雨音が静かに響いている。
人とポケモンが相違なく暮らす石造りの街中、日が暮れて暫くの夜。
弱々しく点滅する街灯が寂しく外を照らしていた。外を歩く者は殆ど居らず、しかし家々の窓からは柔らかい光が漏れ出している。
夜の石畳にさらさらと落ちる雨粒は、そんな家からの喧騒を打ち消していた。
ラジオの音と共に聞こえる子供の笑い、それからコトコトと何かを煮込んでいるような温かな料理の音。
そんな雨の中をひっそりと歩く誰かの水飛沫から、扉を開けて水をぽたぽたと垂らしながらアパートの中を歩く音まで。
キィ、と蝶番が僅かに軋む。
その体の手足は細枝のように細く、ふとした事で折れてしまいそうな程だ。
頭からはヒレが、背中からは皮膜がマントのように生えている。また、手足より数倍も太い尻尾を持つその生き物は人ではなく、ポケモン。
必要最低限と言うような細身の肉体を持つそのポケモンの種族名は、インテレオンと言った。
また彼女は、この国のポケモンではなかった。この頃、際立って関係が悪化している隣国の出身であった。
「ふぅ……」
雑然としたその自室。
スン、と一度臭いを嗅いだ。
「……」
何かに気付くが、そのまま提げていた袋、食料が入っているそれを下ろす。それから悠長に皺の寄ったタオルを手に取り体を拭った。如何に水タイプと言えど、びしょ濡れなまま屋内で過ごすのは流石に不都合だった。
拭い終えると、それをハンガーに掛ける。同じようなタオルがもう幾枚も干されており、少しばかり臭い始めている。
……そろそろ洗わないと。
衣服というものを基本必要としない種族であるが、このように洗濯物は少なからず出る。休日の予定は決まったな、と思いながらリビング兼寝室の扉を開けると、その自らのベッドにポケモンがだらしない格好で寝ていた。
*
仰向けに、ここが我が家だと言うのように緩み切った表情で、体を大にして。身の丈程に長い舌をだらりと伸ばして眠っているそのポケモンはゲッコウガ。この国のポケモンであり、インテレオンとは親しい仲であった。
それを見てインテレオンは、はぁと溜息を吐いてから呟いた。
「……今日の夕食はタンシチューかな」
そう言ってキッチンから包丁を取りに行こうとすれば。
「うそうそ、起きてるって」
ゲッコウガは跳び起きて、そう返した。
「ベッドにその涎まみれな舌を置かないでって何度言ってるか覚えてる?」
「今日で丁度300回だな」
「…………」
妙なところで几帳面なゲッコウガが言うそれは、きっと事実だろう。自分好みな詫びの品を時々送ってくる事もあって、インテレオンはその行為をそれ以上強く咎める事もしていなかった。
「冷蔵庫にお前がほら、先日一緒に買い物に行った時に買い渋っていたヤツ、入ってるぞ」
「え、何だろう」
開けてみれば、既に氷を入れ替えられたばかりのしっかりと冷たい空気が吐き出された。ゲッコウガが冷凍ビームで氷を作り直したのだろう。
ゲッコウガの職業はそれだった。氷タイプではないが冷凍ビームを覚えている事、そして覚えられる種族としては素早く動き回れる事で、ヒメリの実や、それと同等の効果を発揮する薬を数多に忍ばせながら、日に日に幾多の家庭に氷を提供しているのだった。
そして紙箱の中には、そのヒメリの実をアクセントにしたケーキともう一つ、ゲッコウガの好物であるカシブの実をふんだんに使ったケーキが入っていた。
ケーキ屋の前を通った時に二度見した程度だったが、細かいところまで良く気付くものだ。
……本当に、ね。
一瞬目を細める。
「俺がヒメリを避けているからって言って、そんな気にしなくて良いのに」
ゲッコウガから声を掛けられてすぐに戻す。
「いや、私、あの時の事結構覚えているから……。別れられるかとも思ったもの」
数え切れない程の家から店にまで氷を提供するゲッコウガは、働く日には幾つものヒメリの実を食べて食べて、ほぼそれだけで腹を満たしている。
だから、ヒメリの実イコール仕事中と言う認識で、休みの時は極力見るのも避けていると言う。
それを聞かなかった頃にヒメリの実をたっぷりと使った料理を出した時は、隠しきれない嫌悪の顔と共に、苦言を呈されたものだった。
「まあ、言わなかった俺も悪いからさ」
