私は何も知らなかった。
体育館一番乗りを競う相手が新しく出来る事も、高校バスケの厳しさも。
柱を欠いた同期メンバーの歪さも、自分が弱くてウソつきな事も。
夢佳が悪態だけ残して消えた理由も、最後の夏をまさか怪我で失う事も。
家族の絆とか友情とか、あと恋とかも。支えあう大切な人と共に生きる決意をする事も。
私自身の事も、彼の事も。
栄明中学高等学校高等部に進んだあの日、私はまだ何も知らなかった。
今思えば笑い話ではあるけれど、想像さえ出来ないほどに忙しい毎日はあそこから始まったのだ。
朝、体育館へと駆けていく。中学に上がってからの習慣に付き合う物好きはそうそうおらず、夢佳でさえ『よくやるよ』と苦笑してたっけ。
そんなに朝早くからトレーニングする必要はないし、一人でする練習には限度がある。チームスポーツは協調性だ、これに大した意味はない。それこそ夢佳のように何もかも捩じ伏せる暴力的な才能があれば、話は別だけれど。
しかし懲りもせず毎朝毎朝こうしているのは、逢いたい人がいるからでもある。……負けたくない人、と言う方が正しいか。
鍵だけ開けられてはいるが無人の体育館に入り、荷物を脇に置いて私はバスケットボールの籠を用具室から引きずり出す。早速掴んだボールを構えて放れば、いつものようにスパンとゴールへと吸い込まれていく。どう投げたらどう動くか、などと一々考えていては上手くいかない。如何にして
どうやら今日も私は好調なようだ、これが試合まで続けば良いのだけれども。
――と。パタパタと近づいてくる足音に、私は思わず身構える。服装に乱れはないか、あちこちはみ出したりはしてないだろうか。形だけでもカッコいい先輩を装い、私は何も気が付いていないかのように朝練を続ける。
少しだけ遅れてやって来る、可愛い後輩を待ちながら。
もうどれくらいになるだろう、中学バスケを引退した少し後だから一年以上経っている計算になる。しかし最後の公式戦を不甲斐ない結果で終え、どうにもならない鬱屈した気持ちで泣きながらボールを投げ続けたあの日から、もうそんなに過ぎてしまったのか。早いものだ。
まあそれはそれとして、あの頃辺りからあの子が朝練の「相方」になっている。そこまで多くの言葉は交わさない、朝の凛とした空気のなかでお互い練習に励むだけ。今の私にとってはそれが癒しになっている、いや癒しというか
なんというか男子と言うのは、どうしてああも無防備なのだろうか。こっそりと向ける視線の先には、激しい動きのせいで服が捲れチラチラと肌が覗いていたし、うっすらと胸に小さな何かが浮いて見えていた。
どうしよう、余りにも――刺激が強すぎる。
それでも朝練の間はどうにか格好をつけていたけれど、それももう限界だ。そう長くない昼休みの時間を費やしたくはないけど、これ以上は持ちそうにない。
怪しまれない程度に速く昼食を終え、人も寄り付かない屋上へと上がって。念のため出入り口を荷物で塞いでから、私はコンクリートの床面に敷いたバスタオルの上に腰を落とした。万が一にも周囲に気付かれないよう警戒はしつつも、服を緩める手は止まらない。
ああ、まったくもう。良くないのは分かっているのに止められない、変な習慣を付けてしまったものだ――オナニーなんて。
最初のうちは週に1回程度、でも今や毎日のようにしてしまう。それもあの後輩を所謂
もし彼が、こんな私を見たらどうするだろう。軽蔑して二度と近づこうともしないか、それとも据え膳だと襲い掛かってきたりするのだろうか。
……なんてバカを考えたお陰で、愛液の飛沫はタオルが使い物にならなくなるくらいに溢れてしまう。まあ良いやどうせ安物だ、帰りにでもゴミ箱に突っ込もう。
頭の奥にある快感の華、それがどんどんと拡がりつつあるのを感じながら、かきむしるように指を浅く抽送し続ける。もっと激しくもっと深くすれば更に気持ちいいのだろうけど、そうするのは正直怖い。自分が自分でなくなりそうで、そして限度を失いそうで。
