ほんのりとした陽光のような粒子が漂う部屋の中――少し古びた藺草が薫る場所に、突如として現れた〝天〟の気配を孕む人が、深みのある空色の瞳でこちらを見つめていました。
『…………あれ……? 似ている……けれど、竜じゃない……貴女は……蛇?』
「……あ、えっと……はい……そう言われることもあります……。一応、これでも竜禪の武士にござるが……お屋形様――竜皇様の〝使い〟をしていましたので……」
『ふうん? 蛇と竜……イズルグモのお社で聞いた、古い逸話だね。同一視されたり、主従として扱われたり……たまに〝善悪〟の写し鏡になることもある。旧き信仰って、思ったよりも後生に残っているんだねぇ』
その女性は意外そうにしながら、着物の袖で口元を隠しました。柔和な微笑みが覗いていたのですが、なんというか……そのときは、目はあまり笑っていなかったように思います。
「あ、その……私室とは知らず、突然お邪魔してしまってすみません。私は、風真いろはと申します……こちらがおとものぽこべぇです」
『まあ、ご丁寧にどうも。竜禪のいろはちゃんに、お星さまのぽんぽこちゃん。お茶を点てるから、こっちに座ってくれる?』
「……えっ? いや、そのような、もてなしなどせずとも……かざまたちは、八武信仰のために来たわけで……」
『そこに立っているだけだと、そんな気にもならないな。竜……ああ、貴女の主君である彼だったら、どうすると思う?』
「っ…………『まずは話を聞いてから』……ですよね……すみません……」
『……ふふ♪ そこで謝れるのが、きっと貴女のいいところなんだろうね』
ちょいちょい、と可愛らしい指だけの手招きに誘われて、私とぽこべぇは彼女の前に座しました。
不思議な光で守られていた茶器や道具に、しゃこしゃことお茶が点てられ……差し出された深緑の雫を口に含むと、鼻に抜ける鮮烈な香りと、まろやかな風味と舌触りのよい苦味が感覚を支配します。
「わぁ……美味しい……!! お茶って、こんなに甘くなるんだ……!」
思わず、ほお、と耽美を示す吐息を漏らしながら顔をあげると、その人はくすくすと笑っていました。
『くすくす。その様子だと、竜が点てるお茶はまだまだ苦いみたいだね』
「ええ、そりゃあもう。かざまのお茶もアレらしいのですが、その私ですらも苦いと思うぐらい……って……お屋形様のお茶の味、ご存じなのですか……?」
『まぁ、彼に茶道を教えたのは私だから。基本ですらも時間がかかりすぎちゃったし、最後まで面倒見れたわけではないけどね』
興味深げにこちらを見てくるぽこべぇにお茶碗を回しながら、私は、穏やかで可憐な笑顔を浮かべるその人と向き合います。
「あ、あの……貴女様は、いったい……? お屋形様とは、その……どういったご関係で……?」
『……竜からは、何も聞いていないのかな?』
「あ、すみません……普通に失礼ですよね……。お屋形様、過去のことをあんまり話したがらないので、下調べとかはできなくて……いっつもぶっつけ本番というか……」
『ふふふ、違うよ? 私が【ふたりだけの秘密にしてね】って言ったの、ずっと守ってくれていたんだな~、って思っただけから』
「…………え……?」
『……ごめんね、こっちの話。まあ、そうだねぇ……彼とは……いい〝敵対者〟だった、かな?』
「……敵対者ぁ……? 本当にござるかぁ……? なぁんか怪しいんですけど……〝うちの〟すけこましが、何か粗相でもしていませんかねぇ……?」
『あらぁ、わりと本気で牽制してくるんだ……そういうのは、ありえないんだよ』
「……ありえない、ということはないでしょう……? そんなに美人さんだし……やりちんのお屋形様が放っておかないでしょうし……」
『う、う~ん……意外と面倒な感じでぐいぐい来るなぁ……』
頬に手を当て、悩ましげな吐息を漏らすだけで……空気が惚れるような気品の高さと麗しい魅力を放つ女性は、こほん、と小さな咳払いをしてから続けます。
