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鳥たちはなぜ
彼らは知らないのだろうか
世界がもう終わってしまったことを
(『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』)
第一章:世界の終り
三月の半ばの土曜日に、世界は唐突に終わってしまった。時計の針は動きを止め、往来する車や電車も止まり、街からは誰もいなくなってしまった。
世界が終わった、というのがこの状況に対する適切な表現なのか定かではないが、少なくとも私にとって、この世界は終わってしまったことに等しい。生徒のいないキヴォトスにおいて、私は最早先生ではないのだから。
〇
朝、目覚ましが鳴らないことに違和感を覚えながら意識を覚醒させて起き上がった。枕元の時計に手をやって、瞼を擦りながら時刻を確認しようとしたのだが、視界が明瞭になるまでにはしばらくの時間を要した。
ようやくまともに見えるようになった視界で確認すると、やはり秒針が動いていなかった。六時三十四分を指し示したまま、時計はその動きを完全に停止していた。
電池が切れてしまったのだろうか。やれやれ、と思いながらスマホを開いて時刻を確認したが、そちらも六時三十四分と表示していた。疑問に思いながらも、夢心地の脳では思考がまとまらず、取り敢えずは身支度を済ませてから考えようと思い、顔を洗い、歯を磨き、服を着替えた。十分は経っただろう、と予測を立てて見た時計は、どれも六時三十四分を指し示していた。
〇
思ったよりも事態は複雑に捻じ曲がっているようだ、と私は窓の外のD.U.の異様さを目にして気が付いた。駅でもない所で電車が止まっていて、車も止まり、太陽もずっとその位置を変えていない。こういう時はどうすればいいんだったかな、としばらく考えていた。つまり、世界が唐突に動きを止め、その中に一人取り残されてしまった時に取るべき行動について。
人はあまりに非現実的な環境に身を置かれるとフィクションを見ているような錯覚に陥るのだな、と私はいつになく客観的に思った。おそらくは、異常過ぎる衝撃から脳を守るために。しかし世界の終わりはフィクションとしてではなく現実として、私の目の前に降りかかっている。それを認めるには、まだ少し頭が冴えていなかった。
「アロナ」と私は呼びかけた。
しかし返事は無かった。シッテムの箱は電源すら点かない。こんなことは初めてだった。
「参ったな」
私はかなり戸惑っていた。人生の中でも、これほど戸惑うことは、後にも先にも無いと思える程の戸惑いだった。
心を落ち着けるためにコーヒーを淹れ始めた。そうやって何か行動を取っていなければ、部屋の沈黙は私を呑んでしまう気がしてならなかった。可能な限りいつも通りの手順で、いつも通りの味を再現するように心がけた。幸いなことに水や電気は止まっておらず、私はいつも通りコーヒーを淹れることができた。苦みと、火傷しかける熱が喉を伝うと、段々とこの事態が精巧な夢の産物ではないことが飲み込めてきた。
方々にメールを送ってみたり、電話をしてみたりしたが、結局誰からも反応は無かった。予想通りではあったけど、不安は募るばかりだった。本当にキヴォトスから人が消えてしまったのだ。
〇
沈黙が耳鳴りに変わりそうなくらい緊張していたものだから、鬼方カヨコがシャーレを訪ねてきた時、私は壮絶な安心感に包まれることになった。それは何日も海を漂流していた中で救助船を見つけた時のような、脱力感を伴う程に壮絶な安心感だ。
何が起きているの、という彼女の問いに、私もよく分からないと答えると彼女は小さく一つため息をついた。
「朝起きたら誰もいなくなってた、キヴォトスから誰も。おまけに時間は止まってるし。でも猫はいた」
猫以外でも、先生ならいる気がした、と彼女は続けた。彼女の言う通り、実際に私だけはいたのだけど。
「私達以外に誰もいないのかな」
「確かめに行かない?」と私が言うと、彼女は驚いたような顔をして言った。
「どうやって?」
「キヴォトス一周でもしながら、ゆっくりと」
突拍子のない提案をすることはこれまでの人生でも何度かあった。それらは客観的に見れば突拍子もないものなのだろうけど、私自身の中ではいくつかの可能性を考えて、その後で導線がしっかりしていることのチェックを済ませてから口に出しているから、主観的にはそこそこ真面なことを言っている。少なくともそういうつもりではある。
