やはり俺は孤独だった。 作:悪夢
「...ただいま」
明かりの無い我が家。両親が不在であることは珍しくないのだが、小町も帰りが遅い日が続いている。
「...」
ドスドスとフローリングを踏みしめる音がやけに大きいのは気のせいだろうか。...気のせいだと思いたい。
「寝るか...」
夕食を摂るには少し早い時間だ。...ここ最近は心を抉られる出来事が多すぎた。少し横になりたい気分だ。
「...?」
ぼんやりとしていると、足元にぬくもりを感じた。
「ああ...お前か」
ゴロゴロと喉を鳴らしているカマクラを撫でまわす。
「腹減ったか?」
腹が減った、と返事を返した気がする。...俺は後で良いが、コイツの飯は準備しよう。
「行くか」
リビングへと足を運ぶと、愛猫はトコトコと俺の後ろを着いてきた。
「よっ、と」
戸棚からキャットフードを取り出し、いつものエサ皿にザラザラと流し込む。
「水も少ねぇな...」
水皿に水を注ぎ、コリコリとキャットフードにがっつくヤツの姿をぼんやりと眺める。
「...」
猫は気楽でいいよな...悩みなどなさそうだ。
「はぁ...」
ソファに横たわり、灰色の天井を見上げた。
「...」
硬めの餌を咀嚼する音が心地よく、段々と意識が沈んでいく。
「ふぁ...」
視界はぼやけ、思考は曖昧に溶けていく。
...今夜も小町はあの男に調教されているのだろうか。
いけ好かない伊達男に組み敷かれ、ベッドの上で甘い嬌声を上げている小町の姿が脳裏に浮かぶ。
可愛い妹が快楽の沼へと堕とされていく姿がひどく鮮明に想像出来てしまう。
「...何を考えてるんだ、俺は」
下らない事を考えるのはやめよう。
...そして、俺はいつの間にか眠りに就いていた。
――――――――――――――
「...んあ...?」
ふと目を開くと、夕日が差し込んでいたリビングはすっかり夜闇に飲まれていた。
...いま、何時だ...?
床に落ちていたスマホを拾い上げると、画面には18時30分と表示されていた。
「6時か...」
さすがに腹が減った。
「よっ、と」
重い身体を引き起こし、キッチンへと向かう。
何か食材は無いものかと冷蔵庫を開くが―――
「何にも無い...」
健全な男子高校生の食欲を満たせるほどの備蓄が無かった。
「コンビニでも行くか」
俺は自転車の鍵を手に取り、財布とスマホをポケットに入れて家を出た。
...この時間に小町が居ないという事は、恐らく今日も泊まりなのだろう。相手はもちろん...あの伊達男だ。
「...」
...何を食べよう。
自転車を漕ぎながら食べ物の事を考える。脳裏に浮かぶ、まるで雌犬のようにリードに繋がれた小町の姿をかき消すように。
「はぁ...」
コンビニ弁当やコンビニおにぎりという奴は、たまに食べると旨いのだが...こう何度も食していると飽きてくる。
「スーパーに行くか」
たまには趣向を変えて自炊するかと思い立ち、俺は目的地であるコンビニエンスストアを通り過ぎた。
目指す先はもう少し離れたスーパーマーケットだ。
「...?」
目の前の標識が明るく反射している。そして、背後から低く重い排気音が聞こえて来た。
「...え?」
自転車の横を通り過ぎる車は...黒い外車だ。大柄なセダンタイプであり、薄暗い夕暮れ時では車内の様子が分からない。
しかし、本当に気のせいだと思いたいのだが、助手席の人物に見覚えが有る...気がした。
「雪ノ下...じゃないよな」
濡れ羽色の黒髪に見えた...気がするのだが、視界の悪い夕暮れ時だ。見間違いだろう。
...しかし、車の方にも見覚えが有る気がする。あれは、先日の放課後に雪ノ下が乗り込んだ車ではないか?
