日が傾き、暮れなずむ大原町。その中心にある七草商店街は行き交う人々で溢れ、賑わいは今日一番のピークを迎えていた。
ベビーカーを押す若い母親、帰宅途中の学生、魚屋の威勢のいい声、連れ立って歩く少年達、立ち話をする老人、犬の散歩をする中年の女──
昨今、ショピングモールに客を奪われシャッター商店街と化すところも珍しくないが、その通りは未だ活気に溢れていた。
毎日、同じ店が開き同じ店員が店先に立つ。通りを歩くほとんどの人々は、昨日も一昨日も同じくらいの時間に同じ場所を歩いていた。
いつもと変わらない、ありふれた日常。
その日常の光景の中を歩いていく人もまた、他人の目から見れば日常の光景の一部になっている。
変わらない毎日を送る平穏な生活が幸福であるなら、今この通りを歩く人々はその最中にあると言える。
しかし、ほとんどの人は自分が恵まれた環境にいることを実感することはなく、変わりばえのない日々を過ごすことを退屈に感じている者さえいる。
いつの世の人も、それがどれだけ素晴らしいものであったか、失ってから気付くものだ。
そして、それを失う瞬間は唐突に、なんの脈絡もなく訪れる。
夕景の商店街。いつもと同じ賑わいを見せている人混みの中に、その日は一点だけ異物が混じっていた。
五月下旬、今日は急激に気温が上がり夏日になったというのに、男は黒いフードを目深に被っていた。雑踏の中、一人立ち尽くして俯いている。
フードの中の顔は幽鬼の様に痩せ細っていて、眼光鋭く、一目で尋常ではないことが窺えた。
男はすべてのものを憎んでいた。
きっかけは何だったのか男にも思い出せない。気が付いた時には心の小さな歪が男を蝕み、その狂気を全方位へと向けるに至った。
通りを歩く人々が時折見せる笑顔がひどく気に障った。自分はこんなに苦しいのに、なんでこいつらはこんなにも幸せそうなんだ、と。
男の呼吸が段々と荒くなっていく。近くを通る者はその異様さに気付き、迂回して通り過ぎていった。
佇む男の内部でギリギリ保たれていた精神の均衡が崩れたのは、実に他愛もないことだった。歩きスマホをしていた学生の肩が男にぶつかったのだ。
顔を上げた学生は目の前の男の怒気のこもった目にたじろぎ、後ずさる。
男は学生を睨めつけながら、手首に下げていたスーパーの袋に手を突っ込み、白いタオルに包まれていた包丁を引っ張り出した。
白銀の刃が茜色の陽光で鈍く光る。それが周囲の人々の目に入った途端、場は騒然となり日常は崩壊した。
学生はすぐに逃げ出した。刃物に気付いた人々は同様に逃げて距離を取り、ある者は警察に通報し、幾人かはスマホで男のことを撮影しはじめた。
だが、男が刃物を取り出すのを至近距離で見ていた買い物帰りの中年の女性は、その場で立ちすくんだままだった。
男が腕を伸ばせば即刻自身の命が失われるという、圧倒的なリアリティを伴った予感。最も咄嗟の判断が求められるこの状況下で、湧き出た恐怖は脳内の指揮系統を完全に麻痺させていた。
「はっ………ひ……」
女性の引き攣った顔に男の表情がにわかに苛立ち始める。
「何笑ってんだよ、おまえ………えっ?」
問いかけには反応できず、じっと男の顔を見たまま狼狽えている。それがかえって、今にも千切れてしまいそうな男の琴線に触れることとなった。
「……無視してんじゃねぇよ、おい。何で笑ってのかって、聞いてんだろぉ!」
男が怒号とともに、包丁を突き刺そうとしたその瞬間……
何者かの影が女性を押しのけるようにして、その間に割って入った。
直後、中年女性の悲鳴が辺りに響き渡っていた。
飛び込んできたのは制服を着た少女だった。
グレーの千鳥格子柄のスカート、白い長袖のシャツにネイビーのネクタイ……
それは商店街の近くにある大原東高校のものだった。
シャツの前部分は、まるでバレーボールでも詰めたように豊かな乳房によって押し上げられ、はち切れそうに膨らんでいる。
ネクタイはその突出した胸に遮られ、なだらかな斜面に沿うようにして浮き上がっていた。
すれ違う者は性別問わず、誰しもが注視してしまうであろう豊満なバスト……
あろうことか、男の凶刃はその豊かな左胸に突き刺さっていたのだった。
「ぐぅっ…!」
隙を突かれて、通行人達に背後から地面に押さえ付けられた男が低く唸った。カランッと音を立てて、アスファルトの上に包丁が転がる。
「ちょっと、あなたっ、大丈夫!?いま、きゅっ、救急車───」
