浮浪者に襲われかけて心に傷を負っていた私は、お屋形様に見守られながら、お社の中だけで静かに暮らしていました。
お屋形様と一緒にご飯を食べて、一緒にお風呂に入って、一緒に寝て……数日間は、それだけをして過ごしていたように思います。
しかし、いつまでもそのような生活をしているだけでは、暮らしを守るどころか生きることすらままなりません。子供だった私はそれでよかったのかもしれませんが、お屋形様にも都合というものがありました。
お屋形様は畳の目を弄って遊ぶ私を心配そうに見ていましたが、何かを聞きつけたのか、突然その場に立ち上がりました。
「――少し出てくる。事ある時には前のよう――いや、とにかくおれをすぐに呼べ」
腫れものに障るような失言を避けたかったのか、それだけを言い残して、刀を携えたお屋形様がお社を出ていってしまいました。
私はしばらく何もせずにお屋形様を待っていたのですが、一刻も待たずに喪失感に駆られてしまいました。そして、葉擦れ音と鳥の鳴き声だけが聞こえるお屋敷の中は、当時の私にはとても恐ろしく感じました。
私はそのまま何かから逃げるようにお社を飛び出し、人の温もりや恐怖からの離脱を求めて、街道をぽつぽつと歩いて行きました。
すると――がきん、がきんと金属を叩き合わせるような鈍くて甲高い音が聞こえました。それは道から外れ、潮の香りが強まっていくに連れて大きく聞こえるようでした。
見慣れぬ土地に居場所を見出せなかった私は好奇心に駆られて、踏み固められた道から外れて林の中を抜けていきます。野草を掻き分け、木々の間をすり抜けていくと……開けた視界に光が広がりました。
くらんだ目を少しずつ慣らしていき、潮風が満ちた世界を臨みます。世の中で初めて見る景色――きらきらと光の粒が無数に煌めく、深みのある青色の海原に思わず息を呑みました。
「……わぁっ……!」
何も知らなかった私は、そのたくさんの水と光に満ちた場所が『海』だということを後から知りました。
お屋形様と武家が治めていた彼の地では、海は立ち入り禁止の場所――竜禪における〝禁忌の地〟とされており、見たことはおろか、どのような存在なのかも聞いたことすらなかったのです。
――『海に這いずる〝ながきもの〟。和を乱すものを水底にいざなう』。この国で暮らしていれば誰でも耳にする、常識のように信じられている迷信です。実際に、その迷信を信じずに海岸へと出てしまった人間は全員、漏れなく消息を絶ったと言われています。
海に出て漁をする者は、ミヤ様――つまりはお屋形様の加護を頂かなければ、海原から帰ることができないと言われているほどだったのです。
当時の怖がりな私は〝ながきもの〟を恐れており、その歪な状況について不思議に思ったことも、その詳しい理由について知ろうとも思いませんでした。わざわざ危険を冒して海に出ずとも、許可を得た漁師が海の恵みを獲ってくれていたので、不満も何もなかったのです――きっと、彼の地の多くの人がそう感じていたのではないかと思います。
間抜けにも、何も知らずに禁を犯した私は、宝石を並べたかのように美しい海原に惹かれて砂浜に降りました。草履の隙間から肌に触れる砂粒が熱く、これまで味わったことのない感覚に心が震えていました。
――その時でした。私の眼前に、どずん、と黒くて大きな……とても硬そうで、古びた油臭い塊が降ってきたのです。
「うぎゃあ!」
私は巻き上げられた砂埃と一緒に吹き飛び、小石のように砂浜に転がりました。何が起こったのかすら理解できずに顔を上げると――空が真っ暗に包まれて――もう一つ、大きな〝何か〟が迫っていることに気づきました。
目を閉じて顔を庇うように手で隠し、それに潰される瞬間を待っていると――いつまで経っても、予想していた衝撃が襲いかかりません。私は恐るおそる目を開くと……眼前には、黒くてごつごつとした〝壁〟がそびえ立っていました。
