不意に後頭部に痛みが走る。水輝はあせった声を上げて後頭部を押さえ、顔を上げた。肩越しに見返って絶句する。いつの間にかベッドの脇に渚が立っている。腕組みをして睨むような目をした渚を見つめ、水輝はため息を吐いた。
「……んだよ。いいとこだったのに」
「あなたがいつまでも来ないからでしょう」
渚が低い声で言いながら鋭く水輝を睨む。水輝は後頭部を撫でながら舌打ちをした。ぐったりとした優一郎の髪をそっと撫でて額に口づけする。すると優一郎の首に穿たれていた穴は一瞬で塞がった。次いで水輝は優一郎の下腹部に手をあてがい、治療の力を注ぎながら慎重にペニスを抜いた。抜け切る時、微かに優一郎が呻く。水輝はそっと優一郎の身体に毛布をかけ、渚に向き直った。
「だから、祐を抱いた後に行くつもりだったんだよ。……何だ、そのもの凄い嫌そうな顔は」
凄まじい渚の面持ちに水輝は素直に訊ねた。すると渚が右手を一閃する。唐突に殴られた水輝は声をなくして渚を見た。ふん、と横を向いた渚はそ知らぬ顔で歩き出した。待てよ、と声をかけて水輝は渚を追った。部屋を出る直前に渚の手首を捕まえる。
「どこに行くつもりだ」
「あなたはそのまま彼と居ればいいんじゃない?」
「お前、邪魔しといてそれはないだろ!?」
冷ややかな声で告げた渚に水輝は怒鳴り返した。そこで慌てて口を手で覆う。恐る恐る振り返って水輝はほっと息を吐いた。どうやら優一郎はあのまま眠ってしまったらしい。優一郎が気づいていないことを確かめて、水輝は渚に向き直った。
「やっぱり彼、あなたが好きだったのね」
「いや、そんなことは……とにかく、器壊してやるからそこに直れ」
半ばやけくそで水輝はそう言った。するとあら、と渚が微笑を浮かべる。
「やっと殺す気になったの?」
「……とりあえず使い魔としてのお前はな」
もの凄く不本意な顔で水輝は答えた。裸じゃなんだしな、と呟いて水輝はさっさとベッドの傍に引き返した。散らばっていた服を手早く身につけて振り返る。大股で部屋を横切った水輝は佇む渚の手をつかんでドアから廊下に出た。渚の手を引いて無言で廊下を進む。
「彼に名前をつけてあげたの?」
「抱く時に優一郎って呼ぶのもあれだろ」
渚の質問に水輝はぶっきらぼうに答えた。水輝に手を引かれて歩きながら渚が小さく笑う。
「気に入っているのね」
「悪いか?」
不機嫌に問いかけて水輝は肩越しに渚を見た。すると渚が苦笑して首を横に振る。ふん、と鼻を鳴らして水輝は正面を向いた。ホールに続くドアを静かに開ける。広々とした空間に入った水輝は中央まで歩いて振り返った。
「一つ言っとくぞ。おれはお前、お前はおれ。人格は魂に付加される、言わば標識のようなもんだ」
「判っているわ」
穏やかな表情で渚が頷く。どうして渚はこういう時だけ物分りがいいのだろう。水輝は舌打ちをしてコートのポケットに手を突っ込んだ。
「紫翠が残した標識を壊した後、お前がどう変わるかは見当がつかない。もしかしたらお前はおれを憎むかも知れないし、恨むかも知れない。……それでもいいな?」
水輝は低い声でそう告げた。すると渚が微笑を浮かべて軽く首を傾げる。
「いいわ」
静かな答えを耳にして水輝は頷いた。コートのポケットから手を出し、天井に向かって声を張る。
「奈月!」
呼んだ瞬間、水輝の手の中に一振りの青い刀が現れる。水輝はしっかりと柄を握って渚を見た。渚は静かに佇んでいる。水輝は冴え冴えと青く輝く刀身に唇を寄せた。ほんの僅か、刀身が輝きを増す。
「……恐らくお前は反撃するだろう。それは紫翠の刻んだ人格が勝手にすることだ。気に病むことはない」
「判ったわ」
水輝の言葉に渚が神妙な面持ちで頷く。水輝は右手に刀の柄を握り締め、一気に渚との間を詰めた。刀が届く寸前に渚が鋭い息を吐いて身をかわす。思った以上に速い。水輝は舌打ちをして刀を素早く逆手に握り替えた。
大きく踏み出して揮った水輝の刀を渚が飛び上がって避ける。宙返りして着地した渚は素早く床を蹴って水輝に向かって走った。身をかわした水輝の胸を渚の爪が薄く刻む。渚の爪は鋭く伸び、まるでナイフのように尖っていた。
「やっぱ、ただじゃやれねえか」
大きく飛び離れて水輝は再度、強く床を蹴った。身構えた渚の懐に飛び込んで右手を一閃させる。逆手に握った水輝の刀は渚の服だけを切った。飛んで離れた渚が走って水輝の顔を狙って手を突き出す。反射的に避けた水輝の頬を渚の爪が深く切る。水輝は行き過ぎようとした渚の肩を後ろからつかみ、こぶしを繰り出した。背中を打たれた渚が激しい音を立てて床に転がる。その隙に水輝は刀を握り直し、渚の背に刃を突き立てようとした。
