――時の流れというものは、雨が降ったあとの川のように早く、少しばかり濁っているもので。お屋形様のお社で暮らすようになってから、はや三年が経とうとしていました。
お屋形様は当然の如く、私を〝柱〟に据えるための儀式を執り行おうとしませんでした。お屋敷の掃除や飯の支度、上納された反物から着物を仕立てて近隣に届ける仕事、遠地への奉納物の配達――などなど、雑用ばかりを言いつけてきました。
配達範囲は、武家が法で統治する〝国〟でも、無法地帯の〝はざま〟でもない――竜禪信仰の聖地『イサリビ』の中だけでした。イサリビは国一つと同じぐらいの大きさなので、ええと、皆殿がわかりやすいサイズでいうと〝市〟一個分ぐらいかな……?
浮浪の男に襲われ、家が焼き討ちにあった事実を知ってからずっと精神的に不安定だった私は、ひたすらに身体を動かす仕事を与えられていました。余計なことを考えられないほどに集中できて、それでいて、トラウマを刻まれた心身に無理をさせない程度の作業でした。
当時の私にはわかりませんでしたが……お屋形様は、本当に……私のことをよく見て、真摯に守り、そして、育てようとしてくれていたのだと思います。『親の心子知らず』とは、まさにあの時のことを的確に示す言葉だったことでしょう。
そんなことも露知らず、生きる目的を失った私が『自分の命の理由』を求めて、寵愛をねだるために食い下がると――お屋形様は「嫌ならば全てを捨てて出ていけ」と、私が首を縦に振れないとわかっていることしか言ってくれませんでした。
お屋形様の機嫌を損なうことができず、お社以外で生きていける場所も持たない私は、唇をぶすぶすと鳴らしてお屋敷での雑用を繰り返していたのでした。
「お屋形様のばか……お屋形様の人でなし……! 逆らわない便利な小間使いが欲しいだけなんじゃないの……!?」
来る日も来る日も、あの長すぎる石段に恨み言をぶつけながら、ひいこらせっせと往復しました。それを繰り返しているうちに、その石段がおよそ五〇〇段あることを数えられるようになったり、帰路を嫌にならなくなったりするほどに身体が出来上がったことは、今のフットワークの軽さに繋がっているのだと思います。
それに、まあ……お社での生活は――あの場所で続けられた暮らしには、悪いことなどほとんどなかったのです。
「おや、ヘビちゃん。今週もミヤ様のお使いで来てくれたんだねえ。ほれ、草餅でも食べていきなあ!」
「うん? ヘビっ子よお、どおれ、前より顔色が良くなったんでねえか? よう寝れるようになっただか?」
「あ!おうい!ヘビちゃん! うちの畑で採れたイモな、ミヤ様に捧げてくんな!ヘビちゃんもなあ、たあんとけえよ!なあ!」
竜皇の祭壇を毎日掃除してくれていたハマのおばちゃんに、世話焼きなおトイさん、信心が過ぎていっつも身を滅ぼしかけていたコロ爺……イサリビの集落への配達で出会う人たちは、みんな真面目で信仰心も厚くて、良い人ばかりでした。
仕事に見合ったお駄賃や、あれだけ走り回ってもまったく痩せないぐらいにはお茶菓子なども頂けるぐらいに可愛がってもらいました。
それに……お屋形様が浮世の人々に信じられ、愛されていることがよく伝わってきて、なんだか誇らしい思いができました。お屋形様に仕えてこなした仕事の数々には強い達成感があり、その栄養のような高揚は、ぼろぼろだった私の心をゆっくりと癒やし、育んでくれたのです。
……ああ。『ヘビ』というのは竜禪の神話における『お屋形様の〝使い〟の名』で、いつの間にか私のあだ名にもなっていたものです。今となっては皮肉にしか聞こえないので、誰にも呼ばれたくないものですが……当時は、うん……そんなに、イヤではなかったと記憶しています。
……っていうかァ、まぁ、かざま的にはアレ……「あー、私ってカミサマに選ばれた人間なんだなぁ……ふふん♪」みたいな感じだったから。特別な自分とか、非日常的な浮遊感……そういうのでさ、エツれて嬉しかったんだよね……うーん、お年頃だったなぁ……。
……ごほん。ええと、なんだっけ……ああ、そうだ、イサリビのお話ですね。イサリビにはいろいろな国から〝信仰のあつい人〟が流れ着く場所で、さまざまな文化や産業が根づいていたのですが、漁業や海産物なんかが特に有名でした。
当然、コロ爺みたいな男の人も多くおりまして……いつまでも苦手なままでしたが、ちゃんと気を引き締めて、刀の柄に手を掛けていればお話もできました。難点だったのは、「今にも斬りかかられるのでは?」と警戒させてしまうことぐらいでした。
