雷歌が自室から出てくることはなかった。
直刃には彼女を責める気などさらさらないが、かと言って無理に引っ張り出すつもりもなかった。
彼女の気持ちを汲むとするならば、今は時間が必要なのだろう。きっと。
直刃は諸々から逃げるような選択を選んだ。
「……」
直刃は気分転換に外に出る事にした。外の気温は三十度を超えていて散歩するには暑すぎたが、直刃にはどうでもいい事だった。
外に出る。悪魔に襲われたばかりでそれは思慮が足りないのではと思うが、なんとなく家に居たくない気持ちの方が強かった。
こんな気持ちは久しぶりだった。家の中がなんとなく居心地が悪かった。
誰も何も悪くないはずなのに、それぞれが責任を感じていた。誰しもが思いつめていた。
バカバカしすぎて苦笑が浮かぶが、こじれ始めると人間関係なんてこんなものだろう。
それに、何より――初代死神の試練。あの日以降直刃の心に重くのしかかる重圧が、精神をひどく疲労させていた。
「僕まだ高校生だよ……」
家族を失う事ですら辛かったのに、その上満足な結果を出さなければ殺すと言われてしまった。そんなの、一介の高校生である直刃に納得出来るものでは到底なかった。
自分が一般人とかけ離れてしまったのは、氷室と朱雀と出会った時点で理解している。理解しているが、それは直刃にとって替えの効かない大切な家族が出来たという、それだけの話だった。まさかこんな命の危機にまで発展するなど考えもしなかった。
思えば、悪魔という存在を直刃は何処かで楽観視していた。死神達が傷ついている姿は何度も見たが、それを助けてやりたいとは思っても、まさか自分に降りかかるとはかけらも思わなかった。それほどまでに彼女達の強さは圧倒的だったからである。
今でも、不定の悪魔とやらに殺されかけたのはイマイチ信じられない。初代死神によって何が起こったのか告げられた瞬間でさえ、直刃にとっては何処か他人事ですらあった。
しかしその初代死神によって、直刃は嫌でも死を意識しなければならなかった。
役に立たなければ殺す。
それはなんて合理的な判断で、非人間的な考えなんだろう。死神と人間の違い、その一端を垣間見た気がした。
そして今、直刃自身の命が秤にかけられていた。生かし続ける価値があるのか、死神の長に品定めされるという現状。
お眼鏡にかなわなければ、それは死を意味する。人並み以上の不幸の中を生きてきて、やっと見つけた人並み以上の幸せ。その幸せは生きるか死ぬかの瀬戸際でしか手に入らないものだったのだ。
アリアには心配するなと言った手前、こんなにメソメソした気分になるのはなんて情けのない事なんだろう。
でも世界が容赦なさすぎる。
どうして世界ってのはこうなんだろう。
幼い頃、母はこう言っていた。『どんな事にもバランスが存在する』と。
良い事の後には悪い事が、悪い事の後には良い事が。巡り巡ってやってくるのだ言う。
その考えならば、じゃあつまりは直刃のこれまでの不幸では、彼女達とただ普通に暮らすという事さえその幸せに足りないとでも言うのだろうか。
命をかけて、そうでもしなければバランスの取れない幸せなのだろうか。
――だったら、僕が王になる事は正しい選択だったのかな。
子供の理論という事は分かっている。分かっているが、もし選択肢として死んだ母とともにもう一度暮らせるなら、母が死んだ不幸のそれ以上幸福としてその選択肢があったとしたら。
直刃は今現在これほど愛している死神達を選べたのだろうか。
思考がまとまらない。何を考えているのか自分でもよくわからなかった。
心の内で首を振る。馬鹿か、みんなの王になる事に後悔なんてあるはずもない。
それでも、今の気持ちを表すなら、迷っているという一言だった。
このままみんなと共に生きていく事が、死神達にとって良い事なのか。自分はもしかしたら死んだ方が――
「主、信号が変わりましたよ」
「……あ、ああ、うん……行こうか、紫羽さん」
紫羽の言葉に従い、青に切り替わった信号を確認して交差点を手を繋いで歩く。
いけない、思考がネガティヴに傾いている。また彼女達に心配させてしまうかもしれない。
満面の笑みを貼り付け、進行方向を見据える。何をしているんだろう、自分は。
いつもの自分を取り戻そう。彼女達に愛される自分を。
「主、お気分が優れないようでしたら……」
「ううん、ごめん考え事してた。大丈夫だよ」
「いいえ、紫羽にまで隠さないでください。
紫羽は昨日直刃が嘔吐した事を知っている。単純に心配してくれてるのだろう。
実際体調は本調子には少し遠い。朝アリアに使った体力を考えても、この気だるさは計算が合わない。あまり遠出できるコンディションでないことは直刃自身よくわかっていた。
直刃は頷くと、ふと目に留まったスーパーマーケットを指さした。『エイトビッチ』とでかでかと書かれた看板を掲げるその店は直刃が以前から夏休みになると度々涼みに来ている大型スーパーである。食料品、衣類、雑貨などは当たり前に置いてあるが、ここは加えて電化製品も販売しており、店の中にはなんと書店も存在する。
