お守りを作り終えた後のこと。井戸の底のような息苦しい閉塞感に穴をあけてもらい、少しだけ前に進めた私は――お針箱を片づけたハマのおばちゃんと一緒に、竜皇の祭壇へと参りました。
――竜皇の祭壇。イサリビの北側に位置する此処に祀られる神様は『律神・アスラ』様――私がこれまで、慣習や使命に順ずるかたちでしか触れてこなかった御方に頭を下げ、祈りを捧げました。
「先日お参りしたばかりだろうに」と言われたのですが、私はどうしてもお参りをやり直したかったのです。心から神仏に向き合い、信じるということに――きちんと、自分なりの〝意味〟と〝意義〟を見出して。
お屋形様の指導を受けているときも、私は何度も同じことを注意されておりました。言葉を聞き、その時には気持ちを入れ替えたように思えても、実際にはまだ身についていないことが多かったのです。
その、わりと立派だと思われる気持ちを正直に話したのですが――。
「おめさんのさ、そういう『こうしなきゃいけない!』、『だからこれやっときゃいいんだ!』みたいなのは良くないトコだなあ。安直で視野が狭いんだよお」
――なんかものっそいシンプルに苦言を呈されたのをよく覚えています。まあ、その愚かでもまっすぐな気持ちは汲んでもらえたようで、とても温かい目をしたおばちゃんに頭を撫でてもらいました。
「ねえ、おばちゃん。今さらこんなことを聞くのはおかしいと思うけど……この竜皇の祭壇って、そもそもどういう物なの?」
「これはね、〝八武〟っつう神様たちに祈りを捧げる場として、イサリビが出来た頃にミヤ様から授けられたモンなんだよ。あたしら巫僧の一族には〝橋〟っていう異名も伝わっているねえ」
「橋……いや、どう見ても橋には見えないけど……何か意味があるのかな?」
「だろうねえ。ここから祈りを捧げるアスラ様は、何処かの国に〝本殿〟が据えられていてね。この橋は、民の願いをそこに伝える役割があると言われているんだあ」
「ふむふむ……橋と本殿、か。でも、八武の神様ってもう居ないんだよね? お屋形様からもそう聞いたんだけど……」
「あァ、まァ、正確に言うと、そうなっちまうなあ。八武様への信仰は『元々あった宗教や思想と結びついて習合した』り、『信仰者が居なくなったからこそ喪失した』りしたから――今残ってるのは、もう竜禪の前身であるナァガ様だけっちゅうことになるなあ」
「……ナァガ? もしかしてそれが、お屋形様のお名前だったりする?」
「さァ、そこまでは知らんねえ。あの御方は、御自身のことをほとんど話してくださらんからなあ……」
「あはは、それはたしかに……。私も毎晩いろいろとお話をしてもらうけど、お屋形様の話なんて…………」
その時――私は何年も前に、お屋形様が口を滑らせるように言い聞かせてくれたことを思い返しました。
国を治める武家のこと。この世を守るソウリョクのこと。そして、水を司る〝龍神〟への人身御供として急流に投じられ、生き残り……『奇跡を起こした神子』として祀られるようになった、御自身のことを。
「……おばちゃん。此処で祀っているアスラ様が律神なら……ナァガ様って、龍神って呼ばれていたのかな?」
「おお! よくわかったなあ! そうさね、難しい方の字の龍神さまだよお!」
「……じゃあ……八武の一角の伝承になぞらえて起こった〝死なずの奇跡〟をみんなが信じて、ソウリョクが生まれて……今のミヤ様になったのかな……?」
「ほほお! ヘビちゃん、ミヤ様の使いらしく面白ェこと言うなあ」
「へへ……えへへ!まあね! 私、いろんなことを教えてもらってるからね! なんて言ったって〝神の使い〟だし!」
