見渡す限りの闇と、張り付くような冷たさ。
悲しさとか哀しさとか怒りとか焦燥とか。
へばりついて離れない。要らない感情。見たくない思い。思い出したくない心。思い出したくない景色。ドラゴンの刻印を持ってから時々蘇ってくる。ドラゴンの刻印の力を使った時の景色。もう忘れたい。見たくも無い景色。
「姉上……」
アル君。なんで、アル君が?
「やはり俺は、姉上を越えられないのですね」
そんな、そんな事ないよ。アル君。私はなり損ないの王女なんだから、アル君の方がきっと……。
「姉上を越えられないのなら俺は……」
アル君の姿が変わっていく。それはまるで、魔物のように。
「姉上……」
こんなの、こんなのは違う。私が言いたかったのはそんな事じゃない。人をやめろなんて言ってない。
「コレがおレノ答えデす。アねうエ」
…………
「アル君!!!」
布団を吹き飛ばすように起き上がればそこは寝室。朝の光が指す私の寝室。夢……夢だったのか。さっきのは。
また私は悪夢を見ていた。
「はぁ……はぁ……」
激しい動悸と夥しい冷や汗。最近よく見るようになった悪夢。その原因はまだ分かっていない。
「ッ──────」
背中が小さく痛んだ。寝起きに響く小さな痛み。
届かない背中に手を送り、別になんともない所を摩る。
「また……」
また悪夢。アル君が出てくるのはこれで何度目か。
救えなかった。だから、私はまだ後ろめたく思っている。レイニの心臓を取り込んででも、アル君は王としての資格を得ようとした。それは私のワガママに応えようとしてくれたから。龍の刻印を刻んでから、この手の悪夢が増えてきた。これが、刻印のデメリット……。なのかは分からない。ティルティにもそろそろ相談してみるかな。
「アニス様。イリアです。お入りしても──────」
イリアの声だ。とりあえず、今は刻印の事は考えるのをやめた。
…………
「悪夢……ね」
「うん……」
ティルティの所にやってきて、とりあえず今私におきている事を話した。ついでに薬の相談にも。イリアには宮殿で待ってるようには伝えてあるけど、多分察せられてる。イリアは勘が鋭いから。
「龍の刻印の副作用に関してはまだ分からない事だらけだけど、やっぱりただそのままってのはないでしょうね」
「だよ……ね。イリアにもさ。言われたんだ。刻印が少し広がってないかって……」
「へぇ……」
興味深そうに、ティルティは口元を手で隠すが、その顔はとても深刻そうな顔をしている。
魔物の頂点とも言われるドラゴン。それを討ち取り、体に刻んだ。なら、そんな人間はもう直人ではいられない。そんな事は分かっていたが、まさかこんな形でデメリットのようなものが現れようとは思わなかった。これでも、まだ軽い方だとしたら、これからどうなるのか余計に分からない。対策の立てようもない。私のティルティは頭を抱えて悩んだ。
「それ、ユフィリア様には言ったの?」
「言えるわけないじゃん。こんな事。ユフィは王女になってから忙しいんだから、これ以上迷惑かけらんないよ。それに……」
「それに?」
「今回は私自身の力で解決したいんだ。刻印を刻んだ理由も、何もかも、自分勝手すぎるから……ユフィにはもう悲しい顔はさせたくない……」
「ふ〜ん……それで私の所に、ね」
「しょ、しょうがないじゃん。こういう事最初に相談するのはティルティなんだもん……」
そういうティルティの顔も少し喜んでいるように見えた。なんでそういう顔すんのさ。こういうの1番相談できんのはティルティしかいないんだから許して欲しい。
そんな事もお構い無しに、診察ついでにティルティは私の頬に手を添える。
「なら、その目元の若干のクマも、悪夢のせいで寝不足ってやつかしら?」
「っはは、かもね。夜中に何回か起きてるから……」
「そしたら、薬の相談っていうのは……」
「うん。ちょっと強めの睡眠薬でも作れないかな? そうすれば多分、大丈夫だと思う」
「……あっそ」
あんまり言いたくない。“大丈夫”というセリフ。口癖になってるのかもしれない。ティルティの顔は少し怒ったように見えてきた。本当にティルティには迷惑かけばっかりだな。いつか、まとめて謝らないとなぁ……。
「私に対して申し訳ないって気持ちを抱くのは、もう要らないわよ。アニス様」
「ぅえ!?」
心が読まれたかのように驚いて肩を揺らした。いや実際は読まれたんだけど、まさかそこまで、完璧に読まれるとは思っていなかった。
「アニス様とはもう長い付き合いだから。別にそんなのは要らないわよ」
「そっか……そうだね。うん。ありがとう。相変わらずティルティは──────」
そこで私は言葉に詰まってしまった。それは言っても無意味な言葉、必然的に感じてしまう私の勝手な“気持ち”。口に出すのがおこがましいとかそういうので。
そうすれば、ティルティはまた見透かしたように笑う。
「別に、“そんなん”じゃないわよ。私はただアニス様に甘いだけよ。ただ、“甘い”だけ」
「──?」
やたらと意味ありげにティルティは言葉を発した。私がその言葉に首を傾げてるとティルティは小さい瓶を一つ渡してくれた。
「これ、それなりに強い睡眠薬。1回1錠ね」
「うん。ありがとう。いつも、ごめんね」
「えぇ、別に気にしなくていいわよ」
その時のティルティの顔はよく見えなかった。呆れられたような、いつも通りのような、でもその時の表情は私の心を少し傷つけた。
…………
「ちょ、まっ、ユフィ……んッ」
その日の夜。いつものようにユフィを部屋に迎え入れて、『食事』をされてしまっている。今日はいつもより熱烈で激しめだ。首筋を舐められたり、何回も唇を塞がれる。まるで腹を空かせた獣のように。荒々しく貪られる。
「っ今日は、いつもより激しいね?」
「だって今日はティルティ様の所へ行っていたのでしょう? それならこうもなりますっ……」
「ちょ、ごめんってば……ぁ……ん……」
ユフィは少しむんつけた顔をしつつ唇で私の耳を食む。唇の感触がむず痒くて喘ぐような声が出てしまう。
ティルティから貰った薬は飲んだ。効果があるまである程度時間が掛かる。でも、ユフィの『食事』が終わる頃には眠りに落ちれるはずだからそれでいい。
これで今日は安心して寝れる。
ユフィに溶かされる感覚を味わいながら、ユフィに縋るように抱き着いてその温もりに堕ちていく。
…………
「っ──────!?」
今日もまた、絶望の縁から目を開ける。
目覚めて直ぐに分かったのは、またアル君の面影を見た事。そして激しい動悸と大量の冷や汗。
薬の結果は効果なし。私はまた無意識のうちに絶望へ片足を突っ込んでいた。
「ん……」
気怠さが残ったまま体を起こす。ユフィはまだ隣で寝てくれている。どうやら気づかれてはいないようだ。こんな事、今更ユフィには言えない。言ったらどうなるか。またユフィの笑顔が消えるだけだ。
「ユフィ……」
寝ているユフィの前髪を撫でる。するとくすぐったそうに愛らしい声を漏らす。
今日も一応、ティルティの所に行ってみよう。報告は必要だ。それがバレた時はまたユフィにたっぷり搾られる事だろうが、まぁ、それの時はそのときで。
…………
「は? 効果なかった?」
「うん……」
私の言葉を聞くとティルティは眉をひそめて考えるように顎に指を添えた。
「あれでダメ、か。ユフィリア様に魔力を渡して尚且つ睡眠薬を飲めば意識が無くなったように眠れると思ったんだけど。やっぱり精神に直接干渉してるか、刻印の魔力だけが残りつつあるのか……。もしかしてあんまり魔力取られなかったとか?」
ただ純粋に聞いてくる質問に私は昨日のことを思い出すとそれはそれで顔が赤くなるわけで。
「えいやまぁ、昨日も昨日でそれなりには……」
「そう……」
クッソ真面目な顔して考えてくれるけど昨日の行為を聞かれたのはちょっと納得いかない。ティルティはそんな私を気にもとめずに資料を捲りながらブツブツと考えている。
「表面の魔力を吸われているだけで刻印に染まった部分が持っていかれているわけじゃないとしたら魔力の吸収量の問題ではなくそもそもの刻印が魔力が遮っている可能性も───だとしたら……吸い取る側の問題か……」
これはしばらく終わりそうにない。あぁ、なったティルティは話しかけてもダメだから、そこら辺のビーカーを弄りながら待つ。
うわまたとんでもなさそうな薬作ってやんの。怖。
そっと、ビーカーを戻す。
「やってみるか……」
ボソッとティルティが何か言った。
「アニス様」
「ん〜? なに?」
呼ばれたから振り向いた。
ただそれだけだった。なんともなく振り向いた。
でも、私は驚いた。
『ティルティが私にキスをしている』。
ただそれだけの事に。
「ンンッ!? んん! んんん!!!」
「ちょ、うっさい、抵抗すんな」
「いや、まっ───」
待たされる訳もなく、手足をティルティの拘束魔法で繋がれて容赦なく唇を貪られる。
触れている部分が熱い。火傷するようにではなく、内側から広がる様な温もり。奥底から持っていかれるような感覚。
(これなら……)
「んん……!?!?」
今度は舌が入ってきた。振り解こうとする顔を押さえつけられ、執拗に口内を舐る。
「んんっ……っ……ん……」
体から力が抜けてきた。ユフィの時とは違う。ただ吸われてるんじゃなくて、安心するような。“甘い”感覚。ユフィの時もそういう感覚はやってくるけど、これは違う。抵抗しようとしていた腕の力が抜けて、見開いていた瞳が、瞼が下がっていく。キスを受け入れ始めてしまった。
そして不覚にも──────
(気持ちいい……)
そう思ってしまった。
ユフィ以外とキスをするなんて考えもしなかった。だからなのだろうか、感覚がいつもと違い過ぎて戸惑いも、温かさも、違うものばかり襲ってくる。キスをするだけではなく、もっと深いものまでされてしまっている。魔力の抜ける感覚は止まらず、動いている舌も互いの温度で熱くなる。
「っ……は」
「っ!」
より深いキスが終われば、私は思わず自分の唇を隠してしまった。顔は赤いのはそのままに受け入れてしまった自分に驚いて、動揺した。心が焦って、瞳が泳いで焦点が定まらない。
「なっ……なん……な……」
口が閉じたり開いたり、言葉も上手く話せない。
「どう? アニス様。何か変わっ───」
バシン。
気づけばティルティに平手打ちをかましていた。なんの躊躇いもなくやってしまった平手打ちを受け入れたティルティは何かを鼻で笑い、そのまま私の顔を見ずに、言葉を続けた。
「そうね、悪かったわ。さっきのでアニス様の容態、少しわかったから、今日は帰っていいわよ。まとめとくから」
「ぁ……ティル……ティ……」
私に振り向くことなくティルティは机に向かう。
「あー、それから、今日の事はちゃんと黙っててね。バレたら私が何されるか。“消毒”ちゃんとしてもらいなさいね」
言って、ヒラヒラと帰れと手を振る。この時の私は、ティルティに何も言えなくて、何もしてやれなかった。
…………
