子供に戻ったと思ったら女体化させられるし女として生きるべきか男のまま生きるべきか分からない俺はスワンプマン 作:千佳のはんぺん
初めは野球なんて、好きじゃなかった。
『センター前抜けて行った! ヒット! イチロー、二打席目でシーズン最多安打新記録258本達成!!』
「うおぉぉおおおっ!! よぉやったイチロー!!! メジャーの星じゃあーー!!」
まだ四歳だか五歳だかくらいの時、お
今思い出せる最古の記憶はそれだ。俺にとっての1番古い、俺の起源と読んでも差し支えない熱狂の記憶。
その記憶による刷り込みか、俺は小学校に入ると真っ先にベースボールチームに加わった。お父に褒められたかったし、お父が好きな野球で活躍できるような名選手になれたら、俺もあんな風に喜ばれるのかなって思ったから。
人並以上に練習した。
イチローに憧れていた。
というより、イチローの栄光に憧れを持っていたから、チームの中での安打数でトップを取りたくて、ひたすら朝から夜まで毎日素振りと動体視力を鍛えるのに注力した。
事実俺はチーム内では誰よりもバッティングが安定して、主力に据えられる事も多くなった。
けど、俺は体が小さかった。
昔からクラスで背の順で一番前に立たされる程小柄な俺は足が短いのと、バッティング練習ばっかしていたせいで走力が足りなかった。
「お前ホンマに走力クソやな! 打っても意味ないねん、どうせ足遅いならホームラン叩き出せや!! 毎日六時間はランニングせぇたわけが!!」
褒められなかった。
野球を始めてから、バッティングがちょっと人より上手くても、肩もコントロールも特段良いわけではなかったし、断トツで足が遅かったから、褒められたのなんて最初の内は数回程度しか無かった。
……いや、まあ負け試合もあれば勝ち試合もあって、良い試合も悪い試合もあったが。良い試合の時に褒められるのは他のチームメイトばかりで、悪い試合の時だけやたらと俺に激が飛んだ。
一芸にしか長けていない器用貧乏は野球には不要で、バランスの良い選手ほど生き残れる。それが野球の世界だと、お父は口を酸っぱくして言っていた。
だからお前は走力と送球力を上げろと、何度も頭にゲンコツを落とされながら言われた。
俺は、野球以外の全部を捨てた。
「俺はこのチームのエースになります。チビだからって甘く見ないで下さいね、監督!」
自信に満ち溢れていた。
勉強もせず、遊びもせず、恋愛もせず、テレビもゲームも本も何もせずにただひたすらに体を作り、方法を調べずにただ無我夢中で野球をするのに必要な能力を伸ばして行った。
お父から殴られる事が無くなり、褒められるようになった。俺はお父の子供の頃に似て努力家で、野球の才能があるらしい。お父が言っていた。
……じゃあ、お父みたくプロにはなれず、腹をぶくぶく太らせて、居間で野球観戦をしては唾を飛ばしたりその日の機嫌を左右させ、日曜は子供の野球を見に来て怒鳴り散らすような大人になるのかと。そんな未来だけは勘弁願いたいなと思った。
この頃から、お父との間に距離が生まれ始めた。お前と一緒にするな、そう思うようになった。
「ちょっと翔平! あんたまたテスト0点って、やる気あるの!?」
今度はお
褒められる事は一切無くなった。
当たり前だ。野球以外に何も無いバカ息子を、野球の事なんか何も知らない女が理解出来るわけが無い。
家にいる時間をとにかく減らした。
家にいればお母に怒鳴られる。お父はその時は俺の事など知らぬフリで、野球の中継やドラマを見て居間で寝転がっているだけ。
居心地が悪くて狭いだけの空間にいる意味など無かった。
「はぁっ! はぁっ! ふっ!」
学校を終え、練習を終え、家に帰ったら飯だけ食って、またバットを持ってランニングし、素振りの練習をする。
ルーティーンが決まってくるとそれらは無意識的に行えるようになった。
一応、勉強が全く出来ないと将来が不安だなという気持ちもあるにはあったので、合間合間に教科書を流し見したりもした。
