部活も無い日曜日、誰もいない教室棟を上がっていく。栄明は運動部こそ盛んだけれど、それ以外は一段劣る。わざわざ休みの日に教室まで来るようなのは、滅多にいないというわけだ。――だからこそ、なんだろう。そうでもなければ、呼び出しに使ったりはしない。特にこんな用件では、本当に。
階段を登りきって後は屋上へと向かう踊り場、そこに小さな影が動いて見えた。ああやっぱりいつも通り、少しだけ早く来ているんだな。
短く纏められた茶色の髪、俺より若干背が低いその女子は、こちらを見つけて微笑む。
「ごめんね、毎度日曜日でさ。普段はバスケでなかなか時間とれないから、ってそれは私の都合だね」
謝る事じゃないですよ、と俺はぎこちなくも微笑んではみる。その声は耳に心地好いけれど、まるで甘い毒のように染み渡る。自分が今までした、そしてこれからする事への罪悪感は、それによって溶かされていくのだ。
それはきっと、言った本人も分かっているのだろう。
無邪気な笑みはわずかずつ妖しさを帯び、雑談を交わしながら少しずつ声のトーンも変わっていく。
「じゃあ今週分の
腰を下ろしていたマットから立ち上がり、
切っ掛けは、一月の事だった。
部活が思ったより早く終わり、でも母さんには晩御飯いらないと言ってあったからそのまま帰るのも癪で、特に宛もなく繁華街をブラブラしていた時に見てしまった。うちの制服姿の女子が、大分年上のサラリーマンらしき男と路地裏に消えていくのを。
援助交際、という言葉くらいは知っている。うちは私立高、何かと金のかかる所だ。親も自分達も、平等に。そこを補う為身体で稼ぐ女子もいる、と噂は聞いていた。だから俺が立ち止まってしまったのは、行動に対してではない。それをしている女子の顔に、見覚えがあったから。
名前は知らないけど朝練でいつもすれ違う、バスケ部二年の女子生徒。誰よりも真面目で練習に励み、そしてきっと誰よりも負けず嫌いな人。去年の夏の終わり、泣きながらボールを放り続けていた姿に絶句させられたのを覚えている。先輩たちの引退試合が不本意な結果に終わった、それが悔しくて泣いていたらしい。
らしい、というのは女子バスケ部の戦績から察しただけで本人に聞いたわけではないから。まさか尋ねる訳にもいくまい。それに面と向かって声をかけるのも、どうにも恥ずかしくて会話はしたことがない。もしかしたら俺はこの人を、……好きになっているのかもしれない。
そんな相手が中年男の前に跪き、その性器を一心不乱にしゃぶっている。十分に離れたここでは音なんか聞こえるわけはない、それでも濡れた唇から淫らな水音が伝わってきそうなくらいにその動きは激しい。彼女の頭に手をおいたまま腰を振っていた男は、やがてビクンと一瞬跳ね上がるように身体を硬直させ、そしてそのままゆっくりと彼女の口から性器を引き抜くのが見えた。
その先端から口内へと繋がる、暗がりの先でも分かる白い架け橋はどう見ても精液の残滓。糸を引いたその分以外は恐らく、胃の腑へと消えたようだ。
そこからまだ湯気を立ててさえいそうな中年男の性器をハンカチで清めた彼女が、
そういう行為の知識は勿論ある、でもこんな風にしてリアルに見ることなんか有るわけがない。それも憧れを抱きつつある先輩女子が、こんな所でこんな事を。
欲望を発散した男は足早に去っていき、残された先輩も僅かに肩を竦めるような仕草をしてから戦利品を財布に捩じ込んで雑踏の中へと消えていく。
何が起きたのか、起きなかったのか。幻覚かなにかだとさえ思いたい、でも。これは疑いようのない現実なのだ。
「あぁ、そうか。見てたんだ」
翌日早朝、体育館で向き合った先輩は事も無げにそう言った。そこからの言葉もまた、まるで何でもないかのような軽さで投げ掛けられていく。
親とは長く不仲で、ずっとビジネスホテルの長期宿泊プランで生活している事。一応生活費は出してくれているものの全く足りず、かといって部活の時間を削って働く訳にもいかず、空き時間に身一つで稼いでいる事。そしてその親が海外へと移住したことで、更に経済的に厳しくなっている事。
バスケで成績を出すにはちゃんとした生活を維持しなければならない、その為には身体を売るくらいは大した事じゃない。その理屈は危ういどころか破綻しているようにしか思えないけれど、でもこの人はそれを固く信じている。
「……黙っててくれると嬉しいかな、見られたのはともかく退学になるのは困るからね。不祥事って事にされちゃうと皆にも迷惑だし」
それは、……そうだろう。連帯責任ではないけれど、事実上の道連れにしかねない。それがわかった上で続けている辺り、本当にどうかしている。誰か親戚なり知り合いなりを頼るとか、そういう発想がまるで無いのだ。
