お風呂上がりに鏡を見る
肩口まで伸びる濡れた黒髪と、お湯を吸ってもちもちになったほっぺた
一見すれば湯上がり美人にも映ったが、死んだ表情筋とやる気のない三白眼が、私を理想の美少女から少し遠ざけていた
「…にこ」
「笑えばもっと可愛いのに」と兄は言う
騙されたつもりで作ってみた笑顔は、不慣れも手伝って、可愛いと言うよりも、ぎこちなさが目立ってしまった
「何やってんだか…」
適当に身体を拭き上げ、用意していたTシャツを頭から被ると
妹一筋。全面にデカデカと書かれたプリントが鏡に映る
いわゆるダサT
もともとは、兄の誕プレにくれてやったのに、肝心の兄が全く着てくれず
気づけば私のパジャマになっている代物だった
「おにぃ、お風呂空いたよー」
お兄ちゃん、いつからかそう呼ぶことはなくなっていた
子供っぽくてなんか嫌だったし、単純に恥ずかしかったっていうのもある
兄さん、兄貴に、呼び捨てと、候補はあれど、どれもしっくりは来ない
兄さんでは自分がお高く止まっているみたいで、兄貴だと乱暴がすぎる
呼び捨てにしてしまっては「なんだ、反抗期か?」とかなんとか、余計兄に可愛がられてしまったので、そうそうに止めてしまった
ワガママな
自分でもそう思う
だからこの呼び方はせめてもの背伸びだった
「お兄ちゃ…」と、喉元まで出掛かった言葉をちょっと飲み込んで、幼さを押し込めるための背伸び
幸いにもその呼び方は、だらしな美少女の私の口によく馴染み
呼び捨てにされようとも、とやかく言わなかった兄の性分も手伝って、いつしかそれが私達の間での普通に置き換わっていった
「お前は、またそんな格好を…」
髪を拭きながら、リビングに顔を覗かせると、振り返った兄の顔が溜息に曇る
「良いじゃん。せっかくの誕プレをさ、おにぃが着てくれないんだから」
「何処で着れるんだよ、その服は…」
「学校で、堂々と、皆に見せつけりゃいいじゃん」
「兄の学校生活を破壊しようとしないで欲しい。それと、こっちに来なさい」
「んー? なになにー?」
とっとこ、とっとこ。手招きをしてくる兄に、何の警戒心も抱かなかった
だって、いつものことだからと、むしろ分かっててやってる節もある
「髪はちゃんと拭きなさい。風邪を引くだろう」
「わふっ!?」
被っていたタオルを奪われ、わちゃわちゃと髪を揉みくちゃにされてしまう
「女の子の髪だぞっこらっ、やーめーれーっ」
「あーばーれーなーいー…って、よし、終わり。後はドライヤーだな」
のっし、のっしと、兄の大きな背中が廊下の向こうに消えていく
戻ってきたその手には、いつもより小さく見えるドライヤー
これ以上は好きにされてなるものかと、逃げ出した私はしかし
指先一つで襟首を摘まれると、そのままソファの上に引き戻されてしまっていた
「ぁぁぁっぁぁぁっぁぁあ…」
果たして、私の声とドライヤーの音と、どちらがうるさかったものか
扇風機に向かって声を上げる幼子の面持ちで、私は兄にされるがままになっていた
「しゅり、また俺のシャンプー使ったな」
「良いじゃん別に、減るもんじゃあるまいし」
「減るんだよ、普通に。お前の髪の量だと尚更な」
「仕方ないなぁ、じゃあ おにぃも私の使っていいよ?」
うっしっしっしっ。これでお揃いだねと、かました冗談はしかし「使わない」と、にべもなく一蹴されてしまった
「フローラルな香りのする兄ってどうよ?」
「率直にキモい」
「男臭い妹も大概イヤだけだけどな」
「おしゃれに無頓着な女の子ってよくない?」
「分かるが、身だしなみには気を払って欲しい。彼氏ができた時に困るぞ?」
「彼氏ねぇ…」
自分の隣に立つ異性。想像させられて、しかしうまく形にはなってくれない
興味が無いわけじゃない、好みのタイプだって口にも出来るが
高すぎる理想には、どうにも手が届きそうもない感じに思ってしまう
「急に何? 彼女でも出来たん? おにぃはモテるもんね?」
「お前もな? けっこう聞かれるんだぞ、しゅりの事」
「なんて? なんて?」
「黙ってれば可愛いって」
「なに、急にディスんじゃん」
「ははっ。ま、それを知ってるのは俺だけだけどな」
「ふんだっ。おにぃも、外面だけはいいもんねー」
これで おあいこ、お互い様とじゃれ合って
「わふぅ…」と声を上げる頃には、乾燥機上がりのタオルになった心地で、やっと兄から開放された
「ねぇ、おにぃ?」
「ん、どうした?」
入れ替わり、風呂場に向かう兄の背中に声をかける
用事なんて大した事じゃない。なんとなく、そう、ただ何となくだった
「おにぃは私に…彼氏、作って欲しいの?」
「ん、そうだな…。それはそれで、少し寂しいかもしれん」
「ふーん、そっか」
そのまま見送った兄の背中は、とても大きく見えた
以前から筋トレが趣味みたいな所はあったけど、改めて意識すると大分にたくましい
二倍くらい…は言い過ぎか?