「...気のせいだ」
気のせいに決まっている。外車などこの辺りでは珍しくない。
「ん?」
その時、ポケットの中でスマホが振動している事に気が付いた。
そのまま確認するワケにはいかなので、自転車を停めてスマホを取り出した。
「...誰だ?」
見覚えのある番号だが、どうにも誰のモノなのか思い出せない。
「もしもし?」
声を聞けば思い出すだろう。そう思いながら通話を開始した。
『遅いわよ』
透き通るような美しい声。開口一番で文句を言うような女子の知り合いはそれほど多くない。
「雪ノ下か?」
『ええ。まさか、電話番号を登録していないのかしら?』
「ああ。由比ヶ浜の番号なら知ってるんだけどな」
そういえば雪ノ下の電話番号知らないな。
『...そう。由比ヶ浜さんの番号はご存知なのね』
心なしか少し不満そうな声だ。
「まあな。そう言うお前はどうして俺の番号をご存知なのでしょうか?」
『そ、それは...あなたが気にすることではないわ』
ほんの一瞬だけ動揺を見せた雪ノ下だが、直ぐにいつもの調子に戻る。
「いや気になるでしょ。俺の番号ですよ雪ノ下さん」
『別にあなたの個人情報くらい...ふふっ』
「怖えよ。金持ち怖えよ」
俺の個人情報が裏ルートで出回ってるのかよ。
『冗談よ。由比ヶ浜さんに聞いたの』
「そういう事か」
『まあ別に調べようと思えばあなたの個人情報くらいは...いえ、そんな事は置いておきましょう』
「置くな。気になるだろ」
冗談じゃなかったのかよ。
「それで...あなた、今何をしてるのかしら?」
無視された。まあ良いか。
「別に何もしてないぞ。腹が減ったからコンビニに向かってるところだ」
いつもの調子で会話をしていると、段々と気分もいつもの調子を取り戻していく気がする。
...つい先日の小町の痴態を思い出す度に気が滅入りそうになるのだ。
『そう...』
会話が終了した。
「お前、頭いいのに会話は下手だな」
『あなたに言われたくはないわ』
一昔前なら既に
「まあ、お互い様だな」
『ふふふっ...そうね』
柔らかい声色だ。普段から同じようにすればいいのに。それなら氷の女王と呼ばれた雪ノ下雪乃の評価も―――
『比企谷くん?』
雪ノ下の声で我に返る。
「...ああ、すまん。考え事してた」
『あなたの青春の中で数少ない女子生徒との通話だというのに、他に何か考える事でもあるのかしら?』
いつも通りの鋭い刃だ。しかし、声色は随分と優しい。
「ありがたく思い出に刻ませてもらうよ」
『ふふふっ...♪』
楽しげな声がスピーカー越しに聞こえる。
しかし、雪ノ下は何かの用事で電話を掛けたのではないだろうか?
「何か用事じゃなかったのか?」
『...用事が無ければ電話をかけてはいけないのかしら?』
質問を質問で返すなとあれほど―――え?
「まさか...本当に何もないのか?」
『...別に、私も親しい知人と世間話くらいするわ』
...どうやら、本当に何も用事は無いらしい。
「...そうか」
親しい知人。"友達"ではなく、"親しい知人"と称す辺りが実に雪ノ下らしい。
『ねえ、比企谷くん。今からお夕飯を買いに行くということは...まだ、何も食べていないのよね?』
「まあな。健全な男子高校生だから腹ペコだ」
とは言え、我慢できない程ではない。
『ふふっ...あなたが健全な高校生...ふふふっ』
電話口に笑い声が漏れる雪ノ下。
「おい。俺は至って健全な普通の男子高校生だろうが」
『そうね...ふふふっ』
「さては心にもないな?」
全く...確かに捻くれてはいるが。
『ごめんなさい、ついつい笑いが零れてしまったわ』
「雪ノ下さんにしては珍しいくらい爆笑してたでしょうが」
まあ、コイツが楽しそうにしてると嬉しくなるから別に構わないけどな。
『ふふふっ。それで、先ほどの話には戻るのだけど...夕飯、まだなのよね?』
「ああ」
この流れ...ひょっとしてひょっとするのか?
