――人生とは、ひらすらに空虚なものだ。少なくとも、かつての俺はそう感じていた。何を為しても満たされることはないし、歩んだ先に行きつく場所もありはしない。
大人たちが説く『生きることや命自体に価値がある』なんて――不自然なほどに美しすぎる嘘でしかない。そのことに気づいたときにはわずかな絶望を覚えたものだが、その些細な刺激にもすぐに慣れてしまった。
何かが足りないまま、ただ〝欠けた〟と思う人生を生きてきた。他の人と同じように生きているはずなのに、どうしても、あんなにも満たされた笑顔を作れない。
……俺は、そういう生き物なのだろう。きっと、他人とは違う生き方の中に身を置き、自分を曲げられず……散り行く枯れ葉のように、ただ、いつか朽ち果てる。
身に余る幸せを得て、周囲の要望に応え続け、孤独な鍛錬に勤しみながらも――問題を抱えた友すら救えず、心に空いた風穴の痒さに悶えることを〝生きる〟と表す生き物こそが、自分なのだと思った。
しかし――あの日に感じた、鮮明で、鮮烈で、鮮鋭な刺激は世界に色めく風は……錆びついた心の奥まで入り込んで、どこか冷えていた場所に熱を届け――空虚な風穴のかたちを教えてくれた。
それから俺は、風真いろは――心が求めてやまない女性の配信を、友人の力を借りて少しずつ見るようになった。初めて、スマホを貰ってよかったと思ったものだ。
やや舌足らずな声音も、可愛らしい仕草も……心に素直で在り続ける、色葉のような生き方も。感じれば感じるほどに、心が惹かれていくのがわかった。まるで底なし沼に引き込まれているような、際限のない魅力に危うさすら感じたほどだ……彼女のことを想い続けて、一度、テストで一つではあるがミスをしかけたこともあった。
彼女の配信を見続けてきたなかで……いつしか俺は、これまで全部同じに見えていた〝女性〟の中に、〝風真いろは〟というトクベツな差異を見いだすことができるようになっていた。
彼女と出会ってからは、とにかく時の進みが何十倍にも早まったように感じて――はや一年の時が経った頃。彼女に関係ないところで、彼女にまつわる火種が起こった。
――『言葉の端々に×××の××がある』。思い出すことも憚られるほどに、無責任で、彼女のことを何もわかっていないが故の噂だったのだが……名前も所在もわからない人々が、そのことを口々にSNSへ投稿していた。
正直に言って、気味の悪い状況だった。この、二つの世界を繋ぐ〝窓〟の向こうに同じものを見て、同じ感動を分かち合える存在とはまったく思えないほどに、汚らしい火の粉が虚言にまみれた灰風に舞っていた。
いつしか、その焼野原を面白おかしく囃し立てる人々も増えてきて、その不協和音は『無言の肯定』などと身勝手に噂され始めた。運営としても無視することができなくなったのか、彼女が潔白であることを釈明する場が設けられたのだが……そこで、彼女は用意された嘘をつかなかった……らしい。
自分の知っていること。自分の思ったこと。自分が守ってきたこと。その全部を語り聞かせ、文字どおりに『これ以上言えることがない』という状況に繋げた。
人々の意見は割れに割れた。画面の向こうの世界を信じられない人は『作り話』だと非難した。淀みなき情熱に触れた人は『優しくてまっすぐな人だ』と再認識した。
そして、きっと世界で俺だけが――『その、風が吹いたような蒼緑の旅路を憶えている』と〝目を醒ました〟。ゲームやアニメに触れてこなかった自分が、初めて聞いたはずなのに、寸分違わぬ〝既知〟を共有していたことに、長き時を巡ってきただろう魂が打ち震えたのだ。
――『俺も憶えている』。これまで眠っていたのかと思うほどに、心臓が激しく高鳴った。居ても立ってもいられないような衝動に駆られた。
恋に落ちた――というよりも、胸を突き刺した痛みを〝思い出した〟ような――そんな衝撃が、脳髄から足の先まで走り抜けたのだ。
雷に打たれたように、魂が燃えて全身の血が震えた。呼吸が乱れて、頭蓋の中を掻きむしりたくなるほどのもどかしさに襲われた。
――『彼女に再会したい』と、心の底から願った。産まれて初めて、恵まれていたはずの俺は、自分に〝無い〟ものを強く欲した。
この衝動を、俺は唯一の友人に相談した。すると彼は窮屈そうに腕を組んで、傍から見れば〝夢見心地な与太話〟でしかないだろう想いの熱さをこぼさずに汲み、真剣に考えてくれた。二人でいろいろと考えて、同じ数だけ廃案にしたものだった。
ファンレターを書く? 『貴女と同じ記憶を持っています』。彼女の話では、あれから数百年の時が経っているのだから――名前も顔も見えない相手からそんなことを言われて、信じてもらえるわけがない。
バーチャルワールドに行く? 可能性はゼロではないようだが、限りなくゼロに近いらしい。バーチャルワールドは国策にも絡むほどの重要な場所となり、厳しい入界制限を敷いている。競争率二〇〇〇万倍の抽選競争に勝ち抜き、一年間で五枚しか発行されないチケットを手に入れなければならない。ほとんど当選者が自分で使うようだが、レアケースとして商談が起こった場合には、最低でも数十億円で取引されるようなものらしい。
――「仮にチケットが手に入ったとして、だ。僕だって、絶対に手放さないだろうからなぁ」。苦笑交じりに言った得島の顔を見て、その法外な価値にもどこか納得してしまったものだった。
自分のこと。風真いろはのこと。あれやこれやと、日を変え、週を越え、月を跨いで、季節を巡っているうちに――俺が、長かった人生の中で、熱く輝く〝青春〟のような充実感に満たされていたあいだに――気づけば、学生生活が終わろうとしていた。
