※この作品はR-18です。

朽ちぬ木の葉は色褪せず   作:ナルキケーネ(ハーメルン支店)

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第一八話 憧れの正体

 ――懐かしさを心に響かせる声。脳裏をくすぐる切ない香り。たまらない衝動に誘われ、振り返った私の目に映ったのは……もう、存在しないはずの人――おばあ様の姿でした。

 

 艶めく麗しい黄葉色の髪。浅葱の差し色が入った、身軽なのに雅な和装。〝柱〟として周囲に崇められた、神木のように優美な立ち姿を花風になびかせ……背後に広がる、薄いもやの漂う〝カフの国〟と一体になっているようでした。

 

「ばッ――婆上ッ!!」

 

「だから『ババウエって呼ぶな』と言ってるだろ!!」

 

「いや速ッ――ぁ痛ぁい!!」

 

 爆速で近寄ったおばあ様に、すこーん、と平手で頭を叩かれ……ぐわんぐわんと頭蓋の中で弾ける残響が、懐かしさを孕んで心にまで到達しました。

 

「ばば……お、おばあ様……! なんでいっつも叩くの!?」

 

「お前がいつまで経っても学ばんからだろうに……まったく……。この偶像級に神々しい美少女に向かって『ババア』なんて……失礼にも程があるっての!」

 

 たしか四〇歳を優に超えていたはずのおばあ様は、いつまでも若々しさが続いているピチピチの頬を撫でながら、ぷりぷりとため息をつきました。

 

 その、あまりにも馴染みがある――〝日常的〟すぎる光景に、私は目と頭を疑いました。ぐしぐしと目をこすって、側頭部をとんとんと叩いて……そこでようやく、周囲の異変に気づきました。

 

 その幻惑の世界には、私が抱きかかえていたレオーニオも、淫らに男体を貪っていたマルテーサの姿もありません。それどころか、荒れ果てた国の跡地すらもなく――私はさらりとした砂地の庭先にへたりと座り込み、薫風の中で厳かに佇む風真家の屋敷を見上げていました。

 

 ……私はいつの間にか、思い出の中にしか残っていないはずの、懐かしい故郷の光景の中に引き込まれていたのです。

 

「……ここ……カフの国……風真家の、お屋敷……? どう、して……?」

 

「さっき『おかえり』って言ったのに……ま、そう簡単に状況を呑み込めるほど器用じゃないよね。知ってる、知ってる♪」

 

 おばあ様は小さく笑って、私に手を差し出しました。それは、池のある庭園で座り込んでいた私を見つけて……「このいたずらっ子め。ほら、帰るよ」と言ってくれたときと、まったく同じでした。

 

『またいつものようにお小言を言われるのか』と戸惑っていた私を無理矢理に引き起こして、手を繋いだまま……おばあ様は、記憶していたよりも小さく感じた大手門を出て、カフの地を歩いていきました。

 

 地を踏む足裏がどこかふわふわとしている、まるで夢見心地のような足取りで、思い出を辿るように故郷の地を歩いていきます。

 

 石畳が敷かれた通りを抜けた先にある、瓦屋根のお店や住居が並ぶ古き良き雰囲気の市街地。そこから周囲を囲うように整備された農地や果樹園に、網目に組まれた水路と脇のあぜ道。イサリビよりもかっちりとした空気で統率されていた、まとまりと整備感が強い風景――その全てが懐かしいものでした。

 

「……あっ……私がよく足を引っ掛けた段差も残ってる……懐かしいなぁ……」

 

「あちらこちらをチョロチョロと走り回ってイタズラして、大事な儀式のときもすーぐどっかに行っちゃって。昔のいろはは、手がかかりすぎるわんぱくっぷりだったよねぇ」

 

「うぐ……いや、だって……動いている方が好きだったし……儀式の意味とか、知らなかったし……」

 

「また言い訳ばっかり。ジッとせずに動きまわって、いっつもどこかで何かをしていて……悪さをしたら〝風真の庭園〟に逃げて、ほとぼりが冷めるのを待つんだもんねぇ……とんだクソガキだったよ! わっはっは!」

