※この作品はR-18です。

催眠アプリ   作:霧里

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放課後の教室

放課後の教室で、朝霧 なずな は時間が過ぎるのを待っていた。

 

本当なら恋人と一緒に帰るはずだったのに。日直の仕事があると、また嘘をついてしまった。

 

最後に教室の戸締まりをして帰る。

 

ホームルームが終われば、すぐに皆帰るものだと思っていたけれど、意外と居残るもので、夕日が差し込むようになってからやっと、一人、また一人と教室から人が居なくなっていった。

 

「ほら、私らが帰らないと、なずなも帰れないじゃん。それじゃ、おっさきー」

「うん、また明日。私も日誌書いたら帰るから」

 

取り留めのない会話を続けていた友人たちも、ようやく夕日に追い出され、私は一人、教室に取り残された。

 

不思議な感じがする。

 

早朝、日直の日。朝も早くから登校した教室に、一人で居るのが好きだった。

別に何をするわけでもない。日直の仕事なんて10分もあれば終わるような事。

 

早々に手持ち無沙汰になった私は、教室の掃除をしてみたり、自分の勉強を捗らせたり。一人っきりの教室が、まるで自分だけの物のようで、ちょっとした特別が楽しかった。

 

不思議な感じがする。

 

一人っきりの教室。それは何も変わっていないのに、朝と夕方ではまるで違う。

 

いつもは増えていく友人たちも、一人一人と減っていって。

いつもは昇ってくるお日様も、だんだんと建物の影へと隠れていく。

 

ここからは何も始まらない。

一人居残る教室で、世界から見捨てられてしまったかのような気分にもなる。

 

「ははっ、なにそれ…。悲劇のヒロインかって」

 

自惚れたって良いだろう。こんな訳のわからない状況で、感傷に浸るくらいしか出来る事もないのに。

 

放課後、教室で待っていて。

 

昼休み、私のスマホに彼からのメッセージが届いていた。

黒板の隅、日直の項目に並んだ名前。ただのクラスメイトは、それだけの関係のはずだったのに。

 

無視して帰ってしまえば良い。なのにそれが出来ないでいる。

 

写真もある、動画もある、だから仕方がない。

脅されているんだからと諦めるのは簡単で、逆らえないんだと自分勝手に思い込んでしまっていた。

 

催眠術か、洗脳にも近いかも。なんて、バカな考えだって分かってる。

 

そんな便利なものがあったとしても、気づいた所で、抜け出せなければ意味がない。

 

彼の「お願い」を断るのに感じる強い抵抗。そこに違和感を覚えながらも、今日までどうする事もできなかった。スマホに表示されたメッセージを読み返す度に、恋人にお願いをされているような気分になり、早く戻ってきて欲しいとソワソワしてしまう。

 

違うのに。そんなはずはないって、気を取り直そうとしても、今度は隠し撮りされていた写真や動画が、私の決意を無駄にする。

 

ーもう、みんな帰ったよー

 

メッセージを入力して彼に送る。

私も帰って良い? 書いた文字は、結局、親指の向こう側へと流してしまった。

 

「おまたせ、なずな」

「透…くん」

 

もう、彼の名前を呼ぶ事さえ当たり前になっていた。

それが自然と口から滑って、恋人の名前を呼ぶような面持ちにさせられた事が心底怖ろしい。

 

これが最後のチャンスだと思う。

 

私が、私でいられる内に出来る最後の抵抗。

出来る出来ないじゃなくって、今、私がやらなければいけない事だった。

 

彼が目の前にいる状態で、もう一度彼にメッセージを送る。

内容なんて無い、空っぽの、ただ通知を知らせるためのメッセを送ると、警戒する風でもなく、彼は取り出したスマホに視線を落とした。

 

「なずな?」

 

空っぽのメッセを目にして彼の動きが止まった。

その一瞬の隙目掛けて、残っていた勇気を掻き集めた私は、彼の手からスマホを奪い取ると、それを両手で握りしめながら慌てて距離を取る。

 

運がいい。この賭けは私の勝ちだ。

 

本当に催眠なんてあるのなら、動くなとでも、言うことを聞けとでも言っていればよかったのに。 教室で待っていて。

それだけなら、教室から出られないだけで何とでも動けたのは幸いだった。

 

「これっ! コレなんでしょっ! これで、私をおかしくしててっ、だからっ」

 

一見、何の変哲もないスマホだ。

だけれど、表示されていた画面には、私の名前と、深度7と、不吉な数字が表示されている。

 

彼が私に言うことを聞かせる時、私が彼の言うことに逆らえない時、そうして、私の感情が書き換わる瞬間。いつも、このスマホを彼は握っていた。

 

催眠アプリ。

 

ポップで、キュートに、ファンシーに。飾り立てられた文字に、頭が痛くなりそうだった。

 

意味がわからない。本当にそんなものがあった事もそうだし、これが本物だなんて信じる事も難しかった。でも、握りしめたスマホに感じる確かな忌避感。こんな訳の分からない物で、自分の生活が狂わされていたなんて、思い返すだけでも腹立たしい。

 

自分が機械音痴じゃなかった事に感謝する。

 

年頃の女の子にとってのスマホなんて、見なくてもメッセージを送れるくらいには手に馴染むものだ。

早々にホーム画面からゴミ箱へ。簡単にアプリのアンインストールを済ませると、彼のスマホを力任せに床に叩きつけた。

 

