※この作品はR-18です。

傷跡   作:モノクロさん

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IF‐零余子生存ルート‐ 死が二人を分かつとも 後編

 時の流れは早いものだと、零余子は月夜を見上げながらそう思う。

 

 あれから数年、いや、数十年と月日が過ぎたが、こうして月を眺めていると、ふいに思い出が走馬灯のように溢れかえってくる。

 

 ○○との共同生活。勝手にいなくなり、一方的な形で戻ってきた私を、彼は快く迎え入れてくれた。此処に戻るまでの経緯を、静かに、そして最後まで聞き入れてくれた。言葉は不要だった。ただ聞き、ただ頷き、ただ…ただ……。

 

 話を終え、ふぅっと息を吐き、そして○○をじっと見つめ、フッと笑みが浮かぶ。零余子にとって、○○と共に過ごすこの時間が愛おしかった。いつまでもこうしていたいと、そう思う程に。

 

 そしてそれは、○○にとっても同じでった。

 

 その日を境に始まった共同生活。決して広いとは言い難い、質素な家だが、零余子にとっても、○○にとっても十分なものだった。雑音のない、静かな空間。互いに、ただ一緒にいるだけの生活。それが二人にとっての幸せだった。これ以上ない程の幸せがそこにあったのだ。

 

 だが、その生活にも終わりの時が近付いてきた。幾度となく四季が巡り、○○の身体に変化が訪れ始めた。人としての老いが、そして鬼にとっては無縁のそれが、年を重ねる毎に顕著になってきたのだ。

 

 理解していた。理解していたつもりだった。少しずつ衰えていき、外に出る事すらままならぬ身体になっていく。その度に、○○は零余子の心配をしてくれた。老いゆく己より、それを見届ける零余子の事を案じての事だった。最後まで、彼は優しかった。床に伏し、まともに身動きすらとれなくなってなお、案じるのは零余子の事のみ。

 

 これは全て、自分が望んだものだと受け入れていた。誰かに頼る事無く、世捨て人となった○○にとって、この結末は早いか遅いかの違いでしかなかったからだ。しかし、零余子は違う。鬼故に衰えを知らず、悠久の時を過ごす彼女が不便でならなかった。外界から隔離された此処とは違い、外の世界は時を重ねる毎に変化が訪れている。その変化の中、孤独となっていく零余子の身を案じての事だったのだ。

 

 そんな○○に、零余子は困った様な笑みを浮かべて首を横に振った。

 

―馬鹿者…全く、お主は本当に大馬鹿者だな―

 

 そう言って○○の頬を撫で、そしてそのまま○○の唇に、自分の唇を重ねた。

 

 ○○が自身の行く末を受け入れた様に、零余子もまた、自分達の行く末を理解していた。だからこそ、○○とは最後のその時まで共にいたい。それが彼女の…零余子の願いだった。

 

 重ねた唇をそっと離し、零余子は○○の瞳を見つめた。そして今度は柔らかな笑み浮かべながら言葉を紡いだ。

 

―だが、そうだな…お主は大馬鹿者で良いさ。だって私は、そんなお主だからこそ好いたのだからな―

 

 

 

 

 月夜を見上げ、あの時の記憶が想起される。

 

 あぁ、理解していた。理解していたさ。私は鬼だ。そして、○○は人間だ。理解していたからこそ、この結末は受け入れていると、そう思っていた。そう思うようにしていた。

 

 けれど…しかし…やはり思う。思ってしまう。もっと生きて欲しいと。まだ共にいたいと。これが我儘である事は理解している。

 

 でも、それでも…と。

 

 記憶が蘇る。床に伏し、息も絶え絶えな○○の手を握り、その手を弱々しく握り返された感触。その感触に、零余子はスッと頬をつたう涙と共に、震える声で言葉を紡いだ。

 

「いやだな。ひとりは…ひとりになるのは、本当にいやだな…」

 

 堪えていたものが、堰を切ったように溢れだす。強がっていたけど、本当はずっと怖かった。置いて行かれるのがいやだった。共にいたかった。ずっと、ずっと共にいたかった。でも、もうそれは叶わない事なのだと分かってしまった。そうなってしまったのなら仕方がないと、だからせめて、自分は最後まで笑顔でいようと。零余子は溢れる涙を拭った。