あそこで涼もうかと提案すると、紫羽は頷き、直刃の手を取って歩き始めた。
違和感に気がついたのは、そのすぐ後だった。
「あれ……?」
足が重い。
まるで長時間正座していたかのように足がジンジンと痺れて、直刃は訳もわからず前のめりに崩れ落ちた。
目の前にアスファルトの地面が迫る。手を前に出そうとしても、その手も痺れて動かない。
駄目だ。体が動かない。
思わず目をつぶり、衝撃に備える。
「っう……!!」
後数センチで激突寸前というところ、紫羽が直刃の体を抑えた。肺から空気が押し出され呻いたが、それでも自分が助かったことに安堵した。
「あ、あはは、た、助かったよ紫羽さん……」
情けない体制で紫羽に感謝を告げると、彼女は直刃が動かないことを見抜いたのか近くの電柱に直刃の体を座らせた。
直刃は電柱にもたれながら、紫羽の顔を見た。
目を潤ませて、今にも泣き出しそうな、そんな顔をしていると思った。
だから言っただろうと、無理をする前に早く帰ろうと、そう言っただろうと。そう怒られるとも思った。
過保護な死神の一人がそこにいると思った。
「――主、よく聞いてください」
紫羽の口からは聞いたことのない硬い声音を聞いて、直刃は自分が考えている以上の事が起きていることに気がついた。
やっぱり体調が悪かった。だから動かなくなった。
そう考えていた。それしかないと思った。
紫羽の能面のような表情は、別の答えを指し示していた。
「悪魔……?」
見渡すと、そばを歩いていた人は軒並み地面に倒れていた。そしてその誰しもがピクリとも動いていなかった。
まるで石にでも変えられてしまったかのように。
「ええ。それもタチの悪い部類の奴らです」
紫羽は時間が惜しいとばかりに直刃に口づけする。突然のことに戸惑う直刃。だが、唇にピリリと電流が流れ、これがただのキスではないことはすぐに理解できた。
この感覚は、そう、魔術をかけられている。
口のまわりがピリピリと熱くなり、まるで麻酔をかけられたかのようにぼうっとする。
キスはすぐに終わった。紫羽は互いの唇にかけられた唾液の糸をぺろりと舐めると、スッと立ち上がった。
「悪魔の攻撃です。一応まじないを掛けましたが、あまり深い呼吸はなさらないでください。肺ではなく、喉で呼吸するように意識を」
「ま、待って紫羽さん、みんなを呼ばないと……!!」
直刃の悲痛な叫び。つい昨日、死神一人では危険だと直刃は体験したばかりなのだ。紫羽一人で倒せるかどうかわからない相手に立ち向かわせる訳にはいかなかった。
紫羽はクスリと笑うと、ゆっくりしゃがんで直刃にもう一度キスをした。ずぞぞと根こそぎ水分を奪われるような、魔術とは関係のないただ快楽のみを目的としたキスだった。
紫羽は満足そうに頷くと、直刃を安心させるように撫でた。
心配しないでください。恐らくそう言おうとして口を開いたのだろう。
だが、その言葉を聞くことは出来なかった。
どすっ、と突き刺さる音がした。
「がはっ……」
紫羽の開いた口から、血の塊が飛んだ。至近距離にいた直刃はモロにそれを浴びて、それから何が起こったのか分からず首をかしげた。
いくら待っても次の言葉は来なかった。
直刃はなんとなく、ただなんとなく目線を下にさげる。それは直感でもあり、何故か確信すらあった。
紫羽の胸部から、黒い棘が生えていた。ちょうど二つの乳房の間のど真ん中を掘り進んできたかのようなそれは、禍々しく歪な形をしていて、拳大ほどの大きさだった。
まさか、そんな。
直刃は紫羽の顔を見る。冗談だと言って欲しかった。
「――紫羽、さん」
どすっ。
紫羽の開いた口から、気がつけば二つ目の棘が生えていた。胸に生えたものよりも少し小さく見える。だがそれは一つ目の棘とは違い表面に幾つもの不揃いな突起があった。
そしてその剣山のような棘の塊が丸ごと、ぐりんぐりんと回転して紫羽の顔を削り取っていた。
「あ、ああ、あああああ……!」
びちゃびちゃ、ぐちゃぐちゃ。
血と肉と歯と骨の塊だったモノが直刃に降り注ぐ。直刃は動けない体で、それを眺め続けるしかなかった。
視界は赤とピンクに染まる。とろみのついた体液が、目と、耳と、鼻と、口と、そのすべてから流れ込んできた。
がくがくと拒否反応を示し体が震えた。今すぐ遠くに走り去って、目と耳を塞ぎたかった。
こんな事って、あっていいはずがない。信じられる訳がない。
現実はそれを許さなかった。直刃は自らの精神がぽっきり折れる音を耳にした。
目の前のモノは、もはや人の形を保ってはいなかった。人としての尊厳など微塵も考慮されず、処理として人の顔をかき混ぜる。
やがて彼女だった顔が右耳と右目だけになると、その体は宙に浮き、直刃から遠ざかっていった。
目を向けると、棘の持ち主と思わしき存在は、そこに居た。