 

「…………相変わらず……手厳しいですね、おばあ様は……。たくさん怒ってたもんなぁ……」

 

「お前が厳しくさせて!お前が怒らせたんだろうに! 家族ってのはね、怒りたくて怒るモンじゃないんだよ!」

 

 見た目の華奢さに似合わない――それでも自分らしく豪快に笑ったおばあ様に言われて、幼少期の恥を思い出しました。すると、油絵具のようにぼやけた景色に光が走って……幼い私が、次々に映り込んでいきました。

 

 民として暮らすお友達と一緒に街中を駆け回って、よそ見をしているときに足を引っ掛けてしまった壺を割り、みんなで逃げました。農家の人から果物を貰って食べたら、果汁が飛んでおべべを汚してしまって、小川で洗ってもらいました。とんぼを追いかけ回して山に入り込んだ挙句、道に迷って大人たちの手を煩わせ、山狩りのような捜索の中でおばあ様に見つけてもらいました。

 

 ……そんな、故郷での記憶を鮮明に呼び起こされているのに……遠くの景色が霞み、畑で働く人や水の動きすらも制止した鈍色の光景は……まるで過去を懐かしむための写し絵のようで、どこか現実味が欠如していました。

 

「この〝幻〟が少し色褪せているのは、お前があんまり細部を憶えていないからだろうね」

 

「…………恥ずかしながら……憶えていないこともあるんです……。昔は、その……それが〝当たり前〟だと思っていて……無くなるなんて、思ってもみなかったから……」

 

「……ま、そういうこともあるだろうね。私だって、〝幸せ〟がずっと続くと信じていたから……他人のことは言えないや」

 

 少し気まずそうにしたおばあ様は、私にいろいろなことを思い出させるように、カフの国の中でも私にゆかりがありそうな場所を巡っていきました。

 

 過去の景色。そして、そこに映る私と誰か。順繰りに巡っていくうちに、たくさんのことを思い出していたのですが……再び風真家のお屋敷まで帰ってきたとき――広い土間で、私は足を止めてしまいました。

 

「…………やっぱり……あのおじさん……だ……」

 

 私が呆然と立ち尽くした、その視線の先には……信じたくないものが映っていました。

 

 背中に背負っていただろう籠を下ろし、野菜を手渡して私を笑顔にしてくれる――髭をきれいに剃った、若かりし姿の男性。その顔は、つい先日……レオーニオの元から逃げた半裸の私を、当たり前のように強姦しようとした人だったのです。

 

「…………うっ…………ぐ、ぷ……」

 

 その美しい思い出をべったりと穢すように塗り潰した、こびりついた小汚い男の顔と衣服から漏れた性欲が脳裏によぎって……私は手で強く口を覆って、こみ上げた吐き気を力づくで抑え込みました。

 

 ――『嘘だ』。『信じたくない』。頭と心の中でそんな弱音が反響して、強くなれない私の目を濡らそうとしていきました。

 

「いろは……泣いてるの?」

 

「……ん、ぐ……うっ……泣いて、ない……! 私は〝武士〟だもん……風真家の跡取りなのに、泣くわけないよ……!」

 

「また子供っぽいやせ我慢をして……変わらないね、お前は」

 

 くすり、と優しく笑ったおばあ様は、私の手を引く力を強めて、土間に張り付いた足を引き剥がしてくれました。

 

 ……涙がこぼれる前におばあ様に連れられ、私はお屋敷の中を巡っていきました。『ござる』とか『ござらん』とか言っていた家来の武士たちが住み込んで家事を担っていた下層から、母上が御本を読み聞かせてくれた寝室などがある上層まで……障子や木材の香りから、板張りの床に感じる冷たさまでもが記憶のままでした。

 

「…………もう、無いんだね」

 

 現実と寸分違わずに映し出されている光景の中で、浮遊感が消えてくれない虚無に……私は、思わずそうこぼしました。

 

「でも、確かに〝在った〟でしょ?」

 

 おばあ様は、前だけを見つめながらそう呟いて――自分に言い聞かせるように続けます。

 

 

