 死なないで! とでも言って自殺を止めに来たと思ったが違うらしい。彼女はただ、いつもと変わらない無表情で海岸線を見つめている。
海猫の鳴く声がする。波が無常に防波堤に叩きつけられた。
「実を言うと今死のうか迷ってたところだ」
気づいたら声が出ていた。
「そうなんだ」
肯定も否定もしない。響の言葉は現実を受け入れた事を意味する相槌だった。
「馬鹿みたいだろ? 笑ってくれよ。脳無しの人間が厄介事に首を突っ込んだあげく、自分に残った物何もかもを賭けて結果はこのザマだ。笑い話以外の何物でもないだろ」
自嘲の笑みがこぼれる。思えば僕の人生は喜劇そのものだったのかもしれない。どこかの悪趣味な人間が仕組んだとしか思えない酷さだ。生きているのが馬鹿らしい。
「笑ったりはしないよ」
「そうか……」
沈黙が流れる。響はただじっと僕を見つめている。
「提督はこの仕事を続けたいと思っているのかい?」
沈黙が続くのが嫌だと思ったのか響が口を開いた。
「可能ならばな……だが叢雲を怒らせたからもう無理な話だろ……」
「言いにくいけど、叢雲に謝ってみたらどうだい?」
「ハハハ。それができたら苦労しないよ……謝ったところで許しはしないだろうしな」
思わず笑みがこぼれた。謝ったところで叢雲が許してくれるはずがない。馬鹿と怒鳴られるのが関の山だろう。それに、1度言った事を撤回するのが嫌な気持ちも少なからずあった。
「みっともないし、辛いと思うけど土下座して必死になって謝ればきっと許してくれるよ。実は、叢雲はあんな感じだけど真摯になって話せば人の話は聞いてくれるんだ」
「その話……本当か……?」
響の言葉に一筋の光明が差し込んだ気がした。
「嘘はついてない。叢雲はきっと許してくれる。会いに行きなよ。勿論、どうしても死にたいと言うなら止めはしない。だけど、提督が仮の立場でも提督でいたいなら、照月と一緒にいたいなら、試せることは試すべきだと私は思う」
蜘蛛の糸のように細い光明かもしれない。自分の意思を殺すことになる。だけど、今の僕にはそれにすがる以外の答えが無かった。
「そうだな。やるしかないか……」
この際、叢雲に反抗したくなる気持ちは抑える事にした。
立ち上がり、直ぐに執務室に向けて歩こうとしたけど足がくすむ。自分が怯えていることを理解した。
「怖いの?」
無言で頷いた。
「怖くてダメなら私も付き合う。提督は、照月を助けたいんだよね? その為に投げ出した物を無駄にする気かい?」
「そう言われると引くに引けなくなるな……ありがとう響。やれるだけのことはやってみるよ」
「どういたしまして」
叢雲に全面降伏を叩きつける事になる。叢雲に罵られ、場合によっては殴られるかもしれない。だけど、この1週間のように……照月のためだと思えば我慢出来る気がした。
ー--------------------
叢雲は執務室で不機嫌そうな顔をして1人で執務をしていた。
「すまん……叢雲……」
自分の口から出た言葉は蚊の鳴くような声だった。
「どのツラ下げて戻ってきたのよ。職務を放棄するとかありえないわ。提督失格よ。まぁ提督ですらないんでしょうけど」
「僕が悪かった。この通り謝るから……だから……大本営に訴えることだけは……」
「嫌よ」
冷たく言い放つ叢雲に絶望感を感じた。
「本当に俺が悪かった。だから……どうか許して欲しい……」
頭を地面に擦り付ける。いわゆる土下座という体制。
叢雲が僕をゴミを見るような目で見つめているのが分かった。
胸の中が惨めな気持ちで1杯になり、涙が出て顔がグシャグシャになる。だけど、僕は照月の為に耐えなければならなない。
「叢雲、許してあげたらどうだい? 提督もここまでやってるし……」
響の呟きに苛立ちの空気を感じた。
「響は黙ってなさい。 私はこいつを許す気は無いし、大本営に全部言いつけるつもりよ」
「提督だけで足りないなら私も頭を下げるよ。提督に辞めてもらったら私も困るからね」
沈黙が流れる。