それは今まで見た悪魔とはかなり違った。
三メートルはあるだろう黒い棘を花弁のように幾重にも重ねて咲かせ、その中央からは丸々と肥えた触手が六つ、にょきりと生えていた。
光さえ飲み込んでしまうような濃密な黒色の塊。遠目から見るそれは悪魔と呼ぶよりまるで植物だ。
まるで、地獄の植物――
「ああ、ダメだよ、やめて……っ」
掲げるようにして持ち上げられていた紫羽の死体が、触手達に弄ばれながら静かにその植物へと近づいていった。くぱりと開く花弁の中央には、決して人類が到達してはならない深淵があった。
そこに、紫羽の体が、足先から飲み込まれていく。不可逆のブラックホールが、嬉々として彼女を飲み込んでいく。
次は自分の番なのだろうか。
この期に及んで、まさか自分だけ逃げようとは思わない。そもそも逃げ切れないし。
だから今直刃がやるべきことは、早く諦めることだった。
生きることを諦めることだった。
紫羽と同じ場所に行けるならそれもいいのかもしれない。
直刃が現実逃避を始めたまさにその時だった。
「そ、そんな……」
あろうことかその触手はもうすでに死んでいる紫羽の体から両腕をもぎ取ると、それぞれの腕を別の触手に手渡した。
紫羽の手を持った触手はそれぞれの持ち主の元へと戻っていった。
いつの間にやら、植物は三体に増えていた。そしてそれらは互いに人肉を分け合い、踊るように貪っていた。
冒涜的すぎる光景に直刃はただ泣き叫び、自分もああなるのかと戦慄した。
いやだ、死にたくない。どうして自分が死ななければならないのか。
紫羽を食べ終わった三体は、付近に倒れる市民を食べ散らかしながら、一目散に直刃へと迫ってきた。
逃げる術も、逃げる気力も、生きる意味も、直刃は失っていた。
数秒と経たず、直刃の数メートル先に植物はやってきた。
触手を伸ばし、ぐりぐりと先端を回転させて、直刃へとその触手を近づける。それは威嚇というよりもレストランで子供がご飯を前にしてフォークをカチャカチャと鳴らすような、そんな動作だった。
死ぬ。
それもとっておきのグロテスクな殺され方で。
「うわああああああああっっっ!!!!!」
無様な慟哭は静かな空間に響いた。ギシギシと棘の花が笑い声みたいなノイズを鳴らす。
それはあの兄と同じ、怒りでしか構成されていない笑い声だ。
フラッシュバックするのは兄の死に様。あの日、自分があんな事をしなければ兄は死ぬ事はなかった。
この現状は、罰だとでも言うのだろうか。バランスを取るために自分は死ぬのだろうか。
そう考えると、すこし気が楽になった。決して恐怖が消えたわけではないが、自分の死に少しでも意味を持たせられるなら。
「――に、兄さん、母さん」
なんの慰めにもならない呟き。まさにその時だった。
触手の動きがピタリと止まった。
奇しくも辺りに散らばる人間と同じように石像じみた停止をしたその花は、本当に活動をやめたのかと思うほど長い時間動きを止めた。
直刃の体感であり、それは数秒に満たなかったのかもしれない。けれど直刃にはその時間がとても長く感じた。
物音一つしない静かな空間で、三体の植物は微動だにしない。
「……?」
どのくらい時間が経ったのだろう。直刃は空気が震えている事に気がついた。
地震とは違う。耳元で羽虫が羽ばたくような音が、この付近に広がっていた。
音の原因はすぐに分かった。それは今まさに直刃に襲いかかろうとしていた触手達だった。
細かくバイブレーションする触手から読み取れるものは何もなかったが、どこか苦しんでいるような印象を受ける。
振動は大きくなり、ついには花全体がブレ始める。内側から崩壊を始めたかの如く、唸り、苦しげに触手をわななかせる。
それも一体だけではない。伝播したように他の花にも震えは共有されていた。
「紫羽さん……?」
直刃の言葉に返答するかの如く、三体の植物の中心部から一斉に白い光が生えた。
五メートル近くもあるその光は、白く輝く刃だった。
反りのある白刃は大きさの割に俊敏な動きでくるりと植物の表面を一周した。内側から輪切りにするような動きは、結果としたその通りになった。
ぱかっと擬音がつくような勢いで花々は真ん中から縦に割れた。ぎしぎしと怒りをむき出しにした鳴き声で棘の花達は死滅していく。
燃え殻のような死体が辺りに舞い、後に残ったのは怪我一つない全裸の紫羽の姿だった。
「……紫羽、さん」
「申し訳ありません、毒が主に回ったのは想定外だったので最も早い手を打たせて貰いました。紫羽めは無事ですので、泣かないでください」
言い訳がましく早口でまくしたてる紫羽。普段とは想像もつかない焦りっぷりに直刃は泣いていいのか笑っていいのかわからなくなった。
言える事無事でよかったという事。そしてもう二度とあんな危険なことはしないで欲しいという事。
「し、しばさん……!!!!」
結局直刃はわんわんと大泣きしながら紫羽に抱きついた。