「まァたすぐに調子に乗ってなあ。そうやってナマばっかこいてっから、なかなか大人になれないんだよお」
「ぐふう……! 今日のおばちゃん、なんか当たりが強いよぅ……」
伸びた鼻をぽっきりと瞬殺された私は、いつもより近くに感じるおばちゃんの言葉に、素直に耳を傾けます。
……今思えば……この時初めて『私から』イサリビの人に深く関わろうとしたから、彼女はその気持ちに応えてくれていたのだと思います。
「ミヤ様はこの話を嫌がっからナイショだけど、補足のためには仕方ないさね……あの御方は、神道と習合していた天神『ディヴァ』様が滅びたときに〝宮〟の座に就かないといけなくなって、しぶしぶ〝竜皇〟になったって話だよお」
「神道と、ディヴァ様……? 神道ってたしか、ミヤ様のお社にあるアレ……そうだ、鳥居が使われていた宗教だよね……?」
「そうよお。昔には、その二つを軸にした〝天崇〟っていう、竜禪とタメを張るようなね、それはそれは大きィな宗教があったんだけども……それが失われて、今に至っているというわけさね」
「ははあ……じゃあ、その他の八武の神様はどうして失われたの?」
「さァねェ、そこまでは知らんねえ。天崇が無くなった『天竜の乱』まで各地で細々と信仰されていたんは間違いないけども、それ以降は文献にも残されておらんから……信仰地の人間にでも聞かんとねえ」
「……信仰地の人間……か……」
お屋形様によれば、武家の一部には竜禪信仰とヤシャ信仰を習合した〝教え〟を守る者たちがいたといいます。そして、その最後の一つが――。
「……風真家でお守りしていた、この刀……ヤシャ様の御神体なんだって」
「へえ、御神体ねえ……御神体だあ!? あァ、それでかい! あのぼろぼろになったヤシャ様の祭壇を『畳むことができた』のは!」
「……え……? できた、って……べつに、祭壇を壊すだけならいつでもできるんじゃないの……?」
「そらァ、あたしら人間はそうだよお。でも、ミヤ様にはできんかったろうね――神様が人の営みに関わると、俗世の欲で穢れて〝災い〟になっちまうからねえ。数百年前に御自身が据えたとはいえ、民に与えたはずの祭壇は壊せんさ――人間から〝おかえし〟せんことにはね」
おばちゃんが言った〝おかえし〟という言葉には、どこか聞き覚えがありました。たしかそれは、イサリビの宮大工に祭壇を壊してもらったときに……私の口から言わされた単語だったように思います。
『役目を失ったものは、もう必要ないだろう』――石棚が崩される様を見守っていたお屋形様の横顔は、幼い私の目にはとても寂しそうに映っていました。
「……そう、なんだ……。じゃあ、あの日輪の花の祭壇みたいな、もう誰も管理できない場所も……畳みたくても、畳めないんだ」
「……日輪の花……それがイサリビの東で日の出を拝む、ディヴァ様の祭壇さね。その地に住む人の子が心をこめてお手入れせんといかんから……あたしにはどうもできんねえ。ごめんねえ」
「ううん、大丈夫……でござる! 私がちゃんとお手入れしてるから!」
「うっふっふ。そうかい、そうかい! それなら……あァ、それなら、心配ないねえ」
おばちゃんはにっこりと笑って、私の肩に何かを託すように優しく叩きました。
その和やかな空気を吹き飛ばすように――ひと際大きな、何かが破裂した音が聞こえます。
「……戦いの音だ……! お屋形様、大丈夫かな……?」
「だんだんと襲撃の頻度が上がってきとるし、一日に聞こえる金物の音も多くなっとる気がするねえ。あばずれ女たちもそこいらをうろついとるし、ヤな世の中になったもんだよお」
「うん……おばちゃんも気をつけてね。あいつら、イサリビの中でも男漁りしているみたいだから」
