「おはよう、朝霧さん」
「うん、おはよう、峯岸くん。今日は早いんだね?」
朝の七時を回った所。
部活の朝練の声を除けば教室に入ってくる音も少なく、ガランとした教室で、少女が一人掃除をしていた。
「いや、なんか何時も任せっきりだし」
「良いのに。私が好きでやってるだけで。それに帰りの戸締まりはしてくれるでしょ?」
「そうだけど」
日直の日、彼女の朝は何時も早かった。
大方の生徒が眠気眼を擦ってる時間には既に登校していて、日直の仕事はもとより、頼まれもしない掃除まで、細々とした時間を過ごしているようだった。
朝霧 なずな。クラスメイトの女の子。
良く言えば素朴で、純朴で、悪く言えば少し地味。
顔はまあまあ、体型もそこそこ。人当たりも良ければ、変な癖もなく。普通の女の子と言われて、大体想像出来るような子だった。
そんな彼女にしては、背伸びをしたおしゃれなんだろう。
もみ上げを纏めるには大きめの花飾り。
綺麗な黒髪の上に咲いた花は、少し大げさではあったけど、大人しい彼女に添えるには、それぐらいが丁度良いようにも思えた。
「はい、おしまい。やっぱり二人でやると早いね、ありがとう峯岸くん」
「どういたしまして」
それっきり会話が途切れるのも当然だった。
彼女との接点と言えば日直ぐらいのもので、話題というのも特にはない間柄だ。
もちろん。話しかければ応じてくれるし、社交辞令的な雑談というのもありはするけれど、それらは親しみを感じる類のものではない。
だからこそ、唐突に感じたはずだ。
その髪飾りの由来。
控えめな彼女をからすれば主張の強いそれ。可愛いと思っても自分からは付けそうにはなく、わざわざ目立つ事をしている理由が気にかかる。
「その髪飾りって…」
「え、なに?」
それに触れようとして、伸ばした僕の手を避けるように彼女が半歩後ろに下がる。
それもそうか。仲良くもない男子が髪に触れようとして、嫌がらない女の子が居るわけもない。
だからこそ、その反応は丁度良かった。
おもむろにスマホを取り出し、アプリを起動する。
急に画面を向けられて、不思議そうな顔をする彼女の前でもう一度、同じ問いかけを繰り返した。
「似合うね、その髪飾り。誰から貰ったの?」
「あ、うん。ありがとう。これはね、彼氏からのプレゼントで、初めてのデートの時、きっと似合うからって…えへへ」
明確な拒絶こそはないものの、明らかに僕が触れるのを嫌っていた。
それなのに、一体どういう手のひら返しだったのか。大切な髪留めに触れても逃げようともせず、文句も言わない所か、答えなくても良い質問にまでも彼女は頷いてみせた。
はにかんだ表情。少し照れたように俯きながらも、その柔らかい微笑みにドキリとさせられる。なるほどと、この可愛らしさに気づいた男子は慧眼だったんだろう。
あるいは、幼馴染のように昔から近い付き合いでも合ったのかもしれない。
対して、僕が彼女を選んだのは、まあ都合が良かったから。
一人になる時間も把握出来ていて、僕が話しかけても嫌がらない大人しさ。
最悪失敗しても、冗談で流してくれそうだと思ったのが決め手になった。
最初から遊びのつもりだった。少し踏み込んだ会話からしてみて「やっぱりダメじゃん」て、諦めるための理由が欲しかっただけ。
だったのに、試しに聞いた髪飾りの由来からはじまり、いつ、どこで、どんな風にと、付き合い始めた経緯までも話してくれる。
好きなもの嫌いなもの、家でのこと、本当に素直に話してくれた。
こんなに何でも話してくれるのなら…。期待は、当然の様に加速する。
有り体に言えば、少しくらいエッチな事も聞いてくれるんじゃないかと思わずにはいられない。
「ねぇ、朝霧さん…」
きーんこーんかーんこーん…。
更に彼女に踏み込もうとして、しかし、機械的に鳴り響くチャイムの音に遮られてしまった。
「て…あれ? 峯岸くん…? なんで、私…あ、日誌取ってこないと」
はっとした彼女の瞳には正気が戻っていた。
踏み込みすぎた質問がそうさせたのか、間の悪いチャイムの音が正気に引き戻したのか分からないが、不可解な顔を浮かべたまま、彼女は僕の前から逃げるように立ち去っていった。
ーーーー
「…本物だったのか、まじで」
放課後の帰り道。スマホを手に取りアプリを開く。
催眠アプリ。そんな冗談みたいな文字が画面に浮かび、ポップにキュートにファンシーに飾り立てられていた。
あまりの派手さに、この過剰装飾自体に何か刷り込みの効果でもあるのかと疑ってしまいそうだったが、あいにくとまだ僕は正気なつもりではある。
「いや、どうだろうな」
そもそも人に使ってみようと思った時点で正気か疑わしい。それが本物だとわかった上で、更に踏み込んだのは十分に故意だ。
朝霧 なずな。画面には、名前と、その下に円グラフが表示されていた。
深度1
チュートリアルによれば、催眠を掛けるほどに深度が深くなり、無茶なお願いも通りやすくなる。そのうちに、アプリを介さずとも催眠状態を維持できる様になるらしく、最終的には文字通りの言いなりに出来るともあった。
そんな簡単にはいかないのか。
あのエロ本みたいにすぐにエッチ出来るかとも思ったけど。
しかし、それはそれで味気ないかと思い直した。
朝霧 なずな。彼女にエッチな事をさせるにしても、もっと彼女のことを知ってからでも良い。
せっかくのオモチャを簡単に使い捨ててしまうよりも、試してみたい事は山とあった。果たして、そう思ってしまった僕は、本当に正気だったのだろうか?