『……そういえば、こちらの自己紹介をしていないもんね。私は〝天子〟と呼ばれていた者――かつて此の地にて広く信仰された〝天崇〟における、最後の首長ですから。竜禪の首長である彼とは、水と油みたいな関係なんだよ』
「……そうですか……。あの……天子、様というのは……身分ですよね……? 貴女自身の、お名前は……?」
『そういう俗なものは捨てました。私に在ったのは、天使たちの長であるこの肩書と、国民を導く〝象徴〟としての光――崇拝の対象たる〝偶像〟としての役目だけ。だからこそ、浮世からは純な信仰が寄せられる……貴女のよく知る、〝皇〟の座に就いた彼のように』
天子様はやや無機質に、自嘲気味なしたり顔をこちらに見せていましたが……お屋形様の〝神様らしくない、他人には見せない部分〟をよく知っている私には、その分厚い強がりに浮いた〝透明な綻び〟に気づいてしまいました。
その最高位にふさわしい神々しさを分けて見てしまえば……その人自体は、普通の可愛い女の子にしか思えない――そう感じてしまったのです。
『……というか、私のことはどうでもよくって。貴女は此処に、どうして来たの?』
「あ、ああ、あの……えっと……天子様の持つディヴァ信仰を――信心を、かざまの心身に書き写させていただけないかと思っておりまして……」
『ディヴァ様に抱く信心を……? どうして天崇の者である私が、敵対する竜禪の者である貴女に協力しないといけないの?』
「…………え……?」
突然、全身を呑み込むように襲ってきた敵意に身震いしたぽこべぇが、ごとん、と空のお茶碗を畳に落とした音が重苦しく響きました。総毛立った私も、そのときに思いだしたのです――八武信仰における最後の信徒から信心を継ぐには、その方自身の心とも通じ合う必要があるのだと。
今までは、私の中に広がる常夜の庭に彼らを招いて、心の深い部分で通じ合っていましたが……今回は状況がまったく異なります。彼女の意識がこの部屋自身に残されていたのですから、そのままではお互いのことを深くまで知り合うことができないのです。
『天崇と竜禪は、数えきれないほどの命を奪い合ってきた信仰なんだよ。いかに若い貴女でも、その血生臭い歴史ぐらいは知っているよね?』
「……は、はい……。でも、天崇は遥か昔に、竜禪と習合したと聞いていますが……」
『習合して一つになったら、その積み重ねた怨恨は消えるのかな? そもそも、あれは〝天崇が存続できなくなったから〟っていう後ろ向きな合流でしかない……八武信仰やら何やらは関係ないよね?』
「っ……で、ですが……此の地を守るためには、八武信仰の力を再興させる必要があるのです……! 今、此の地は明確な敵意に脅かされて、間近な破滅に直面しています……どうか、力を貸していただけませんか……!?」
『……まあ、異教を巻き込んだ強い意思の接近は感じているし、貴女の中から近しい力の気配を感じるから……それはきっと、本当のことなんだろうね』
「は、はい!本当……全部、本当のことです……! だから――」
『――それで? 貴女に力を貸したとして、だよ? それで、既に息絶えている私に何の見返りがあるの?』
「…………え……? み、見返り……ですか……?」
思いもしなかった角度からの返答に、私は強い衝撃を受けながら、動揺を押し隠しました。
しかし、天子様は柔和な表情を挑発的なものに変えて、鋭い細目で私の不安とわずかな憤りすらも見つめてきます。
『そうそう、お金とか、土地とか……そういう見返り。敵対者に助力を乞うんだもん、当然だよね? 天使も根絶して、純粋な天崇信仰が竜に呑まれた世界を守る……そんな無意味なことに力を貸すんだから』
「うっ……いや……信仰や信心というのは、そういう、利益を求めるようなものでは………………っ……」
信仰を食い物にしようとしていた人々――〝霊水の村落〟で感じた人の悪意が私の脳によぎり、確たる言葉を詰まらせてしまいました。