その後のことはよく覚えていない。私は多分逃げるように帰って行ったと思う。気づいたら、自分の部屋ベッドの上にいた。確かめるように何度も自分の唇をなぞって、自分のした事が現実だということを実感していた。受け入れてしまった“それ”は、ユフィに対しての裏切りに思えてきた。抵抗出来なかったとはいえ、心の奥で一瞬でも『良かった』と思ってしまった。ユフィ以外の女の人にされるキスは初めて。しかし、それを簡単に受け入れてユフィを裏切ってしまったと言う気持ちが私の心に溢れてくる。それは私の瞳から涙となって形となった。
「ひっ……ぅ……」
情けない私はティルティの“甘さ”に毒される。
…………
「アニス?」
「っ……あ……え?」
夕食終わりのお茶の時間。
またアニスは上の空。何か隠している事は確実なのですが、私はいつまでもそれを聞けずにいました。何か踏み込んではいけないような事だと、心の奥で思い込んでいるのです。最近は研究の方も進みが悪く、ココ最近は工房に引きこもってばかり。何かしていないと落ち着かないと言うので私はそのままにしていますが、最近は少し心配になってきました。
「本当に、何かあったのではないのですか?」
「ううん! 大丈夫大丈夫! やっぱり今の研究がさ、進まなくて。魔石の組み込みには成功したんだけどその動かし方があんまりままならなくてでもどうしようかなーって考えてはいるからそれなりには───」
綴る言葉はまるで嘘のように聞こえて、返されない目線はまるで焦っているように見えて、アニスの心は私に向いていない様に感じてしまいました。
その時の私はどうしようもなくてただアニスの言葉を聞くことしかできませんでした。
貴方の“優しさ”でしょうか。私にまで隠して欲しくはないのです。アニス。
でもそれが言えない。それはきっと私の───。
ですがそれは前からずっとわかっていた事。
ティルティ様の所へ行ってから何があったのか。私は多分、今夜聞けずにいるのでしょう。
…………
「……」
やってしまった。やってはいけないことを。魔力を引き出す方法があれしか無かったといてば嘘となる。正確に言えばあれが1番手間のかからない方法。きっと、ユフィリア様ともやってる事。だから、私が一番してはいけないこと。
「はぁ……」
深くため息を吐く。研究に行き詰った時以外にため息を吐くことなんてなかったのに。
「……」
あの時のアニス様の顔を思い浮かべる。それは本当に年相応の美少女で、ユフィリア様にしか見せたことの無い顔。私の記憶にもしっかり残るような、美しさと儚さ。そして─。思い出したくない。唇の感触。自分のをなぞればその感覚はさっきのように蘇る。
「…………バっカみたい」
月明かりが照らす窓。自分に呆れて見上げると綺麗な三日月が浮かんでいた。綺麗な三日月。その刃で自分を殺して欲しいほどに。だが、そんな事願うだけ無駄なんだ。虚空に手を翳して三日月を握り潰す。そして開けば何も無い掌。血も出ないし汚れてもいない。
何も無い、私の掌。私の頬に残るアニス様の
「……だから、感覚って嫌いなのよ」
嗚呼、今日の事をまとめないと。
もう一度、ため息だけを吐いて。
アニス様の容態をまとめた手紙のために筆を執る。
さっさと忘れないとあんなこと。
…………
今日の事は驚いた。まだ心がどこかでふわふわと浮いているような感覚。処理しきれない感情が芽生えたままで目が冴えてるから眠れない。ティルティは普通に見えた。動揺とかはしてないように見えた。明らかに動揺してたのは私だけ。考えられるのはティルティの事ばかり、受け入れてしまったティルティの“優しさ”に似た何か。
ユフィ以外とのキス。『食事』とは違う。でも、心につっかえていたものが外れたような気がして、感じていた背中の刻印の『重さ』も少し軽くなったような気がした。
「アニス? 少しよろしいですか?」
と、そこで私の部屋にノックが響く。
ユフィの声だ。今日はまともに話せていなかったから、私はすぐさま部屋へ迎え入れる。
「いいよ、入ってきて」
「失礼します」
ドアを開ければ少し不安そうな彼女が顔を覗かせていた。
「いらっしゃい、ユフィ」
「急にすみません。こんな時間に」
「ううん。大丈夫だよ。おいで?」
部屋へ入れて二人でベッドに座る。
「今日はずっと何かを考えていらっしゃるようでしたが……」
「あぁ……うん。ちょっとね。でも、ユフィが気にするような事じゃない……からさ」
苦笑いで取り繕っても上手く誤魔化せない。それはなんでだろう。ティルティとあんな事をしたからかな。アル君が夢に出てくるからかな。今の自分を後ろめたく思っているからかな。どっちにしろ、言葉を発すればユフィは悲しむだけ。背負った重さが少し増えた気がした。確かに誰かに話せば楽になる。でも、解決はしない。私はそれが怖かった。言い出せば止まらなくなって、全てをぶつけてしまいそうになるから。
それを察してくれたのか、ユフィは私に“優しい”笑顔を向けるだけ。
「なら、無理にとは言いません。ですが、私にも少しは“優しく”させてください。貴方の悲しむ顔は嫌ですから」
「ユフィ……」
ユフィのそっと重ねてきた手が私を包んだ。それはとても温かくて、“優しく”て。愛おしい手。
「アニス……」
「ユフィ……」
どちらともなく。重なった手は絡み合う。
「ん……」
取り憑いている不安を飲むように私の息は塞がれて。
背負い込んでいる不安を抱くようにユフィに引き寄せられて、ユフィの“優しさ”にまた溶かされていく。
「ぁ……」
腰に回ってきた手が少しくすぐったくて声が漏れてしまう。それを聞けばユフィは柔らかく笑う。
「可愛いですよ。アニス」
「からかわないのっ。ユフィの手つきがいやらしいんだから」
ふいっと顔を背けて突っぱねるように言いたいが、どうしても強く言えない。そういうことを言われて嬉しいと思っている自分も大概だと思った。
「いやらしいのが好きなくせに」
「だからっ、そういうことを直ぐに……んっ」
今度は何も言わせて貰えない。背けた顔も直ぐに引き寄せられてまた塞がれる。
「ん……ぁ……ふ……ぅ……ん」
食むようなキスが続けば、今度は少し深いキスがやってくる。ちょっぴりもったいぶった舌の動きはユフィが『食事』を長く楽しみたい証。やたらゆっくりと、味わうように私に深くキスを重ねてくる。
「っ……んっ……は」
長いキスを終えれば、二人の間に透明な糸。いつ見てもそれは恥ずかしいもので、顔が赤くなって直ぐに拭ってしまうのが癖になってきている。ユフィもそれを見たいがためにわざと唾液が垂れるようにしているらしい。
「相変わらず、すぐに恥ずかしがりますね。アニス」
「まだ慣れないの。ユフィはいいよね。慣れてそうで」
「まさか、アニスにだけですよ。こんな事するのは」
「ッ───」
その言葉が少し痛かった。ユフィ以外を受け入れた私に少しだけ痛かった。治療のためだったんだよね……アレ。あんな事をした後に、ユフィに身を委ねていいのだろうか。そんなつもりないのだけれど、浮気をしたような感覚だった。でもどうなんだろう。これ浮気かな。だって、一回キスしちゃったんだもんね。
どうなのかな、大丈夫かな。
「アニス?」
少し考え込めば、ユフィが呼んで戻してくれる。
そうだ。忘れよう。今は。今だけは。苦い思い出も苦しい事も、ユフィの“優しさ”に甘えてしまえば忘れられる。
何でもないよ。と顔を横に振って、ユフィを迎え入れる。
「ごめん。おいで、ユフィ」
両手で彼女を迎え入れて最後に聞こえたのは、ユフィが私の名前を呼ぶ声と軋むベッドの音だけだった。
…………
「ん……」
鳥のさえずりで目が覚める。前とは違う普通の目覚め。アル君の悪夢を見なかった。理由は分からない。ティルティから貰った薬は昨日飲んでいないし、ユフィにはいつも通り魔力を渡した。あと一つ、違うとすれば……。
「ティルティ……」
彼女の名を呼んで自分の唇をなぞって今日は痛まない背中に手を送る。分かってはいたけれど、やっぱり悪夢を見なかったのはティルティのおかげなのかもしれない。昨日は逃げるように帰ってきてしまった。今日会いに行けるかどうか。私には多分その勇気はないと思った。何かきっかけがないとこういうのはお話出来ない。
なにか……なにか……。
「アニス様、ユフィリア様。おはようございます。イリアです───」
ノックの音と共に今日もまた、イリアの声で私の一日が始まる。
…………
「そういえば姫様」
「ん? なに?」
朝食中にイリアが私を呼ぶ。珍しい事だった。
「姫様宛にお手紙が届いてます」
「手紙? 誰から?」
「ティルティ様からです」
「え……」
その名を出されて一瞬思考が止まってしまった。会いに行く勇気がないと考えたばかりなのに、もっと遠くなった気がした。握っていた銀器を少し鳴らしてしまったが、直ぐに表情を取り繕って、イリアに返す。
「うん。わかった、後で工房まで持ってきて」
「かしこまりました」
ユフィの表情。この時私は見れてなかった気がする。
…………
「失礼します。姫様。お手紙をお持ちしました」
「あ、ごめんねイリア。ありがとう」
受け取った封筒を開いて、中身を取り出すとイリアが少し不安そうな顔で言ってきた。
「ユフィリア様に見せなくてもよろしいのですか?」
当然の質問だ。この手の物は一度ユフィを通してから私にやってくる。王室の執務はユフィが行っているから、必然的に書類関係はユフィの方に流れていく、けれど、イリアはよく出来た人だ。宛名を読んでどちらに回すべきかを考えてくれる。ティルティとの付き合いが長い私を優先してくれたんだ。でも、これはあとから言及されると思う。
「うん。後でユフィには私から伝えとく。ありがとねイリア」
「分かりました。では、失礼します」
イリアが工房を出たのを見送り、再び封筒の中身に目を向ける。そこに書いてあったのは“あの時”の謝罪と、私の容態。どうやら、刻印の魔力が私の精神を蝕んでいるらしい。解決策とはまではいかないが、ある程度それを抑えることが出来る方法があるらしい。それは、刻印の魔力を消費すること。もしくは、刻印の魔力を限定的に渡すこと。だった。
刻印の魔力を消費するのは分かる。だが、刻印の魔力を限定的に渡すというのは、私にとっては難しい。ユフィリアにもそれは難しいかもしれないとティルティは手紙に書いている。そんなことよりも、私はユフィに頼れないというのが本音だった。王女になったユフィは今まで以上に忙しくなって、もっと広い世界を見なきゃいけない。私一人に構っていられる余裕なんてないし、この刻印のことは私一人で解決したい。
もうユフィの“優しさ”に甘えてなんていられない。
これぐらい一人でやらないと。ひとりで……。
「…………よし! まずは行動!」
そう意気込んだ私は立ち上がった。
…………
「……」
アニスの工房の扉の前で立ち尽くす私はそこを開けれずにいた。また、あの人から一歩遠のいて私は今ここにいる。薄々感じてはいる踏み込んではいけない領域。多分そこへ足を入れたら、アニスとの関係が崩れてしまうのでは無いかと心配して。それでも、踏み込まないといけない。そうしないと、私は貴方へ進めない。
「ッ……」
そう意気込んで、ノックをしようと手を上げたその時でした。
「あれ? ユフィ?」
「ア、アニス……」
部屋からアニスが出てきてしまいました。その顔はいつも通りの明るい顔で、何も悩みなんてないようで。
「どうかした? なんか私に用事?」
