※この作品はR-18です。

朽ちぬ木の葉は色褪せず   作:ナルキケーネ(ハーメルン支店)

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第五話 命の譜

 イサリビの祭壇から架けられた〝橋〟が、失われた信仰の〝本殿〟を指し示すようになった翌日――汗やら汁やらでぐちょぐちょだった身体を朝一番で清めて、寝不足で火照りが残る身体に気合を入れました。

 

 ソウリョクのおかげで身体能力が爆増していたおかげで、夕餉の後にも自然と始まった〝二回戦〟を経ても、すぐに体力が戻るようになっていたのが救いでした。性感の強い依存性を覚えたばかりの未熟な私は、無意識にお屋形様の寵愛を望んでしまっていたらしく……欲の海に溺れかけた明け方に、ようやく〝欲の律し方〟を習得できたのです。

 

 レオーニオがお風呂で愛用しているソープ類を使って羞恥と肉欲を残滓まで洗い落とし、濡れた髪を乾かし終えた私とお屋形様は、お社の祭壇から一望できるイサリビの空を眺めながら、今後のことを話し合いました。

 

「予想どおりではあるが、本殿はかつて八武信仰が流れ着いた地から少し離れた場所にあるようだな。付近に築かれていた竜禪の祭壇も当然残されておらぬ。風真、おまえの〝足〟だけが頼りだ」

 

「ははあ……『失われた信仰を蘇らせ、竜禪に習合させる』ためには、広い此の地を巡らねばならないわけですね。それにしても……どうして、信仰があった地に残されていないのでしょうか?」

 

「……不自然なことは何もない。それが人の営みというものだ……今も昔も変わらずな」

 

 私は薄い痒みが残る下腹部の違和感をごまかすために、正座をしていた脚をもじつかせながら、お屋形様の表情を窺いました。

 

 やや暗い声を絞り出したお屋形様は……静かに腕を組み、重たげな瞼をそっと下ろしていました。

 

「……お屋形様……?」

 

「ん。ああ、すまない。それで、今後についてだが……異教の本国で〝大襲撃〟の準備が進められていることは覚えているな」

 

「あ、はい、レオーニオが言っていたものですね。これから約一年後に、総力を挙げて此の地を本格的に支配しようというもののようですが……」

 

「そうだ。我らは平時の襲撃に耐えながらそれに備えねばならず、決戦の日には失われた同胞の力が不可欠になる。そのためにも、まずは楽神・キンナラの信仰を得た方がよいだろう」

 

「楽神……キンナラ様ですか? あまり、武力とは関係なさそうな信仰っぽいですけど……」

 

「そう言いたい気持ちもわからなくはないが……要らぬ神など存在せぬよ、風真。人に望まれるからこそ、神は成るのだ……おれのようにな」

 

「……あ……す、すみません……! そういうつもりで言ったのでは……いえ……申し訳ありません、神に仕える者として浅ましい失言でした……」

 

「よい。キンナラの本殿の場所は……平野を北に抜けた先か……武家が治めぬ宿場であるコガヤの町が近そうだ。イサリビからは三〇里ほどだ、他の目標地より近いのも好ましいな」

 

「ふむふむ、三〇里……いや、三〇里かぁ……あの、お屋形様? コガヤの国まで、そのう、お屋形様の背に乗せてもらって移動するのはナシですか?」

 

 三〇里というと、現代的な表現では約一二〇キロメートルです。いかにフットワークが軽く、体力も底上げされている私だとしても『近い』とは言えない距離でした。

 

 昨晩の余韻もあった私は、お屋形様に上目遣いでおねだりしましたが……お屋形様は気まずそうに顔を背けてしまいました。

 

「海岸沿いであればそれでもよかったのだがな。八武にまつわる信仰の地は、その多くが内陸の山間部にある。おれが――〝ながきもの〟が各地の空を飛び回れば、『竜禪信仰と武家が安寧を守っている』という、国における盤石すらも揺るがしかねないのだ」

 

「ああ、それはたしかに……海沿いに暮らしていない人は、そもそも襲撃のことも知らないわけですもんね。でも、これから全国を走って回るのはちょっとなあ……」

 

「楽神信仰の復活を勧めた理由が〝それ〟だ。彼奴の力があれば、おまえの杞憂する問題も解決するであろう。少しばかり、扱い方には苦慮する可能性もあるがな」

 

「えっ、ホントですか!? むむむ……それなら、最優先で向かわねば……!」

 

「ふふ。まあ、何を先に救うも、何を優先して選ぶも、全てはおまえ次第だ。おれは此の地を守るだけよ……おまえの選択と行動を手助けしてやりながらな」

 

