エロシーンはありません。
どこかで見た覚えが。多輝は二人分のコートを預かってフロアの奥に向かっていった女性の後姿を見つめ、首を傾げた。だがどこで見たのかをはっきりと思い出せない。
「何にする? 今日のおすすめはスパゲティかなあ」
そう言いながらも紫はコーヒーをカップに注いでいる。三つのコーヒーを注ぎ終えたところで紫は穏やかな声をフロアに投げた。渚さん、と呼ばれた女性がカウンターからコーヒーカップをトレイに移し、またフロアの奥に消える。どうやらさっきの女性は渚という名前らしい。
「僕はパンケーキセットをください。ドリンクはコーヒーで」
笑顔で優一郎が告げる。それを聞いた多輝は慌てて優一郎の手からメニューをひったくった。じっと覗き込んでから顔を上げる。
「じゃ、おれ……じゃない」
自分の言葉に顔をしかめて多輝はうー、と呻いた。人の居るところでは言葉遣いを正せ、と言われているのだが、どうもまだ慣れない。
「えーと、あたしには日替わりスパゲティ、セットで紅茶つけて」
恥ずかしさを堪えて口早に言って多輝はメニューを閉じた。はい、と微笑んで頷いた紫が後ろのキッチンに向かって注文した品名を読み上げる。どうやら紫はここで紅茶やコーヒーと言ったドリンクを入れる役らしい。
「ドリンクは食後でいいの?」
手際よく紅茶を入れながら紫が訊ねる。多輝は優一郎に目配せされて頷いた。
「……でも、何で喫茶店?」
紅茶を入れて渚を呼んだ紫に何となく訊ねる。すると紫は苦笑を浮かべた。ぐるりとフロアを見回してから肩を竦める。
「趣味と実益を兼ねてね。最初はレストランにしようかとも思ったんだけど、それだと負担が大きすぎるからって水輝が」
小さく笑って告げた紫の顔には以前に感じた影はない。着ているものもどことなく、以前よりも柔らかな印象がある。
「今日は奈月さんはいらっしゃらないのですか?」
穏やかな声で優一郎が問う。どうやら優一郎はここで紫が喫茶店を開いていることを知っていたらしい。きっと驚かせようと考えていたに違いない。遅ればせながら多輝はようやくそのことに気がついた。
「あ、奈月さんには今は買い物に行って貰っているから」
にっこりと笑って紫が答える。
ほどなく二人の注文した料理が運ばれてきた。多輝はトマトソースのスパゲティを口にして絶句した。妙に美味いのだ。隣をちらりと伺うと優一郎は平然とした様子でパンケーキを口に運んでいる。多輝はもう一度まじまじと自分の皿の中を見た。アスパラガスとベーコン、たまねぎなどといったごく当り前の具材しか使われてはいない。一見、貧相なのに。思わず多輝は本音を零した。するとくすくすと紫が笑う。
「レシピはいつもわたしと奈月さんで考えるんだけど……美味しい?」
軽く首を傾げて紫が問う。多輝は無言で何度も頷いてから改めてスパゲティに取り掛かった。
「多輝、あんまりがつがつしない」
笑いながら優一郎がペーパータオルで多輝の口許を拭う。おう、と返事して多輝はまた一心にスパゲティを食べ始めた。その隣で優一郎がくすくすと笑い、紫もつられたように声を抑えて笑う。
食事が済み、茶を飲んでいる時、ふと店のドアにつけられた鈴が鳴った。
「ただいまー……って、お。お前ら来てたのか」
そう言いながら水輝がよう、と手を上げる。続いて水輝はカウンターを見てあー! と声を上げた。何事かと目を見張った多輝の後ろを過ぎて水輝がカウンターを身軽に乗り越える。
「何で店に立ってるんだよ! 楽にしてろっつったろが!」
客を驚かせないためにだろう。抑えた声で水輝が紫に言う。すると紫は困ったように笑った。
「別に病気じゃないんだし、大丈夫だよ」
「大丈夫じゃねえ!」
一体、何事だろう。そう訝って多輝は隣の優一郎の顔を伺った。すると視線に気づいたのだろう。優一郎がああ、と笑う。
「懐妊されたんだよ」
「解任?」
真顔で問い返した多輝に違う、と優一郎が首を振る。それから優一郎はテーブルに指で字を書いてみせた。その字を読み取った多輝は驚きに顔を上げた。腕組みをして難しい顔をしている水輝と困ったように笑う紫を交互に見る。
「とにかく、ここはおれが立つから、お前はその辺に座ってろ」
「もう。心配性なんだから」
コートを脱ぎ、早速腕まくりをした水輝が紫から受け取ったエプロンを手早くつける。思わず大丈夫なのか、と疑いの声を漏らした多輝の額を水輝が指で弾く。
「あ、そろそろ時間だね。ちょっと取ってくるね」
多輝の横に腰を下ろしかけていた紫が立ち上がって店の奥に引っ込んでしまう。一体何事だろう。多輝は首を伸ばして紫の後姿を目で追った。キッチンの脇についた扉の奥に紫が引っ込む。
水輝は慣れた手つきで小さな硝子の器にプリンを盛り付けた。生クリームとさくらんぼを飾りつけたそれを優一郎と多輝の前に置く。
「おごりだ。食え」
奈月の手製だから美味いぞ。そう注釈をつけて水輝が顎をしゃくる。多輝はありがたくスプーンをとってプリンの器を引き寄せた。一口食べて手を止める。
こっちの水輝は実は料理が出来るのですw
(女の方はまな板を割ったりしてましたが)