嫌いなものや苦手なものを殆ど口に出す事のないゲッコウガは、強がりというよりかは、それを言う事が基本、場の空気を悪くする事を知っているようだった。
ただ、ヒメリの実の料理のように、それが災いして遅過ぎる事もあったりするのだが。
「で、今日は何を作るんだ?」
「辛いもの」
端的に答えると、ゲッコウガは提げていた買い物袋の中に入っていた食材をじっと眺めて、聞いてきた。
「煮込みか? 今からだと時間掛からないか?」
「だって貴方、来るって言ってなかったもの。私、明日休みだから好きに作ろうって思ってたのよ。
でも、手早く済ませられるものにするわ」
「済まないな」
「まあ、良いわ。そういうの考えるのも料理の楽しみだから」
インテレオンは指先に顎を乗せて少し考えてから、葉物を選んでざくざくと切り始めた。
買ってきた煮込み用の肉ではなく、冷蔵庫から腸詰を取り出す。油を引いて香辛料の香りを弱火で引き出してから、その葉物と腸詰を一気に強火で炒め始める。
「良い匂いだな」
「ありがと」
がたりと立ち上がる音がしたと思えば、ゲッコウガが買い物袋の中から勝手にパンを取り出すのが、冷蔵庫に吊るしてある鏡越しに見えた。
「俺もこれ、少し貰って良いか?」
「どうぞ」
休日分を纏めて買っておいたのだけれど、という言葉は飲み込んだ。
一緒に食べられるなら、些細な事だ。
パンナイフを取りに隣にやってきたゲッコウガが、フライパンの中を一回じっと見てから戻っていく。
後ろから、ガリガリと音が聞こえ始めた。
*
食事は程なくして出来上がり、テーブルで向かい合って食べる。
「お、美味い」
「どういたしまして」
しゃくしゃく。もぐもぐ。
互いに無言になって、ゆっくりと料理を口に運ぶ。前を向けば、口を動かしながら糸目になっているゲッコウガ。
美味いものを食べる時は決まってそうなっているのを見るのは、自分の手と口を止めてしまう程に好きだった。
出会ってから少なくない時間を共に過ごしてきたし、時々肉体も交える間柄。
前回はいつだったっけ、と思い返すと、まだ肌寒い時、数ヶ月も前の事だった。
「何考えてるんだ?」
自分の手が止まっているのを見て、ゲッコウガが聞いてくる。
だからと言って、関係が冷めている訳ではない。いや、肉体関係を持っていても熱は元からそこまで強くない、緩い関係であると言った方が正しいか。
「久々に……しない?」
少しばかりの沈黙。それからゲッコウガは料理に目を落とした。
「何か入れたのか?」
半ば冗談なその言葉。
「いや。そういう作用があるかどうかも知らないけど。単純に、気分」
「……まあ、今日は良い天気だしな」
窓の方を見れば、柔らかい雨音に混じって、ぱつ、ぱつと窓を叩く音が絶え間なく響いてくる。
水タイプ同士、雨が好きな天気である事は共通していた。
食事に戻る。パンを千切って口に運ぶ。まだ焼かれてからそう時間の経っていないそのパンは、香り高く柔らかかった。
そんなパンを食べるゲッコウガは、やはりまた糸目になっていた。
*
食事を終えると、ケーキを小皿に、それ用の小さなフォークと共に出す。
一口一口を小さく切り分けて丁寧に食べるインテレオンに対して、ゲッコウガは数口であっさりと食べて終えてしまう。
こういうものは多少勿体なかろうが口の中を一杯にして食べるのが、ゲッコウガにとって最も至高なのだとか。
そうして先に食べ終えたゲッコウガは、立ち上がると皿を重ね始める。
「皿は俺が洗っておくよ」
「ありがとうね」
インテレオンが食べているケーキの小皿以外をシンクに持って行き、洗い始めた。
泡立つ洗剤、流れる水の音。
磨かれたシンク越しに、ゲッコウガの顔が僅かに見える。それはゲッコウガからしても同じだ。
自分が料理をしていた時も同じように視界に入るようになっていた。
そしてそれを、互いが口に出した事はなかった。
−−写真立ての螺子。オルゴールの歯車とハンドル。工具箱の中の金具。ボードゲームの駒の一つ。
他にもこの部屋にある様々なものを少しずつ取って組み立てると、インテレオンの本国との通信機になる。
インテレオンはスパイだった。
十年以上も前から、この国の市井に翻訳家として潜り込みながら数多の情報を収集し、それらを本国にひっそりと送っている。
