私達の生活は薄氷の上に成り立っている。自分がいつ、薄氷の下の真っ暗な世界に落ちてしまうかなんて誰にも分からない。きっかけは急に起きた事だったり些細な事だったりする。ある日、急に足元の薄氷が割れて奈落の底へと引きずり込まれる。私達はその事実を知らず知らずのうちに見て見ぬふりをして日々を過ごしている。
この日、私の足元の氷は割れた。
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約束の日の前日は良い天気の日だった。提督から2度目の告白を受けた日以降、何もかもが上手くいっている。私は衝動をある程度はコントロールできるようになったし、何かあったとしても正直に話せば提督は受け入れてくれる。本来の私も提督とより親密になっているし、二人の仲も良好だ。二人の仲の良さに嫉妬心を感じる事もあるけども提督と話をしてからは我慢できるようになっていた。
事が起きたのは出撃を終えて執務室に向かう時の事だった。
「最近、照月が大人しいわね。何かあったの?」
執務室に入ろうとしたら、先に戻っていた叢雲ちゃんの声がした。
「約束をしたからな」
「約束? 何をしたのよ」
提督が叢雲ちゃんに私との約束の内容を話しているのが聞こえる。二人の会話に足を止めた。
「なるほどね。あの子が我慢できるなんてよっぽど大切な事みたいね」
「そうだな」
「それで、誰なの? 照月が過去に助けた子供って」
ドキリとした。
「教えなきゃダメか?」
「照月が聞いてるわけじゃないんだし、いいでしょ。話しなさいよ」
一瞬、このまま答えを聞くか迷ったけど好奇心が勝った。ズルいかもしれないけどあと1日だし、答えを今聞いても後で聞いても同じだと思う。耳をすました。
「……僕自身だ」
提督の言葉に耳を疑った。
「は? 何よそれ。証拠はあるの?」
「厳密にはない。だけど、明石に連絡をとって聞いてみたら状況証拠的に僕のことだと言われた」
「明石がそう言ったなら多分、事実ね……」
「叢雲もそう思うか?」
「あの子、性格は悪いけど嘘はつかないから。それにしても面白いこともあるものね。運命と言っていいのかしら」
「そうかもしれないな……」
「でもこの前、イ級をサッカーボールみたいに蹴り飛ばしていたわよ。あれはいいの?」
「見間違いじゃないか? 我慢すると言った照月がそんな事するわけないだろ」
「それもそうね」
叢雲ちゃんがクスッと笑った気がした。
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急いで部屋に戻りドアを開けた。
「はぁっ……はぁっ……」
体を支えきれずに壁に手を付く。苦しい、息ができない。
「……」
1分ほどして何とか息が落ち着いた。
あった事を整理したい。
私は提督と発作を抑える代わりに1ヶ月約束をしていた。1ヶ月我慢できたら私が昔助けた子供の事を抑えてもらう事になっていた。だけど、我慢なんてできるはずがなくて約束を何度も破ってしまう。しかし、提督は私の事を責めることは無く、むしろ私を肯定してくれた。私自身も嬉しく感じたと思う。
彼の態度に一時は自分の存在意義に悩んだ事もあるけども、彼と話していくうちにそれも気にならなくなった。
約束の日の前日である今日、私は提督と叢雲ちゃんの会話を盗み聞きした。提督は私があの時に助けた子供は彼自身だと叢雲ちゃんに話していた……
どうしよう。何もかもが上手くいっていたと思ったのに、私の好奇心で全てを台無しにしてしまった。私は今まで彼の事を大切な人間だと思った事は無かった。守らなければならない存在だと感じた事は無かった。だけど、今は違う。彼は私にとって大切な人だ。
彼は、明日私にどう話すつもりだったのだろうか? 本当の事を話すつもりかもしれないし、話さないつもりだったかもしれない。分からないけど一つだけ言えることは私がそれを聞くべきではなかったという事だ。私は……どうすればいいのだろうか?
ふと、顔を上げると部屋に飾られている「マラーの死」の少女が私を見つめていた。
絵に描かれている場面は殺人現場。全裸の少女の後ろにはベッドの上に全裸の男性が横たわっていて、彼の近くには血痕が付着している。殺人現場という陰惨な状況にも関わらず状況が状況のせいで少女からは性的な物を感じてしまう。
「……そうなんだ……」
独りで呟いた。
本来の私がこの絵に興味を持った理由がやっと分かった。後ろに横たわる男性は私が今まで壊してきた人達。そして、この絵の中の少女は私自身……
私は狂人だ。深海棲艦を拷問するのを止められないし、それをした日は必ず発情して相手を求めてしまう。私という人間はそう作られている。今まで多くの生き物を壊してきた。叢雲ちゃんからの指示や許可をとったりしてはいたけど人も例外ではない。間接的という意味では冬月だってそうかもしれない。私と関わってきた人は皆不幸になる。
「……つっ!」
ガシャン
目の前の絵を地面に叩きつけた。
このままだと私が提督を殺してしまうかもしれない。あの時の思い出を壊してしまう。私のせいで……
今まで私は提督の事を都合の良い玩具だと思っていた。本来の私を傷つけないなら壊れようが死のうがどうでもいいと思っていた。だけど、今は違う。彼は大切な人。20年前のあの時の思い出を壊したくない。
「ごめん」
今は寝ている本来の私に呟いた。彼女には悪いと思うし、本当なら彼女の意思を優先するべきなのかもしれない。それが私の存在意義であり二人の為になるから。だけど、今回はどうしても譲れない。
私は艤装を背負い外に出た。
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叢雲と照月の約束の話をしてから2時間ほど時間が経った。未だに照月は現れない。
「照月がやけに遅いわね」
叢雲が呟いた。
「時間には厳しいのに珍しいな」
彼女との付き合いはまだ月日は短いけど、こんな事は一度も無かった。体調が悪いのだろうか?