「っあ、いえ、その……たまたま通りかかったので顔を見ようかと……」
「そっか、ごめん! 私これからやる事あるから!」
「え、どちらに!?」
「ギルドに行ってくる! 魔物の魔石、必要なやつ見つけたから!」
「アニ……ス……」
そう言って、アニスは足早に駆けていく。私は最後まで名前を呼べず、その背中を見送るだけ。
なんだか、前の貴方に戻ってしまったよう。腑抜けた人を演じて、何かを隠すような。そんな貴方に。
そんなアニスが、やっぱり。遠くて───。
「アニス……」
…………
あれから1週間。
ギルドに頼んで少しの間だけ冒険者として復帰の許可を貰った。それからというもの。
「っはぁ……はぁ……はぁ……」
散々森を走り回って、散々魔物を狩って、魔物の中身を食い漁るように抉り、魔石を取り出す。まるで蛮族だ。ドレスは汚れてるし、マントも血にまみれてる。イリアに洗濯頼むのが申し訳なくなりそうだった。でも、こうしている方が楽だった。アル君の事を思い出さないで、頭をボーっと出来る。これが一番だった。
「っぐ……」
立ちくらみと少しの吐き気。魔薬の効果が切れかかっていた。ダメだ。効果時間が短くなってる。摂取する量を増やすか、もっと強い薬を作るしかない。
そう思って、魔薬を2粒ほど取り出して噛み砕く。
アル君。
即効性のはずなのに効果がない……。
かと言って、これ以上強い魔薬を作ったら戻れなくなりそうだ。魔薬で使える固有の魔法を変えて、別な効果を作れば何とかなるかもしれない。
アル君。
ティルティに頼っていいのかどうか。ここ最近ずっと会えてないし、会いに行けてない。薬を作るには、ティルティの所に行かなきゃいけないから、どうにかしてきっかけを作らないと……。
アル君。
大丈夫……。
大丈夫……。
こうしてれば、解決するはず……。
だから……今は……。
『ぁネうェ』
「っ!?」
「うわぁ!」
背後から蠢くような気配を感じてセレスティアルを振りかざせば、そこにはギルドの人がいた。
「ご、ごめんなさい! どうかしたんですか!?」
「い、いえ、こちらは終わりましたので王女陛下様の報酬分は受け取ったのかご確認をと思いまして……」
「あ……あぁ! そうね! うん! 大丈夫、必要な数は揃ったから大丈夫! それじゃぁ!」
私は魔石を入れた袋を担ぐと一人になりたいからとにかくその場を離れた。箒に跨って、とにかく誰もいない所へ。その時、ギルドの人の声が聞こえた気がするけどあんまり気にしなかった。
「これ全部あの人一人でやったのか……まるで、魔物だ」
…………
「ここら辺でいいか……」
誰もいない湖畔の方へ来ていた。木陰に降り立ってそのまま木を背もたれにへたり込む。
「ふぅぅ──────」
深く息を吐いて、空を見上げる。穏やかな空とは裏腹に私の心は落ち着かない。心臓も鼓動が早くて直らない。
「アル君……今どうしてるかな……」
託された血と王国。ユフィと二人で作り上げると決めたからにはある程度の問題は一人で解決したい。そう勝手に思い込んでいるのはわかってる。
「いっ──!」
背中に細い針が刺さったような痛みが走った。最近頻繁に増えた痛み。どうしても治らない。収まらない。魔力を使えば使うほど痛みが増える。まるで毒のように。
「ユフィ……」
愛しい人の名を呼ぶ。縋る相手がユフィしか居ない。ユフィに縋れば解決すると思っている自分が嫌いになりそうだ。とんでもなく最低だ。馬鹿野郎だ。クズだ。
「っはは、これじゃぁ、あのクソみたいな貴族の人達と同じだな……」
私利私欲の為にユフィに縋り付いて、ユフィを利用して、私が満足すればそれで終わりなんてそんなクズ男見たいな事はしたくない。これは自分で解決しないといけない問題。私が一人で背負うと決めた呪いなんだ。
ユフィに縋ったら、ユフィまでアル君みたいになってしまうかもしれない。私はそれが嫌なんだ。
「っぐ……っは……はぁ……」
息が重い。
深く呼吸するのが辛い。
体が軋む。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
脳裏に何かが焼き付いて離れない。
背中が痛い。
立っていられない。
『姉上』
『アニス』
心が苦しい。
人と話すのが怖い。
独りになりたい。
『ぁねぅえ』
『アニス』
誰かに助けて欲しい。
見たくないものが見える。
全部怖い。
『姉ゥェ』
『アニス』
私が私じゃないみたいで。
体の内側が溢れかえって。
そこにいるのは誰でもなくて。
『アねうえ』
違くて私は。
私じゃなくて。
私だったのは何処かへ行って。
今私の目の前にいるのは。
そこにいるのは──────。
『すキデすよ。あ二す』
「ッッッ!! ……ゔぇ゙ぇ゙ぇぇぇっ……! ぉ゙え゙え゙ぇぇっ……!」
ビチャビチャビチャビチャ。
胃の中のものが全部出てくる。とんでもない幻覚まで見え始めた。“それ”は違うユフィじゃない。
「ゲホッ……ゲホッ……お゙ぇ゙ぇ゙……っゔぅ゙……」
魔薬の副作用か、刻印のデメリットか。一気に何かが体に襲いかかってきた。
「っはぁ─はっ─はっ─はぁっ─」
呼吸がはっきりしない。動悸が激しくなって苦しい。蹲って、自分の胸に手を当てる。まるで自分の心臓の動きが自分のものじゃないみたいで怖い。
まるで“呪い”にかかったように。
「やば……マジで……っゔ……」
こんなんじゃ王宮に帰れない。
「っ……ぐ……」
ユフィに迷惑はかけれない。
「はぁ……はぁ……」
イリアになんて相談も出来ないし。レイニなんてもっとだ。誰にも助けを求められない。私に一人でどうにかしないと……でも、どうやって───?
魔力のコントロールなんかで解決できる問題じゃない。ユフィに魔力を取ってもらうにしても刻印の魔力を限定的に取り出してもらうなんて出来ない。かと言って、魔力を消費するにしてもここら一帯を更地にする事なんてのもできない。
「どうすれば……」
1人で何とかしないと。
「どうすれば……」
皆に相談なんて出来ない。
「どうすれば……」
また独りだ。
「どうすれば……」
何も分からない。
「───、────」
全部嫌だ。
「……」
全部怖い。
「」
全部消えればいい。
今の私には何も……。
「っ……?」
蹲る私の目の前に落ちた小瓶。私の魔薬を入れていた小瓶。中身が空になって何も入っていない。
拾い上げて、瓶を見つめる。
「私、は……」
さっきまで晴天だったのに、降り注ぐ雨の中、いつの間にかひとりで、私は泣いていた。
こんな最低なきっかけを作った自分に。
…………
「お嬢様!」
憂鬱な雨が降る日に専属のメイドが慌てて私の部屋に入ってきた。声がうるさかったから、少し不機嫌になりそうだった。
「何よ、いきなり。入ってくる時はノックしなさいよ」
「も、申し訳ありません! それよりも、私と来てください! アニス様がっ!」
「は……?」
言われるがまま、メイドに引っ張られて連れてこられた玄関。そこには、雨でずぶ濡れで魔物の血液まみれでボロボロで汚れていて吐瀉物の匂いを漂わせた、惨めな王女の姿があった。
「ちょ、アンタ、なにやってんのよ!」
「ティルティ……」
「直ぐに湯浴みとタオルを準備なさい!」
「は、はい!」
「アニス様はまずはこっちに来て!」
…………
「……」
静まり返った部屋に暖炉の火が弾ける音だけが響く。ココ最近会えてなかったし、風呂にも突っ込んでやったけど、あんな事もあったから何を口に出せばいいのか分からない。一方の王女様はソファに蹲って暖炉の火を見ながら、ビーカーに入った飲み物をちびちび飲んでいる。
「っ……ぁ〜もぅ……」
話題の切り出し方を忘れた。いつもなら、ただそこにいて、勝手に元気になって、勝手に帰っていくはずなのに。ほんとにどうにも出来なさそうな雰囲気を漂わせている。とにかく今は慣れない子供を扱うように、私はぎこちなくアニス様の隣に座る。
「怪我は……ないみたいね」
「ん……」
「で、今日はどうしたのよ」
「帰りたくないから来た……」
全く、クソみたいな理由で来やがって。
訝しげにアニス様を見やると、目の光は消えていて、さっきまで泣きじゃくってたのか目元も腫れている。何もかも諦めたような顔で暖炉を火をただじっと見つめている。
「ティルティ」
「ん?」
「なんで……手紙だったの……?」
「っ……」
少し体が跳ねた気がした。なにか言い当てられた訳でもないのに図星のように感じた。
「やっぱ、あの時の事気にしてた?」
「こっちからやっといて何だけど、気にしない方がおかしいでしょ」
「じゃあ、なんでキスなんかしたのよ」
「あれが1番手っ取り早かったのよ。その時の方法としては」
「そっか……」
他にもやり方はあった。あったんだ。なのにしてしまったのもはもう遅い。
でも、後悔するぐらいからやらなければ良かった。そうは思ってる。私は呪いを研究する。当然他の人とは逆の方向を向いている。光に背いて、日光を遮り、喜びを嫌う。それでも、アニス様は私を凄いと言ってくれた。手伝って欲しいと、貴方の力が必要だと言ってくれた。その時の事は今でも鮮明に覚えている。キテレツ王女と呼ばれるようになってからも、その前からも。アニス様は私の光だった。だから、遠ざけたかった。その理由が欲しかった。
「あれからどうなのよ」
「治んない。全然」
「そう……」
「毎晩毎晩、アル君が出てきて私の目の前で怪物になって死んでいくの。何回も、何回も」
アニス様はまた蹲る。何もしてやれない私はただアニス様を見つめることしか出来なかった。いつもなら、ただ泣いてすぐに元気になるはずなのだが、今回は違う。王女としてではなく、一人の人間としての問題だ。私が首を突っ込んでいい問題じゃない。それでも、何かしてあげたいと思うこの中途半端な気持ちは捨てきれない。
「でもさ、ティルティ……」
「何よ」
「一回だけ、悪夢を見ない日があったんだ」
「……それって……」
私の投げかけにアニス様はハイライトのない瞳でこちらを向いてゆっくり口開いた。
『ティルティと、キスした時』
驚いて目を見開いた。
その時、体に何かが貫通する感覚を覚えた。
まるで大きな槍に貫かれたような感覚。
遠ざけたかった光がこちらを向いている。
汚してはいけないものがこちらを向いている。
「ユフィとなんて毎日してるし、それ以上の事もしてる。それなのになんでだと思う……?」
密かに望んでいた“それ”は、お互いにとって最悪な状況で叶ってしまった。なんの“呪い”なのか、なんの“毒”なのか。考える暇もなく、ただゆっくりと近づいてくるアニス様を私は止められなかった。
…………
雨の降る窓の隣でイリアはアニス宛に送られてきた手紙とは別な手紙を読んでいる。自分宛に送られてきたその手紙にはティルティからの言葉が綴られている。
「承りました。ティルティ様」
イリアは手紙を閉じると、ユフィリアへの紅茶を用意して部屋を出た。
…………
「んっ……ふ……っ……あ……んっ……」
ソファの上に押し倒されて、噛むように唇を押し付けられる。抵抗するにしてもアニス様の力が強い。腕を払えず、そのまま受け入れるしかなかった。
「っちょっと! アンタ、なにして───」
「ティルティだっていきなりしてしたじゃん」
「あれはっ……」
「なんだって一緒だよ」
