――あれは、今からどれくらい遡った頃のことだったでしょうか。
過ぎた日の数はとうの昔に忘れてしまいましたが、思い返せば頭がぎちぎちと軋んでしまうほどに古びた記憶は、癒えない〝傷〟として刻まれています。
どれだけ時を空けようとも消えることのない〝始まり〟は――そう、湿った藁のすえた臭いでした。
「う、ん……?」
がたごとと揺れる荷台の中で目を覚ました私は、寝ぼけまなこを擦りながら、ぼろ切れの幌を押し上げて明るみに目を眩ませました。
積み荷だらけの荷車の外に広がっていたのは、見渡す限りの田園と、葉が青々と茂る山ばかり。通りすがりの農家の老婆と目が合い、じろじろと見られた私は荷車の中にすんと引っ込みました。
運賃を安く済ませるためだったのか――少なくとも、当時の私はそう感じていました――〝荷物〟として積まれていた私は、幾十日にも及ぶ期間で慣れ始めた牛歩の調子に揺られながら、知らない風の香りに緊張していました。
私が暮らしていた昔の時代――もしかしたら〝国〟か、それ以上に大きな〝何か〟も異なるのかもしれません――は、とてものんびりとした雰囲気に満ちていました。
牛車というゆるやかな移動手法が多く使われるほど、各々が進歩を焦ることなく、繰り返すような毎日の平穏を愛する人が多かったのだと思います。やることがない状態を『退屈』などと言わず、敢えて歓迎して昼寝に耽る……そんな、狭くて惰性的な日々を際限なく繋いでいました。
そんな日常の中で、見慣れない風景が呆れるほどにゆったりと流れていきます。荷台に寝っ転がって書物の塊を抱き、すくすくと育つ稲の葉たちを眺めながら、吹き抜ける風の光を追って――からりと晴れた青空に、もこもこと泳ぐ雲を見送りました。
田んぼを繋ぐ水路のせせらぎを聞き、近づく夏の香りが漂うあぜ道を抜けていくと……鬱蒼とした森と古びた石段が見えてきました。狛犬のように鎮座する、大きなとかげのような人型の化身――〝竜〟の姿が見えた頃、私は周囲に漂う不思議な気配を感じました。
言いようもない不安に包まれた私は、父母に託された、風真家の紋が入った大事な羽織と――それにくるんだ、幼子が腰に差すには大きすぎた〝刀〟を抱き締めて、胸でとくとくと暴れる苦しみに耐え忍びます。
武家の者として――父上から『その命と同じく守り抜け』と命じられた宝物たちを託された者として、この程度のことに恐怖を覚えてよいはずがないのです。
「おうい嬢ちゃん、そろそろ荷下ろしの頃合いだ。たんまり貰った食費も昨晩の握り飯で尽きたし、あんな石段を登ってやるほどの駄賃は貰ってないんでな」
「いひゃあっ!?」
ぺんぺんと幌を叩かれ、私は心臓をつままれたように跳ね上がりました。
間もなく止まった荷車から恐るおそる降りると、日除けの笠の下で汗を拭った牛方に見下ろされます。
「しかしまあ、こんな乳臭い童まで〝柱〟に据えるたあ、風真家の名も地に堕ちたものよな」
「何を――ふぎゃん!」
男は、その粗暴な手で私の尻を掴むように叩きました。身体を突き抜けた衝撃で私は転び、手と膝に土を付けられてしまいました。
男は悪びれもせず、げらげらと下品に笑っていました。武士のはしくれとして、その無礼を詫びさせなければならないのですが……男に触れられた身体と、勇気を出せない心が震えて、悔しさに唇を噛むことしかできませんでした。
「へへ、怯えて震えるだけか。あのうさん臭い〝宣教師〟が言ったとおりよな。武士ってのは幅を利かせて〝自由〟を縛るだけで、その実、大したことはないのだ。恐れることは何もない!」
この頃の私はまだ帯刀を許されない年で、抱いている重たい鉄塊を自在に振り回すことは叶いません。みっともない私だけでなく、武士という高尚な存在を愚弄されても……私は、何もできなかったのです。
私は動き始めた牛車を憎らしく睨んで、目から湧き出る涙を堪えきれずにこぼして……ありんこのように小さくなった相手に向かって、これでもかというほどに憎悪を込めて「べっ!」と舌を出しました。
風真家を守る父上がここに居たら、「情けないことをするな」と、げんこつで頭をぽかりと叩かれていたことでしょう。あのときは情けなくて、心細くて、そのお叱りすらも愛しく思えたものでした。
着物の余っている袖で涙を拭うと、少しだけすっきりした頭になりました。どこか吹っ切れた私は、神聖な気配が漂う石段を見据えます。