他には、そうですね……イサリビの皆から新鮮なお野菜やお魚が献上されるので、食生活は故郷の暮らしよりも充実していました。とはいっても、二人分なのでそんなに贅沢はできなかったのですが。
山で暮らす日々に慣れてしまった今でこそ、肉や魚はほとんど食べなくなってしまいましたが……当時は普通に食べていました。っていうか、〝ながきもの〟の言い伝えもありましたので、お魚なんて大きな川がなければまともに採れなかったですし、故郷ではめったに食べられない高級品だったのです。
人々に海への恐怖を抱かせていた〝ながきもの〟と、世の安寧を守る〝ミヤ様〟。その相容れないはずの二つが同じものを指し、結果として人を救っていることは、私やイサリビのみんなだけが知っていることでした。お屋形様の話では、恐怖をちらつかせた強制的な妄信は健全な信仰を阻害するのだそうで、そうするほかになかったようでした。
ミヤ様――お屋形様が、無差別に人を襲うようなことなどするわけがありません。その御人柄に触れてきた私たちには簡単に判断できることでしたし、何も知らない者でも、数百年ものあいだ外敵から侵略を企まれ続けてきた〝危険〟とお屋形様による〝守護〟を目の当たりにすれば、『竜禪信仰の意味』は否が応でもわかることでした。
「不用意に腕を振り上げるな。すり足で己の間合いを整えよ。力押しでどうにかしようと――これ!また焦れて雑に踏み込もうとする!」
「はッ――あいたぁ!? なんで頭ぶつのぉ!?」
「おまえが何度言ってもわかろうとせぬからだ! 心身に〝甘え〟を許すでない!」
……いや、まあ、『ミヤ様は怖くない』とも、『竜禪や法の下では常に気楽に生きられる』とも言いません。そのうえで『ミヤ様は優しく』、『竜禪や法の下には〝明日へと続く今日〟があった』のです。
お屋形様の剣の指導は大変痛い……いえ、厳しいものでしたが、理不尽な体罰や意図不明の内容は一切なく、実用的な剣術について洗練された教えを受けることができました。
「我ら武士が携える刀は、野盗が『奪う』ために振りかざす物とは異なる――『守る』ための力だ。己の〝心〟は常に腹へと据えたまま、刃には〝徳〟を閃かせるのだ」
そうした剣術の指南に加えて、時間があれば弓術や馬術なども教えてもらいました。さまざまな〝道〟に触れ、先人によって敷かれた足跡を辿るたびに、その方たちが信じた〝正しさ〟を感じることができました。
お屋形様や武家の人々は、自分たちの行いが『常に正しい』とは思っていなかったといいます。それでも、民が望んだものを守るために刃を握り、斬りたくもない悪を退けていたようなのです。
そうした真摯な気持ちが連なり、かたちを変えて、彼の地を治めた〝人徳〟となった――『夜伽をねだらない』という約束のもとに同衾を許してくれたお屋形様が、頭を撫でながら語り聞かせてくれたことが、少しずつわかっていったような――そんな毎日でした。
「……むぐ……飯が所々硬いな。風真、かまどから目を離したな?」
「どきぃっ! い、いや、そんなことは……ぴゅぴゅ~……♪」
「まったく……焦がすのは仕方ないにせよ、わざわざ茶碗の内側に焦げを隠しおって……まだまだ童よな」
「……も、申し訳ありません……つい、うとうとと船を漕いでしまって……」
「うむ。鍛錬の疲れが出たのだろう……反省しているのならよい。だが、炊事には火事の危険も隣り合わせなのだ。以後は気をつけるのだぞ」
家事についても、米を焦がしたり障子を破いたりしても、お屋形様は必要以上に怒ることはなく……上手くいけば、きちんと褒めてくださりました。
風真家ではほとんど教われていなかった炊事や、経験する機会がなかった針仕事なども学べたため、腕力では男に勝てない女が生きていく術を身に付けられたと思います。
……あはは。皆殿が生きている今では『時代遅れ』だの『男尊女卑』だのと言われてしまう、狭くて可能性を摘むような古臭い価値観かもしれません。
それでも、私たちは彼の世で暮らし、苦難と葛藤を感じながら――確かに生きて、日々の中で幸福と安寧を築いてきました。そこには『良い』も『悪い』もないのではないか、と……人より少しだけ長く生き、時と文化の流れを傍観してきた身として……心から、そう思います。
少なくとも、お屋形様に教わった家事の手腕は〝これまでの日々〟の中で大いに役立ちましたから。私がこうして生きているのは、〝時〟と〝愛〟の賜物なのです。
狭くて広い世界の中にあった、退屈だったけれど、人の愛と笑顔に溢れていた安楽の毎日。そこで暮らしていた私は、愛という添え木に支えられ、限界という天井を設けられなかった若木のように、すくすくと成長していきました。
……………………。