『何故海に人が居る! 死に急いでいるのか!!』
「え……え……? うみ……だれ……なに、これ……!?」
『おまえは――ッ! 伏せろ!身を隠せ!!』
「ひ、いっ……!?」
私はそのくぐもった声に従い、頭を下げて〝壁〟の陰に入りました。髪をかすめるように頭上を何かが通り過ぎ、海岸の岩場をだかだかばりばりと横薙ぎに砕いていきました。
荒れ狂う暴風と衝撃に身体を粉砕されそうになり、轟音で耳を潰されそうになっていた私は、熱が残っている空気を見上げて空を眺めました。
そこには、火を噴いてまっすぐに飛ぶ〝鋼鉄の鳥〟が何羽も飛び交っており、ぎらりと覗かせた棒状の物をこちらに向けていたのです。
『……やはり民を真っ先に狙うか……! 民をたぶらかす邪教の飼い鳥共が……!』
「……この声……あなた、さまは……もしや……!?」
『クッ……このままでは庇いきれんか。おれの背に乗れ――【風真】』
「っ……は、はい……!」
私をそう呼んでくれる方は、この世に一人しかおりませんでした。
落ち着きがある『聞き慣れ始めたばかりの声』に従い、私はその〝壁〟――攻撃から守ってくれていた〝腕〟をよじ登って、鱗と棘で覆われた背にしがみつきました。
『この身体で加減はできぬ。振り落とされぬように全力で掴まっていろ』
「わかっ――むひゃわあああっ……!」
まとめてある髪を引き千切るかのような強風がその場に巻き起こり、ふわり、と私は宙へと誘われました。その初体験は、鳥のように空を飛んだというより、地面を蹴った後の『跳ね上がったような気分』に近かったものでした。
水面を裂くように走る風の中から見下ろした海原は、美しい光の粒となって飛び散る煌めきが舞い、刃で斬ったかのような波間の奥に深みのある翳りが覗く――この世が孕む光と影を同時に見たような気がしました。
その深い青色の水鏡に映っていたのは、空を裂く矢のようにまっすぐになって飛ぶ体躯と、竜鱗を流れる強風になびいて揺らめく翼と尾――その黒い影は、水中に這いずる巨大な怪物のように見えました。
「――〝ながきもの〟……」
おぞましい姿を見て思わず呟いた忌むべき名は、自らを運ぶ巨影にしっくりと当て嵌まりました。
『わびさびを軽んじる小鳥共め……! 〝国守の刃〟を侮るでないぞ!』
私を背負う〝かいな〟の持ち主は、空の彼方から飛来してぱらぱらと光の豆を撒く鋼鉄の鳥たちを、次々に爪刃で豆腐のように切り裂き、朱色に汚れた花火を空の青に咲かせます。少し大きなものは、小島を食材のように斬ってしまえる大きさの大太刀で掃うように斬り捨ててばらばらにしていました。
鳥の残骸が爆炎を放ちながら海に落ちて水柱を立てた頃――遠くで空を喰らう黒鯨の腹が開き、無数の丸い頭が覗きました。その挙動を阻むように、私を背負う者は手にしていた大太刀をその鉄の身体に突き立て――黒々とした油臭い血を流さながら、栗の殻を外すようにがっぱりと割り開きました。
『図体がでかく、武装が進んでいても致命的に遅い! 幾百年が経ち、利便で強大な技術を培おうとも――貴様らの根本は何も変わっておらぬのだ!』
真っ二つに斬り裂いた鉄塊を鞭のような何かが跳ね除けて、遠くの空に舞わせます。蜂の子供のように覗いていた禿頭がぼこぼこと火花を噴いて破裂し、けたたましい音が空気を割るように震わせて、空の青をどす黒い赤色で塗り潰しました。
『まったく……おれの手を焼かせる物ばかりを作りおって。どうして其の力を、自国の和平のために使えぬのだ』
そんなことをぶつぶつと漏らしていた方は、陸に近い場所の空を支配していた鳥や鯨をあらかた討伐した後に、私を海岸沿いの集落に舞い降りて私を下ろしました。
その巨大な生き物の姿や神風の如き強風を見ても、そこに暮らしていた人々はそこまで驚いている様子はありませんでした。
「み、ミヤ様……! あの海から這い寄る憎き敵……〝脅威〟たちはもう去ったのですか……!?」
