熱気。
観客の、むせ返るような熱気。
広いドーム内に、その体温だけで薄い雲を生成しそうな。いっそ狂信的と言っても嘘にはならない熱気が渦巻いている。
彼等の視線を一手に惹きつけるは、一人の少女。若き乙女だ。
派手にライトアップされたステージの中心で、艶やかなツインテールが軌跡を残して線を描く。照明を反射するその髪は、黄金というよりも濃い
その色は髪色だけにあらず、彼女の衣装にも細かく散りばめられている。まるでそのカラーが自身の象徴だと言わんばかりだ。
豊満な胸と若々しい肢体をギリギリまで晒し、満面の笑みで美声を奏でる。美しい曲線美の腰をくねらせ、観客に自慢の体を見せつけるように踊る。
「「「……う、うぉぉぉぉおおおっっっ!!!!」」」
空気が、震えた。
その一つの動作だけで、たちまち観客達は歓喜を叫ぶ。会場全体が、波打つように大きく振動した。
少女は愛らしさと美麗さを兼ね備えた顔立ちで、無邪気に笑う。そのキュートさに、その場に居た誰しもが心臓を鷲掴みにされた。
ーーーーーーー
直刃はそんなライブ会場にいた。
「エル、オー、ブイ、イー!! ラブリーライカ!!!」
隣には、大粒の汗をかいた友華が立ち上がってエールを送っている。
飛び散った汗が、周囲の熱気に負けて蒸発した。実際に蒸発はしてはいないのだが、湯気を立たせて声を張り上げている友華を見ると、直刃はそんなことが起こってもおかしくないと思ってしまう。
「熱過ぎ……凄い熱気だ……」
独り言を呟くほど、会場は熱かった。
周りの人間が狂喜乱舞してスタンディングしている中、冷めた顔で座っている直刃ですら汗で脇を湿らせているのだ。友華のように奇声を上げて盛り上がっている人間達の熱量のほどは計り知れない。別に知りたくもないが。
ため息を吐きながら、氷室にプレゼントされた腕時計を確認する。時刻は夜の九時。友華によるとライブは十時までなので、後一時間はこのサウナに居なければならない。
気が重かった。
何より、直刃を除く観客全員があのアイドルに酔いしれていた。そんな中、一人寂しく疎外感に苛まれながら時が過ぎ去るのを待つ。これはちょっとした拷問だった。
「ライカ、ライカ、ライカ!」
曲が変わったのか、友華の合いの手も変化する。重量感たっぷりの彼がこうして歌っているだけで、お腹いっぱいになる光景だった。
「……皆待ってるのかな。早く会いたいなぁ」
愛しい眷属の顔を脳裏に浮かべ、いっそのこと友華を置いて帰ろうかと思う。
いや、帰れるものなら帰りたかった。直刃は隣の幼なじみをこの場に置き去りにしても、後悔しない自信があった。
だが、そうは問屋が卸さない。ここからどうしても立ち去れない理由が。直刃の努力ではどうにもできない理由が二つほどあった。
一つ目は、情けない話だが、帰り道が分からないのである。
直刃は友華に拉致されるようにしてこのライブ会場まで連れてこられた。電車を乗り継ぎ、見知らぬ土地を引きずられてここまで来たのだ。道順など記憶している時間もなかった。
よって、帰れるとすればそれは友華についていくしかない。そのためには、ライブの終了が必須条件だった。
……もっとも、これはどうにかなる気はしていた。
「うぅ、まだ見てるし……」
故に、それとは別にもう一つ直刃を悩ませている理由が問題だった。これは帰り道が分からないとは比べ物にならない程厄介だった。これに比べたら帰り道なんてどうでも良かった。最悪どうにかして帰れるだろうし。
「──♪」
ライブが始まった時から片時も逸らされない視線が、直刃を凝視しているのだ。肉食獣に近しいギラギラとした視線は、初対面の紫羽を彷彿とさせる。
この会場内で着席しているのは恐らく直刃ただ一人であり、それ故直刃は観客達に埋もれてステージを見ることが出来ない。ライブ自体には毛ほども興味が無いのでそれは構わないのだが、時折人々の合間を縫うようにして目線が合う。
