子供に戻ったと思ったら女体化させられるし女として生きるべきか男のまま生きるべきか分からない俺はスワンプマン 作:千佳のはんぺん
「お、おまたせ」
「うん! こんばんわ〜っ!」
「あはは……」
学校から出て今の時間まで古本屋で立ち読みをし、ネカフェで休んでいたら爆睡してしまった。時刻は1時42分、遅刻したというのに鹿狩さんの声は全然苛立ちを孕んでおらず、むしろ喜びに満ちた声音をしていた。
「ずっとここで待ってたの?」
「んー。ソシャゲで時間潰してたー」
「ご、ごめん! 休んでたら眠くなっちゃって」
「いいよいいよ、無理に誘ったのは私の方だし! さっ、不法侵入と行きましょ〜。おー!」
「声が大きいよ鹿狩さん……!」
片腕を上げて大声を出す鹿狩さんの口を慌てて塞ぐ。この子、天然だなとは思ってたけど考え無しが過ぎるでしょ!? バレたらヤバいっていう前提が欠落してるよ!
「ごめんごめん。てか今泉さん、帰りに見た時と服装荷物変わってなくない? 家帰らなかったん?」
「え、う、うん……」
「煮え切らない返しですな。親御さん心配しない?」
「しない。……しないから、私の事は気にしないで」
反射的に強めの声を出してしまった。暗いから鹿狩さんの顔はよく見えないけど、彼女は「あー……」と気まずそうな声を出していた。少し申し訳ない気持ちになる。
「まあなんでもいいけど、じゃあ水着も持ってない感じ?」
「それはさっき回収しといたから持ってる。むしろ鹿狩さんの方こそ、どういう格好でプールに入るつもりなの……?」
見た所鹿狩さんも制服姿のままだった。手に体操服袋を持っているだけの軽い装いだが、水着が入ってるとも思えない。
そもそも水着なんか着ないと言ってたからそれ以外の衣服を着てプールに入るつもりなのだろうが、一体何を持ってきたんだろう?
「親父が買ってきた全然趣味じゃないワンピースで入ってやろうかなって」
「ワンピース?」
「ひとつなぎの大秘宝じゃないからね。白いワンピース、母ちゃんがそういうのよく似合ってたって」
「へぇー……て事は、鹿狩さんって」
「ん? 片親だよー」
「そ、そっか」
私は片親ってのが原因でいじめられたりもしたけど。ていうか、こんなにあっさりと、あっけらかんと自分から『片親』って単語を言うような人初めてだ。言うとしてももうちょっと自嘲気味だったり、逆に笑いのネタになるよう大袈裟に言う人ばかりで、話の合間に言って終わらせられる人とかいるんだって思った。
あんまり家族というものに愛着も興味も無いのかもしれない。素でそういうのを求めていないというか。
純粋な子供にしか見えなかった鹿狩さんの闇のような物が片鱗見えた気がした。
「じゃ、私先に入ってるから。着替えたらすぐ着てよー!」
「う、うん」
服を脱ぎワンピースを着るだけの簡易的な着替えを済ませた鹿狩さんが先に更衣室から出ていった。
鹿狩さん、なんの躊躇も無く男子更衣室の方に入ろうとしたからびっくりした。人は居ないからまだ良いけど、鹿狩さん素で気付いてなかったどころか「? うん。男子更衣室だね、それが?」とあたかも入る事が当然といった態度をしてくるから驚いた。
『私は元々男として今まで生きてて〜』
それは転校してすぐの頃だった。鹿狩さんと竜胆さんは彼女が元々男だったと周りに触れ回っていたのを離れた位置から見てたから覚えている。
……馬鹿馬鹿しいと思えた。よくある妄想だ、自分が本当は別の存在だったみたいな話は。