『それなら...その...私の家で食べない?姉さんが頂いたお野菜を勝手に置いていったのよ』
「良いのか?」
雪ノ下はかなり料理が上手い。そんな彼女の手料理という事なら実に期待できる。
『ええ。私一人では食べきれないから...その...来て、欲しいわ』
恥ずかしいのか、段々と小声になる雪ノ下。珍しくしおらしいその反応が何とも愛らしい。
「そ、それなら...ご相伴にあずかるぞ」
『ぁ...ほ、本当に?』
少し声が弾む雪ノ下。顔がほころぶ姿が目に浮かぶようだ。
「ああ。何時ごろ行けば良いんだ?」
『そうね...40分後くらいに尋ねてもらえると助かるわ』
「わかった。40分後だな」
ここから雪ノ下のマンションまでは...10分くらいか。
『ええ。じゃあ、また...』
「あ、ああ。あ、悪い、もう一つだけ聞いても良いか?」
『何かしら?』
...聞きたい。今、俺の横を通り過ぎたかどうか。
「今、スーパーの横を走って...無いよな?」
『スーパー?何のことかしら?』
本当に分からない様子だ。...よかった。先ほどの黒髪の女性は人違いのようだ。
「あ、いや、違うなら良いんだ。...まあ、また後で」
『ええ。...気を付けてね』
そして、通話が終了した。画面には『通話時間18分』と表示されていた。
「...」
最後の優しい声がいつまでも耳朶に残っている。
今頃気が付いたのだが、未だに心臓がバクバクと激しく鼓動を響かせている。
「と、とにかく行くか」
手ぶらでお邪魔するのも悪いから手土産にお菓子でも買っていこう。
そして、わざわざスーパーまで回り道をして雪ノ下のマンションへと向かったのであった。
――――――――――――――
「...ふぅ」
目の前にそびえ立つタワーマンション。とてもではないが高校生の小娘が一人暮らしするような建造物ではない。
「...」
駐車場に出入りする車も高級車ばかりだ。
「...よし」
場違いな空気を感じながらエントランスに入り、雪ノ下の部屋番号を入力して呼び出した。
『い、いらっしゃい、比企谷くん...っ』
何故か息が荒い雪ノ下が応答した。
「お、おう。悪い、少し早かったか?」
慌てた様子だ。まだ準備が整っていないのかもしれない。
『だ、大丈夫よ。少し緊張して―――い、いいから、早く上がりなさい』
そして、直ぐに開く自動ドア。
「あ、ああ」
とりあえず向かうか。こんなところで長話しても仕方ない
「...」
それにしても...緊張していたのか。可愛い所もあるよな、雪ノ下って。
....................
エレベーターを降り、雪ノ下の部屋の前に立つ。
装飾が豪華な扉に何とも威圧されてしまいそうだ。
「...よし」
意を決してインターホンを押そうとした―――その時であった。
「...何をしているのかしら?」
怪訝そうな顔で玄関を開ける雪ノ下。
「わ、悪い...」
ゆったりとしたクリーム色のセーターに、深いスリット入りの白いロングスカート。その上からオリーブグリーンのエプロンを巻いている。
首元が緩いデザインのため、雪ノ下の細い肩や首筋が見えており、その名の通り雪のような白い肌が眩しい。...意外と大胆なデザインの服を着てる、というのが正直な感想だ。それに、見た目より生地が薄いのか、普段より更に細身に見える。
「ほ、ほら、寒かったでしょう?早く入りなさい」
ほんのりと頬を染めながら招き入れる雪ノ下。
「あ、ああ。お邪魔します」
「ええ。いらっしゃい」
広い玄関を通り抜け、ほんのりと暖かい廊下を歩く。
「コート預かるわ。寒かったでしょう?」
「悪いな。まあ、確かに寒かった」
耐えられない程ではないが。
「そう...ごめんなさい、急に誘ったりして」
「気にすんな。それに、お前の手料理だろ?むしろお金を払いたいくらいだ」
「ふふふっ...別に要らないわよ」
来客用のスリッパをはいて雪ノ下の後に続く。...ちなみに彼女はパンさんをモチーフとした可愛らしいスリッパを履いている。
「...」
やけに暖かい。雪ノ下は寒がりなのだろうか?少し暖房が効きすぎている気がする。
「ごめんなさい、まだ何も出来ていないの」
「あ、ああ。別にいくらでも待つさ」
40分という時間は、別に料理の仕込みに時間が掛かるからという理由では無かったらしい。...先ほどの言葉から察するに、部屋の片づけでもしていたのだろうか?
