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盤面をじっと見つめて懸命に考えてから奈月は小さな白い駒を取って斜めに動かした。すると目の前に座っていた老人がにょほほ、と楽しそうに笑って黒い駒を動かす。まんまと駒を持っていかれてしまった奈月は悲しい顔で老人を見た。
老人の名は如月泰蔵。どうやら立城ととても親しい間柄らしい。奈月が一人でいるところに訪ねて来たのだが、誰もいないことを告げると泰蔵はそれではゲームの一つでもと言い出したのだ。
「お強いですね……」
上目遣いに泰蔵を見て奈月は少し拗ねてみせた。あれから二時間。泰蔵とチェスを打つのはこれで三度目だ。応接室で奈月と向き合った泰蔵がほっほっほ、と笑う。容姿やまとう雰囲気は全く異なっているのに、その笑い方はどこか逢坂を思い出させる。
「まだまだ嬢ちゃんには負けられんからの。……ところで」
取った白の駒を手の中でもてあそびながら泰蔵が告げる。何でしょう、と奈月が促すと泰蔵は頷いた。
「その水輝くんとやらはどんな男性なのかな?」
にこにこと人好きのする笑みを浮かべて泰蔵が言う。それを聞いた奈月はぱっと顔を上げて胸の前で手を組み合わせた。
「とっても素敵な方です」
にっこりと笑って奈月は力強く頷いてみせた。するとほうほう、と泰蔵が頷き返す。
「なるほどなるほど。……時に嬢ちゃん。その、水輝くんは……」
そこまで言って泰蔵がテーブルに身を乗り出す。つられて身体を傾けて奈月は耳を片方、泰蔵に向けた。
「同性を好くんかの?」
小声で泰蔵が言う。奈月はしばし考えてから慌てて首を振った。
「いいえ」
奈月が覚えている限り、水輝が同じ男を好いていたという記憶はない。奈月が否定したのを受けた泰蔵がむう、と唸りながら身体を戻す。首を捻りつつ腕組みをした泰蔵の顔からは完全に笑みは消え、変わりに困ったような表情が浮かんでいた。
「おかしいのぅ。わしはぷろぽぉずしたのは水輝くんと聞いとるのだが」
それを聞いた奈月は眉を寄せた。もしかして泰蔵に話題にされているのは水輝と立城なのだろうか。
「紫さんへのプロポーズはまだです。指輪が出来ていませんし」
「おお! そうか、立城殿ではなく紫殿の話だったか」
ぽん、と手を叩いて泰蔵が嬉しそうに笑う。なるほどなるほど、と再度言いながら泰蔵は納得した顔で頷いた。
「しかし指輪とはまた古風な……。わしはてっきりもうぷろぽぉずは済ませておるのだと思ったが」
奈月はぐっ、とこぶしを胸の前で固めて勢いよく立ち上がった。
「そういうわけにはいきません! 水輝さんと紫さんが結ばれるんですから!」
驚いたように泰蔵が奈月を見上げ、次いでのんびりと笑い声を上げる。奈月ははっと我に返ってすみません、と小声で詫びてからいそいそと座り直した。
「そうかそうか。嬢ちゃんも嬉しいらしいのぅ」
うんうんと朗らかに泰蔵が頷く。奈月はにっこりと笑ってはい、と頷いた。何しろ長年、奈月が夢に見ていたことが現実になりそうなのだ。奈月の喜びを読んで取ったのだろう。泰蔵がまた嬉しそうな笑みを浮かべて頷く。
不意に激しい物音がして遠くからけたたましい足音が聞こえてくる。驚きに目を見張った奈月は慌てて応接室のドアを見た。その直後、ドアが派手な音を立てて開く。現れたのは怒りを表した立城だった。
「如月さん! 何をなさっているのですか、こんなところで!」
そう言いながら立城が大股で泰蔵に近付く。そんな立城の後ろから現れたのは憔悴した面持ちをした優一郎だった。
「紫さん、おかえりなさい」
奈月はにっこりと笑って立城に言った。すると立城がその時だけ笑みを浮かべて奈月に頷く。
「ただいま帰りました。でもまたすぐに出ますので」
笑顔で奈月に挨拶してから立城が泰蔵に向き直る。泰蔵はしばし黙って立城を見ていたが、やがてぽん、と手を打った。
「なるほど、これが女性の時の吉良瀬殿か。初めて見たが……めんこいのぅ」
嬉しそうに泰蔵が言う。それが相当に気に入らなかったのか、立城は肩を怒らせて声を張った。
「そんなことはどうでもいいんです! 僕と水輝が不在の間に屋敷に入るなんて……まさか奈月さんには手を出していないでしょうね!? 奈月さんは水輝の大事な方なんですからね!」
一気にまくし立てた立城がそこで深い息を吐く。奈月は目を丸くして立城と優一郎とを見比べた。立城の少し後ろに立った優一郎が疲れたように肩を落とす。
「あの、違います! わたしは水輝さんの道具というかそういうものであって、それ以上ではありませんから!」
