『――ハ……イロハ……! 何処に居るのだ、イロハ!!』
寒くて昏い水底に引き込まれながら――大きな温もりに包まれていた私は、己の名を呼ぶ声で意識を取り戻しました。
しかし、それは毎朝のように瞼を上げたのではなく……唐突に視界が開けて、ぼんやりとした色味の世界が眼下に広がっていたことを認識できるようになった……そのような感覚でした。
自分を包んでいたものは、着ていた衣服すら感じなくなっており……〝私の意識〟という存在だけが、宙にぽっかりと取り残されたようでした。
そんなふわふわとした私が見下ろしていた光景の中では――不揃いの木が立ち並ぶ林の中で、幹を切り出して作ったらしい打ち込み台と向き合っていた少年が、真剣な顔で木刀を握っていました。
『……ッ……!!』
するり、と数寸だけ下りた切っ先が突如として消え――いくつもの剣閃が黒い奇跡を結びます。遅れて、乾いた打音がぱん、ぱんと響き渡り――鋭い打撃が重ねられていたことを如実に語ったのです。
その太刀筋にはまだ伸びしろがあるようで、型とは呼べない未完成のものでしたが……その手癖というか、流れるような太刀筋の継ぎ目の部分は……私にも見覚えがあるものでした。
『見つけたぞ、イロハ。父が呼んでおるのだ、返事ぐらいせんか』
手製の稽古場に足を踏み入れた壮年の男性が、ため息まじりに声をかけました。すると、少年は初めて気がついたように振り向き――黒髪をわずかに揺らして、父親と目を合わせます。
『また飽きずに剣術の稽古とやらか。師も持たず、よくぞ我流でそこまで続けられるものだ』
『仕方がないことです。此の村には、剣道を……いえ、身を守るための武術を嗜む人はおりませぬ故に』
『皮肉で言ったのだ、愚か者め。今日は仕事を教えると言いつけていたはずだ、無駄なことに時間を費やしている暇などなかろう』
男性は少年の頭を脳天から殴りつけて、その手から木刀を取り落とさせました。
『お前はもう十二を過ぎた男子なのだ、そろそろ成人としての自覚を持て。不要な剣術などに遊び呆ける前に、今後引き継ぐべき仕事を覚えんか!』
『……し、しかし、此の村には〝力〟が要るはずです……! 先日も、三つ先の村が野盗に焼かれたばかりでしょう。此処には、抵抗の心得どころか武器の一つもないのです……このような無防備な状態では、何をも守れない……!』
『その危惧を〝不要〟だと言っておるのだ、イロハよ。此の地は龍神様の祝福を受けておるのだ、皆が等しく、心の底から安息を願えていれば叶えられよう。野盗に略奪されるなどという失態は、信心の足らぬ証左でしかないわ――おおかた、其の村の住民共は、お前のように信仰を忘れて遊び呆けていたのであろうよ』
信心深い男は、子供の頭蓋の硬さで痛んだ手を忌々しげに振り、不機嫌を表すように鼻を鳴らします。
『義務も果たさず、何が〝守る〟だ、ばかばかしい。大層なことを言いたければ、まずは与えられた仕事と義務をこなしてからだ――違うか、イロハよ。道義を誤っておるのはどちらだ』
『…………それは……仰るとおりです。申し訳ございません、父上』
『フン!見え透いた態度でしおらしく見せおって。下らぬ賢しさなど不要だと、まだわかっておらんのか……まあよい。今すぐに作業場に戻れ。〝龍棺〟の枠をこしらえるまで、お前は飯抜きだ』
肩をいからせて歩きだした父の背中を見ながら……少年は木刀を拾って土埃を払い、木に立てかけて目元を尖らせました。
『〝遊び〟でなどあるものか。斯様な〝仕事〟などという無意味な道楽をこなす時間すら惜しんでいるのだと、何故わからぬのだ……父上……』
少年は悔しさを握り潰して、拳を震わせながら、やけになったように駆けだしました。彼の行く末が気になった私の意識は、吸い寄せられるようにその後を追っていきます。
龍の身体のように幅が広くて穏やかな流れの川に沿って続いていた、大石が並ぶ道を抜けていくと……川のほとりにある、歴史の長そうな大きい村に辿り着きました。
その村は、水車や船着き場、イサリビのように広々とした水田、水路が通う段々畑など……大いなる水の恩恵を受けて、豊かな生活圏を築いていたことが窺えます。
少年は村の中に入り、住民たちに声をかけられながら、最も大きくて立派な家に入りました。手早く衣服を脱いで、ぼろん、と小柄な体躯のわりにやたらと大きく見えた逸物を揺らして……白い清廉な装束に身を包み、建屋の隣にあった作業場へと入っていきました。