要するにこの人は、壊れている。どうしようもないほどに、終わってしまっている。
だからこそ、こんな顔が出来るんだ。悪戯を隠そうとする子供のように純粋で、でも狂気を含んだ微笑みを。
「喋らないって約束してくれるなら、口止め料を出すよ。現金では無理だけど……ね」
はだけられた練習着の端から仄かな汗の香りと共に溢れるのは、嗅いだことの無い何か――名付けるとしたら
ただなにも言わなければ、そう約束するならば。夕べあの男にしたような事を、させてくれる。彼女の瞳は、無言のままそれを突き付けてくる。
抗う意思を萎えさせる程の、確かな圧力と共に。
その瞬間から俺たちの歪な関係は、幕を開けたのだ。
受け入れないという選択はあった筈だ、そんな事をしなくても良いと言えた筈だ。先輩のために黙っています、と一言言うだけで済んだ。それが正しかった、どう考えてもそうだ。この人がおかしくなっていても、俺は正常だったのだから。何
処か住める場所を探すなりなんなり、手は幾らでも見つけられる。空き部屋くらいなら猪股家にもある、親を説得して居候させることは不可能でもない。最善の生き方は無理でもなんとか真っ当な人生を送れるよう、彼女を支える事くらいは出来るかもしれなかった。
なのに俺は、なにもしていない。都合の良い関係を、受け入れただけで。
毎週こうやって「口止め」の為、先輩は俺に身体を明け渡す。ただそれだけ、名前さえ知らないままに。
俺はこの人を好きになりつつあった、いや多分もう好きになっていた。その先にこういう関係を結べるとしたら、それはきっと喜ばしいことだろう。でも、そうはならなかった。こんなにも異常で異質な、身体だけの関係にしかなれない。
「ん、あれ。元気無い、かな?」
にじり寄って俺の服を下から脱がせにかかった先輩は、ちょっと微妙そうな顔。起ちが悪いのは、まだ燻る罪悪感のせいだろう。でもそれさえ、表層の快楽には打ち消されてしまう。しなやかな指先に、熱い吐息に、長く抗える訳がないのだから。
それに俺は、知っている。俺がこうなっている時に、この人がどうでるか。それを期待している部分も、俺の中にはある。
「そっかそっか、じゃあ――また
先輩は桜色の唇をすぼめて俺の先端にキスをし、そしてそのまま――じゅぷりと顔を覆い被せてしまう。根本まで全て呑み込まれた俺を、先輩の舌が愛撫していくのが分かる。暖かく気持ちいい、背徳の行為。口腔粘膜を排泄器官で汚すこの快感に、俺が逆らえるものか。
忽ち下半身に血液が集中し、痛いほどに俺が隆起していく。それを楽しむように、先輩は上目遣いの視線を向けてくる。まだ出しちゃダメだよ、と。
先端を舐め回しながら顔を上げ、袋との付け根を指で押さえながら先輩が囁く。
「ほんと男の子って、口でされるの好きだねぇ……。だからって
その言葉に一瞬、背筋がざわめく。それは、……雛のことか。
蝶野雛、俺のクラスメイトで中等部から一緒の腐れ縁。いつだってバカを言い合って盛り上がるあのバカを、今さら女子扱いする気はない。いや、……無かったのだ。最近になって雛から向けられる
時として感じるのは肌に刺さる、値踏みするような粘っこい視線。夜の街を歩く女子生徒へと中年男性が向けるのと同じ、ドロドロとした欲望がそこには籠っている。そういう感情を誰かに対して抱くのは自然なこと、きっとそうだ。でも俺は、俺にとってそれは――恐ろしい。もし雛が、その欲望を向けてきたなら。俺は抵抗できない、受け入れてしまう。今の先輩相手と同じように。
別に雛が嫌いなんじゃない、友達のままでいたいだけ。でもどういうわけか、クラスの連中は面白がって俺たちをくっつけようとしてくる。そしてナゼか、この人までも。それどころか、もしかしたら既に付き合っているとさえ思ってるかもしれない。俺の名前も知らないくせに、どうしてゴシップには首を突っ込むんだ。
「雛と俺は、……そういうんじゃ……」
「んー、分かる分かる。おねーさんは全部分かってるからねぇ」
……なにも分かってないじゃないか。いつだって、何一つ。
ほんの僅か芽生えた反抗心、それが俺の中で火を付ける。一瞬の隙をつき、俺は勢いに任せて先輩をマットへ転がしていた。スカート姿のまま後転するその姿は、大きく股を開いた所謂まんぐり返しの体勢で止まってしまう。
ムッと立ち込めるのは、濃い雌臭。押し付けられたせいか薄布越しにも形が浮き上がるオンナノコは、もうすっかり潤って見える。口止めの準備は万端、という訳か。
衝動のままショーツを剥がすと俺は、閉じられた肉の裂け目を手で割り拡げた。
「あ。ちょっとぉ、それ好きじゃないって言ったよね……?」