「ば、まっ……んっ」
言って、アニス様はまた唇を押し付けてくる。
またあの時みたいに“甘い”キス。口内を舐められて、歯型をなぞって、逃げる腰を引き寄せられて、全て飲み込まれるようにアニス様は私を貪る。
してはいけないことをした罰なのか、それとももっと違うものなのかは分からない。それを堪能するにしてもこの状況は最悪だ。気分も、身持ちも、全部違う。
「っは……ティルティってこういう時奥手だよね」
「状況が悪いって言ってるの。それに……」
「?」
「アンタ達みたいに上手く生きてきた人間じゃないのよ、私は」
「私だってそうだよ。キテレツ王女なんて呼ばれたりしてさ、周りから迫害されてたし。上手く生きれてないよ」
「でも今のアンタには……っ……」
口にしていい言葉なのか。分からなくてまた迷う。この状況で他の女の名前を出すのはダメなのだろうか。普通なら他の人は止める。言い放とうとアニス様の目を見ても、暗く堕ちている。頭がぐちゃぐちゃで混乱している。何が正しいのか何が悪いのか分からない。そんな中アニス様は私にトドメの一撃を刺してくる。
「私、ティルティとなら、いいよ?」
「っ……!」
体に悪寒に似た何かが走った。
気づけば私はアニス様を押し退けていた。
「ふざけたこと言わないで! アンタのその甘ったれた優しさが私にとって、どれだけ……!」
“毒”だったか。
「どれだけ……!」
“呪い”だったか。
「っ……」
別に痛まない頭を抱えて、零れようとしてる涙を隠して、私はまた後悔する。
「ごめんね……ティルティ……」
そんな私の頬に手を添えて、アニス様は私を見下ろす。
その瞳は何かを諦めていて、全てを投げ捨てているようで、見たくないものを見てきなような。昔の私に似ている瞳だった。
「私と、一緒にダメになっちゃおうか」
嗚呼、私はその瞳の色を知っている。私の知ってる闇の色。暗く哀しい、堕ちた色。
救われなかったのは、私の方だ。
救えなかったのは、私のせいだ。
頬を撫でる手は冷たくて、見つめる瞳は濡れていて。
ゆっくり、落ちるように解かれていく私のドレスとアニス様の胸元のリボン。倒れる様に被さったアニス様の堕ちた瞳に逆らえず、私はただ向かってくる体温を受け入れるしかなかった。
…………
「ユフィリア様。そろそろ休憩になさいませんか?」
「え……あぁ、そうですね。ありがとうございます。イリア」
「レイニ」
「あ、はい」
「貴方は少し下がってください」
「わ、分かりました」
イリアに言われるがまま、レイニは部屋を出た。そして時刻を見ればもう夕方。さっきからずっと時間を忘れて、黙々と業務をこなしていた。
「あまりご無理はなさらないでください。アニス様も万全ではありませんので」
「すみません。ちゃんと切り替えないと、アニスの事ばかり考えてしまって」
見つめる紅茶の水面には少しやせ細った私が写っていました。今の私はこんな顔をしているのですね。とても人前には出せない顔。早く、アニスに何があったのか聞かないと。
「アニス様とは最近あまり良くないように見えますが……」
「えぇ、私が悪いのだと思います。アニスには何も隠さないで欲しいと言えなくて……」
「最近のアニス様のご様子。何かあるとは思いますが、ティルティ様から届いたお手紙をご覧になりますか?」
「え……?」
言いながら、イリアは私の目の前に手紙を差し出した。
「いいのですか?」
「元々。貴方様にもお見せするつもりでしたが、アニス様の部屋から持ち出すのに手間取りました。この手紙の中に今のアニス様の容態が書いてあるのかと。私も勝手にアニス様の手紙は覗けませんので、ユフィリア様がご確認ください」
「イリア。私の為に……でも、この手紙は開かないでおきます」
「……ユフィリア様」
ここまでアニスを追い込んだのは私の甘さなのです。だから、私は私自身でちゃんとアニスと話をしたい。何かを介さず、ただ真っ直ぐと。そうする事が今の私の成すべきこと。
「ごめんなさい。イリア、私の為に用意してくれたのに」
「謝る必要はございません。ユフィリア様がそう決めたのであれば私はそれで構いません。アニス様の身を案じているのはユフィリア様だけではありませんので」
「そうですね。私もそう願います」
イリアは小さく息を吐くと、私の目を見据えて口を開きました。
「私は姫様のメイドです。姫様が何処まで行こうと、どんな状態になろうと、ただお傍に居て、着いていく存在。姫様がどんな答えを出そうと、どんな道を歩もうと、私はそのままただひたすらに真っ直ぐとあの人の背中を追うことしかできません。ですから、ユフィリア様。どうか──────」
「えっ、イリア!?」
この時、イリアは私に対して深々と頭を下げました。そんな様子のイリアは見た事がない。私は戸惑いました。
「どうか、姫様をお救い下さい。我儘になれと言ったからこそ、姫様は我儘を言えなくなってしまっている。きっと、私達の“気持ち”がそうさせているのかも知れません。だから、どうか姫様を───」
「イリア……」
イリアのその声に悲しさを感じ、心配を感じて、改めて、私がやるべき事を思い出させてくれました。
「えぇ、必ず。私もアニスを救いたいですから……!」
「よろしくお願い致します。ユフィリア様」
…………
「そろそろ帰った方がいいんじゃないの?」
「ん……」
乱れたベッドの上で、アニス様はまだ布団に隠れている。超えてはいけない一線を超えて、私はなんとも言えない気持ちになる。とりあえず服を羽織って、私に背いて寝ているアニス様の横に座る。
「ユフィリア様も心配するわよ」
「別にいいし……」
子供か。
いつの時代も変わらないなこの人は。イリアと喧嘩した時も確かこうやって帰りたくないと駄々を捏ねた。あの時のイリアの心配した顔が目に浮かぶ。辛い事も悲しい事も嬉しい事も、それなりに私も一緒に携わってきた。アニス様の泣き顔はよく見ていた。実験に失敗してぐちゃぐちゃになった泣き顔も、イリアと喧嘩した時のむんつけな泣き顔も、全部。そうやって泣きついてくるのは決まって私だった。そして泣きついてきた時に必ず言うセリフがある。
「ずっとティルティの所にいる」
「ちょ……」
ついに言いやがったこのダメ王女。
今となっては完全に浮気した男が言うセリフを吐いて、より布団に蹲るアニス様。私はそんなアニス様を宥めることしか出来ない。むんつけているのか、ただ何かを見たくないのか、ずっと蹲るアニス様の頭を撫でる。
「……」
そこで私も、もうどうでもよくなったのか。自分でも信じられない事を言ってしまった。
「じゃ、本当に逃げてみる?」
「…………え?」
振り返ったアニス様はさっきとは違う、抜けた声を出して驚いたのか目を丸くしている。
「ここから、もっと北の方の国に魔力を封印できる魔物の魔石があるって聞いたことがあるわ。気休め程度でしょうけど、効果はあると思う。…………っていうを名目で国から遠ざかるって方法もあるわよ」
我ながら、雑だと思った。魔物の魔石のことは本当だが、その北の国に辿り着くまでに何ヶ月かかるか分からない。だから、そのまま王国から消えるのもアリだと思った。
「それ……ティルティも一緒……?」
「当たり前でしょ。もう全部嫌なんでしょう? 私だったら、一緒に消えても何も問題ないと思うわ。それとも、私じゃご不満かしら?」
アニス様は見開いた目を少し伏せると、私を手を握り返してきた。
「じゃあ……そうしようかな。皆から離れられるならティルティと一緒ほうがいいや」
「なら、明日出発ね」
「え。早くない?」
「とっとと出てったほうが良いでしょ、明日王宮まで行くから」
「バレないで侵入できるの?」
「私を誰だと思ってるのよ」
何度も王宮には出入りしてる。警備が薄い所だって把握してる。離宮へ不法侵入するぐらいなら私でも出来る。
「わかった。じゃあ一旦帰る」
「はいはい。バレないようにね」
「うん」
アニス様は起き上がると、服を着て帰り支度を始めた。
「ティルティ」
「ん? 何よ、アニスさ───」
これで唇を塞がれたのは何度目か。満足そうに離れたアニス様の顔は私にはよく見えなかった。
「明日ね」
「えぇ」
言って駆け足で王宮へ帰って行った。
…………
「ただいま〜!」
「お帰りなさいませ、アニスフィア様」
「お帰りなさいませ」
アニスが離宮へ帰ってきた。私より少し遅めに帰ってくるのは珍しいこと、だから少し気がかりでした。でも、今朝のように暗い雰囲気でもなく、いつも通りのアニスでした。
「おかえりなさい、アニス、後でお部屋にお邪魔してもよろしいですか?」
「え? あ〜……ごめん。今日はもう疲れてるから寝させて欲しいな〜」
「え……」
プツン、と私とアニスの間の糸が切れたような感覚でした。今まで断られることがなかったからつい声が漏れてしまった。何気ない言葉なのは分かってはいるのだけれど、強く押し退けられたような感覚にも近かった。
「そう……ですか……」
「うん、ごめんねユフィ。明日は相手するから〜」
そう言って部屋に戻って行った彼女の背中はまた遠い。遠くて遠くて仕方ない。すれ違った時に漂った別な女の香りを漂わせ、私はまたアニスの背中を見送るだけだった。
…………
バタン。ガチャン。
部屋に入るなり速攻で鍵を閉めて、布団に丸まった。誰も入ってきて欲しいくないから。明日はティルティと一緒に逃げるから。これでようやく悪夢から開放される。国の事もアル君の事も背負わなくて良くなる。この刻印からも開放される。私はこれでいい。これでいいんだ。最初からこうするべきだったんだ。何も迷わなくてよかった。
それなのに──────。
「っ……あれ?」
私の足元に雫が一つ零れた。なんの水分だろうか。私には分からない。後悔なんてない。私は私のしたい事をしている。それなのに目から溢れてくる“これ”は何だろう。私はこれから皆を裏切る。何かも捨てて国から消えていく。ティルティと一緒に。それが私の幸せ。それが私の望み。そのはずなのに。
「ひっ……うっ……ぐすっ……」
止まらない。溢れて止まらない。
後悔はしていないはずなのに。
なんで、私は──────。
…………
「ん……」
目覚めれば、夜は開けていた。時計を見ればまだ朝の五時。皆がもう少しで起きてくる。慌てて窓を見ると、ティルティはそこに来ていた。木の影で隠れている。慌てて、自分の持ち物だけ身につけて、窓から飛び降りる。
「ティルティ!」
「し、静かになさい、アニス様。バレたら面倒よ」
「っあ、ごめん」
慌ててパッと口を自分で塞ぐ。それがウケたのかティルティは笑みを零した。
「本当に行くの?」
「うん。ティルティが一緒なら、何処へだって」
あの時とは違う。今度はティルティを攫っていく。差し出した手を握ってくれたティルティを放棄に乗るように促して、私も箒に跨った瞬間。
「──────アニスフィアッ!」
聞きたくない声が聞こえてきた。誰が呼んだのか。見つからないように出ていくつもりだったのに。振り返りたくないから、そのまま私は答える。
「お待ちください。また魔物狩りですか?」
「あ〜……うん。でも、大丈夫だから。今回もギルドからの依頼だから」
「昨日も、一昨日も、その前の日も、貴方は魔物を狩り尽くす気ですか。それになぜティルティがそこにいるのです!」