入り口のドアが開いた。
「照月!?」
入り口に立っていた照月に思わず声が出た。
彼女の手には赤黒い肉塊が握られている。何度も見てきたから分かるけど深海棲艦の内臓だと思う。照月はそれを床に投げつけた。
「ちょっと何すんのよ!?」
「提督、約束の件は忘れて下さい。それと、今後は私に近寄らないで下さい」
「照月! 少し待って……」
「失礼します」
僕が止めるのも聞かずに彼女は部屋を飛び出した。
「なんなんだ一体……」
「悪いけど、照月の事は後にして。ひとまず片付けるわよ。工廠からオキシドールを取ってきて」
動揺する僕に対し、叢雲は冷静だ。彼女の指示に従う事が賢明だと思う。
「分かった……」
オキシドールは照月の遊びの後の後始末に使うから大量に置いてあるはずだ。取りに向かおうと執務室を出ようとしたら、血の気の引いた顔をした夕立が執務室に飛び込んできた。
「提督さん。大変っぽい……!」
「夕立か。どうした?」
「海岸に深海棲艦の死骸が転がってるっぽい!」
「はぁ?」
「いいから見に来て欲しいっぽい!」
夕立に連れられるがままに海岸線に向かうと深海棲艦の死骸が三体ほど転がっていた。死体はどれも損害が激しく、拷問に会ったかのような陰惨な死に方をしている。照月の仕業と見て間違いないだろう。
「これは……」
「仕事が増えたわね……」
言葉を失う僕に対して、叢雲がため息交じりに呟いた。
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(1時間前)
冬月を助けに行ったあの時のように独断で出撃し海上を走る。適当な深海棲艦を見つけ殺すとポケットからナイフを取り出し腹に突き立てた。そのまま腹を切り裂き血の海から内臓を引っ張り出す。
(何してるの……?)
頭の中でもう一人の私が呟いた。いつの間にか起きていたらしい。
「ゴメン」
(ゴメンじゃなくて……何であんな事をしたのか理由を聞かせてよ)
「分かった……」
本当は話したくなかったけど、本来の私はそれを聞く権利がある。提督と叢雲ちゃんの話を盗み聞きしたことや、自分の考えを話した。
(分かった。好きにしていいよ)
もう1人の私から返ってきた言葉は意外なものだった。拒否されると思っていたし、その時は何が何でも説得するつもりだった。
「えっ、いいの……? 一生会えなくなるかもしれないんだよ」
(実は、私も提督を壊してしまうかもしれないって思う時があったの。それにどうせ、私は長くないから。私が目の前で死んだら提督は悲しむと思うし、それなら先に別れておいた方が良いと思うの。それに、皆を不幸にしているのに私だけ幸せになる事に罪悪感もあったし……)
「そうなんだ……」
もう1人の私の独白は別人格である私でさえ知らない悩みだった。提督に思いを告げることができて幸せだと思っていたけど、そうでもなかったのかもしれない。彼女には彼女の悩みがあってそれが私と似ていた、ただそれだけの話。
(前にも言ったけど私が死んだから貴女の人生だから。貴女の好きなようにして。私は提督と会えて良かったと思う。付き合えて幸せだった。それだけで十分だよ)
「そっか……ありがとう」
私の望む生き方。それが何で実現できるのか不安は残るけどそんな事は後で考えればいい。今は、提督を私から少しでも離すことを考えるべきだ。
(でも、一つだけお願いしていい?)
「何?」
(明日の夜だけでいいから提督と話させて。お別れの話をしたいから……)
「いいよ。だけど、私の事は何も話さないで。提督には秘密にしておきたいから」
私が事実を話せば提督は無理にでも受け入れて、私を引き留めようとするだろう。そうなると、本来の私の意思が揺らぐかもしれない。その可能性を消したかった。
(分かった。それだけは守るね)
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ペンが動く音の中、叢雲と2人で執務を進めている。
今すぐにでも投げ出したい気分だったけど義務感と気力だけで仕事を進めている。昨日はあの出来事から照月は部屋に籠ってしまって話す事は無かった。今日は顔すら見ていない。彼女に何かあったのだろうか? それとも僕が原因で? 何が何だか分からない。
彼女の豹変については叢雲も何も知らないらしく、ひとまずは目の前の執務に集中しろ(何かしらの行動をとる事を約束してくれたが)と言われる。僕は……どうすれば良いのだろうか?