時間も時間だ、終わらせないと不味い。敢えて深みへとは達さず、キリの良いところで折り合いを付けて頤を跳ね上げ、口の中だけで喘ぎを噛み殺す。不完全燃焼をくゆらせながらも、ゆっくりと悦楽の波は満ちていくのだ。
弛緩していく身体、でも鮮明になっていく意識。その中で思うのは、あの後輩くんの姿。性欲が去った後も想いは果てず、名前さえ知らないのに逢いたいと思ってしまう。
もしかしたら私、――変態なんだろうか。どうしよう、その内実際に襲ったりしかねない。うーん、自重しないとなぁ……。まあでも、朝の時間さえ我慢できれば大丈夫だ。学年も部活も違うんだから、朝練以外ではまず逢わないもの。
しかしあの子、彼女なり彼氏なりいるのかな。誰の物でもないと確定したら、ちょっとくらいコナかけても許されるだろうか。
まずは機会を見付けて、名前でも聞いてみよう。こういうのは一歩ずつ、だ。
それから名前を知って、同居なんかすることにもなって今に至っているのが本気で不思議だ。トントン拍子というかなんというか。
でも大喜くんへの感情に名前があると知ってからは、大変だったな。ただの「可愛い後輩」ではないし、単なる同居人でもない。好きな人が隣にいる、でもウインターカップを控えている状態でまさか告白なんて出来ない。だけどほっといたら蝶野さんが大喜くんを掠めていくかもしれない、そう思うと苦しくて苦しくて。
年が明けてからは更にそれが強くなり、いっそ帰ったら打ち明けてしまうかと思っていた矢先。大喜くんは突然あの湖に現れて、私へと想いをぶつけてくれた。『あなたが好きです』と。
そうか、そうだったのか。私はどうしてこうも、気が効かないのか。大喜くんと蝶野さんが付き合っていない理由も何もかも、そこに答えはあったのに。
蟠りも葛藤も溶けて消え、付き合いだした私たち。
とは言えコドモな二人だから、おっかなびっくり関係を維持して半年以上。もうじき夏を終えるという今の時期になってようやく、こうして夜を共にする事になったのだ。
……良いんだろうか、とは思う。大喜くんは私を選んでくれはしたけど、蝶野さんから告白されていた筈だ。その辺がどういう事になっているのやら、私は知らない。と言うか大喜くんの口からはその話を聞いていない、あの日の盗み聞きと蝶野さんによる
大喜くんについて知らない事はまだまだあるし、その殆どは知る事が無いのだろう。でも、それでも。これから私たちは、少なくとも身体に関しては隅々まで知り合う事になる。
交わすキスと肌の熱さにたじろぎそうになりながらも、私は手を止めはしない。全てが欲しい、そう願うのが変態だと言うなら言えば良い。
大喜くんを抱けるなら、変態で結構だ。
薄暗闇の中、興奮でおかしくなりかけながらも指先は大喜くんの
そう覚悟はしても、大喜くんの指先が私に触れると少しだけ気持ちがぐらつく。……大丈夫かなぁ、本当に。おっかなびっくりなのがちょっと怖い、それに遠慮がち過ぎてなんだかモヤモヤしてくる。普段のオナニーみたいに激しくしてくれたら、なんて。
まあそれは多分、大喜くんもだろうな。男子がどんな風にオナニーするかは知らないし知りたいと思ったこともないけど、多少は学んでおくべきだった。どうすれば良いのやら。
文字通り手探りの時間はでも、唐突に終わりを告げた。
「あの、出ま……すっ」
え、と聞き返す暇さえ無いまま手の中に拍動が瞬いてそして、熱く激しい何かが迸った。ああそうか、これが精液か。指先で弄ぶ白濁液は粘性が強くて青臭く、御世辞にも美味しそうとは言えない。これを口にする程の勇気はない、それに――ここでそっちに集中する余裕もないのだ。
するべき事は、まだあるのだから。