 

「〝失う〟ことができるのは、〝存在していたもの〟だけだよ。そのことに気づくのは、たいてい、失った後ばっかりだったけどね」

 

 

 

 どこか含みを持たせた物言いをしたおばあ様は、顔だけをこちらに向けて、少し儚げに笑いました。

 

 初めて見た、おばあ様らしくない表情に戸惑っていると……その人は、ぎゅっと握った手に温もりを伝えてくれました。

 

「いろは。イサリビでの暮らしはどう?」

 

「え……? あ、うん……すごく、良くしてもらってるよ。お屋形様――ミヤ様も、イサリビのみんなも優しいし……食べるものもたくさんあるし……最近は、その……友達も、できたし……」

 

「そっか。それなら、あの子たちも安心できるだろうね……死ぬ間際まで、『いろはは大丈夫だろうか』って心配していたから」

 

「っ……父上と、母上のことですか……?」

 

〝死〟という言葉が聞こえてきて、逃れられない事実にぎゅうと胸を締め付けられ……耐えようもない空虚の嵐に胸中をさらわれた私は、思わず、引っ張られるように進んでいた足の歩幅を狭めました。

 

「その二人だけじゃないよ。〝武士〟という生き方から逃げなかった不器用さんたち……最期まで武家に仕えてくれた人たち、全員がお前の無事を祈っていたんだ」

 

 おばあ様は憂いを帯びた目で霞んだ屋敷内を見渡し、大きなため息をつきました。それから、言葉少なに階段を上っていき……最上階にある、小さな書院造の部屋の窓を開けました。

 

 その窓の先には、先ほどまで間近に見ていたカフの国の光景が広がっており――『民の暮らしがすぐ近くに在る』と強く感じさせてくれます。その眺望の良い窓は、お屋形様のお社にある祭壇のものとよく似ているような気がしました。

 

「……ここ、憶えてる……。おばあ様が、一番好きだった場所……だよね……?」

 

 私が思い出をなぞるように言葉を紡ぐと……きらりと舞った光の帯が部屋の中を鮮明に彩り、私をお腹で抱いたおばあ様がその光景と一体となりました。

 

 ……全てを思い出すことはできませんが……おばあ様と遊びながら、いろいろなことを教えてもらったような気がします。文字の書き方、人との話し方、食事の作法、礼儀の表し方……私の〝普通〟を形成してくれた、大切なことを学んだ事実は覚えていたのです。

 

「憶えていてくれて嬉しいな。ここは……私が皆から受け取って、お腹で温めていた願いを……ミヤ様に〝お渡し〟するための場所でもあったから……」

 

 ぽっ、と頬を赤らめたおばあ様は、本当にうら若き乙女のような仕草で私の肩をブッ叩きました。厳かで淑やかな、心の温まる雰囲気が、どてん、と一斉に崩れた気がします。

 

(…………そ、そうだよね……おばあ様が〝柱〟ということは……過去に、お屋形様と……そういう……ことを……)

 

 いろいろな衝撃に思わずよろけた私は、なんとも言えないオトナの空気の中で……ずっと『誰かに聞いてみたかったこと』を口にしました。

 

「おばあ様は……おやか――ミヤ様と〝儀式〟をスるの、どう思ってたの……?」

 

「んっ……んーっ……!? な、何を聞くんだろうねぇ、この子は……神聖な儀式に、どう思うも何もないと思うケド……!?」

 

「い、いや、なんていうか……儀式ですることって、本来は愛し合った人同士のものでしょ……?」

 

「そ、そんなことを誰から聞い――教えたの、私だ!! なんかずいぶんとぼかした言い方で教えた気もするね……!!」

 

 ……そわそわぼりぼりと腕を掻いていたおばあ様の姿を見て……私がお屋形様と出会った頃に、意味を正しく理解せずにとんでもないことを口にし続けていた元凶の在処を思い知りました。

 

 その余罪のほどはさておいて……私は咳払いをして、気になることの追究を続けます。決して、過去の恥から目を背けたかったわけではありません……たぶん、ですけど……。

 

