次の日の朝。早めに家を出て駅で伊藤さんを待つ。
「おはようございます、鈴木先輩。」
「おはよう...伊藤さん。」「それじゃあ行こうか。」
「はい。」
「さっき気づいたんだけど、伊藤さん、って呼び方だとカップルっぽくないよね。下の名前で呼んでいいかな?」
「はい。あかね、って言います。下の名前。」
「じゃあ、あかねちゃん、行こうか。」
「はい。鈴木先輩。」
僕にとって、女子と二人で歩くのは日常だったはずだが、どうにも緊張してしまいなかなか普段どおりにはいかない。カップルとはいってもあくまで偽装だし、お互い恋愛感情もないはずなのに不思議なものだ。
とりあえず、あかねちゃんを1年生の昇降口まで送り届け、手を振って別れた。後は、この情報が佐藤の耳に入れば作戦の第一段階は成功だ。
昼休みに他のクラスの男子二人が教室に来た。二人は、教室の入り口から山本を呼び出し、何やら話をした後僕のところにやってきた。石井の手筈どおりだとすれば、この二人は陸上部のメンバー。だが、石井本人がいないのが少し気になる。
「おーい、鈴木。陸上部のメンツを連れてきたぞ、こっちが池田で、こっちが前田。」
池田は校内で見たことはないが、体格は山本と同じく精悍な体つきをしている。ちなみに、石井もそんな感じだ。ところが、前田の方はひょろっとして背が高い。体育の授業でいつも見かけるので隣のクラスなのは知っているが話をするのはこれが初めてだ。背が高いのは分かっていたが、こうして目の前で見ると本当に背が高い。思わず弁当を食べる箸を止めて思わず見上げてしまったが、その様子を見た山本が説明してくれた。
「あー、俺と池田は短距離でこんな体格だが、前田は長距離なんで俺たちとはいつも別メニューで練習してるから体格も違うんだ。一緒に走ると2kmくらいまでなら俺たちでも前田の前を走れるけど、そこから先は全然叶わない、こいつペース全然落ちねーんだよ。」
「短距離と長距離でそんなに違うものなのか、知らなかったよ。ところで、石井は?」
「あー、あいつはヤボ用。」
「ああ、なるほど。」山本の表情で僕も事情が飲み込めた。
「で、こいつが例の鈴木。俺たちでもこいつに勝つのは難しい。」
「俺、B組の池田だ。今度、俺たちともゲーセンで勝負しようぜ。」
「僕はF組の前田。鈴木君とは廊下でたまにすれ違ったりで顔は知っていたけど話をするのは初めてだね。よろしく。」
一通り自己紹介を終えた後、ゲームの持ちキャラの話とかしながら軽く盛り上がったあと、
「山本君から、鈴木君が強いって話は聞いてるよ。僕は、まだ山本君には勝てないんだけど、あとで色々教えて欲しいんだ。」と弟子入りの申し出があった。
「最近は山本や石井が急成長して、簡単には勝てなくなってきているから期待に添えるかは分からないけど頑張ってみるよ。」
「あと...実はこのクラスにもう一人強い奴がいるんだ。さく...山田って言って、ホラ、あそこにいる女子3人いるだろ? あの中にいる髪の短い娘がその山田さん。」
池田と前田、そして山本が振り返ったその時。さくらがチラッとこちらに目を向けて、すぐに目をそらしたように見えた。そしてその時、確かに佐藤もこちらを見ていた。
その頃、山本を始めとする陸上部メンバーに指令を与えた石井はヤボ用の最中であった。
「こないだ鈴木と対戦して、順の特訓のお陰で5回に1回くらいは勝てるようになったけど、やっぱり基本的な力の差は隠せないので、まだまだ順の指導が必要みたい。てことで、今日の放課後、ゲーセンでどう?」
メッセージを送信して、石井は一息ついた。山本や鈴木には偉そうに講釈たれているが、自分自身こういうことの実践には不慣れであることを痛感する。
「もう、影でこそこそ練習してないで鈴木と直接対戦すればいいのに。でも、オッケー、ゲーセンで待ってる。」
ふう、順からの返事を見て一安心しながら少し嬉しい石井だった。