通信機は送信専用。本国から新たに命令が来る事もなければ、スパイ活動をする事に対して直接会うような同志も居ない。誰から褒められる事も貶される事もない。
そんな木端ではあるが、歴としたスパイだった。
そしてゲッコウガの事は、この国における秘密警察のようなものではないかと疑っていた。初めて会った時から、そして今となってはほぼ確信している。
毎日のように家々を巡り歩くその職業も、実は国民の監視を兼ねたものであるのではないか。その細かいところに良く気付く性格も秘密警察としてはうってつけだ。そして自分と付き合っているのも、自分がスパイであると疑っているからではないか。
こうして自らの家に好きに出入りさせるようになってからも、このアパートに散らばっている通信機の事はばれていないにしても、インテレオンはそう考えていた。
それを確かめる方法は簡単だ。フォークと皿に触れている指先を、ゲッコウガに向けてみれば良い。この指先から発射される水鉄砲は、数メートルの距離ならば胴体をも容易く貫く。
もし本当にゲッコウガが秘密警察ならば、皿洗いをしている最中でも即座に反応するだろう。
けれど、そんな事は付き合って五年以上が経つと言うのに一度もしなかった。
それは無駄な行動を起こさないに越した事はないと言う理由もあった。通信機の事が現状ばれる気配がないという理由もあった。
しかしそれらよりも何よりも、インテレオンがゲッコウガの事を好いてしまっているという理由が最も強かった。この関係を終わらせたくなかった。
*
このアパートに住処を構えてから数年が経った頃、いつもの無愛想なユキノオーが定年を迎えたとの事でやってきたゲッコウガ。
正直に言えば、初めて見た時から秘密警察なのではないか? と疑っていた。
ゲッコウガという種族は、インテレオンという種族と同様に音もなく地を駆け、壁を這い、そして宙をも跳んで見せる。また、太腿の十字に手を当てれば鉄をも両断する水の刃を生み出し、何を持たずとも暗殺をする事が可能だ。
忍ぶ事も殺す事も得意とするインテレオンは、ゲッコウガは、スパイとして、秘密警察としてうってつけな種族だった。
けれども、だからこそ、警戒すると同時に惹かれてしまったのだろう。
存在自体がスパイと疑われるからこそ、こんな誰でも出来るような木端な役にしか就けなかったインテレオン。
その優れた肉体を、冷蔵庫の氷替えを効率的に行える、という役目にしか生かしていないゲッコウガ。もし本当に秘密警察だったとしたら、インテレオンと同様の扱いに見える。
互いにシンパシーのようなものを感じていたのかもしれない。意図的だとしても恣意的だとしても、付き合い始めるまで大して時間は掛からなかった。
インテレオンとしては秘密警察でなければ良いな、という願望を抱いて。
けれどもそれは虚しく、疑いは時を経るに連れてより確信に近いものになっていった。
細かいところに気付く性格も秘密警察としてはうってつけだった。自分のアパートの鍵を渡して、さりげなく室内を調べた事が分かるような仕掛けを施しても、それら全てに引っかかった痕跡は一つも出る事はなく、それが逆に怪しかった。
だから、一度は遠ざけようとした。
聞いた事はなくとも知っていた、ヒメリの実が苦手という情報。だから、一度はわざとヒメリの実をたっぷりと使った料理を出して遠ざけようともした。けれどもゲッコウガは嫌悪感を表に出しつつも、それを残す事はしなかった。
その姿に、自分の心がざくりと深手を負った感覚に襲われた。そして、更に好きになっていってしまった。
その秘密警察としてうってつけな性格にも、また時々見せるだらしない姿にも。
……けれども、それら全ては演技なのかもしれない。ゲッコウガは、今か今かとずっと私が尻尾を出す瞬間を狙い続けているのかもしれない。尻尾を見せた瞬間、私の事など路傍の石のような目でしか見なくなるのかもしれない。
好きであると同時に、そんな疑念をインテレオンはその五年もの間抱き続けてもいるのだ。
そしてそれは、ゲッコウガからしても同じなのかもしれない。
ケーキを食べ終えると、程なくしてそのゲッコウガがその皿を取りに来る。
「ありがと」
「ん」
緩い関係。けれどそれは、確固とした隔たりのある関係。