……私は、自らの行いを〝正義〟と誇れないような人間でしたから……私の弱いところを見抜いて、防御の隙間を縫うような言葉は、『間違っていない』と思えてしまうのです。
『ふふふっ♪ 人の心を動かす信仰は、必ずどこかで大きな富を生むからねぇ……こちらも、それなりに良くしてもらわないと困りますなぁ♪』
天子様は高貴なままに――優美な限りに、口元を覆いながら、妖艶に目元を笑わせました。
「……ぐ、うっ……!! み、見返りとか、意味の有無とか……そういう、実利的なことだけが、人の信心を形成するわけではないと思います……だから、大した力を持たない私がいくつもの信心を託してもらえたはずなのです……!」
『うーん、他の信徒たちも見返りが欲しいだけじゃない? それか貴女が、わいろをたくさんあげて力を無理矢理に渡させたんじゃ――』
「――あの人たちの想いを馬鹿にするなぁッ!!」
今後の進退を決める大事な場でしたから、なるだけ平静を心掛けていたのですが……その煽るような冷たい口ぶりや愚弄は我慢できても、私と想いを共にしてくれた人の気持ちを嘲笑うことは許せませんでした。
私は思わず立ち上がって、機嫌を損ねてはいけない交渉相手である天子様の着物の襟を乱暴に掴み上げました。
「あつい信仰を抱いて、命を賭して生き続けて……〝神〟と呼ばれる存在に魂で触れ続けた人の気持ちが……!そのようなもので動かされるわけがないでしょう……!!」
『……むぐぐ……。見返りとか、意味とか……多くの人々が〝生きる糧〟としている大事なものを……〝軽い〟って言うのかな……?』
「それが『軽くなんてないこと』はわかっていますよ……!! でも、人には……〝それより重い〟と思うものがあって……!そういう気持ちを、大事にしようとする人の心を……そんな風に言わないでください……!!」
――同調が失われていくなかで貫く信心――理解されぬ一芸を孤独に愛する情熱――抱いてしまった疑念を正すための贖罪――我が子のために奇跡に縋った愛情と反転した怨嗟――自然と共生する理的な社会を守る武心――民を守るために〝龍〟を治める宿命――。
私の身体に、信心を託してくれた人々の過去と想いが鮮明に蘇ります。息を詰まらせる激情が、襟を掴む手が震えさせて……私を量るように見ている彼女の顔をじわりと滲ませました。
『……じゃあ、聞くね? 見返りも、意味も求めない信仰があるとして――貴女が八武信仰を再興させようとしている理由はなに?』
そう問われて、私は……握り締めた上品な着物をさらに軋ませ、自分の中に秘めていた感情を、涙とともに解き放ちました。
「……私は、大好きな人たちが暮らす、此の地を……〝今日〟を守ってあげたいだけなんです……!! 弱くて、情けなくて……ひとりじゃ、なんにもできない私なんかを……信じてくれる人たちの想いに応えたいんです……!! だから……!!」
『………………うん、うん。正論をぶつけられてもなお〝それ〟がちゃんと言えるなら、大丈夫だね』
「……………………ふえ……?」
『ごめんね。貴女の気概を試すために、大切な人たちのことを悪く言ってしまって……武士という人種は、昔から正論パンチに弱いから心配だったんだよ』
天子様は、私の滲んだ視界でもわかるぐらいにはっきりとした笑顔を見せて……ふわり、と気を荒ぶらせていた私の頭を優しく抱擁してくれました。
涙を着物に吸わせて、熱を持っていた後頭部を宥めるように撫で下ろします。すると、私の中で昂っていた感情がすぐに穏やかなものになっていき……身体から、余計な力が抜けていきました。
『〝人の気持ち〟のために、本気で怒れる貴女になら……信徒たちの想いを背負ってきた重荷も任せられる。天崇の中枢――託宣を受ける〝天子〟が抱くディヴァ様への信心を……そのまっすぐな旅路に連れて行ってあげて』
その時――触れ合う彼女の身体が光を発し……太陽の如き温かな想いが、私の中まで流れ込んできました――――。