中年女性が気を動転させながらも女子高生の元へ駆け寄る。しかし、刺された当人が自力ですくっと立ち上がったので、その女性はさらに驚愕で固まってしまった。
少女は何かをごまかすように、へらへらとつくり笑いを浮かべた。
「……大丈夫でしたか?私は……なんていうか、当たりどころが良かったみたいで、大丈夫なんで……ハハ…」
「……大丈夫って……だって、包丁……いま……えぇっ……?」
中年女性が少女の顔と胸に交互に視線を送る。左胸には確かに包丁の刺さった形跡があり、穴が空いていた。だというのに出血は見られない。
「それじゃ、私……用事あるんで……失礼します!」
「あぁ、ちょっと……!」
中年女性の制止を振り切って、シャツの破けた箇所を抑えたまま女子高生は駆け出し、騒然となったその場から走り去っていった。
「はぁ……はぁ………誰かに、見られたかな…」
取り急ぎ狭い路地へと少女は駆け込み、息をついていた。立ったまま前傾姿勢となり両手を膝に付いているため、豊かな乳房が重力に引かれ垂れ下がっている。
この向こう見ずな少女の名前は天原希(あまはらのぞみ)。
近隣にある大原東高校の二年生だ。
少し落ち着いたところで、汗を拭くために肩まで伸ばしている髪をヘアゴムで括った。
ハンドタオルで拭われていく白い肌と琥珀色の瞳、栗毛の髪は外国人である母親譲り。意志の強そうな眉と少し頑固なところは日本人である父親に似ていた。
顔つきはアジア人よりの造形だが、その肉体はグラマーな母親の遺伝か、同年代の女子に比べれば早熟だった。
スカートを押し上げる発達した臀部。そこから伸びる適度に肉付きの良い太もも。黒いローファーに短めの白いソックスがその足の長さをさらに際立たせている。
そして、見る者を圧倒する超大なバスト……
汗を拭き終えた希は、その膨らみを覆うシャツに空いた穴を目視で確認していた。
「あぁ、ブラまで穴空いちゃってる……これ、高かったのに……縫えばまだ、イケるかな…」
シャツの破けた箇所から内部を確認した希が嘆息を漏らす。
穴はシャツからタンクトップ、そしてブラまでも貫通していた。
にもかかわらず希自身は無傷のまま……
それは、希の乳房が持つ特異な性質が関係していた。
肉体のどの部位よりも柔らかく、刃物など受けたらひとたまりもないはずの乳房。しかし、希の弾力に富んだふたつの乳房はあらゆる外的な衝撃を跳ね返す特性を持っていた。それは刃物といった鋭利なものも例外ではない。また、乳肌は触れられた感触はわかるが、痛点が存在しないのか痛みを感じることもなかった。
しかし、刺さっても無事で済むのはあくまでも胸だけ。シャツからブラまで貫通している穴を見て、希は今更ながら背中に冷たいものを感じていた。
………今日のことがバレたら、またみんなに怒られるんだろうな…
友人達や父親の怒った顔が脳裏を過ぎり、思わずため息をついた。
一見すれば溌剌とした美少女………なのだが、何かあればすぐに首を突っ込みたがるトラブルメーカー気質が災いして、周囲の者達からは顰蹙を買うことが多々あった。
それでも明るく裏表のない性格で、どこか憎めないところのある彼女のことを親しみをもって接する者は多い。
…………はぁ……まぁあのおばちゃん、無事だったからいいか……もう、帰ろ……
破けたシャツを隠すために、バッグから学校のジャージを取り出した。そこでもう一度、希は辺りの様子を窺う。
直後、希の乳房に変化が起きた──
超大な膨らみがみるみる萎んでいくのだ。
それこそが希の乳房が持つ異能……
膨乳能力だった。
自分の意志で乳房をいくらでも大きくすることが希にはできた。その力を使って、包丁の刺さる前に乳房を膨らませて自身の身を守ったのだった。
この能力のことは近しい間柄の数人しか知らない。世間に知られれば奇異な目で見られることはまず間違いないので秘匿していた。
乳房は膨張する前の大きさに戻った。それでもかなりの量感がある。
サイズにしてJカップ。本当はもっと目立たなくしたいのだが、能力を自覚した小学校六年の時にはそのサイズに達しており、それより小さくすると不審に思われそうだと考えたからだ。
「──あっ、いたいた。君、大丈夫だった?」
破けたシャツの上からジャージを着ようとしたその時、急に声を掛けられて驚いた。見ると腹の出た肥満体型の男が路地を塞ぐように立っている。
ずっと希を探していたのだろうか、玉のような汗をかいている。
「……包丁で刺されたの、君だよね?出血はないようだけど…」