とうの昔に、生徒会長の任期を満了していたというのに、最後の仕事として総指揮を任された卒業式。人々の別れを描く式典をつつがなく執り行い、後始末をようやく終えた夕方――桜が舞う校庭で、学び舎で過ごした数年間を振り返る。
……何を思い返そうとしても、風真いろはのことばかりを考えてしまう。逆に言えば……彼女と出会えたからこそ、こんなにも、感情が揺らめく〝今日〟を感じられたのだと思った。
どこかで待っていたらしい女子生徒の大群にボタンを全てねだられ、前が閉じなくなってしまった詰襟は、まだ寒さが残る春風を防いではくれなかった。ボタン争奪戦の抽選会とやらは無事に終わっただろうか……面倒事に発展していたとしても、もう仲裁してやれない立場なのだが……これが職業病というものなのかもしれない。
……『ほーんと、お屋形様らしいですねぇ』。耳元をかすめた春風に、呆れて――そして、ちょっとだけ誇らしげに――同時に、文句を言いたそうに苦笑する彼女の声が聞こえた気がした。
そんな、ありもしない感傷に浸っていると――重たそうな身体を揺らし、こちらに走ってくる友人の姿が見えた。
「はぁ……はぁ……! まだ、家に帰れていなかった、なんて……! 君は、いったい……卒業してまで、何をしているんだ……!?」
「いや、先生たちと現職の生徒会長に頼まれたから……それより、そんなに急いでどうしたんだ? 俺に何か用事だったか?」
「ああ、そうだよ……! やっと、確証が得られた……こいつは、〝本物〟だったって……!!」
額から滴る汗を拭いながら、友人は、虹色と銀色に輝く一枚のチケットを俺に見せてきた。その表面には細かな文字がびっしりと書いてあり――右下に、『CODE:F』と印字されている。
「これ、って……前に話していた、バーチャルワールドへの入界チケットじゃないか……!? お前、どこでこんなものを……!?」
「ふう……ふう……! 先月末に、僕宛てに届いた差出人不明の手紙……その中に、入っていたんだよ……! 問い合わせて、確認してもらって……さっき、返事が来たんだ……!!」
「や、やったじゃないか……!! これで、お前も……大好きなアイドルの所に行けるぞ……!!」
「ふう……その、あれだ。ちょっと問題があってだな……このチケット、〝永住権〟らしいんだ。問い合わせの返事にも、『よく考えたうえで使ってほしい』と書いてあった……こっちの世界の〝人生〟を諦めないといけないみたいだ」
「……っ……!? そ、そんなに重たいもの、なのか…………で、でも……! 逆に言えば、向こうで人生を得られるってことだよな……!? 考え方によっては、それも悪くないかもな……!」
「うん、僕もそう思っている。やっぱり、君とは意見がよく合うよ」
友人の置かれた境遇のことを考えて、俺が迷いながらも祝福を口にしたとき――友人は、迷いのない視線をこちらに向けて――一般人の生涯では、決して手に入らないだろうチケットを差し出した。
「会ってきなよ。いろはちゃんに。そのためには、棄てなきゃいけないものもたくさんあるだろうが……それだけの価値はあるだろう。完璧超人で、思い出も共有できる君なら、きっと彼女に受け入れてもらえるさ」
「…………は……? なに、いってんだ……? お前……あんなに、フブキちゃんのことを想っていたじゃないか……!それなのに……!!」
「ハッハッハ! 自分のことは弁えているさ。僕が会いに行ったって、女の子は喜んでくれない。そのことは身に染みている。会いに行くなら、〝花束〟の一つでも用意しないと……僕なんかに、価値を見出してもらえないさ」
「……じゃ、じゃあ、花束とやらが用意できるまで持っておけばいい……! お前が、せっかく手に入れたチャンスなんだ……そんな風に、簡単に……………………!!」
そこまで言って――俺は、チケットをつまんでいる友人の指に、尋常ではない力がこもっていることに気づいてしまった。
……あれほどまでに、自分の〝全て〟を注いでいる相手と会えるような機会を――敢えて、俺に譲渡しようとしていた。
「簡単なんかじゃない。手放すことを、心身が全力で拒否している。でも僕は、君の想いが本気だということを知っている……『誰かに本気で恋をすることが生むエネルギー』の強さを共感している。そして、僕は君の優しさに、ずっと……報いたかった。それが、僕の全てだったんだ」
「……報いる、だって……?」
「ハハハ……!欲しいものなんて全部持っていそうな君が、ようやっと、本気で欲しがってくれたものだぜ? それが今、僕の手にある……ククク……答えは、一つしかなかったよ!」
友人は俺の手を取って、チケットを無理矢理に与えてきた。その〝報い〟が、必ず、どこかで実を結ぶと信じて。
「ありがとう、相棒。今こそ僕に、君への多大な恩を返させてくれ。君のおかげで、僕は……本当に、本当に楽しかった――だから君も、きちんと、彼女と幸せになってくれ」
友人は――得島星助は、大いなる星に照らされたように明るい笑顔で、俺に溢れんばかりの感謝を示していた。
「……で、でも……! それじゃあ、お前が……!」
「風真いろはに――大好きな人に、会いたいんだろう? 配信で聞いた、あの子の寂しそうな声……あれを一生放っておくつもりなのか?」
「…………ッ!!!!」
「相棒……自分にとって大切なものは、自分で〝選ぶ〟んだ。その手に渡したものは、あの子を笑顔にできるかもしれない〝選択肢〟だ――あとは、君の意思だけだ」
得島は、名残惜しそうにチケットを一瞥して、迷いを吹っ切るように背を向けた。その背中には、俺と過ごす時間や、白上フブキへの熱い想いだけを〝選んでいた〟男の強さを感じた気がした。