その度に、直刃は背筋を震わせた。
勘違いだったらいいな。自意識過剰だったらいいな。
楽観的に。極めて楽観的に。直刃は思い込みだと自分に言い聞かせた。
しかし
直刃は頭を抱えた。百歩譲って直刃を監視する者がいる事をよしとしても、今回の場合はその犯人が悩みどころだった。
「まさか、国民的アイドルが死神だったなんてね……」
そう、直刃を見つめているのは、ステージ上で踊る彼女だった。幸か不幸か、直刃の席はステージの真正面であるため、パフォーマンスに違和感はない。それ故誰も気がつかないのだ。
――
天才的な音楽センスと誰からも好かれる愛くるしいルックスで大ブレイク中の彼女は、老若男女問わず大人気だ。
テレビには毎日引っ張りだこで、知名度の方も、芸能人方面には疎い直刃が知っているというだけで推して知るべしだろう。学校に居るだけでも、彼女の名前は自然と耳に入ってくるのだ。
そんなアイドルが、直刃をじっと凝望している。
何故なら彼女は、死神だから。
「……はぐれの死神は危険だから近付くなって言われたけど、こんな堂々と生活してるとは思わないよ」
紫羽の話によると、マスターに仕えていない死神をはぐれと呼ぶらしい。何世紀もマスターに従っていると、時折気に食わないマスターに嫌気がさしてストライキを起こすんだそうだ。
そんな馬鹿なと直刃は思ったが、神様的には定期的に悪魔さえ退治してくれれば、強制はしないようだ。
ただ、その場合は独力で狩りを行う事となり、魔力の関係ですぐに命を落とし、次の主が決定するまで転生は行えない。中にはうまくマスターから精子を摂取して生き長らえる者もいるが、紫羽の知る限りそんな事が可能な死神は一人しかいないとか。
驚いた事に、朱雀も以前はぐれだったらしい。
詳しい話は聞きそびれたが、歴代のマスターと何かあったのだろうと睨んでいた。
「……と、今はそれどころじゃないか」
目下の最重要事項は、天音雷歌である。ライブが終わった直後、いかに素早くここを脱出するかが勝負の分かれ目だ。防衛手段のない直刃には、それしか出来ない。
はぐれとは、厳密にはその時代のマスターに出逢えていない死神をも指す。もしかすると、彼女も運悪く直刃に出逢えなかった死神かもしれない。
かと言って、以前直刃達に声のみで挨拶してきた死神の線も捨てきれない。雷歌と違いアレはアルトボイスだったが、魔力を使えばどうとでもなるのだろう。
もしくは、仮に例のアルトボイスと雷歌が別人だとしても、雷歌自身がマスターに攻撃的かどうかは別の話だ。油断して話し掛けたら拉致されて魔力を搾り取られ続けるかもしれない。
「それはそれで結構魅力的……いやいや、僕には氷室さん達がいるんだから。なに馬鹿なこと考えてるんだ」
延々と搾取されるプレイも中々捨て難いが、紫羽に頼めば喜んでやってくれるだろう。わざわざ危険をおかしてまであのアイドルにレイプされに行く必要はない。
敵か味方か。情報は何も持っていない。確率は五分五分だ。
否、味方であるならば氷室から報告があるだろう。氷室を疑うなんて微塵も考えていない直刃。雷歌の名前を彼女から聞いていない以上、敵である確率が高いと踏んでいた。
「……うん、逃げよう」
熟考の末、直刃が下した判断は逃走。よくよく考えれば会場の外で友華を待っていても良かった。それによしんば直刃がライブ終わりまでここで待機していても、相手はアイドルだ。観客席まで来て直刃に会いには来ないだろう。なら帰る観客に紛れて会場を後にできる。
我ながら完璧な作戦だ。この場に朱雀でもいたら、諸手を挙げて褒めたたえてくれるだろう。感極まって唇を奪われるまで容易に想像がついた。