 お屋形様はそう言って、私に、小さな木彫りの竜人の像を手渡しました。見た目よりも軽い偶像は意外と頑丈で……確かに、お屋形様の〝気配〟を孕んでいました。

 

「おれには神としての使命がある故に、常におまえの傍らで過ごすことはできぬが――事あるときにはおれを呼べ。急用でなくともよい。おまえが求めたときに、その像を通じて呼び掛けに応えよう」

 

「…………わかりました。でも、そんなに甘いことを言っていると……『寂しくなっちゃった』とか、『良い景色だな~』とかでも念じちゃうかもしれませんけど……」

 

「ふはははッ! なるほど。まあ、それも良いだろう。各地の祭壇――〝竜禪の祠〟の力を取り戻しさえすれば、おれが〝転移〟ですぐに出向くこともできる。おまえの心の飢えをうんと満たしてやろう」

 

 お屋形様は、わざと冗談めかしていた私の肩を優しく抱いて……わずかに怯えていた感情をなだめ、「頼んだぞ、風真」と申しつけてくれました。

 

「襲撃のときにはおまえがイサリビに居ると心強い……いや、それでなくとも……いつでも帰ってきてよいのだ。此処は……おまえの〝家〟なのだからな」

 

「…………はい……! 頑張る……でござる……!」

 

 お屋形様に包まれながら繰り返した深呼吸で震えを収え、力強く頷きました。

 

 こうして、私の冒険譚――全国を巡る大冒険が始まったのです。

 

 ……………………。

 

 イサリビの警邏をレオーニオに任せた私は、旅支度を整えて、イサリビの境界線へと向かいました。

 

 かつては、異教の影響や苦手なものが平然と蔓延っている世界が怖くて、どうしても越えられなかった一線を――自分の意思で、此の地を守るために踏み出しました。

 

 澄み渡る永遠の夏の空を見上げ、追い風を受けながら、私の知らない広い世界への旅立ちです。使命を背負い、架かる〝橋〟を追いながらはざまの地を巡る道中は……もう、非日常の連続でした。

 

 襲い掛かってくる野盗や猛獣を撃退して人助けをしたり、訪れた小さな集落で休息をしたりと、行き当たりばったりかつ手探りな旅が続きました。最初の晩こそ周囲が気になってなかなか寝付けませんでしたが、レオーニオの耳飾りが敵の接近を教えてくれるので、二日目以降はゆっくりと野宿できるようになりました。

 

 その野性的な道中で、まんまると太ったたぬきと出会ったのですが……その子が何故か付いてくるようになったので、貴重なひじょうしょ――〝おとも〟として迎えました。それが、皆殿もよく知るぽこべぇです。手触りも良く、話し相手にもお布団代わりにもなってくれたので、寂しさを紛らわす〝旅の仲間〟として本当に優秀な子でした。

 

 私は『イサリビから離れるとソウリョクの供給を受けづらくなる』という忠告に従い、力の無駄遣いをせずに慎重な旅路を往きました。何日もの日をかけてしまいましたが……野を越え、山を越え……ようやく〝橋〟が地へと向かい始めたコガヤの町に辿り着きました。

 

 日本の四季で表すと〝春〟の風土であるその場所には、街道を通ってきたと思われる他国の武士の姿もあったので……竜禪の祠に力を宿させてからお屋形様をお呼びして、一緒に見て回ることにしました。

 

 満開の桜が華やぐコガヤの町には、そこら中から聞こえる談笑が絶えない町並みがありました。ゆるやかな風土からか、住民による自治でも十分な治安が維持されていますが……その分まとまりも薄いためか、規模は大きくありません。発展も退廃もせず、繰り返す春日和を愛する……いかにも此の地らしい〝暮らし〟がそこにありました。

 

 竜禪信仰から外れた民たちも荒れずに稲作を営み、各々で自由自適に暮らしているようでした。爛漫の風を好むのどかさは、イサリビ以上のものだったと思います。

 

 私たちは、通りすがりの武士たちにあいさつをしてから人々の様子や治安を見守ったり、生醤油を利かせたタレが香ばしいお団子を食べながら桜の花びらが舞う河川敷を歩いたりと、ちょっとだけのんきな時間を過ごしました。

 

「しかし……なんとも雅な桜吹雪だな。此の地から移りゆく四季が失われて久しいが、こうも見事に咲く場所もあるとは……感慨深いものだ」

 

 私が、買ってもらった焼き団子をもりもりと食べていると……そう呟いたお屋形様の横顔が、とても温かな表情になっていきました。

 