そのもどかしさには、いつまで経とうとも慣れていない。
*
食事も片付けも終えた。体も簡単に清めた。
けれどすぐには行為に移らず、暫し暇の時を過ごす。
焼き菓子を摘みながら、ラジオを流して他愛もない話題をだらだらと続けたり。時には互いに持ってきた本を静かに読み進めたり。そんな特に目的もない、けれど好いている相手と同じ場所で時間を共有する、ただそれだけでもインテレオンにとっては幸せだった。
そして今日はボードゲームをしている。多種の動きをする駒を使って、敵の駒と戦いながら最終的に相手の王を取る事を目的とする、様々な国に普及している人気なゲームだ。
……もし、自分がスパイでなかったなら、私はゲッコウガととっくに結ばれていただろうか。
スパイでなかったならゲッコウガと出会っていなかっただろうと言う結論がありながらも、インテレオンはその問いを考える事を止められていない。
付き合い始めて、誕生日やお祝いの日にはそれぞれ品を送りあったり、美味しい飯を食べに行ったりという事を欠かさなかった。けれど、それもやはり、どこか抑えた部分があった。
互いの好きなものを送りつつも、それらは菓子から洒落た小物から、実用的な品までそれら全ては、関係がより深まるようなものではなかった。
遠出をしても、それは精々日帰りで済む程度の近場までだった。美味しいものを食べたり、ピクニックに行ったり、映画や演劇を観に行ったりしても、一日以上このアパートを空にする事はなかった。
帰った後は、秘密警察が入っていないか念入りに確かめた。けれど、書類の上に乱雑に置いたタオルやカーテンの皺でさえもが変わっている事は一度もなかった。
それでも、インテレオンから積極的に仕掛ける事も、ゲッコウガが花束や指輪などを送ってくるような事もなかった。
「う、ん……」
劣勢のゲッコウガが腕を組んで悩んでいる。
「あと十秒」
時間が掛かっては夜も深まり過ぎてしまうから、と一手の制限時間を課している。
悩んだ挙句に、ゲッコウガは守りを固める為に強い駒を一度下げた。
……その駒が通信機の要である、周波数を制御するものだと誰が思うだろうか。
そんな事を心の底で思いながら、インテレオンはすぐに駒を動かした。
「うっ」
「間違えたら詰みね」
「成程なー……」
けれど、時間が経っても中々に決着は着かなかった。ゲッコウガは紙一重の部分でインテレオンの攻めを躱しながら、手薄になっていたインテレオンの王の喉元にも牙を迫らせていた。
ただ、そうなった頃には盤上の駒ももうそれぞれ少なく、詰ませられる手もそれぞれ見つからなかった。
「引き分け、か」
「引き分け、ね」
まるで私達の関係のそのものじゃないか。
*
もう、子供は寝静まっているであろう時刻。
ボードゲームをしまって、明かりも消す。
ベッドで先に座って待っているゲッコウガに、ふざけ半分で聞いた。
「一人で遊んだばっかりだったりする?」
返答はない。けれど歩いて行けば、するりとした動作で胴を寄せられた。為すがままに体を委ねれば、まるで自らベッドに倒れ込んだかのように体を倒された。
東洋の、相手の力を利用して体を崩す技術であろう、淀みない所作。
……そういうところも、秘密警察っぽいんだよなあ。
分かっててやってるのか、それとも。
そう考えるのも束の間。
そのままゲッコウガは馬乗りになり、両腕を押さえつけて言った。
「今から体で教えてあげようじゃないか」
そう言うゲッコウガの表情は、真剣そのものだった。
顔が近付いてくる。
自ずと自らの口が開く。ゲッコウガの長舌を収めた口が開く。
「んむ……」
ぱつぱつっ、ぱつつっ。
ぬちゅ、くちゅ……。
雨の降る音に混じって、互いの舌が交わる音が静かに響く。
普段は首に巻き付けているゲッコウガの舌は、人間を拘束出来る程に太く、長い。手足の太さもインテレオンと比べれば段違いだ。
インテレオンのその手足も細さの割には頑丈であるとは言え、近接戦闘に限ってはゲッコウガの方が優れている。
自分の細い舌が一方的に舐られる。ぎゅむ、ぎゅむと言うような音が聞こえてきそうな程に、自らの舌から一方的に唾液を搾り取ろうとするように。
押さえつけられた腕はびくともしない。その両手が次第に手の方へと伸び、手と手が交わされる。