結局野球以外のことは頭に入らなかった。俺の頭は出来が良くないらしい。
同じ場所で素振りをする。地元のプールの道路を隔てた先には小さな山があって、そこには社と鳥居と少しの民家がある。いつも日が落ちるとそこに立ち寄り、境内でバットを振るった。
「あの〜」
「っ!? 誰だ!」
「こっちのセリフなんですけど……」
同い年の女の子に出会った。髪を高い位置で二つ結んだ、普通くらいの背の、普通の女の子だ。
「こんな時間になにしてるんですか?」
「なにって。見ての通り素振り」
「見ての通り……? あの、ここだと近隣に迷惑かも。夜だし……」
「……悪ぃ」
「ううん」
次からは場所を変えよう、そう思い立ち去ろうとした。行こうとする俺の手を女子が握ってきた。
「少年野球チームの辻井君」
「え?」
「同じクラスの。覚えてない? 私、柳瀬川!」
「……覚えてない」
「ひどーい! 今隣の席!!」
「野球の事以外あんまり頭に入らんから」
「そんな人いる? ……ま、そういうことにしといてあげる。ね、そのバット振るやつ、いつも何時までやってるの?」
「? 10時くらいまで。それ以降は警察がよく巡回してるし」
「そんな遅くまで外居て、お母さんとか心配しない?」
「もう慣れてるよ」
「そっか。危ないから、今度からウチの庭使っていいよ! お母さんにも言っとくし!」
手を引かれる。
他人に、チームメイトにすら愛想良くしたことの無い俺だ。人に優しくされたことなんて家族以外に無かった。だから驚いて反射的に、柳瀬川の手を振りほどいてしまった。
「今日は帰るよ」
「そう? じゃあね、辻井君」
初めてマトモに見た、俺に向けられた笑顔に、しばらく頬の熱が冷めることは無かった。
*
「辻井〜! 応援来たよ〜!」
「おわっ! 柳瀬川、空気読めよ!」
柳瀬川の家の敷地を使わせて貰えるようになって、柳瀬川と話す仲になった。
中学に上がっても仲は継続していて、こんな風に他校との練習試合がある時なんかはわざわざ差し入れを持ってきてくれる程にまで仲が深まっていた。
……野球部の面々にはそれが恋人とかに見えているようだった。
そんな風に弄られるのは嫌いだ。よく分からないけど、他人にとやかく俺らの関係を茶化されたくなかった。
「なんで柳瀬川は俺なんかと仲良くしてくれるわけ」
「え、なにそれー。変な映画でも……や、辻井は映画なんか見ないか」
「見ないよ。悪かったな、共通の話題がなくて」
「ううん。で、私が辻井と仲良くする理由?」
「おう。友達だからってのはナシな。それ以外で」
「えー?」
他のチームメイトとは離れ、柳瀬川と一緒に弁当を突っつきながら会話する。この瞬間も他のチームメイトに茶化されてるんだと思うと腸が煮えくり返りそうなくらい苛立つが、ちょっかいを掛けてこない限りはもう気にしないことにした。
隣で食べる手を止めて柳瀬川が考える。その横顔を直視すると、なんかむず痒くなるから俺は食うのに集中した。
「一目惚れだった」
「えっ?」
「……あ! 違う違う! 恋愛とかそう言う意味でじゃなくてねっ!? ええと、ほらっ! 少年野球チーム時代、やってた試合で! 偶然辻井を見かけた事あって! クラスメートで、無愛想で暗い人だなって辻井の事、思ってたから、あんなに必死になって頑張ってる姿を見られるなんて思わなくてさっ! すっごくキラキラして見えてっ、それでっ!!」
「……」
「……それで」
柳瀬川が何故か顔を赤くした。日に焼けすぎたのだろう。俺も顔が火照ってて何も言い出せなかった。気まずい空気が流れた。
「……簡単に言うと、私、野球をする辻井が好きだから、もっと見てたいなって思ったから、仲良くしようって思ったって言うか……」
「……恋愛的な意味では無いんだよな?」
「……さぁ」
煮え切らない答えだった。だが、そこから先を聞くのは野暮だなと思ったし、その日はそこで会話は中断された。
