1.
山頂近くの山小屋にたどり着いた時、高橋晋一の気力と体力はほとんど限界に達していた。
もともとは日帰り登山の予定だったのだが、厄介なところで道を間違えたり思わぬ荒天に見舞われたりして、すっかり計画が狂ってしまった。すでに日は完全に落ち、都市部とは全く異質の暗さが山一面を覆っていた。平地を歩くのでも躊躇われるような暗さだ。
百戦錬磨の山男ならこのまま下山するというテもあるだろうが、高橋は定年間際に趣味で始めた、初心者に毛が生えた程度の登山愛好家であった。それでも一人であればなお、夜を徹しての下山というのも選択肢に浮かんだかも知れない。しかし隣には、同行者の佐藤優子がいる。年は高橋よりも少し下とは言え、五十路の半ば、尤も年齢よりは若く見えるし、今日の道中もここまで弱音らしい弱音を吐くこともなく一緒に歩いてきてくれたが――それでも無理をさせられる相手ではない。
そんな状況で、二人は懐中電灯とGPSを頼みの綱に、ほうほうの体でこの山小屋にたどりついたのである。
黒い木の扉を開けると、オレンジ色の灯りと人のざわめきが一気に飛び込んできた。玄関と一続きになっている食堂には、十人あまりの先客が食事と歓談を楽しんでいた。男女とりどり、みな大学生くらいの若者だ。サークルか何かで一緒にやってきたのだろうか。その快活さに満ちた雰囲気は、先ほどまで二人が耐え忍んできた夜の山道とはあまりに違っている。高橋はまるで自分たちが急に別世界に飛ばされたように感じた。
二人が立ちすくんでいると、従業員らしい若者がこちらに気付いて近寄ってきた。高橋が話しかける。
「あの、突然すみません。今晩寝るところをお借りしたいのですが、空きはありますでしょうか……?」高橋は心持ち頭を下げながら努めて丁寧に訊ねた。空きなどないと言われても、食堂でも物置でもいいから寝させてくれと頼むつもりだった。
「はい、空いてますよ」やった……助かった!
「ただ、この盛況なんで、お一人様用の部屋が一つしか空いていないんですが……構いませんか? 室料はもちろん一人分にいたしますが」従業員は、高橋のすぐ後ろに立つ優子を気に掛けるようにして、そう言った。
もちろん一部屋でも空いていれば万々歳だし、そもそも個室が設けられているだけでラッキーと言えた。とは言え、優子には確認を取らなくてはならない。何しろ我々は夫婦でもなければ、交際しているわけでもないのだから――二人は壮年向けの登山同好会に所属していて何度も一緒の登山を経験してはいたが、二人だけで登るのは今日が初めてだった。
「そういうことだそうですが、佐藤さん、構いませんか……?」こわごわと高橋は訊ねる。
「ええ、もちろんです! ここで休ませてもらいましょう」嫌そうな素振りを微塵も見せずに優子がそう答えてくれたので、高橋は心底安堵した。
「じゃあ、お願いします」と高橋が頭を下げる。
「承りました、ではお部屋を準備しますのでそちらでお掛けになってお待ちください。セルフサービスですが、暖かいほうじ茶もお飲みいただけますよ」
2.