 

 戻ろう。そう思い、帰路についた零余子の目に、有り得る筈のない光景が映り込んだ。

 

 ○○が、布団から上半身を起こしていたのだ。床に伏して、起き上がる事すらままならなかった○○が何事もなかったかのように起き上がっている。その光景に驚きを隠す事が出来ずにいた零余子に、○○は優し気な声色で声をかけた。

 

「あぁ…お帰り、零余子」

 

「○○……お主、身体は大丈夫なのか?」

 

「身体…か。問題ない。不思議と身体が軽くなった気分なんだ」

 

「そう…か。そうなのか」

 

 ○○の言葉に、零余子は驚きを隠せずにいた。衰弱しきった身体が、突然よくなることなどありえない。どんな奇跡が起こればこんなことに…

 

 いや、今は○○が起き上がった事を喜ぶべきだろう。口元が綻び、笑みを浮かべた零余子に、○○も笑みを浮かべていくつか言葉を交わした。そして、ふと○○が小腹がすいた事を話すと、零余子は待っていろと○○に告げ、台所へと足を運んでいく。

 

 ○○が床に伏す前より、台所は零余子が管理する様になっていた。当初は料理に関して無頓着であった零余子だが、○○に手料理を振るいたいと試行錯誤を重ね、今ではそれなりの物が作れるようになっていた。今思えば、こうして料理ができるようになったのも○○のお陰だな……と、零余子は改めてそう実感し、笑みを零した。

 

 食材は山菜が主で良いだろう。味付けも、味の濃い食材では身体に悪い筈。薄味で、食材が喉に詰まらないくらいに細かく刻んで、そして…そして…

 

「………………………………あっ」

 

 そこまで思考を巡らせた零余子は、ふと我に返り、小さく声を漏らした。違う。違うんだ。あれは…○○は体調が戻ったわけではない。逆だ。逆なんだ。身体がもう限界で、最後の最後、残された僅かな力を振り絞った生存本能からくるものだ。

 

 身体が軽くなったのも、○○の錯覚で、本当はもう限界に来ているのだと。

 

(あぁ……そうか……そうなんだな……)

 

 理解して、そして零余子はまたも涙を流した。○○に聞こえぬよう声を押し殺し、食材を刻み、黙々と作業を続ける。そして、器に盛りつけ終わると、零余子はそれらをお盆の上に乗せて○○の下へ赴いた。いつもと変わらぬよう、平常心を必死に保たせながら。

 

「ありがとう。零余子」

 

 器を受け取り、一口一口、味わう様に咀嚼し、ゆっくりと嚥下する。そうして、時間をかけて器の料理を全て平らげると、○○は零余子に『ありがとう。美味しかった』と告げ、静かに目を瞑った後に再び口を開いた。

 

「零余子、折角だ。少し、外の空気にあたらないか?」

 

「…ふふ、随分と急だな。身体が軽くなったからとはいえ、少し性急ではないか?」

 

「ダメか?」

 

「…いや、いいとも。折角元気になったのだ。偶には外の空気に触れて息抜きをすると良い」

 

 無茶をして…そう思いながら、零余子は○○の身体を支えながらゆっくりと起こし、腰に手を回してサポートする。

 

(軽い……本当に軽いな……)

 

 戸を開けて外に出ると、フワッと風が二人の皮膚を撫で、頭上は雲一つない、月と星が爛々と輝いている。二人で共にする最高の夜空ではないか。そんな事を思いながら、○○の歩調に合わせてゆっくりと歩き続ける。

 

「……懐かしいな」

 

「あぁ、そうだな」

 

「こうして二人で歩くのはいつ以来だ?」

 

「そうだな。随分久方ぶりだ」

 

「……そうか」

 

「あぁ、そうさ。それだけ寝たきりだったのだぞ」

 

「すまなかった」

 

「ふふ、あやまるな。責めているわけではない。ほら、足元に気を付けろ」

 

 そうして、歩き続け、やがてふと、○○の足が止まる。

 

「どうした?」

 

「いや、懐かしいと思ったんだ」

 

「此処がか? あぁ、そうか。ははは。あぁ、そうだな。懐かしい、懐かしい場所だ」

 