「違うんだよ、ユフィ。魔石が欲しいんだ。次の研究で必要だからさ……」
「嘘を言わないでください! ティルティ、貴方はアニスを──────」
「やめてッ!」
そして、ティルティを連れ去ろうとしたその腕を弾く。
「大丈夫、大丈夫だから……ユフィ」
「ユフィリア様。これはアニス様が望んだ事なの。今回の問題は貴方では解決出来ないわ」
「そんなもの、やってみなければ分かりません! アニス、事情を話して、貴方に何が起こっているのですか?」
「いいから、ユフィには関係ないから……」
いくらなんでも、長引かせ過ぎたか。バレる前にとっとと解決する問題じゃないってのは分かってたけど、ここまで長引くとは思わなかったから。
ユフィの“その気持ち”が一番辛い。
当たり前のように与えられてきたからこそ、感じたくないものへと変わってしまった。
私の刻んだ刻印の力は強力だ。それ故に必ずデメリットが現れる。今回のこの悪夢も呪いの一種。でも、ティルティにすら完全に解決出来ないもの。
だから、私一人で解決しないといけない。
だから、ユフィには頼らない。頼れない。
「ッ……!」
黙ったままユフィを追い抜こうとするけど、ユフィは諦めずに私の目の前に立つ。
「いいから、退いてユフィ」
「いいえ、退きません」
「いいから、退いて!」
「いいえ!」
「ッ───退けよ!!!」
私は叫んでしまった。そのせいでドラゴンの刻印が活性化。焼け付くような感覚と高ぶった魔力。放出されること無かった魔力が大量に吹き出して、炎のように燃え上がる。刻印が進行した結果。私の体にはこんなにハッキリとドラゴンのも魔力を使えるようになってしまった。
それでも、ユフィは一歩も引かない。あの時みたいに私の前に立ちはだかる。
「私は、これ以上貴方に傷ついて欲しくない!」
「私は、自分で解決したいのッ……! この悪夢から逃れたいの!!」
「何故、私に言ってくれないのですか!」
「私は、もうっ……ユフィに迷惑をかけたくない!」
手に入れたんだ。ようやく手に入れた私が私でいられる場所を。だからこそ、私はその居場所を壊したくない。笑顔でいさせてくれるなら、君を笑顔で居させたい。もう絶対に間違えたくない。そんなことをして失いたくない。そんな居場所を。だから、その居場所を失った時の苦しみを味わいたくない。ユフィの“その気持ち”に溢れた居場所を。
「私は貴方の全てを迷惑だなんて思わない!」
「“それ”が辛いって言ってんの!」
「それでも、受け入れてもらいます。貴方と私はまだ弱い。だから二人でこの道を歩こうと決めたではありませんか」
ユフィの“それ”が痛くて。怖くて。
触れたらそのまま、戻れなくなりそうで、辛くて。
「それでも、今回は譲れないよ。ユフィ。私は私だけで解決する。もう皆に甘えていられない。今私は、私自身を信じられないから……」
「えぇ、そうでしょうね。ですが、私も譲れません。パレッティア王国の王女としてではなく。ユフィリア・フェズ・パレッティアとして……!」
私はセレスティアルを握る。
「だから……」
「だったら……」
ユフィはアルカンシェルを構える。
「力ずくででも。貴方を納得させます!」
「やってみなよ。出来るもんならね!!」
私とユフィは踏み込んだ。
またあの時みたいに。
お互いに譲れないものの為に。
…………
飛び立ったユフィリア様とアニス様を見届けて、私は呆然とそこに立ち尽くしていた。
「ティルティ様!」
さっきの轟音を聞きつけたイリアが小走りで寄ってくる。少し顔は焦っているようだが、慌てている様子は無い。私の手紙の通りにやってくれたようだ。
「お二人は……?」
「成功よ。悪かったわね。面倒な役を押し付けて」
「いえ、これが私の務めですから」
「そうね。そうだったわ」
イリアの一言に鼻で笑いそうになったが、今はそんな事を言っている場合ではない。今はあの二人を最後まで見届けなくてはいけない。
「それじゃあ、ここでの待機を頼むわ。私はあの二人の様子を見に行くから。おそらく二人とも無事じゃないはずだからそれなりの用意を」
「承りました。どうかお気をつけて」
「ええ」
二人が飛び立った方向へ私は歩を進めた。
…………
互いに刃を交えつつ、私はユフィに誰もいない湖畔へ吹き飛ばされていた。
「がぁっ!」
水面を水切り石の様に叩きつけられて跳ね回る。そこから足場としてマナ・シールドを展開、何とか体勢を立て直して、次の攻撃に備える。
「はぁっ!」
そしてやってくるのは虹の翼を羽ばたかせた、ユフィの高速の刺突。
「ぐっ!」
セレスティアルでそれを受け止める。勢いと鋭さを乗せた一突き。なんとか直撃は避けたが、とんでもなく一撃が重い。
「確かに最初はそれしかないかも知れませんっ! それなのに────」
「っでも違う!!」
アルカンシェルを払い、ユフィを弾き返す。打ち上げたユフィを追うように私もドレスに魔力を通して翼を広げ追いすがる。そこから袈裟斬り、弾かれたから、そのまま体を回転させて切り上げる。その斬撃で距離を離された。魔法を使わせない為にもさらにユフィを追いかける。
「それでも、私は、一人でっ……!!」
「“そんなもの”をっ……! いつまで一人で背負うつもりですか!!」
何が“そんなもの”だ! 私にとってアル君もこの呪いも大切なものだ! だから、一人で向き合いたかった。立ち向かいたかった。この悪夢に。
「こンのっ!」
「ぐっ……!」
ユフィは受け流すのが得意だ。私のセレスティアルの斬撃を正面から受けず、魔力の刃が滑り落ちるように受け流す。一度返されれば距離を離される。そしてまた追いすがる。それの繰り返し。空中での身のこなしも格段に上手くなっているユフィを捉えるのは至難の業。それでも、私はやらねばならない。譲れないものがあるのだから。
「やぁぁ!」
今度は捉えた。私のセレスティアルはしっかりユフィのアルカンシェルを叩く。
「このッ……!」
一度足を止めればこちらのものだ。空いた左手に刻印の魔力を集中させて至近距離で照射砲撃のように解き放つ。だが、ユフィも見逃さない。紙一重で照射を避けて、私の腕を掴む。
「はっ!」
「っあ!?」
そのまま背負い投げの要領で水面の方へ投げ飛ばされる。
「くっ……!」
私はなんとか翼を羽ばたかせて体勢を直して水面上ギリギリで受身をとる。迫るユフィを迎撃すべく、セレスティアルとは別のマナ・ブレイドを取り出して、魔力を通して刃を展開し二刀で構える。
「やってくれるね……」
ユフィは水面を滑るように降り立つと、アルカンシェルの鋒を私へ向ける。
『“ウォーターカノン”!』
ユフィが唱えると、湖の水がアルカンシェルの鋒へ収束、高出力の水の砲撃として発射される。
「あぁぁっ!!」
だが、そんなものは関係ない。発射された水の砲撃をマナ・ブレイドで叩き割るように切り開き、ユフィへ向かって水面を駆け抜ける。
「なっ!?」
さすがにユフィも予想外だったのか、一歩遅れてガードの体勢へ。
「ぐっ!」
セレスティアルで切り抜けた。けど、アルカンシェルで防がれた。ユフィもすかさずアルカンシェルの鋒を向けて水の砲撃を放つ。私だってそれぐらい読める。だから、既にユフィの背後に回り込んで剣を振るう。
「はっ!」
真後ろを取ったはずなのに、それでもユフィは反応して私のマナ・ブレイドを弾く。
「く───そ!」
勝てない。やっぱり勝てない。ユフィには何にも勝てない。私が使えない魔法を使えて、私の欲しいものを持っていて、それなのに、私を助けてくれる。私の存在価値がまた無くなって私が私じゃなくなって、また消えてゆく。心が壊れそうになって、ティルティに縋り付いて、ようやく私がそこにいる。なら今この体を動かしているのは誰なんだ。
私みたいで、私のようで、私じゃない。
刻印が痛む。酷い痛みで体が悲鳴をあげている。まるで、龍の雄叫びのように。
頭が痛む。魔力を使う度に蘇る。
アル君の悲しそうな顔が。
アル君と共にすごした記憶が。
「あぁぁ!」
「なっ!? くっ……!」
ぼさっとしているとやってきたのは風を纏ったアルカンシェルの一撃。セレスティアルとマナ・ブレイドで防ぐので精一杯でまた吹き飛ばされる。
ユフィはいつもそうだ。いつだって私の目の前にいる。
どんな時も目の前に居てくれる。目の前に立ち塞がる。いつも。どんな時だって。
いつもいつも。
いつもいつもいつも。
いつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつも!!!!!
…………
「っあああぁぁあああぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁ!!!!!!!」
アニスフィアは湖から這い上がると、刻印の魔力を解放した。ドレスから魔力を通して生成している翼もドラゴンのように醜く形を変え、舞い上がる。そしてドラゴンの火球に似た魔力の塊を円状に幾つか形成。それらを順々にユフィリアに向けて射出する。
「くっ……」
ユフィリアも上手く身を翻してそれらを避けていく。着弾した水面が蒸発している。
回避に専念しているユフィリアは隙だらけ。アニスフィアはすぐさま追いすがり、セレスティアルとマナ・ブレイドを振り下ろす。ユフィリアもアルカンシェルにマナ・ブレイドのような魔力の剣を形成。アニスフィアの斬撃に備える。
「そんなのでッッ!!」
刻印の魔力を宿したセレスティアルとマナ・ブレイドの斬撃は重く鋭いもので、ユフィリアも受け止めるので精一杯で踏ん張れない。
「っらあぁぁ!!」
「ぐぅっ!」
殴り飛ばされるように弾かれて、ユフィリアは水面の方へ叩き落とされる。なんとか身を翻して体勢を立て直し水面へ着地する。再度虹の羽を羽ばたかせアニスフィアへと飛び立つ。
アニスフィアは自身の瞳の瞳孔を龍の様に尖らせると醜く歪んだ龍の翼を広げる。翼からは鉤爪状の魔力の刃が形成される。
「喰らえ!」
翼を閉じるように翻すと鉤爪が射出される。
「っ!」
向かってくる鉤爪を迎撃するべく、アルカンシェルに再び魔力の刃を形成。蛇のような軌道で飛んでくる鉤爪をアルカンシェルで弾き、アニスフィアへ距離を詰める。
が、アニスフィアが再び目を尖らせると、いくつかの鉤爪が軌道を変える。ユフィリアの後ろに回り込み始めた。
『“ウィンドカッター”!』
ユフィリアが唱えると、ユフィリアの背中に迫っていた鉤爪を風の刃が切り裂いた。アルカンシェルで弾いた鉤爪も“ウィンドカッター”が全て切り裂いた。
「っ……クソッ!」
全て迎撃されたのを確認すると、
アニスフィアはセレスティアルを。
ユフィリアはアルカンシェルを。
互いに振り抜いて肉薄する。再び、セレスティアルとアルカンシェルの斬撃。鍔迫り合いで魔力の火花が激しく散る。
「ぐぅぅぅぅぅっ……!」
「っぁぁぁぁあああああああ!!」
アニスフィアの気迫に押し負けようとしている。アルカンシェルにとって魔力の塊とも言えるセレスティアルの刃を防ぐにも限度がある。鍔迫り合いをしている最中にも、魔力の供給は止まらない。止められない。ほんの少しでも緩めたらアルカンシェルがへし折れる。
(っ……?)