……………………。
得島に託されたチケットを手にしたまま、俺は住宅街の中では大きめな我が家に帰ってきた。役目を終えた制服を脱ぎ、ベッドに身体を預けて、ぼんやりと考える――が、心は彼女との再会だけを望んで脈動し続けていた。
しかし……手にしたチケットの但し書きを見るに、本当に〝移住〟しか認められないようだ。『バーチャルワールドへの永住権を行使する』――こちらの世界で〝全て〟を捨てなければ、彼女に会うことができない。理想的な世界へ足を踏み入れるために、それほどの覚悟を求められていた。
一週間後には、クラスメイトと約束していた卒業旅行が控えている。その先には、受験の達成感を満喫できる春休みが続いて、そして、苦難の末に切り開いた最上級の修学生活が待っている。父曰く、その先には就職をして、国の未来を任せられるような仕事をする道筋まで見えているらしい。
こうして寝転がっているベッドも、美味しくて温かい食事も、安定した生活も。これまで積み重ねてきたもの……大事に守らなければいけないもの……その全てを、何も例外なく切り捨てるしかないのだ。
……それだけじゃない。自分のことだけでいいなら、そこまで苦悩しなくていいだろう。俺の人生は、ここまで世話をし続けてくれた両親の寵愛によって成り立っていることが、浮ついた頭と身体を重たい鎖で縛りつけてくる。
……両親には感謝している。例えそれが、親の責務なのだとしても……人ひとりの未来を築くために、どれだけの投資と注愛をしてくれたのか……考えるだけで胸が痛むほどだった。
……せめて、進学先での勉学を修了してから……とも考えたが……風真いろはとの再会を、我慢することなどできそうもない。過去を語る際に幾度も表情を翳らせ、言葉を詰まらせていた彼女をこれ以上待たせることなどできはしない。
それに……選択の時を後送りにするだけでは意味がない。タイミングを逃すどころか、いつか来るその時には、捨てられないものが今以上に増えていることだろう。
――『いつかは彼女の所へ旅立ち、全てを捨て去らなければならないなら、それはいつでも同じことだ』。
俺はそう決心して部屋を出て、光沢がある階段を駆け下り……豪奢な調度品が揃うダイニングキッチンで、美味しそうに香る料理を作っていた母に声をかけた。
母は俺の真剣な声に何事かを感じ取ったのか、顔を向き合わせて、きちんと話を聞いてくれた。全てを聞き終えた時――母は、どこか察したような顔で、「そんなに真剣なら、お母さんには止められないかなぁ」と苦笑していた。
なんでも、母はバーチャルワールドに関連する仕事を在宅でしているらしく、彼女たちの〝命〟については深く理解しているようだった。
ただし、「お父さんにもちゃんと話をしておいてね」と念押しされたため、父の帰宅を夜まで待った。
ひとり遅い夕食を終え、食卓で高いウイスキーを嗜んでいた父に、とても話をしづらい雰囲気の中で説明をする。
「そんなもの、ダメに決まっているだろう。一時の気の迷いで、人生を台無しにするなんて馬鹿のすることだ」
空気を読んで席を外した母が居なくなり、俺は父と向かい合うように座って、彼女のことを熱心に話した。しかし、バーチャルタレントはおろか、ゲームやアニメにすら触れてこなかった真面目人間の父は、何を言っても怪訝そうに眉を顰めるだけだった。
「タレントだかアイドルだかわからないが、人生を擲つほどのものではないだろう。くだらないことを言っていないで、勉強を――いや、それは十分か……。なら、スポーツを――これも、お前には失言だったな……ううん……」
学校や道場での功績を全て知っている父は、とてもやりづらそうに、俺の世迷言を窘めるための言葉を探していた。
しかし、俺は一歩も退き下がらずに許可を求め続けた――すると父は、わなわなと身体を震わせながらも、おだやかな声で問いただす。
「……お前が、それほどまでに心酔する女の子というのは……どういう子なんだ……?」
そう聞かれ、俺はいつも楽しんでいる配信画面を父に見せる。その瞬間、父は額に青筋を浮かべ――ぶちり、と何かを引き千切ったように立ち上がった。
「お前は……〝こんなもの〟のために……!! 全部を……人生を捨てようと言うのか……!?」
……そう激昂した父の気持ちは、手に取るように、痛いほどにわかった。
かつては自分も、この画面がうすっぺらく見えていた。その奥に、誰かの〝命〟があるだなんて思いもしなかったから。
しかし――。
――『神様ってこんなもんか』――。
――旧い記憶の中で、彼女が口にした言葉が――心の中で燻っていた想いに、鮮やかな風を吹き込んだ。
過去に覚えたことのない心の熱が一気に燃え上がり、威圧して出来心を諫めようとする父に衝突する。
「父さんの言う『人生』だって――人間の〝命〟だって、所詮は〝こんなもの〟だろう!? 人の期待に応えて、寝て、起きる……人生なんて、それだけじゃないか……!!」
「……………………え……?」
初めて、俺が感情を露わにしたことに驚いたのか――硬直した父は、口を開けて、目を丸くしていた。
「俺は……こんなものなら、要らないよ……! 父さんや母さん……みんなのために、向こうの世界へ行く道を〝選べない〟とは何度も思った……でも、こっちでの人生を〝選びたい〟とは思えなかった……!! 俺は……〝こんなもの〟を蹴ってでも、彼女を笑顔にしてあげたいんだよ……!」
俺の吐露から、空気がしいんと静まって……とにかく、ひたすらに気まずい時が流れ……「そうか」と父がこぼしてから、席に着くように促された。
