──夜が、もはや人の世界ではなくなった世界。
人が徐々に生活圏を失っていく中にありながらも、夜を司る聖獣の加護を受け、世界の広さからすればごく一部ながらも人の最大の生活圏を有しているという、このアトラクシア王国。
その首都である王都ではこの日、第二王女の輿入れの日ということで大いに賑わっていた。
そんな中で、街の最奥に聳える王城と、街を繋ぐ門の前。
「もう行ってしまうのか……セラフィナ、怖くはないかい? 何かあればすぐに戻って来ていいんだよ、私たちは君の味方だからね?」
「その……ごめんなさい、セラフィナ。末の妹である貴女に大役を押し付けた私たちのことを、どうか許してください」
「お気になさらないでください、お姉様。それに、お兄様も」
門前では、今まさに出発しようとしている、まだ若干の幼さの残る可憐な少女と、少女よりは少しだけ年上の男女……この日輿入れする第二王女と、その兄と姉である第一王子と第一王女が、最後の別れを交わしていた。
「お姉様。いずれどのような形であったとしても、王女として生を受けた以上は私たちは自由な婚姻など望めぬ身、いずれかの国を守る役に立つお方へと嫁ぐことが宿命付けられた身です。私の場合はそれが少々ばかり特殊だったというだけで、何も変わりません」
「……ええ、そうね。その通りだわ」
真剣な顔で語るセラフィナの正論に、第一王女は反論を飲み込むと、もう一度最後に妹を軽く抱きしめて下がる。
「それにお兄様も。人の世を守るのはやはり結局は人なのですから、そのように項垂れたままで何が出来ましょうか」
「……ああ、そうだね、ごめん。君の献身に負けないよう、私は私でこの国を守っていかなければならないんだったね」
鼻先に指を突きつけて強い口調で嗜める妹に、たじたじとなりながら頷く兄。
その言葉に満足して頷いた少女は、最後に一人離れたところで兄妹最後の交流を見守っていた国王の方へ向き直ると、ドレスのスカートを摘んで深く頭を下げる。
「お父様……この16年間、大切に育てていただき、本当にありがとうごさいました。これよりセラフィナは、己が役割を果たして参ります」
「あ、ああ……息災でな、良き子を育むのだぞ」
「はい、お任せください。私、健康には自身がありますので」
ほんの少しだけ冗談めかして言いながら、踵を返し、用意された動力車……最近普及し始めたという、はるか昔の技術を再現して作られたのだという車両に乗り込む。
「もう、お別れは宜しかったのですか?」
「ええ。あまり引き伸ばしても、ただ名残惜しくなるだけですから」
前席にて操舵輪のようなものを握る、侍女服を纏うセラフィナより少し年上の女性。セラフィナ付きの筆頭侍女であるミリアという女性の言葉に、セラフィナは頷く。
動き出した動力車。
遠ざかっていく、16年の時を過ごした王城。
その門前で、父と、兄姉は、セラフィナから彼らが見えなくなるまでずっと微動もせず見送っていた。
──私は、セラフィナ=メルヴ=アトラクシア。この国の第二王女で、現国王の末の娘。
そして……国を守護する聖獣様の御子を授かるべくして育てられた供犠の姫。
この日は──そんな私が、聖獣様の伴侶として嫁ぐ日なのでした。
◇
──それは、セラフィナが10歳になったばかりの頃、初潮を迎えた数日後のことだった。
父親……国王陛下に呼ばれ、人払いがされた中で王家の一同だけが集まった小会議室。国王の対面に座らせられたまだ幼いセラフィナに、父である国王が告げたのは。
「──セラフィナよ。お前には、聖獣様の伴侶となり、その御子を産み育ててもらう事になる」
国王陛下のその言葉に、居合わせた者達からざわりと声が上がる。
特に反発を見せたのが、特にセラフィナを可愛がっていた第一王子と第一王女……兄と姉の二人。
女性優位の継承権を持つこの国において、女王だった母親がセラフィナが生まれた直後に身罷られて以降、末姫を溺愛していた彼らがまだ幼い妹を守ろうとするのは必然だったが、しかし。
「今の聖獣様に代替わりしておよそ五十年、そろそろ聖獣様も代替わりの時期とは思っていましたが、父上、それは……」
「大役を背負うには、セラフィナはまだ幼すぎます。私が代わりにはなれないのですか?」
「お前たちが言いたい事は分かる。だがこれは、私と妃が二人目の女児を授かった時点で、すでに決まっていた事だ」
冷徹に……とはとても言い難い、申し訳なさを滲ませた表情でそれでも断言する父王に、皆がシンと黙り込む。
特に、既に幼少期から父王の側近であり友人である宰相の子息との婚約も決まっており交流も始まっているセラフィナの姉は、ぐっと言葉に詰まる。
そんな沈黙の中で、必然的に皆の視線を集めたのは、当の供犠の姫に任ぜられたセラフィナのもと。
そんな中でまだ幼い少女である姫は、しかし凛とした佇まいで座ったまま、その胸に手を当てて愛らしい桜色の唇を開き、まだ幼さが残る甘い声で語る。
「人が夜の闇すら克服していたと言われている、はるか昔の時代、夜は優しい隣人だったそうです」
──この世界は、かつては世界の全ての場所、昼だけでなく夜さえも人が支配していた……と、語られている。
だが、いつしか夜はその姿を変えた。
夜の闇の中には影の魔物が跋扈するようになり、人は夜闇の中での生存圏を失った。
生命が夜の闇の中を跋扈するのは許さないとばかりに神出鬼没に現れるその魔物たちを前に、人は、いつ命を奪われるか分からない中で震えて眠るしかできなくなった。