不意に至近距離で力が炸裂する。薄い水色の力に撃たれ、水輝の身体は吹っ飛んだ。反射的に展開した結界が辛うじて水輝の身体を受け止める。水輝は即座に体勢を立て直して渚に向かって走った。
素早く動いた渚が水輝の刀を長く伸びた爪で弾き返す。左から飛んできた渚の爪を水輝は直に手の甲で受け止めた。歯を食いしばって爪を弾く。水輝は鋭い息を吐いて身を沈めた。渚に足払いをかけてよろけたところに刀を繰り出す。床に倒れかけていた渚が鋭く水輝を睨みつけて右手を振る。水輝はわき腹に激しい痛みを感じつつも刀を握る手を止めなかった。
水輝のわき腹を爪で刺した渚が目を見張る。水輝の青い刀は渚の胸に深々と突き立っていた。渚が呻きを上げて無造作を右手を振る。わき腹を爪で抉られ、鮮血が噴出しても水輝はその場から一歩も動かなかった。
「散れ!」
怒声を張って水輝は刀を介して渚に力を叩き込んだ。その瞬間、渚が断末魔の声を上げて仰け反る。
やがて渚の声が小さくなっていく。水輝の刀に貫かれた渚の身体は次第に透けていった。消える前、渚が微笑みを浮かべる。その唇がありがとう、と刻むのを見取った水輝は微かに目を細めた。
「阿呆」
そう呟いて刀を引く。渚が完全に消えた直後、その場の空気が大きく揺らいだ。刀を手にしたまま床に膝をつき、水輝はのろのろと顔を上げた。空気の揺らぎがやがて一つの光と化す。金色の光が揺らめきながらやがて渦を巻く。水輝は傷ついたわき腹を押さえて激しく咳き込んだ。真っ白な床に血が広がっていく。水輝はぼんやりと自分の流した血を見つめてから目を上げた。
渦がやがて人の形を為す。渚と同じ形をしたものが現れたのを確認し、水輝はよろけながら立ち上がった。金色の髪と瞳を持つ渚の姿はかつての夜叉そっくりだ。水輝は静かに目を開けた渚の脇を無言で過ぎた。手にしていた刀を軽く振り、奈月の姿に戻す。奈月は渚と同じ金色の光を纏っていた。
「御姉様。選択を。御姉様は金の後継者たらんと望みますか? それとも地上の王足らんと望みますか?」
静かな声で奈月が告げる。水輝は黙って渚と奈月を見た。渚が静かに奈月を見つめる。そして渚はにこやかに微笑んで告げた。
「私は金色の扉。……地上の王の名は願い下げだわ」
だって水輝は殺せないもの。笑顔で告げた渚がねえ、と奈月に同意を求める。奈月が神妙な面持ちで渚に頷く。
「承りました。これを」
そう告げて奈月が渚の前に両手を差し伸べる。その手の上には透明な一つの珠が現れた。渚が片手にそれを取り上げた瞬間、珠が溶けて消える。その後、渚は目を閉じて胸に手をあてがった。
「我、空席となりし木龍、地上の王の座を相応しき者が現れるまで預からん。我は月龍。青龍王に永遠に添うものなり」
軽く上を向いた奈月が言葉を紡ぐ。その瞬間、ホール全体の空気が甲高い音を立てた。鳴動した空気が施設全体を揺らがす。だがその揺れはすぐに収まった。水輝は無言のまま胸ポケットから煙草を引っ張り出した。一本咥えてライターで火を点ける。深く息を吸った後、水輝は細長い煙を吐き出した。
「我、金の娘として宣ず。我は柱にあらず。青龍王に添う者なり。また、紫龍も柱にあらず。青龍王に対する者なり」
血だらけの指で煙草をつまみ、水輝はそっとため息を吐いた。左手でわき腹を押さえてとりあえず止血する。だがどうやら紫翠の力はろくでもないものを残してくれたらしい。
「金の娘としての我が使命、これにより全うせり」
奈月がそう結んだ途端、纏わりついていた金色の光は静かに納まっていった。それと同時に渚の纏っていた輝きが静かに消える。水輝は片腕を伸ばしてよろけた奈月を受け止めた。ぐったりと脱力した奈月をそっと抱え上げる。お疲れさん、と声をかけて水輝は顔を上げた。
「とりあえず生還おめでとさん。んで、これはい」
水輝は無造作に渚に奈月を差し出した。眉を寄せた渚が両腕に奈月を受け取る。水輝は咥え煙草で首を回し、渚を見た。渚はどことなく不安そうな顔で水輝を見つめている。
「気にすんな。この程度の傷なら可愛いもんだ」
「そう?」
小さな声で渚が言う。おう、と笑って水輝は渚に片手を上げた。
「そんな訳で奈月を寝かせてやってくれ。おれは」
そう言って水輝は血だらけの手で渚をびしりと指差した。
「祐と続きするから今度は絶対に邪魔すんな!」
「……あなたの頭の中は一体、どうなっているのかしら」
呆れたように渚が呟く。うるせえ、と言い返して水輝は鼻を鳴らした。渚がやれやれとため息をつく。水輝はふん、と笑ってその場から転移した。
奈月の預かりだった座格は無事に渚に戻りました。
まあ……その時点で奈月がかなりイレギュラーだということなのですが……。