誰も俺の野球を肯定してくれなかった。
お父は褒めてくれるが、理想とは程遠いと認めてはくれなかった。
お母はそもそも野球を知らない。
チームメイトから向けられる視線は、俺が目障りだとか、そういうマイナスな感情に振り切れていて、監督ですら俺をただの便利な道具としか見てなかった。
イチローのように、期待され愛される選手ではなく。俺はただの便利屋のようなポジションに落ち着いていた。
そんな俺が、初めて誰かに野球を肯定された。
その日初めて、心から、野球をやっていて良かったって思えた。
消去法で俺の全てになっていた野球が、真の意味で掛け替えのない俺の唯一誇れる物となった。
*
「ごぇん、ごえんなさい、ごべんなさいっ!」
柳瀬川は自殺未遂をした。原因はいじめ、その主犯格はその時は特定出来なかった。
後になって今泉絵里加という女子が関与していると知る事になるが、それはこの時点では関係の無い話だ。
一年の二学期が始まってすぐだった。
長きに渡るいじめによって追い詰められ、限界が来た柳瀬川は、精神を病んで学校の屋上から飛び降りたらしかった。
下にあった教師の車がクッションとなり一命を取り留めたが、足がひしゃげていた。
柳瀬川はサッカーが好きだった。サッカー部は男女混合だが女子は少なく、それでもスタメンを取ろうと頑張っていた。
もう二度とサッカーを出来ない。それなのに死ねず、生きている。そんな思いが、柳瀬川の精神を余計に不安定にさせた。
連日、俺が見舞いに来るとどこかで必ず柳瀬川は泣き崩れる。怪我が治っていっても心に負った怪我は癒されず、柳瀬川の輝きも徐々に失われていった。
段々と、俺も柳瀬川のいる病室に運ばなくなった。アイツがやつれていくのを見るのは嫌だから。
「なんで、俺に頼ってくれなかったんだ」
勝手に動く口が吐いた言葉にゾッとし、俺は自分を殴った。言ってたじゃないか、柳瀬川は俺がキラキラして見えるって。
言ってたんだ。俺の、ファン1号だって。
……そんな相手に、いじめられてるから助けてなんて、言えるわけないだろ。
その頃から俺は、少しずつ不良との付き合いを始めた。
*
中学二年に上がった。
柳瀬川をいじめていたメンツの一人に今泉がいる、という噂が流れ始めて、俺はその噂を鵜呑みにして今泉をいじめ返してやろうと思った。
航太も笠原も佐藤も、柳瀬川の事情は知らない。ただ、俺が柳瀬川関連になるといつもより負の感情を出しやすいから、それを面白がって付き合っているだけなのは肌で感じていた。
許せなかった。だからいじめた。俺にいじめる資格は無くても、今泉には復讐される義務はある。そう信じて疑わなかったから、俺は今泉に手を上げ続けた。
「いがぐりチビ男。青春球児が女をいじめるとか、ださすぎキモ男」
鹿狩八尋が転入してくると、全てが一変した。
それまで女子相手に恐怖政治じみた言論統制を行っていた竜胆都子が大人しくなって、菊池紗理奈もそれに合わせて女子の中のカースト制度を取っ払った。
あっという間に女子のグループ間の隔たりは無くなった。
佐藤が生徒相手にあまり暴力を振るわなくなった。
航太は何も変わらなかったが、元より航太は暴力というよりからかいの方で人を弄るのが多かったから、男子の方も空気が弛緩したかのように感じた。
鹿狩八尋が来てから、教室の雰囲気が柔らかくなった。でもそれは決して気持ちの良い物ではなく、むしろ人工的に作られた生暖かさがあって、居心地は良くなかった。
俺は教室にあまり入り浸らなくなった。
*
「辻井君が助けてあげるべきだと! ウチは思うな!」
今泉が鹿狩に庇われ、俺もアイツに干渉しなくなりしばらく経った頃。クラスメートでギャルになりたての蝶田花子に声を掛けられた。
なんでも、蝶田は柳瀬川と仲の良かった女子の一人であり、彼女も柳瀬川の身を案じているが会う度にトラウマを刺激してしまうのか泣かれて、参っているらしかった。