視線をわずかに落とした父が、毎日のように手入れしている棚から酒瓶を取り出す――食卓の上に置かれたウイスキーのボトルには、俺が産まれた日付が刻まれていた。
「こうなったら、恥を忍んで泣き落としと行こう。お前とこいつを飲む日を、楽しみにしていたんだ……これを見ても、気は変わらないか……?」
「…………ごめん。本当に申し訳ないけど、それは……父さんのために、こっちを〝選んであげたい〟理由にはなるけど……」
「………………ははは……そうか……。お前は真面目で、手がかからなくて、なんでもできる……理想的で、自慢の息子だった……でもそれは、お前が親想いの〝良い子〟だったからなんだな……。少し考えれば、気づいてやれそうだったが……そうかぁ……」
俺の少ない言葉から、全部を悟った父は……唇を震わせて、何かを思い返すようにしながら言葉を続ける。
「……多くは望まないつもりだった。お前が……普通の学生時代を楽しんで、良い仕事に就いて……素晴らしい人生を送ってもらえれば、それでよかったんだよ」
……父の真摯な言葉には、確かな愛が含まれていた。胸を打つ静かな声に、申し訳なさと悲痛に苛まれた。
――どうしてだろうか。まだ大人になりきれていないはずの自分に、父親が子供に向ける言葉と想いの重さが……こんなにも、つらいほどに強く響いているのは。
――……だが……それでも、行かなければいけなかった。この感情が揺さぶり、心の奥から顔を思い浮かべさせた〝彼女〟のもとへ。
自分が生まれた意味と――これから生きていく理由を、見逃すわけにはいかなかったのだ。
「……うん、うん。そんなに目で物を言わなくても、わかっている……わかってはいるんだ。でもな、そう単純に割り切れる話ではないんだよ……いや……賢いお前なら、わかってくれているのかもしれないけどな……」
ふう、と大きなため息をついた父が、額に手を当てて、やれやれと俯いた。
「お前もよく知っているとおりだけど……父さんも母さんも、お前が『やらないといけない』と言った剣道や弓道、茶道のこと、まったくわからなかったからなぁ。最初から、ずっと……お前のことを、ちゃんとわかってやれていなかったんだろうなぁ」
父は悲しそうに目線を逸らし、多くの人から憧れられる聡明な頭を、まるで一般人のものと同じようにバリバリと掻いていた。
……父には、とても感謝している。道場に通うことを許してくれただけでなく、勉学だけに専念しなかった俺の成長を『それがお前の選んだ道なら』と、見守り続けてくれていた。
……本当は、今すぐにでも、その憂いを取り払ってあげたかった。数日前までの〝今日〟に戻してあげたかった。自分が、神様や、それに類するものだったなら、その道しかなかったことだろう。
こんな冗談めいた本音を〝嘘〟にすれば、父に安堵を届けることもできただろう――だが、今はひとりの人間であり、風真いろはに魅せられた俺には、それができなかった。
「はは……そんな顔をするな。お前が真面目なこと以外のものに、それほどまで本気になったところを見れたのは……間違いなく、親として嬉しいことなんだよ」
父は、ぎしりと椅子の背もたれを鳴らして、天井を仰ぎながら、何かをこらえるように目頭を押さえた。
「我が子の幸せ……それはね、お前の言葉を借りるなら、親は〝選ぶしかない〟ことなんだ。この許可は……お前に渡せた、唯一無二のご褒美だと思ってくれ。そして……もしよければ、私の贖罪としても受け取ってほしい」
――〝贖罪〟。父の言うことをうまく呑み込めなかった俺が、わずかに首を傾げると……父は苦笑して、こぼれそうなほどの愛を視線に込めてくれていた。
「……ふふ……人生が〝こんなもの〟か。お前に、そんな不幸なことを言わせてしまったのは、私たちだったのだろうな……退屈そうに毎日を過ごすお前を見てきたから、返す言葉が見当たらなかったよ」
父は目を伏せて、大きなため息を漏らした。
「私たちや周りの友達……お前を取り囲んでいたものは、お前の〝人生〟には成り得なかった。そう考えると、全部に納得がいってしまった。私には、読書や絵画という〝楽しみ〟があった。それを〝生きる意味〟とできるだけの価値を見出せた……お前にとってのそれが、その女の子なんだね」
父は俺のスマホを再び手に取り、「やっぱり和風な子が好きなのか」と興味深げに、力なく笑っていた。
「もしもお前が、普段から遊び歩いているようなドラ息子だったら、縛りつけてでも反対したよ。これまでの人生を、優等生として……真面目に、ひたむきに、周囲の期待どおりに生き続けてくれたことに対して、私が用意できた〝報い〟だと思ってくれ」
父の厳しい言いつけを守り、彼が理想とする息子として、ふさわしい生き方をしてきたのかもしれない。けれど、それは……俺にとって当たり前のことだった。〝報い〟――報酬を貰うことなど、考えもしなかった。
同級生がテレビゲームをしたり、動画を見たりして楽しんでいる間にも、勉強と鍛錬を続けてきた。人が嫌がることを率先して引き受け、滅私奉公の精神でクラスや学内のために努めてきた学生時代だった。
学年一位の成績を守り続け、生徒会長としての職務に明け暮れ、友人との交流も積極的に行った。合格報告に参った職員室で聞いた話では……伝統ある国立校でも異例だった、二期連続の生徒会長選任もあり、内申点は上限を超えていたらしい。
「お前の頑張りはよく知っているよ。先生からも聞いているし、ずっと、私の目でも見てきたからね。子供が優秀だということは嬉しい限りだが……ここまで徹底されたことに、親として、寂しさと恐ろしさを覚えるべきだったなぁ……」