「ったく、卑猥で小ずるい奴らだよお! ミヤ様が――竜禪が『無理強いできない』って理解していながら、人の心の弱いトコに狙って付け入ってんだから!」
「あ……そういえばさ、お屋形様がイサリビに固い法を敷かなかったり、国に厳罰化を言い聞かせたりしないのって、神様が人の営みに関わってはいけないからなの?」
私はお屋形様の消極的な態度を思い出し、ずっと気になっていたことを尋ねました。
おばちゃんはぷんすかと怒りながら、腕を組んで首を横に振ります。
「まったくの別モンよお。竜禪は『他人の暮らしを害すること』っちゅう、最低限の罪だけを罰するからこそ〝竜禪〟なんさね」
「……でも、それだと大雑把すぎない……? もっと『卑猥なのはダメ!』とか、細かく決めたらいいのに」
「おめさんの言うこともわからんでもねえが……大雑把で、小難しくなくて、それでもミヤ様と武家が暮らしを守ってくれる。そんなだから、いろんな垣根を越えて信仰されているんだよお」
「ううん、雑だなぁ。『自分の暮らしを守ってくれる〝何か〟さえいればそれでいい』って言ってるようなもので………………あ……」
「……そういうことさね」
そこでようやく、おばちゃんが『人の我儘そのもの』と称した竜禪の現状に――お屋形様が『何も言わない』ことの意味の片鱗を垣間見たように感じました。
他の信仰と習合しながら同一化した竜禪は〝大雑把な民の総意〟で、その信仰の対象であるミヤ様は〝曖昧な神の偶像〟だったのかもしれません――そして、『信じやすかった』からこそ多大なソウリョクが生まれ、〝竜禪〟と〝ミヤ様〟は成り立っていたのでしょう。
「あたしらは皆、『今日が永遠に続いてほしい』と願ってきたんさね。そんな我儘にひいこら付き合ってくれてんのがミヤ様なんだ――あたしらが信じるのは当然の義務みたいなモンだよお」
「…………うん。おばちゃんの言っていたこと、やっとわかってきたよ」
「……そうかい。それならもう、おめさんも立派なイサリビの人間だねえ」
……此処に来たばかりの頃から良くしてくれたおばちゃんには、全部バレていたのかもしれません。
今までのことも全部含めて……おばちゃんは、これまでで一番嬉しそうに口を緩ませていました。
優しくて温かな……そう、とても〝イサリビらしい風〟が吹き抜けます。その最中でも、あの大太刀や爪が鋼鉄を引き裂く音が続きます――まるで、この平和が『どうにか守られている』のだと、皮肉ながらに裏付けるように。
「……あんなに大きな音が聞こえてきて、皆は怖くないの? お屋形様が負けるかもって、不安にならない?」
「あの御方が負けたときは、この世の終わり。それだけだねえ」
「そ、そんな簡単に言えることじゃないと思うけど……」
「そらあ、簡単に言ってないからねえ。ミヤ様にはたぁッくさん苦労をかけててさァ、なんもかんもを押し付けてるって、自分でもわかってるのよお……だからね、ミヤ様が居ない今日に――あたしらが生きる資格なんてないんさね」
「………………強いんだね、みんな……」
「そうじゃねえ。弱ェからこそ、強い覚悟で祈るんだあ」
海の方面に向かって真剣に祈るその横顔を見て、私は、イサリビに暮らす人たちが『ミヤ様に全てを押し付けている事実』の裏側を知ったような気がしました。
ハマのおばちゃんのような敬虔すぎる信者も、欲望に揺らいでしまう浅慮な信者も――等しく信心を持ち、いつでも捨てることができるものこそが〝竜禪〟なのだと、ようやく肌身で思い知ることができたのでした。
……………………。
ハマのおばちゃんから「〝使い〟様へのお供えモンだ」と追加のお団子を貰ってから、私はイサリビの中を見回りました。