まず、順の弟子を俺と山本の2人から5人に増やして、それから....あとは鈴木を投入するタイミングだな。
放課後、作戦通り僕は図書室に向かった。
「やあ、あかねちゃん、こんにちは。」
「こんにちは、鈴木先輩。」
受付でこんな挨拶をした後、僕は数学の応用に関する本を探しに本棚の森に姿を隠した。急に数学に興味を持ったのは、昨日石井が佐藤ハーレムに関する定量分析(?)が面白かったからだ。ただ、石井のような推論ができるようになりそうな本となると、どう探してよいかわからないので、とりあえず気になった本を開いてみるといった原始的なアプローチしか思いつかない。
受付周辺では図書委員が伊藤さんを囲んで盛り上がっているようだ。僕の「あかねちゃん」呼びについて、他の図書委員から伊藤さんが質問攻めに会っているようだ。
しばらくして
「あの、返却本を戻してきます。」
と、カートを押して本棚エリアに入ってきた。僕は小声で「あかねちゃん」と呼ぶと、カートを数学関連書籍棚の近くに置き、適当な本を3冊ほど選んで僕のところにやってきた。
「鈴木先輩、今日は数学の本を探しているんですか?」
「うん、昨日の石井の話を聞いて、ああいう考え方ができるヒントが欲しくてね。」
「私も昨日の話は面白かったんですが、あの話の面白さって数学の部分ではないような気がするんです。」
「というと?」
「そうですね、例えばあの話で使った計算って四則演算だけですよね。難しい数学は全然使っていませんでした。ですから、計算の部分は私でも理解できました。」
「なるほど、確かに使っていた数学は、僕が数学の本を開くまでもなく分かっていることだけだった。」「実は、僕もここで数学の本を目の前にしながら、ちょっと違う気がしていたんだ。けどどう探してよいかわからないので、直感頼りで片っ端から本を開いていたんだけど、これでも埒が明かないのでどうしたものかと思っていたところなんだ。」「ちなみに、あかねちゃんはどう考えているの? 意見を聞かせてほしいな。」
「私は...そうですね、ちょっと説明がしにくいんですが、あの話の面白さは、数値で表現できると思っていなかったことが、時間を切り口にすることで数値で表すことができることがわかった、という点と。大まかに数値化することで、その質について考察することができた、という点のような気がするんです。」
伊藤さんはそう言って、僕の顔を見た。
「なるほど、数値化できない、今まで数値化できていなかったものを数値化するための方法論、みたいなものがあの話の本質的な面白さだ、ってことかな?」
「そんな感じ、方法論の面白さですね。」
「ところで...」とここで声のトーンを落として「あかねちゃん、他の図書委員が少し離れたところから僕たちの会話を聞いているみたい。」と、他の図書委員のいる方向を目で指し示した。伊藤さんも、目線だけ動かしてそのことを確認してから頷いてみせた。折角なので、彼女達が聞きたがっている情報を聞かせてあげよう、と、伊藤さんに目で合図をして話を始めた
「ところで、今日はあかねちゃんの図書委員の仕事が終わったら一緒に帰ろうか?」
「はい、是非。」
「じゃあ、委員の仕事が終わったら、こないだみたいに1年生の昇降口に来てよ。待ってるから。」
「はい!」
伊藤さんは、盗み聞きしている他の図書委員に聞こえるよう、少し大きな声で返事をした。
僕たちの周囲にいた3人の図書委員は、期待通りの会話が聞けたとみえて、小躍りしながら受付に戻り、他の委員と新情報を共有しているようだった。
「あかねちゃん、他の委員から色々聞かれると思うけど大丈夫?」
「はい、最初は少し戸惑いましたが、割り切って役を演じると考えたら、割と気楽に色々話を合わせられましたし、結構楽しいです。」
「そうか、それは良かった。」「あかねちゃんが委員の時は僕も図書室に来るようにするから、話に詰まったら今みたいに僕の方に来て話をしよう。」
「はい」