「ありがとう」
ふわりと微笑む雪ノ下。
「っ...!あ、ああ」
その柔らかい笑顔に胸が高鳴ってしまい、思わず顔を背けてしまった。
「比企谷くん?」
そんな不審者丸出しの俺の顔を覗き込む雪ノ下。...自分で自分の事を不審者と言っちゃうのかよ。
「い、いや...あ、そ、そうだ。コレ、大したものじゃないが...」
カバンの中から綺麗に包装された小箱を取り出して、妙に色っぽい服装の雪ノ下に手渡した。
「これは?」
不思議そうに手元の小箱を眺める雪ノ下。
「その...手土産だ。旨そうなチョコレートが売ってたからな」
少しお高い洋酒入りのチョコレートだ。
「そんな...別に気にしなくていいのに」
「まあ、俺の自己満足だ。受け取ってくれ」
申し訳なさそうな表情を浮かべる雪ノ下。...こんな顔を向けてくれる程の関係になれた事が少し嬉しい。
「...ありがとう。夕食の後に一緒に食べましょう?」
「ああ」
そう言って雪ノ下はキッチンへと向かった。心なしか、足取りが軽い気がする。まるでスキップでもしているような軽やかな足取りだ。
「♪」
実に楽しげな表情で対面式キッチンに立つ雪ノ下。
この笑顔が見れるなら少しお高いチョコレートなど安いモノだ。
そんな雪ノ下をぼんやりと眺めながらソファでくつろいでいた―――その時であった。
「?」
食卓の方から着信音が聞こえて来た。雪ノ下のスマートフォンだ。
「...!」
雪ノ下がパタパタと小走りで食卓へと回り込み、慌てた様子でスマホを手に取る。
「っ...」
小さく息を吞む雪ノ下。宝石のような美しい瞳は大きく見開かれている。
「雪ノ下?大丈夫か?」
相手は...あの母親だろうか?もしくは雪ノ下さんだろうか?どちらにせよ雪ノ下の反応を見る限り好ましい相手ではなさそうだ。
「ご、ごめんなさい」
そう言って雪ノ下はリビングを後にした。
「?」
...明らかに様子が変だ。しかし、プライベートな問題であれば首を突っ込むことは出来ない。
「...」
ちらりとキッチンを覗いたところ、まだまだ食材の仕込みの途中であることが推察できた。...コンロの火は消えているので大丈夫なのだろう。
「...」
再びソファに戻るのだが、どうにも落ち着かない。
暇つぶしにスマートフォンのストレージに保存している電子書籍を開くのだが、どうにも内容が頭に入らない。
「...」
時間にしてほんの数分後、雪ノ下が電話を終えたらしい。...落ち着かない心境では随分と長い時間に感じられた。
「大丈夫か?」
少し表情の暗い雪ノ下に尋ねた。もし、この後に両親がこの家を訪ねる、という事ならお暇する必要があるだろう。
「ええ。...大した事は無いわ」
しかし、本人がこう言うのだからそれ以上聞けない。
「...ひょっとして、実家の関係か?」
「ええ。...でも、別に大した問題では無いわ。大丈夫よ」
慌てた様子が気にかかるところだが、それを聞ける程の関係を築けている自信が無い。
「何でも力になるから直ぐに言うんだぞ」
「ええ、ありがとう。...急いで作るからもう少し待てるかしら?」
言い方はともかく、そんな不安そうなその表情をされてはツッコミを入れられない。
「ああ。時間は有るから大丈夫だぞ。下手に急いで怪我でもしたら大変だ」
俺のせいであの白魚のような美しい指に切り傷が出来てしまう事の方が罪悪感が有る。
「べ、別に怪我なんてしないわよ」
ほんのりと頬を赤らめながら答える雪ノ下。口元からは笑みが漏れている辺りが可愛らしいところだ。
「...楽しみに待ってるよ」
「ええ。期待していなさい」
得意気な表情。...楽しみだ。
―――――――――――――――――――――――――――
「ふぅ...ご馳走様。マジで美味かった」
「ふふふっ、ありがとう」
素直に褒めると、雪ノ下も実に素直な反応を見せた。
「本当に料理上手だな。ここ最近の食事だとダントツに美味い」
何の誇張も無しにその通りだ。
「そ、そこまでのモノでは無いわよ」
雪ノ下にしては珍しく謙遜している。しかし、それも照れ隠しであることが分かる。
「洗い物は是非とも任せてくれ」
食べさせて貰うだけでは申し訳ない。
「別に気にしなくて良いわよ。食洗器で洗うから」
「そうか...」
己の無力さが情けない。
「でも、そうね...それなら、お鍋を洗ってくれるかしら?その間に私は食器を食洗器に入れるから」
そんな俺に気を使ってくれたらしく、雪ノ下は役割をくれた。
「よし、任せろ」
シャツを捲り、意気揚々とキッチンへと向かう。
「ふふふっ♪」
背後から雪ノ下の楽しげな声が聞こえる。それは馬鹿にしたかのような歪んだモノではなく、心から楽しそうな優しい笑い声だ。
.........................
