娘の交換留学相手(11)がぐうシコ過ぎる件 作:かしわもち@ハーメルン
あれ以来、俺はジゼルちゃんのおっぱいが頭から離れなかった。
タンクトップ越しでもわかる綺麗なお椀型。
薄目を開ければ色が透けて見えた、綺麗な薄桃色の乳輪と乳頭。
娘の凛花とは何もかもが違う。
腰のくびれも、尻肉の煽情さも、おっぱいのボリュームも。
まさに白人少女という迫力が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
もちろん、あれぐらいのおっぱいの大きさなら、日本の小学生にだっているかもしれない。しかしあの細さで、幼さで、あそこまで形の良いおっぱいを備えた小学五年生は、日本中のどこを探してもいないだろう。
それだけ、ジゼルちゃんが特別だということ。
白人の中でも、より正確に俺の理想を体現した、ロリ巨乳の中のロリ巨乳なのだ。
小学生でEカップやFカップだなんて、そんな無粋なことは言わない。
俺の理想はCカップだ。その枠を大きくはみ出ないジゼルちゃんのおっぱいに、俺はもはや神聖さすら感じていた。
願わくは、あのおっぱいを布を通すことなく生で。
そんな風に思っても、誰も俺のことは責められまい。
“G, Good morning, dad...”
「おはよう、ジゼル」
あの日以来、ジゼルちゃんが寝ぼけ眼で居間に降りてくるということはなくなった。
あの“失態”を本人もひどく反省しているのだろう。仮初の家族相手とはいえ、あんなにもあられもない姿を大人の男に晒したのだ。タンクトップ越しとはいえ、俺はジゼルちゃんの乳輪の色や形を、彼女が我に返る数十秒に渡って凝視することになったのだ。
俺としてはもちろん僥倖なのだが、本人にしてみればホストファミリーである俺にとんだ失礼を働いたという意識があるのかもしれない。
凛花は朝が遅いのでいまだにジゼルちゃんが一人で居間に降りてくることは変わらないが、どことなくよそよそしいし、パジャマ越しの質感を見るに、多分居間に降りてくる前にちゃんとブラを着けている。
はしたない女の子と思われた。
それは大和撫子を目指す女の子としては、致命的な失態だったのだろう。
「ジゼルちゃんもモーニングコーヒー飲む? 今淹れるから、ここで座って待ってて」
「ハ、ハイ……」
そんなジゼルちゃんに対して、「俺はまったく気にしてない」という態度を貫く。
まあ普通に考えれば小学五年生の身体を見たくらいで、普通の大人は動じない。何も思わないというのが一般的な感覚で、そのことはジゼルちゃん本人も理解しているだろう。
しかし依然としてジゼルちゃんが気まずそうなのは、ひとえに文化の違いというものがあるのかもしれない。
欧米圏の女の子は、たとえ実の父親相手であっても一緒にお風呂に入ることはないという。
もちろん本当に赤ちゃんの頃は別だろうが、それこそ五歳とか、小学一年生とかいう段階で、裸を見せることはなくなるのだ。
逆に向こうでは父親が小学生の娘と一緒にお風呂に入ったら、あらぬ性的虐待まで疑われるという。
うちなんかは小四の春まで凛花とお風呂に入っていたけど、向こうでは絶対にありえないことらしい。まあうちでも今は凛花の方が絶対に許してくれないだろうけど。
ともあれそういう文化的背景があるからこそ、ジゼルちゃんが抱く気まずさは輪をかけて重くなる。気持ちはわからなくはないけれど、こっちは仮初とはいえ家族なのだから、ジゼルちゃんにここまで気を遣わせてしまうのはよくない。
絶えず申し訳なさそうにしているジゼルちゃんは、俺におっぱい(とは言ってもタンクトップ越し)を見られた恥ずかしさというより、俺におっぱいを見せてしまったという“罪悪感”が圧倒的に優っているように見えた。
ここはホストファミリーの父親として、できるだけジゼルちゃんの罪悪感を取り除いてあげる義務がある。
『一つ、日本文化の話をしよう。ジゼルちゃんも好きな江戸時代から続く習慣の話だ』
『江戸時代……から?』
ジゼルちゃんの前にコーヒーの入ったカップを差し出しながら、俺は一つ“講義”を始めることにした。ちなみに概念めいた内容も含まれるので、ここから先の会話は全て英語である。ビジネス英会話教室で猛特訓した英語が火を吹くときだ。まあ実際は、昨夜のうちに使いそうな英単語を軒並みピックアップして、入念に予習した結果だけど。
『そう。日本にまだお侍や忍者がいた江戸時代、湯屋――つまりお風呂場はどこも混浴だった。混浴っていうのは、つまりmixed bathingのことだ』
“Mixed bathing!?”