そんなよくある話を、将来思い出したくもない歴史を今歩んでいる鹿狩さんを見ていると、共感性羞恥で恥ずかしくなっていた。だから、優しくされたにも関わらず距離を取っていた。
「……少しきつい」
水着に着替えると予想通り、胸周りと腰周りが強く締め付けられた。夜でよかった、たとえ同じ女同士で、他人のスタイルを見て馬鹿にするような人じゃないにしても、この体を見られるのは嫌だった。
傷跡は暗闇だといい具合に色が潰れて見えなくなっていた。よかった、ここに来て醜いモノが見えるってなったら、折角誘ってくれた鹿狩さんの良心を無下にしていた所だった。
「サンダルか何か欲しいな」
裸足で歩くマットの感触はひんやりしていて気持ちがいいが、視界が不明瞭だから下になにか落ちていてもそれを避けることは出来ない。慎重に歩きプールを目指す。
「お、お待たせ〜鹿狩さ……」
階段を登り切り、プールサイドを見渡しても歩いている姿が見えなかったからもう着水しているのだろうと思い覗き込むと、私は息を飲んだ。
月明かりに照らされた水面に美少女が浮かぶいた。
長い髪が揺らめき、ワンピースもヒラヒラと波によって広がるその姿はまるで、月光に照らされた大きな
鹿狩さんの全身から粒子が漏れ出しているかのようにキラキラしていた。ミレーの描いたオフィーリアの絵画のように、触れれば溶けてしまいそうな程の脆い浸り顔で気持ちよさそうに揺蕩う鹿狩さんは幻想的で、つい私は見蕩れてしまっていた。
「んぁ?」
「あ、鹿狩さん。……あっ!?」
慌てて身を抱えてしゃがむ。こんなに鮮明に鹿狩さんの姿が見えたということは、きっと鹿狩さんからも私の姿は見えているはずだったからだ。
あまりにも現実感の無い、写真のような景色に見蕩れて自分の事をおざなりにしてしまった。自分へのやるせなさで拳を強く握る。
「あのー。そこにいる人、今泉さん、で合ってるよね?」
プールの方から声がする。泣きそうなのをぐっと堪えて返答する。
「そ、そうだよ! うぅ、こんな汚いの見せたく」「よかった……何してんの? 早くこっちに来なよ」
私の言葉を意に介さずに当たり前のように鹿狩さんは言い放った。打撲、青あざ、むち打ちに火傷跡、それらが見える状態で人前に出られるわけが無いじゃないか。そう怒ろうとした刹那、鹿狩さんの呑気な声が聞こえてきた。
「そっち側は校舎の影で月明かりも当たらない位置にあるでしょー。何も見えてないよ、だから安心して? だからこそ今泉さんかどうか確認したんだしね」
「っ。ほ、本当?」
「なにー? 水音に混ざって聞こえなーい。今そっち行くよー」
「っ!? 来ないで来ないで! 分かった、私の方から行くからぁ!!」
私の声を無視して鹿狩さんが腰から上をプールから上げ、私に向けて手を伸ばす。
「おいで」
彼女は優しく微笑む。綺麗な声に柔和で少し妖艶な顔。セイレーンのように蠱惑的に私を誘う鹿狩さんに、それまで見られるのを恐れてたのが嘘だったみたいに私はその手を取ってしまう。
「あははっ!」
「ちょっ鹿狩さんっ!? うわぁっ!!」
そして一転、小さな子供のような無邪気な笑顔をしたと思えば私を引っ張って抱きしめてそのままプールへと真っ逆さまに落ちていく。巻き添えを食らった私もプールに落ち、水中で鹿狩さんと目が合う。
「ぷはっ!? な、なにするのよ鹿狩さん! 死ぬかと思った!!」
「あはははっ! ごめんごめん」
「もう……」
再び顔を空に向けて浮かぶ鹿狩さんに倣って私も浮かんでみる。体重があるからちょっと難しいけど、出来なくもない。こんな私でも浮けるんだな……。