「直刃、お前……」
そんな時、唐突に隣の友華が信じられないといった声をあげた。違和感を感じて辺りを見回す。
やけに会場が静かだ。思考の海に溺れている最中に、何かが起こった気がした。直刃の第六感ともいうべき仮想臓器が、強かに警笛を鳴らす。
遅れて、ステージを照らすスポットライトの幾つかが、何故か直刃を照らした。その動きに統一性はなく、まるで証明担当がアドリブを効かせたような印象を受けた。
「え、何……?」
いきなり光を当てられて、眩さのあまり直刃は目を細める。目が慣れる頃には、凄然とした会場が、一様に直刃を見ていた。
冷や汗がぶわりと湧き出る。万を超えるであろう眼球が、穴でもあけるように直刃をじっと見つめていた。
「皆に紹介するね、私のご主人様!!」
雷歌の声が、マイクを通して場内に響きわたる。観客の顔に、怒気が混じった。
頭が現状把握を拒み、最初は惚けていた直刃も、やがてじわりじわりと彼女の言葉が脳に染み込む。
――しまった。先手を打たれた。
頬を伝う汗が、白くなるほど握り締めた拳に落ちる。緊張のあまり、まぶたが軽く痙攣した。
直刃は、今更のように理解した。はぐれは
つまり彼女は、この場で自分の王を手に入れようとしていたのだ。
こんな事件を起こせば、世間に様々なゴシップが流れるだろう。まさに捨て身。直刃は死神という存在を甘く見ていた。
「さぁご主人様、ステージへ♪」
駄目だ。逃げられない。雷歌のわざとらしい笑みが、悪魔の狂笑に見えてくる。
「くっ……!」
震える足に鞭打って、なんとか立ち上がった。何か諦めたような表情の友華を尻目に、一歩一歩ステージに歩み寄る。
数千人に視姦され、直刃は雷歌を睨みつけながら歩く。周りの風景は意図的に見ない。見たらとても立っていられない気がした。
ステージの下までたどり着くと、雷歌から手が差し伸べられた。直刃の低い身長では上がってこれないと思ったのだろう。払い除けたかったがその通りなので、直刃は下唇を噛み締めるだけにとどめておいた。
「うわっ!?」
黄色いラインの入った白い手袋を付けた手を握ると、直刃の体はいとも簡単にステージに引き上げられた。大の大人でも、小柄とはいえ高校生をこうも容易く片手で持ち上げられる訳がない。触れている手からもやはり魔力を感じる。
彼女は、紛うことなき死神なのだ。
「初めまして、愛する私の王様!」
近くで見ると、雷歌の美しさは死神と共に生活している直刃ですら目を見張った。愛くるしい顔立ちは、天使と形容しても遜色ない。
もちろん、直刃は愛する眷属達が最上だと雷歌を見た今でも宣言できる。しかしはぐれである雷歌もまた死神であり、その美麗さは彼女達と同格なのだ。
「皆バイバイ! 私は恋に生きます!!」
雷歌に手を引かれて、ステージの上を後にする。背後に幾千の嫉妬の鬼が待機している様子は想像だに難く、脚がすくんで満足に進めなかった。
「ちょ、ちょっと雷歌ちゃん何してんの!!?」
舞台袖では、数多のスタッフが慌てふためいていた。その中で唯一スーツ姿の男が、しきりに額を掻きむしりながら雷歌に詰め寄る。男は気の毒なほど焦燥していた。
「うるさいよ、もうアンタに用は無いんだから」
ステージの上の姿からは想像もできないドライな声質で、雷歌はその男の手を掴む。
バチンと破裂音が聞こえると、スーツの男は無言で床に突っ伏した。
いよいよもって大騒ぎとなる。スタッフは皆目に見えて狼狽えていた。会場の方からも、ダムが決壊したかのごとく雄叫びが聞こえ、「殺せ殺せ」と呪詛の大合唱。もう友華とは二度と会話出来ない予感がした。
「こっち」
「うわ、わっ……!」
グイと手を引かれ、廊下に出る。視界の隅に映る関係者以外立ち入り禁止の文字を通り過ぎて、直刃は控え室らしき部屋に連れ込まれた。