作業場の中には、木目がとても美しくて眩い色味の板が、噛み合うように組まれておりました。その前で腕を組んでいた父に頭を下げて、少年は、のみと木づちを手に取って……こんこん、と部品の製作を始めました。
『そうだ、良い調子だ。天板と側板は継ぎ目の仕上げを怠るなよ。〝龍神様への供物〟を、御身の激流で崩れさせるわけにはいかぬからな』
直前まで不本意を表情に浮かせていたものの、仕事道具と向き合った瞬間から、少年の眼差しは真剣そのものとなり――よどみない手捌きで木を削り、細工を施しながら美しい凹凸を刻んでいきます。
精緻な技で木を削り、部品ごとに生じていた狂いを整えていき……数刻も経たぬうちに、図面に引かれていたように部品を噛み合わせ、大きな熊がすっぽりと入りそうな化粧箱の外観を組み上げました。
『ふむ……三つの時からのみを持たせて、はや一〇年か。異邦の者が見せた剣舞などに惚れ込まず、細工彫りだけを極めれていれば私以上の腕を持っていたであろうに……というのは、さすがに親馬鹿がすぎるか』
つい先ほどまで不機嫌だった男性は満足げに頷き、少年の鮮やかなまでの仕事ぶりに感服していました。『真面目に仕事さえすれば、代替わりの祭典と宴の準備を進めてもよいのだが……』と口惜しそうに漏らしていました。
『……あのう、父様、兄様。そろそろ、その……お夕餉の支度を進めるのですが……』
その声に二人が顔を上げると――さまざまな感情が渦巻いて混沌が立ち込める作業場を、年端もいかぬ少女が外から覗き込んでいました。
『ああ、ハザクラ。何故そのようなことを聞きに来たのだ』
『あ、いえ……父様が、兄様のことでお怒りになられていたので……ご用意してよいか、許可をいただきに参ったのですが……』
気弱そうな少女は胸元に手を当て、黒くてつやりと輝く長髪を戸惑わせ……兄の様子を気にかけながら、こわごわと続けます。
一家の父は忌々しげに顔をしかめさせてから息子を見やり……大きなため息をつきながら作業場を出て、娘の頭を撫でました。
『ハザクラ。イロハは将来、この〝龍棺〟を作る役目を担う村長となるべき男だ……甘やかすのはよくない……が、今日は……そうだな……。今日は、お前の慈愛に免じて……あやつの飯も用意してやろう』
『……わあ! ありがとうございます、父様!』
『ふふ。ああ、よいのだ』
男性は、少女の肩口に浮かんでいた蛇の噛み痕のような痣を敬うようにさすって、静かな顔で天に祈りを捧げます。
『ありがたいことに、お前は龍神様に見初められたのだ。人である私とは立場が違う……家族として過ごせる日もそう長くない……少しぐらいは、父親らしいことをしてやらねばな』
『………………!!』
優しい笑顔でそう告げた父の背中を、少年は鬼のような形相で睨みつけていました。肩越しに顔を出していた妹だけが、その湧き上がる憤怒と不満をつぶさに感じ取っており……父はそのことに気づかず、『来月の龍神祭の準備をする』と言い残して、住居の中へ戻っていきました。
父の姿が見えなくなるまで待ってから……ハザクラと呼ばれた少女が、木づちで地面を殴りつけた兄の下へ駆け寄りました。
『に、兄様……よかったですね……! 私の立場が、兄様のお役に立てたようで……私、嬉しいです!』
その言葉に顔を歪めた少年は、仕事道具を投げ捨ててから妹の小さな身体を抱き寄せて……悲痛を滲ませながら声を絞り出しました。
『斯様なことを喜ぶな、〝刃桜〟……! こんな痣のせいで……次の龍神祭の晩には、おまえが人身御供として命を投げ出すのだぞ……! それで飯が食えたとて……おれが嬉しく思うものか……!』
『……兄様……』
『父上も、母上も……村の皆も、どうかしている……気が触れているとしか思えぬ……! 【龍神に供物を捧げれば大雨の夜にも〝蛇流〟を産まぬ】と……【ナァガ信仰は邪な心を寄せつけぬ】と、何の根拠もなしに言い伝えを妄信して……! 人の命を粗末に捨て去り、犠牲をありがたがるなど……!』
『…………でも、兄様。私が供物になろうとも……〝命〟が無くなるわけではない……そうは思えませんか?』
『何を言っている! そのようなこと、あるはずがない……! 山の水源から続く〝龍河〟に呑まれ、激流に八つ裂きにされて……人の子が、生きて帰れるはずがないであろう……!』
『……〝私は〟そうかもしれません。けれど……兄様は違いますよ』
少女は、自分のために涙を流してくれる愛情を抱き返してから、空いているであろう兄のお腹をさすりながら微笑みました。