「見てよ今泉さん。空。めっちゃ星見えん?」
「本当だね……って当たり前だよ。この辺夜は薄暗いじゃん」
「そっか。少し離れたら微塵も見えなくなるのにね」
「鹿狩さんちからは見えないの? 星」
「全然見えないよ。国道付近で夜も営業してる店とか沢山あるしね」
「ふーん」
どうやら鹿狩さんは都会の方に住んでいるらしい。竜胆さんや佐藤くんと同じ小学校出身ならそれも当たり前か。彼女らの小学校の学区はここら辺の小学校の中でも都会部分に位置する駅近学校だったし。
ただ水にプカーッと浮かんでいたら鹿狩さんと頭同士がコツンと当たる。二人して吹き出す。
「ねえ、夏の大三角ってどれ?」
「うーん……待って、10月って暦的には秋に分類されるよね。見えるのかな? 夏の大三角」
「見えないん? デネブアルタイルベガ」
「詳しいね」
「歌で覚えた」
「絶対君が知らない物語でしょ」
「正解〜。あれがデネブアルタイルベガ〜」
鹿狩さんが君が知らない物語を歌い始めた。綺麗な歌声だ、うろ覚えな部分は鼻歌で誤魔化してるけど耳が気持ちいい。なんか、何をやらせてもそつなくこなせそうだなこの子。
「じゃあ今見えてる星でさ、今泉さんが知ってる星とか星座とかあったりする?」
「え〜……オリオン座とか?」
「お、なぞるやつだ」
「あはは。オリオン座は他の星座の目印になるくらい目立つしね。ほら、あの金か赤色っぽく光ってる大きな星あるでしょ?」
「んー……どれだろう」
「分からない? 白っぽい星が3個連続してるのがあったらその左上の方に見えると思うんだけど……」
「…………あっ、ぽいの見つけた!」
「それがベテルギウスって言うんだけど、まあ知ってるのはそれくらいかな。あんまり星座に詳しくないし」
「パッと位置がわかる星座があるとかすごいでしょ。結構キワの方にあるやつだし」
「まだ秋だし、オリオン座自体は冬の星座だしね」
「へぇ。なんでオリオン座は覚えたん?」
「えー? えっと、そのオリオン座にまつわるお話みたいのが好きで」
「お話? 聞かせてよ」
「え、えぇ? えーとね……」
過去を思い起こす。私に星座の話を聞かせてくれたのは、幼い頃一緒に居たお母さんだった。お母さんは色んな星の神話を聞かせてくれた。その中でも一番好きなのは、オリオンとアルテミスの悲恋の話だった。
「星の名前の元になったオリオンっていう人はね、すごく力が強くてイケメンの狩人だったんだって。で、狩りの神様にアルテミスっていう月の女神様がいて、二人はよく気が合うし好きな物も一緒で、出会ってすぐに打ち解けて一緒に狩りをしたり、お話したりする仲になるの」
「狩りの神様の月の女神様。役割過分だなぁ」
「昔の神様なんてそんなもんだよ。アルテミスは他にも処女の神様だったり戦の神様だったりするしね」
「その二つ名の通り仕事が割り振られてるんだとしたら労基駆け込んだ方が良さそうだね……」
「やめてー神様から神秘性を取り除こうとしないでー?」
「ごめんごめん。続きをどうぞ」
浮かんでいるのも疲れたので一度プールサイドに腰を下ろして座りながら話の続きを思い出しながら口にする。
「アルテミスはアポロンっていうお兄さんが居るんだけどその人にも深く愛されてたの。そして、アポロンは乱暴者なオリオンの事が好きじゃなかった。アルテミスはオリオンと付き合っていたけど、そのままにしておくといずれアルテミスもオリオンに負けず劣らずの乱暴者になってしまうかもしれない、そう思ったアポロンは思いついてしまうの」
「ふむ」