用意された部屋に入る前に、二人も食堂で夕食をとることにした。先客に少し詰めてもらい、大テーブルの端に席を取る。
並んで座る二人の向かいに座っているのは、エリという女子大生だった。ほんわりとしていて、一見すると本格的な登山には縁遠そうに見えるのだが、実際にはこのレベルの山はこれまで何度も踏破しているらしい。そう言われて見ると、白い無地のTシャツから出た腕は、色白ながらも引き締まっていた。
話を聞くと、やはり大学のサークルで来ているという。複数の大学のサークルが合同になっての登山だから、初めて会う人も少なくないそうだ。それでいてこれほど一緒になって盛り上がれるのかと、壮年の二人は感心しながら話を聞いていた。
二人も簡潔に、今晩ここまで来たいきさつを話した。するとエリは申し訳なさそうに、
「それじゃあ相当お疲れでしょう? なんかすいません、私たちワーワーうるさくって……」と言った。場違いな自分たちに気遣いを見せてくれるエリに対して、二人は好感を持った。
「いえいえ、皆さんが先客なわけですし……」と高橋は慌てて言う。
「そう、それにみなさんが楽しそうにされてるから、こっちも疲れを忘れちゃいます」と、優子も言い添えた。うまいこと言う、と高橋は思った。
「それならよかった」と、はにかむようにエリは笑った。
食事を終えて人心地がついたところで、二人は荷物を持って部屋へ向かうことにした。ちょうど食堂にたむろしていた若者たちも、二・三人を残してそれぞれの部屋に引き上げていくところだった。
見たところ、自分たちと同じように男女での相部屋も、幾組かあるようだった。部屋代の節約ということもあるのだろうが、若い二人が一室でベッドを共有となると……と、下世話な妄想が高橋の脳裏をしばらくよぎった。もっとも、一日掛けての登山のあとだ、案外何もなく寝てしまうのかも知れない。
そんな愚にもつかないことを考えながら、高橋は自分たちの部屋の扉を開いた。窓際にベッドが大きく位置を占め、残りのスペースには低い木のテーブルと椅子が二脚、そして洗面台。ベッドは山男仕様なのか、思ったほど小さくはない。ぴったり並べば二人でも充分に寝られる幅があった。
「いやあ、ちゃんとしたところで寝られると思うと安心しますね。一時はどうなることかと……」
「ほんとに……助かりましたね」
二人はリュックを床に置いて、黙々と荷物の整理を始めた。
3.
ベッドを見ると、高橋には、これからここで優子と一夜を過ごすのだということが現実味をもって迫ってきた。年甲斐もなく胸が高鳴る。
どうしたものか――イヤどうしたもこうしたもあったもんじゃないが、などとまとまらない考えを巡らせながらリュックの中身を詰め替えていると、整理を終えたらしい優子が、
「あの……汗、拭かなきゃならないですよね……」と言った。
そうだった。山小屋のシャワーは給湯部分が不調で水しか出ないという。従業員から支給されたボディーシートで体を拭いて、シャワー代わりにするしかないのだ。
「あ、そうですね……どうしようかな、じゃあ僕、しばらく出てましょうか」
「でも、それもなんだか悪いわ……」
「ま、食堂で本でも読んでますよ」
「でも…………」優子には何か考えがあるらしかった。
少し
「あの、お互い後ろを向いて、それぞれササっと済ませちゃうというのはどうでしょう……?」
「えっ……」それはつまり、同じ空間で二人が肌をさらすということになる。
「あの、佐藤さんがお嫌じゃなかったら、僕はそれで……」
「はい、私は……あの、ササっと済ませますから……」
「……じゃ、床じゃやりにくいですから、ベッドの上で……」二人は着替えとボディーシートの容器をそれぞれ持つと、ベッドの両側に、お互いに反対の壁側を向いて座った。
「じゃ……始めますね」
「はい、じゃあこっちも」
高橋は手早く上衣を全て脱ぎ、ボディーシートを抜き取って体を拭き始めた。普段ならケチって一枚で全身を拭いてしまうところだが、今日は優子を隣にして寝るのだからと、何枚も使って入念に拭いていく。拭き終わると、山小屋が貸してくれた簡素な薄緑のパジャマの上衣をひっかぶり、続けざまにズボン、靴下……そして意を決して下着を脱いだ。こちらも入念に拭いておかなくては……。
優子の方も着々と清拭を進めているようで、衣擦れの音や、シートを容器から取り出すズズっという音が、断続的に聞こえてきていた。間近で聞こえるそんな何気ない物音が、男の煩悩を刺激してやまなかった。
ふと高橋は、ある不埒なアイディアに思い至った――山夜の闇のために鏡のようになった窓ガラスが、優子の肉体を映しているのではないか、と考えたのである。
カーテンを閉めそびれていた窓ガラスの方を、なるべく首を曲げないように意識しながら視線の端に捉える。すると――ビンゴ! 後ろ姿ではあるが、窓は優子の姿を……上衣もブラジャーも脱いで、遮るものが何もない裸の背中を、白く映していた。
高橋は、初めて垣間見る優子のその肌の広がりを、息をするのも忘れて見入った。そして、その下は――?
