――約一ヶ月前、直刃が雷歌を追って家を出た日。
「マスター、無事だと良いけど……」
大きなガラス越しから摩天楼を見つめる朱雀。そわそわと落ち着きのない様子で、今にも家を飛び出して行ってしまいそうだ。
「そうね、アリアが護衛をしているから道中は心配ないと思うわ、でも――」
ソファの上で携帯を握りしめる氷室もそれは変わらず、主の助けを求める電話があれば一秒でも早く助けに行かねばと緊張している様子だった。
「――問題はそこじゃないわね」
「むしろ目的地に着いた後よ。初代死神は間違いなく雷歌に接触してる。マスター、ただでさえ今は色々悩み事があるみたいだし、やっぱり心配……」
死神特有の感覚から、初代死神が動いた事は把握している二人。それが愛する直刃にとって悪い影響があるのは、あの死神の性格を知っている者からすれば明らかであった。
初代死神、初めてこの地球誕生し、以降気の遠くなるような長い間悪魔を狩り続ける死神の象徴的存在。
人間のモノとは天と地ほどの差がある理解不能なその知能は、西暦が成立する前から存在するだけあって効率的であり狡猾。いくら氷室達が策を弄したところで、膨大な経験差は覆せる物ではなく、こういった場面で初代死神に対して死神達は圧倒的に不利だった。
「はぁ……」
「ふぅ……」
ため息が漏れる氷室と朱雀。
そんな彼女とは対照的に、紫羽は普段と変わらずテキパキとリビングの掃除を行い、食器類の整頓を繰り返していた。
「……紫羽はほんと、図太い神経してるよねー。羨ましいっちゃ羨ましいし、薄情っちゃ薄情だよね」
「ちょっと、朱雀」
ジト目で紫羽の様子を観察する朱雀を、いつの間にか隣に立った氷室が肘で小突いた。
「なによ」と怪訝に氷室を見る。実を言うとこの家のヒエラルキーにおいて紫羽はかなり上位で、密かに気に入らなかった朱雀はこうした発言を遠慮するつもりはなかった。
てっきり氷室もそう考えていると思ったが、もしや紫羽の味方につくつもりか。
「むぅ……」
力を込めて氷室を睨み付けると、違うわと首を横に振られた。
「よく見てみなさい、紫羽も冷静じゃないわ」
「へ、どゆこと……?」
言われた通り紫羽を見るがどこにもおかしな事はない。今現在も普段通り食器を拭き、棚に戻し、そしてその戻したばかりの食器を手に取り、それを拭き、棚に戻し、再び同じモノを手に取り――
「あれ……?」
言われてみればおかしい。さっきから同じ食器しか拭いていない。
目の前で繰り返される無限ループに、朱雀は目が点になる。
あの冷静沈着を地で行く紫羽が、あれだけの動揺を表に出すことなど今まであっただろうか。直近の五百年近い記憶を遡っても、全く思い出せない。こんな事は直刃と出会う前の彼女ではありえない事だ。
やはり心配なのだろう。薄情だなんだと言ったが、朱雀は撤回する事にした。
「……」
そのまま壁に掛かった時計を見る。雷歌を追いかけるようにして家を出てから五時間は経っている。これでアリアと共にいるならばまだ安心出来るが、初代死神が絡む以上、そうでない可能性も高かった。
「マスター、無事でいて……」
思わず天に祈る。神という存在がどんな物なのか知っていて尚、そうして手を合わせずにはいられなかった。
「ッ!?」
そんな折、氷室の携帯から着信音が鳴り響く。氷室が慌てて携帯を耳に当てる。
「も、もしもしマスター!? 無事なのですか!!?」
「ちょ、っ、ちょっと、氷室! スピーカー、スピーカーにして!!」
「うるさいわよ、それどころじゃないの!! マスター、マスター!!?」
携帯をサンドイッチするようにして氷室と朱雀の耳と耳、頭と頭がくっつく。とにかく元気な声を聞きたかった。不安でたまらなかった。
『あはは……』
電話越しから、元気のない苦笑が辛うじて聞き取れる。心配性の氷室は尚もマスターマスターと呼びかけているが、朱雀にはなんとなく直刃が無事だと分かった。
「良かった、マスター……」
涙ぐみながら口を抑える。こうしていないと声を上げそうだった。それほど激しい感情が胸に生まれた。
「ええ、ええ! 良かったですわ、本当にご無事なのですね……!!」
ようやく生存確認が取れて感極まったらしい氷室が、そのまま泣き崩れた。
しかし嗚咽交じりの氷室では満足に会話出来ない。朱雀は自分が代わろうと思ったが、それよりも早く動く人影があった。
「主、紫羽でございます。お怪我はありませんか?」
すっかり号泣している氷室から携帯を取り上げ、何事もなかったかのように応答する紫羽。さっきの無限ループはなんだったんだとか、色々指摘したい事もあったが、これ以上こじれて直刃の状況が分からなくては本末転倒なので朱雀は口を閉ざす事にした。
こういったところが、ヒエラルキーに直結しているのだろう。
「とりあえずは無事……そうですか、良かったです」
目に見えて紫羽の表情から緊張が取れる。
彼女はそのまま、素早くスピーカーモードにすると、携帯をテーブルに置き、正面のソファに座った。朱雀は溢れる涙をぬぐいながら、後に続いてその隣に座る。
氷室は腰が抜けているようでにその場を動かなかった。
「主、それでどうなりましたか?」
『……まぁ、色々あって、一応最悪の事態は回避したよ』