成長した身体は、お社に来たばかりの頃から二回りほど大きくなりました。子をきちんと宿せるようになり、お月様を恨むようになってから久しいある日のことでした。
私はいつものように配達を終えてからお屋敷と境内の掃除をし、日が沈む前から夕餉の仕込みを済ませて、風呂釜の支度を整えました。
風真家のお屋敷には据え風呂がなかったので、初めて浸かったときこそ「気持ちよくて身体もきれいになる~!」と子供らしくはしゃいだものですが、支度や風呂番、掃除は大変な手間でした。
蛇口をひねればお湯が出るという、皆殿の住宅のお話は、活動開始当初の私にはにわかに信じがたいものでしたが……今ではもう無い方が信じられないです。現代のような密度が増した生活の中で、あんなにも時間がかかるものを毎日続けることは物理的に不可能だと思われます。こんなにも楽になったというのに、風呂に入ろうとしない者が一定数存在するのはなかなか理解できませんが……これも経験してきた文化の差というものでしょうか。
こんな未来のことなど夢にも見なかった私が、台所のかまどの火を消して、お味噌汁の味を見ていると――びゅう、とお社を横から揺らすような強風が吹きました。
私は急いで手をゆすぎ、ぱたぱたと足を鳴らして玄関の戸を開けました。
「お帰りなさいませ、お屋形様。今日は何処をほっつき歩いていたのですか?」
「これはまた、随分な言われようだな……これでも、この地の守り人として役目を果たしているのだが……」
「くんくん……ふうん? 昨日追い払ったばかりであろう鉄の鳥が放つ、あの煙と油のニオイなどしませんが」
「うむう……これは参ったな」
戸の向こうにいたお屋形様が、毎度のことのように苦笑していました。お屋形様はたびたび何処かに行っておられて、私がお社における家事全般を担っていたのです。
……「そりゃあ家事も上手くなるだろ!」って言いたいよね。あの頃はマジで大変だったんだから……それこそ、多感で時の流れが長く感じるお年頃だったのに、日々の退屈なんて気にならなかったほどだったもん。
「まあ、その、あれだ。少しばかり遠い国の様子を見てきたのだ」
「またそんなこと言って。おなごの甘い髪油の香りが漂っておりますよ。〝柱〟に据えた女の人を抱いてきたのでしょう?」
「むぐ……それは、まあ、おまえに聞かせるには少し早い話でな……。いず――」
「『いずれその身にも語りかける時が来る』ですね――はい、はい、聞き飽きましたとも! このすけこましめ!」
……いやぁ~……とんだ跳ねっ返り具合ですね、お恥ずかしい……。
言い訳をさせてもらうなら、当時はいつまで経っても〝柱〟に成れず、お社で『自分の生きる意味ややるべきことがわからない時』を過ごしていたこともあって、少しヒネていたのです。ザ・思春期のかざまです。
「……まあいいです。お屋形様の好色は今に始まったことではないですから」
「好色、か……おれも好きでやっているわけではないのだがな……」
「……で、お土産は? 以前、『敵襲以外の外出時には必ずお土産を買ってくる』と約束してくださりましたよね?」
「んッ――あ、ああ、いや、その、今日はあれだ――そう、見てのとおりだ」
ぷんすこと怒っていた私が手を差し出すと、お屋形様は固まった顔を苦々しく笑わせて、からっぽの両手を広げました。
「風真の顔が一刻も早く見たくてな……寄り道をせずに帰ってきたのだ」
「それ前回も聞いたし、何なら前々回も言ってましたよね!? わあん!お屋形様がまた約束破ったぁ!」
「ううむ、いや、その……すまない……。いろいろと立て込んでいたもので……つい、うっかりとな……」
「もういい!お屋形様なんて知らない! ご飯も私が全部食べますから!もう帰ってこなくていいですから!!」
「それは困るな……風真、どうか許してくれ。おれは数日後にも出かけるのだ、その時には必ず約束を果たすと誓おう」
「以前もそうやってだまくらかしたのをお忘れですか!? 武士を何だと思っているのですか……そんなだからはざまの者にとっこだなんて言われるんですよ!」
「ははは、手厳しいな……おまえの伴侶となる者はすぐに尻に敷かれそうだ……」
「言うに事欠いて〝それ〟ですか!? もお~っ……お屋形様のばかぁっ!」
武家から出向してきた幼いおさんどんがぷりぷりと怒り、この小さな世界で一番偉いはずの神様が門の前で頭を掻きながら眉を困らせる。
そんな言いようもないほどに残念な光景は幾度となく繰り返され、時を経て色づいた紅葉のように――私たちらしい、夕焼け色の思い出に染まり上がったのです。