「オリオンにアルテミスは釣り合わない。本当に二人の愛が本物なら、その強い愛によって死の運命を跳ね除ける筈だって」
「雲行き怪しいな?」
「アポロンは海を泳いでいたオリオンの頭を指さして、アルテミスに言うの。「お前にあの黄金の果実を射れるか? 俺なら一発で射れるがなっ!」って。オリオンと出会う前のアルテミスならそんな挑発、流していたかもしれない。でも彼氏に影響されて負けず嫌いな性格になってたアルテミスは流せなかった。よく確認もせずにオリオンの頭に狙いを定めて、矢で射ってしまうの」
「ひん……」
「気付いた時には遅かった、オリオンは死んでしまった。それをアルテミスは深く悲しんで、ゼウスっていうお父さんに頼んで空の星座にしたって話。だからオリオン座は冬になると月が近くを通過するんだって。星座になったオリオンにお月様であるアルテミスが話に行くんだって、お母さんが言ってた」
「アポロンムカつくわぁ」
「あはは……」
そうだよね、私も子供の頃はそう思ってたよ。鹿狩さんの感性はあの頃の私と同じか、やっぱり可愛いなぁ。
「まあでもあれだね。アポロンは二人の愛は偽物だから撃ち殺されたんだって思ってるかもしれないけどさ。アルテミスはオリオンの事が好きだから射止めてしまったとも取れるよね。そのぶっ殺し方」
「へ? あー……そっか。好きな相手を射止めるって言うもんね」
「ね。赤の他人とか、好き同士じゃなかったら矢は外れてたかもしれない。でも二人が本当に好き同士だったから当たってしまったみたいな。死んじゃったけどね」
「ま、まあ。星座になってるわけだし」
「ね。いいな、死んだ相手でも星になったら会いに行ける、みたいなの。それが出来るなら、きっと死別にも悲しい以外の意味を見いだせるのかもね」
鹿狩さんは夜空に向かって手を伸ばし、何かを掴もうとしようと手を閉じて手を下ろした。
パシャッという水音のみがなる。
鹿狩さんの瞳に映る夜空の星は上から薄く黒い絵の具を塗ったように僅かに濁りが混ざっているような気がした。その目で何を語っていたのか私には読み取る事は出来なかった。
「もっと聞かせてよ。色んな話」
水に浮かんだままこちらを向いた鹿狩さんがニコッと笑って私に他の話をせがんできた。鹿狩さんは私がお母さんから聞いた話を聞きたがった。星の話、海の話、王子様の話、鳥の話、話をしていく度に鹿狩さんは楽しげな表情に染まっていき、反比例するようにその瞳から色が失われていくように思えた。
私の目を見つめる鹿狩さんの目が、私の目を通して脳みその中身を覗き込もうとしているように感じた。きっと気の所為だが、何故かそんな気がしたのだ。
いくつか話をすると時刻は4時を超えた。5時になると辺りは段々と明るくなり朝が始まる。そろそろ家に帰らなければ本当に補導されてしまうだろう。
「鹿狩さん、そろそろ」
「ん、出ようか」
鹿狩さんと共にプールを上がり、軽く水を搾って更衣室まで歩く。
「鹿狩さん、そっち男子更衣室だからね」
「分かってるよ! 間違えないわ!」
私の先を歩く鹿狩さんにジョークで注意すると、彼女は頬を膨らませてきた。その顔があまりにも可愛くって笑いが漏れてしまうと彼女は「も〜!」と言った。本当にただただ可愛い生き物だ。こんなふうに私もなれたらよかったな。
「んしょ」
一度裸になった鹿狩さんを見る。電気を点けていないから良くは見えないけど、本当に小学生にしか見えない体つきをしている。お尻が少し大きいくらいだ。今日のリアクションも一貫して子供じみてたし、この子って本当に同学年なのかな?