そうして何度も、今までの鬱憤を晴らす為に、何度でもヒビの入った画面を足で踏みつけた。何度も、何度も繰り返し、フレームが折れ、割れた画面が粉々になってまで、踏みつけるのをやめられない。

 

グシャり…。

 

ディスプレイのガラスが割れて砕けて、ジャリジャリと、潰れた感触を踏み躙る。

 

それだけ、たったそれだけのことだった。

 

この人には逆らえない、言うことを聞くしかないんだって、いつの間にか思い込んでしまっていた。あの、催眠アプリだっていうのが、それを手伝っていたとしても、ちょっとの勇気で良かったんだ。

 

きっともっと最初の方。キスをさせられた時にでも、毅然とした態度でいれば、こんな酷い所にまで来なかったんだと思う。

 

「コレで何も出来ないでしょっ! あなたの言うことなんてもう聞かないからっ!! さよなら峯岸くん…っ」

 

彼の横をすり抜けて、教室の出口へ向かう。

 

心が軽い、身体も軽い。帰ろうとする足には なんの後ろめたさも感じない。

こんな事して、写真でも動画でも、今度こそ本当に脅されるかもしれないけれど、今の私なら、それでもちゃんと戦える気がしていた。

 

「なずな」

 

ほら、何も感じない。名前を呼ばれたって気味が悪いだけ。

だって、ただのクラスメイト。ううん、それ以下の、私にとっては居ない方がマシな人。

 

「ちょっとまって」

 

ほら、なんともない、なんでもない、私はちゃんと自分の足で歩ける。

 

歩いている筈だったのに。

 

次の一歩から進めなくなっていた。

 

教室の床に固定されたみたいに足が剥がれない。

まるで、壊れたオモチャみたいに、カチカチと自分の歯が鳴っているのが分かる。

振り返りたくもないのに、ゆっくりと首が回り、嫌な笑みを浮かべる彼の姿が視界の端に映り込んだ。

 

「な、何を…したの、峯岸くん? だって、わたし…確かに」

 

アプリも消した、スマホも壊した。それなのに彼の言うことに逆らえない。

違う、心はちゃんと抵抗できている。仕方ないとも思ってないし、諦めるつもりでも無かった。もう2度とは、彼の言うことなんか聞くもんかって、強く思えている。

 

なのに、なんで?

 

「君の勝ちだよ、なずな。確かに、目の前でスマホを触りすぎてた僕が悪かった」

 

負けを認めつつも、峯岸 透は余裕の体勢を崩さない。

だってそう。私の身体は、彼の言葉に釘付けにされてしまっている。

 

「こっちにおいで、なずな」

「いやっ。呼ばないでよっ、私の名前っ。あなたなんかに呼ばれたくないっ」

「嫌でもいいよ。僕だって、別に君に好意があるって訳でもないし」

「だったら、なんでっ…。もう良いじゃないっ、あんなにしておいて、まだ私になにかしようっていうのっ、構わないでよ、もうっ!!」

 

足が動く。けれど、向けた先は教室の出口の反対側。窓際で佇む彼の方に向かっていく。 お願い、お願い。どれだけ強く願っても、進んだ足は戻らない。

ちゃんと戦うんだって決めたのに、その決意がこんなに脆いなんて思わなかった。

 

一歩、一歩と、進む度にジャリジャリと、潰れたスマホの破片を踏みつける。その感覚は、自分の心が潰れる音にも聞こえていた。

 

目の前には彼の顔。見たくもない顔から目を背けるくらいは出来ても、それだけで何が変わるものでもない。

 

「あれだけエッチしたんだ。少しくらい情も湧くじゃん?」

「そうだね。私だってそう。君のこと、絶対嫌いって思うもの」

「なずな」

「…っ」

 

名前を呼ばれただけで嫌悪感に身体が震えた。

近づいてくる彼の顔を、自分なりに睨みつけたつもりでもいた。

 

まぶたが落ちる。顎が上向く。差し込む夕日が彼の顔に遮られると、その吐息を肌で感じていた。

 

キスをされる。そう思った時にはもう、私達の唇は重なっていて「いやっ」と、顔を逸らそうとした私は、だけど、引き結んでいた筈の唇を、自分からほころばせてしまう。

 

ちゅっ…。

 

重ねるだけの優しい口づけ。

 

もっと酷いことをされるものだと思っていた。

 

ぐちゃぐちゃになるまで、私の口内を蹂躙する彼の舌に、涎を吸われて、流し込まれて、嫌でもそれを飲まされる自分の姿まで想像出来ていた。

だけど、それ以上は何もない。ただ、離れていった彼の唇を前にして、私は開いたままの唇をどうすることも出来ないまま、呆然と彼を見つめていた。

 

「どうしたの? 呆けた顔して? もしかして、もっとして欲しかったとか?」

「あ、ちがっ。そんな訳ないっ、私はあなたの事なんか嫌いなんだからっ」

 

嫌い、嫌い。その言葉だけは信じたかった。

身体の自由は効かなくても、この気持ちまでなくしてしまったら、本当におわってしまうと、心を強く持ち直す。

 

顔が熱いのは夕日のせい。足が震えてるのは身体が言うことを聞かないだけ。

怖いとか、悔しいとか。私はまだ、負けてなんかいないはず。

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