※この作品はR-18です。

朽ちぬ木の葉は色褪せず   作:ナルキケーネ(ハーメルン支店)

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信念と信仰

 私は門戸での古めかしい出会いを経て、お屋敷の中に通されました。そして、使い古されているのにどこか小綺麗な座敷で、淹れたての茶を振る舞われたのです。

 

 屋敷の裏手には巻藁や打ち込み台があったことから、お屋形様はさまざまな〝道〟に精通していたのだと思われます。何者にも分け隔てなく接し、偏見を持たずに対応する――あの御方らしい多彩ぶりでした。

 

 冷たくて苦味の強い歓迎を必死に飲み干そうと苦心していると、向かいに座していたお屋形様が「無理して飲まずともよい」と上機嫌に笑っていました。

 

 伝え聞いた話では、ミヤ様は『荘厳で神々しい方』だとされていましたが……訪ねたばかりの私には、とてもおおらかで気さくな方のように思えました。

 

 きっと、あの御方は……まだ幼い子供で、お屋敷に来たばかりの私に気を遣ってくれていたのだと思います。あのときの私には、全くわからなかったことでしたが……。

 

 事実として、私は〝よそ〟の匂いがふんわりと立ち込める座敷に若干の居心地の悪さを感じておりましたし、『何かしらの粗相でお屋形様のご機嫌を損ねてしまわないか』という爆弾のような不安を抱いておりました。

 

 風真家や故郷の他愛ない話をしながら、次々に振る舞われた三杯目の温かいお茶を飲んでいると……単純な童子だった私は、次第にお屋敷の雰囲気にも慣れていきました。

 

 私の緊張がほっと解けた頃――こちらの顔色をずっと窺っていたお屋形様が突然立ち上がり、刀掛けから堂々たる威気を放つ太刀を手にしました。

 

「風真。早速で悪いが、少しばかり留守を頼めるか」

 

「え? あ、はあ……私で務まるのでしたら。ひとりでの留守番は……ええ、何度も経験しておりますから! 丸一日でも差し支えございませんとも!」

 

 ……本当は、女中に世話を焼いてもらいながらの半日ですらも耐えられず、泣きべそをかくほどにお留守番が苦手でした。

 

 あのときの私は『儀式にもきっと耐えられる』と思われるように、大人らしいところを見せたくて……とても子供っぽい見栄を張ったものでした。

 

「そうか、では頼むぞ。夕刻には戻るつもりだが――事ある時には必ず『おれを呼べ』」

 

「あ……お屋形様!」

 

 姿が見えなくなって、途端に心細くなってしまった私は、お屋形様が後ろ手に閉じた戸を開けて追いすがりました。

 

 私を迎えていただいたばかり、そして今しがた閉ざされたばかりの外への門戸を開けると――そこには既にお屋形さまの姿はなく――尾を引くような一陣の風が、空に目掛けて吹きすさんでいただけでした。

 

「……呼べ、と言われても……何処にも、何も見当たらないけど……」

 

 さらさらと聞こえる木々の声と風の鼻歌。帯のような陽光が差し込む境内で奏でられる、美しいばかりのそれらが……私にはとても寂しく感じたため、お屋敷の中へ逃げるように引っ込みました。

 

 それから、畳の上でごろごろと寝っ転がったり、お屋敷の中をこっそりと探検したりしてしばらくの時を過ごしました――が、待てども待てども、お屋形様が帰ってくる気配はありませんでした。

 

「お屋形様、遅いなあ。何処で何をしているのやら……」

 

 育ち盛りのお腹が空いていく一方で、孤独と退屈が呼び寄せた不安感が転がる雪玉のように膨れ上がっていきました。

 

 私はついに寂しさに耐えきれなくなり、不貞寝をするように、畳に頬と身体を預けたのでした。

 

 

 

 ………………。

 

 

 

 ――ぎしり、ぎしり、と。古びた板張りの廊下が軋む音が、眠りに落ちていた私の耳を叩きました。

 

 ゆっくりと目を開けると……障子の向こう側から夕焼けが差し込み、部屋の内外に潜む闇を朱色が縁取るように強調していました。

 

 父上か、母上か……それとも、家の者か。寝ぼけた頭が挙げた音の主の候補を、お屋敷の歴史あるかぐわしさが否定します。

 

「……お屋形様……? もう、お戻りになられたのですか……?」

 

 私のか細い問い掛けに答えず、影の中を這いずるような低い足音が続きました。

 