仕事ができない状態でも「お屋形様が勝つ」と信じて網や釣り竿の手入れをし、次の日に海へと繰り出す準備を続ける漁師たち。暑い中で汗水を垂らしながら談笑し、水田や畑での作業を続ける農夫たち。鞠を蹴って遊びたがる子供たちを捕まえて、ミヤ様に祈りを捧げるように躾ける親御さん。イサリビの外から持ち込んだ伝統を潰えさせないように、仕事を通して弟子に技を継いでいる工芸士。
一日中走り回れば全てを巡れてしまうだろう、とても狭くて小さな世界。ウェニキスたちが説く〝正しさ〟を否定できない、退屈で刺激のない毎日。
――此処に広がるものは、もしかしたら、正しくはないのかもしれません。それでも、私は――夏日を浴びる身体と、爽やかな風の気持ちよさを感じる心で――『この場所が好きだ』と、心の底から思いました。
「まァまァ!ヘビちゃん! どしたんだよォ、こんなトコでキザったらしく悟っちゃってさァ! 悪ィモンでも食ったんけ?」
「あ、おトイさん。こんにちは――って、それはさすがにあんまりすぎる物言いではござらんか……?」
「がはは! 冗談に決まってっぺや! よぅ来たな!」
ハマのおばちゃんの次に付き合いが長いおトイさんに誘われ、私は貰ったキュウリをかじりながら、畑や水田が段々と続いていく坂道を上っていきました。上から下へと流れていく用水路のさらさらとした音が心地良く、瑞々しい夏野菜の味わいをさらに深めてくれました。
「……わぁ……!」
人が暮らしやすい平地に生活圏が集中しているため、小高い畑地からならイサリビの町並みを見下ろすことができます――後ろを振り返った先にある眺望は、とても〝良い〟ものでした。
歴史ある木造の建物。きれいに踏み固められた土の道。働いたり、道を行き交ったりする人々……きらきらと降り注ぐお天道様の煌めきが、これまでに触れてきた〝人の営み〟を静かに見守っているかのようで……じいん、と心に残る絶景になっていたことをよく覚えています。
私はその光景を目に焼き付けてから、ずんずんと進むおトイさんの後を慌てて追いかけました。さあっ、と抜けた風が、張った水の上で青々と揺らめく稲を波立たせ、実りを蓄える畑へと抜けていく――その様子は、まさしく〝夏〟を感じさせます。
「こうしてな、目立って仕方ねえ山地を拓いて田畑にできんのも、ぜェんぶミヤ様のおかげだあ。ありがたや、ありがたや」
「他の所ではこんな風にできないの?」
「んだや。昔はちィっとばかしできたみてェだけんども、あのにっくき鉄の火槍がな、ゴォーっと降るようになったんが『〝ながきもの〟の天罰だ』ってんで若モンが逃げちまってな、でっけェ山里はみィんな潰れちまったって聞くなァ」
「そっか……見えなくなっても、危険がなくなったワケじゃないのにね」
「まあなあ。でもよ、人ってのァいつだってそんなモンだべ。目に見えなきゃすゥぐ他人事なんさ」
「……むぅ……私も視野が狭いみたいだから、気をつけないとな……」
「がっはっは! ヘビっ子よ、ハマコに会ってきただか! あんの若作りめ、わっぱに余計なことさくっちゃべってからに」
「よ、よくハマのおばちゃんだってわかったね……っていうか、おばちゃんってそんなに若作りかなぁ? わりと年相応というか、四〇歳前ぐらいに見えない?」
「なァに言ってんだい! ハマコもおらも、今年で五四歳だよお」
「…………え……? いやいや、そんなことは……冗談だよね……? だって、そんなに元気なのに……」
「冗談なんかじゃねえさ! コロタのじじいなんて七〇を超えてっけど、ほれ!あんなにピンピンして畑さいじくってらあ! まだまだくたばんねえわ、ありゃあ!がはは!」