たしかに頑張りはしたが――特別なことなどしていない。俺はただ、寄せられた期待に応え続けてきただけだ。
両親からの希望。周囲からの羨望。教師陣からの要望。それら全てを裏切らないために、俺の役目を果たしてきただけなのだ。
「……ふふ……つまらなかったよな……? お前はなんでもできるから……〝人並みの楽しさ〟という、人生で一番充実した時間を……どこでも、何をしても、感じられなかったのだろうね」
……そんなことはない、と思う。これまでの学校生活は、振り返ればキリがないほどの思い出に溢れている。
クラスメイトと燃え上がった体育祭。運営のために四苦八苦して、大成功の打ち上げで胴上げをされた文化祭。大量に贈られたチョコレートのせいでロッカーが破裂したバレンタインデー。〝学校一のマドンナ〟と言われた、現実世界で現役アイドルをしているらしい下級生に告白されたこともあった。
……今日卒業した学校での生活だけでも、この両手では収まらないほどの幸福と充実感に満ちている日々だった。そのことを伝えると、父の顔は余計に寂しそうなものになった。
「そうか……でも、今のお前には……その思い出よりも大事にしている感情があるんだな。その昂りは、お前が今まで感じてきた〝楽しい〟を凌駕するほどに大きくて、躍動しているものだろう?」
父の伸ばしてきた手が、俺の頬に触れる。いつもより突っ張って、少しだけ痛みを感じていた表情を優しく揉まれた。
「その……昂揚と笑みを隠しきれない、〝生きている〟顔を見ればわかるんだ。今まで感じてきただろう、他人が言う〝楽しい〟ではない衝動……きっとそれこそが、お前だけが感じている……本物の〝楽しい〟や〝嬉しい〟という気持ちなんだよ。お前は今、それを初めて知ったんだ」
その言葉で、自分の心臓がさらに高鳴り、頭が冴え渡っていくのを感じた。みんなの言う〝楽しい〟は――他でもないこの気持ちのことを表していたのかと、やっと合点がいった。
これまでの真面目なだけの人生が――俺の未来が、花開いていく。光の木の葉が舞うほどに、爽やかに吹いた浅葱色の風が――俺の魂を撫でたのだ。
「……ははは……悔しいなあ……! 私がどれだけ頑張っても見せてくれなかった笑顔だ……とても良い顔をしているじゃないか……!」
その、父の諦めたような笑い顔が……記憶に残っていた、若かりし日のおどけた顔と重なって、胸に深く突き刺さる。
堅物だったはずの父が、子煩悩全開で「べろべろば~!」と崩れた顔を晒していた。その顔が、どれだけ〝らしく〟なかったとしても……俺にとっては、父が見せてくれていた、大切な表情のひとつに他ならない。
「ふふ……私にだって、若かった頃はある。そういう、身体と心を衝き動かす想いを……熱いばかりに体内から溢れるエネルギーの昂りを感じたこともあるさ。その無鉄砲は、男の子なら誰でも通る〝意志〟の道なんだろうね」
父はおだやかに笑って、少しだけシワが出来始めていた頬を掻いた。
「大人になるということはね、ただ身体が年老いることを指すのではなくて、理解できるものが増えるということでもあるんだよ。だから、私にはわかるんだ……お前の進もうとしている道が、きっと正しくないことも……若いお前は、老人に止められても、鉄の棘に覆われた道を裸足で往こうとすることもね」
――「どうせ許可しなかったとしても、勝手に行くつもりだろう?」。父はそう見透かして、震えていた俺の肩をポンと叩いた。
「……行ってきなさい。お前が行きたい……いや……そんな苦しそうな顔を見せてまで、行かなければいけない場所へ。そのくしゃくしゃな顔だけで……私たちのことを、ちゃんと真剣に考えてくれていたことは、伝わったから……」
俺が持ってきたチケットに目を通し、嘘偽りがないことを全て確認してから……父は、保護者の同意を示す印鑑を捺してくれた。
「ふむ……戸籍や財産、権利が無くなるだけで、『こちらに帰ってきてはいけない』という決まりはなさそうだ。それなら……ちゃんと、盆と正月には必ず帰って来なさい」
――「これだけ約束してくれるなら、後のことは好きにしても構わないよ」。そう言ってくれた父に、心からの誓いを立てて、深々と頭を下げた。
そして、俺は――バーチャルワールドに移住するための準備を始めて、数日後に、この世界から旅立ったのだった。
――――――
「きみが、得島星助くんだね。いつも……息子が、世話になっていたようだね」
「誰ですか? っていうか、急に…………息子……? じゃあ、貴方は……あいつの……」
「そう、父親です。息子から、きみの話をたくさん聞いていたよ。『どんな悪評を被っても変わらず、支え続けてくれた大切な友達』だと」
「僕はそんな立派に聞こえることをした覚えはないです。全部、当たり前のことをしただけ。凄いのはあいつだけですよ」
「功績の話なんてしていないよ。私は、『息子の唯一の友人で在り続けたこと』に感謝をしているだけだから」
「…………感謝されるようなことも、べつに……それに、そうだ。僕は、バーチャルワールドに向かうあいつの背中を押しました。貴方から息子の〝未来〟を奪った大罪人だ」
「ふむ。見方によっては、そうなるのかもね。でも、私には……きみは『息子に〝人生〟を与えてくれた大恩人』としか思えないよ」
「…………いや、そんなことは……僕は、ただ……その、彼に、唯一の方法で恩を返しただけで……」
「ハハハ。きみは褒められることにも、感謝されることにも慣れていないだけのようだね。進学したら少し困るかもしれないから、春休み中に訓練してみようか」
「は……? なんで、貴方が僕に……? そんな義理はないでしょう?」