「む。な、なに!」
私の視線に気付いた鹿狩さんが畳んだワンピースで体の前面を隠して私を睨む。
「ご、ごめん。その、やっぱり鹿狩さんってちいちゃいなって思って」
「嫌味かな!? 別にいいもんおっぱいなんかいらねーし! 今に見てろすぐでかくしてやるから!」
「どっちなんだろ……まあ、いいと思うよ? 鹿狩さんの体、ロリコンの人には受けそうだし」
「嫌味だなぁ!! てか男ウケとかどうでもいいし、私死ぬまで処女貫くもーん」
「男嫌いなの?」
「いや? 男は別に嫌いじゃないけど、男とそういうのをやるとか有り得ない。キスすら絶対札束貰わないとやらない。ってだけ」
「そ、そこまで嫌なんだ。まあ気持ちわかるけど……」
私も初めての頃はそういう行為全部気持ち悪いと思っていたな。今も気持ち悪いけど、あの頃思っていたほどじゃない。やってしまえば案外、どうとでもなる程度の気持ち悪さだ。
「じゃあ恋人は作らないの? 鹿狩さんは」
「作らないし、作れないよ。それは私が勝手に決めちゃいけない事だし」
「えっ? 勝手に?」
「なんでもない、口を滑らした。今のは無かったことにして」
鹿狩さんは自分の頬を叩くと荷物をまとめて服を着替える。私も合わせて着替え始める。発言の意図は、やはりよく分からなかった。
着替えを終え、入ってきた方のフェンスを目指し歩く。
「今日はありがとうね、鹿狩さん」
「んぇ? なにがー?」
「えぇ……? 誘ってくれたじゃんプール!」
「あぁそんな事? 別にお礼なんかしなくても、私が入りたかっただけだし」
「そ、それでも嬉しかった! ありがとう!」
人にこんなにちゃんとお礼をしたのは久しぶりだった。そもそも誰かに誘われて遊ぶこと自体が久しぶりだったし、ちゃんと言っておかなきゃと思った。頭を下げると、鹿狩さんは慌てた様子で私の肩に手を置いて頭を上げさせた。
「大袈裟だよ! こんな事でいいならまたいつでも誘うし、そんな恭しくしないでよ!」
「私、鹿狩さんと遊べてすっごく楽しかった!」
「そ、そう。へへっ、よかった」
「うん!そ、それでね、もし良ければなんだけど、これからも、遊んでくれないかな? と、友だっ」
「待って。人が来る、遠回りしよ」
「えっ?」
鹿狩さんが口に指を当てたのに合わせて声を殺すと、確かにこちらに向かって歩いてくる靴の音が聞こえた。コツコツと、その足音は特段速くはない。私達の存在に気付いている訳ではなさそうだ。
「で、なんだった? 話の続き」
「えっ?」
「さっきなんか言いかけてたじゃん」
「なっ、なんでもないよ! うん、なんでもない!!」
「そう?」
足音を避けるように遠回りをして、車両専用出入口から学校を出る。
鹿狩さんの家は国道の付近と聞いたから私の帰る方向とは逆方向だと思うのだが、私の家の近くまで着いてきてくれた。
「ここから一人で本当に大丈夫?」
「だ、大丈夫だよ! 鹿狩さんだって一人でしょ? 気を付けてね!」
「そっか。うん、気をつける。じゃ、またね!」
「うん、また!」
鹿狩さんと手を振り合い別れる。鹿狩さんの背中が見えなくなると、取り繕っていた顔も辞めて私は石畳の上を歩いて自分の家の方へと向かう。
甘くていい匂いがした鹿狩さんの残り香も、家に一歩入ると霧散して饐えた匂いとアルコールの鼻を刺す悪臭が肺を満たしていく。
キシキシと音が鳴る床を歩く。ゴミの入った丸い袋を蹴りながら、時々足に空の酒瓶が当たると凄い音が鳴る。その度に父親が起きてこないかと思い、一々心臓をドキドキと早めてしまう。