「コロの爺さん! ヘビっ子が来たよお!」と、おトイさんが軽快に笑いながら、遠くで農作業をしていたコロ翁に手を振りました。
コロ翁はとんとんと腰を労わりながら顔を上げ、「おおーい! 野菜やっから後で寄ってけえ!」とこちらにぶんぶんと手を振り返します。多少痩せているとはいえ、平均寿命を二〇歳も超えている人だとは思えないほどに健康的な姿でした。
「……キョウの寿命が五〇歳ぐらいのはずなのに……そんなことある……?」
「そうなんけ? ヘビっ子、そらあ何処から聞いた話だ?」
「え、っと……それは……」
私はおトイさんに、ウェニキスたちから聞いた話と、それをお屋形様が認めたことを全て話しました。
あまり興味はなさそうだったのですが……おトイさんはうんうんと頷いて、真剣に話を聞いてくれました。
「ふうむ。おらはバカだし詳しくもねえけどよ、そいが〝全部〟って感じはしねえなあ」
「……全部じゃないって、どういうこと?」
「だってよお。たしかにおらたちァ余計な飯を食わんけっど、ひもじさなんて感じたことあるけ? 夜のお膳にゃいくつも小鉢を並べて、おひつをドカッと重たくするしよお、腹が減ったらこうして間食すっから『三食も要らん』べ?」
おトイさんは、山から流れる清らかな小川で冷やしていた野菜をかじって、私にもおすそ分けをしながら続けます。
「みんながみんな竜禪を信じてた頃はなあ、はざまでも食いモンさ困るこたァなかったって話だ。真面目に働いてよ、嵐やら敵やらに負けねえようにミヤ様に祈ってよお、それだけでえがったんだあ」
「……みんなが働いていたら……そっか、基本的に働かないといけない、国やイサリビみたいな状況になるんだよね」
私にとってはただの日常だった、故郷やイサリビでの暮らしを改めて思い返します。
勤勉に働くことを良しとする地域では常に農業が営まれており、天候に左右される〝出来〟を調整するために、国では税を設けて食物を管理し、イサリビでは農作物を融通し合っていたのです。
「人が生きてりゃさ、良ィ日もありゃあ、悪ィ日もあらァな。そいな山と谷を、人の繋がりで埋めてんのが、国やらイサリビやらの〝社会〟なんだっぺ。そいなこと、バカなおらでもわかってらあ!」
散財できるほどに潤沢とは言えないけれど、痩せ細るほどに苦しくもない、とても〝平たい毎日〟。人間が主体的に集まって作り上げる安寧――それを守る土台となるものが、竜禪信仰を通じて得る〝教え〟や〝規律〟なのだと、私はこのときに実感しました。
私は再び、平野に広がるイサリビを眺めて、貰ったばかりの自然の恵みをかじります。先ほども見たばかりの景色なのに、考え方が少し変わっただけで、世界が一気に変わったように見えて――心にこびりついていた不安が洗われて、空いた場所に希望が満ちていくようでした。
「国や故郷を失くした流民だってよ、ミヤ様のお膝元で真面目に生きてりゃあ同じ家族だ、おらたちが飢え死になんてさせるわけねえさ。仕事が育たねえって、漁に畑に大工に細工、鍛冶やら工芸だっていくつもあるべ?」
「……たしかに、そうだよね。やっぱり、ウェニキスたちが言っていたこと……何かがおかしいのかも……」
つい先ほど間近で見てきたイサリビの風景は、間違いなく、宣教師が罵っていた現状とは異なっていました。
しかし、お屋形様は『此の地の貧困も衰退もどうしてやることもできなかった』と言っていたはずです。あの御方が嘘をつくとは思えなかったのですが……。
「……ミヤ様はよ、竜禪を捨てたバカモン共のことまで考えてんでねえか?」
「……信仰してくれない人……はざまの地のことも? それってもう、竜禪とは関係ないんじゃないの? いわゆる、そのお、管轄外っていうか……」