今の僕には叢雲がどんな顔をしているのか分からない。だけど……怖い。ただひたすらに怖い。
足が地面につかずに宙を歩いているような感覚を感じる。落ちる先は地面かそれとも奈落の底か……
いずれにしても、叢雲の次の一言で僕の未来が決まる。それだけは確かだった。
「はぁ……」
叢雲がため息に全身に悪寒が走るのを感じた。
「分かったわよ。今回は響の顔に免じて許してあげるわ。でも、次は無いから覚悟しなさい」
地面が足に着くのを感じた。
僕はまだ、提督でいられる。照月のそばにいられる。声に出したくなるぐらいの幸福感を感じた。
「ありがとう……」
「礼はいいから早く執務に戻りなさい」
椅子に座るといつの間にか響は、執務室からいなくなっていた。礼を言いたかったけど言えなかったことに悔いが残った。
ー--------------------
「ぶち壊したくなるぐらいにムカつく、下らない茶番だね。請け負った自分に反吐が出る」
執務室から出た響が嫌悪感を隠さない表情で吐き捨てた。
ー--------------------
1時間前
「ねぇ、ちょっといい?」
執務室から出た叢雲が廊下を歩いていた響に声をかけた。
「何?」
「響、悪いけどちょっとアイツを説得してちょうだい。心を折ろうとしたら逆ギレして絶対に辞めないとか言い出したのよ」
「叢雲の自業自得だろ?」
響の興味が無さそうな冷たい声に叢雲の顔が歪んだ。
「それはそうだけど……でもあいつがこのまま響みたいにサボるのは最悪よ」
「別にいいじゃないか。むしろ今までの仕事のペースがおかしかったとも思うし、少しぐらいサボってもいいんじゃないかな?」
「そうなると私がアイツを切らなきゃじゃない!」
叢雲が興奮して叫び声を上げた。
「いいじゃないか。叢雲は提督の事が嫌いなんだろ? 提督も叢雲にかなりやられてるみたいだしお互いに利益があるよね?」
「意地悪いこと言うわね。悪いけどアイツが辞めたら響にも飛び火するわよ」
「何で?」
「以前みたいに執務を手伝ってもらうわ。今回は強制よ」
「確かにそれは困るね」
無表情の響の顔が少し曇る。
「だから説得してきてちょうだい!」
「いいけど、1つ条件。1本10 万円ぐらいするんだけど飲んでみたいウイスキーがあるんだ。仕入れてくれないかい?」
「つっ……分かったわよ……。執務室にアイツを連れてきて。舐められると困るからアイツからの1 2回目は断るけど響が一緒に謝ると言ったら許す予定でお願い。頼んだわよ」
「彼に対してマウント取りたいのは変わらないんだね」
「当たり前じゃない! なんでアイツに見下されなきゃいけないの!?」
「まぁいいよ。だけど、今回が最初で最後にしてくれよ」
「分かったわよ……」
バツが悪そうな顔をした叢雲は執務室に戻った。
1時間後、響は見つけた提督の態度から彼が自殺しかけていた事に気づく。その事に気づかずに矮小化しようとしていた叢雲に手を貸したことを後悔することになる。
ー--------------------
執務が終わり、叢雲が執務室から消えた。照月を抱く時間だ。 僕の嘘を信じたのか彼女の遊びの片付けをしてからまだ彼女に再会できていない。
執務が終わったという僕の言葉を信じたのか、今日は彼女の遊びの後片付けの手伝いをしてからは会っていない。
いつもだと覚悟を決めなきゃいけない時間だけど、今日ばかりは照月を待つこの時間が長く感じた。今すぐにでも彼女と会いたい。彼女を抱きしめたいし、話がしたい。
執務室のドアをノックする音がした。
「提督、いいですか?」
照月の声がした。彼女が来たという事実に胸が高鳴る。
「ああ、いいぞ」
「失礼します。今夜もお願いしますね」
ドアが開くと赤目のもう1人の照月が水色の寝間着姿で立っていた。
「その……いきなりなんだが……」
「どうしました?」
「抱き着いてもいいか?」
僕の質問に照月が首を傾げた。
「いいですけど、何かあったんですか?」
「後で話すよ」
「分かりました。来てください」
照月が僕の目の前で手を広げた。