 ○○の視線の先は、かつて二人が初めて出会った場所だ。此処で出会い、そして零余子の運命が変わった場所でもある。二人がそこに近付くと、近くの木に身体を預けるよう腰かけると、木々の間から覗く夜空を見上げた。

 

「…綺麗だな」

 

「あぁ、そうだな」

 

 ○○は零余子に身体を預ける様にもたれかかる。少し息が荒い。無茶をしすぎだ。そう思いながら、零余子は自身の膝をポンっと叩いた。○○もその意図を察し、膝に頭を預ける形で横になる。

 

「少し疲れただろう。全く、無茶をするな」

 

「……すまない」

 

「ふふ、いいさ。今は私に甘えると良い。特別だ。あぁ、今日は特別なんだ」

 

 ○○の頭を撫でながら、零余子は目をスッと細めて笑みを浮かべる。深く刻み込まれた顔の皴に指を這わせ、愛おしそうに撫で続ける。

 

 月夜に照らされながらの逢瀬は暫く続き、他愛のない何時も通りの……かつてそうしてきた通りの遣り取りを繰り返す。

 

 あぁ、終わるのか、これで、これで本当に、終わってしまうのか……

 

 視界が歪む。ダメだ。此処で泣いては○○を困らせてしまう。それでも、溢れる感情を抑える事が出来ない。

 

 そしてついに、零余子の瞳から一筋の涙○○の頬に、涙が零れ落ちた。

 

 零余子の涙を見た○○は、そっと手を伸ばし、指先で涙を掬い取る様にして拭いとっていく。そしてそのまま、その手で零余子の頬を撫でた。

 

「…すまない……本当にすまない」

 

「…何を謝る事がある? 零余子が謝る事は何もない。何もないんだ」

 

 いつも通りに接しようとした零余子を咎める事が出来ようか?

 

 零余子の手が○○の手を包み、自身の頬を押し当てる。終わりたくない。まだ、まだ一緒に居たい。そんな感情を読み取った○○はフッと笑みを浮かべて夜空を見上げた。

 

「俺は……幸せ者だ。こうして零余子と出会えた事が。俺の人生にとって、幸福だったのだ」

 

 忌子として恐れられ迫害され、迫害され、世捨て人として己が生を終えるつもりだった。それが、こうして愛する者に看取られて逝く事が出来るのだ。こんな幸せな終わりはないだろう。

 

「あぁ……綺麗だな。本当に、本当に綺麗だ……」

 

 月夜ではなく、零余子に向けたその言葉を最後に、ついに身体が限界を迎えた。

 

 眠い…酷く眠い…瞼を開け続けるのが億劫になるほどに。

 

「すまない。零余子。少し疲れた様だ」

 

「……そう…か。眠いのか。そうだな……急に歩き回ったのだ……疲れて……当然だ……」

 

 握られた手が強く握られる。零余子の瞳から涙が溢れる。

 

「○○……少し…休むと良い。少し眠れば……また…きっと……」

 

「あぁ……そうだな。少しだけ……もう少しだけ、膝を借りてもいいか?」

 

「あぁ……良いぞ。お主の頼みだ。特別だ……特別なんだ……」

 

「そう……か……ありがとう……」

 

 ゆっくりと瞼を閉じると、次第に意識が遠のいていくのを実感する。

 

 あぁ、ダメだ……眠ってしまう……眠りたくないんだ……まだ話したい事だって沢山あるんだ……なのに、瞼が重いんだ。零余子の声が段々と遠くなる。身体が軽くなっていく。意識も遠退いていく。まだ、まだだ……まだ俺は、何も零余子に返してないじゃないか……まだ、まだなんだ……。

 

 思いとは裏腹に意識は途絶え、○○は覚める事のない眠りについたのだった。

 

「○○……眠ったのだな……○……○……」

 

 ○○が眠りについた後、零余子は何度も名前を呼んだ。何度も何度も……。

 

 そうして、眠りについた○○の髪を撫でた後、零余子は声を上げて泣いた。

 

 その泣き声は風に乗り、寂れた集落にも届いたが、それが何か分かる者は誰もいなかった。ただ一つ、その音を聞いていると、胸が締め付けられるように悲しい気持ちになり、皆が皆、山に向けて手を合わせ、祈りを捧げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―○○の死から49日―

 零余子は小さな箱を愛おしそうに抱きしめながら月夜を見上げていた。

 

