モリの国で、自分の取った行動による悪影響の大きさを見せつけられた翌日……その早朝のことです。お屋形様と別室で目を覚ました私は、気怠い身体を起こし、腫れぼったい目をさすりながら起床して……お屋形様とレオーニオに気づかれないように、こっそりとお社を後にしました。
前日の晩はそのまま寝込んでしまい、二人に心配をかけたという負い目もあったのですが……単純に……〝竜禪〟と〝異教〟の両方から、目を逸らしたかったのだと思います。
お社の外で、心配してくれているように抱きついてきたぽこべぇを連れた私は、使命感に引きずられるように旅へ出ました。祭壇から伸びる〝橋〟を追い、向かった先は……四つ目に再興する信仰が在った場所です。
その当時は『イサリビから遥か西側』ということしかわかりませんでしたが……そこは、かつて〝ラカの国〟が存在していた、雪山に囲われる霜降りの土地でした。
私たちは雨に降られながら神馬を駆り、足元の悪い道を突き進んでいきました。すると、道中で大きな障害に阻まれることがないままに、雨が雪に変わり始め……遥か天空に架かるソウリョクの帯も下降を開始していました。
アマネ殿と食べた鍋物を恋しく思いながら、凍えた身体で辿り着いたのが〝霊水の村落〟でした。そこには特徴的な屋根をした家が立ち並んでおり、清らかで荘厳な雰囲気……そして、奇妙なお香のニオイが漂っていました。
カフの国からは程近い場所にありましたが……少し離れるだけで風土がここまで異なるというのも不思議なものです。何より、愛されている文化が全然違いました。
というのも、村落には朱色の着物に身を包み、頭に飾り角を着けて過ごしている……ひかえめに言って〝奇妙な格好の人〟が多く居たのです。
話を聞くと、ここには竜禪ではない土着の信仰があるといい、不可思議な格好はその正装なのだとか。朱色は破魔の力を表し、〝白き穢れ〟から民を守るのだといいます。
信仰の話で最も特徴的だったのは……村落から拝める尊大な霊峰から湧き出る水は〝霊水〟と呼ばれており、『飲むだけで万病に効き、天寿を全うできる』という話でした。ちょうど身体が重かったこともあり、一応、その水を見せてもらったのですが……村民ではない人への販売価格は目玉が飛び出るほどに高く、さすがに手が出せませんでした。
私とぽこべぇは情報収集を重ねながら村落の中を探し回りましたが、八武の一角と思わしき信仰の気配を見つけることができませんでした。おそらく、此処は八武信仰から派生した新興宗教によって支配されており……あの高すぎる水の売買によって生活が成り立っているのでしょう。
『せめて何らかの情報だけでも残っていないか』と考え、やたらと大きく、不思議な紙の飾りがたくさんぶら下がっているお屋敷を尋ねると……そこには最も不可思議な格好をして、恰幅の良い腹部をどでん!と見せている、とても偉そうな人が居ました。
「んや? なんだね、ちみは。ここが〝霊麗礼〟において最も崇高な場所……教祖たる僕の祈祷場だと知って訪れたのだろうね?」
「あ、いえ……すみません、ちょっとお話を聞こうと思っただけで……」
「ああ、僕の〝御言葉〟が聞きたいのかね。だったら今すぐお布施をそこに入れてから全裸になって、その賢くなさそうなこうべを僕に垂れなさいね」
男はぼりぼりと股間を掻き、その手の臭いを嗅ぎながら、大金が捧げられている大きな器を指差しました。
「……は……? いや、ちょっと……何を言っているんですか……?」
「霊麗礼の信者として当たり前の礼儀だろうに。ほら、早くこっちに寄りなさい。僕のありがたいイチモツを見逃すよ?」
「ひえっ……!? し、失礼しましたーっ……!」
朱色の衣服を突然脱ごうとした教祖から逃げるように、私はその場を後にしました。
会話が通じる気配すら感じない信仰の長……竜禪と同じ宗教であっても、こうも違うものがあるとは思いませんでした。
「……いや……お屋形様も、あちらこちらで女体を抱いているし……ウェニキスたちの異教もエッチばっかりしてるし……どこもそんなに変わらないのかな……?」