昔の日本に興味津々のジゼルちゃんは、英語で始まった僕の講義を前のめりに聞いていたが、混浴という信じ難い風習を聞いて困惑していた。それこそ、スカイブルーの綺麗な瞳をまんまるにして驚いていたほどだ。
混浴についてジゼルちゃんが驚くのも無理からぬ話。先述のように、欧米圏では女の子は父親とすら一緒にお風呂に入らない。異性に裸を見せるということのそもそものハードルが高いのだ。
その割にヌーディズムなんて思想は向こう発祥だったりするけれど、それはあくまで一部の人間の思想の話だ。
『しかもこの時代は今みたいに一家に一つお風呂場があるわけじゃない。お風呂に入ろうと思ったら、庶民はみんな混浴の湯屋に行く必要があった。こんな風にね』
僕はテーブルの上に置いてあったタブレット端末を手に取って、江戸時代の湯屋の画像――つまりは浮世絵をページを開いてみせた。
浮世絵に描かれていたのは、男女問わず全裸になって湯屋――今で言う銭湯を楽しむ江戸日常の風景であった。
浮世絵とはいえ、小学生には少し刺激が強い画像だ。しかしジゼルちゃんは“unbelievable”と目をぱちくりさせつつも、貴重な江戸時代の資料に興味津々だった。
実際の湯屋は、時期によっては蒸し風呂が主流だったり、風紀が乱れるという理由で混浴が禁止されたこともあるようだけど、概ね混浴であったことは正しいようだ。
『この時代、異性の前で裸になるということは至極当たり前のことだったんだ。誰も裸を見られることを恥ずかしがってないし、失礼だとも思ってない。むしろ裸の付き合いって呼ばれ方で今も残る概念で、お互いの裸を見せ合うことは、お互いの心を見せ合うということに直結しているんだ』
『心を、見せ合う?』
『そう。裸っていうことは何も隠すものがないってことだろ? 隠すものがないってことは、自分の心の中も相手に曝け出すことに繋がる。私はあなたに心の中を見せます。だからあなたも心の中を見せて下さい。混浴にはそういう意味があるんだよ』
至極まじめな口調で、尤もらしいことを言ってみる。
概念としてはまあ間違ってないが、異文化を学びに来た留学生に解く内容としてはいささか偏りがあるのは承知の上だ。
――とはいえ、それは江戸時代の話でしょう?
ジゼルちゃんがそんな顔をしているのがわかった。
純粋ではあるが、頭は決して悪くない。それぐらいのことは簡単に思い付く子なのだ。
たしかにジゼルちゃんが思っているように、これはあくまで過去の概念だ。西洋だってかつては貴族の女性が召使いに着替えからお風呂の世話まで手伝わせていたように、過去と現在では、裸を見られることの感覚は明確に異なる。
しかし、
『これを見てごらん? 日本では今でも混浴の文化は残っている。お互いに裸を見せ合うというのは、今でも残る日本の価値観なんだよ』
『え?』
俺がジゼルちゃんに見せたのは、混浴を楽しむ日本人男女の画像だった。
浮世絵でも何でもない、現代のデジタル写真の中で、明らかに成人を迎えた男女が、水着も着けずにタオル一枚で露天風呂を楽しんでいる。
ちなみにこの写真、合成でも何でもなく、混浴オフ会なるものを楽しむ一部の同好会の写真だった。
現代日本においてはいささか、というかかなり変わった趣味で、日本人の全員がこんな風に混浴を楽しむわけでは決してない。
しかし俺は、あえてこれを“一般的な風景”として提示することで、ジゼルちゃんに「間違ってはいないけれどかなり偏った日本文化」を刷り込むことを試みた。
もちろんこれは「裸なんか見せても全然気にしないで」という親心に起因するものだが、その先に自分にとって都合の良い展開を見据えていることは否定しない。
たとえ不発に終わろうが、自分にできることは全て試しておきたいのだ。
『こんな風に、今でも混浴の文化は残っている。大抵の温泉は男女で分かれているけど、今でも混浴の露天風呂を設置してる温泉は多いよ』
多いよ、というのは曖昧な表現なので、べつに嘘を言っているとは思わない。いや、かなり偏っていることは認めるけど、日本に混浴の温泉宿が現存することは事実だ。
『これが日本人の心なんだ。裸を見せ合うことで本当の意味でわかり合える。相互理解。a mutual understandingってやつだね』
“A mutual understanding...”