携帯を通して聞いているからか、いつもよりどんよりとした直刃の声。何処と無く絶望に満ちた声色に、朱雀はほっと胸をなでおろしたのもつかの間、すぐに嫌な気分になった。
気のせいだろうか。気のせいであってほしい。
「ということは今は雷歌の家に……?」
『……うん、まぁね。雷歌は今ちょっと事情があって寝てる……その、連絡が遅れた事は謝るけど、何も言わないで』
口調に何処と無く棘がある。やっぱり何かあったんだ。
胸がざわつく。今すぐにでも飛んで行って抱きしめてあげたかった。
朱雀は居ても立っても居られず立ち上がりそうになるが、直刃の次の言葉に硬直せざるを得なかった。
『今頃、アリアは初代死神と一緒かな……わかんないけど、一つ言えるのは、僕みんなと暫く会えなくなっちゃった』
「会えなく……? 主、初代死神と何かありましたか?」
『……ごめん紫羽さん勝手な事して』
「……話してください。大丈夫、この紫羽が何としても助け出してみせます」
マスターと会えなくなる。
直刃の衝撃的過ぎる発言に朱雀は脳を揺さぶられる。嫌だ、そんなの無理、三日ともたない。すぐにマスター成分が不足して死ぬ。
目の前が真っ暗になる感覚が朱雀を襲う中、会話は淡々と進んでいく。紫羽は当たり前のように直刃と会えなくなる事実を受け入れているが、本当にマスターの死神かと疑ってしまう。冷静でいられるはずもないのに。
『雷歌を助ける代わりに、試験を受ける事になった……紫羽さん、僕死ぬのかな……』
空気が凍った。
マスターが死ぬ。その一言でその場にいた死神は全員心臓を握り潰されたような痛みを味わった。
あの柊直刃が、死ぬ。半年も経たずにこの人数の死神を心の奥底から虜にして骨抜きにし、惜しみなく愛情を注いでくれる彼が、死ぬ。
「主、順を追ってお願いします。まず試練とは……?」
ぎゅっと拳を握った紫羽が、表面上は冷静に問う。
『……僕は、死神の王としては相応しくないかもしれないから、初代死神が試験をするって。そう言ってきたんだ』
「なんで!!? マスターほど相応しい人はいないのに!!」
思わず声を大にして叫ぶが、それはリビングに虚しく響くだけだった。
憤慨する朱雀を尻目に、紫羽は直刃へ続きを促す。
『それで、試験に合格しなかったら……僕を、殺すって……』
震える声で直刃はそう言うと、鼻をすすり、小さく息を吐いた。
泣いている。あのいつも笑顔のマスターが。
恐怖している。怯えている。助けてくれと子供のように泣いていた。
朱雀は今、直刃の隣で、愛するこの人を支えられない事を悔やんだ。今こそ、今こそ一人にしてはいけないのに、壊れてしまわないように包み込んであげなければいけないのに。
悔しくて悔しくて、悔やんでも悔やみきれなかった。
「試験、ですか……他には何か言ってなかったですか?」
『有用性を試す、って。それ以外はみんなに悪影響だから殺すしか言ってなかったと思う』
「そんなの、あんまりだよ……!!」
理不尽過ぎる。直刃が何をしたというのか。
これが歴代の死神の王も全員受けているという試験なら納得も出来ようが、朱雀が知る限りそんなものはない。ましてや生死に関わるなど、初代死神であっても許されるものではないはずだ。
朱雀の髪が、夕日の色をして輝いた。
「有用性ですか……主、具体的に何か指示はありませんでしたか?」
『……何も……何も無かったよ』
何か含みのある言い方の直刃に紫羽はそうですかと静かに頷いた。
「――試験については紫羽にお任せください。それより主、まずは雷歌を連れてお帰りになってください。位置はどこです、朱雀を向かわせます」
『ううん、駄目だよ。雷歌が死神として使えるようになるまでは、ここから出られないんだ』
「それも、初代死神の……?」
『そう。さっき家から出ようとしたら、出られなかった。玄関を開けると、そのままこの
ほんと何でもありだよねと毒づく直刃は、ふてくされたように無気力な様子だった。
マズイ。やけくそになって何か危険な事をするかもしれない。
朱雀と同じ事を思ったのか、紫羽も早口でまくしたてるように話した。
「主、初代死神の方は紫羽が解決してみせます。今は雷歌の事だけをお考え――」
紫羽の言葉は途中で途切れた。
『……分かった、僕なりに頑張ってみるよ。それじゃあ』
直刃は異変に気がつかず、そのまま通話を切ってしまう。
紫羽はというとリビングの入りがに釘付けで、その視線を追った朱雀も石化した。
「邪魔するぞ」
何気ない顔で、初代死神がそこにいた。
全身から血を垂れ流し、ボロ雑巾のように痛めつけられたアリアを引きずって。
「げほッ……クソ、ババァがッ……!」
蚊の鳴くような声でアリアが罵倒するが、その幼女は鼻で笑うだけだった。
「さて、状況把握は済んだかの。ではこれ以上の接触は控えてもらおう、それを寄こせ紫羽」
羽虫が羽ばたくような振動音と共に、テーブルに置いてあった携帯が、初代死神の手の中に収まった。
瞬間移動した。言い表すならまさしくその通りで、そして誰もそれを知覚出来なかった。
「聞いての通りじゃ、これ以降柊直刃との接触を禁止する。ここにいる死神はおとなしく、わしの目の届く範囲に居ることじゃの」