そこで提案されたのが、俺が柳瀬川を励ますべきという意見だった。
「なんで俺なんだよ。俺はいじめをした側、柳瀬川のあんな風にした奴と同類のクズだぞ」
「今泉さんの事? ウチ、よくは知らないけどさ? あの子も前までなつみんをいじめてたんでしょ? その仕返しをしただけなんじゃないの? 辻井君は」
「そうだが、俺は柳瀬川本人じゃないんやし仕返しなんかしていい立場でもない。結局ただのいじめっ子だ。そんな俺が励ました所で、アイツを助けらんねーよ」
「辻井君がいじめなかったら、ウチや、他の仲良かった子がちょっかいかけてたと思うな。そういうものでしょ? 友達ってさ」
「……そんな不毛な物じゃないだろ。友達って」
そう言うと、蝶田は至って真面目な声音で「それは違うよ」とハッキリ言い切った。
「不毛なんかじゃない。大切な友達が誰かに傷つけられたら、誰だって怒るし相手の事を許せないよ。傷つけてる以上、傷つけられるのは仕方の無い事だし。ウチ、復讐しても無駄っていう考え方嫌い! それって、復讐したくなるような出来事に遭遇したことが無い甘えた奴が言うセリフだもん」
「……許容されていい事じゃないだろ。その理論なら、俺だって今泉に復讐されるべきって話になる」
「あー、いいよその話は! とにかく、やり方が好まれないだけで辻井君は間違ってない! だからさ、なつみんと壁を作らないで、また会ってあげてほしい」
「……」
「また、なつみんが学校に来て、一緒に笑いあったりしたい。ウチには説得することが出来なかった。だから、お願い……なつみんを、連れてきて……?」
分かった、とはその場では答えられなかったが。結局俺は心の底で柳瀬川に会いたいという想いがあった。その想いを無視出来ず、俺は久しぶりに柳瀬川の元に顔を出した。
*
「あ、辻井……」
「久しぶり、柳瀬川。……痩せたな」
「えへへ……うん。ダイエット、せぃこーう」
そう言って弱々しくピースを向けてくる。もう足の怪我は治っているが、心の疵によって精神薄弱になっているらしく、もう何ヶ月も入院期間を引き伸ばしているらしかった。
「……」
「……」
「……何か話してよ」
冷や汗が垂れた。また下手な事を言って、柳瀬川を泣かせたくは無かった。でも、何も言わなくても無視したと取られて、泣いてしまうかもしれない。
そーっと相手を伺うように盗み見ると、柳瀬川は弱々しくも柔らかい笑顔を向けていた。その笑顔には、かつて俺が焦がれていた輝きが少しだけ戻っていた。
「大丈夫、もうすぐに泣いたりしなくなったの。だから、何か話して?」
「……今度、マツ中と練習試合するんだけど。久しぶりに、どう?」
「……」
「見に来ねえ?」
柳瀬川は俯いた。話題を間違えた、そう思った。やっぱり俺には、柳瀬川を外へ連れ出すなんて無理なんだ。
自分の手が醜く見えた。目の前の少女を傷つけるだけの、怪物の手のように思えた。
「……外に出たら、きっとサッカーをしてる子達に目が移っちゃう」
弱々しい声で言葉が揺蕩う。
「……私、もうスポーツ出来ない。何にもできない」
腕が震える。あぁ、なんで俺はあんな事を言ってしまったんだろう。知ってる、この後柳瀬川がどうなるかは嫌という程見てきた。
「私、辻井に憧れてたの。だから、辻井がプロ野球選手になって、私がプロのサッカー選手になったら、別の分野で最強になれたら、同じくらいキラキラ出来るかなって、思ってたの……」
ごめん。
「でも、もう二度と何も出来ない……うぅぅうう、私の足は、もう普通に歩くのだって変な風になるからっ、だからもう、辻井と並ぶ事なんて出来なっ」
「それは違うだろっ!!」
「うあっ!? ……辻井?」
気付けば俺は、柳瀬川を抱き締めていた。
柳瀬川は困惑していた、でも俺は気にせず彼女を強く抱き締め続けた。
「俺と並べないなんて言うなよ! 俺はプロになる、それは間違いない! でも、それはっ……あぁ、上手い言い方が分からん!」