――『消去法で選ばれた私が〝女〟だから』。たったそれだけの理由で、天崇と〝天子〟の品位は低くなり、信仰の力も、天神・ディヴァ様の求心力も著しく弱っていった。天崇の崩壊は、もはや時間の問題だった。
天崇は、かねてより人を導くための〝光〟だった。島国の〝今日〟という停滞する暗夜の中に差し込み、広い世界を照らして未来を見せる朝日として――外国や異文化の良いところを見出して、人々に進化を促すための〝指針〟でもあった――私の代で失うわけには……失わせるわけには、いかなかった。
私は、桜の似合う巫女がお勤めをしている〝桜神社〟を拠点にして、親友でもある付き人と共に全国の神社を回る旅をした。神道への信仰を集めながら、舞と歌を通じて信徒たちの心を寄せることで天崇再興を目指していた。その行脚は〝点数稼ぎ〟と思われることが多く、『崇高な信仰を穢す亡君』として忌み嫌われ、私の由緒正しい衣服や、大事な付き人の眼鏡を傷つけることばかりだった。
けれど、天崇への想いを汲んでくれる人もいた。数はたしかに少なかったけれど、私の祈りや言葉を信じて、〝夢〟を見てくれる人たちがいた。それが一人ずつ、一人ずつ増えていって……男性天子が途絶えて絶望していた天使たちも、私が良き君主であろうと努める意思を認めてくれたのか、次第に支えてくれるようになった。
私は天子として、神に舞いを捧げ、人に歌を詠み続けた。この心を曇らせる生臭い不安を一切薫らせず、ただ、発する煌めきだけで世界を照らす〝光〟であろうとした――旧き信仰に在った、此の地を照らす太陽神と同じ役目を担えるように。
私は折れない。認めてもらえるまで諦めない。命が尽きても、この生き方を曲げやしない。〝前〟が見えなくて不安に思う人々の心に、尽きない希望を伝播させていきたい――そんな、見返りも、意味もない、青臭いだけの気持ち……意地と〝夢〟だけで、この命が尽きるまで生き続けた。
人が地面を歩き続けることを苦しく思ったときに、救いを求めるように見上げたそらに――いつも〝私〟が輝いているように――。
――――彼女の〝全て〟を書き写すと、時の流れが終点を迎えたように光が薄れていき――私の下腹部を熱い想いが走り抜け、紋の中に〝天〟の字が刻まれました。
抱擁を解いて、天子様が離れたとき……私の中で焼き直された記憶が、イワトの信徒が振り下ろした刃によって、ぶつん、と唐突に終わります。
天子様の思い出には自分の旅路と重なるものがあり、なにもかもを共感してしまった私は……先ほどよりも激しく涙を落として嗚咽を漏らしていました。
『ちょ、ちょっと……なんで泣くの~……? せっかく、天神の力を得られたんだよ……?』
「ぐすっ……う、ううっ……! だって……だってぇ……!! こんなの……あんまりですよぉ……!」
表側からは判断できない――いえ、きっと彼女が他人に見せないように努めている〝裏側〟を見てしまって。その血生臭い努力と、〝報わせてあげられなかった信心〟への深い思い入れを感じて、私の心がきつく縛り上げられました。
……彼女の名誉のためにも伏せますが……八武信仰再興のために全国を旅した私よりも、よっぽど大変な目に遭ってきたはずなのです。それなのに、天子様は何事もなかったかのように笑ってみせて、天崇の信徒たちに〝光〟を見せ続けていたのです。
『……ええっと、ね……私、悪いひとだよ? さっきも貴女を試すために、酷いこと言ったし……貴女が思うような人じゃなくって……』
「違う……違うっ……!! 貴女はそんな、表面だけで語れる人じゃない……さっきの言葉だって、わざと悪役になろうとしたんだって、わかっています……だから……!!」
『…………優しいひとだね、貴女は……心配になるぐらいに……優しすぎるよ……』
「それは、貴女も同じですよぉ……!! どうして、そんなに強く在れるんですか……? どうして……そんなにもつらい過去を抱えて……今も、輝いていられるんですか……!?」