しかし今回の提案──キヴォトス一周でもしようということは、主観的にも突拍子がなかった。私は兎にも角にも誰もいないシャーレが落ち着かなかったし、一刻も早くどこかへ逃げ出してしまいたかった。驚かれるかもしれないけど、私がそうやって気分に任せてものを言うのは、レアケースだと思う。
「いいよ、着いていく」
彼女は存外あっさりとその提案を受け入れた。こうして私とカヨコは、世界の終わりを二人で旅することになった。
やはり断っておいた方が良いと思うのだけど、結論から言ってしまえば、これから起こる一連の出来事は少し特殊な形をした夢でしかなかった。何かを得た訳でもないし、何かを失った訳でもない。少しだけ彼女との関係が変わったが、この出来事がなければ、と言う程のものでもないと思う。
◇
第二章:猫のダンス
「カヨコはどうやってここに来たの?」
ゲヘナ自治区と、シャーレのオフィスビルが建つD.U.まではそこそこの距離がある。交通機関が止まっている今、数時間で──時計が止まっているから本当に数時間なのかは分からないけど──やってきたのは疑問だった。
「バイク」と彼女は簡単に答えた。
「免許持ってたんだ」
「うん。何かと便利だからさ。意外?」
「いや」と私は答えた。「好都合だ」
歩いてキヴォトス一周する訳にはいかなかったから、どうしようかと考えていた所だった。
私もバイクしか運転できないから移動手段を考えてたんだと彼女に伝えると、彼女はへえ、と少し驚いたような顔をして反応した。
「先生がバイク運転してるとこ、見たことないから」
「意外?」
「少しね」と彼女は答えた。
〇
彼女のようにシャーレを訪ねてくる生徒がいるかもしれないから、置手紙を残すことにした。と言っても、正直に言ってシャーレにはこれ以上誰も訪ねてこないような気がしていた。なんとなくだけど、この世界には私と彼女以外に誰もいないという直感があった。結果的に言えば、それは正しかった訳だけど。
それじゃあ私達はこれから何を探しに行くんだろう、と疑問に思った。世界の終わりで、誰かがまだ残っているという希望を探しに行くのだろうか。それとも、完璧な絶望を確かめに行くのだろうか。
いずれにせよ私は、この世界をそれほど深刻には捉えてはいなかった。一度眠って目が覚めれば、あるいはどこかの扉を開いた拍子に、元の世界に戻れるような気がしていた。少し後で聞いたのだけど、この時彼女も同じように思っていたという。
〇
こんなことになると思っていなかったから着替えも何も持たずにシャーレに来てしまった、と彼女は言った。確かにバッグの類の一つも身に着けていなかった。
「まずはゲヘナに行こうか」
「食事はどうするの?」と彼女は聞いた。
「電気も水も止まってないから、なんとでもなるよ」
「そっか」
〇
その前に少しいい? 行きたいところがあるの、と彼女は言った。私としては世界がこうなってしまった以上、急ぐ用事は一つもなかったから彼女に着いて行った。
シャーレのビルから十分くらい歩いて、コンビニとランドリーの間の路地に入り、さらに右に曲がった所で彼女は立ち止まった。フェンスの向こうで、白黒の毛色の猫と三毛猫がケンカを繰り広げていた。遠巻きに見ているだけでは、ケンカなのかじゃれ合いっているだけなのか判別がつかないような、ゆったりとした動きだった。あるいは彼らはダンスを踊っているのかもしれない。
「元気そうで良かった」と彼女は言った。
「止めなくていいの?」と私が聞くと、彼女はいいの、と答えた。
「あれは猫にとって必要なんでしょ、私には分からないけど」
確かにそうかもしれない、と私は言った。私とカヨコは、その猫のダンスをしばらく眺めていた。すると満足したのか、二匹は別れ、それぞれどこかへ行ってしまった。
「行きたかったのはここだけ。じゃあ、ゲヘナに行こうか、先生」
〇
彼女が先導する形で、近くのインターチェンジから高速道路に乗り出した。ドライバーのいない、動きを止めてしまった車両が道に置き去りにされていて、彼女はその隙間を縫うように走り抜けてしまう。かなり怖かったから、私はその後を慎重にゆっくりと着いていった。上から眺めると、親鳥とそれについていく雛鳥のような感じと思う。私がそんな調子だから、彼女は途中で止まって私を待っていた。