「照月!」
衣服越しに全身から照月を感じた。
今まで彼女を何度も好きだと思ってきたけども何度も身体を重ねた関係とはいえ今日ほど彼女を愛しく思った日は無い。
夢じゃない。照月は確かに今ここにいる。
「また、叢雲ちゃんとの間に何かあったんですか?」
僕の頭を撫でながら穏やかな声で照月が呟いた。
照月は何があったのか気づいていたのかもしれない。僕が悩んでいる時は大抵は叢雲が絡んだ時だ。今までもそうだったし、そう考えるのが妥当だ。照月に甘えてばっかりの自分が情けなく感じた。
「少し言い合いになっただけだよ」
「気になるので詳しく教えていただけませんか?」
話すと言っていたし、隠しておいても仕方ない。抱きつくのを中断して、提督を辞めさせられかけていた事も含め素直に話す事にした。
「なるほど。それでつい、キレてしまったと……」
「そうだな……」
「叢雲ちゃんはどうでしたか?」
「怒っていたよ。響に一緒に謝ってもらってようやく撤回してもらう事ができたぐらいだ」
「そうですか。災難でしたね……。それで、明石さんに何を聞いたんですか?」
ぎくりとした。
「聞きたいのか?」
「実は、前々から気になってたんですよね。提督の立場を捨ててまで聞いた事って何なのかなぁって思いまして」
「えっと……それは……」
「もしかして照月に関わることですか?」
照月の声が急に重くなった。嘘は言わせないという圧力を感じる。話すしかない。
「実は君の過去を……」
「そうですか」
素っ気ない態度で呟いた照月の顔からは、笑顔が消えていた。
「怒っている……か?」
「正直に言えばあまりいい気はしませんね」
「すまん。本当に悪かった」
「でも、なんでそんな事をしたんですか?」
照月の口調が強くなった。
「僕の勝手な思い込みだったんだけど君を助けたかったんだ」
「すみません。言ってる事の意味が分からないです」
「壊れていく君を見るのが辛くて……止めたかったんだ」
照月が小さくため息をついた。
「申し訳ありませんが余計なお世話だと言いたいです」
「分かっている。僕なんかじゃ無理だと悟ったよ。他人に優しい君も深海棲艦を拷問する君も今のように夜を求める君も……二重人格だったとしても結局は、全部同じ1人の照月なんだろ?」
「そうですね。確かに全部同じ私です。今の私は本来の私の穢れた欲望を請け負い、傷を肩代わりしているだけです。狂っているのは、私も本来の私も同じです」
情報は確かだった。何もかも明石から聞いた通りだ。
そんな照月との関係をどうするか。考えられる時間は少なかったけど、僕はそれに対して一つの結論を出した。
「それで、どうするつもりなんですか? 自分で解決出来るものでは無いと言っていましたが、現状維持ですか? 私としては、夜の相手さえしていただけばそれでも構いませんが」
無表情な照月の前で本当に言うか迷った。
照月に拒絶される恐怖感がある。だけど……言わないと何も始まらない。
「それに近いかもしれないな……気持ち悪いと思われるかもしれないけど、できることなら君と一緒にいたいと思っている」
予想外の答えだったらしく、照月は怪訝な顔をした。
「どういうことですか?」
「提督の立場を失いかけてやっと気づけた。僕は君が好きだ。本来の性格も、今のもう1人の君の事も好きなんだ。君の笑顔さえ見れれば他には、何もいらない。だから、一緒にいて欲しい」
言ってしまった。僕の出した結論。それは彼女と一緒にいたいというもの。だけど、それには彼女からの同意が必要だ。断られたら提督の地位がある無いに関わらず首を吊るしかない。
どうなるかと不安に思っていたら、照月がクスリと笑みを浮かべた。
「カッコつけたこと言ってますけど要するに告白ですよね?」
「うっ……」
告白と言われて顔が熱くなるのを感じた。自覚は無かったけど確かに告白だ。勢いだけで口にしてしまった事を恥ずかしく思った。
「提督って面白いですね」
僕を見つめる彼女の瞳は、面白い玩具を見つけた子供のように見えた。