「こんな感じで良いか?」
「ええ。上出来よ」
フライパンやお鍋などの食洗器に入らないモノを手洗いして、食器類は食洗器で洗う。新しい食洗器であれば手洗いより水を節約できるとのことだが...意外と庶民的な事を考えるんだな。
「よし。どこに仕舞えば良いんだ?」
布巾で水気を取り、後は片付けるだけだ。
「そのままで良いわよ。後は私が片付けるから」
最後まで手伝いたいところではあるが、台所は女性のなんとやらとも言う。雪ノ下の治める城内を荒らすワケにはいかない。
「分かった。後は任せるぞ」
「ええ。そこに座って映画でも観て待っていないさい」
まだ帰りたくないと思っていたのだが、どうやら雪ノ下としてもまだ滞在して欲しいらしい。
「そうさせてもらうよ」
大きなテレビの前に並べられているソファに腰かけて、テレビのリモコンを手に取った。
「サブスクに加入してるからある程度は何でも観れるわ。好きにして頂戴」
「ああ、ありがとう」
リモコンを手に取り、アプリと記されているボタンを押した。
すると、画面上にはスマホのアプリと同じアイコンが表示されたのだが...雪ノ下がどのサブスクリプションに加入しているのか分からない。
「1番上の段の左から2番目よ」
そんな俺の様子を察したらしく、雪ノ下が先回りして教えてくれた。
「ああ」
アイコンを選択して決定ボタンを押した。すると、ロゴが表示された後にズラリとサムネイルが表示された。
「おお...」
凄い数だ。これが全て見放題というのなら映画のサブスクリプションも悪くないかもしれない。
「その...出来ればホラー以外が良いわ」
キッチンから可愛らしい要望が聞こえた。
「コレならどうだ?」
去年の夏に公開されたホラー映画を選択した。...怖すぎて最後まで見れないと話題になったものだ。
「...いじわる」
「冗談だよ。これで良いか?」
想像以上に可愛らしい反応だ。思わずときめいてしまった。
「ええ。それで...えっ?」
俺が選択したのは、ウォッチリストに入れられていた『パンダのパンさん』のアニメ映画だ。
「コレ、観たいんだろ?」
雪ノ下はパンさんの事になると目つきが変わる。
「それは...えっと...ええ、それで良いわよ」
「よし。再生するぞ」
再生ボタンを押すと、版権元のブランドロゴがでかでかと表示された。
「...」
「...」
物音がしない。ちらりと後ろを振り返ると、雪ノ下はフライパンを片手に静止していた。
「ゆ、雪ノ下、一旦止めるからこっちで一緒に観ないか?」
そのあまりにも真剣な眼差しは、そのまま2時間程微動だにせず鑑賞しそうな勢いであった。
「え?...あ、そ、そうね。そうするわ」
我に返る雪ノ下は見た事のない程の手際の良さで片づけを済ませ、音も無く俊敏に俺のすぐ隣に腰かけた。
「さあ、再生して頂戴」
「あ、ああ」
その気迫に気圧されながら再びアニメ映画を再生した。
「...」
「...」
手を伸ばせば触れる事が出来る距離。体と身体は密着しそうなほど近く、雪ノ下からは花の様な甘い香りが漂ってくる。
「っ...」
当の本人は映画に夢中だが、俺はそれどころでは無かった。
絶世の美少女が数センチ隣に居るという状況にドギマギしてしまい、画面上に映るパンさん映画の内容など頭に入らない。
「比企谷くん」
「な、なんだ?」
突然、声を掛けられてしまい、思わず声が裏返ってしまった。
「ふふふっ、どうしたの?様子が変よ?いつもだけど」
優しい口調かと思いきや最後に毒が漏れている。
「おい。いつもはちゃんと擬態してるだろ」
「壁にかしら?それとも床?」
いつもの調子でからかう雪ノ下。...しかし、そのおかげで不思議と落ち着きを取り戻した。
「背景に擬態してるつもりだ」
「ふふふっ...今のあなたの存在感ではもう無理よ」
そうだろうか?別に注目されるほど友達は居ないが。...悪目立ちという意味ではその通りかもしれないか。
「そうか?」
「ええ。少なくとも私は―――」
雪ノ下は何かを言いかけて静止した。
「...な、なんでもない」
みるみるうちに頬に朱が差していく雪ノ下。
「そ、そうか」
そんな彼女の様子に、俺も視線を逸らしてしまった。
「...」
「...」
そして、再び画面に視線を向けた。
画面上には軽快なBGMと共にポップな絵柄のアニメ映画が流れている。
「...」
しばらくはドギマギしていたのだが、ほのぼのとした雰囲気故に段々とリラックスしてきた。
「.......」
満腹感と、ふわりと香る甘い匂い。そして暖色系の柔らかい照明が気持ちを落ち着かせて、同時に眠気を誘う。
「...っ...」
雪ノ下の悟られないように欠伸をなんとか誤魔化したのだが、当の本人は映画に夢中だ。
「......」
マズい...眠い...
思考が纏まらない...
視界が霞んでいく...
..........
......
...