「辻井……?」
「死ぬまで俺のマネージャーになってくれ!」
「え、あ、それって……?」
何も考えはまとまらなかった。だから、一番言いたかったことを、出来るだけ曲解した言い方で柳瀬川にぶつけた。
「マネージャーになればっ、俺がプロになろうが世界に行こうがずっと一緒にいれるだろ! 俺専属の、俺だけのマネージャーになってくれ!! その代わり、お前の分まで俺は世界で輝いてやる! 約束だ!!!」
「辻井……それ」
「約束だっ!!」
「……ん。約束。約束ね」
そう言うと、柳瀬川も抱き返してくれた。
しばらく、十分ほど二人で抱き合った後、急に理性が戻って俺達は普通の座り姿勢に戻った。互いに顔が赤かった。
「……元気になったか? 柳瀬川」
「うん。おかげさまで、憑き物が取れたみたい。辻井の照れ顔なんてレアな物見たし」
「忘れろ!」
柳瀬川はくすくすと笑った。表情だけでなく声まで出して笑ってる姿を見たのは本当に久しぶりだった。自然と俺も顔が綻んだ。
「元気になったようでよかったよ。学校は? 復帰出来そうか?」
蝶田も心配してるし、同じくらい心配している柳瀬川の友達も何人かいる。出来る事なら他の人とも再会して、一刻も早く社会に復帰して欲しかった。若い頃の時間を満喫してほしい、そしてまた初めて見惚れた時の笑顔を俺に向けてほしかった。
しかし、柳瀬川の表情は俺の思いとは裏腹に暗くなり、泣き出すまでいかなくてもまた良くない方向に思考が傾いた気配が感じられた。
「……学校は、まだ怖い」
「そうなのか」
「うん。……戻ってきたら、また同じ目に遭わせてやるって言われたの。私が悩んで、悲しんで、苦しむ所を見て面白がってるから、早く元気になって、早くまた虐めさせてねって。だから……」
「……それは、今泉とかに言われたのか?」
「え、うん。今泉さん。とか、あと」
「分かった」
その時、俺の中で最後の理性の鎖が砕けた感じがした。内から漏れだしそうな憤怒を抑えることで精一杯だった。
俺は病院を後にし、後日、今泉に再び接触を図った。その時から、俺の中で野球に打ち込む自分と、悪意に塗り潰された自分が分裂したような感じがした。
柳瀬川が復帰した後も、俺は野球をしながら、不良との関わりを辞めなかった。そんな俺に合わせる様に、柳瀬川も段々気が強くなっていった。
着実に歯車が少しずつ狂ったけれど、それでも俺と柳瀬川が交わした約束がいつだって当時の関係性を思い出させてくれた。この約束を違えない限り、俺と柳瀬川の関係は変わることは無いと思っていた。
*
「ああぁぁあああぁぁぁぁぁああぁぁぁぁぁあっ!!! あぁぁぁあああぁぁぁぁっ、うぁぁああぁぁぁぁっ!!!」
自らの手は醜い怪物のような手に変貌していた。
指はあらぬ方向に折れ、皮膚が捲れ肉が抉れ、手のひらの形状さえ原型を残してないくらい打ちのめされていた。
球を握ることも、バットを振るうことも出来ない。力が入らず、その手の怪我が不可逆の物なんだと理解してからは叫びが止まらなかった。
俺は、プロのメジャーリーガーになって、世界に出て、未来永劫語り継がれるくらいの選手にならなければならないんだ。柳瀬川と約束したんだ、柳瀬川はその約束があるから学校に復帰出来たって、俺の存在が拠り所になってるって言ったんだ。俺が折れる訳にはいかない、俺は柳瀬川が失くしてしまった夢を、二人分の未来を背負ってるのに! こんな道半ばで諦めていい物じゃないはずなのに!!! 動け、動け、動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動けっ、治れよっ!! 治れ、尚れぇえええっ!! ダメだ、治れっ、治れ、治れ!!! ああぁぁぁぁぁああぁぁ駄目だ駄目だ駄目だ治れ治れ治れ治れ治れ治れ治れ治れ治れ治れ治れ治れっ!!!! くそっ、くそっ!!! くそぉおおおっ!!