内臓が外気に触れるのが好きな人はそうそういないだろうけど、でもこっちとしてはこれほど興奮する事もない。薄紅色の粘膜を更に拡げ、その奥までさらけ出そうと俺は力を込めていく。
にちゃりと湿った音をたてて開く隘路は、この人の最深部まで続く道。多くの男が通っても尚、こんなにもしっかりと閉じている。可能であればもっともっと深く、子宮の奥まで覗き込みたい。全てを知り尽くしたい、そう思う。
――と。
次の瞬間後頭部に痛みが走り、俺の視界に火花が散った。
位置関係的に、先輩が踵を叩き付けてきたんだろう。膝の力だけで放った割りにはかなりの威力で、俺の顔は目の前にある先輩のオンナノコへと着地してしまっている。
「もー、キミはすぐそういう事をしたがる。マニアックなプレイは好きな子としなさいね、私はただ口止めしたいだけなんだから。――ほら、早くしようよ」
体勢を立て直し改めて脚を開いた先輩、その中心へと俺は自分自身を向ける。セックスする、というのは特別な行為の筈だ。それをこんな風に
俺も俺で壊れている、終わっている。そんな何処か捨て鉢な思いのまま俺は、今日も先輩の中へと自分を押し込めていくのだ。
軟らかい万力で挟み込まれているような、熱い塊を突き崩していくような。他人の体内に浸入し踏み荒らすという罰当たりな行為が、こんなにも気持ちよくていいのか。そんな風に思えるのは、最初の数分だけ。いつだって俺は、溺れてしまう。
初めの内は腰の振り方さえ分からない処か、動くことさえ出来ないままに射精してしまっていた。どうせ避妊してるし外出しだと後で拭くの面倒だから直に出して良いよ、と本人はいうけれど罪悪感は今でもある。それを押し退けるほどに、欲望が強まっているだけで。
好きになった人とセックスをする、遺伝子を刻み付ける。それが本能を刺激しないわけがない、でもそれはいつだって無意味なのだ。この人は俺を好きでもなんでもない、俺の子供を宿してくれる事もない。愛を確かめあうとかじゃない、単なる排泄行為に過ぎない。ティッシュに出すのと何も変わらないし、向こうとしても普段の援助交際と同じ。対価の入り方が違うだけで、何の感情もない。
だから俺は名前を聞かない、名乗らない。俺たちの関係はどこまでいっても平行線、交わることなんか有り得ないから。
もしあの日より早く、この人の現状を知れていたら。こんな風になる前に、告白でもしていたら。きっとここまで終わりきらずにすんだのに。
虚しさを感じながらも、身体は身体で素直になる。高まっていく性感は、出口を求めて奔走するばかり。
瞼の裏に閃く稲妻が脊椎まで伝わり、凄まじい射精衝動として全身を貫いていく。
「お。おぉー……、出てる出てる。ドクドクいってるねぇ、溜めてたとかかな?」
ヘラヘラと笑うその顔には、膣内射精への忌避だとかそんなものは一切無い。一仕事終えた、という安堵だけ。ああ、終わってしまう。この逢瀬は、もうあと少しで終わるのだ。
それを少しでも引き伸ばそうと、俺は尿道を絞るように腰をくねらせ精液を最後の一滴まで出しきろうとする。何の意味もない時間の浪費だと、知った上で。
キミが出しすぎるから大変だよ、と笑顔で後始末をする先輩をぼんやり眺めながら、俺はふと思う。どうしようもなく歪んだこの関係は、きっとこれからも続く。この人が卒業し、栄明から去るまで。
身体を拭き終えマットも片付け、制服を形通りの姿へと着直して。俺たちはいつものように、階段を降りていった。
誰もいない校内を並んで歩くその姿は、もしかしたら付き合っているようにも見えたかもしれない。そうはなれないのが、やっぱり虚しい。
教室棟の出口が近付くと、彼女はふわりと踊るようなステップで俺より先へ出ていった。この先は自主トレしている部活勢や、休日出勤の委員会役員たちがそこそこいる。二人一緒にいるのを見られるのは良くないから、とあそこでするときは毎回こうだ。
明日からはまた、朝練ですれ違うだけ。日曜にこうして呼ばれて口止め名目でセックスをするだけの、変則的なセックスフレンド。それが俺たちの現状であり、結論だ。
そう、それ以外は有り得ない。その筈、だったのに。
背中を向けた去り際、ポツリと放たれた一言。それは俺の胸に突き刺さり、致命傷を刻んで虚空へと消えた。
その理由も真意も、何一つ分からない。狂い壊れて終わったあの人の心中を理解出来るほど、まだ俺はおかしくなりきっていないのだろう。
正気のままで、あれを解き明かせるものか。俺はもっと、狂わなければならないのかもしれない。
心のなかで何度もそれを反芻しながら、俺は拳を握り締める。
『そろそろ、カノジョに昇格かな? ――