仰向けで脚を持ち上げた、まるで潰れたカエルみたいな体制。何もかもさらけ出すこれが「正常」というのはどうも納得も得心もいかないけど、まあ世の中そんなもんなんだろう。思い通りじゃない、それで別に良いじゃないか。
荒く息を吐きながらのし掛かってくる大喜くん、その
「……っ」
みしりと骨盤が軋み、熱い塊がお腹の中を上がってくる独特すぎる感覚。内臓を抉られているのに、それを不快だと思わない。むしろ大喜くんが私の中にいるという事実に対して、脳が焼けるような快感が膨れ上がってくる。
一息毎に肌は火照り、視界が歪みだしてようやく私は――気が付いた。これはなんだか、おかしいぞと。
普段速度重視でオナニーしているとはいえ、時間が取れる時にはじっくり楽しんだりもする。その中で自身の振れ幅というか、興奮の速度や限界は把握してるつもりだ。なのに今の状態は、どう考えても感じすぎている。大喜くんがただ触れているだけで、それがそのまま絶頂へとかけ上がってしまう。
まだなにもしていない、ただ
だが、それでも。押し寄せる快感の奔流は、余りにも暴力的に過ぎる。
身体が完全に密着し、大喜くんの全てを呑み込んだ瞬間、私の身体は意に反してガクガクと痙攣を始めた。意識は根こそぎ刈り取られ、もはや抵抗さえ出来そうもない。
とりあえずここはもう、大喜くんに任せよう。私はちょっと無理だ、少しだけ失神しよう。
視界が消える刹那に口をついたのは、愛してるのただ一言――。
既に時刻は夜更け、どころかもう明け方近い。強烈すぎる初体験で気を失って、それから大喜くんに揺り起こされて。さすがにこんなバタバタした感じで終わったらなんかイヤだ、と今度は大喜くんに跨がったり搾り取ったりしていたら、もうこんな時間か。
激しく肌を合わせて知ったのは、世の中そうそうロマンティックにはいかないという事。もうちょっと艶かしい行為かと思ってたのに、意外とキツいな。もしかしたら明日以降、久し振りに筋肉痛かもしれない。普段使わない部位を酷使すると言うのは結構堪えるものだ。
大喜くんも大喜くんで、そんな感じかもしれない。まあちゃんと寝入ってるようだし大丈夫大丈夫、……多分。
当の私は身体が疲れきっても気は落ち着かないまま、ただ天井を仰ぐ。
してしまったんだな。後悔は無いけど、でも何処か胸に痼を感じてしまう。こんなに上手くいって良いのか、と。
でも、それでも。幸福なのは確かだ、だから顔がにやけてしまうんだ。
歯を食い縛って来た日々は、報われたと言って良い筈。
私は何処まで行っても凡人で、努力しても特別なスキルなんか身に付きはしなかった。まあサイコロを振る回数を増やしてもらった、くらいだろう。どうにか数をこなして、なんとか上へと登ることも出来た。みんながそれを祝福してくれたけど、力足らずも同時に感じてしまう。栄明女子バスケ部を率いるのが私でなければ、もっと先へと進めたかもしれない。あんな所で負傷してしまった自分が惨めで、努力なんて無意味だと思ってしまう程自分を追い詰めていた。
ギリギリのところにいた私は、大喜くんに救われて今がある。いつだってそうだ、大喜くんが私の心臓であり背骨。なら擦りきれるまでサイコロを振るだけだ。出た目の分コマを進める、それが私のするべき事。
それに実を言えば出目なんかどうだって構わない、目がどうであれ只突き進めば良い。自分の意思でサイコロを掴めるか、壺に投げ込めるか。必要なときに決断できれば、それはいつだって大当たりだ。……まあどうしても大きな目がいるならイカサマすれば良いんだけどね、死ぬまでバレなければ良いんだから。
それにしても、なんだか可笑しいな。私の人生ってこんなにも、――
もしこれが誰かの作った物語であるならば、私は願うばかりだ。
この幸せが、この先もずっと続きますように。どうかみんなが幸福でいられますように。