「おはよ、なずなっち。あれ、今日は髪飾りはどしたん?」
「へ? あ、その…ちょっと、朝慌てて…それで」
「あはっ。なずなっちでもそういう時あるんだ?」
「そりゃあるよ。そんな時くらい」
代り映えしないはずの朝の教室。おはようの挨拶と一緒に絡んできた友人の指摘に、私の心はチクリとした痛みを訴えた。
あの日の後、それに気づいてホテルに連絡をしてみたけれど、忘れ物の類は無かったらしい。それなり目立つ髪飾りだ。そこにないと言うなら彼が持っているのは明白だった。
置き忘れてしまった、置いてきてしまった。
早く忘れたかったのに、無かった事にしたかったのに。けれど、失くしてしまった宝物の重さ、その事実が私を苦しめる。
「ごめんね? 明日はちゃんと着けてくるから」
曖昧に笑って、誤魔化して、それでも隣にいた恋人の様子が気になって顔を覗き見てしまう。「大丈夫だよ」返ってきた優しい言葉。いつもの笑顔に私は心底安心してしまっていた。
「てかさ? がっこ、終わったらカラオケでもいかない?」
「カラオケ? えと、どうしよう…」
「彼氏君と一緒なら?」
「ん? 俺はもちろん大丈夫だよ? 朝霧さんと一緒ならな?」
「え、じゃあ…うん。私も、いいけど」
「はい、決まり-♪ ま、あとはテキトに声かけてくからー」
そうして、一通りはしゃいでみせた後、朝のチャイムに押されて彼女は席に戻っていった。
友人からのお誘い。それが嫌な訳じゃない。でも、あんな事があった後だ。正直、早く帰りたいという気持ちも無いではなかった。
「朝霧さん、どうしたの? 気乗りしない? 熱出した後だし、まだキツイようなら俺の方からアイツに言って」
そんな気持ちが顔にまで出ていたんだろう。恋人に心配そうに顔を覗き込まれると、私は慌てて笑顔を作り直し、それらしい言い訳を口にしてしまっていた。
「ううん、平気だよ。ほんとは君と二人がよかったな…て、おもってて」
「あ、そっか。それは、じゃあ…また、今度にね」
「うん、たのしみ」
くすぐったい。恋人とのなんでもない やりとりが、私の心を慰めてくれる。
これが普通。何でも無い当たり前。
年相応の付き合いは、キスくらいはしてみても、身体の関係なんてまだ早いと思ってた。
想像しなかった訳じゃない。けど、それはきっとお互い様で、どちらからとも言い出せずに過ごした時間は、焦れったくありつつも、人並みの恋愛に満足もしていた。
「また今度」その言葉に気が滅入る。
私に今度なんてあるのだろうか。ほんとなら、嬉しくって、カレンダーに予定を書き込んでる所だろうに。頷くだけ頷いて見せても「いつ行こう」なんて話を切り出す気にはなれなかった。
そう、また今度…。
峯岸 透、また彼に呼ばれたら、求められてしまったら、私は抵抗できるのだろうか? 気づかない内に抱かれてて、また、終わった後に目を覚ます。それが怖い。
あの時だって私は気づけもしなかった。
遊園地の前で別れたつもりになって、気づけばホテルで、二人で…。
「…っ」
あの写真だって、ほんとに消してくれてるのかも分からない。
なんなら聞いてみれば良いんだ。あんな事があったって、クラスメイトはクラスメイト。いまだってほら、教室の隅の席で誰かと話している。
でも、出来ない。
もう、自分から関わりに行く勇気が持てない。
どうせ、嫌でも日直の時には顔を合わせることになる。
一人っきりだった私の朝の時間に、きっと彼は入り込んでくるだろう。
次にあったら、その時は…。
先延ばしの覚悟に重ねた曖昧な決意は、掬い上げた砂粒みたいに溢れていった。
ーー
いま流行のラブソング。カラオケに入れるなら定番とも言える曲。
だけど、それを恋人が歌っているとなると、その愛の歌が、自分に向けられているみたいで少し気恥ずかしい。
そんなつもりが無いはずもないんだろう。
歌いながらでも彼は、チラチラと私の方を見てくるし。
そんな私達のやりとりに、他の女の子たちからは キラキラとした視線を向けられ、男の子たちからは やいのやいのと騒ぎ立てられる。
からかわれるのかな?
あんまりしつこいと、流石に辟易ともしてくるけど、強く言うのも空気が悪くなる気がして、曖昧に笑って態度を濁すしか出来なかった。
「お疲れ様。歌、良かったよ」
「いや、まだまだだろ。もっと練習しないと」
「なに? 歌手にでもなるつもり?」
「流石にそこまでは。でも、歌上手いのってカッコいいじゃん」
「それは、まあ。分かるけど」
「朝霧さんは何歌うの?」
「私? 私は…そうだな…」
何気ない会話。何でもない会話。恋人と過ごす楽しい時間。
カラオケの狭い室内。誰も彼もが大騒ぎするなか、不思議と彼の声は耳によく届く。
恋人に進められるまま、知ってる曲を探して端末を操作する。
皆が知ってそうな、今流行りのっても、よく流れてくるサビの部分しか知らないし。正直、大きな声を出すのも あまり得意な方でもなかった。
「あ…ごめん」
そんな時に、ポケットにいれていたスマホが震えだした
お母さんかな? だなんて、日常気分で開いた画面は、最悪の現実を思いださせてくれる。
峯岸 透。
そこには、今一番見たくもない名前で短いメッセージが入っていた。
「電話?」
「うん、ちょっと席離れるね」
「行ってらっしゃい」
「うん…」
行ってきます、なんて言えなかった。
この後、自分がどうなるかなんて想像もできず、恋人の隣へ帰れる保証すらもない。
廊下に出て扉が閉まると、扉一枚挟んだ向こう側が嫌に遠く感じてしまう。
扉の窓越しにみえる彼の姿。空いた隣の席を埋めるように、友人の女の子が彼にちょっかいを掛けていた。
冷やかしてるだけ。
そんなの分かっていても見ていられず、私は壁に背を預けて息を吐き出した。
このまま回れ右だ。なんだったらお店から出てしまえば良いものを、そう考える度に言いようのない不安に胸を締め付けられた。
今逃げたら何をされるか分からない。また、写真を使って脅されるくらいなら、いっそ今だけでも従順な振りをしていた方が良い筈だ。
誘導されている。薄々感づいてはいるのに、抗うという選択肢が出てこない。
自分で決めたつもりになって、お門違いの決意を固めた私は、隣の個室、その扉に手をかけていた。