「あと、さっきの数学の話。あ、数学の話じゃないんだったね。その数学の話じゃない話は面白いからまた後で話をしよう。そろそろ仕事に戻らないと、ね。」
「そうですね、楽しいのですっかり忘れてました。仕事に戻りますね。」
と、伊藤さんはカートに戻り、返却本の仕事に戻っていった。
そのとき、再び受付のあたりがざわついた。
受付の方に目をやると、受付の前に佐藤が立っていた。図書委員の女子が早足で伊藤さんの方に向かっている。
伊藤さんと図書委員の女子が受付に戻ると、佐藤が伊藤さんに何かを話しかけている。早くも緊急事態だ、伊藤さんには十分に情報を伝えてはいるが、ここは僕が出ていかなければならないだろう。僕は、ここにきて、ようやく覚悟を決めた。
「こんにちは、伊藤さん。手芸部に入って欲しい、という話だけど、考えてくれたかな?」
「佐藤先輩...」
「可愛い小物とか、一緒に作ると楽しいよ。」
「すみません、私は今、手芸部に入る気はありません。申し訳ないのですが。」
「それは残念。だけど、どうして?」
「それは...」
「佐藤...」
「やあ、鈴木君」
佐藤は、この場に僕がいることを想定していたかのように、少しも動じることなく返事をした。
「その理由は、僕があかねちゃんにお願いしたんだ。手芸部には入らないでくれ、と。」「それから君には近づかないように、とね。」
「僕も嫌われたものだね、でもそれは、君のわがままを伊藤さんに押し付けているだけじゃないの? 鈴木君。」
「そう、あかねちゃんにお願いしたのは僕のわがままだよ。でもね、そのわがままを言えなくて、言わなくて、それで、僕の大切な友達が、僕の側を離れていくことになったんだよ、佐藤もよく知っているだろ?」
「ああ、彼女達はみんないい娘だよ。」
「僕はそのことを今でも後悔している。」「だから、今度は後悔したくない、わがままでもいいから自分の気持ちを彼女に伝えたんだ。そして、あかねちゃんはそれに応えてくれた。」「それがさっきの答えだよ。」
「なるほど。それじゃあ、今はみきちゃん達に対する鈴木君の思いはない、なくなったということだね?」
「いや、彼女達は今でも僕の大切な友達だ、と思ってる。だから、今は、彼女達が幸せならそれでいいと思ってるよ。」「そして、今君の元にいる彼女達が幸せじゃない、幸せになれないと思ったときには、悪いけど佐藤、彼女達の元から君には退場してもらうよ。」
「彼女達は僕と一緒で幸せだよ。だから安心しなよ、鈴木君。」
「今はそうかもな。でも...」「それはともかく、今日の所は帰ってくれ。あかねちゃんは手芸部には入らない。」
「伊藤さんは、それでいいの?」
佐藤は伊藤さんの方を振り向いて、優しく諭すような口調で確認した。
「はい、私は手芸部には入りません。」
「うん、分かったよ。」
ここで佐藤は少し笑ったように僕には見えた。そして、佐藤はそのまま図書室を出ていった。
佐藤が出ていってしばらくして、受付で歓声が上がった。歓声というより、僕と伊藤さんに対する冷やかしのようなものだったが、僕たちの作戦という意味では上々の結果だったと言って良い。これで、僕と伊藤さんの偽装カップルは公認のものとなるだろう。ただ、直接佐藤を追い返してしまったので、その必要もなくなってしまったわけだが。
そして、僕は伊藤さんを守りきった。いや、まだ最初の波を凌いだだけだが、伊藤さんはこれで大丈夫だという手応えを感じた。
その後、この場に居合わせた女子が情報源となって、佐藤に関する噂が広まることになる。
つまり「鈴木の女友達数人が佐藤の彼女になったらしい。」「佐藤が自分自身の口から、複数の女子と同時進行的に付き合っているという発言をした。」と。そして、その中に「みき」という名前の女子がいるということ。更に、伊藤さんが手芸部入りを拒否したことから、手芸部の3人が既に佐藤の彼女であることも憶測とともに広まることになる。
改定:伊藤さんの呼称に関する誤記訂正