「くッ、まだ追ってくるのか……!?」
男は誰もいない背後をしきりに警戒しつつ、独りごちた。
時刻は午前零時をとうに過ぎ去り、丑三つ時に差し掛かっていた。都心部ならともかく、ここまで逃げてくると流石に周辺の家々はしんと静まり返っている。
静かさは不安を掻き立てる。
今宵は月が雲に隠れているため、辺りを照らす光源はくたびれた自販機と頼りない街灯のみ。その暗さも相まって、付近はさながらゴーストタウンのような雰囲気を醸し出している。
幽霊でも出てきそうだ。
男はそう思って、すぐさま頭を振った。
出てきそう、ではない。そもそも男はハナから出会っていた。幽霊よりも恐ろしい、死神に。
彼はそれから逃げてきたのだ。
再び背後に目を向けると、やはり人影は無い。それでも男は確かに感じていた。背後の死神から発せられる、殺気に似た何かを。
「……クソッタレ、地獄に帰りやがれ!」
男は走った。死神から逃げるために、必死で走った。
そして、男の足は、ふと持ち上がらなくなった。まるで縫い付けられたように、靴底が地面に張り付いてしまったのだ。
見ると、奇妙なことに地面が靴ごと凍りついていた。
慌てて靴を脱ぎ、走りだすと今度は靴下が。男はそれも同じように脱ぐ。
これで足をとられるものはない。そう思って男はまた走りだそうとすると、足裏からべりりと何かが剥がれた。激痛とともに、男は崩れ落ちた。
悶絶しながら足裏を確認すると、足裏の皮が綺麗になくなっている。筋肉と血管がむき出しになり、より外気に敏感になった患部が、痛みと異常な寒さを訴えている。
遅れて今度は、男の体がブルリと震えた。恐怖で頭が回っていなかったが、そもそも路面が凍結し、あろうことか皮膚が引き剥がされるなんて、自然に起こり得ることなのだろうか。
無論、原因は男自身が良く分かっていた。ただ、信じたくは無かった。
「全く、手間取らせてくれたわね」
コツコツと音を立てて、凍てついたアスファルトの上を歩く人影が現れた。その人影は、淀みなく男の元へと足を運ぶ。
死神に目をつけられた者は、決して逃げることは出来ない。
ふと男の頭に、噂で聞いたそんな言葉がよぎった。
ちょうどその時、隠れていた月がまるでその人影を照らすかのように、雲間から光を差し出す。男はようやく、自分を追っていた存在と対面した。
氷のような女だった。
腰まである瑠璃色のロングヘア、精巧な作り物のように整えられた顔形、まるで世の男達の理想を体現したかのようなグラマラスな体付き。
紺のレディススーツに身を包んだその女は、一見して通りすがりのグラビアモデルか何かのようにも見受けられる。
だが違う。男の本能が、危険信号を告げていた。コイツは死神だと。
その証拠に、あの無機質な瞳。はたから見ても一切の体温を感じさせない、白い肌。よくよく見ると、まるで生気の様なものが伝わって来ない。そしてなにより、路面の凍結の影響を受けずに悠々と歩いているのは、あまりに不自然だ。
「へっ、雪女かよ……」
女は男のすぐ近くまで到達すると、男に強い視線を送る。
「最後に言い残したい事でもある?」
「…………く、くくく、バカだな、お前」
女の事務的な声音に、男は喉を引きつらせて笑う。
「あっそう。じゃあさようなら」
女が腕を振りかぶる瞬間、男の体が爆ぜた。
「この距離なら俺だって戦えるぜぇ、死神さんよッ!」
周囲に肉片が飛び散り、男の口から奇っ怪な黒い腕が飛び出す。更には男の腹部から蹴破るようにして同じく黒い足が出現する。
『ヒャァァッァァッァァァハッァァァッッ!!!』
「馬鹿ね。それで不意をついたつもり?」
女はあくまでも機械的だった。頭上に掲げた腕を、スッと振り下ろす。
たったそれだけの動作で、男は――いや、男のようなナニカは、一切の動きを止めた。凍りついてしまったかのように。
『お、おお!? 動けねぇ、動けねぇぞ!! 畜生、つめてぇぞ!!! どうなってんだ!!!』
「地獄に帰れ……だったかしら? あなたにそっくりそのまま返すわ」
女がパチリと指を鳴らすと、目の前に居たナニカは、音もなく砂状に砕けた。
後に残ったのは、静けさだけだった。男がそこに居たという証拠は何一つ残っていない。女はただの砂のように細かくなった氷を一瞥し、首を振って背を向ける。
「ひゃー、相変わらずおっかないねぇ」
「あら
女が声のした方向を向くと、そこには目の覚めるような紅蓮があった。
人の良さそうな笑み、女に負けず劣らずの肉感的な体型。女神と形容してもあながち間違いではないほどの美人が、そこに居た。
だが何よりも最初に眼に入るのは、活火山のような紅蓮の髪だろう。女と同じく腰まであるそのストレートヘアは、まるで燃え盛る火炎そのものだ。
「そっちはどうだったの?」