 ひぐらしが遠くで鳴いていた夕焼け色の世界は、私の呼吸をゆるやかに詰まらせました。じわじわとにじり寄る恐怖に耐えきれず、小走りで駆け寄った戸を開くと――。

 

「――んあ。なんだあ、こんな娘っ子が居たのかあ」

 

 ――そこには、戸棚を漁っていた小汚い格好の老男が立っていました。離れた所からでも鼻を穢そうとする体臭を漂わせ、お屋敷の床を土足で荒らすその様は、どう見ても高貴なお屋形様の身内とは思えませんでした。

 

「ど、どなた……ですか……? ここは、ミヤ様のお社で……そのお……下履きを脱がずに上がってよい場所では……」

 

「ひ、ひ。ちいと青いが、顔も髪も子種がよおく染みそうな上物だあ。とっこの飼い者かあ?」

 

「か、飼われてなどおりません……! 私は武家の者として、竜禪の〝柱〟となるために……」

 

「ああ、いい、いい。そういうな、小難しーい話はな、もういいんだあ」

 

 ぼさぼさの白髪を搔き乱して大量のふけを飛ばした男は、突然私の肩を掴んで――部屋の畳に叩きつけ、押し潰すように覆い被さりました。

 

「――っ……い、たぁ……! 何をして……ひっ……!?

 

「んふ!ふう! やわっこい肌に、いーい乳臭さだあ。手垢にまみれた安宿の娼婦とは大違いだあ!」

 

「い、やぁっ……私に……そ、それがしの身体に、触れるなぁっ……!」

 

 武士を気取ろうとする童子の非力な抵抗を物ともせず、浮浪の男はまだ肉が薄い首筋に鼻を埋めて、好き勝手に私の身体をまさぐりました。

 

 鼻の奥を矢じりで突くような腐った体臭に包まれ、垢まみれの肌を擦りつけられ……身体を支配する嫌悪感で、鳥肌が止まりませんでした。

 

 散々私を弄んだ後……その男は、私の着物を剥いで肌衣を晒し、馬乗りになってこちらを見下ろしました。

 

 未熟な童女にすら欲情する目と下卑た笑みを浮かべた口元が、私を食い物として捉えていました。あのときの恐怖は、数百年の時が経った今でも忘れることはできません。

 

「や、や……やめ、よ……! 武士に、このようなロウゼキを……はたらく、など……許されぬこと……で……!」

 

「いひひ……センキョウシがなあ、おえのきたねえ手をなあ、いんやがらずにぎってなあ……教えてくれたんだあ。武士の言うことはマヤカシだあ、もう好きに生きていいんだあ!」

 

「な、何を言って――ッ――きゃあああああああああああああっ!」

 

 ……それは、今でも吐き気を催すほどにおぞましい蛮行の予兆でした。目を虚ろにしていた浮浪の男が、ぼろ切れのような穴だらけの着物を脱いで、余った皮だらけのでこぼこな裸体を晒したのです。

 

 身体の所々に黒ずんだしみと罪を犯したあかしである入れ墨が浮かんでおり………………かびを宿したかのようにデキモノが生え揃った……陰茎をいきり立たせていました。

 

「ほおれ!ほおれ! 今からおめえをオトナにしてくれるありがてえモンだあ。ちゃあんとあいさつすんだあ!」

 

「ひっ……ひいいい……! やめ、ろっ……そんなの、近づけるな………やめ、てぇ……!」

 

 黄ばんだ垢がこびりついた男根は饐えた臭いを放ち、恐怖に震えるばかりの――武家の跡取りとは思えない、無様な幼子にすり寄りました。

 

 泥まみれの大きな芋虫のように、夕闇を這いずる腐肉が差し迫るその光景は……私に、今でも治る気配がない『男の性欲』という根深いトラウマを刻み付けました。

 

 恐怖に襲われた私は、畳をひっかきながら逃げようとしましたが、逃げ損ねた足を取られ、膝裏を体重で押し潰されました。

 

「ぐぎゃ……あ……! はなして……もう、ひどいこと、しないで……!」

 

「うひひ!こんな恥ずっこい様でも武家を名乗れるんだあな。みいんなあきれこって、センキョウシの言う……なんだっけか……〝あれ〟に鞍替えするのも当然だあ!」

 

 あの牛方と同じでした。私の弱さが、この悪しき男の正当性を増長させてしまっていたのです。

 

 その小汚い手が、漏らしてしまった小便が染み込む肌着に掛けられたとき……私は藁にもすがる思いで、お屋形様の忠告に従いました。

 

