放課後の教室で、朝霧 なずな は時間が過ぎるのを待っていた。
本当なら恋人と一緒に帰るはずだったのに。日直の仕事があると、また嘘をついてしまった。
最後に教室の戸締まりをして帰る。
ホームルームが終われば、すぐに皆帰るものだと思っていたけれど、意外と居残るもので、夕日が差し込むようになってからやっと、一人、また一人と教室から人が居なくなっていった。
「ほら、私らが帰らないと、なずなも帰れないじゃん。それじゃ、おっさきー」
「うん、また明日。私も日誌書いたら帰るから」
取り留めのない会話を続けていた友人たちも、ようやく夕日に追い出され、私は一人、教室に取り残された。
不思議な感じがする。
早朝、日直の日。朝も早くから登校した教室に、一人で居るのが好きだった。
別に何をするわけでもない。日直の仕事なんて10分もあれば終わるような事。
早々に手持ち無沙汰になった私は、教室の掃除をしてみたり、自分の勉強を捗らせたり。一人っきりの教室が、まるで自分だけの物のようで、ちょっとした特別が楽しかった。
不思議な感じがする。
一人っきりの教室。それは何も変わっていないのに、朝と夕方ではまるで違う。
いつもは増えていく友人たちも、一人一人と減っていって。
いつもは昇ってくるお日様も、だんだんと建物の影へと隠れていく。
ここからは何も始まらない。
一人居残る教室で、世界から見捨てられてしまったかのような気分にもなる。
「ははっ、なにそれ…。悲劇のヒロインかって」
自惚れたって良いだろう。こんな訳のわからない状況で、感傷に浸るくらいしか出来る事もないのに。
放課後、教室で待っていて。
昼休み、私のスマホに彼からのメッセージが届いていた。
黒板の隅、日直の項目に並んだ名前。ただのクラスメイトは、それだけの関係のはずだったのに。
無視して帰ってしまえば良い。なのにそれが出来ないでいる。
写真もある、動画もある、だから仕方がない。
脅されているんだからと諦めるのは簡単で、逆らえないんだと自分勝手に思い込んでしまっていた。
催眠術か、洗脳にも近いかも。なんて、バカな考えだって分かってる。
そんな便利なものがあったとしても、気づいた所で、抜け出せなければ意味がない。
彼の「お願い」を断るのに感じる強い抵抗。そこに違和感を覚えながらも、今日までどうする事もできなかった。スマホに表示されたメッセージを読み返す度に、恋人にお願いをされているような気分になり、早く戻ってきて欲しいとソワソワしてしまう。
違うのに。そんなはずはないって、気を取り直そうとしても、今度は隠し撮りされていた写真や動画が、私の決意を無駄にする。
ーもう、みんな帰ったよー
メッセージを入力して彼に送る。
私も帰って良い? 書いた文字は、結局、親指の向こう側へと流してしまった。
「おまたせ、なずな」
「透…くん」
もう、彼の名前を呼ぶ事さえ当たり前になっていた。
それが自然と口から滑って、恋人の名前を呼ぶような面持ちにさせられた事が心底怖ろしい。
これが最後のチャンスだと思う。
私が、私でいられる内に出来る最後の抵抗。
出来る出来ないじゃなくって、今、私がやらなければいけない事だった。
彼が目の前にいる状態で、もう一度彼にメッセージを送る。
内容なんて無い、空っぽの、ただ通知を知らせるためのメッセを送ると、警戒する風でもなく、彼は取り出したスマホに視線を落とした。
「なずな?」
空っぽのメッセを目にして彼の動きが止まった。
その一瞬の隙目掛けて、残っていた勇気を掻き集めた私は、彼の手からスマホを奪い取ると、それを両手で握りしめながら慌てて距離を取る。
運がいい。この賭けは私の勝ちだ。
本当に催眠なんてあるのなら、動くなとでも、言うことを聞けとでも言っていればよかったのに。 教室で待っていて。
それだけなら、教室から出られないだけで何とでも動けたのは幸いだった。
「これっ! コレなんでしょっ! これで、私をおかしくしててっ、だからっ」
一見、何の変哲もないスマホだ。
だけれど、表示されていた画面には、私の名前と、深度7と、不吉な数字が表示されている。
彼が私に言うことを聞かせる時、私が彼の言うことに逆らえない時、そうして、私の感情が書き換わる瞬間。いつも、このスマホを彼は握っていた。
催眠アプリ。
ポップで、キュートに、ファンシーに。飾り立てられた文字に、頭が痛くなりそうだった。
意味がわからない。本当にそんなものがあった事もそうだし、これが本物だなんて信じる事も難しかった。でも、握りしめたスマホに感じる確かな忌避感。こんな訳の分からない物で、自分の生活が狂わされていたなんて、思い返すだけでも腹立たしい。
自分が機械音痴じゃなかった事に感謝する。
年頃の女の子にとってのスマホなんて、見なくてもメッセージを送れるくらいには手に馴染むものだ。