「そんな中にありながら、自らの領域を人に貸し与えてくださったのが、夜の聖獣様。その庇護があったからこそ、このアトラクシアに住まう人々はまた、夜に安寧の眠りに就くことができるようになりました」
だが……その『聖獣』と呼ばれている者も、うつろわざる者ではなかった。その寿命はおおよそ百年ほどであり、だいたい新たに産まれてから五十年ほどで全盛期を迎えて、そこから緩やかに衰退していく。
そんな聖獣の御子を宿す役割を与えられてきたのが、このアトラクシアの王族……今でこそ王族として君臨してはいるが、元は聖獣の巫女である一族の姫だ。
理由は不明だが、この地の聖獣の仔を宿すことが出来るのはアトラクシア王家の血を引く純潔の王女のみであり、それ故にその権威は不可侵であったのだから。
人でありながら、聖獣様に捧げられて、その仔を産み育てることを宿命とされた姫……いつしか、その存在は『供犠の姫』と呼ばれ、人の夜を守るために捧げられる絶対不可侵の存在として、畏敬と、微かな憐憫を以て崇められてきた。
その先代の供犠の姫が、今代の聖獣様を産み落としてから、今年で五十年。
あと数年程度ですぐにどうにかなる訳ではないが、しかし代替わりの準備としては今の世代か、あるいは子世代の姫いずれかに次代の聖獣となる者を産まなければならない時期となってきている。
──この国に生きる者ならば、誰もが知っている話。
それを改めて訥々と語り終えた、まだ幼い姫は……ゆっくりと目を開き、父王に向かって頷く。
「だから……その恩に報いるために、聖獣様の御子を授かり、産み育てる。光栄な役割です」
幼いセラフィナの、年に見合わぬ達観した言葉に、ぐっと言葉に詰まる父王。
しかし、そんな父親を安心させるように微笑んでみせたセラフィナは、一転して明るい調子で語りはじめる。
「それに、何代にも渡って変わらず優しい隣人として人々を見守ってくださった方々ですもの、今代の聖獣様もきっと、優しい方に違いありませんわ」
両手を胸の前であわせてまるで夢見る乙女のように語るセラフィナの前向きな姿に、ぎこちないながらも部屋の空気が少し和らぐ。
「だから……供犠の姫となり、私の生涯全て聖獣様へと捧げる大役、謹んでお受けいたしますわ、お父様」
そう皆を安心させるようにと微笑んで、改めて宣言する幼い末姫の覚悟の前に……その場に集った誰もが、もはや何も言う事はできなかったのだった。
◇
「──と、あの時はテンションも上がっていたので、格好良くは言ってみましたが」
ふぅ、と溜息を吐いて、窓に肘を掛けて物憂げに……と言うにはいささか図太さが滲む様子でセラフィナが外を覗き込むと、さらさらと癖のないロングストレートの明るい蜂蜜色をした髪が、頭の動きに合わせて揺れ、まるで絹のカーテンのように広がる。
そこには『自分達のために聖獣様に身を捧げられる美姫セラフィナ様』を見送ろうと集まった民衆たちが、一目でもその姿を目に焼き付けておきたいと馬車の方を注目していた。
そんな人々の方へ、セラフィナが外行きの笑顔を作って笑いかけながら手を振ると、途端にわっと上がる歓声。
興奮する人々へは対外向けな微笑みを貼り付けたまま、セラフィナはボヤく。
「声が震えていたのがお父様にバレていたのは、失敗でしたわねぇ……」
供犠の姫としてのお役目を光栄だと思っていたことは、決して嘘ではない。
だがそれはつまり、セラフィナには普通の女としての幸せを手にする事は絶対に無いということ。
特に、先代の供犠の姫が今の聖獣様を身籠ってから50年の間に、この国では信仰よりも産業の方が重要視されがちになってきた事もあり……たとえ人が平和に眠れる夜を存続させるために必要な尊い役回りとはいえ、古い慣習により人ならざる者に嫁ぐセラフィナに対し、蔑視する者もちらほらと存在する。
残念ながら、生まれながらに平穏が当たり前だった者たちにとって、その存続に対しての苦労というものは見えにくい物なのだから、一概に彼らを責めることもできない。
事実、配慮の足りない者からは何度か「獣を胎に宿す運命の王女」と憐憫や……より酷いものであれば嫌悪の目や言葉を向けられたこともある。
そんな悪感情を気にした風もなく受け流すセラフィナに……しかし、父王は申し訳なさそうな顔ばかりしていた。
「陛下も姫様の親ですからね。可愛い末娘を生贄にするのですから、まだ幼い姫様があまりに聞き分けが良ければ当然察するところもあったでしょう」
「そうなのよねぇ……」
結果、父親からの過保護が加速し……あの日からこの年まで、父親と兄以外の男性と接した経験が全く存在しない、超のつく箱入り娘が完成してしまった。
とはいえ、ミリアを始め側付きの侍女や女中からあれこれと吹き込まれたりお勧めの恋愛物語を読んだりしたために、実体験は無くとも(偏った)知識はある耳年増なのだが。
「ミリア、あなたに一つ、お願いがあるの」
「はい、何でしょうか」
「私が怖気付いてお役目から逃げ出しそうになったら、羽交締めにしてでも止めてくれる?」
「……はい、必ず」
相変わらず笑顔を貼り付けたまま窓の外を眺めながらのセラフィナの呟きに、ミリアはそっと応える。
「差し当たっては、向こうに着いたら行わないといけない純潔の検査を逃げ出したいのですけれどもね」
「だめです」
「……命令に忠実な侍女を持って、私は幸せですね」
取り付く島もなくぴしゃりと放たれたミリアの言葉に、セラフィナは物憂げに頬に手を当てて、深々と溜息を吐くのだった。