『まだだ――おれの言いつけを守り、明日まで海には出るな。そして、この悪童を匿ってやれ。禁を犯し、海際をほっつき歩いておったのだ』
「はて……? ここらでは見慣れぬ者ですが……イサリビの、どの辺りの娘っ子で……?」
『風真家の娘だ。訳あって、今はおれが面倒を見ている』
「なんと!? あの『逆火の七日』を生き延びた者がおったのですか……!」
「……え……? 生き延びた……って……?」
『ッ――余計なことを……!』
集落の民の言葉に歯噛みしたその御方は、再び飛来した鋼鉄の鳥を掃うために空へと戻ってしまいました。
離れたことで、ようやくまじまじと見上げることができたその御姿――家を何棟も連ねたかのような黒鱗の巨体に、台風すらも切り裂く一対の大翼。手にした大太刀は小高い丘を貫けそうなほどに立派で、背負った鞘は国を抱いているかのように尊大。そして、鋭い棘が生え揃った尻尾はまるで流れる川のよう。
――『竜』。お屋形様のお社前に置かれていた石像そっくりの巨躯が大空を駆け、彼の地を侵害せしむ〝敵〟を退いていたのです。
「一つ……また、一つ……! さすがはミヤ様だ……! あんなにも恐ろしい兵器たちをいとも簡単に撃退してくれている……!」
「あ、あの……さっきの話は……? カフの国に、いったい何が……!?」
「んあ? お嬢ちゃん、民たちの反逆で大火に包まれた風真家から逃げ延びてきたんだろう? 死人だらけの地獄の中で、ミヤ様に助けてもらったのではないのか?」
「――――――――え……?」
私は、その方から聞かされた話で目の前が真っ白になりました。
私が出立してからしばらくして、故郷で反乱が起こったというのです。そして……そこにあったはずの武家は屋敷ごと焼かれ、守り続けた『法』や社会と共に、一人残らず滅びたとのことでした。
「父上……母上……おばあ様…………どうして……!?」
「……なんだ……? もしかして、知らなかったのか……?」
何も知らなかった私は自分を恥じました。そして、『どうして自分が生きているのか』を疑い、無意味に思え始めた生を呪いました。
国を守るために――風真家を守るために、お屋形様の下で〝柱〟に成ろうとしていたというのに。目的と、その先にある明るい毎日が……全て焼かれ、無くなってしまったのですから、無理もないと思うのです。
私は唐突に全てを失い、呆然とし続け……気づけば日が暮れていました。遠くで聞こえていたはずの衝突音はいつの間にか鳴り止んでおり、全てを終えたお屋形様が、私を迎えにきてくれていたのです。
「…………風真家のことを、聞いたのだな」
お屋形様の口から言われたことで、私の中で、その事実が急速に現実味を帯びていきました。
あのときの抑えきれない焦燥と、無尽蔵に膨らみ続ける喪失感は今でも忘れることができません。
「おまえが持っていた報せを見て、すぐにカフへと飛んだのだが……遅かった……全ては、灰に帰していた」
私は何も言わず……何も言えずに、お屋形様の優しい抱擁を受けました。煙と油の臭いに包まれるように身体を抱かれ、煤だらけの手で頭を撫でられ……私と同じぐらいに泣きそうな悲しい声で、心に寄り添ってもらったのです。
「おれを信じてくれた者たちを、守ってやれなかった……無力なおれを、好きに呪え。おまえには、その権利がある……だから……」
「………………うう……わああん……!」
その沈んだ声に含まれた失意と悲哀は、大波を受けて揺れている心を鮮明に彩っており――子供ながらに……『この方は何も悪くない』のだとすぐにわかりました。
私は、その深く刻まれた傷を舐め合うために、その太い首筋を強く抱いて……私は、わんわんと泣き喚くことしかできませんでした。
………………。
その日、抜け殻のようになった私に飯を食わせ、湯浴みを済ませ、一緒の布団に入ってくださったお屋形様は、小さな身体を抱きながら〝全て〟を語ってくれました。