「鹿狩っ、鹿狩ぃいいっ!! 殺してやる、殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる!!! 絶対に殺す、殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す!!!!!」
頭の中に同じ言葉が何重にも反響する。殺す、という怨嗟が止む事無く響き続け、真っ当な思考すら巻き込んで殺意という一色の感情に塗り替えられていく。
*
「くしゅんっ。うび、風邪かしら〜?」
鼻をかんで、そのティッシュを柳瀬川さんの髪にねじ込んだ。
「……殺す」
床に横になった柳瀬川さんは力なくそう呟いた。
「あはは。懲りないんだ」
腹を蹴る。女の腹を蹴るとは何事か、と言われるかとも思うが、俺も女体だしこの人も含めよくクラスメートの人らに蹴られるし。ま、たまには許されるだろう。気楽にスコーンっと1発カマす。
「コアっ!?」
「あはは。さて、次は何をやり返そっか? 髪にゴミをねじ込むまではやったし〜……そろそろゲロパック行っとく?」
「っ!? や、やめて、近付かないで」
「私もそんな感じの事言ってたんだけどな。なんで助けてくれなかったのさ〜」
「そ、それは、だって、そもそもあんたが」
「すいとん! ゲロ戻しとみーろっど!!! あ、ちげえや。グリーンパーチ!!!」
テキトーに技名を叫んで柳瀬川さんの髪を掴んで持ち上げ、その口の中に蛇口を突っ込み水をあらんかぎりブチ飲ませていく。柳瀬川さんは最初は水を懸命に吐き出し耐えていたが、やがて耐えかねて飲み込む感覚が喉越しに伝わり、その体が小刻みに震え始めた。
「いいよ〜吐いても。どーせ洗面台だしね、パーッと行こう!」
「ウッ、ブッ……!」
「しんどいねぇ。そういうもんなんだいじめって。忍耐忍耐」
「ッ、オエエエェッ!!!?」
うわっ、すごーい。最初透明なゲロの濁流が噴き出したかと思いきや、すぐに濁った乳白色のゲロがとめどなく溢れてきた。何これ? 主成分ヨーグルト?
「ぅ、ゔうぅ」
「全部出したね。よし。じゃ、顔面ダイブ行ってみよう!」
「!? い、嫌だっ、許して鹿狩さん! もういじめないから!!」
「え!? ホントに!? じゃあやめよっかな!!」
俺がそう言うと、柳瀬川さんはそう返されるとは思ってなかったようでポカーンとした顔をしたあと、力なくその場の床にへたりこんだ。
「どうだった? ジェネリックいじめ仕返し体験。楽しかった〜?」
「……なんで、私なの」
「んー?」
「なんで、私に仕返しするの!? 主犯は私じゃない! し、他にもあんたを虐めた人間なんて沢山いるじゃんウチのクラスにはさ!? なんで私に全部し返すわけ、個人的な恨みでもあんの!?」
ふむ。なんか急に怒り出した。怒るのか、自分がした事をされると。学びだな。
「個人的な恨みは別にないよ」
「なら、なんで私なのぉ!!」
「んー。一番印象に残ってるから?」
素直に答えてみる。柳瀬川さんは俺の答えを聞くと、その答えを飲み込めないとでも言うような目を見開いた表情で俺を見てきた。
「印象に残ってるから……そんな理由で、あんたは自分がされた事全部を私一人に返したわけ?」
「んー。だって皆にわざわざお礼参りとかめんどいじゃん。一番周りを動かせそうで、一番私視点やりにくくない相手となると丁度位置するの柳瀬川さんだし、許してよ」
「そんな理由でっ、ふざけないでよ!!!」
「いじめの理由なんて特に深い意味無いのがほとんどじゃん? なら、仕返しの理由だってたった今思いついた話をした所で責められる謂れなくない?」
うむ。挑発が効いてますな。いや、深い理由がないのは真実だが。