「無事任務完了いたしました。ってか、戦闘モードいい加減やめて、怖いよ
「あら、ごめんなさい。これでどう?」
朱雀と呼ばれた女の言葉に、もう一人の女――氷室は頷く。声音には、先ほどとは比較にならないほど人間味が増していた。
「うん、オッケー。氷室は狩りになると直ぐ殺人マシーンになるよね」
「そんなつもりはないのだけれど……あら、あなたスーツは?」
氷室の言葉に、朱雀はばつの悪そうな顔を浮かべた。彼女の服装は氷室と同じくレディススーツだ。だが、何故だか身に纏っているのは緋色のスーツスカートと純白のワイシャツのみである。
「あはは……燃えちゃいました……」
「貴女ね……」
「スーツだってタダじゃないのよ」と額を抑える氷室に、朱雀は「お金ならたくさんあるじゃない」と反省した様子もなかった。
「まあまあ、その代わりといってはなんだけど、見つけて来たわよ」
「……何を?」
「私達の
「そう……遂に見つかったのね……」
ーーーーーーー
高校から帰宅した際、自分の住んでいるアパートに見覚えのない女性達の姿があったからだ。二人の女性達はあろう事か直刃の部屋の前に立ち、呼び鈴を鳴らしている。
知らない人が、我が家を訪ねてきた。
冷静に現状を分析した直刃の脳裏には、すぐさま父親の顔が浮かんだ。
「借金取りかな? ……え、まさか僕に借金の肩代わりを?」
直刃は現在高校一年生。逆算して約十年も顔を合わせていない父親を思い出して、思わず拳を握り締めた。
どうしようもない、駄目親父だ。
「……あの、もしや柊直刃様ですか?」
「へ?」
声を掛けられて、直刃は咄嗟に妙な声をあげてしまう。どうやら知らぬ間に気付かれてしまったようだ。
発見されては仕方ない、と直刃は渋々頷いた。
「えっと、はい、そうです……」
「すいません、留守の間に伺ってしまって」
女性は少年が探していた人物だと発覚すると、すぐに頭を下げた。髪色から何まで落ち着いた蒼色に統一されたその女性は、直刃のような一般人の少年が決して関わりあえないようなお金持ちの匂いがした。
そんな女性の隣には今度は正反対に派手な赤色に染められた女性が居た。彼女も同じように頭を下げている。
「──」
まるで妖精の様に美しい二人。直刃はその幻想的な光景に圧倒され、呆然とした。
本当に、現実とは思えないほど美しい人達だった。
「……っ」
そして何気なしに目線を下に送ると、窮屈そうにしている胸の谷間が目に入った。よく見ると二人共、はち切れそうなほど豊満な膨らみを持っている。
ほんのり頬を赤くしながら、直刃はひとまず家の中に二人を招き入れた。先ほどまで借金取りだ何だと頭を働かせていたが、今は無断で胸の谷間を拝見した罪悪感で一杯だった。
「す、すいません狭い部屋で……あ、ここに座ってください。今お茶でも出しますから」
「お構いなく」
直刃はその言葉を無視するような形で冷蔵庫からウーロン茶を取り出し、コップを三つテーブルに並べてそれに注いだ。
お構いなくとは言われたものの、流石に何も出さないのでは出て行けと言外に告げるのと変わらないだろう。社交辞令みたいなものだろうなと直刃はなんとなく直感した。
「すいません、こんなものしかなくて」
「いえ、頂きますわ」
ニコリと笑う女性を見て、直刃は内心ホッと溜息をついた。
彼女達が借金取り。まさか。
これだけで断定するのは難しいが、あまり悪い感じはしない。
わざわざ斜に構える必要はないと判断する。
直刃は今更ながら学校帰りだった事を思い出した。手に持っていたカバンを仕舞うと、テーブルを挟んで二人の対面に座った。
「えっと、それで……?」
「ああ、わたくしとした事が申し訳ございません。わたくし、こういった者です」
名刺を差し出されて、直刃は素直にそれを受け取る。
「スカイキャッスル、インダストリー……代表取締役、
どこかで聴いたことある名前だと、直刃は首をかしげた。だが記憶を探る前に、氷室がもう一人の紹介を始めた。
「こちらは秘書の
「初めまして、朱星です」
「あ、はい、どうも」
同じく名刺を渡されたが、受け取り方云々のマナーは社会人ではない直刃には分からない。失礼になってないといいなと願いつつも、手にした名刺に目をやる。
名刺には「スカイ・キャッスル・インダストリー、代表取締役秘書、
朱星朱雀って、凄い名前だなと思いつつも、直刃は口には出さない。それどころではないからだ。
直刃はこの会社名を知っていた。むしろ、知らない人はいないくらいに有名な会社だ。
スカイ・キャッスル・インダストリーとは、世界でも指折りの電化製品メーカーだ。ここ数年で突如として市場に出没し、その性能の良さから瞬く間に名前が知れ渡った大企業である。