そこでアルカンシェルへ魔力を注ぐことに集中しているユフィリアの脳裏に誰かの面影が浮かぶ。
『ユフィリア』
そこに浮かんだのはアルガルドだった。その面影と一緒に流れ込んでくる誰かの記憶。小さなアルガルドと誰かの目線。アニスフィアの記憶だ。共に遊び、共に学び、共に生きた記憶。セレスティアルから漏れ出た魔力のせいか、それとも今自分達の魔力がぶつかり合ってるせいか。その時のユフィリアには分からなかったが、その記憶を見てユフィリアはアルガルドに託されたものを思い出した。
『姉上を頼む』
自然と体に力が入り、魔力の流れが加速する。
「はぁぁ!」
「っあ!?」
精一杯アルカンシェルを振り抜くとアニスフィアは弾き飛ばされ叩き落とされる。大きな水飛沫を上げて、水上へ着地する。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
「はぁ……っ……はあ……」
互いに肩で息をしながらも睨み合う。アニスフィアはゆっくりと立ち上がり、砕け散ったマナ・ブレイドを捨てる。
『“ドラゴンクロー”……!』
アニスフィアが唱えると、セレスティアルから禍々しい龍爪が現れる。そして横に薙ぐように持ち直すと、その龍爪は収束し一つの赤黒い剣と成る。
『──“アルカンシェル”』
ユフィリアがアルカンシェルを掲げ唱えれば、虹の羽は大きく広がった。七色に輝く羽がアルカンシェルの刀身へ巻き付くように集まっていく。振りかざせばそれは虹色の剣と成る。
「「っ───!」」
二人は翼と羽を羽ばたかせ全く同時に向かい合う。
「はァァァァ───!!!」
「あああァァ───!!!」
ユフィリアは袈裟斬りで。
アニスフィアは切り上げるように。
二人は魔力の刃を交える。
…………
いつぶりだろう。こんなに全力でぶつかりあってるのは。ユフィが私を王にしたくないと言った時以来かな。もうわかんないや。戦えばアル君の事を忘れられると思って、ずっとそうしてた。だからギルドに言って魔物退治をずっとこなしてた。でも実際は逆だった。魔力を使えば使うほど、アル君の記憶は蘇るばかり。背中の刻印も痛み続けて、私はどうしたらいいか分からなくて。
私にはもう何も無くて───。
「アルガルド様は、私に貴方を託してくれた!」
「っ!?」
託した……? アル君が……? 私を……?
突然のユフィの一言に私は動揺してしまう。
「その呪いが苦しいのなら、私が共に背負いますっ! だからもう……一人で苦しまないでっ! ……アニスフィア!!」
「っ!? ……なっ……あっ……れ?」
動揺したせいで魔力が乱れた!?
ユフィのアルカンシェルが一際大きく輝きを放ち、セレスティアルの魔力の剣は砕け散った。龍の翼も消え、浮力の無くなった私はそのまま湖に落ちてゆく。
「っ、しまっ……!?」
魔力の翼の展開が追いつかない。もがいても落ちていく体は逆さまに、空から落ちていく。
大きな水飛沫を上げ水面に叩きつけられた私はギリギリでマナ・シールドを背中に展開して簡単な浅瀬を作り、湖に沈むのを防いだ。シールドに叩きつけられた体が痛い。セレスティアルに魔力を注いだからほとんど残ってない。
それでも、まだ負けてない……!
私はまだ、負けてない……!!!
セレスティアルを握り、立ち向かおうと顔上げたそこには───
「っ……!」
「はぁ……はぁ……はぁ……」
ユフィのアルカンシェルの鋒が私の目の前にあった。
「……私の勝ちです。アニスフィア」
負けた。また、負けた。やっぱり勝てない。ユフィには絶対勝てない。
空を仰ぐように倒れると、体の疲れがやって来た。セレスティアルを握る手が緩んで、それと同時に視界も滲んできた。
どうしても、私はユフィに届かない。
人としても、実力も。
開け放たれた青い空が地に落ちた私を風で嘲笑う。湖の水は冷たくて、心も冷えきって。頭も冷静になってきた。また自分勝手になって、暴走して。最悪だ。傷つくのが怖くて、傷つけるのが怖くて、周りを避けていた。
本当に……。大人になりきれない子供だ。
今までの自分の行いを悔いて、私はまたユフィに負けた。
「終わったみたいね」
「っ、ティルティ!」
様子を見に来ていたティルティがやって来た。ユフィもアルカンシェルの鋒をそちらに向ける。
「貴方という人は……っ!」
「待って、ユフィ」
「何故ですか、アニスフィア!」
魔力を込めたアルカンシェルを静止させて、私はティルティの方へ顔を向ける。
「これで、正解? ティルティ」
「ま、その様子ならね」
「何を言ってるのですか、貴方達は……?」
肩を竦めるティルティを見て私は自分を鼻で笑う。状況に置いていかれたユフィが少し面白い。まぁ、それは追追説明するとして、色々疲れた私はそこで眠るように意識を手放した。
…………
「っ! ……姫様!!」
ユフィリア様がアニス様を連れ帰ると、待機していたイリアが早々に出迎えてくれた。さっきはよく見なかったけど、やっぱり焦っていた。よほど心配していたのだろう。ユフィリア様から気絶したアニス様を受け取るとすぐさま部屋へ運んだ。
「ユフィリア様もまずは治療を……」
「えぇ、ですがそれよりも……」
レイニの言葉も聞かずにユフィリア様が私を睨みつける。まぁ、無理もないわよね。こんな事になったんだから。ズカズカと荒く私に近づいてくるその眼力はかなり力強いものだった。
「ティルティ、今回のアニスの症状の原因はなんですか? 貴方はまるで分かっているようでした。だからアニスの事も助けられたのでは無いのですか? イリアも何やら協力的でした。貴方が何か仕込んだのではないのですか?」
「……」
そういえばユフィリア様には説明していなかった。聞いてくるってことはアニス様に送った手紙も見ていないらしい。思い出したように喉を鳴らすとその真剣な顔に、私は口を開いてしまった。
「仕込んだ……という程ではないわ。イリアにはただユフィリア様を焚きつけるように動いてもらっただけよ」
「焚きつける……?」
「アニス様から習った事があるとは思うけど、放出されない魔力が人の中に溜まり続けるとどうなるか覚えていらして?」
「確か……魂の根腐れのようなものが起きて、精神的に不安定になったりすると、教えられました」
「そ、今回のアニス様の症状はそれが“刻印の規模”で起きただけ」
「なっ! た、たったそれだけ!?」
へぇ、そんな反応もするのね。
ユフィリア様はその眼光とは裏腹に前に踏み込むほどに驚いた。やっぱり分かってなかったか。私にとっては無理もないと思う事だった。
「だから、魔力を大幅に消費させる必要があったのよ。一度アニス様の容態をリセットするためにね」
「なっ……っ……」
「それでも、幻覚や悪夢、精神的にアニス様を蝕んだ。普通なら軽い鬱病みたいになる程度だけど、まさかあそこまで酷くなるとは思わなかったわ。刻印の魔力は相当扱いに注意しないとダメね」
「なぜ、そんな事が?」
「王政の業務に慣れない仕事。自分との葛藤、それのせいで放出されなかった魔力の蓄積もあり、ああなったんだと思う。よく話してた弟さんのことはあまり知らないけど、思い悩むほど酷いことがあったんでしょう」
「アルガルド様……」
ユフィリア様は俯いた。その名を出したユフィリア様の表情はとても暗い。
なるほど、今回の原因の一番は“弟さん”か。
「意外と単純なのよ、仕組みとしては。人間だもの。ほんの少しの心の変化で色んな方向に傾いていくわ」
「で、でも、魔力は私に渡していたはずでは……」
「表面上はね。刻印に宿っているものは恐らく取れてなかったんだと思うわ」
「なぜ、ティルティにはそれがわかったのですか?」
「……」
言うしかないのだろうか。あんまり言いたくはない。決していい事とも悪い事とも言えない間の状態だったから。それでも、言うしかなかった。言わないと私は先へ進めないだろうから。
「調べたのよ。“ユフィリア様と同じやり方”でね。申し訳ないとは思ってるけど」
「そ、それって……アニス……と?」
少し唖然としたユフィリア様。少し笑いを誘ったけど、私は正直に話した。
「まぁ、一応ね。ほんとに悪いとは思ってるわ」
楽になった訳では無いだろうけれど、今回で当分刻印の悪影響は無くなるはず。上手くいけば、だけどね。
「それで……アニスは……」
それでも、今回のせいで王宮にもユフィリア様個人にも酷いことをした。関係を歪ませかねない酷いことを。
「……」
ユフィリア様の暗い表情を見ると罪悪感が湧いてくる。調べる為とはいえ、アニス様の体を汚したのは事実。
やっぱりちゃんと謝罪しておくべきなのでしょうね。
「ユフィリア王女陛下」
「え……なっ……ティルティ!?」
私は改まったように気味の悪い声を出し、陛下の御前の時のようにひざまづいた。
「この度の非礼。深くお詫び申し上げます。つきましては、どのような罰も謹んでお受けするつもりです」
「そんなっ……何を言って……」
「此度の件、貴方様にかけた多大なご迷惑は、私が償っても償いきれないものだということは重々承知しております。だから──────」
「顔を上げてください。ティルティ・クラーレット」
「……?」
その慈悲深い声に思わず本当に顔を上げてしまった。そこにあったのは怒りでも悲しみでもない。月夜の様に優しい。静かなユフィリア様の笑顔だった。
「どうして貴方にそんな事が出来ましょうか。1番の貢献人は貴方です。ティルティ」
「え……」
「不安定になったアニスを留め、受け止め、救い、手を差し伸べてくれた。私には一つも出来なかったことを貴方は全てやってのけたのですから、何も咎めるような事などありません」
「許すっていうの……?」
「はい。私は貴方を許します。だって貴方は、幼い頃からアニスを助けてくれた、魔法使いの一人ではありませんか」
「っ……」
なんともまぁ、心の広い人。私には到底真似出来ないかもね。それとも、正妻故……かしらね。あんまりいい思い出はないけど、確かにアニス様と過ごす時間だけは私も楽しかったし、嬉しかった。だから、なにかしてやりたいって言う中途半端は気持ちも、きっとそこから来ている。だったら、私の願う事はきっと……。
いや、そんな事はもうどうでもいい。今のアニス様にはユフィリア様がいるのだから。
「なら、これからも今まで通りにさせてもらうわ」
「はい。わかりました。ですが、もう1つ教えて欲しい事があります。これからのアニスについてですが、刻印の影響はあるのですか?」
「さぁね。そこら辺はアニス様次第よ。貴方達の精霊の力と違って、刻印の力は本能から来るものに近いから、あの人の心境次第になってしまうわ。後ろめたく思うのも、後悔して生き続けるのも、あの人次第」
「……」
また、暗い顔。表情がコロコロ変わるのと見ものだが、今のアニス様を救えるのはユフィリア様だけだ。私はただきっかけを与えたに過ぎない。
「ここからは、貴方の仕事よ。ユフィリア様」
「私……?」
「アニス様を救えるのは貴方だけよ」
そう。私じゃ、アニス様を救えない。これは、私の出る幕では無くなったのだから。
…………
「アニス」
「ぁ……ユフィ……」
部屋へ戻ると目覚めていた貴方はベットで膝を抱えて蹲る姿は相変らずで、なるべくいつも通りにアニスの隣に座る。そうするとアニスは私の方を向いては背き向いては背くの繰り返し。目の合わせ方も忘れてしまったかのように。
「ティルティは……?」
「お帰りになられました。また後日謝りに行きましょう」
「うん…………。ねぇ、ユフィ。ティルティから、全部聞いた……?」
「っ……」
私は一瞬言葉に詰まってしまった。簡単にハイと頷けばそれで良いのですが、どうやら、この方も少し気にしているようで。アニスは時々こうやって自分を忌み嫌うように拗ねる時がある。