インテレオンの人と似通った手。ゲッコウガの水かきのある、平べったい手。
温かい……。
こうして誰かと身を寄せ合うのは、ゲッコウガと最後に交わってから以降の事だった。この地に十年以上住んでいても、余り仲の良くない国から来たインテレオンはそれだけで白い目で見られる事が時折あった。特に、関係が悪化したこの頃はその頻度が高くなっている。
ゲッコウガの片腕が指から離れ、頭の後ろへと回された。首を曲げられ、口と口がより深く交わっていく。舌が更に奥に入り、その根本から扱かれていく。
されるがまま、若干涙が垂れてくる程の深くまで。また扱かれる分、ゲッコウガの涎が喉奥へと垂れて入っていく。
食べたケーキが少し残っていたのか、それはほんの僅かに甘かった。
そして自由になった片手を、インテレオンはゲッコウガの背中に回した。久々に感じるゲッコウガの体の温もりは、愛おしくて堪らなかった。ただ体重で重みを感じているだけでは、口と口を深く交えているだけでは、まだまだ足りなかった。
私は、スパイとして失格なのだろう。結局私は、寂しさというものに、孤独というものに耐えきれていないのだから。
抑えていた感情が堰を切ったかのように溢れ出してくる。涙がつらつらと流れていく。
スパイとしての矜持すらも捨て去りたくなってしまう。けれど、今だけは、今だけは。口を奪われている今は何を思ったところで、声に出る事はないのだから。
目を閉じて、けれどゲッコウガはそれを気にせず行為を続けてくれる。
こきゅ。
喉の奥に溜まった、混じり合った涎を一度飲み込んだ。
目を開けると、そのゲッコウガと間近で目が合った。涙を多量に流す自分を若干心配そうに見るその目は心の底から自分の事を思っているようで、本当に、本当に最後の矜持までをも捨て去ってしまいそうだった。
舌が解けて、口が離れていく。
これだけの行為ですっかり出来上がっているインテレオンに対して、ゲッコウガが聞いてくる。
「何かあったのか?」
「そんな野暮な事……聞かないで」
思わず、そう返していた。
「……すまん」
出来れば、もう暫くは接吻をしたかった。
*
まだ、秘部までは濡れていなかった。それに気付いたゲッコウガは、その中に躊躇なく指を入れて来た。
「アんっ!」
唐突なその行為に、高い声が跳ねた。
「んッ、アっ、うんっッ!」
壁や天井に張り付く為の、平べったいその指。微細を穿つには向かないその指でも、ゲッコウガはインテレオンという雌を、淫らな楽器に変えてしまう程に知り尽くしている。
背中が上に乗っているゲッコウガごと跳ねる。肺から声が漏れ出し、それは窓の外まで伝わっているだろう。けれど、きっと雨音が掻き消してくれている。
「何でも聞くぞ」
冷静な声。こんな事をしているというのに静かな、そして私の事を心の底から想ってくれている『かのような』表情。
かのような。それでもゲッコウガの感情が、言葉が、真心から来るものなのかインテレオンには分からない。自分が今、どんな顔をしているのかも分からない。スパイである事を放り出せない。
荒い呼吸をどうにか整えて、それでもはぐらかそうとすれば。
「あアンッ!! イッ、あっ、ひゃぁんっ!」
ゲッコウガがインテレオンをより一層激しく奏で始めた。
「答えないのは知ってる。だからな、せめてな、楽しませてやる」
どこから、どこまで。ゲッコウガが私の何を知っているのか、何を疑っているのか。ゲッコウガは本当に秘密警察なのか、そうでないのか。
知ってしまいたい。秘密なんて、秘密なんて、下らない国同士のいがみあいなんて糞食らえだ。本当に、本当に!
ゲッコウガがまた顔を近付けてくる。冷静な、それでいて慈しみに満ちているような顔のまま。
自ずとまた口を合わせた。
くちゅ、ぐちゅ。ぬちゅ、きゅむっ。
上と下で淫らな音が響いている。ゲッコウガの片手はインテレオンの頭を再び抱え、そしてもう片手はインテレオンの秘部を的確に刺激し続けている。
涎と、熱い吐息さえもが互いの体内を行き来する。互いの鼻息が互いを湿らせていく。
両手が自由になったインテレオンは、そのゲッコウガを強く抱き締めていた。
ぎゅぅう、と互いの内臓が圧迫される程に。
ゲッコウガ、ゲッコウガ! 願うならば、願うならば、私は、貴方と!!