「だから……義務感とか必要性だけで、そういうことするの……実際、他の人はどうなのかな、って……」

 

「……あぁ~……それは、まぁ……女の子として、気になるよねぇ……」

 

 おばあ様は薄めの胸で腕を組み、少し悩んでから……「うん」と一つだけ頷きました。

 

「儀式を執り行う前は、たしかに〝武家の女〟としての義務感だけで臨んだよ。でも……あの御方と触れ合っていくうちに……『こういう生き方もいいかな』って思えるようになったかな……」

 

「……い、イキ方……!? そ、それは……やっぱり……アレが大きくて、気持ちよかったからですか……!?」

 

「そうそ――はっ――ち、違うわ!ばかたれーッ!!デカすぎて痛かったに決まってるだろ!! っていうかなんだよ『やっぱり』って!? 私、そんなふしだらな女に見えるか!?」

 

「い、いえ、そんなことは……! そうですよね、そんな理由で、考えは変わりませんよね…………『気持ちいいから』なんて理由だけで、夜伽なんて…………あは、は……!」

 

 暗に『ふしだら』だと言われた私は、自分の頬に刻まれた淫辱をなぞりました。マルテーサに辱められる前から、私は、たぶん……そういう素質があったのかもしれません……。

 

 ……『やっぱり淫紋関係なくドスケベじゃん』……!?いや、違ッ……だからドスケベじゃないってば……! だって、周りに同じ年頃の人がいなかったから『普通じゃないこと』なんてわからなかったし……百戦錬磨のお屋形様に開発されたのに……し、仕方ないだろ……も~……!

 

「……こほんっ……!! 私が『いい』と思ったのは……ミヤ様がちゃんと、『私と向き合ってくれていた』からだよ……!」

 

「…………『向き合って』……?」

 

「そう。儀式中の語らいだけじゃなくて、膝を突き合わせて話をしたときも、預かっていた国民の祈りを捧げたときも……あの御方は常に私たちの〝心〟を強く想い、精一杯に応えてくれていたから。誠実で、真面目なひとで……『信じられる』と思ったんだよ」

 

「…………まあ、儀式がきもちよかったのは……否定、しないケド……」と、恥ずかしそうにもじもじしたおばあ様を見ながら……私は、あることを思い返していました。

 

 ……たしかに……お屋敷で一緒に暮らしていたお屋形様は、ずっと、私と向き合ってくれていました。娘のように愛してくれていた私が、心の底から覚悟を決めて『武士になりたい』と我儘を言ったときにも……ずっとお茶を濁してきたことを決断し、一人の女として抱いてくれたのです。

 

 その一方で、私は……これまで、イサリビで〝お屋形様への祈り〟を強めさせておきながら……自分自身が誰かに祈りを捧げられたときに、その祈りがくすぐったくて、逃げてしまっていたことが多々ありました。

 

 そのくせして、注がれるソウリョクの恩恵だけを受け取っていたように思います。神として……いえ、人として〝中途半端〟だったことを思い知ったのです。

 

「……いろは……その分だと、何かに気づいた?」

 

「……うん……よくわからないけど……なんとなく……『私に足りなかったもの』が、わかった気がする……」

 

「………………それで『わかった』感じを出すのが、お前の一番よくないところなんだよねぇ」

 

「…………え……?」

 

「ほら、こっちへおいで。『本当に足りないもの』を教えてあげるから」

 

 おばあ様は再び私の手を引いて階段を下りていき、屋敷の離れに築かれた道場に足を踏み入れました。

 

 そこには……凛々しい顔で刀を構え、ぎらりと刀身を光らせている〝武士の鑑〟のように格好良かった父上と……その姿を、陰から見つめている私の姿がありました。

 

 ……父上は善を尊び、悪を裁く公正な人でした。規律を乱した者を法に基づいて厳しく罰し、欲望を〝良からぬこと〟と譲らず、民の暮らしと安寧を守り続けていました。『その厳格な姿勢が民草にも慕われている』と家来の武士たちも言っていたので、私は、父がとても誇らしかったのです。

 