 お屋形様は、竜禪の祠が失われた場所には〝転移〟ができません。日中に空から入れない山間部を訪れることはできなかったようなので……その横顔には、私がここまでの〝道〟を切り拓いたことに『意味があった』と思わせてくれました。

 

「むぐむぐ……コガヤの町には……もふん……宣教師が居ませんよね? ここまでの道中にはちらほらと淫らな格好の女が居たものですが」

 

「うむ……元より法の縛りが無い故に、〝勧誘〟の必要性も、成果も薄いのだろう。武家の力――彼奴らから見た〝支配〟が強い国から優先的に〝救済〟をしていたようだからな」

 

 お屋形様は静かにそう言い、餌付けをして仲良くなったぽこべぇの頭とお腹をうりうりと撫で回していました。 

 

 自分の故郷のことを思い出した私でしたが……髪の毛に付いていた桜の花びらをお屋形様につままれて我に返ります。

 

「おまえのおかげで祠に力が戻った。また桜を見に来よう、風真」

 

「……はい。『おれにはやることがあるから、おまえもそろそろ勤めに戻れ』ということですね」

 

「…………おまえには敵わぬよ。旅の話の続きは、おまえが使命を果たしたときにゆっくり聞かせてもらおう」

 

「……すみませんでした。忙しいのに、こんなことで時間を使わせてしまって」

 

「ふふ。それでよいのだ。おれも……おまえの楽しそうな顔が見れて、何よりだったぞ」

 

 少し照れ臭そうにそう言ったお屋形様は、桜の花びらを巻き込む旋風に包まれ……気づいたときには、その姿を消してしまっていました。

 

 十分に癒やされた私は、ぽこべぇを連れてコガヤの町を出て、〝橋〟が下りているように見える山へと続く険しい道を歩いていきました。

 

 外敵を退けるどころか、内側からも人を逃がさぬように凹凸の激しい道中は、歩くだけでも一苦労でした。ソウリョクを使いながら道なき道を往き、飛び出してきた大猪と死闘を繰り広げて、盗賊の野営から囚われていた村人を救って……洞窟や天然温泉の近くでの野宿を繰り返した旅路の果てに、山間にある小さな集落を発見しました。

 

 木々に囲われ、数えるぐらいの藁葺屋根の建物だけがあり、歴史のありそうな水車がごとごとと回っている自然豊かな場所では……農作業や針仕事に勤しむ民が〝歌〟をうたっていました。

 

 通りかかった民に話を聞くと……その歌は古くから口伝で歌い継がれてきたもので、どこで生まれたのかはわからないそうですが……この周囲から切り離された集落では誰もが知っており、最も愛されている文化なのだといいます。

 

 私は集落の民に自分の身分を明かして使命を伝えましたが、誰もキンナラ様のことは知りませんでした。仕方がないので、自分で探すことにしたのですが……民からは『〝不吉〟とされる場所があるので気をつけるように』と忠告を貰いました。

 

「ふんふん……♪ でんでかへんべらふんふふふーん♪」

 

 訛っている歌詞の意味はほとんどわかりませんでしたが、泊まる場所を提供してもらってひと休みしているあいだにも聴いていた旋律は、私の耳にこびりついていました。

 

〝不吉〟という単語と、ソウリョクの流れも見えないほどに鬱蒼とした木々の中へ続く登り道――その恐怖を紛らわすために私が鼻歌をうたい、後ろのぽこべぇがぽんぽことお腹を叩くという、やや奇妙な珍道中を抜けていくと――森が小さく切り拓かれた場所にある、朽ち果てた庵が見えてきました。そこには、空から差し込む光の終点がほやほやと漂っていました。

 

 信仰の残滓に心がざわつき、下腹部が疼いた私は……一応ぽこべぇを外で待たせて、恐るおそる庵の中を探しました。腐った板や新鮮な木の葉が山積する、人が暮らしていた気配すら残っていない〝跡地〟をくまなく探していると――〝朽ちた細長い何か〟に指が触れ――私の意識が、心の中へ引き込まれました――――。

 

 ――――――。

 

 ――――気がついたときには――私は再び、あの常夜の庭園で立ち呆けていました。

 

 見慣れ始めた光景に――いえ、最初から私の中にあった場所に、一つの光が流れ込みます。ゆるやかな着物に身を包んだ青年が、私の心境にふわりと舞い降り……お互いの礼拝を重ねて認識を繋げました。

 

『……お侍さん……嗚呼、忘れられしキンナラ様に参られたのだね。やつかれの名は弓文。この鎖された〝コガの山〟に生き、キンナラ様を祀りながら音楽に命を費やした……ただの愚者だ』

 

 ――どうして、己のことを愚者と表すのですか?