ポジションとして一番怖い目に遭わせたら今後都合良さそうなのは柳瀬川さんで、かつ俺視点どうでもいいのも柳瀬川さんっていうダブル条件合致の奇跡物件だったからいじめ返したに過ぎんし。
「まま、今日はここまでにするからさ。そうケンケンしないでよ」
「ふざけないで!こんな目に遭わせといて、はいそうですかで帰らせるか! 不意打ちさえさせなけりゃこっちのものだから!」
そう言って立ち上がると、柳瀬川さんは私の前で形の緩いファイティングポーズを取った。やる気らしい、もういじめないという宣誓はどこへ消えたのやら。
「別にいいけど、この場で私をボコ殴りしても柳瀬川さんへのお返しは終わんないよ?」
「は? 何言ってんの」
「例えば明日、誰かからいじめを受けたとする。そしたら私はまた今日みたいに、色んな方法で柳瀬川さんを拘束して同じ事をするよ」
「え……」
柳瀬川さんの顔が青ざめるのが見えた。
「明後日も、明明後日も。いつまで経っても変わらず私はいじめられる度に柳瀬川をいじめるよ。終わりはあっちが終わらせなければ永遠に来ない。運命共同体。どう? 素敵じゃない?」
「なに、それ、なんで、私、関係ないじゃん!」
「間違いねぇや。自分から手ぇ出さん限りはね」
「じゃあなんで私にやり返すの!?」
「嫌なん?」
「嫌だよ!!」
「じゃあ頑張って周りを止めてみればいいんじゃない?」
軽い気持ちでそう提案してみる。
「柳瀬川さんが頑張ってクラスの子らや主犯格の紗理奈、蝶田ちゃん辺りを止めてくれたら、止まってくれてる限りは安全が確保される。それに賭けてみればいいんじゃない?」
「そんな、無理に決まってるでしょ!?」
「だろうね。だから甘んじて受けよーよ、私からのいじめ」
「だから何でっ、私が代わりにならなきゃいけなっ」
あまりにも長いからビンタした。ギャーギャーうるさすぎです、放課後の学校のトイレでも全然人は来るんだぞー?
「誰がなんでとか、そういうのやめよーよ。なんにせよ、私をいじめた事自体はあるじゃん? ならいいじゃん、広い心で受け入れてよ」
「認められない!! し返すならしてきた相手にするのが筋でしょ!? なんで私一人に全部背負わせるの!?」
「あのね、柳瀬川さん。いじめって、してる側の人間は皆自分が報復されるとは思ってないんだよ」
「へっ?」
「そんなんだからさぁ、皆に丁寧に仕返ししても逆恨みされて、余計事態を悪化させるわけ。もし本気で止めようって思うなら、やっぱり一人に絞ってさ」
「死にたくなるまで追い詰めて、ぶっ壊さないと。止まるもんも止まらないでしょ?」
「うっ、ああぁぁああぁっ!!? うぁぁああっ!!」
俺が説明し終えると同時に、発狂したかのように柳瀬川さんが叫び始めた。けど、現実はそんな簡単に狂えないし、嫌なことを思い出して黒歴史特有の発作を起こしてるのは見れば分かるから、軽く尻を蹴ってやる。
正気に戻った柳瀬川さんは、俺を脅えた顔で見る。
「お前、なんなの……本当に人間?」
「んー。人間だけど。そういう失礼な事言われると、今みたいにテンション上がってる時は危ないかもよ」
「えっ、いやっ、許して! ごめんなさいっ! ごめんなさグオッ!? カ、ハ……っ! あ、ぅあああっ気持ち悪いっ、誰かー!」
腹を殴ってくの字に折れた柳瀬川さんを洗面台に突っ込み、自ら吐き出した吐瀉物を顔面に塗り込んでやった。
さて、時は満ちた。満ちたというか、元来の修学旅行大死亡事故事件の発生対策プランAと著しくルートが外れたからBに切り替えただけだが。
手始めに、都合よく動いてくれそうな人間達からぶっこわす事に決めた。
俺は、柳瀬川さんの顔を持ち上げ、再びゲロに突っ込ませる。泣いて喚いていたが、今は考え事とプラン立てに忙しいから気にはしなかった。