 ――〝武士〟への憧れ。善を守り、悪を断つ者が握る絶対的な〝力〟。そして――武士としての〝誇り〟。

 

 胸を熱くさせ、涙を潤ませるようなその光景は……心の中にある池の水面に写しているかのような、私の〝原点〟でした。

 

「私の息子でもあるけれど……あの子はお前の父でもあって、お前が思い描いた〝武士〟そのものでもある。だから、〝武士〟を名乗る不埒者や自分が、あの子の立ち振る舞いとは重ならない……それで、悩んでいるんだよね?」

 

「………………うん……。私は父上のような武士になって、此の地を守るために良いことをしようとしたのに……私のせいで苦しんでしまう人も出てきて……本当に、正しいことをしているのか……わからなくて……」

 

 私は、胸の中で抱えていた不信と迷いを吐き出していきました。どろどろに融け合った感情の濁りが、ずるずると、痛みに耐えられなくなった口から情けなく漏れていきます。

 

「何かを信じたとしても、報われないこともあるし……竜禪が、本当は正しくないことをしているかもしれないし……。私は武士を名乗っているだけで、他の人たちと同じように、好き勝手にやりたいことをやっているだけなのかもしれなくて……自分が〝風真家の恥さらし〟のように思えて……それで……」

 

「…………それは杞憂だよ。お前は拾い子だから風真家の人間ではないし――私も、お前の祖母ではないから。誰も、お前が武士だと思っていないよ」

 

 おばあ様がさらりと言った言葉で、私は全身の血が凍てつくような悪寒に襲われました。

 

 ……実は……ずっと、不安ではあったのです。私が武士になれないことには〝致命的な理由〟があって……皆が、それを隠しているのではないかと。

 

 ……こんなに頑張っているのに、どうしてか報われない……『何かがおかしくなければそうはならないだろう』と他責をしたくなるほどに、私は負の感情に追い込まれていたのです。

 

 …………今になって思えば……それも、思春期によくある『自分は〝普通〟ではないのかも』という、自分探しの一つだったのかもしれませんが……。

 

「………………え……? お……おばあ様……嘘、だよね……? そんな……そんなの、信じられない……信じたくないよ……!!」

 

「うん、嘘だよ」

 

「うそだ……………………えっ……は……?」

 

 おばあ様は、これまたあっけらかんと発言を否定しました。『お前は何を言っているんだ』と言いたげに……とても自然な声音で〝嘘〟をついたのです。

 

「でも、こっちが優しい嘘なのかもしれないね……うーん、どっちかなー?」

 

「………………??? え、っと……ど、どういう意味ですか……?」

 

 私はバクバクと脈打ち、痛みが走るほどに暴れる胸を押さえて問いましたが……おばあ様は、まっすぐな瞳で私の顔を見つめていました。

 

 ……そこに〝弱さ〟が眠っていると、最初から見抜いていたように。

 

「言葉は『どうとでも言える』し、姿形は『いくらでも取り繕える』ってこと。そして、これからお前は……私が示した『もしかして』に一生悩まされることになるかもしれないね」

 

「…………っ……!!」

 

 おばあ様がそう言ったように……私の胸には、おばあ様によって刺し込まれた〝棘〟が抜けずに残されていました。

 

 ――『私は風真家の娘でも武士でもない、ただの人』。『だから、私はもう悩まなくていい』。『これ以上苦しむ必要はどこにもない』。

 

 そんな甘い誘惑が、私の心の内からじわじわと広がろうとしていたのです。私は髪を振り乱して、自分の中で大きくなろうとしている甘言を霧消させようとしましたが……こびりついた疑念のような期待は、どうしても無くなってくれませんでした。

 

「いろは。お前は今、どうしてそんなに苦しんでいるの? べつに武士らしくなくても……風真家の人間っぽくなくても、困ることなんて一つもないよね?」

 

「そ、それは……でも、私は……立派な武士になって、此の地を守りたくて……それで……」

 

 私は、時が止まった世界でも、いつものように――『私が見てきたとおりに』、武士らしくてたくましい父上の背中を見上げました。

 