 

『集落の決まり事を守れず、周囲の声にも反発し続けるような者を〝賢者〟とは言わないだろう。それゆえに、やつかれは〝愚者〟なのだ……自嘲ではあるけどね』

 

 柔和なのに、どこか憂いを帯びた笑み。特徴的な表情をしている弓文様は、背負っていた不思議な楽器を手にして、ぽろろん、と望月が映る水面に音を弾ませながら視線を落とします。

 

『やつかれの奏でる音色はね、【不吉を呼ぶ】として嫌われ続けたものだ。それでも、愚かな求道者は自らの腕を極め、新たな〝音〟を探し続けることしかできなかった……キンナラ様は、そんなやつかれを見守ってくださっていた素晴らしい神様なのだよ。正直に言って、失われてしまうのは忍びなかったね』

 

 ――不吉を呼ぶ音色……そんなものが、本当にあるのですか?

 

『どうだろうね。少なくとも、あの〝唄〟を愛する集落では理解を得られず、他者の不安を招いてしまったのは確かだろう。此の地では想いが強い力を生む……不和の元であるやつかれを恐れる心は、何らかの不吉を生んでいたのではないかな』

 

 ――どうして、そんなにも……人に嫌われるとわかっていても、音楽を続けたのですか?

 

『〝続けるしかなかった〟からだよ。文化が愛される場所に産まれ落ちたせいか、欲張りなやつかれの心は、定番ではない〝多彩な音〟を求めた……語り継がれる旋律だけでは満足できず、進展と変化を嫌う同調に反発し……山奥で拾った異国の楽器を掻き鳴らしていたら、やがて村を追われて独りになった。それだけなのだよ』

 

 ――その理由だけで……孤独や無理解を甘んじることができたのですか?

 

『仕方のないことだ。やつかれが既知に満足できなかったように、民も新しい音色には満足できなかった。〝何かに不満を抱く〟とは、そういう平等を以て成り立つものだよ』

 

 ――……理屈ではわかりますが……私だったら、簡単には割り切れそうにありません……。

 

『無論、簡単ではなかった。だが、それしかなかった。やつかれは選んだのだよ――村での退屈な安寧を捨て、命を音楽に捧げる破天荒な人生をね』

 

 ――とても強い心をお持ちだったのですね。普通の人では、きっと選べなかった道だと思います。

 

『〝誰も選ぼうとしなかった〟だけだと思うがね。幸いにも、この山隠の庵には、浮世離れした文化人を受け入れるキンナラ様がいらっしゃった。やつかれは、唯一かつ最高の聴者として神の存在を〝信じて〟音色を捧げ続けた。指を削り、声を嗄らしながら……この命が尽きるまで、〝己〟を音に変えてきたものさ』

 

 ――音楽に命を費やした……その文字どおりの人生だったのですね。

 

『そうだね。そして何を得ることもなく、何にも慕われることなく……虚無なばかりの命は潰えて、愚者の生涯は時に流されたのさ。この人生には、自己満足以外の何も残されていない――君がこうして奇跡を起こさなければ、恥を忍んで語る術もなかったほどにね』

 

 ――……それは……。

 

『同情を誘うつもりはないよ。だが、一つだけ問わせてほしい――どうだい、可憐なお侍さん。君の人生に――君の命に、意味はあると思うかい』

 

 ――……ッ……それはまだ、わかりません……。でも、今は……私を信じてくれる人たちがいるので……その方たちの祈りに『意味があった』と思わせてあげたいと思っています。

 

『…………そうかい。それは……嗚呼、きっと、良いことなのだろうね。孤独を甘んじたやつかれの生き方に悔いはないが……少しだけ……本当に少しだけ、聴者を持つ君が羨ましく思えるよ』

 

 ――……弓文様……。

 

『……うん。君が書き遺すだろう命の譜に興味が湧いた。やつかれの〝信心〟を写し、連れていってやってくれ……きっと、君の一助になるだろう』

 

 合掌しながら頭を下げ合ったとき――そぼ降る想いの雫が、私の中にある鏡面を叩いて、音色と波紋を広げていきました。その静かな語り口とは裏腹に……弓文様は、激しい感情の波を水に伝えて掻き鳴らしていました。

 

〝良き音〟への同調者も、聴者も皆無。誰にも理解されない新天地。己の感性を疑い続け、己の道を信じ続ける日々。『一人でも良さを求める』と意地を張り、孤独と苦痛を分かち合えぬ針の筵に座した人生。他の全てを棄て、己の中に在る〝音楽〟と〝自分の感性を信じる心〟を守り続けた命の意味。

 