電化製品の中には家庭用ゲーム機なども製造しており、直刃は友人のゲーマーから聞いた
「な、何の用なんですか? 日本を再び技術大国に押し上げた会社の社長さんが……」
友人が褒めちぎっていた言葉の一部を拝借しつつ、要件を尋ねる。はっきり言って、直刃はSCIと何ら関係はない。今や一家に一台何かしらSCI製品があると言われている程だが、あいにくと家計の厳しい直刃の家には無いのだ。
「あら、わたくし達の会社をご存知ですか。それは嬉しい事です」
氷室はコケティッシュな唇の形を変え、笑みを浮かべる。
年上の女性と会話した経験があまりない直刃は、それだけで顔を赤くしてしまう。
そんな直刃の様子を見て、真っ赤な髪の朱雀はクスリと笑った。
「朱雀」
氷室が嗜めるような視線を送り、それからこほんと咳払いをした。
「実はわたくし達、直刃様のお母様の知り合いでして」
「え、母さんのですか!?」
母の知り合い。そう聞いて直刃は驚いた。
思いもよらぬ名前が出たからだ。
「大学在学中、とてもお世話になったのですが、まさかお亡くなりになっているとは……」
だが、彼女の言葉で一転して、直刃は冷や水を掛けられた気分になった。そう、彼女の言う通り直刃の母は三年ほど前に亡くなっている。
父親は借金で夜逃げ、それからは直刃の母
しかし、長年の無理が祟ったのか、博美は直刃が中学生になるかならないかというタイミングで他界した。
「辛かったよね……」
名刺の件以降、今まで一言も喋らなかった朱雀が、急に身を乗り出して直刃の手を握った。
女性らしく柔らかくて触り心地のいい肌に触れられ、直刃はドキリとした。ほんのりと香水の香りも漂い、なんだか朱雀がとても魅力的に見える。
だがそれと同時に優しげな表情を浮かべる彼女を見ると、なんだか自分は酷く不運な運命だったのではないかと思ってしまう。
そうではない。確かに辛い人生だったが、楽しい事もたくさんあった。声を大にしてそう言いたかったが、何故かその感情が表に出ることはなかった。
女性の相手をした事のない直刃には、この近距離は即ち必殺の距離であった。今なら何を言われても頷いてしまう自信があった。
「それでですね、せめてものお母様への恩返しとして、直刃様には援助をさせてもらいたいと思います」
「え……は…………?」
いきなり現実的な話が氷室から飛来し、頭の中が真っ白になった。
援助というと、それはつまり金銭的な話だろうか。もしくはそれに準ずるものか。
確かに直刃は現在かなり苦しい生活を送っている。親戚やアパートの大家さんと協力して、なんとか高校へ通えているのが実情だ。
日々の生活費は母が残してくれた少ない貯蓄をちびちびと削り、食費に至っては最低限にするため、直刃にとっては一日一食も珍しくない。
そのような生活をしているからか、趣味は節約ですと、自虐混じりに自己紹介をしてしまうまでになってしまった。
そんな直刃に対して、援助をしてくれると氷室は言った。しかも大企業の社長だ。いやがおうにも期待が高まる。
それでも、直刃はそう簡単には頷けなかった。
母が生前、言い方は悪いが彼女達に恩を売っていたとしても、ここまでしてくれるほどの事をしたのだろうか。伊達にこの歳で一人暮らしをしていない直刃は、それなりに世間というものを知っており、とても信じられなかった。
意を決して直刃は聞いてみることにした。
「あ、あの! 本当に僕の母なのでしょうか? 人違いでは?」
「いえ、そんなハズはありません。博美様はわたくし達の恩人です。それに直刃様は博美様にそっくりですもの」
氷室は一も二もなく答えた。
確かに直刃は一般的な男子高校生と比べても女顔であり、背丈の小ささも相まって学校では「合法ショタ」、「男の娘」などと散々な呼び名を付けられている。
ショタはともかく自分ではそんなに女の子のような顔立ちではないと思っている直刃であった。
とはいえ背の低さは母親譲りであり、顔立ちも親戚のおじさん曰くそっくりだそうだ。
氷室の言う通りである。そうなるとやはり人違いではないのだろうか。
いや、まだ決めつけるのは早いような。
「子供がそんな事気にしちゃダメ。こういう時は素直に甘えちゃえば良いんだよ」
「わっ、朱星さん!?」
気がつけば、朱雀は直刃を横から抱き締めていた。顔面が彼女の柔らかな巨乳に包まれ、直刃は瞬時に紅潮した。弾力のある乳肉が、直刃の顔の形に合わせてむにむにと変形する。
今まで感じたことの無いような安らぎに、直刃の体から次第に力が抜けていく。
感じた事のない感触に、じんと股間が熱を持った。
「直刃様、まずはお家をご用意しました。ここではわたくし達が住むには少々手狭なので、そちらに移りましょう」
「え、家!!? っていうか一緒に住むんですか!!?」
「はい」
「もちろん♪」