「んだ。そいでも、あの御方ならなァんも不思議はねえさ。ミヤ様は『此の地唯一の神』だかんな、〝世〟を憂うときに〝イサリビだけ〟を想うとは思えんど」
「…………あ……」
ハマのおばちゃんと交わした話を思い返すと……お屋形様自身や竜禪の位置付けが曖昧なものになっているなかで、世代をまたぐたびに信仰の意味合いがズレていったのは間違いないようです。
信仰の真価を感じられず、売春や賭博といった〝禁じられた刺激〟に誘われて棄教する人も増えていったのでしょう。そして、はざまの地に住む人間が多数派となっていったことで働き手も減り、各地で慢性的な飢餓が起きてしまったのかもしれません。
「暮らしも畑と同じだいね。急にそこらへ種さ蒔いたって実は結ばねえ。そいなこともわからんで『竜禪なんて要らねえ!』なんてよ、そらあバチも当たっし腹も減るべさ」
「あはは……手厳しいでござるな……」
「厳しかねえど! 一人の力で生きれもしねえ若モンが勝手に甘えて勝手に腐っとるだけだべ!」
お屋形様に不敬を抱いてしまった私だからこそ、世話焼きなおトイさんの乱暴に聞こえる言葉が深く沁みました。そして、『意味もわからずに習慣に従うこと』の言いようもない窮屈さを感じて、別の道へ逸れていった人たちの気持ちも……やっぱり、わからなくはなかったのです。
謹直と節制で築いた社会と安寧。安直に刺激を求めて得た快楽と解放。そのどれもが人の選択から続いており、前者を選ぶ人が少なくなったのが〝今〟ということなのでしょう。たしかに、良いも悪いもないのかもしれません。
彼女たち宣教師が本格的にやってきたのは、ここ一〇年ちょっとの話だと聞きます。そうであれば――なるほど、たしかに唯一の宗教である竜禪は節制を良しとする少数派ですし、棄教した者たちの荒れた振る舞いを認める異教からは〝諸悪の根源〟と認められるのも自然です。
宣教師たちの言葉を聞いたお屋形様は、『時の流れの中で竜禪に価値が見出されなくなったこと』を認め、多数派となった俗人が招いた『此の地の貧困と衰退』を否定しなかった――やっと、そのように考えられました。
「……そういう、ことだったんだ……。お屋形様もハッキリ言ってくれればいいのに……そうしたら、こんな回り道をしなくてもよかったのにな……」
「無茶言うでねえよ。竜皇ったって、あの御方は〝王〟ではねえさ。ふんぞり返って人を導くでもねえ、悟ったように善を語るでもねえ――ただおらたちを静かァに見守って、黙って虫を掃ってくれてんだべ」
「…………ごめん、たしかにそうだね。きっと、皆がお屋形様を信じているように……お屋形様も、私たちを信じているんだよね」
「がはははは! やっと〝らしく〟なってきたでねえか、ヘビっ子よお!」
「ぶふうっ! ちょっ、まっ……キュウリ落ちちゃうって……痛い、痛い!」
おトイさんにもバンバンと肩をどつかれ、私は叩かれた場所からじんわりと広がる温もりに、成長による痛みを感じることができました。
イサリビの人たちの優しさだけでなく、厳しさにも触れた私は……おトイさんやコロ翁からたくさんの野菜を押しつけられて、大荷物でお社に戻ることになりました。
『これが大人になることの〝重み〟なのだ』と思い込もうとしたのですが……このかぐわしいばかりの重量感は、絶賛成長中の身体にはやや重たすぎました。
さすがにちょっとだけイヤになりかけましたが……この物理的な苦労は、言葉を上手く噛み砕くのが苦手な私にも『目に見えないものを含めてたくさんのものを得られた一日だった』と、わかりやすく実感させてくれました。