『……つらい過去も、裏側もないんだよ? 表側に出ていて、みんなが見てくれる〝偶像〟――それこそが〝私〟だから』
天子様は、金糸が煌めく装束の裾で口元を隠そうとしましたが――その、〝私への不義〟を止めて、にっこりと――輝く天輪のような笑みを咲かせました。
私は、ディヴァ様の祭壇に刻まれていた日輪の花の模様を思わせる、その健気で儚げな笑顔に心を射貫かれて……思わず、天子様のことを抱き締めてしまいました。
人が背負えるとは思えない重責で壊れそうな肩を強く掴んで、彼女のうなじに顔を埋めます。
「……素敵だと、思います……! 貴女の生き様は――貴女が張ってきた〝命〟は……本当に、素晴らしいものでした……!!」
境遇を案じた同情は、きっと受け取ってもらえないと……喜んでもらえないとわかっていました。だから、私は……彼女の見えない部分に刻まれた傷の痛みすらも抱き締めながら……無数の波が立つ心の水面から絞り出した、精一杯の賞賛をささやき続けました。
『…………………………ありがとう……』
天子様は、一瞬だけ私の背を抱き寄せて……たくさんの想いが込められている、たった一言だけを呟きました。そして、泣きじゃくる私の肩を、ぽんぽんと叩いて抱擁を解かせます。
『……泣き虫さんなところは、ちょっぴり不安だけど……そういう人間らしいところこそ、神性を帯びて〝人〟から離れているはずの貴女が、みんなから愛される魅力なんだろうね』
彼女はそう言って、少しだけ眉を困らせて笑います。そのまま、何事もなかったかのように座り直して、二杯目のお茶を点て始めたのでした。
……………………。
二杯目、三杯目とお茶を点ててくださった天子様のおかげで、私はずいぶんと気を鎮めることができました。
ぽこべぇと一緒にお茶を飲み終えてから、赤く腫れてしまった目を擦り、ぐすぐすと鼻を鳴らして、対面で正座する彼女の心に向き直ります。
「天子様……貴女のために、私にできることはありませんか?」
『むむむっ……? いったい、何を言っているのかな? さんざん【敵だ】と言っているつもりなんだけどな?』
「あ、いえ……天子様は実体こそ在りませんが、こうして触れるほどに強い想いを遺されているわけですし……何か、してあげられないかと思いまして……」
『……うーん……気持ちは、嬉しいかもしれない……けど、なんでそこまで……敵である私のために……? 天崇と竜禪は――』
「――天崇とか、竜禪とか、そういうのは関係ないですよ……。私も貴女も、一人の人間でしかありませんし……なんというか……貴女の〝命〟に惚れてしまった、といいますか……『力になってあげたい』……そう、強く思ったんです……!」
熱くなった私がぐいっと前のめりになると、天子様はぎょっとして、少しのけぞりながら、『ほんとに珍しいひとだねぇ』と呆れたように口元を緩ませます。そして、少しだけ考え込んで――。
『……そうだ。神性を得た偶像としては、熱心な信徒にはご褒美をあげないとね』
――ぽん、と手槌を叩いた彼女は、くすくすと笑ってから静かに目を閉じて、私に『両手を出して』と告げてから祈りを捧げます。すると――しゃらり、と――透き通るような鈴の音が茶室に響き、床の間の板が軋みながら動きました。
その深い闇の奥から、封じられていた光が無数の糸のように溢れて――無形の輝きが一つに束ねられるように勇ましい弓幹が成り、想いを繋ぐように美しい弦が紡がれました。さらに、部屋中に散っていた光が流れを生むように集まり始めて、幾本もの矢と羽を形成し――まろやかに煌めく温風にそよがれたこの手には、黄金色に輝く光の弓と、白銀に煌めく光の矢が収まりました。
手に乗せているだけで、燃えるように熱い力の脈動と、つい頭を下げてしまいそうになる強い威光を感じます。その輝くばかりの存在は再び光となって、ぎゅんぎゅんと荒れ狂う渦を形成し始めました。