『私が供物という立場だから、兄様のお腹を満たしてあげられます。そして……来月に私が死ねば、村は裕福な暮らしを続けられて……兄様は、その中で生きていけますよね……?』
『…………! 刃桜……そこには……おまえがいないではないか……! おまえの命は、失われているではないか……!!』
『いいえ。兄様の心の中に、〝私〟は生き続けますから……命は、繋がっていきますから。兄様なら……親にすら見捨てられた、私のことを……忘れないでいてくれると……信じられますから……』
気丈に振る舞った妹は、兄を不安がらせまいと涙を堪え……下唇を噛み潰しながら、一粒だけ涙を落としてしまいました。その破裂しそうな恐怖と後悔を内心に押し留める姿は、大のおとなでも真似できない偉業でしょう。
その憎らしい罪の宝石を見ながら、少年は再び、深く愛している存在を強く抱き締めます。水流という天が与えた試練を前に、深い激情を滲ませて……先ほど外観を作り上げたばかりの木箱――人身御供を収めるための棺を睨んでいました。
……………………。
それから光景が水に流れるように移り変わっていき――異なる日の夜を映し出した光景が広がります。
村の広場では大きなかがり火が焚かれ、さまざまな楽器が鳴らされ……豪勢な食事と酒が住民全員に振る舞われていました。祭の祝宴と思わしき風景の中で、突然喧騒が止み――村長の家から出てきた、正装をした黒髪の少女が……たどたどしい足取りで、鎮座していた大きな箱の中へと入っていきました。
皆が見守る中で、村長と屈強な男の手によって〝龍棺〟の蓋が閉められ、凹凸をぎちぎちと噛み込まされます。蓋がどうやっても開かないこと――〝供物が絶対に逃げださないこと〟を確かめてから、村人たちが深い祈りを捧げました。
明日の来光とともに、供物として山頂付近の激流に放り込まれる運命を受け入れた少女――自分たちの生活の糧となってくれる〝犠牲〟に祈りを捧げる時間が終わり、先ほどにも増して、宴のお祝いが激しいものに変わっていきました。
どんちゃん騒ぎと言っても過言ではないほどに――人の死によってもたらされる安寧を喜ぶかのように、村人たちは、蓋をされた現実から目を背けて酒の味に酔い痴れていました。
娘を供物として差し出した村長の腹にも大量の酒が注がれ、明朗だった意識が揺らぎ始めた頃……人目を盗んでこっそりと近づいていた少年の手が、大きな化粧箱の側面を叩きます。
『ひっ……だ、だれ……?』
『……おれだ……イロハだ、刃桜』
『……に、兄様……? どうして、此処に……っ……!?』
『おまえは、もっと長い時を生きたいのであろう。命を謳歌したいのであろう。家族として……兄として、おまえの願いを叶えに来たぞ』
棺の作り手である少年がこつこつと頭側の板を叩いて、幾重にも偽装を施していた仕込みを解放し……子供が一人通れる大きさの隠し口を開きました。そして、少女の身体を箱の外に引っ張り出して、紙の地図と多くの保存食が入った包みを手渡します。
『此の村から遥か西に、孤児を匿ってくれる村落があると聞いた。この目で見たわけではないが、治安が悪くなってきたこの周囲よりは安全であろう……此の村に居場所はない、おまえはそこを目指せ』
『で、でも……! この棺が空になってしまったことは、重みや運ぶ感覚で気づかれてしまうのでは……? そうしたら、棺の作り手である兄様が疑われてしまいます……!』
『そのために、おれがここに来た。【子供一人が入っている出入り不可能な棺】の中身など、不審なところが無ければ、確かめようとは思わぬだろうからな』
『…………!? そ、それでは、兄様が……! 嫌です……そんなの……私の代わりに、なんて……!』
『……刃桜……おれは、おまえを犠牲にした安寧など受け入れられぬ。おまえが此処で、斯様な運命を受け入れようと言うのなら……おれもすぐさま後を追い、龍神への供物となるつもりだ』
『…………!! そのような、こと……いけません……兄様……!! 考え直してください……!私なら、平気ですから……死ぬのなんて……怖くないですから……!!』
『おまえは強いな、刃桜……だから、きっと、何処でも生きていける。そう信じられる……おれは……おれはな、刃桜……おまえを見捨てた未来に生きることが……怖くてたまらんのだ……!』
戸惑う少女を尻目に、意を決した少年が自ら棺の中へと入り込んで――自分しか知らない仕掛けを動かして、棺の隠し口を閉ざしてしまいました。