慌てて奈月はそう言った。すると立城が今度は奈月を鋭い目で見る。だがそこで我に返ったのだろう。立城はすみません、と詫びてから奈月に向き直った。
「そんなことはないでしょう? 道具と思っている相手をあれほど大事にはしないと思いますよ、僕は」
一転して穏やかな声で告げ、立城はにこやかな笑みを奈月に向けた。それから立城は再び泰蔵に向き直って鋭い目になった。
「彼女に何かあったら黙っていませんよ、僕は!」
「いや、ちょっと待ってくれるかの? 吉良瀬殿」
のんびりと言ってから泰蔵が手のひらを立城に向ける。そこでようやく立城は泰蔵に寄せていた顔を戻し、屈めていた腰を伸ばした。圧される格好になっていた泰蔵がえへん、と咳払いしてソファに腰掛けなおす。
「ちょっと訊ねたいんじゃが」
「なんです? 奈月さんのスリーサイズとか、下世話なことは言わないでくださいよ」
低い声で言いながら立城が腕組みをして泰蔵を睨む。おお、ばれておったか。と笑ってから泰蔵が言葉を継ぐ。
「水輝くんの想い人と言うのは、奈月さんのことなんかの?」
言いながら泰蔵が奈月を手でさし示す。立城は仏頂面のままで何を当り前のことを、と泰蔵に頷いてみせた。
「違います! わたしは水輝さんの所有物ですけど、それ以上の存在では決してありません」
「え、違わないでしょう? 水輝は好かないものを傍に置く趣味はないと思いますよ?」
勢いよく否定した奈月に立城が優しい笑みを浮かべて言う。それから立城はまた泰蔵に向き直った。
「……まあ、何もされていないようですからいいんですが」
そう言ってから立城がため息を吐く。そこで泰蔵は軽く片手を上げた。何です、と立城が険のある声で言う。
「じゃあ、吉良瀬殿は一体誰にぷろぽぉずを」
「だから! そんな事実はないんです! そうだ、それを否定しないと」
言ってから立城がはっとしたように息を飲む。奈月は声を殺して泣いていた。どうして立城はそんなことを言うのだろう。
「あ、あの、奈月さん? どうしたんですか?」
困惑した面持ちで立城が恐る恐る声をかける。奈月は悲しみに涙を流しながら目を上げた。
「ごめんなさい。今は言えません」
「え?」
水輝本人が告げる前に自分が言うのは筋が違う。そう思った奈月は涙声で詫びて頭を下げた。立城がうろたえながら奈月と泰蔵とを見比べる。
「……こんな可愛い女の子を泣かしちゃいかんのう、吉良瀬殿」
「い、いや、あの、僕は」
半眼で告げた泰蔵に慌てたように立城が言う。奈月は涙をハンカチで拭いてから顔を上げた。
「でも、紫さんは誤解しています。水輝さんは確かにわたしに愛情を注いでくださいますが、それは恋人に対するものでは決してありません」
これだけは絶対に譲れない。そう思いながら奈月はきっぱりと言い切った。すると目に見えて立城が動揺する。
「どうしてそんな……」
だってあんなに大事にされているのに。立城がぼやくように言いながら俯く。だがしばらく後に立城はため息を吐いて顔を上げた。
「すみません。僕の勘違いかも知れませんよね。水輝がどう思っているのかを聞いた訳ではありませんし」
そう言ってから立城が泰蔵に向き直る。
「ともかく、これ以上に騒ぎを大きくするのはやめてください。記者会見の席で僕が否定すれば済むことなんですから」
「ほほーぉ」
泰蔵が意味ありげな笑みを浮かべて立城を見ながら頷く。奈月はひとまず立城の心情を理解してほっと息を吐いた。どうやら立城は事の次第を全く知らないだけのようだ。恐らく立城にとって、今度の一件はただの噂に過ぎず、しかも誰と噂になっているのかを全く知らないらしい。
「婚約の儀は四日後、清陵セントラルホテル鳳凰の間」
「はい!?」
泰蔵が告げた言葉に立城が素っ頓狂な声を返す。
「……と、既に決定しとるのだがな」
「ちょっと待ってください!」
上ずった声で言ってから立城がずい、と泰蔵に迫る。
「そんなこと誰が決めたんですか! そもそも、何で本人の了解もなくそんな話が出ているんですか!?」
「決めたのはわしじゃ」
すらりと言ってから泰蔵がかかと笑う。立城がその瞬間、目に見えてはっきりと硬直し蒼白になった。
「いやあ、なかなか骨折りだったわい。急にあの部屋を取るのは大変でな。さすがに吉良瀬殿の名がなければ無理だったのぅ」
固まってしまった立城を放置して泰蔵が楽しそうに笑う。奈月は破顔して泰蔵に会釈をした。
「ありがとうございます」
早速、学に連絡しなければならない。奈月は腰を上げて足早に部屋を出た。背後から立城の力ない悲鳴が響いていたが、そのことに奈月は全く気付かなかった。
いくら抵抗しても無駄というかw