「義理、ねぇ。それなら聞くけど……きみはどんな義理で息子に声をかけて、ずっと付き合ってくれていたんだい?」
「……それは……彼が、困っていそうだったから……友達に、なってくれたから……」
「じゃあ、同じだ。『きみが困っていそうだったから』。『きみが、私の大切な息子の友達になってくれたから』。きみが息子を助けてくれたのと同じ理由で、息子の代わりに、私もきみを助けるよ。ちょうど、時間もお金も、あの子に使う予定だったものが浮いてしまったからね。何もかも、サポートするよ」
「…………それは、僕の〝せい〟です……そんなものを、受け取るわけにはいきません。あいつに顔向けできませんよ」
「きみの気が軽くなるなら、〝償い〟を兼ねてもいい。私の妻……あの子の母親も、突然の別れで寂しそうにしているから。息子が認めた、大切な友人として……たまにでいいから、うちに顔を出してくれないか?」
「…………食い下がるなぁ……失礼ですけど、ご職業は……?」
「そこの国立大学で教鞭を執っているよ。専攻は宇宙科学。時期は未定だが、バーチャルワールドに在る『SOL』という公的な太陽嵐対策機関の、いち研究員にもなるつもりだ」
「……ハッハッハ……! 親子揃ってチートかよ……!? どおりで、口で勝てる気がしないわけだ……こんなにも恵まれるなんて、どこかで揺り戻しが来るだろう……!」
「『恵まれる』とは、ちょっと違うね。私がきみを助けたいと思ったのは、きみの努力が辿り着いた〝結果〟なんだから」
「………………結果……?」
「そう、過程を経た結果だよ。ただの偶然や幸運ではなく、きみの行動が、あの子や私の心を動かした――きみが人生をやつすように捧げてきた全てが、やっと、報われるときが来たんだよ」
――――――
『あ、やっと既読ついたーっ! もー、遅いぜーっ!いつまで無視するつもりだったのさ!?』
『なにぃっ!? 【時間と生活に少し余裕ができたから暇つぶしに返信した】だとぅ~!? なんだか私、舐められてませんかねっ! しかも熱狂的なファンから!』
『……いや、名乗れるわけないが……!? 立場上、公平を期すために【こういう連絡】しかできないんですから、察してくださいよ、まったくもうっ。あなたなら、言ってる意味、わかりますよね……?』
『っていうかさぁ、何を考えてるんですかっ!? せっかく私がたくさんチョメチョメして用意した、バーチャルワールドへのプラチナチケットを他人にあげちゃうなんて! せっかく、我が王国でハッピーだらけの人生を送ってもらおうと思ったのにっ!』
『……まあ、それも〝あなたらしい〟のかもしれませんけどっ。次のチケット用意できるの、最低でも五年はかかりますよ? まだかなりの時間がありますから、その期間は――』
『…………え? 【この連絡だけで満たされた】? でも、あなたは……その、なんだ……? 私にさぁ、直接……こう、なんか……言いたかったこととか、あるのではないのかねっ……?』
「……【これからもずっと、みんなのアイドルとして輝き続けてほしい】……? 【こっちの世界で、君と一緒に頑張りながら応援している】……?」
『……【それで十分だから】……あー、はいはい、なんとなくわかったかも……。その言葉……全部、〝私のため〟ですね……?』
『いやそこでわかりやすく動揺するんかーいっ! 台無しだよっ!! つーか文面なんだから平静ぐらい装いたまえよっ!』
『……しっかしまあ……そーですかっ……。あなたはどんな道を辿っても……最終的に、同じところに辿り着くんですね……筋金入りのおばかさんめっ……!』
『……まあ、でも……うん、わかりました。気持ちは受け取ったっ! それじゃあ、あなたは……過去も、現在も、未来も……変わらず、我が王国民のひとりですっ! こっちに来たときには、徹底的にもふもふしてやるぞぃっ!』
『つらいことがあったら、いつでも〝窓〟を覗いてくださいねっ。私がいっぱい、いーっぱい、うおおおっ!ってなるぐらいの元気をあげますのでっ! その代わりに、私のことをずーっと応援してくださいっ♪ 浮気すんなよっ!!』
『……それにしても、あなた……〝星〟を〝助〟ける、だなんて……運命みたいで、いいお名前じゃないですかっ! あなたは、そういう星の下に産まれたのかもしれませんねっ♪』
『名前、変えようだなんて思わないでください。あなたは、あなたらしく生きてください。それだけが、私の〝欲しいもの〟ですっ♪』
『だから、お互いにがんばろうねぃっ! たくさん頑張ったら――いつか、必ず、いいことが起こるからさっ♪』
――――――
――数日後。俺はチケットを使い、現実世界とバーチャルワールドを繋ぐゲートにやって来ていた。
ここまで〝全て〟をかなぐり捨てて、酷い思い込みと、ただの気のせいだったとすれば、笑えもしない大失敗なのだろう。
……それでも、思うのだ。これぐらいの覚悟がなければ……『これほどの誠意がなければ、彼女に会うことすら許されなかったのだろう』と。
そんなことを考えながら、何重もの慎重な手続きを進めていくなかで、画面にエラー発生を告げる文言が表示された。
「……あれ、おかしいですね……。たしかにバーチャルワールドへの渡航歴がない人なのに、ジーン・スパイラルが登録済みになっている……? すみませんが、貴方のDNAデータには既にアバター情報が紐づけられているようなので、新規登録という扱いにはできませんね……」
厳しい顔で画面とにらめっこをしている女性に説明を聞くと……現実世界からバーチャルワールドに入るためにはアバター情報――つまりバーチャルワールドで生きる〝身体〟が必要らしい。