 人として○○を見送る。地域や宗派によっては作法が異なるとも聞いたが、零余子は聞きかじった、拙いながらの作法で○○を見送る事にしたのだ。

 

 冷たくなった○○を火葬し、遺骨を小さな箱に詰め込んだ。昔はガタイの良かった○○がこんな小さな箱に納まるまで小さくなるなんてと、そんな風に思いながら、零余子は箱の中に納まった○○に『おかえりなさい』と呟き、枕元に置いた。

 

 そして49日まで、零余子は祈り続けた。祈って祈って…祈り続けて、時折○○との思いに馳せ続けた。

 

 暗がりの夜道を松明を頼りに散歩した記憶。

 

―これは……珍しいな―

 

―どうした○○。何が珍しいのだ?―

 

―これだ。今はつくしのような形だが、昼になると青い花を咲かせるんだ―

 

―ふむ、確かに、見た感じはつくしでしかないな。それに、昼間であれば私が見る事が叶わぬ花だ―

 

―すまない。摘んだとしても、花が咲き続けているかどうかも分からない―

 

―気にするな。そもそも夜にしか活動できぬ私に問題がある―

 

―そうか―

 

―あぁ、そうさ。○○が気にする事ではない―

 

 後日、それが珍しい花で、ここ最近見かける事が無かったことや、後に花弁だけでもと取りに行こうとしたが、その時には既に枯れ果てていた事。そしてその後、その花を見かける事が無かった事も含めて、懐かしい思い出となった。

 

 夜伽の事も覚えている。

 

 口付けを交わし、互いの身体を隅々まで触れ合い、繋がった。長く長く交わり続けた。疲れ果てるその時まで交わり続けた。夜伽の後に、○○の背中に無数の引っ掻き傷が出来て血が滲んでいたのを見て、知らず知らずの内に爪を立てていた事に気付き、申し訳ない気持ちになった。

 

 それでも、○○は気にするでもなく、汗でじっとりと濡れた零余子の身体を水に浸した手拭いで優しく拭ってくれた。火照った身体に、手拭いのひんやりとした感触が心地良く、行為の後の疲労感も相まって、そのまま○○の胸に顔を埋めて眠りについた事も覚えている。

 

 祈りと思い出を噛み締める49日は、言葉通りにあっという間に過ぎ、○○の家を整理した零余子は、もう思い残す事は何もないと、満足気に頷き、小さな箱を抱きしめ、最後のその時を静かに待ち続けた。

 

 時は刻一刻と過ぎていき、月が傾き、そして太陽が昇り始める。

 

 朝日を、日光を視覚に捉えた零余子は、最後にフッと笑みを浮かべて、そのまま静かに目を閉じた。

 

 身体が熱い。身体が焼ける感覚に、それでも零余子は、苦しむ素振りは一切見せず、身体が消滅するその時まで、零余子は○○との思い出に馳せ続けた。

 

 私にとっての幸福もまた、○○と出会えた事だ。○○と出会えたからこそ、幸福の時を過ごす事が出来たのだ。

 

 それだけで十分だ。私にとって、それだけで十分だったのだ。

 

 もう、もう思い残す事は何もない。こうして、満足して逝く事が出来る。

 

 ただ一つ、心残りがあるとすれば、私はきっと地獄に堕ちる事だろう。それだけの罪を犯した。例え、鬼にされたからとて、その罪が消える筈もない。○○は、きっと天国に行っただろう。彼の本質は善性だ。私とは違うのだ。それだけが少しだけ、寂しいと思いながらも、彼女にとって、彼との出会いからの人生は、十分すぎるほどに幸福な時を過ごしたのだ。これ以上の幸福を求めるのは、贅沢というものだ。

 

「……あぁ……良い人生……だったな……」

 

 その言葉を最後に、零余子はこの世から去った。彼女という存在がそもそもなかったかのように。

 

 ○○の遺骨が納まった箱がごとりと転がり、遺灰が風に乗って飛んでいく。何処までも、何処までも。風に乗って遠くまで……。

 

 

 

 

―???―

 此処は何処だろう。閉じた目を開いた零余子が感じたのがそれだった。

 

 辺りを見渡す。目の前には階段があり、零余子は丁度、上るか降るかの折り返し階段にいる様だ。

 