「ミヤ様、どうかお助けを……! 私は……私は、風真家の未来を守らねば……ここで、純潔を失うわけにはぁ……ッ……!」

 

「ひひ。なあに言ってんだあ。あのとっこは今頃なあ、ジョウカされたあの国でえ、めそめそと灰でも洗ってるんだあ!」

 

「……う、ううう……! ミヤ様……っ……お屋形様……助けて……!」

 

 下半身を撫で回そうとする手と腐臭を放つ男根がすり寄り、私の心の中で恐怖と絶望が限界まで育ちきった瞬間――これまで散漫としていた自分の気持ちが、ひとつにまとまったような気がしました。

 

 その時、心で膨れ上がった純粋な想いが光の渦となって溢れ出し、闇が濃くなっていた室内を照らしながら、大いなる風を巻き起こしました。

 

「な、なんだあ!? め、目がつぶれるう!」

 

「え……? なに、これ……〝竜巻〟……?」

 

「――とうとう、おれの屋形ですら狼藉を働ける者が出てきたか。これも、あの異教の波及が進んだ証左よな」

 

 昇る朝日よりも輝かしく、逆巻く風よりも雄々しく吹き荒んだ煌めきの嵐。お屋敷の古めかしい香りとよく馴染む、荒々しくも真心ある風のうねり。

 

 その中心に立っていた人影は、紛れもなく――。

 

「……おやかた、さま……?」

 

「風真。よくぞ半疑を乗り越えておれの言葉を信じ、心の底から祈り上げたな。その〝信心〟こそが竜禪の――武家の本質であると覚えておくがよい」

 

 突然そこに現れたお屋形様は、浮浪の男の横腹を粗雑に蹴り上げ、その肉弾で障子と雨戸を破らせました。そして、蹴とばした男や壊れたお屋敷のことを全く気にせず、裸にされた私の身体にご自身の着物を羽織らせてくれました。

 

「怪我はないか?」

 

「は、はい……それは、もう……え、ええと……? これは、いったい……?」

 

「気にするな。ただの悪い夢だと思っておけ」

 

「いやぁ、それはさすがに無理があるのでは……」

 

「……ううむ、他の〝八武〟であれば、記憶を混同させるようなマヤカシも使えただろうに……おれはそこまで器用ではなくてな。すまぬが、見なかったことにしてくれ」

 

「え、ええ……? そんな無茶な……」

 

 柱である祖母からはお屋形様が〝人ならざる者〟だとは聞いていましたが……ここまで超常的な存在だとは思ってもみませんでした。今にして思えば、この時に見せてくれた顕現などの〝不自由かつ限定的な超能力〟は、『すごいのに誰も憧れないようなもの』の片鱗を表していたように思います。

 

 私はそのようなことを露知らず、目の前で雪崩のように起こったことに戸惑い、混乱するばかりでした。

 

 そんな困惑した頭を、出会ったときのようにぽんと撫でてから、お屋形様は庭に出て刀を抜きました。

 

 そのすらりと伸びた刀身は、昏さを増していくはずの夕焼けを受けて強く煌めき、罪深い浮浪の男に鋭い切っ先を向けていました。

 

「お、ぼ……ごへ……! おめえが……この世に巣食うとっこだなあ! こんまでずっと騙くらかしてくれてよお!おえが武家に収めた年貢をけえせよお!」

 

「無知故だろうが、言いがかりも甚だしい。武家の取り分はおれが取り締まるところではないし、どの国も治世と備蓄にふさわしいだけの税しか取っておらぬだろうに。〝はざま〟の売春婦や賭場にでも私財を注ぎ込んだのではないか?」

 

「うっ、うるせえい! おえが育てた稲っ子だあ!実りも稼ぎも、ぜんぶ、ぜんぶおえのモン――ぎゃ――――」

 

「浮世の事情や子細は聞かぬ。おまえの思想や言い訳にも興味はない。ただ――風真に手を出した報いだけは受けてもらったぞ」

 

 ……詳しくは省きますが……お屋形様は、今で言う〝善人〟ではありませんでした。人の命そのものを尊び、個の意思を尊重する今の時世には考えられないほどに……残酷、だったのかもしれません。

 

 それは、竜禪の名代として各地の国を治めている武家の者も同じことでした。各国に根差す武家はミヤ様の名の下に法を守り、税を管理しながら国を治めています。法を破って悪事に手を染めた者は裁かなければならず、反省の色が見えなかった生粋の罪人は打ち首にして――いえ、するしかありませんでした。