私とぽこべぇは腕を組んで「うーん」と首を傾げましたが、どれだけ考えても、何もわかる気がしませんでした。価値観や文化があまりにも違いすぎているのか……この場所は、宣教師たちが築いた鉄の街よりも縁遠いもののように感じたのです。
その後、豊かな水が石造りの水路を巡っている村の中を見て回りながら、もっちりした皮の中にいろいろな具が入っているお餅のような食べ物を食べたり、旅支度を整えたりしました。そして、信仰の手がかりがあると思われる、霊水に大きく関わる場所――雪が降りしきる霊峰へ足を踏み入れました。
吐く息が白く凍る道で、鼻を赤らめ、手をかじかませ……凍てつく風に心身を打ちのめされながら、どうにか前へ進みます。
氷雪に覆われた山道は、モリの国の奈落谷よりも厳しい環境下なのか……まともに活動をしている生物が居ないほどの極寒地帯でした。しんしんと雪華が舞い降りる静かな坂道を、何度も雪に足を取られながら抜けて、いくつもの朽ちた石門をくぐっていくと……明らかに『人が通るような場所ではない』ような険しい修験道が顔を出しました。
「……まだ、険しくなるの……?」
ここに至るまでの道中ではまったく戦闘を行っておらず、これまでの旅路では経験してこなかった〝環境〟が行く先を阻んでいました。
慣れない旅路で疲弊した私には、そこまでの道筋すらもかなりつらかったのですが……意を決して、寒さで感覚が鋭くなった背中に鞭を打って、ぽこべぇを自分の身体にくくりつけてから、切り立った崖に手を掛けました。
来る者全てを拒むように尖った岩肌を掴んで、手を凍えさせつつも壁伝いに足の幅ほどの細道を渡り、信心を試そうとする断崖絶壁を手足だけで登っていき……寒さでひび割れ、感覚がなくなる手に無数の擦り傷を作りました。猛吹雪で視界を覆われ、吹き荒れる風に荷物を落とされ……何度も、何度も心を折られかけながら、垂直に近い角度の氷壁という道なき道を進んでいきました。
「はぁっ……はぁーっ……! ぽこべぇ……頑張って……! 私も……ぐすっ……うっ……が、頑張る……から……!」
……その道中は、とても苦しくて……今すぐにでも、何もかもを辞めてしまって、お社の中で無気力に過ごしていたかったです。
しかし……既にいくつもの信仰を引き継ぎ、自分自身にもソウリョクが注がれる〝神の使い〟として、己に課した重責から逃れることはできませんでした。
自分が選んだ道、そして、背負うべきもの。それら全てに強い義務感を覚えていた私は、お屋形様に認めてもらった〝武士〟として……意地と気合だけで登山を続けていました。
白く凍る息を何万と重ねて、凍った血の塊を点々と落とし続けて……私はようやく、ソウリョクの帯のたもとに辿り着きました。
「…………え……? なに、これ……?」
開けた山頂に作られていたのは、平たい場所に雪が積もり続けて氷塊のようになった祈祷場の跡地でした。
ほとんどが硬い氷雪で覆われている場所には小さな祠がありましたが、そこには像や神殿が残されておらず……八武信仰を辿る手掛かりは……無念にこびりついた、血染めの遺恨だけだったのです。
嫌な予感ばかりが胸をよぎりましたが……ここに至るまでの道で、私はもう限界を迎えていました。正常な思考能力を持てず、ふらふらとした足取りで血染めの呪地に座って手を合わせ……意識を失うように、己の中にある常夜の園へ参りました。
ソウリョクの取り扱いにも、信仰の書き写しにも慣れ始めていたため……そのわずかな〝想いの残滓〟からも信心を読み取ることができました。仕組みとしては、黎明様とのやり取りに近かったように思えます。
……『読まなければよかった』。そう思ったときには、既に、何もかもが遅かったのです。
「…………ぁ…………ッ…………!?」
常夜の園には、蛇念様や弓文様のように信徒が舞い降りるのではなく……肉片が交ざった、赤黒い血の雨と暴風が吹き荒れました。そこには、何者かの感情が色濃く表れていたのです。