それからはもう、くだらないぐらいに、いつものように。私は額で湯気を沸かしながら、お屋形様は私の機嫌を必死に取ろうとしながら夕餉を済ませました。寛大な私は、お屋形様が山菜とお出汁の玉子焼きを半分くれたので許してあげました。
談笑をしながら食事だなんて『古風なわりに行儀が悪い』と思われるかもしれませんが、竜禪にはそういった類の戒律はなかったのです。むしろ、朗らかな歓談による意思の疎通は、お屋形様自身が好んでいたように思えます。
仲直りとお土産話をきちんと済ませてから、お屋形様が洗い物をしてくださっているあいだに、お風呂の追い炊きを済ませておきました。
脱衣所に入ってきたお屋形様のお召し物を預かってから、私も裸になってテキパキとお背中を流しました。いかに檜の風呂と言えども、風呂番なしでお湯の温度を長時間保つのは難しかったのです。
「いつの間にか、時が経ったものだなあ。木の芽のようだったおまえが、芽吹きかけた花の蕾のように育つとは思わなんだ」
屈強で大きな背中に自分の身体を押し付けるようにゴシゴシと洗っていると、お屋形様がそんなことを言いだしました。
「ふふ。そういえば、『毛も生え揃っていなさそう』だとか言ってくれましたねぇ。撤回するなら今ですよ?」
「おれは当時の事実を言ったまでよ。大人ぶるのは、ひとりで風呂に入れるようになってからにせい」
「むぐぐ……だって、夜のお風呂場って怖いですし……物音も心なしか大きく聞こえるし、いつも後ろに誰かいる気がするし……」
「はっはっは! まだまだ乳房に芯が残っておる童らしい物言いよな」
「またそうやって子供扱いする! もうれっきとした淑女なのに!」
豪快に、心の底から楽しそうに笑ったお屋形様の背中に、私はあっついお湯を叩きつけてやりました。そんな無言の抵抗も虚しく、垢を落としたお屋形様は湯船に浸かって、私が身体を洗う様を見守ってくださりました。
身体中をお湯と布きれで擦ってから、お屋形様の手桶でお湯を首から被せてもらい、いつものようにお屋形様の胸に抱かれるようなかたちですっぽりと収まります。
「熱くはないか?」
「はい……いえ、ちょっと熱いです……!爪先がひりひりする……!」
「湯冷めするから我慢しろ」
「ええー……じゃあなんで聞いたの――わ、ひゃっ……!?」
お屋形様は私の身体を少し抱き上げて足を上げてくれました。あのときブヨブヨとしたモノが足に当たったのですが、今思い返すと……あれは……。
……『いくつまで一緒にお風呂に入ってたの?』って……ええ、それ普通にセクハラだし……まあ、〝柱〟に据えてもらった後に止めたから、十●歳とかだったと思うけど……。
……いや、遅くないよ……違う!ちがうって! お屋形様の背中を流す役目もあったし、当時はそれが普通だったんだから! ドスケベじゃないよ!
おほん! お屋形様との入浴のお時間はですね、えっちな皆殿が想像しているようなものではござらんでした。少なくとも、お屋形様は一切――もうイラつくぐらいに〝無反応〟でしたから。
〝女〟としては見られていないのが屈辱的だったのですが、お風呂と人肌の温もりも、見上げる星空の煌めきも、身体の隙間を吹き抜ける風の涼しさも……感じた全てが心地よくて、そんな子供っぽい意地を簡単に融かしてくれました。
内容まで詳しくは覚えていませんが、湯船の中では他愛のない会話を繰り返した気がします。お屋形様は、お社の中で敵国との戦いやミヤとしての使命を話すことを嫌っておりましたので、それを避けていたのは間違いないのですが。
御身を案じた私がたびたび話を振ろうとすると、不機嫌になられたあの御方に「おまえはそんなことを気にせず、健やかに育てばよいのだ」と繰り返されたものです。
「なあ、風真。おまえは今、幸せか?」
厳しさの上にのみ成り立つ優しさと慈愛に満ち溢れたお屋形様が、突然そのように問いました。
「え、ううん、どうなんでしょう……? そういうの、考えたこともなかったですし……今は、わからないです……」
「そうか。それならば、おまえの答えが決まるまではこの〝今日〟を守らねばならんな」
お屋形様はそう笑って、私の身体を抱く力を強めました。
その言葉にどれほどの重たさが含まれていたのか、当時の私には気づくことができませんでしたが……お屋形様の両腕に、言いようもない頼もしさを感じたことはよく覚えています。
――『いつまでもミヤ様に守ってもらえる』。そんな根拠のない無責任な幻想を心の奥底に抱いてしまう、長年の中で竜禪信仰に生じてしまった〝甘え〟が、私の中にもあったのだと思います。
……それから間もなくのことでした。彼の地が、たった数年でどれだけ蝕まれていたのかを思い知ったのは――。