「ごめんね、あんまり慣れてなくて」
「うん。私は多少ぶつかっても平気だけど、先生はそうはいかないから。私こそ、合わせるべきだった」
鳥が鳴いていて、風が木々を揺らす音だけが聴こえてくる。人工的な音が無くなると普段はそれにかき消されてしまう音を鮮明に聴くことができた。こんな時でないと意識することはないだろうな、と私は思った。
〇
ゲヘナに着いたのは、バイクを走らせて一時間と少しが経過したくらいだった。その間も太陽の位置は寸分たりとも動いておらず、空は相変わらず夜明け直後の色合いを続けていた。
彼女の言っていた通り、ゲヘナもD.U.と同じような感じだった。いつも何かしらの騒ぎを起こしているゲヘナ学園がしんと静まり返っているのは、奇妙な感じだった。
〇
アパートの廊下で立ち止まった私を見て、彼女は何してるの、と言った。
「こんな事態とは言え、生徒の部屋の中まで着いて行くのはどうかと思って」
「いいよ、気にしないし。見られる心配もないでしょ」
彼女の瞳はやれやれ、とでも言っているようだった。お邪魔します、と儀式的に言ってから彼女の家に上がった。
六畳一間と、簡単なキッチンがついていた。壁にはロックバンドのグッズが掛かっていて、家具もそれと調和するような色合いをしている。
「狭いけど、そこら辺で座ってて。あと、あっち向いて」
彼女は窓の外を指さした。着替えを棚から出すにあたって私がまじまじとそれを見ているのは色々と不味いだろうから、言われた通りに窓の外を眺めることにした。
彼女が借りているアパートの一室は学園から一駅くらいの距離に位置している。頑張れば学園まで歩くことだってできそうだ。近くに商店街があって、治安も──ゲヘナ自治区にしては、ということだけど──悪くない。
学生時代にこういう場所で一人暮らしができたら楽しかったろうな、などと考えている内に、彼女は着替えをリュックサックに詰め終えたようだった。
「お腹空いた? 先生」
「そういえば、かなり空いてるかも」
朝から食欲のことなんて気に留める暇もなく事が進んだせいで、気が付けばかなりお腹が空いていた。
「何か作るから、適当にくつろいでて」
彼女はそう言うとキッチンへ入って行ってしまった。
「二人で立てるほど広いキッチンじゃないよ」
私が手伝おうとしたのを見越して、彼女に会話を先回りされてしまった。確かにそのキッチンは一人で入るのにも不十分な広さだった。
〇
「これからどうするつもりなの?」と彼女が聞いた。
私は皿洗いをしながら(やらせっぱなしなのは悪いから。彼女は来客にやらせることを嫌がっていたけど)、特に考えてない、と答えた。
「カヨコはどこか行きたい所はある?」
「別に無いけど、先生は?」
「いくつかある」
「じゃあ、そこに行こう」
「それでいいの?」
彼女は小さく頷いた。
「こうなった以上、やることもないからね」
〇
洗い物を終えて彼女と一緒に床に座ると、すっかり立ち上がる気力を失ってしまった。出来ることならそのまま寝転んで眠ってしまいたかった。肉体的な疲労は大したことはないが、精神をかつてない程摩耗していたせいで、どっと疲れが肩に圧し掛かっていた。
「少し寝てく? ブランケットくらいしかないけど」
「いや、流石にどこか別の場所で寝るよ」
「どこかって、どこ。アテもないでしょ」
「でも」と私は言った。その先に続く言葉を彼女も分かっていて、私達の間には気まずい沈黙が流れた。
「気にしないよ」と彼女は言った。
「私が気にするんだけどね」
「……一度別れたら、そのまま二度と会えない気がする」
彼女の瞳はサファイアみたいで、絶妙な憂いを帯びていた。
「だからここで寝て」
「……分かった」
腕時計を外し、壁にもたれ掛かって彼女に借りたブランケットに包まった。それが最後の記憶だった。そこからどのようにして眠りについたのか思い出せない程、私は急速に眠りについたらしい。
目を覚ますと、カーテンは閉め切っていて、隣のベッドでカヨコが眠っていた。
急に元の世界に戻った、なんてことはなく、時計も空も街も何も変わっていなかった。私はその薄暗い部屋の中で、彼女が起きるまで本を読んでいた。
◇
第三章:三月、某、
ちょうどその本を読み終わる頃に彼女は目を覚ました。彼女は瞼を擦って私を見つけると、しばらく思い出すような素振りを見せてから、納得したようにベッドから起き上がった。