ーーーー
ざっと2週間、初めてこの時間が長いと感じた。
次の日直が回ってくるまでのその間、何度か朝霧 なずな と二人きりになるタイミングを探っては見たものの。相手は彼氏を作ってしまうような女子だ。
特に癖のない性格は、当たり前に友人を作り、休み時間、トイレに行くタイミングでさえ、誰かと一緒に居るのが当たり前。
結局、次の朝の日直の時間まで、彼女が一人になるのを待つことになった。
「おはよう。峯岸くん、今日も手伝ってくれるの?」
「うん、そのつもり」
「そうなんだ。ありがとう…でも、無理しなくたって。顔、まだ眠そうだよ?」
「あはは、分かる? でも、早起きすると使える時間が増えてさ」
「それは、うん。ちょっと、お得な感じはするよね」
「だけど、早く寝なきゃだから、あんまり変わらないなって思い直した所」
「そう? 眠い目こすって夜更かしするより良いと思うよ」
「かな」
何でもない会話。クラスメイト同士の雑談。
そこに、コレといった感情なんてものはなく、事務的な社交辞令みたいな空気さえあった。
「朝霧さん」
「ん、なに?」
スマホを開き、アプリを起動させる。使い方は簡単だった。
催眠開始の項目をタップして、切り替わった画面を相手に見せるだけ。
「僕のこと、どう思ってる?」
「え? あぁ…えっと。別になんともは、ただのクラスメイトでしょ? だからって積極的に関わりたいわけじゃないし、朝はやるから帰りはお願いって棲み分けたかったのに、そういう所は空気読んで欲しいかな?」
「ただのクラスメイトでしょ?」好きも嫌いもない無関心は、催眠を掛けなくたって普通に考えられる答え。だけど、その後に続いた言葉は普段の彼女を思えば棘の含む言葉だった。
彼氏持ちの女子が、よく知らない男子と関わりたいわけもなく、それを抜きにしたって、クラスメイトとしてですら、関わり合いの薄い僕に対する好感度も何も合ったものじゃない。
それくらいの、誰だって考える程度の本音は理解出来る。とはいえ、毎朝早いのは僕に関わり会いたくないからだと言われて、傷つかないでいられるほど、僕のメンタルは頑丈ではなかった。そう思われてはいても、聞きたくはなかったし、言わないことが彼女の優しさでもあったんだ。
アプリの画面を見る。
朝霧 なずな。深度2。
そこには、彼女の名前と段階の進んだ数字。進んだ深度で何を、何処まで出来るのか、試してみたくなるのは当然だった。
アプリの画面を見せ、彼女にお願いをする。それは、たった一言で終わる簡単なお願いだった。
「朝霧さん。僕にキスをして欲しい」
「うん、良いよ」
何も疑わない。何も躊躇わない。
冗談で流すどころか本気にして、嫌とも言わずに彼女は一歩、保っていた僕との距離を縮めに来た。
彼女の手が伸びてくる。ブラウスから伸びる白い肌。夏服の、半袖の、二の腕から続く暗がりに、自然と目が吸い寄せられていく。
その間にも、彼女の手は僕の首に回され、その細腕にくいっと引き寄せられた。
顎を持ち上げ、ほんの少しの背伸び。黒い髪に添えられた花飾りが揺れている。地味だと思っていた女の子でも、間近で見つめられると照れくさく、何処に視線を置いていいか分からなくて焦ってしまう。
「デリカシー…。目、瞑ってて?」
「あ、うん、ごめん…」
あどけない表情とは裏腹に、キスをしようとする動きには躊躇いが無かった。
慣れた動きは、エッチな事なんて何も知らなさそうな顔をしながらも、彼氏との間に重ねたであろう唇の数を予想させる。
琥珀の差し込む瞳に瞼が落ち、細められた目元が色っぽい。
幼さの残る少女の顔には、確かに大人の色気も合って僕の心臓を高鳴らせた。
ちゅっ…と、触れるだけ。お互いの唇を重ねただけの軽いキス。
初めての女の子の感触に歓喜し、僕の身体は震え上がる。
きーんこーんかーんこーん…。
事務的なチャイムの音。同時に 朝霧 なずな は弾ける様に僕から身体を離した。
「え、いま…わたし…なんでっ」
分からない。自分のしでかした事が信じられず、唇に指を当てながら、涙の滲む瞳で僕を見つめてくる。
「ぃゃっ…違うから、忘れてっ、絶対に誰にも…ごめんなさいっ!!」
叫ぶように声を上げ、目の前にいた僕を押しのけると、彼女は教室の外へと走り出していった。
行き先は、多分トイレかな? 涙混じりに唇を洗っている所を想像すると、悲しくもなってくるが、幸いと、今の僕は気分が良かった。
朝霧なずな 深度3。
アイテム獲得:写真・キスシーン。
アプリの画面には、進行した段階と、フォルダが添付されていた。
一体どうやって撮影したのか、フォルダ開き写真を取り出すと、上手く使えとばかりに、僕にキスをする朝霧 なずなの姿が鮮明に映し出されていた。