 その、何かに縋らなければ自分の意思すらも語れない甘ったれを見下ろして……おばあ様は、小さなため息を漏らします。

 

「〝立派な武士〟か……お前の父親は『此の地を守ろう』だなんて、たいそうな意志は持っていなかったと思うけどね……」

 

「…………え……?」

 

「いろは。お前は自分が知らなかったことや自分よりもすごいもの――〝自分に足りなかったもの〟を知ると、それを持つ者を〝完成形〟と思い込んで、視界を狭めてしまうことに気づいているかな?」

 

「………………う……ッ……! そ、そう……言われてみれば……」

 

 私はおばあ様にぐさりと胸を貫かれ、自分やイサリビに『足りない』と思うことが増え始めた頃――ウェニキスたちと出会い、異なる教義の存在を知ってからのことを思い返しました。

 

 ……たしかに、異教と竜禪の違いを〝優劣〟で比べようとすることが多く……自分に足りないものを自覚したときも、必ず目標である〝武士〟と自分を見比べていたように思います。

 

 おばあ様はきっと『そういう劣等感が良くない』と言ってくれている――当時の私は、そのように思ったのですが――。

 

「んで、今もこうして『たしかにそうかも!』となって、過去の自分を無意味に恥じようとしているね?」

 

 ――おばあ様は、その浅慮な反省すらもお見通しでした。

 

「うぎゃあ!! ど、どうしてそこまで……!?」

 

「あっはっは! そこに居るお前の父親や、私もそうだったからだよ」

 

「……え……? 父上も……?」

 

「そうだよ。ちょうど、お前が見ていた〝この〟ときのように――民や童たちの前では、立派な当主として振る舞い続けていたんだよね」

 

 おばあ様は、ぴくりとも動かない父上の傍に歩み寄り……『やけに力が入っている手』に、自分の手を重ねました。

 

「『法が無くては正義を握れぬ己の弱さ』。『いつかどこかで過ちを犯してしまいそうな不安』。『法から外れてしまった者を救えぬ無力』……そして、『自分の責務で他人の人生を左右してしまった罪悪感』。この子はずっと、そういう〝普通〟を悩みながら、国を治め続けていたんだよ」

 

「…………あの、父上が……悩みを……?」

 

「そりゃあ悩むよ、人間だもの。国の外で生きる命までは救えない、刑罰を与えざるを得なかった罪人の家族から仇のように恨まれる、それでも国と民を守らなければならない……そういう重責の中で生き続けた、真面目な子だからね」

 

 私が〝武士〟として憧れ続けていた父が、矮小な私なんかと似た悩みを抱いていた――そう聞かされても、私はいまいち信じることができませんでした。

 

 それほどまでに、私が父の背中に見ていたもの――〝正しき武士像〟は、とても大きかったのだと思います。そして……羨望の眼差しに応えるために、父上はさらに肩肘を張っていたのかもしれません。

 

「ふふ……立派な一面ばかりを見てきたお前には、信じられないかもしれないね。でも、それは嘘偽りのない事実なんだよ。母親である私は、この子の苦悩を傍で見続けてきたんだから」

 

「…………そんな……。でも、父上が……そんなこと……今さら言われても、信じられないっていうか……」

 

「いろははさっきも『信じられない』と言っていたけれど……じゃあ逆に『信じる』って何だろうね? 神様や教義も『信じる』って言うけど……実際、それはどういうことなんだろうね?」

 

「……ッ…………それ、は……」

 

 ちょうど大きな壁にぶつかって悩んでいることに触れられ、つい口ごもってしまった私に……おばあ様は、とても穏やかな微笑みを見せました。

 

 

 

「『信じる』ということは――目に見えないもの、耳に聞こえないもの……かたちを持たぬ〝存在〟を重んじること。私もいろはと同じ悩みを抱えたとき、たくさん道に迷って……結局、私はそう考えることにしたんだよ」

 

 

 

「かたちを持たぬ〝存在〟を……重んじること……?」

 

「気持ち、優しさ、愛情……言葉や仕草、出来事の裏に、自分の心が感じたものだよ。それは手で触れることができなくても、『大切にすること』はできる――いろはが思い描く〝武士〟と同じだよ」