本来であれば、初めてバーチャルワールドに踏み入るはずの俺は、その情報を新規に登録する必要があるというのだが……どうやらそれが不要だというのだ。
「……しかも、なに……?この遺伝子情報の正確さは……? まるでヒトゲノムマップをそのまま写したような、本人としか思えない身体の組成を再現できるなんて……! こんなことがあり得るの……!?神話上で聞くような〝神の祝福〟とか、そういう類の奇跡よ……!?」
女性曰く、本人情報をアバター化する際には、『外見を模する』程度であれば今の科学でも十分に可能だが……遺伝子・心魂レベルで同一個体として再現できることは絶対にないはずなのだという。
素人である俺に難しい話はよくわからないが……とにかく、〝自分自身〟としてバーチャルワールドに入ることができるようだ。
「初めてバーチャルワールド入りする人に〝これ〟を言うのは変だと思いますが……一応、登録済みの方には必ず告げるあいさつなので――『おかえりなさい、もうひとつの世界へ』」
現世から見送られ、異なる世界へ自分の身を放り投げる。心の中に根深く残る、後ろ髪を引かれる想いを断ち切るように。
その瞬間――世界から、重力が消え去った。自分を縛っていたものが消え去り、縦横無尽に〝自由〟が広がり――どこか懐かしい感覚に包まれる。
――蕾が花開くように、クリアになっていく思考の中で、返り血で錆びついた記憶が蘇っていく。自分の浅い人生の中で経験したものとは思えないほどに、重たい苦難と、溢れんばかりの愛しさに溢れた想いだった。
鋼鉄の大群を薙ぎ払い、炎の雨を退け続けた空の戦場。背に守りしは、海に鎖された小国――豊かな自然と不思議な力の中で、身の丈に応じた小さき一歩を重ねて……歩くような速さで成長する尊き者たち。
……自分の心身で、理解できる。かつてこの手で守り通そうとしたものが――生きとし生けるものの〝今日〟は、今もこの世に続いているのだと。
何も知らないはずの俺の心が、そう確信して――前も後ろも、上も下もない世界で――まっすぐに手を伸ばし、自分が目指す方向に進み続けた。
――――――
光と音が歪むゲートを通り抜けた俺は、今まで見てきた世界とほとんど変わらないように見える場所で――確かに異なる風の香りを感じていた。
土に触れる。光の温もりを肌で感じる。葉擦れの心地良い音を聞く。その全てが、生身で感じたものとして身体に入り込み、胸をむず痒くさせるほどの懐かしさを覚えさせてきた。
俺は、画面の向こうから見ていたような、やけに整った容姿の人々に〝彼女〟の所在を聞いて回った。道に迷いながら、どうにか科学的な都市部に辿り着く。
空想はできても、現実世界では実現できないような……きれいで技術が進歩した町並みを歩いていると――曲がり角から、走ってきていた女性とぶつかってしまった。
「あっ、ごめんなさい……! 収録に遅れそうで………………えっ……!?」
その、人目を避けるように帽子を深く被った、長い栗色の髪を揺らす少女は――どこかで会ったような気がした。
お互いに、古いような、新しいような、よくわからない既視感を覚えながら視線を交わす。すると、その人は……うっすらと口角を上げて、来た道の方へ指を差す。
「ふふっ……♪ あの子が向こうで、ずっと――〝竜〟を待ってるよ」
彼女はそう言って、俺とは違う道を行ってしまった。既視感への問いも、案内のお礼も言いそびれてしまったが……また、どこかで会えるような気がした。
俺は案内に従い、都心部から外れていくような道を進んでいく――やたらと自己主張が激しい建物の前で、退屈そうに立っていた羽織の少女と、おとものタヌキを見て――世界に流れていた時が止まった。
「えッ――――う、そ……?」
……いや。最初から止まっていた世界の在り方に、ようやく、自分の感覚として気づいただけなのかもしれなかった。
同じ想いを抱いているのか……少女はこちらを眺め、目を見開いて硬直する。その隣で、おとものタヌキが笛として吹いていた葉っぱを取り落とし――ひゅるりと吹いた風に、退屈ごと攫われてしまったようだった。
「………………お……おやかた、さま……?」
初めて、生で聞いたはずの声なのに。どうしてこんなにも――懐かしくて、愛おしく感じてしまうのだろう。
名前は、既に知っている。『どう呼ぶべきか』は、知らないはずだった。
それでも、俺は――〝おれ〟は――湧き上がる涙の熱に世界を歪ませながら、ずっと会いたかった彼女に、手を伸ばしながら告げたのだ。
「――〝ただいま〟……風真」
初対面のはずの相手なのに、何故、こんな、不躾な呼び捨てが自分の口から出てきたのかはわからない。
けれど……感じているのだ。この心が――紡いできた魂が、彼女との間に、愚直に結び続けた〝繋がり〟を。定められた宿命が次元すらも歪めて、『絶対に再会できないように』、お互いの世界が構築されていたことを。
気取らずに、作らずに溢れてきたその〝想い〟は……今まで噛み合わなかった世界の一挙一動を全て重ねても及ばないほどに、自分の気持ちを的確に表していたと思う。
……俺が望んでいた言葉だった。そして……彼女が待ち続けていた言葉だと、昂る心が教えてくれていた。
「…………お……おみやげ、は……?」
突然繰り出された、なぞかけのような問いに、どんな意味があるのかはわからない――だが、自分は『憶えている』。
俺は――おれは――待たせてしまった彼女にかけるべき唯一の言葉を、確かに憶えているのだ。
――『神は嘘をつかない』。出会ったばかりの頃から――大切に想う気持ちは、ずっと、変わっていないから。