「おはよう、先生」
「おはよう、カヨコ」
彼女の家にあったカップ麺を二人で食べて、シャワーを浴びた。
彼女の家のシャワーを浴びることについても、眠る時のようなひと悶着があったのだけど、そういうのはいい、という彼女の意思で決着がついた。私が先に浴びて、彼女がその後に入った。
「先生が行きたい場所ってどこ?」
「まずはゲヘナ学園、その後でトリニティにも行こうと思う。その二つが完全に動いてないことが分かれば、もう人はいないと確信が持てるから」
「人がいないことを確かめに行くの?」
「戻り方が分からない生徒がいるなら、探しに行かないといけないからね」
「そっか」と彼女は頷いた。
〇
ゲヘナ学園までバイクを走らせて、校門前に駐輪した。やはり学園の中も音を吸い込んだように静かで、私達の足音が廊下の向こうまで大きく反響した。
「どこ行くの?」
「風紀委員の部室。誰かいるならあそこだろうから」と私が答えると、彼女は苦い顔をした。
「前から気になってたんだけど、風紀委員と何かあったの?」
「便利屋は目を付けられてるから、少しね」
「ふうん」
彼女の表情や声色から察するに、便利屋としてではなく、彼女個人として何かしらの因縁がありそうだったが、それについて聞くのはやめておいた。その方が賢明だろう、という直感があった。
風紀委員の部室も、学園の他の場所と同様にがらんどうだった。置手紙もない。
「帰る? それともトリニティまで行く?」
「ここからトリニティまで二時間くらいかな」
「行ったことないけど、それくらいだと思う」
「じゃあトリニティに行こう」
〇
時計も空もアテにならないと、時間の感覚が失われてしまう。二時間──多分それくらいだと思う──走って、私達はトリニティ自治区までやってきた。案の定人はいない。あの厳かな時計塔でさえも機能していない。
「こんな場所なんだ、トリニティ」
「少し見て回る?」
私の提案で、小規模なトリニティ観光をすることになった。と言っても、街は人がいないせいで随分と寂れた空気が漂っているし、店は一つとして営業していないから面白みもない。しかし橋や噴水といった建造物は、時間を失っても歴史を伝えるだけの迫力があった。
「もっと雑然とした場所だと思ってた」と彼女は言った。
「そういうイメージなの?」
「ゲヘナの子はトリニティにことを知らないし、トリニティの子もゲヘナのことを知らないと思う。何も知らないのにいがみ合ってるから、悪いイメージばかりついていく」
「ふうん」と私は言った。
〇
彼女は聖堂に入るのをあまり好んでいないようだった。
「外で待っててもいいよ。すぐ戻ってくるから」
「一緒に行くよ。苦手なのは建物じゃなくて、儀式的なやつ。ほら、賛美歌とか。でも今は誰もいないから」
「賛美歌?」と私は聞いた。
「勝手なイメージだけど、調和を乱さないように厳しい戒律が敷かれてる、みたいな音楽。そういうのは苦手。私にはロックンロールしか分からない」
「ロックンロール」と私は彼女の言葉を繰り返した。聖堂でロックが流れているのは、この状況よりもよっぽど奇妙に思えた。
「これも偏見だね。ごめん」
「別に良いと思うよ」と私は言った。「食わず嫌いでも、なんでも。嫌いなものは嫌いでいいと思う」
「そうなの?」と彼女は意外そうに聞いた。
「私も書類仕事は嫌いだしね」
「ふふ」と彼女はほとんど表情を変えずに笑った。
〇
ティーパーティーを覗いて、それから時計台に登ってトリニティを一望してみたが、やはり人は一人として認められなかった。
「この後は?」と彼女が聞いた。
「一度シャーレに戻ろう。もしかしたら、誰か来ているかもしれないしね」
〇
「シャワーはある?」と彼女が聞いた。「汗かいたから、借りてもいい?」
「休憩室に。そんなに広くないけど」
彼女がシャワーを浴びている間、シャーレの設備が何も変わっていないことを確かめていた。置手紙はそのまま置いてあり、メールの返信や折り返し電話も一通も無い。シッテムの箱も相変わらず起動しなかった。
〇
彼女が上がった直後にシャワーを浴びるのは、中々精神力を求められる行為だった。
私のシャンプーではない甘い匂いが漂っていて、立ち込めている湯気が色めいているように感じた。髪を洗い終えて一度シャワーを止めると、彼女がドライヤーで髪を乾かしている音が聞こえてくるのも良くなかった。