「ぐごおおおぉっ、んごぉおごごご」
父親は廊下の壁にもたれかかって眠っていた。酒瓶を抱きかかえ、泣いた形跡も目元にあった。母親の事を思い出していたのだろう、いつもより多めに空瓶が空いてたのはその為だ。
「……はぁ」
運んだら流石に起きるから、毛布だけリビングから持ってきて父親にかける。積み重なったゴミが風避けになってそこまで寒くならないかもしれないが、一応ね。
*
少しだけ睡眠を取って、父親が起きないうちに学校に行く為の支度をして家を出る。プールに入って遊んだせいで全身が若干筋肉痛だ。眠気も凄いし、学校に行くのが億劫になる。
「あ、おはよ〜絵里加」
「おはよう、蝶田さん」
学校に向かう途中、蝶田さんと鉢合わせした。私の数少ない喋ってくれる友達だ。とは言っても最近は学校じゃ一切話しかけてこないけど。
「最近学校楽しい?」
「う、うーん。楽しそうに見える? てか、誰のせいでこうなったと?」
「ウチのせいでも無いでしょ〜」
「もう……あ、そういえば昨日鹿狩さんと遊んだよ」
「鹿狩さんと? ……あの人、絵里加みたいな子と仲良く出来るんだ」
「みたいなは余計だよ。鹿狩さんって、よくわかんない子だったけど、思ったよりも良い子だったよ! ずっと!」
「ふうん」
私の言葉に、蝶田さんは納得していないような声で相槌を打った。
「本当に良い子だった?」
「えっ? う、うん。良い子だよ、鹿狩さんは」
「そう。今日もその良い子のまま接してくれたらいいね」
「? どういう事?」
「どうも何も。ああいう子が一番裏表激しいし、一番周りに合わせて性格変わるじゃん。二人でいる時はそりゃ優しいだろうけど、他の人がいる時、同じように優しい鹿狩さんのまま絵里加と接してくれるのかなって」
「……」
それだけ言うと、蝶田さんは私から離れていった。学校に着き、昇降口まで来たのだ。ここからはクラスが同じでも別行動、私と蝶田さんは関わらなくなる。
階段を上がり、教室まで着き、席に座る。まだ鹿狩さんは来ていないようで、彼女と仲のいい竜胆さんと菊池さんと朔月さんは三人で談笑していた。
「おはよう〜」
しばらくして、教室に鹿狩さんの声が入ってくる。ドア付近でたむろし会話していた男子達に挨拶をした鹿狩さんが入ってくるのが見えた。
鹿狩さんが私の方を向く。ニコニコとした顔で歩み寄ってくる。片手を上げる。その所作の意味を理解した私は咄嗟に「おはよう!」と口にし、挨拶を交わすつもりだった。
無視された。
ニコニコした笑顔のまま鹿狩さんは私を無視し、私の横を素通りし、その背後にいた朔月さんに「おはよ〜」と緩い挨拶をしていた。
『ああいう子が一番裏表激しいし、一番周りに合わせて性格変わるじゃん』
蝶田さんの言葉が脳裏に蘇る。
『二人でいる時はそりゃ優しいだろうけど、他の人がいる時、同じように優しい鹿狩さんのまま絵里加と接してくれるのかなって』
蝶田さんの言った通りだった。
鹿狩さんは私以外の人間がいる時、私の事なんか微塵も意識しない。認識しなかった。鹿狩さんの中での私の優先度なんか相当下の方なんだ。仲良くなれると思ってたのも、私だけだった。
友達、って言わなくてよかったと思った。
きっと今の鹿狩さんは昨日あった出来事を夢かなんかだと思っている。忘れているのかもしれない。無かったことにしているのは間違いなかった。私と鹿狩さんとの間には何も無かった事にされたんだ。
「……一人で仲良くなれた気になって、馬鹿みたい」
ボソッと言葉を吐いて、その日からしばらく私は鹿狩さんの事を視界に入れないようにした。