 

 誰しも、同族の命を奪うことを善しとするはずがありません――そうすることでしか守れない、牧歌的な暮らしと惰性を許す安寧があったのです。そして、武家に従いながら国で暮らす人々は、確かにそれを求めていたのです。

 

「……その者は……首を撥ねる必要が、あったのでしょうか……?」

 

 お屋敷を汚すような粗相をするほどの恐怖を与えられたというのに、目の前で起きた〝治世〟を受け入れられなかった私は、縁側でへたり込みながらそんなことを問いました。

 

 ……腰が抜けていたのは、刃から血を滴らせていたお屋形様が恐ろしかったからなのか……それとも、身を穢す脅威が去った安堵からなのかは、今でもわかっていません。

 

 人の命に裁定を下さざるを得ず、その沈痛に顔を歪ませていたお屋形様は……未練を断つように刀を振って血肉を払い、情けない姿を晒していた私の隣に座しました。

 

「おれも、救える命なら生かしてやりたかった。だが、この男のように何度も罪を重ねていく者は必ず現れる……情という無責任な慈悲のせいで日々を侵されてしまう者がいるのなら、野放しにはできぬよ」

 

「……ですが……! なにも、命まで奪わなくても……!」

 

「その男を生かして逃がせば、おまえや、おまえの背格好に似た女子たちは、今日から眠れぬ夜を過ごしたことだろう。違うか?」

 

「…………それは、そうかもしれませんが……私には、お屋形様のやり方が正しかったとは思いきれず……」

 

 当時の私は、その反発のせいで使命を果たせなくなっても悔いはない――そう思っていました。故郷で見てきた〝人の営み〟が命の上に成り立っていたことを、祖母や父母から言い聞かされてきたからです。

 

 子供らしく、自分の正しさを信じて疑わずに食い下がる私に、お屋形様が優しく頷きました。

 

「おまえは、武士として生きるには優しすぎる。家から託された刀もさぞ重かろう」

 

「っ……そ、そのようなことは……! た、たしかに、そのお……今は甘えているのかもしれませぬが……いずれは、必ず武士としてふさわしく――わぶっ……!」

 

 ――『本気で国に帰らされる』。そう感じて、ひたすらに甘かった言葉を必死に取り下げようとした私の頭を、大きな手がわしわしとあやしました。

 

「子供には強がりも妄信も必要ない。ただ、『これだけは知り、常々考えておけ』。我らが進む〝武の道〟は正しくないのやもしれぬが――武士は〝信念〟を貫いている、と」

 

「信念、ですか?」

 

「うむ。揺れ、たわむことはあれども、決して折れぬ信念――それに基づいて刀を振るうのが武士というものなのだ」

 

「……それは、父上や母上も同じだったのでしょうか……?」

 

「無論だ。でなければ、民を守れども〝国〟は守れぬ。そして覚えておけ――おれも武家も、罪人と同じように『裁かれる覚悟』を抱えて生きている。これが悪の所業だと言うのならば、非道の報いは必ず受けよう」

 

 日がほとんど沈みかけたなかでも気丈に笑ってみせたお屋形様は、全てを背負って生きておられました。奪わねばならない命も、そして、守るべき命も……全てに責任を持とうと日夜奮闘し、同時に葛藤していたのです。

 

 多くの人は強くありません。暴力や権威といった〝強さ〟に組み敷かれることもあります――それでも、生きていたいと願うものです。

 

 武家は力なき者でも笑って過ごせる毎日を守るために――秩序と社会を守るために〝度がすぎた個人のわがまま〟を間引き、人としての〝道徳的な在り方〟を強いるしかなかったのです。命そのものではなく、命を使って築かれる〝人々の暮らし〟を守るために。

 

 ……今の時代の価値観を持つ皆殿には、きっと軽薄に見られることでしょう。

 

 その晩、あれだけ強がっていたくせに、夕闇の中に揺らめく影を思い出して眠れなくなった私のことも。不甲斐なく泣きべそをかきながら彼の床を訪ねたことも。罪を疑った腕に抱かれながらなら、ぐっすりと眠れたことも。

 

 あの苦悩と葛藤に満ちたまどろみの中で、私は……己の弱さや、己が決めつけていた正義の脆弱さを思い知りました。そして、武士を名乗るために必要なもの――刀を握って信念を貫く侍が有する、〝正しさを妄信した道徳的な悪〟を律することのできる力――無形の〝強さ〟に気づき始めたのです。

 

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