「以前から気になっていましたがなんで、私を好きになったんですか?」
「分からない。もしかしたら、一目惚れなのかもしれない。だけど、僕は君のことが好きだ」
「仮に一目惚れだったとして、狂った私を見た上だそれでも、好きだったんですか?」
「そうだな」
「本当にいいんですか? 本来の私がどう思っているのか知りませんが、私は提督の事を性処理の道具としてしか思っていませんし、それが今後も変わるとは思えません。それに、提督も私のように頭がおかしくなるかもしれませんよ」
勿論、答えは決まっている。
「構わない。君と一緒なら狂気の渦の中に巻き込まれてもいい。ただ、死ぬまで君と一緒にいたいんだ」
僕の答えに照月は微笑みを浮かべた。
「分かりました。そこまで言うのであればお付き合いしますね。私も提督に興味が湧きました。これからも、よろしくお願いしますね提督」
照月の受け入れてくれるという答えに胸の中で湧き上がるような幸福を感じた。
「ありがとう……」
彼女の唇にそっと口を重ねた。
今の僕には照月さえいれば他に何もいらない。
照月さえいれば叢雲からのどんな暴力にも暴言にも耐えられる。
僕は決めた。照月が落ちていくなら僕もついて行こうと。
彼女の為なら遊びの片付けはするし、夜の相手もする。彼女の為なら体の一部を失ってもいい。なんなら、死んでもいい。
独り身の僕に失う物は何も無いし、僕一人が死んだ所で誰にも迷惑はかからない。
それに彼女と一緒にいる事自体に照月にとってメリットが無いわけでは無いと思う。何故なら、彼女も僕と同じように孤独なのだから。
照月が来る前に1人で考えていて、気づいた事だけど照月は本来の人格も別の人格も共に孤独だ。他の艦娘には避けられているし、姉妹にも同様だ。姉の秋月と妹の冬月だけは別だったみたいだけど彼女達はもうこの世にいない。照月は死ぬまでずっと1人だろう。
可哀想だと思った。両方の照月がどう思っているかは分からないけど、響のように他人を意図的に避けてるわけでもない、彼女らが孤独であることが良いはずがない。
僕のエゴで一方的な押しつけだけど彼女を受け入れようと思った。
照月に都合のいい人と思われているだけでも構わない、ここが自分にとって終焉の地でも構わない。僕は、ただ1人の人間のために生きる。蛆虫みたいにただ這っているだけの人間の末路としては十分じゃないか。
何もかもがダメな僕にできることは少ないけども、できることはやりたいし、僕自身も彼女と一緒にいたい。
僕が壊れる方が先かもしれないけど照月が狂って死ぬ時は僕自身も死ぬ時だ。
好きにしていいと思われたのか、この日はいつも以上に搾られたし首を閉められたりもしたけども不思議な満足感があった。
ー--------------------
面白い。
彼との行為に至りながら私はそう思った。私の為なら狂ってもいい。ここまで私を好きになる人間は初めて見た。
叢雲ちゃんに精神をやられた時に本来の私が優しくしたからそれで依存を感じているのだとは思う。だけど、私の中の狂気に触れた上での発言だし彼自身も私と一緒にいる為なら狂ってもいいと言っていた。
私自身は提督を人間として好きでも性行為をする時以外は異性として意識したことは無い。
普通の人なら気持ち悪いと断ったと思う。だけど、私はこの人の末路を見てみたい。
それに言われるまで自覚はあまりなかったけど私自身、孤独感が無かったわけじゃない。本来の私以外に私自身が受け入れられる事への嬉しさも感じている。孤独の埋め合わせという意味では本来の私にも良い影響をもたらすだろう。
提督も、私を必要としているみたいだし、お互いに利があるやり取りだ。玩具にされているだけでもいいという言質も貰ったし、私もこの人を受け入れてあげようと思った。
ー--------------------
次の日、本来の照月も僕のことを認めてくれたことをもう1人の方から聞いた。
救いのない人生の中で最も幸福を感じた時間だった。
これも1つの結末