 生きがいのために、耐えがたい苦痛に自ら身を置き続けた先人の信心。それを追想して共感し、私は下腹部の紋に〝今〟の感情を書き写します。〝楽〟の刻印を受け継いだ私の心に、新たなる大風が吹き……竹の葉と水面に心の波を打たせて、新たな力の顕現を感じさせました。

 

『やつかれは、風来の文化人が代わるがわる信仰していた神の最期をたまたま看取っただけだが……こうして時を越えて君に会えたなら、良い奇跡に恵まれたようだと思えるよ。遅まきながら、己の生きたあかしを――〝命の意味〟を、現世に遺せたようだからね』

 

 弓文様は己の身体を揺らめかせ、境界線を曖昧にさせて消え去りながら、儚くも温かい笑みを浮かべていました。そして、途切れた命の音を懐かしむように、平たく潰れた指で弦を弾き始めました。

 

 ――この、音色は……?

 

『やつかれがこの姿のときに――最盛期に書いた傑作の調べなんだ。今思えば……この〝自信〟が……やつかれの生き方を決めてくれたのだろうな――』

 

 人の胸を打ち、生き方にも強い影響力を与えるような……力強く、どこか切ない旋律が、少しずつ離れていきます。

 

 その音色に耳と心を傾けながら、私は目を閉じ――ゆっくりと、庭園から浮上していきました――――。

 

 ――――――。

 

 ――――目を閉じて呆然としていた私は――肩に乗ったぽこべぇが頭を叩いてきた衝撃で我に返りました。そして、涙が溢れていた目元を肩で拭って……手に持っていた棒状の物……弓文様が弾いていた楽器の成れの果てを見やりました。

 

 私は庵の中に小さな土饅頭を作り、名も知らぬ楽器をそっと突き立て、祈りを捧げました。そして、並んで手を合わせてくれていた可愛らしいけだものを連れて、コガヤの町に戻ることにしました。

 

 キンナラ信仰を身に宿した私は、ソウリョクを羽織にまとわせることで〝神鳥の羽〟を背に広げ、ゆるやかに滑空できるようになっていました。ぽこべぇを身体に引っ付かせた私は、山頂から吹き下ろす風に乗って、険しい山道をするすると下りていきます。

 

 心地良い春風とともに空を滑っている途中、往路で立ち寄った集落の上空を通ったのですが……何度も聴いていた〝歌〟が耳まで届いた時に確信しました。

 

 去り行く弓文様には言えませんでしたが……集落で愛され、うたわれていたのは……弓文様が最期に聴かせてくれた〝傑作〟そのものだったのです。

 

 古き良き旋律を守りたがった多数派と、洗練されていく新しい音色を求めた少数派。長い年月は人の生涯を霞ませ、偏見を流し去り……〝本当に良いもの〟を選び、遺したのかもしれません。

 

 コガヤの町で再びお屋形様をお呼びし、事の顛末を報告すると……お屋形様は、興味深そうに唇をつんと尖らせていました。

 

「ううむ。宣教師たちが魅せる〝刺激〟に惹かれる者がいたように……〝不吉〟とされていた『山奥から聞こえる謎の音色』を好んでいた者がいたのやもしれぬな」

 

「ああ、そういうことも考えられるのですね……。先代たちが語り継いできた唄に、新しくて良い音色を重ねて後代に伝える……そうして、あの素敵な歌が出来上がった……」

 

「あくまで推測だがな。物事には盛衰があり、いずれは消えるものだ……その集落の民のように、『残そうとする者』が現れない限りはな」

 

「……それは、此の地と同じように……ですか?」

 

「うむ。そして、此の地にはおまえが居る。それだけのことよ」

 

「…………責任重大ですね。私の両肩には、此の地に暮らす人々の全てが乗っかっているだなんて」

 

「まあ、軽くはなかろう。重たく感じるならば、いつでも背から下ろしてよいのだぞ」

 

「……お屋形様が一緒に『やーめた!』って言ってくれるなら、いつでもそのようにしますけど」

 

「…………やれやれ。〝次〟に備えるためにも……帰るぞ、風真」

 

「……はい、お屋形様!」

 

 私はお屋形様に引っ付いて、桜吹雪の竜巻の中に呑まれながら、イサリビへと〝転移〟しました。そこでソウリョクの使い方のコツをつかんだので、それからは自分一人でも〝転移〟ができるようになりました。

 

 とても狭い世界に伝わり、誰かの心を強く打ち響かせた音色――確かな〝命〟の痕跡。私は、自らの命や人生の意味を改めて問いながら――〝意味があったと信じられる旋律〟を、胸に深く刻み付けていました。

 

 

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