強い神性――自分とは重なり合わない、斥力のような存在感に抗わずに、光の渦の先端を私に突き刺すように仕向けます。お屋形様と一体になったときのように、光の奔流を受け止め――ゆっくりと、溢れる力を制御していくと――強い煌めきの奔流は私の心の中に宿り、どくん、と脈打った心音と一つになった気がしました。
「……い、今の武具は、いったい……? なんだか、とんでもない力を放っていましたが……?」
『天使の果てなき祈りを極光で呑み込む神弓――〝アメノハジユミ〟。そして、【天の使いを射った】という逸話がある〝アメノハハヤ〟。どちらも天崇を脅かすことを危惧されて、私が預かっていた力……きっと、天を支配している異教にも抵抗する力があるはずだよ』
「し、信心に加えて、そんなにも重要なものまで……!? 天子様は……もしや、かざまたちの味方になってくれるのですか……!?」
『う~ん……味方か……そうだねぇ……。それじゃあ……竜禪の教えを捨てて、私と一つになってくれる覚悟はあるかな?」
朗らかに笑っていたはずの天子様は……突如として色味を変えた真剣な眼差しで、私の心をざくりと見抜きました。
ですが……その強い意思を感じても、私は心を一寸もぶれさせずに、はっきりとした声で答えます。
「いいえ。それは、できません――私は、この命と心で、お屋形様のために尽くす……そう決めておりますから」
『……くすくすっ……―――――――♪』
天子様は、薄くて儚い――そして、どこまでも人らしい温もりがこもった微笑みを浮かべて、心から楽しそうに〝あの言葉〟を呟きました。
その憂いを込めた、艶すら感じさせるほどに深みがある表情には――白んでいく空の光が重なっており、太陽のように神々しい輝きを放っていました。
世を支える大樹のように力強く、麗しい光を滑らせる栗毛を翻しながら……立ち上がった天子様は、こちらに背を向けて続けます。
『遥か昔、〝呉越同舟〟っていう言葉があってね……私たちは、きっとそういう関係がちょうどいいんだよ。私は死んでいても天崇で、貴女は生きていても竜禪だから……〝攘夷〟の意思が不要になるまでは協力する。それでいいよね?』
「……ああ……そういう〝名目〟で、貴女はお屋形様に刀を託したのですよね。立場上仕方ないとはいえ、素直じゃないでござるな♪」
『……むむ~……ふんだ、好きに受け取ってもらっていいよ、べつに。そういう自然に意地悪なところ、彼にそっくりだ』
そう言いながら、天子様は懐かしむように天井を仰いで、小さく鼻を鳴らしました。
『しかし、まあ……あいかわらず、竜禪というのは欲深いものだねぇ。派生した信仰とイワトの自治を認めて、熱狂的な信徒を生かしたまま争いを鎮めようとしたあの頃から、何も変わっていないんだもん」
「……ありがとうございます」
口から自然と漏れ出た私の言葉に、天子様が首をぴくりと動かしました。
『……生真面目なばかりのござるちゃんには、皮肉すらも通じないのかね?』
「いえ……〝今日を愛し、明日も変わらぬこと〟は、竜禪の誉れであります故に」
『ああ、そっか……ふふ……あはははっ……! だから、革新を求める私たちがその手を握れないんだよね――今も、昔も、ずうっとね』
からからと、嵐が通り過ぎた後の快晴のような笑声とともに、天子様の姿が光の中に消えていきます。
私とぽこべぇは、手を伸ばしてその存在を繋ぎ止めようとしたのですが――彼女は顔だけでこちらを振り返って、目を細めて微笑みます。
『此の地には、〝天崇〟という昔の慣習に縋ることしかできない――〝今日〟に生きたがる人たちも居る。もしも彼らが、貴女に、心からの助けを求めたときは――』
「――必ずや、武士として……その〝今日〟を守ります。貴女に託された信心と――この〝命〟に誓って」
私たちは新たな力を受け継いだ胸に手を当てて、力強く頷きました。その応答に、満足そうに眼を閉じた彼女は――。
『……元気に、いってらっしゃい』
――〝敵対者である〟という建前を忘れたかのように、やわらかな笑みを浮かべて――朝焼けの中へと、融け入るようにその場を去ったのでした。