その下には、薄い色のパンティーに包まれた臀部があった。そのパンティーの上端から、尻の割れ目が微かに覗いている。男の胸が激しく高鳴った。
――ああしかし、このような盗み見に成功したことは、高橋にとって幸運であったのか不運であったのか。何しろこれから彼は、ボディーシートで自分の陰茎を入念に拭わなくてはならないのである。すでにはちきれんばかりに怒張してピクピクと小さく震え、亀頭からはトロトロとカウパーを垂らしている、この陰茎を……。
高橋は必死に雑念を追い払い、無心で下半身の清拭を進めていくよう努めた。それでいて、頻りに窓ガラスに視線を送ることをやめることもできなかった……。
「どうでしょう、そろそろ?」高橋とは反対の壁を向いたまま、優子が声を掛けた。
「はいはい、いや、ちょっとだけお待ちを……」まだ幾分か見せていた陰茎の膨らみをどうにか目立たぬよう脇に押し込んで、「……ハイ、OKです」。
そして、タイミングをはかったように二人して向き直った。優子も、高橋と同じ薄緑色のパジャマを身につけていた。
「あの……お似合いです」と、高橋は場をとりつくろうように言った。
「……高橋さんも」、小さく笑いながら優子も言った。
それから二人は、カーテンを閉めたり、荷物整理を再開したり、洗面台で交互に歯を磨いたりして過ごしたが、やがて特にやることもなくなってしまった。と、優子が、
「あの、私ちょっとお手洗いに……」と言って、ベッドから起き上がった。
「あ、どうぞどうぞ。確か食堂の奥の方に」
「ええ、たぶん分かると思います」と言いながら、スリッパをパタパタと鳴らして優子は部屋を出て行った。
4.
ドアが閉まりスリッパの音が遠ざかると、一人になった高橋は改めて深い息をついた。ひどく長かった一日だが、それももうすぐ終わろうとしている。
――いやいや、こうなっては、むしろこれからが本番なんじゃないか。
優子とシたいか・シたくないかで言えば――シたかった。強烈に、シたかった。しかし、軽々しくそういう方向に持って行こうとするのが大いに危険であることも、もちろんよく承知していた。
そうかと言ってまた、彼女とベッドを共にしながら落ち着いて寝ていられるとも思えなかった。
この夜を、俺はどう過ごすべきか。
間抜けなようだが、高橋の頭にまず浮かんだのは「今のうちにヌいておくか?」であった。まさか寝込みの優子を襲いはしないにしても、寝ているうちに体が彼女に触れてしまうことは充分ありうる、その時に勃起させたナニに気付かせてしまったら、あるいは、昂奮に堪えかねて夢精でもしてしまったら……そんなことを考えると、とにもかくにも一度スッキリさせていわゆる《賢者タイム》に入っておくのが、まさしく賢明であるように思えた。
ただ、優子がいま部屋を出ていると言っても、用事がトイレとなるといつ何どき戻って来ないとも限らない。これから一緒の部屋で寝ようとする女に、自慰をしている現場なんか目撃されたらと思うと――考えるだけで心臓が縮み上がる思いがした。やはりリスクが大きすぎる。
結局、
(ま、襲ったりさえしなければ、不測の事態があってもそう悪く取られることはないだろうさ)――と、半ば捨て鉢な気分になり、特に何も工作しないことにした。そして、来るなら来いとでも言うようにベッドの上にぼんと大の字に寝転がった……が、すぐに横へ寝返りを打った。
大の字になると、股間の膨らみが露わになることに気付いたからである。これも見られるわけにはいかない。
* * *
部屋を出て共用のトイレに行くには、先ほど夕食をとった食堂の脇を抜けていく必要がある。優子がそちらに歩いて行くと、もう随分遅い時間なのに、消灯された食堂の隅にかすかな光が灯っている。のみならず、その辺りから何か物音もしているようだ。人の声も混ざっている。
優子は思わず足音をひそめた。そろりそろりとそちらに近付いていくうちに、物音が明瞭になってきた。
いくつかの音が重なっている……それは、二人用のソファーが軽くきしむギシギシという音、肌と肌が打ち合うようなスパンッ、スパンッという音――そして、若い女のくぐもったよがり声だった。
優子の視線が、音のする方へと釘付けになった。
【つづく】