 

「…………〝武士〟……自分の心で感じたもの……」

 

 私はもう一度、おばあ様の隣で――『何かを必死に守ろうと〝力〟を握り締めている人』の背中を見つめました。かつてと同じように――そして当時は知らなかったことを踏まえて、いろいろな面から〝武士〟を見定めます。

 

 ……そこにはたしかに、そのときも変わらず、私の憧れたものが映っていました。けれど、その表面の奥に……目に見えない背景には、それ以上に重たくて、熱く燃える意思がこめられているように感じたのです。

 

「……父上は……たくさん悩んで、自分の〝正しさ〟すらも疑いながら……『何かを守るために戦っていた』のかな……?」

 

「きっと、そうだろうね。恥ずかしがって、正直に話してはくれなかったけれど……この子が守ろうとしてくれたものの中には、自分も含まれているって……私は、そう『信じている』よ」

 

 ――「……ありがとうね」。おばあ様は、そんな風に小さく呟いて……静かに目を伏せました。その感謝と愛情が込められた言葉と、中身が入っていない虚像に触れる手の優しい動きに、嘘偽りが混ざっているようには思えませんでした。

 

 ……おばあ様が述べたように、たしかに、言葉ではどうとでも言えるでしょうし、外面を着飾ることならいくらでもできるのでしょう。だから、自分の心で感じたものを重んじること――『自分の感覚を信じる』ことが大切だったのです。

 

 幸いにも、私には……自分の心で重んじている〝存在〟が……目に見えなくても、耳に聞こえなくても信じられるものが、過去から今までの中にたくさんありました。

 

「……おばあ様。私は、風真家の人間です」

 

「ほー。どうしてそう言い切れるの? そんなことを示せる事実も、血縁も……もうどこにも残っていないのに」

 

「…………私が、〝みんな〟を信じているからです」

 

 私が風真家の血を継いでいることの証明はできません。けれど、父上の背中に憧れ、母上や周囲の愛に育まれ……おばあ様に導いてもらった〝私〟は、確かに此処に居ました。

 

 ここまでの事実が嘘なのか、本当なのか……見方が正しかったのかは、正直に言ってわかりません。それでも、私の心は――目に見えず、耳にも聞こえない〝存在〟を、今も深く想っているのです。

 

 ――『風真』。『風真ちゃん』。

 

 お屋形様が、私をそのように呼んでくれていました。レオーニオが呼び方を変えて、私に復讐の正当性を示してくれていました。

 

 たくさん触れ合って、たくさんのことを分かち合ってきたあの方たちの真心を……私が信じないわけにはいきません。あの恥ずかしがり屋な方たちが言葉にしなかった想いと、ちゃんと向き合えば……『私が何者か』など、疑う余地もないでしょう。

 

 もしも、私が本当に風真家の血を受け継いでいなかったとしても――あの方たちの想いが、この〝信じる心〟が、変わることはありません。

 

 胸に刺さったままの甘い棘が弱音を吐かせて、『楽になってもいい』と思わせようとするときも……この気持ちを、いつまでも忘れないように――。

 

 

 

 

「私が――〝かざま〟が、貴女たちを……大切だったものを……失ったから、です……!」

 

 

 

 

 ――私は大粒の涙をいくつかこぼして、その古びた悲しみを払い飛ばし、おばあ様と向き合いました。

 

 すると、おばあ様はにっこりと笑って……「だってさ」と、力んだままの父上の肩を優しく叩きました。正しい理解を遠ざけていた虚像への憧れが、等身大のものになっていき……その重荷を背負った肩が、少しだけ力を抜いたように思えました。

 

 ……大切な人たちの死に目にも会えず、事実を聞かされていただけの私は……心のどこかで、家族たちの無事や〝今日〟の続きを夢見ていたのだと思います。

 

 しかし、既に滅びたカフの国や失った風景を感じて……かつて〝在ったもの〟をしっかり思い出して……私は、ようやく……〝故郷〟を失くしたことを、自分のこととして受け入れられました。

 

 

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