 此処が地獄なのか、それともまた別の何かか。困惑気味に階段を交互に見渡す零余子だったが、上り階段からは暖かな光と楽し気に笑う声が聞こえ、下り階段の先からは肌が焼けるような熱風と共に悲痛な叫び声が聞こえてきた。

 

「そう……か。此処は地獄と天国の境目……そういう事なのか?」

 

 天国と地獄、まさか本当にあるとは。そう思いながら、零余子はふと、ある事に気付いた。

 

 此処は天国と地獄の境目。そして、自分にはそのどちらかを選ぶ権利があるのだと。

 

「……いい……のか? 私が、私がそっちに行っても、良いというのか?」

 

 階段を上がれば、天国に行けるだろう。過ちを犯し続けた人生ながらも、最後は改心し、人々に貢献した。それが認められ、こうして選ぶ権利を与えられたのだと思い、零余子は階段をじっと見上げた。

 

 この階段を上がれば、○○に会える。

 

「良い……のか。良いん……だな?」

 

 光はより一層強くなり、まるで零余子を迎え入れる様に暖かな光が彼女を包み込んだ。

 

 それを確認した零余子は、一歩前へ踏み出した。

 

 上り階段ではなく、下り階段へと。その足取りは軽やかで、階段を駆け下りていく。一歩、また一歩と。零余子の表情は実に晴れやかで、瞳に涙を浮かべながら天国への階段から遠ざかっていく。

 

 徐々に強まる熱風に、零余子は目を細める。何を迷う必要がある。十分すぎる人生を送ったのだ。十分だ。それだけで十分だったのだ。そうして目が眩みながらも何とか階段を降り切り、地獄へと降り立った零余子。

 

 目の前には禍々しい門が開いて零余子を待ちわびている。

 

 少し戸惑ったが、意を決して、門を潜ろうとした零余子の背後から、男の声が聞こえた。

 

「零余子」

 

「…………え?」

 

 聞き覚えのある声に、零余子は立ち止まってゆっくりと振り返る。間違いない、聞き間違える筈が無い。何故ならその声は……

 

「○○……○○なのか?」

 

 振り返った先には○○の姿。その姿は初めて出会った時の姿のままで、そこに佇んでいた。

 

「何故だ……何故、お主が此処に……何故お主が地獄にいるのだ?」

 

 ○○は答えない。いや、どう答えるべきかと悩んでいるようだ。

 

「まさか、私が此処に、地獄に堕ちると分かっていたから、お主も此処に来たというのか?」

 

 もしそうなら、と、言いかけた零余子の言葉を遮る様に、○○は零余子の問いに答えた。

 

「俺にとって、零余子がいない天国など、地獄と変わらない。それだけの事だ」

 

「○○……お主は、お主は、本当に……」

 

 酷い言葉だ。あまりにも配慮が欠けている。言葉足らずにも程があるではないか。○○自身もそれに気付いているのか、少しバツの悪そうな顔で俯いている。

 

 零余子は○○に近付き、胸に顔を押し付ける様に抱きしめた。力強く、力強く抱きしめ、顔を上げた零余子は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。しかし、その表情は何処までも屈託のない、何処までも幸せそうな笑顔がそこにあった。

 

「大馬鹿者だな。お主は本当に、本当に大馬鹿者だ」

 

 私は鬼だぞ、人を喰らう鬼で、人にとっての天敵で、それなのに○○は、何処までも大馬鹿者だな。

 

「あぁ、そうだな。俺は大馬鹿者だ。だが、大馬鹿者で充分だ」

 

「ははは、そうか。そうなのだな。全く、全く以ってお主は、本当に、本当に大馬鹿者だ」

 

「そうだな。零余子が言うのだ。きっと、そうなのだ」

 

 そうして、零余子は○○の胸の中で静かに涙を流し続けたのだった。

 

 此処は地獄だ。きっと碌な事はないだろう。

 

 それでも関係ない。零余子にとって、そして、○○にとって、此処が何処であろうと関係ない。

 

 死が二人を分かつとも、その繋がりを断つ事は出来ないのだから。




 以上を持ちまして、傷跡は終局とさせて頂きます。

 此処まで見て頂き、本当にありがとうございました。

 感想や評価などして頂けたら、次回作の励みとなりますので、宜しくお願いします。
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