【騙された】【騙された】【騙された】【奪われた】【呪う】【報いる】【復讐する】【同じ目に遭わせる】【見せしめる】【幻を潰す】【現実を知らしめる】【神を殺す】【全てを殺す】【全てを潰す】【全てを穢す】
――我が子の命を蝕む不治の病。信仰を以て生まれる万能薬――〝神酒〟に縋った。修験道を何度も巡り、霊峰の氷より冷たい水を手で汲み、ひび割れ、かじかむ手で祈りを捧げ続けた。治ると信じていたのに、やがて全てを失った。
ガンダルヴァ信仰最後の信徒は――己の命が尽きるよりも先に信仰を棄て、夥しい量の呪詛を編んでいました。
血混じりの涙を流して神を恨み、その生涯にわたる過信の責務を負わせるように――喉と腹を引き裂いて、聖地の純白を血とはらわたで赤黒く染めたのです。その呪いは、今も此の地を蝕んでおり――。
「うっ……ぐっ……!? いッ……た……ぁ……!!」
――ずきん、と下腹部に走った鋭い痛みは、私の胎内を燃やすように広がっていきました。
八武の紋に刻まれた〝薬〟の文字は……その上から、憎しみのままに呪うように、赤黒い痣で〝幻〟と焼き潰されていました。
「……っ……い、だぁ……い……!! これ……信徒の人が……『騙された』って……思ったから……?」
もう既に何度も限界の壁を突き破っていた私は、下腹部を襲う苦悶に耐えられず……低い呻き声を漏らしながら雪の上でのたうちまわり、氷壁に爪を立てて自分の手を痛めていました。
「ぁ゛あああああああッ……!! やだ……もう、やだぁああっ……!! 助けて……父上、母上ッ……おばあ様ぁ……!!」
痛くて、つらくて、苦しくて。涙を顔に凍りつかせて泣き喚いていた間も、ぽこべぇは私の懐に入って下腹部をさすり続けてくれたのですが……その酷い火傷のような痛みが治まるまで、一日以上の時を要しました。
極寒の地で飲まず食わずの時を寝ずに過ごし、声を嗄らした私がまともに立てるようになったときには……もう、何もかもがわからなくなっていました。
――『どうしてこんなに苦しい思いをしているんだろう』。『こんなに苦しんで、また誰かにひどいことを言われるのかな』。『私がしていることの意味は何だろう』。
そんな、真剣に考えてしまった瞬間に取り返しがつかなくなるような疑問ばかりが、思考すらも凍り付いた私の頭によぎり続けていました。
……………………。
私に抱かれていたぽこべぇがソウリョクを振りしぼり、身体を大きくして温めてくれたおかげで、私は少しだけ……それこそ、自分が『もうダメだ』とわかるぐらいには快復しました。
……『このままくたばった方がマシだったのに』。ぽこべぇには申し訳なく思っていますが……その時の私は、そんな弱音を吐きながら、涙を流さずに泣いて……彼の憎らしいほどに温かった身体を強く抱くことしかできませんでした。
それから……ズキズキと、お月様を恨む日の何十倍も痛む下腹部の不快感を抱えながら、〝神鳥の羽〟で霊峰の冷たい吹き下ろしを一気に滑降していき……霊水の村落に戻ることができました。
イサリビに比べてかなり寒かったその場所すらも南国のように温かく感じて……それだけで救われたような気分になれました。
かすむ視界と痛む手足を動かし、温まれる寝床を求める亡者のように村落の宿屋へ向かう途中で――ぼろぼろになった私の姿を見た、祈祷師と思わしき村民が声をかけてきました。
「そこの武士。その手の酷い凍傷……もしや、霊峰への参拝を済ませたのか!?」
「……え、ええ……何度も、死にかけはしましたが……どうにか……」
「ふむ……であれば、頂上にあったものを私に教えてみよ。本当に参ったのであれば難なく答えられるだろう」
……霊峰の頂上には、これといった目立つものなど無かったはずでした。質問の意図もよくわからず、私は見たままの光景を述べます。
すると、祈祷師は興味深げに頷いて、にっこりと歯を見せて不気味に笑いました。
「素晴らしい! 確かに頂上へと参ったようだな。勇敢な武士よ、こちらに来い! 貴殿は、我らが神の恩恵を得られることだろう!」
上機嫌な祈祷師に案内された場所――村はずれにある霊峰の麓には、村落から繋がる小川の上流があり、透明度の高い水がこんこんと湧き出ていました。