『……に、兄様……!? だめ……だめですよ……!! 兄様も、生きないと……私は……私だけ、助かるだなんて……そんなの……!!』
棺の傍から動く気配がない妹の様子に、困り果てた少年が頭を悩ませ……ふと、父の言葉を思い返しました。
――【此の地は龍神様の祝福を受けておるのだ、皆が等しく、心の底から安息を願えていれば叶えられよう】。
『そうだ、刃桜。おまえは生きて、おれの生還を……祈り、願ってくれ。父上の言うことが――いや……此の村の伝承と信仰が――〝龍神〟とやらが本物であれば、その切なる願いはきっと聞き届けられるであろうよ』
『……そんな……!? そ、それなら、私がそちらの立場になります……!兄様は、此の村で……変わらず、信心を抱いてくだされば……!』
『いや……おれは、贄を求める龍神の存在など――村の腐ったしきたりなど、心から信じることはできぬ。だが……敬虔な信心を持つ、おまえなら……おまえが生きてさえいれば……おれの命を救えるやもしれぬぞ』
『…………に、兄様……!』
『刃桜――心から信じよ。そして、己の命を生きよ。おれの言葉と、想いを背負って――おれのためにも、生きてくれ』
少年の言葉に胸を貫かれ、涙が止まらないほどの痛みを受けた少女が、深く頭を下げ――力を込めた足で立ち上がり、無知の歓喜に満ちた村から脱出しました。希望が差し込むことを期待した日の出を待ち、兄から渡された簡素な地図を見ながら――生きるために、目的地へと向かいながら、龍神への深い祈りを捧げ続けていました。
少女が遠くから見上げる、温かな陽光に見守られていた山峰では――男たちによって運ばれた龍棺が、身勝手な屁理屈を謳われながら、〝龍のあぎと〟と呼ばれる急流に落とされました。見映えだけは良い木箱が、蛇に丸呑みにされるように水流へと流されていき……表面を削られながら、下流へと流されていったのです。
……………………。
それから、数日後……龍河の下流に当たる巨大な湖のほとりでは、傷だらけの化粧箱がばらばらになった状態で河川敷に流れ着いていました。その中には、供物として捧げられたはずの少女ではなく……その棺の作り手であった少年が納められており、無傷で眠り続けていたというのです。
生還の噂は、すぐさま上流の村まで伝わり、少年の身柄は村長の元に送り届けられました。長い眠りから醒めたときには、実の両親を含めた村人全員から狂乱の歓声が湧き上がり――入れ替わりや生存といった全ての事象が謎に包まれた〝龍神様の奇跡〟として語り継がれ――少年は、棺という生死を繋ぐ箱の中で、苦難を乗り越えて選ばれた〝龍神の生まれ変わり〟として崇められるようになりました。
少年は事実を呑み込むことができず、突然うやうやしくなって暴力を振るわなくなった実父や、過剰に持ち上げようとする村人たちの浮かれ具合に酷く戸惑っていたようでしたが……しばらくしてから、遥か西に位置する村より届いた〝無名の龍神の信仰者〟からの手紙を受け取り、己の小さな力と〝守れた命〟を実感できたようです。
村人たちが今まで以上に龍神・ナァガへの熱心な信仰を抱くようになり、村付近ではソウリョクによる奇跡が頻繁に実現し、またさらに信仰があつくなっていきました。いつしか少年も、〝贄を欲していた龍神〟などというまやかしではなく、実在する自分に対して敬虔な祈りが捧げられるようになったことに合理性の芽生えを感じていました。
少年の言葉は、〝現実を知らない子供の世迷言〟から〝神子の警句〟へと成り上がり……村は治安の悪化に対するさまざまな備えを始めて、ソウリョクのみに頼らない存続性を築けるようになりました。そのおかげもあり、人身御供を捧げずとも、眩い奇跡と昏い現実が両立できる霊験あらたかな土地として成立したのです。
神子自身が先導して刀を握り、守り人の役に就いた者たちと稽古を続け、野盗を退けながら民を守る意志を見せたことで、〝守護者〟としての神性が少しずつ培われていきました。老衰した両親を看取ってもなお若々しさと力強さを保ち続けた〝朽ちぬ武勇〟は、代替わりを続ける村人たちの信心によって語り継がれていき、はや数千年――その勇ましさをありがたがった武家の大きな信仰と習合し、現在の竜禪となったのです。
かつて、神を妄信する宗教を嫌っていた少年は――自らを神として崇める信仰の中心となっていました。そして、今では再び無名の湖となってしまった〝龍神の奇跡が発見された場所〟で……かつてとまったく同じように……自分の身を挺して、たったひとつの命を守ってくれたのでした。