「…………見てのとおりだ。風真の顔が一刻も早く見たくて……寄り道をせずに、帰ってきたんだ……!」
「……あっ………………あ、あぁ……!! おやかたさまっ……!! お屋形様ぁあああああああああああああああああッ……!!」
おれの言葉を聞いて――顔をくしゃりと歪めて、迸る想いを全部ぶつけるように飛びついてきた彼女を抱き留めた。その時――世界に刺されていた杭が抜け、止まっていた時が再び流れ始める。
何百年分もの想いを乗せた突進は、同じだけの気持ちがなければ受け止められなかったことだろう。星同士がぶつかるほどの衝撃を分け合って、身体が弾けてしまいそうな量の感激を膨らませていく。
「おかえりなさい……おかえりなさい、お屋形様っ……! ずっと……足りなかった……!ずっと、会いたかった……! かざまは……かざま、は……わぁああああああんっ……!!」
泣きじゃくる彼女を抱き締めて、もう二度と放したくない温もりをこの胸に繋ぎ留める。そして、どちらからともなく、求め合うように唇を重ねて――生まれてしまっていた何百年もの空白を、相互の想いで埋め合うのだった。
――――――
『元気にやっていますか? 大人よりも立派なあなたのことだから、そんなに心配はしていないけれど……母親として、やっぱり、どうしても気になってしまいます。
こちらは変わりなく過ごしています。あなたぐらいまじめな星助くんが週に二回は顔を出してくれていますが、お父さんと二人のおうちは広く感じます。あなたが旅立ち前に、星助くんのことをお父さんにお願いしてくれて、お母さんもすごくありがたかったです。
いつもどおり、お部屋でバーチャルワールドのお仕事をしていると、あなたが進学したときには、同じような寂しさを感じたのかな、と思うこともあります。でも、その未来は、私たちにとっては理想的かもしれないけれど、あなたはきっと退屈していたのかな、と思うと、これでよかったのだと思います。
元気に家を飛び出して、画面の向こう側に旅立ったあの日のように。あなたは、自分の人生を、自分らしく生きてください。それで、もしよかったら、いつでも帰ってきてね。お母さんは、いつでも待っています。
ああ、そうだ。お父さんがね、剣道を始めました。あなたが師範代を務めていた道場で……ちっちゃい子と一緒に、先生から基本中の基本を習っているそうです。竹刀って、見た目より重たいみたいですね。
【今度会えたときには、あいつの気持ちをもっとわかってやりたいから】ですって。お父さんに付き合ってくれている星助くんも一緒に、毎週汗臭くなって帰ってくるので大変です。でも、どうしてか、それがとても楽しいです。
命よりも大事な――ううん、あなたの〝命〟そのものである、いろはさんによろしく伝えてください。あと、次の年末年始も、ちゃんと一緒に帰ってきてね。バーチャルワールドの人がこっちに来れる、クローン技術を応用した精緻な実体化……たしか、〝ウェニキス〟だったっけ? 本当に、いい時代になりましたね。
あと、早いとは思うけど……初孫が出来たら、ちゃんと報告してね。お父さん、ずっと気にしているから。【孫とも一緒にお酒を飲みたい】って。お誕生日のウイスキー、付き合ってくれてありがとうね。お父さん、ずっと楽しみにしていたから。
それじゃあ、元気でね。何かあったときには、お母さんとお父さん……それと、大切な友達にも連絡してね。みんな待っています。
離れていても、ずっと、あなたのお母さんより。』
――――――
永遠に散らぬ木の葉など、命として正しい在り方ではないでしょう。その歪みは正され、花はほのかに色めいて――〝輪廻転生〟を経た命と共に、温かな実を結びました。
こうして、再びふたつの生を謳歌するために紡いだ愛が、小指同士を絡めた繋がりに宿る温もりに変わって……離ればなれだった運命を、ひとつに繋ぎ合わせていきました。
……この世界の流れは、時代に取り残されていた私たちには、少し早すぎると思うばかりなのですが。目まぐるしく変わる景色に流されそうになっても――こうして、強く握ってもらった手に支えられているのですから、どこかにはぐれることはないでしょう。
「ふふ……今日も良き天気でござる! お屋形様、今日は何をしましょうか?」
「そうだなぁ。風真と一緒に居れるなら、なんでもいいかなぁ」
「えへへ……もうっ♪ そういうのが一番困るんですから! かざまも、同じ気持ちですけどね!」
私たちが静かに暮らす、スマート家具だらけの山奥の庵(風の最新家屋)。藁葺屋根(っぽく見えるもの)をさんさんと照らす陽光は、未来を照らす温かみに満ちていました。
私は相も変わらず、holoXの用心棒として、ぽこべぇと一緒に日銭を稼ぎながら配信活動をして、お屋形様と一緒の日々を過ごしています。あの一件で隊士の人は少し減ったけれど、今も応援し続けてくれたり、お屋形様との再会をたくさん祝福してくれたりした皆殿のために、いろいろと頑張っています。
お屋形様は、持ち前の頭脳と武力を行使して、この世界によく流れ着く幻想的な怪物を討伐することで大金を得ています。それこそ、私たちの平凡な生活ではとても使いきれないほどに。今の時代に命を危険に晒せる人は貴重なせいか、やっぱり、お屋形様はモテモテです。私の旦那さんですけどね!
これからも、ふたりと一匹で、一緒に暮らしていこうと思います。これまで見送ってきた〝時〟よりもはるかに短く、尊いばかりの一生を。
宙に舞う二葉を重ねるように、いつか枯れるそのときまで――ゆったりと――。
おわり
あと一回だけ、おまけを更新して完結です。