「はい。全て聞きました。貴方の刻印の異変も、ティルティの所へ行ったことも。それでも、私は気にしていませんよ。今日はもう、お休みになりますか? アニス」
私が問いかけると、アニスの顔はもっと曇り出す。
「なんで、怒んないの……」
「……?」
怒る……? 起こるとはなんの事なのでしょう。
私は首を傾げるとアニス顔は今度は怒りに染る。
「ッなんでユフィを裏切った私を怒らないのって言ってんの! また自分勝手になって! ティルティとキスもして……エッチもして! ユフィの気持ちを裏切って……私は……あたしは……」
あぁ、その事か。
1番辛かったのは貴方自身のはずなのに大きな声を出して、瞳を濡らして、零れそうな涙を見せる。アニスは私に本音をぶつけてくれた。確かに本当なら起こる所なのでしょう。でも、私は先にその答えを言っている。この答えだけは揺るがない。私の本心だから。
「私言いましたよね? “私は貴方の全てを迷惑だなんて思いません”と」
「っ……」
「貴方がまた絶望へ落ちるというのなら、私が引き上げます。例え光が届かない場所であっても、貴方が独りになろうとも。必ず」
抱き寄せて、背中を撫でる。縋り付いている貴方は弱々しく、子供のようで。愛おしい。
「“優しく”しないでよッ! “甘やかさ”ないでよッ! 私怖いの! “それ”がッ! ずっと!」
わがままを言う子供のように私を弱々しく叩く貴方はとても幼く、真っ直ぐに見えました。幸せを怖がらない人など居ない。優しさもあの時の激情も、私は全て貴方に向けていた。きっとこの方は、批判を受けながらも耐え抜いて生きてきたからこそ、失う怖さも受け入れる事の恐ろしさも知っている。だから、こんなにも幸せを拒む。忘れてはいけないと光に体を背けて闇へ進んでいく。その刻印がきっとその証拠。アルガルド様の事も、忘れないようにと。
「アニス」
「何さ……ユフィ───んっ」
そんな貴方にどうしても幸せになって欲しいから、私はアニスの唇を塞ぐ。
怒ってないと言えば嘘になる。ティルティに頼った事も、私を置いて行こうとしたことも。意地を張って我慢していただけなのかも知れません。だって、アニスを見たらその体を、ティルティに触れられた場所を私で塗りつぶしたくなったから。優しくしたつもりですが、いつの間にか、アニスを組み敷いていた私は多分必死な顔をしているのでしょうね。
「ほら、やっぱり……怒ってる……」
アニスはすぐに顔を赤くし背けて、別に脱いでいないのに胸を隠すように腕を組む。
「迷惑だと思わないだけです。怒る時は怒ります」
「今そういうタイミングじゃなかったよね?」
「アニスの泣き顔が可愛かったから……では理由になりませんか?」
「…………なるわけないでしょ」
そう言って満更でもなさそうな貴方は素直ではありませんね。
「まぁ、それでも構いませんが」
「ちょ、ユフィ……んんっ!」
再度、被さるようにアニスを塞ぐ。この感触だけは何度味わってもやめられない。
嗚呼、意地汚い女だと思われてますかね。きっと。
それでも、今はこうしたい。ずっと出来なかったことだから。どれだけ意地汚くても、無理矢理でも、ずっと私を避けていたアニスが悪い。その分の埋め合わせは今してもらえばいい。少し苦しそうに漏れる声も、拙く絡めてくる舌も、ちゃんと握ってくれている手も、少し眠たそうに垂れた目も、全部私の所へ帰ってきてくれた。自分で精一杯だった貴方に何もしてやれなかった私は今してやれる事は、こうして重なってあげる事だけ。しかも私利私欲で、最低ですね。最悪でしょう。でも、今は、今だけは許して欲しい。貴方を安心させる方法がこれだと思っている私を。
揺らめく蝋燭の明かりを瞳に写して、今日の私達は互いを汚していく。
…………
「ん───んんっ……!」
アニスフィアの口内を舌でまさぐっていると、腕をバシバシと叩かれる。気づいたユフィリアは自身の舌をズルリ、と引き出すと透明な糸が二人を繋いでいた。
「っはぁ……はぁ……もぅ、ユフィのキスっていっつも長いよね」
「しょうがないじゃないですか。ずっと二人の時間がなかったんですから。これもアニスのせいですよ?」
「わかってる。分かってるけど。激しすぎ。もうちょっと“優しく”してよ……」
顔を赤くして、口元を隠し、身をよじる。そんな薄着で、肌も見えているのに。胸元なんてとっくに開いているのに。そんな甘いネコのような表情をされて、優しくなんて出来るものなのだろうか。ユフィリアは心で考える。まぁ、別に“優しく”出来なくてもいい。それはそれで、いつもの事だ。今は魔力を貰う事よりも、アニスフィアを感じたいという気持ちの方が強い。ティルティにも言われたアニスフィアの刻印の魔力の抑えの部分もある。
「っあ……ん……」
塞いでいた唇から離れ、首筋にキスを落とす。くすぐったくて身をよじるアニスフィアをよそに、ユフィリアはアニスの背に手を回す。刻印に触れ、ほんの少しだけ刻印に魔力を流す。
「あっ───!?」
一瞬アニスフィアの体が跳ねる。何か違う感覚。体の中に何か流れてくるような感覚。触れられ、魔力を流された部分が熱を帯びる。やがてそれは体全体へと伝わってゆく。ティルティが言うには、通常通りに魔力の受け渡しを行ってもダメらしい。ティルティは呪いに関する知識があったから、アニスフィアの刻印の魔力を探り当て、吸い出すことに成功した。今回はそれの逆。刻印から魔力を浮かび上がらせ、それをユフィリアが貰う。というやり方だった。
「ゆ……ふぃ、? なにこ、れ……?」
「ごめんなさい。今は何も考えないで。アニス」
「ぅん……」
ゆっくりと溶かされるように意識が朦朧としていく。それはまるで、“毒”に犯されているように。背中から浮かび上がる熱が鬱陶しい。熱くて堪らない。滲んだ汗を見て、ユフィリアがアニスフィアの服を捲る。しっとりと滲んだアニスフィアの素肌を見ると、ユフィリアはあからさまに音を立てて生唾を飲み込む。いつぶりかのアニスの体。今にも噛みつきたいほどに綺麗はその肌にそっと撫でるように手を添えて、胸元に唇を触れさせていく。
「んっ……ぁ……は……ぁあ……」
ほんのり赤く染ったアニスフィアの体は手に吸い付くように柔らかい。二つの大きな張りも呼吸で揺れている。ユフィリアにもちょっと余裕が無くなりそうだった。その張りから立っている突起に唇を触れさせて、少し吸い込む。
「ふぅ……ん……ぁ、はぁ……っ」
反対の方の突起を指で転がしながら、吸い付いている突起を舌で転がす。何度味わってもこの感触が病みつきのままで仕方ない。刻印の魔力を引き出しているせいか、いつもより“甘く”感じるのも不思議な事だ。
(なんだか……私も……)
いつもより、“甘い”アニスフィアの体を味わっているせいか、ユフィリアもクラクラと熱に浮かされているような感覚。目尻が落ちて、眠いのに眠くない。アニスフィアに触れている部分が熱い。お互いにどうにかなってしまいそうな程に。
「アニス。体、熱くないですか?」
「あつい……なんかからだ……へん、だよ。ゆふぃ……」
口から漏れる吐息は生ぬるく、見つめる瞳は濡れている。雑に脱がされた服を横目に、一糸まとわぬアニスフィアをユフィリアは食らう。
「あぅっ……ん……や、ぁ……ユフィ……こわいよぉ」
首筋に“甘く”噛み付くユフィリアには少し余裕がなかった。久しぶりのアニスフィアの体を堪能するのに必死で無言になってしまう。胸を揉んで、キスをして、抱きしめて。吐息を塗られて、昂って、耳に入ってくるアニスフィアの声が自分を狂わせる。
「ゆふぃ……」
涙目でこちらを見つめてくる。それは、もっと深く触れて欲しいと言い合図になっていた。視線を下へずらせば、アニスフィアの閉じた足から何かが垂れている。ユフィリアはそれを指に絡めると、アニスフィアへ見せつける。
「久しぶりでしたからね。もう、欲しいです?」
「っ……」
アニスフィアは恥ずかしそうに涙目でゆっくり頷いた。ユフィリアは小さく口を三日月に歪めると、アニスフィアの太ももに触れる。
「っん……!」
ビクリ、と体が跳ねるが強く抵抗しない。だが、足はまだ閉じたまま。撫でるように内側へ手を滑らせていく。指先には洪水の感触。割れ目にそって指を進めていく。
「っ……! ん……! っっ……!」
声を抑えているアニスフィアを見ながら、ユフィリアはもう少し、割れ目に指を入れる。
「あっ! ……っぐ……」
割れ目に指が入るとアニスフィアは歯を食いしばる。嫌だという抵抗では無く、ただ単に声を出すのが恥ずかしいだけらしい。腕で顔を覆って身をよじる。
「アニス、足を開けてください」
「待っ……て、なんかいつもより刺激が強、い……!」
「これでもですか?」
割れ目に入った指を軽く曲げる。
「ひぁっ……!」
曲げると同時にアニスフィアが跳ねる。
「ふふっ♪」
曲げた薬指で膣の天井を撫でる。
「っ……んっ……ぐっ……っっ〜〜!」
撫でる度にアニスフィアは唸る。気持ち良さに耐えられず、体が縮こまる。何かを我慢するように。
「我慢、しなくていいんですよ? ほら」
と、ユフィリアは更に薬指を曲げる。
「あっ……ああぁっ───!」
ユフィリアの指の動きに合わせて、アニスフィアの体が上へ反り返る。
「やだぁ……っ! ゆ、ふぃ! それ、刺激が、強い……からぁっ!」
「大丈夫ですよ。ちゃんとそばに居ますから」
ゾクゾク、と溢れ出る悪寒に似た快感。背筋が震えて、暖かさが下腹部から登ってくる。いつの間にか剥かれていた陰核を親指で弄られながら、アニスフィアの膣がユフィリアの指で掻かれていく。
「ふぁっ! ───あ、ぁんっ……うんっ……!」
耳を舐められて、膣を掻かれて、聞こえてくる水の音はいやらしく、まだ慣れない。
「ユフィッ……ゆふぃぃっ……!」
必死にユフィリアの名前を呼ぶ。
達するのが少し怖い。そんな様子で。
「ゆふぃっ……き、す……してっ……!」
「アニスッ……」
「んんっ───!」
唇を塞ぐと同時に、指の動きを早くする。抉るように且つ蜜を掻き出すように。口内を舐る舌が“甘い”ままで、ユフィリアの首に回ったアニスの腕が離れてくれない。
「ッ───!?」
ならここままで。とユフィリアはラストスパートをかける。
「っは、ユフィっ……! それ、すごぃぃ……あっ……! ィ……くっ、イク……」
達しそうなアニスフィアの顔を見て、同時に息を荒くし始めるユフィリア。必死に名前を呼ばれて、求められて、目が離せない。久しぶりの求愛にユフィリアも余裕が無くなった。指の動きは早まるばかりで、アニスフィアも快感を感じるので精一杯だった。
「あぁっ……! ユフィ……! ゆふぃぃっ……! も、もうダメっ……! わた、し……、ィく……い……く……!」
反り返ったアニスフィアは喘ぐだけで、弄るユフィリアもただ荒くなった息を漏らすだけ。
「やぁっ……! も、む、り、無理無理!」
「いいですよ……アニス……!」
「あ゛───! っ、ひっ……ぐっ……っっっ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!」
一際強く指を入れ込むと、それと同時にアニスフィアの体はもっと反り返って、快楽の頂点へ達した。
「っはぁ……はぁ……はぁ……」
反り返った体を伸ばすように息を整えると、自然と瞼が落ちてくる。
「ユフィ……」
「はい。アニス。お疲れ様でした」
額にキスを落とされて。薄れてく意識の中でアニスフィアはゆっくり口を開いて伝える。
「ユフィ……すき……」
「はい。私も愛してます。アニス」
抱き寄せられて、腕の中。安心したように縋り付いてアニスフィアは眠りへ落ちていく。
…………
「ん……」
目を開けると、そこは暗い。暗い。海の底のような場所。闇へ落ちてゆく感覚を味わいながら、私は夢を見る。
また、ここに来たのか……。
また、私は泣いている。独りで。ずっと。
でも、なんでだろう……?