僕の言葉を真剣な面差しで反芻するジゼルちゃん。最近になって気付いたが、ジゼルちゃんは「日本の心」とか「日本の伝統」とかいう言葉にすこぶる弱い。まあそれを学びにわざわざ異国の地に来ているのだから、前のめりになって何ら不思議ではないけれど。
『それに欧米圏にだって裸を見せ合う習慣はある。たとえば北欧のフィンランドでは、若い男女がタオルも巻かずに一緒にサウナに入るんだ。裸の付き合いっていう考え方は、何もこの極東の限られた地域の考え方じゃない』
フィンランドのサウナの映像(もちろん子供に見せてもセーフなやつ)も、ジゼルちゃんは食い入るように見つめていた。
古今東西、裸の付き合いをする文化は“探せば”ちゃんと存在し、決して特異なものではないと見せかけることはいくらでもできる。
あくまで極端ではあるけれど、今でも日本に裸の付き合いという言葉が残るのは事実だ(往々にして同性同士にしか使われない言葉だけど)。
『僕だって、混浴のお風呂には何度も入っている。最近はなくなったけど、凛花ともつい一年前までは一緒にお風呂に入ってたんだ。僕たち日本人にとって、裸を見せることは決して悪いことじゃないんだよ』
優しい口調で、娘を諭すパパ。
一見すれば良いホストファミリーだが、その正体が何であるかは皆さんもご存知の通り。
とにかく今は、家族に裸を見られることなんて何にも気にすることないというメッセージを、ありとあらゆる手段でジゼルちゃんに伝えるだけだ。
“I see...dad.”
利口なジゼルちゃんは、僕の言わんとしていることをちゃんと汲み取ってくれたようだった。
少なくとも彼女がこの家に来てから、今までで一番信頼を置かれていると実感できる。
ご両親が帰国した後、互いにカタコトの日本語と英語でしか会話が成立しなかったのも影響しているのかもしれない。ここで割とちゃんとした英語での会話を行ったことで、ジゼルちゃんにとっての俺の立場が「ホストファミリーの父親」から「本当の意味で頼れるお父さん」に昇格したことが伝わる。
だからこそ、俺はジゼルちゃんにこの言葉を告げる。来日直後に言っていたら即行でお縄の可能性もあったけれど、今の会話の流れならギリギリ許される程度の内容である。
『だからこっちにはちっとも気にしてない。むしろジゼルがパパに裸を見せてくれた方が、心を開いてもらってるようで嬉しいよ』
一歩間違えばド変態の決め台詞を、穏やかな笑みと共に伝える。その言葉にジゼルちゃんは目を丸くしつつも、心なしか頬を赤らめる程度の反応に留めているのは、本当の意味で僕のことを信頼してくれているからだと確信する。
気軽に裸を見せてという少し攻めたメッセージに、小学五年生の女の子がうぶな反応を見せるのは予想の範囲内だとしても。
“Thank you, dad.”
気心の知れた、実の娘のような笑み。
この一件で、俺とジゼルちゃんの明確に存在した壁のようなものは、綺麗さっぱりなくなったと感じた。
要するに「見知らぬおじさん」から「信頼のおけるパパ」という風にポジションが変わったのだ。
凛花や花憐の前であからさまに仲良くするということはないけれど、少なくとも二人が席を外したような瞬間に、ふっと雰囲気が気まずくなるということはなくなった。
まず、パパとして信頼を得る。
俺の考える第一ステップは、これで見事にクリアされたのである。