鎮守府の電話が鳴った。
「はい、最果ての鎮守府です。はい、変わります。照月の元提督からよ」
「えっ?」
あの人から? いったいなんの用だろうか?
「おい、どういうことだ?」
あの時とは違う明らかに強い口調が電話の向こう側から聞こえた。
「なんの事ですか……?」
「照月からやっぱりこっちに来たいと電話があったぞ」
「えっ? 自分は何も聞いていませんが……」
「何だと? 最近、照月の周囲にあったことを全て話せ」
「えっと……実は……」
照月と約束をした事を含め、ここ1ヶ月あったことを話した。
「なるほどな。1週間……だな。それまでにこの問題を解決できないならお前は照月の提督である資格がない」
「えっ、それはどういう……?」
電話が切れた。
「試されてるわね」
「どういう事だ?」
「分からないの? アイツは1週間以内に解決しろって言ってるのよ。そうしないと照月が連れていかれるわよ」
「な……」
叢雲の言葉に背筋が凍りつくのを感じた。
「慌てて動くのは悪手よ。今のアンタは執務に集中しなさい。私が照月から話を聞くわ」
「分かった……」
叢雲の指示は下手に動くなという事だ。何故、照月がこうなってしまったのか分からないけど今は下手に動いて事態を悪化させるよりも彼女の指示に従った方が良いと思う。不安を抑え込みながら執務を再開した。
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その日のうちに、別人格の照月に夜に会いに行くと言われた。本来の照月が話をしたがっているという話だ。会うのが夜というのはそういう意味と解釈して良いと思うけど、豹変しているという事実に不安を感じてしまう。大きな不安と少しの期待が入り交じる中、彼女を待ち続けた。
「提督、お待たせしました」
待ちわびた声に、ドアを開くと制服姿の本来の照月がいた。
「照月! 一体何があったんだ?」
「提督、ごめんなさい。提督と話ができるのは今夜が最後になるかもしれません」
耳を疑った。
「何かあったのか? もしかして別人格の君に……?」
「申し訳ありませんが、今の照月からはそれについて話すことができません」
「嫌だ」
気づいたら声が出ていた。
「君と離れたくない」
わがままなのは分かっている。照月にどんな理由があるのかも分からない。だけど、彼女と別れることだけは嫌だった。
「私だって、嫌ですよ……」
照月が震えながら呟いた。
「だけど、提督にとっても別人格の私にとってもこれが一番良い選択肢なんです……! 別人格の為だけではなく、提督のためでもあるんです!」
「どうしてもダメなのか?」
「はい。どうしても……です。照月のお願い……聞いてくれませんか?」
照月の瞳に涙が光る。彼女は嘘をついていない。彼女には彼女なりの決意があるのだろう。彼女の必死さを感じた。
「分かった……。だけど、君がそう判断した理由を教えてくれないか?」
「申し訳ありませんが、できません。もう1人の私の意思ですから」
「そうか……」
「だけど……これだけは覚えておいてください」
彼女の眼から涙が零れて床に落ちた。
「たとえ、会えるのが今日が最後だとしても照月は提督を愛しています」
「照月……」
衝動的に彼女を抱きしめた。全身から彼女の暖かさが伝わってくる。彼女が愛しい。ずっと抱きしめていたい。だけど、今日限りで彼女とは別れなければならない。それが彼女の願いなのだから。彼女と一緒にいたいと告白した時、いつかは別れの時が来ると覚悟していた。だけど、別れの時は急にやってきた。
顔を上げた彼女と目が合う。これまでに何度も見てきたダークグレーの美しい瞳だった。彼女のこの瞳も見納めだ。視界が滲む。
「今夜が最後ですから……愛してください……」
彼女の唇にキスをした。彼女が別れることを望むのであれば僕はそれを断る事はできない。今は残された彼女との時間を大切にしたかった。
この日を最後に本来の照月を見なくなった。
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目が覚めた。小鳥がチュンチュンと鳴いているのが聞こえる。体を動かそうとしたら、提督に抱き着くような形で寝ていた事に気づいた。
昨日の夜は何度交わったのか分からない。提督とするのは10日ぶりぐらいだと思うけど、私にとって彼とした行為の中で今まで最も満ちたものだった。最後という事もあってお互いに凄く乱れていたから思い出すだけで赤面してしまいそうになる。
彼と過ごした日々は他人を傷つけてばかりの私にとっては十分すぎるぐらいの幸せだった。だけど、私はこの幸せを手放さなければならない。もう1人の私の為にも提督の為にも。本当はもう少し彼と一緒にいたかったし、もう一度抱いて欲しかったけどそれはもう1人の私との約束に反してしまう。
「さようなら提督。今までありがとうございました。照月は提督と会えて幸せでした」
寝ている彼の頬に優しくキスをして起き上がった。
(満足できたの?)
「うん。ありがとう、私は十分。後は……お願いね」
(うん)
私は部屋を後にした。