その先の想いが弾ける前に、ゲッコウガは指を引き抜き、その手をインテレオンの腰に回す。深い口付けをしたまま、目と目が合う。
次に何をするのか、インテレオンはそれだけで理解する。受け入れる。
ゲッコウガが腰を浮かせる。
直に触れていなくとも、びくんびくんと波打っているそれが、もう既に準備万端である事が感じられた。
ずむ、ずむむっ!
「〜〜〜〜!!」
そしてその雄が、勢い良くインテレオンの中へと入ってきた。
特別大きくも小さくもない、けれど整った形の、ゲッコウガの雄。
しかしそれは、細身のインテレオンにとっては十分に大きいものだ。
ゲッコウガが腰を持ち上げる。インテレオンとは比べ物にならない太さの太腿。その気になれば数階を一気に跳び越せる程の跳躍力。
ばちぃ! べちぃっ!
それがインテレオンへと遠慮なく叩きつけられる。
スパイとして、ハニートラップも学んではいた。けれどそんなもの、そんなものは魅力的な雄の前では何の意味もない。木端で孤独なスパイは、こんな本能の悦びに抗える程の矜持は持ち合わせていない!
べつぃっ! ばちぃっ!
インテレオンは早くも絶頂に達しようとしていた。けれど必死に耐えている。
目が合った時、一人でいくな、と口で言われずとも命令されていた。その命令に逆らう理由は、どこにも見当たらなかった。
ばちゅっ! べづゅっ!
ただ、もう愛液は漏れ始めている。叩きつけられる腰に、その漏れ出した愛液が弾けてそこら中に飛び跳ねている。
ばぢゅっ! びちゅっ!
深く、更に深く口付けを交わす。
ばぢゅぅ。
ゲッコウガが腰振りをやめた。ぎゅっ、と更に体を密着させる。空気の欠片たりともその間に入らないように。
びくびくと震えるゲッコウガの雄からとうとう精が吐き出された。愛液がどぷりとその隙間から漏れ出してくる。何よりも感じられる、互いの熱。
痛い程に互いを抱き締め、そして次第にゆっくりと、とてもゆっくりと呼吸が静まっていく。
雨音が変わらず窓を叩いていた。
*
口を離し、そしてゲッコウガが腰を持ち上げる。付けていたコンドームを捨てて雄を拭う間に、インテレオンも体を軽く拭った。
非日常が日常へと戻っていくような寂しさを伴った、暫しの静かな時間。
「……なあ」
そんな時、ゲッコウガが唐突に語りかけてきた。
「何?」
「もし、これから戦争になるとしたら、どうする?」
「……どういう事?」
「いや、何となくさ。あんただってこの国には居辛くなっちまうだろう」
願うならば、願うならば、私は、貴方と。
行為の最中に考えていた事。
「……貴方となら、どこか、遠くにでも行きたいわ。こんな国と国とのしがらみなんて、何も気にしなくて良い程の、どこか、とても遠くに」
本心のまま、インテレオンはそれに答えていた。答えてしまっていた。
自らがスパイであると言ってしまっているような、答え。
しまった、と思った時には。
「……俺もだ」
ゲッコウガはインテレオンを真っ直ぐ見据えて、そう返していた。
思いもしない答えに驚く。
けれど。
「じゃあ、今からでも計画立てない?」
試すように言葉を続けた。
「よし、そうするか」
返ってきたのは即座の賛成。
更に驚くと共に、氷が溶けていくような、春が訪れたような感覚に満たされる。
でも、まだ。後少しだけ。この国に居る間は。
溢れる嬉しさを半ば必死に隠しながらも、インテレオンは続けた。
「じゃあ、また明日、ここに来て」
「俺も全力で仕事を終わらせて来る」
寄り添ったそれぞれは、自ずとまた口付けを交わしていた。
挿絵は主催者のしし様に描いて貰いました。
それと来週のけもケで、これの続編の話がこちらで出ます。
https://twitter.com/sisikem/status/1650107228396064768
後、これの番外編はこっち。
https://syosetu.org/novel/310458/