兄に身長持っていかれたんじゃないかって、冗談ではよく言われるもので
年頃の女の子としても、小柄な私なんかと比べれば、下手をするとそれでも足りない気がしてくる
「私は…嫌なんだけどなぁ」
廊下の向こうに兄の背中が消えていく
のっし、のっしと、重たい足音も聞こえなくなった後、私はソファの上で独りごちた
黙っていれば良いものを、それでも不安は口から出てしまう
おにぃが知らない女の人を連れてきて、彼女だって、紹介されて…
そんな、遠くもない未来の想像は、思ったよりもヘビィに心を打った
「誰よその女」だなんて、彼女の気取りの言葉を浴びせかける自分が見える様だ
まぁ、少なくとも、その言葉を飲み込めたとしても
「仲良くはできんよなぁ…」
膝を抱えてソファに転がる
ドライヤーの熱が逃げていく頃には、心までも冷たくなってくる
一人っきり、寂しさを紛らわせる為に思い浮かべた兄の顔は、いつも私に優しかった
スポーツ万能。運動神経云々よりも、筋骨隆々の恵まれた体型からくるフィジカルは、授業レベルのスポーツなら大体は筋肉で押し通せてしまい、その豪快なプレイスタイルにファンは多い
かと言って、筋肉ダルマかと思えば頭が悪いわけでもなく、席次だって何時も上から見たほうが早いくらいだった
誰が見ても分かる体躯に、面倒見の良さも相まって、嫌でも印象に残る人柄は、
どの学年にでも共通の話題に上がってくる
そんな兄を追いかけて、兄と同じ学校に入学して、何が一番嫌だったかって、妹だと知られた時の周囲の変わり様だった
ついさっきまで、気にもとめてなかったくせにさ
教室の前でヒソヒソと、意を決して入ってきたと思えば、お決まりの「先輩の妹だって本当なの?」と来たもんだ
うっそー、みえなーい、ほんとにー、かわいいー
頷いた途端に、次々と上がる黄色い声が本当に鬱陶しい
筋肉ダルマの兄と引き換え、引きこもり気味のこじんまりとした妹では、そりゃ兄妹になんて見えないかもしれないが、そう思うなら近づいて来ないで欲しい
「家ではぜんぜんそんなだよー」
「えぇ、でもそれって、家族の前では甘えてるっていうか」
「ちょっとダメな所があるくらいが」
聞きたくもない兄の武勇伝を聞かされて、焼きもち混じりに兄を下げても、それも好感度にしか繋がらない
知らない女子連中が騒いでるのを前にして、私はいつも愛想笑いを強いられていた
でも実際、兄にダメなところなんてない
勉強もおしえてくれる、いっしょに遊んでもくれる。体調を崩した日には、兄がいないと不安でしょうがない
今の学校を選んだのだって、わずか一年だとしても、兄と一緒に登校をしたかったからだ。そのせいで、兄狙いのいろんな女に絡まれるとは思いもしなかったけど
「もてるんだよなぁ、私と違ってさ…」
勉強もそこそこ、体力はゴミ、人望なんて言えるほどのものはない
教室の窓際族。深窓の令嬢を目指そうかと、格好をつけていた時期もあったが
手に馴染んだのは文庫本よりも、文明の利器(スマートホン)
クラスの中心から外れて、なんの益体もないゲームで暇をつぶす毎日だった
「彼氏なんかさー、出来るわけ無いじゃんさー」
手持ち無沙汰になった私は、手慰みにスマートホンを弄り始める
開いたゲーム画面には、お気に入りのイケメンキャラ
強くて、優しくて、かっこよくて、何となく兄に似てなくもない体型に、代役を求めただけ
「二次元キャラにお熱を上げる女に、誰が告るんだっつーの」
残っていたデイリーミッションを片付けて、ホーム画面に戻ってくる
作り物の笑顔に、決まりきった定型句。優しく微笑みかけてはくれるけれど、視線は絶対に交わらない
だって、彼がみているのは私じゃないもの
「お嬢さん」と彼が呼ぶのは主人公であって私じゃない
ふっと正気に戻ると、人形同士の恋愛を見せつけられているみたいで、気持ちだって冷めてくる
そうしてそのまま、スマホの画面を落とすと、やかましいBGMもぱったりと聞こえなくなった
静かになったリビングに伝わるシャワーの音
お風呂場から聞こえてくる水音にまぎれて、聞き慣れた兄の歌声も響いてくる
なんだっけ?
聞き覚えのある旋律に耳を傾け、ぼんやりとした記憶を掘り返す
昔やってたヒーロー番組。なんとかジャーとか、見ない間に数が増えすぎていて、最近はどれがどれだか分かんなくなってるやつだ
「おにぃ、好きだなぁ、これ…」
熱血漢満載の鼻歌を聞きながら、歌詞を諳んじる
意外と覚えているものだ。サビの最後の追い込みを、兄と一緒に駆け抜けた後の爽快感は、溜まっていた鬱憤を少しは晴らしてくれていた