この世――『キョウ』と呼ばれる彼の地のこと。私たちのような武家のこと。そして、お屋形様のことも、全部。
お屋形様から長々と聞かされた話は、私が築いてきた常識の中では捉えきれるものではありませんでした。少なくとも、幼子に毛が生えた程度でしかなかった当時の私が、あの呆然とした意識で理解できるはずがなかったのです――でも、だからこそ、お屋形様は正直に話してくださったのだと思っています。
成長し、枯れずに生き続けた今であれば、それとなく理解できています――かいつまんで説明すると、彼の地には〝ソウリョク〟と呼ばれる不思議な力が流れていました。お屋形様はその力を使って各地を瞬時に移動したり、竜の姿になったりしているというのです。
キョウはかねてより〝外敵〟から狙われる場所にあり、お屋形様は先ほどのように変身してその侵略を防いでいる……といった内容でした。
「ソウリョクは人々の『信じる力』そのものだ。それは民も知らぬこと……故に、『竜禪』という教えを通じておれの力となるようにしているのだ」
『ミヤ様』を信仰する者たちの気持ちがソウリョクを湧かせ、キョウを守るミヤ様に力を与えている。そうして生まれた堅牢な鱗と猛き爪、鉄闇を斬る一太刀によって、この世は守られてきたのです。
それは、子供向けのおとぎ話でも聞かないような、壮大で不可思議なお話でした。それでも私は、実際に五感で体験した『竜』の存在と、私を守ってくれたお屋形様の勇姿を信じざるを得ませんでした。
「おれはミヤなどと呼ばれているが、その実、ただソウリョクを使って竜と化す『守護者』でしかない。国たちを――そして、『明日へと続く今日』を守る〝刃〟として外敵の火の粉を掃ってきたが……地内で燻る火種は防げぬのだ……」
お屋形様はつらそうにそう呟き、布団の中に潜っていた私の頭を抱いていました。思えば、あの方が〝弱さ〟を――人らしい隙を見せたのは、あれが最初で最後だったように思えます。
それほどまでに、風真家の消滅はお屋形様にとっても大きな痛みだったのでしょう。その切なる想いに共感した私は、塞ぎ込んでいた気持ちをぎりぎりと押し広げ、天岩戸のように閉じた口を開きました。
「……お屋形様は……産まれたときから、今のような……竜、だったのですか……?」
「ん……いいや。おれは、ただの『人柱の成り損ない』だった。水を司る龍神への人身御供として急流に投じられ、生き残り……『奇跡を起こした神子』として奉られただけの人間『だった』」
「……人柱の、成り損ない……だった……?」
「うむ。『死ななかっただけ』のおれは、おれの意思など関係なく祀られ、おれの与り知らぬ教えまで説かれていき――いつの間にか、竜の役目を担っていた。何千年の時を過ごした今も、人の祈りによって祝われ、同時に呪われているような……それだけの存在にすぎぬよ」
「……それも大概すごくて、人の常識が及ばないような……想像もできないような……とても、神々しいことだと思いますが……」
「特別なことなどしていない。おれはただ、寄せられた期待に応え続けてきただけだ」
お屋形様は自嘲気味に苦笑して、自分を下げようとする言葉に真実味を持たせていました。
その反応しづらい自虐は偽りのない本音であり――この御方を『ミヤ様』たらしめる〝強がり〟だったのでしょう。
「故に、おまえが有する〝憑き物落とし〟――風真家の宝刀であれば、瞬時にこの世から屠ることができようぞ。非力の報いは、今すぐにでも……」
「…………そんなことをしても、何にもなりませんよ……」
「……そうだな。そうやも、しれぬな……」
その無力感を滲ませた声を聞いて……やりきれない想いに駆られた私は、どこか懐かしい香りがする温もりに、縋るように包まれて目を閉じました。
先日、男に襲われた後のように、二度と眠れないような絶望と恐怖の中でも……その腕の中で感じたまどろみだけは、とても心地よかったものでした。