人を拒む空気が肌に絡みつき、揺れる心をじわりと握られながら……武士のあかしである刀と風真家の羽織を抱き締めて、竜たちが睨む参道をとつとつと昇っていきます。
……………………。
……どれだけ石段を踏みしめたでしょうか。初夏の涼やかな風が薫るなかで汗だくになるほど……あるいは、元気よく石段を数えていたことすら忘れるほどに長い道のりを進みました。
両側を覆う木々の葉擦れに飽きた頃にようやく石段が平らな石畳に変わりました。晴れた気分で涼やかな風を受け、終点である鳥居をくぐると――『ミヤ様』――私が目指していたお社の門が見えました。
周囲を木々に囲われたお社は、神妙な雰囲気に満ちておりましたが、思っていたよりもずいぶんと小さく、風真家の屋敷の半分もありません。離れや蔵こそあれど、少しだけ裕福な人が数人暮らすのに適した大きさだったと思います。
私は額から滴る汗を拭って石畳を渡り、何度か躊躇ってから門戸を叩きました。館の奥からとつとつと足音が聞こえ、私の小さな心臓を鷲掴みにして弄びました。
「…………なんだ。風真の孫娘が〝柱〟に成りにくると文が届いていたが……まだ毛も生え揃っていなさそうな童ではないか」
こちらの緊張など気にすることもなく、無造作にがらりと開かれた戸の奥には、上品に織られた濃紺の着物に身を包んだ殿方がいました。
束ねた髪は気品を乗せたかのように艶めいていましたが、傍から見ても美形だと感じる整った顔立ちは、ええと、それなりの年季を感じさせました。父上のように落ち着いた風貌は、首元と袖から見える肌にはよく鍛えられた節が覗いており、着物の奥にはぎちぎちに詰まった修練の賜物の気配を察します。
「や、藪から棒に失礼な! わた――それがしは、風真家の跡取りで、ええと、名をいろはと申す! このたび、ミヤ様の……ちょうあい?を頂きに参上つかまつり……そのお……!」
「はは。そうか、そうか。ならば非礼を詫びよう――風真の孫娘よ、よくぞ我が屋形まで参ったな」
「え、いや……は、はあ……むぎゅう!」
その方はこちらの拙い挨拶を遮り、大きな手で私の頭をわしわしと撫で回しました。
突然のことに心が追いつかず、私はされるがままに頭をもみくちゃにされたのですが……不思議と、その子供をあやすような仕草を、敬意ある愛情表現として受け止められていました。これこそ、ミヤ様が有していた〝求心力〟だったのだと思います。
「して、風真の。その大事そうに抱えた羽織と……その中身は、いったいどうしたのだ?」
「これは、出立の際に我が父から託されたもので……あ、出立と言っても、牛車の積荷としてひと月ほど運ばれてきただけなのですが……」
「……おまえを、積荷に…………どれ、見せてみよ」
ミヤ様は私の手から羽織を受け取り、包みを解いて――静かに顔をしかめました。
「……『―――』」
難しい顔のミヤ様がぽつりとつぶやいたのは、風真家が代々守り継いできた刀の由緒正しき名前だったのだとわかりました――が、幼き頃の私には、その耳馴染みのない言葉が上手く聞き取れず……『ちゃき』と誤って覚えてしまった失敗を、密かに今も引きずっているのは皆殿も知ってのとおりです。
「あの……その刀は、ミヤ様にとっても大切なものなのですか……?」
「ん、ああ、うむ…………まあ、な。『信仰を失った今では』ただの〝憑き物落とし〟にしかならんが……」
「……つきものおとし、とは?」
子供ながらにミヤ様の言葉に引っ掛かるものを覚えながら、特に気になったことだけを問いました。なぜか、〝それ〟を尋ねてはいけないような気がしたのです。
「無形である呪詛や祝福を斬ることができるのだ。まあ、おまえの家の家宝であることに変わりはない――大事にしなさい」
ミヤ様は私に羽織と『ちゃき』を返し、懐から何かの紙を取り出しました。おそらく、手紙なのでしょう――内容が書いてある裏面に、風真家の家紋が記されていました。
「……馬鹿者め……大事には早馬を飛ばせと、あれほど……」
「……ミヤ様……? 何か、風真家からの文に不敬でも……?」
「……ああ、いや。そのような家宝まで持ってくるとは、文には書いていなかったのだ」
「はあ。それほどまでに、重要なことなのですか?」
「……おまえはまだ、知らずともよいことだ」
ミヤ様はとても温かい目で私を見て、今度は愛おしむように、優しく頭を撫でてくれました。
先ほどのやや手荒かった歓迎と同じで、確かな安らぎを覚えたものでしたが……なぜか、その手にはやるせない想いを感じました。