この夢は、少し暖かい。
涙で濡れた私の手を誰かが握っている。
小さくて、暖かな手。
【またひとりでないてるの?】
誰……?
【ひとりのときはずっとないてるね】
だって、私は、アル君を殺そうとした。
だって、私は、ティルティを利用した。
だって、私は、ユフィを裏切った。
悲しい事ばかりで嫌になる。世界が嫌いになる。自分が嫌いになる。それでも、ユフィはこんな自分を好きだと言ってくれた。愛してるとも言ってくれた。それなのに、それに応えてあげられなくて。
【そんなことないよ】
なんで……?
【きみのいきるせかいはかなしいことばかりじゃない。アルくんだってきみをゆるしてあげたんだよ? ユフィにきみをたくしてくれた】
ユフィも言ってた。アル君はユフィに私を託してくれた。それなのに応えてあげられない。ずっと逃げて、ずっと避けて、また“優しさ”を怖がって。
【だから、そんなことないってば。こんどはきみがじぶんをゆるすばんだよ】
自分……を……許……す?
【そう。だからもっとまえむきにいきなよ『生まれ変わった私』なんだから】
『生まれ変わった』……? 何を言ってるの?
【いまはおやすみ。きっとあしたから、せかいがよりきれいにみえるよ】
誰かが言うと不思議とまた“優しい”眠気がやってきた。
私の意識はそこで途絶えた。
…………
ふと目が覚める。浮き上がるように目が覚める。
前とは違う、穏やかな目覚め。外を見ればもう朝だ。少し気だるさはあるが、よく眠れた気がする。隣を見れば、ユフィがいつも通りに静かな寝息を立てて眠っている。
「治っ……た?」
曖昧な表現で私の今を明らかにする。背中は痛まず、気持ち悪い感覚もない。自分の容態を確認すると同時に、自分のしてきた事に呆れてため息を零す。
「やっちゃったな〜……」
自分勝手になって、暴走して、皆に迷惑をかけた。謝りに行っても許して貰えるかどうか分からない。
いやそもそも! 暴走してティルティの家に行って私は何をした!? ティルティにナニをした!? 思い出したくないけど、思い出してしまう!
「おおお〜……マジでティルティに合わせる顔がない……」
羞恥と共に顔を布団に埋める。もやは取り返しのつかない所まで致してたのを思い出して、自己嫌悪。
とりあえず、ティルティには今日とっとと謝りに行くとして。まずは、最初に謝るべき人達がいる。
…………
「今回は本ッ当にごめんなさい!」
出来るだけ深々と頭を下げる。
朝起きて早々、離宮の客間にユフィとイリア、レイニを呼び出して今回の事について謝罪をした。
「そ、そんな! 頭を上げてくださいアニス様! 私は何も知らなかったんですから……」
レイニが少し悲しそうに顔を歪める。
「ユフィから聞いたんだ。イリアもレイニも私のために動いてくれてたんだよね。今回の事は、王女として有るまじき事態。一人の人間としてもダメだった。だからどうか、許してください」
皆の声が返って来ない。唖然としてるのかなんなのか。頭を下げているから分からない。
「お嬢様が元からダメな人だと言うのは分かっていますよ」
「え?」
「ふふっ……そうですね。イリアの言う通りです」
「レイニに知らせなかったのも私の判断です。すみません、レイニ。置いてきぼりしてしまって」
「い、いえ! そんな……イリア様の判断であるならそれで……」
怒らない……のかな?
逆に怒るどころか、皆は私を許してくれた。こんな私をいつも許してくれる。“優しすぎる”よ。皆は。
「今回は魔力の増加による精神の不安定さが招いた結果です。しかも刻印がその原因。まだまだ研究の余地がありますね。アニス」
ユフィはいつみたいに笑いかけてくれる。
「私達にも手伝えることがあれば言ってください。すぐにお力になってみせます」
「はい! 私もアニス様の為に頑張ります!」
イリアもレイニもいつもみたいに励ましてくれる。 本当に貰ってばっかりだな。私は。いつか返さないとなぁ。貰ったもの全部。きっと。
「皆……ありがとう」
誰かが夢で言っていた。今度は自分を許す番。その意味はまだ正直分からない。こんな自分を許しても返ってくるのは堕落だけだ。なら、今やるべき事は、迷惑をかけた人に謝る事。ティルティに自分の考えをしっかり伝える事だ。
…………
「で? 昨日の今日でよく私の所へ来れたわね」
「うぅ……ごめん……」
メイドに呼ばれて玄関まで出向けばそこにはアニス様が居た。菓子折を包んで頭を下げて私への謝罪に来たらしい。
いやまぁ、それはいいのだけれど。ユフィリア様と修羅場を作っておいてよく私の所へ来れたものだ。私だったら一生引き籠もる自信がある。
「まぁ、その様子なら刻印の力も少しは抑えが効いてるみたいね」
「うん……ありがとう、ティルティ。何から何まで……」
菓子折を受け取って、メイドへ手渡す。再度アニス様へ目を向けると、顔を上げたアニス様は酷く悲しそうな顔をしていた。
「なによ、その顔は。解決したんだから、もうちょっと良い顔しなさいよ」
「ち、違うの……! 今日はティルティにちゃんと伝えたい事があって、来た……から」
モジモジと、年端の女らしさを出しながら、何やら言いたい事があるらしい。正直これ以上の爆弾投下はやめて欲しい。もう面倒事はごめんだから。
私がそう考えていると、アニス様は意を決したのか、真っ直ぐ私を見る。
「でも、ごめんティルティ。やっぱり私はユフィのことが好きなんだ」
言われた瞬間豆鉄砲を食らった鳩になってしまった。
意外でもなんでもない一言。当たり前だと思っていた事。そして、ずっと聞きたかった言葉。
だから、私は───。
「っ……ふふっ……っあははははははは!!!」
「えちょ! なんで笑うの!?」
つい吹き出してしまった。
嗚呼、残酷だ。世界は残酷だ。“優しく”なくて、“甘く”ない。私は一人の王女に恋をしていた。その事実を今突きつけられた。自覚してしまった。私はやっぱりアニス様が好きなんだ。どうしようもなく。縋りたいほどに。でも、それは違う。アニス様の隣に居るのは、常にユフィリア様なんだ。そうじゃないと、私が困る。諦められないし、遠目から眺められない。
「何言ってんのよ。当たり前でしょう」
「ぅえ!? 怒んないの!?」
「何を?」
「だっ……て、あんな事までしたの……に?」
「あんなのユフィリア様といくらでもヤってんでしょ」
「ブッ! ちょ、すぐにそいうことを……!」
「あ〜ぁ、私の処女も奪われちゃったしな〜」
「うわわわ! だからそれはホントにごめんってば!」
慌てるアニス様を目で楽しんでいると、後ろからユフィリア様がやってくる。恐らく乗ってきたであろう箒を持ちながら。
「アニス〜! そろそろ時間ですよ〜!」
「は〜い!」
「まさかアンタ……」
「あ、うん。仕事の合間縫って来た」
「はぁ……全く……」
このキテレツ王女は。私への謝罪なんて別にしなくていいって言うのに。こういう所は何故か几帳面なんだ。
「ほら、行ってきなさいよ。アンタの好きな人の所に」
私が言うと、アニス様はほんの少しだけ悲しそうな顔をしてから、笑顔で頷いた。
「うん。ありがとう。ティルティ」
そう言って、アニス様は踵を返してユフィリア様の元へ駆け出した。
「っ……」
思わず、手を伸ばした。行って欲しくない。私の元へ戻ってきて欲しいと。私の心が言っていた。
全く。らしくない。らしくなくて反吐が出る。私はそんな、未練がましい女じゃない。たまたま恋をした人が悪かった。一国の王女に恋をするなんて、作り話にも程がある。私はそんなに馬鹿じゃない。そういう事の線引きだってわかってる。伸ばした手を握りしめ、私は腕を引っ込める。
「行ってきます! ティルティ!」
「えぇ、行ってらっしゃい」
ならば、届けましょう。捧げましょう。
その優しさになるような。
毒のように染み渡る祈りのような
…………
「ホントにもう、貴方はすぐに何処かへ飛んでいくのですから」
「だから、ごめんってば〜」
ユフィと箒で王宮までの帰り道。ある程度仕事を終わらせた私は勝手にユフィを連れて、ティルティの屋敷まですっ飛んできていた。だから、当然こうして怒られるわけで。
「あのさ、ユフィ」
「なんですか?」
今から言うことを一度心で反芻する。とりあえず、間違いがないので、ちょっと息を吐いて少し真剣な声で、ユフィに伝える。
「私、これからもユフィの事を好きでいて、いい?」
言っちゃった。言っちゃったよ。なんかこうもうちょっといい台詞があったんだろうけど今の私にはこれしかなかった。反応が返ってこないと余計に恥ずかしくなってくる。昨日の事を思い出しながら、私は自信を自己嫌悪。
「相変わらず、ヘタレですね。アニスは」
「う、ぐ……」
うわ〜ん! 言われちゃったよ! ついにユフィからヘタレって! どうせ言われると思ったよ! と、心で号泣していると、ユフィが突然クスクスと笑う。
「そんなの、良いに決まってるじゃないですか」
「え……?」
「むしろそうでなくては私が困ります。後にも先にも、私が好きになる人はただ一人。貴方だけです。アニス」
私にしがみつくユフィの腕にほんの少しだけ力が入る。その台詞に胸の高鳴りは止まらなかった。ユフィは狡い。こういう事をサラッと言えるのが狡い。
でも、好きと言ってくれた。良いと言ってくれた。なら、私はその“優しさ”に“甘えて”しまおう。
私の最愛の人の告白を。
「ありがとう。ユフィ」
互いを愛を確かめて、私は箒を握り直す。
「帰ろう、私達の家に」
「はい。アニス」
箒の速度を少しあげて、私は今日も空を飛ぶ。
開け放たれた青空が私を迎え入れる。
ユフィと出会えた事が私を生かす全て。
幾度の激情も、いつかの愛情も、この青空の下で私達は重ねてる。なんだか、ちょっと上手く言えないけど、それはきっととても大事な事。
さぁ、帰ったら何をしようか。今日は何処まで進めるか。私達の望む。魔法の未来まで。
終わり。