「あっ、はい……大丈夫だったので…その…」
「ふぅん、良かったね。さっきは何か服の中に詰めてたのかな?」
男は明らかに胸のサイズが変わっていることを不審そうにしている。
「そ、そうなんですよ……おかげで助かりました…」
希は取り繕いながらも、男が無遠慮なまでに胸に視線を送ってくることにざわついたものを感じ、少し後ずさった。
「そうか。でも、念の為に確認したほうがいいね。刺されたところを見せてみて」
「えっ…」
「おっと…怖がらなくていいよ。私はこれでも医者なんだ。安心して。さ、シャツを脱いで」
「いや、でも…」
「ほら、恥ずかしいのはわかるけど怪我があったらいけない。すぐに済むから、はやく」
男は笑みを浮かべながら、にじり寄った。
希にとって、男が本当に医師であるのかはどうでもよかった。その体を舐め回すように見てくる視線が不快だったのだ。
本能が一刻も早くこの場を去るように告げている。しかし、大通りに出るためのルートは男によって塞がれていた。
「いや、でも……ほんとに大丈夫なんで…」
「手遅れになったらどうする!素人の判断が一番危険なんだっ!」
希の態度に業を煮やしたのか、突然男が声を荒らげた。希の肢体がビクッと震える。それは相手の判断力を奪うためのものでもあった。
「……さぁ、早く服を脱いで胸を見せなさい」
声の調子を柔らかくし、男はニヤつきながら歩み寄った。近付くにつれ、若い女の匂いに反応したのか、興奮で鼻息が荒くなる。
何を言っても無駄であることを希は悟った。
どうして、こうなるの……?
希は胸を覆っていた腕をだらりと下げた。
幼少の頃からずっと住んでいるこの街が好きだった。商店街は今どき珍しいくらいに人情味に溢れ、希は幼い頃から可愛がられて育った。NPOで平和維持活動をしている母の影響を受け正義感が強かったこともあり、将来は警察官となってこの街の平和を守りたいと本気で考えていた。
……だというのに、守るべき住人の中には目の前の男や包丁の男のような害意を振りまく者も存在する。そこにジレンマを感じていた。
痴漢にあったのも一度や二度ではない。恵まれた肉体が時に無害なはずの男達を狂わせていることを知っていた。
自分ではどうしようもないというのに……
「そんなに……胸が見たいんですか?」
「へ?」
男は憂いを帯びた希の表情に、これまでとは違う何かを感じた。しかし、気の逸った男は希が観念したのだと理解した。
「……勘違いしてもらっては困る。私は君を心配しているんだ。まぁ……君がそれを望むなら、やぶさかではないがね」
男の言葉に希は俯いたままだ。
「……しかし君は、随分と胸が大きいね。自分だとボタンが外し辛いだろう。私がやってあげよう」
希の首元へとゴツゴツした手が伸びる───
その瞬間、顔を上げた希が胸を突きだして叫んだ。
「そんなに見たいんなら……見せてやるッ!」
直後、希の胸が急激に膨張した。
シャツが破れ、ブラの前部分のホックが引きちぎられる。
──その膨らむスピード、実に時速80キロ。
至近距離からの予想外からの角度に加え、ボクサーのパンチスピードの倍の速さ。
つまり、常人には避けられない……
「ふぐっ……!!」
柔らかな乳房とはいえ、急激な膨乳は凄まじい威力を生んだ。
弄ろうとしていた乳房に男は吹き飛ばされ、地面に大の字なった。乳房は底面が膝頭に達し、到底服の中に収まらないほど、規格外のサイズへと膨張していた。純潔を思わせる薄桜色の乳輪は手のひらサイズに広がっている。
「───きまった……おっパンチ…!」
心の葛藤を乳房に乗せて、男を返り討ちにした希が腰に手を当て勝ち誇る。だが、すぐに自分が半裸であることに気付いて乳房を元に戻し、ジャージを着た。
「……生きてる、よね」
少々心配なり男の様子を窺う。乳房に打ちのめされた男はなぜか夢見心地な表情のまま気絶していた。
男の無事を確認したあと、希は足早にその場を去った。その胸に去来したのは、かつてない充実感、そして希望だった。
……私だって、誰かを守れる。街を平和にできるんだ……この街に巣食う悪人達は、私がぶっ飛ばしてやるっ!……
かくして、天原希は自分の住む街の平和維持活動に勤しむこととなった。
それは純粋な正義の心、地元愛からくるものだった。しかし、それは同時に希自身をいやがおうにも目立たせ、その乳房を付け狙う者達を自ら招き寄せることとなった。
そんなことになるとは露知らず、膨乳少女は頬を弾ませながら商店街を駆け抜けていった。