「……うむ。この穏やかな浮世で敬虔に生きる者ならば、漏れなくおれの家族だ。おまえはこの屋形で、我が家のようにゆるりと過ごしていくといい」
「い、いえ! 私は――あ!それがしは、あの、すぐにでも〝柱〟に据えてもらいとうございます! 天寿を全うしようとする祖母に代わるために、家へと馳せ参じたく……!」
「ほう。おれの言うことが聞けぬと――竜禪の〝ミヤ〟に従えぬと。おまえが信奉を持たぬ不届き者であるなら、すぐに出ていっても構わぬよ。どれ、帰りの牛車を呼んでやろうか」
「ぎゃあ!こ、これはとんだ御無礼を……! つ、謹んでお詫び申し上げます……なにとぞ、ミヤ様のお傍に置き、〝柱〟に据えてくださりますよう……なにとぞ……!」
私は「へへえ!」と土間に手を突き、小綺麗な石床に額を擦り付けて謝罪しました。屈辱の極みである土下座をしてでも、ミヤ様のご機嫌を損なうことも、ここで放り出されることも許されません。
『異国の宣教師が蔓延り、武家への忠誠が薄れていく故郷で〝柱〟を絶やすわけにはいかない』――祖母と父母から託された使命は、風真家の存亡に直結していたのです。
「風真の――いや、風真よ。『二度とおれの言葉に逆らわない』と誓うか?」
「ち、誓います! 『ミヤ様のお言葉は絶対である』と肝に銘じます!」
「よろしい。ではまず、その『ミヤ様』と呼ぶのを止めよ」
「はい!仰せのままに…………えっ?」
私が思わず頭を上げると――その方は膝を土間に付け、私を間近で愛しげに見下ろしていました。
「その畏まった呼称はおれの真名ではない。安息の地である我が社で、こうして穏やかに過ごしているときにまでそう呼ばれるのは、さすがに敵わんのだ」
「は、はあ……では……その……貴殿を、何とお呼びすればよいのでしょうか……?」
「好きに呼ぶといい」
はい出ました。今の時代に生きる皆殿にもすぐに伝わるであろう、いつの時代に存在する『面倒くさいやつ』です。この時ほど肝が冷えたことは、長い人生の中でも数えるほどしか経験していません。
このお方に嫌われるわけにも、問い掛けに隠された〝穴〟を踏み抜くわけにもいかない私は、必死に頭を働かせて……このお方が発した言葉を辿って、思いつきを手繰り寄せました。
「それでは……お、『お屋形様』などはいかがでしょうか? こちらの屋形の主人であられますので……そのう、誤りは、ないかと……えへっ……」
「屋形か……うむ、悪くない。気品と敬意に満ちた、実に風真家の者らしい答えだな」
「慎ましかったおまえの祖母を思い出すよ」と言って立ち上がったミヤ様――お屋形様は満足そうに微笑んで、私に手を差し伸べてくださりました。
恐れ多いことだとわかりながらも、その大きな手を無視できない私は、歩き始めたばかりの赤子のように身体を引き上げられて足裏を土間に着けました。
「あ、あのう……私はこれから、どうすればよいのでしょうか……? 〝柱〟に成るためにカフの国からここまで参ったのですが……それ以外は何も知らず……」
「わかっている。だが、おまえの未熟な身体では〝柱〟の宿命に耐えれぬ――時期尚早なのだ。今は儀式を見送り、頃合いまで数年は待たねばならん」
「す、数年……!? 風真家は、今にもその地位を揺るがされようとしておるのです! 私の身体が傷もうとも、この使命だけは迅速に果たさねば……!」
「………………心配せずとも、いずれ時が来れば〝柱〟に据えてやる。おまえの父母もそれを望んでいる……間違いなく、な」
「……は、はあ……それで、大丈夫なのでしょうか……?」
「……ああ。現在の〝柱〟の様子は、おれがすぐに把握できるのだ。おれの言葉が信じられぬか?」
ぎろり、と強い目力で圧された私は、先ほどの誓いを思い返してぐっと黙り込みました。
そんな弱くて小さな童子に、強くて大きな神人が目を細めて微笑みます。
「……それでよい。童は時を気にせず、背伸びをせず、ただ健やかに育てばよいのだ。それがいずれこの世のためになる――おれが古き時代より見届けてきたのだ、間違いなかろう」
あのときの、春の陽気のように優しくて、温かだったご尊顔を忘れることはないでしょう。
これが、お屋形様――私が最期まで仕えていた主との、決して忘れられない記憶。今も風に揺れ動いている、浅葱の木の葉のように色褪せない――私と彼の、一番最初の思い出でした。