早々にホーム画面からゴミ箱へ。簡単にアプリのアンインストールを済ませると、彼のスマホを力任せに床に叩きつけた。
そうして何度も、今までの鬱憤を晴らす為に、何度でもヒビの入った画面を足で踏みつけた。何度も、何度も繰り返し、フレームが折れ、割れた画面が粉々になってまで、踏みつけるのをやめられない。
グシャり…。
ディスプレイのガラスが割れて砕けて、ジャリジャリと、潰れた感触を踏み躙る。
それだけ、たったそれだけのことだった。
この人には逆らえない、言うことを聞くしかないんだって、いつの間にか思い込んでしまっていた。あの、催眠アプリだっていうのが、それを手伝っていたとしても、ちょっとの勇気で良かったんだ。
きっともっと最初の方。キスをさせられた時にでも、毅然とした態度でいれば、こんな酷い所にまで来なかったんだと思う。
「コレで何も出来ないでしょっ! あなたの言うことなんてもう聞かないからっ!! さよなら峯岸くん…っ」
彼の横をすり抜けて、教室の出口へ向かう。
心が軽い、身体も軽い。帰ろうとする足には なんの後ろめたさも感じない。
こんな事して、写真でも動画でも、今度こそ本当に脅されるかもしれないけれど、今の私なら、それでもちゃんと戦える気がしていた。
「なずな」
ほら、何も感じない。名前を呼ばれたって気味が悪いだけ。
だって、ただのクラスメイト。ううん、それ以下の、私にとっては居ない方がマシな人。
「ちょっとまって」
ほら、なんともない、なんでもない、私はちゃんと自分の足で歩ける。
歩いている筈だったのに。
次の一歩から進めなくなっていた。
教室の床に固定されたみたいに足が剥がれない。
まるで、壊れたオモチャみたいに、カチカチと自分の歯が鳴っているのが分かる。
振り返りたくもないのに、ゆっくりと首が回り、嫌な笑みを浮かべる彼の姿が視界の端に映り込んだ。
「な、何を…したの、峯岸くん? だって、わたし…確かに」
アプリも消した、スマホも壊した。それなのに彼の言うことに逆らえない。
違う、心はちゃんと抵抗できている。仕方ないとも思ってないし、諦めるつもりでも無かった。もう2度とは、彼の言うことなんか聞くもんかって、強く思えている。
なのに、なんで?
「君の勝ちだよ、なずな。確かに、目の前でスマホを触りすぎてた僕が悪かった」
負けを認めつつも、峯岸 透は余裕の体勢を崩さない。
だってそう。私の身体は、彼の言葉に釘付けにされてしまっている。
「こっちにおいで、なずな」
「いやっ。呼ばないでよっ、私の名前っ。あなたなんかに呼ばれたくないっ」
「嫌でもいいよ。僕だって、別に君に好意があるって訳でもないし」
「だったら、なんでっ…。もう良いじゃないっ、あんなにしておいて、まだ私になにかしようっていうのっ、構わないでよ、もうっ!!」
足が動く。けれど、向けた先は教室の出口の反対側。窓際で佇む彼の方に向かっていく。 お願い、お願い。どれだけ強く願っても、進んだ足は戻らない。
ちゃんと戦うんだって決めたのに、その決意がこんなに脆いなんて思わなかった。
一歩、一歩と、進む度にジャリジャリと、潰れたスマホの破片を踏みつける。その感覚は、自分の心が潰れる音にも聞こえていた。
目の前には彼の顔。見たくもない顔から目を背けるくらいは出来ても、それだけで何が変わるものでもない。
「あれだけエッチしたんだ。少しくらい情も湧くじゃん?」
「そうだね。私だってそう。君のこと、絶対嫌いって思うもの」
「なずな」
「…っ」
名前を呼ばれただけで嫌悪感に身体が震えた。
近づいてくる彼の顔を、自分なりに睨みつけたつもりでもいた。
まぶたが落ちる。顎が上向く。差し込む夕日が彼の顔に遮られると、その吐息を肌で感じていた。
キスをされる。そう思った時にはもう、私達の唇は重なっていて「いやっ」と、顔を逸らそうとした私は、だけど、引き結んでいた筈の唇を、自分からほころばせてしまう。
ちゅっ…。
重ねるだけの優しい口づけ。
もっと酷いことをされるものだと思っていた。
ぐちゃぐちゃになるまで、私の口内を蹂躙する彼の舌に、涎を吸われて、流し込まれて、嫌でもそれを飲まされる自分の姿まで想像出来ていた。
だけど、それ以上は何もない。ただ、離れていった彼の唇を前にして、私は開いたままの唇をどうすることも出来ないまま、呆然と彼を見つめていた。
「どうしたの? 呆けた顔して? もしかして、もっとして欲しかったとか?」
「あ、ちがっ。そんな訳ないっ、私はあなたの事なんか嫌いなんだからっ」
嫌い、嫌い。その言葉だけは信じたかった。
身体の自由は効かなくても、この気持ちまでなくしてしまったら、本当におわってしまうと、心を強く持ち直す。
顔が熱いのは夕日のせい。足が震えてるのは身体が言うことを聞かないだけ。
怖いとか、悔しいとか。私はまだ、負けてなんかいないはず。