「ここは部外者が立ち入ることを禁止されている霊水の水汲み場だ。霊峰の試練を乗り越えた貴殿には、教祖様と同じく霊水に触れる権利がある――そして、霊水の効果でその傷も癒やせるはずだ」
「は、はぁ……では、ありがたく……」
私は半信半疑のまま、やたらと豪奢な柄杓で霊水を汲み、自分の手にかけてみました。
「ッ……!? いっ……つぅ……!!」
しかし……そのありがたい水の冷たさが腐りかけた手に滲みるばかりで……深い傷は、一向に治る気配がありませんでした。
「おや? おかしいな……教祖様は『試練を越えた者ならどのような傷も瞬時に治る』と仰っていたのだが……貴殿は本当に頂上へ登ったのか?」
「いつつ……こんな怪我までして、嘘なんかついてないですよ……! 他の信徒さんたちも、霊水で傷を癒やせるのですか……?」
「いや。『霊峰の試練を乗り越えた信心が生む奇跡』だからな。弱い一般人である我らは霊水を口にし、〝大病無き人生〟を恵まれているのみだ」
「………………この霊水を飲み続けて、大病になった人はいないのですか?」
「うーむ。信仰心が足りぬ者は病に伏せることもあるが……ああ!うむ! きっと、貴殿も信仰心が足りないのだ。やはり、教祖様の御信仰は素晴らしいものなのだな!」
「………………は……?」
祈祷師は「信仰心が高まったら出直すといい!」とだけ言い残し、都合の悪いものから目を逸らすように――何も考えていないような軽い足取りで村落へ戻ってしまいました。
こぽこぽと音を立てて……〝ただの冷たい水〟が湧き出ているその場には、手の痛みを増した私と、どこかげんなりした顔のぽこべぇだけが取り残されました。
「…………痛かっただけなんですけど……もう、最悪だよ……」
仕方なく、祈祷師に遅れて村落に戻ったのですが……私はどうしても気になって、再び教祖を名乗る男の祈祷場へと向かいました。すると、建物の裏手から〝何かの音〟が聞こえてきたので……耳飾りにソウリョクを注ぎ、その内容を盗み聞きました。
……それは、教祖と女性が情事に及んでいる激しい音で……会話の内容は、口にすることすらも憚られるほどに下衆なものでした。
教祖には信仰心の欠片もなく、妄信する信者から金を巻き上げて贅を尽くした生活を送り、それにあやかる女性を侍らせたいだけのようでした。霊水が起こした奇跡というものは……一度だけインチキをして、皆に信じさせていただけのようでした。
「…………神って……信仰って、なんだろうね……ぽこべぇ……」
全身が痛みを訴えているなかで、心まで押し潰されるような事実を突き付けられ……全てが嫌になりかけていた私の虚無感を示す言葉に、ぽこべぇは気まずそうにして、私の胸元に抱きついてくるばかりでした。
……その虚無感は……これまでとは違い、信仰の再興ができたというのに、私は新しく得た力が何かすらもわかっていなかったことも大きかったです。最後の信徒が妄信していたものが、伝承や伝説に基づく〝不明瞭な何か〟だったことによるものなのでしょう。竜禪やヤシャ信仰を〝なんとなく〟で捉えていた、かつての私のように。
蛇念様、弓文様、黎明様には、確固たる〝信心〟と〝崇める神の姿〟がありましたが……ガンダルヴァ信仰は、どこかで何かを間違えたのか……あるいは『人の悪意に汚染されてしまった』のか……正確なかたちで伝わっていなかったのかもしれません。
――〝霊峰から湧き出るありがたいお水〟。『万病に効く』とうそぶかれ、目が飛び出るほどの高値で外部に売られていたものに……その答えがあったような気がしました。
「………………なんか、もう…………つかれた……」
感情がぐちゃぐちゃになり、宿で休むことすら億劫になった私は……村から離れたところで朽ちていた竜禪の祠に出向き、イサリビへと帰投しようとしました。これで、この旅路を――苦しいことばかりだった信仰再興の使命の一つを、終わらせられるはずでした。
しかし――祠の前には、私の安息を阻むかのように、白い服を着た赤毛の麗女が待ち構えていたのです。