自分で言うのも変な話だけど、私は生徒をそういう目で見ていない。勿論彼女達は魅力的だし、形はそれぞれであれ好意を向けられれば──生物的に仕方なく──意識してしまうことはある。それでも先生と言う立場が思考にセーフティを掛けてくれるお陰で、一線を超えるようなことは無かった。
しかし、今の状況はそのセーフティを部分的に解除してしまっているような気がした。何かの拍子で、彼女に手を出してしまいそうだった。
再びシャワーを出し、しばらく座り込んで思考が流れ落ちるのを待った。
◇
第四章:18歳
「ねえ」と彼女が言った。「眠れないから、少し話していい?」
「うん」と私は答えた。私も眠気が訪れる気配は無かった。
シャーレの居住区に行けば部屋はいくらでもあったが、彼女は私の部屋で眠ることを選んだ。
「このまま元の世界に戻れなかったら、先生はどうするの?」
「カヨコに着いて行くよ。どこかで戻る方法を見つけられるかもしれないし」
「もし、一人しか戻れないとしたら?」
「そのときは、カヨコが戻って。私は別の方法を探すよ」
「……そう答えると思った」彼女はどこかがっかりしたような声色で言った。
カーテンは閉め切られていたが、空が中途半端に明るいせいで部屋の中は不格好な間接照明のように照らされていた。
「ねえ、先生」と彼女が言った。「隣に座って」
〇
彼女とほとんど触れあう距離でベッドに腰掛けた。彼女は何も言わなかったし、私も何も言わなかった。
彼女の指に私の指が当たった。簡単に折れてしまいそうな、白く細い指だった。
「いいよ」と彼女が言った。何に対してのいいよ、なのか分からない訳ではなかったけど、極力目を逸らして分からないフリをした。
「それとも、私じゃ嫌?」
「そんなことはないよ、でも」
「先生は生徒に手を出せない?」
私は頷いた。
「でも、こんな世界で生徒も先生も無いよ」
唾を飲み込んだり、衣擦れしたりする音が映画の効果音みたいに大きく聴こえる。
「分かった」
〇
「こんなことするつもりじゃなかったからさ」と彼女はベッドに倒れたまま言った。「上下不揃いの下着だから、あんまり見ないで」
「気にしないよ」と私は言った。
彼女が上下でパンダみたいな非対称の色の下着を着けていても、それほど気にならない気がした。
「私が気にするの」と彼女は口先を尖らせて言った。
丁寧に彼女の服を脱がせて、丁寧に前戯をしてから、私達は数時間の間抱き合っていた。誰かに見られたり聞かれたりする心配がないから彼女は開放的になっていたようで、結構大きい声で喘いでいた。そのことを後で指摘すると睨まれたけど。
行為の最中は凄く特別なことを運命の相手としているような錯覚に陥っていた。もしかしたら本当にそうなのかもしれないけど、彼女の瞳の光とか、髪とか、角とかが美術品みたいに見えた。戸惑いや恥じらいがなくなってしまうと、彼女は何度も潮を吹いて、甘えるような口調で私に向かって愛を囁いていた。
「嘘ではないけど」と彼女は行為の後で言った。「多少雰囲気に流されて言った部分もあると思う」
「私はカヨコのことが好きだよ」
「先生のそういう所は、好きだし嫌い」
〇
最後の記憶は、彼女との行為が終わってしばらく話をしていた時だ。どこかの地点でぷつりと記憶が途切れていて、多分そこで眠ってしまったんだと思う。
私が目覚ましを止めるために目を覚ましたのは、三月十七日の月曜日の、早朝のことだった。飛び起きて窓の外を見ると当たり前のように電車が動いていて、車も走っていた。シッテムの箱も起動するし、雲も時計も動く。世界の終わり? 夢を見ていたのだろうか。
コーヒーを飲みながら待っていると、鬼方カヨコがシャーレの入室許可書をかざして部屋に入ってきた。
「おはよう、カヨコ」
「おはよう、先生」
「誕生日おめでとう」と私は言った。
「ありがと」
「十八歳になった気分は?」と私は尋ねた。
「一応成人した訳だけど、上手く実感が湧かない」と彼女は答えた。「そういえば」
彼女はバッグから何かを取り出して私に差し出した。私の腕時計だった。
「忘れ物。私の部屋に置き忘れてったでしょ」
私はひどく困惑した。
「どこまでが夢で、どこまでが現実?」私が定かではない記憶を辿りながら聞くと、彼女はくすりと笑って答えた。
「手を出したんだから、責任取ってね」