空になったラーメン鉢を軽く割り箸で叩いてから青年は声をあげた。
「おっちゃん! 替え玉一丁、よろしくね!」
「あいよっ」
元気のいい声で店主が返事してカウンターの中から出てくる。つゆだけになった鉢を青年の前の机から取り上げて店主が苦笑する。
「しかし明音くん、その身体でよく入るねえ」
感心したように言った店主に明音と呼ばれた青年は笑いかけた。
「やー、育ち盛りだしー」
そう言いながら軽く腹を叩いてみせた明音の体型はやせぎすで、食べた五杯のラーメンがどこに入っているのかと言いたくなるほど、腹はぺったんこだ。そんな明音を見つめて店主が豪快に笑う。こちらは明音とは対照的にがっちりとした体格をした中年男性だ。
ラーメン鉢を片手にカウンターに戻ろうとしていた店主がふと足を止める。明音は店主につられて店の隅に置かれた古びたテレビを見つめ、苦笑した。
「いやあ、凄いね。芸能人も顔負けだよ」
感心しきりという顔で店主が呟くように言う。明音はそうだねぇ、とのんびり笑って替え玉よろしく、と続けた。すると店主が慌てたように返事してカウンターの中に戻る。
明音はとあるラーメン屋の店内にいた。表向きは浪人生となっている明音の風体は二十そこそこの青年だ。ざんばらに伸びた髪は一応は清潔にしているのだが、髪型のおかげで全体のイメージがとても暗い。おまけに顔色も悪い。さらに近眼で分厚い眼鏡をかけているものだから、女性の類はまるで近付いてこない。
ま、中身が変わったから外見も多少はまともになってるんだろうけどねぇ。明音は内心でそう呟いて苦笑した。髪を揃えて眼鏡を外し、顔色を良くすれば女に困らない程度には明音の容姿は整っているのだ。が、小道具などのおかげで今はごく静かに生活することが出来ている。
テレビに集っていた客たちが歓声を上げる。大写しにされたその姿を遠目に見て明音は小さく笑った。なるほど、人間が騒ぎたくなる気持ちが少しは判る気がする。テレビに映っているのは女性の姿をした立城だ。薄化粧を施した立城の面立ちは並みの人間よりよほど整っている。しかもその隣にはこれまた美形の水輝が並んでいるのだ。記者会見をしている人間の方が二人に圧倒されている始末で、質問をする記者の声はどれも慌てていたり、上ずっていたりと大変だ。
「はい、おまたせ」
「ありがと! よーし、食うぞー」
運ばれてきたラーメンを笑顔で受け取ってから明音は店主に手を振ってみせた。店主が苦笑しながらカウンターの中に戻る。今日はろくに営業にはならないだろう。何しろ客という客が全部テレビに釘付けなのだ。下手をするとカウンターの中にいる店主もテレビに釘付けという始末で、てんで仕事になっていない。べっぴんさんだねぇ、と真顔で呟いて店主が唸る。横目にそんな店主を見ながら明音はラーメンを啜った。
吉良瀬財閥当主は既に代変わりしているのだというのが立城の弁だ。おいおい、そりゃどっちもアンタだろ。明音は紫という名でテレビに映っている立城に突っ込みを入れたくなった。が、確かに世間を納得させるにはその方法しかないだろう。何しろ立城が問題の吉良瀬当主の座についてから随分と時が流れている。それに先の件で肉の器を散らされた立城の本質は、本人が気付かないうちにかなり変わってしまっているのだ。今までと同じ方法で財閥を仕切っていくのは無理な話だ。
立城の隣に座る水輝は殆ど口を利かない。どうやらあらかじめそういう打ち合わせになっていたらしい。喋っているのは立城一人だ。たまに女性の記者が熱心に水輝に質問をしているが、その度に困ったなと笑って水輝は質問を立城に流してしまう。
「オレもいいかげん考えないとなー」
誰にも聞こえないほどの小声で明音は呟いた。吉良瀬財閥と同様、木村財閥の当主も長い間変わっていない。今は実質、木村を動かしているのは透だが、あくまでも当主の座は順のままなのだ。割り箸を口に咥えて明音は腕組みをした。
いらっしゃい、という店主の明るい声が飛ぶ。明音は何気なく振り返って苦笑を浮かべた。そんなに長い間、顔を合わせていない訳ではない筈なのに随分と懐かしい気がする。
「どぉれ。ここ、いいかのう?」
明音の傍に歩いてきた老人がにこにこと人好きのする笑みを浮かべて言う。明音は苦笑してどうぞ、と告げた。老人の名は逢坂。逢坂は順がずっと以前から世話になっている老人だ。
「なーんか、久しぶりな気がするよねぇ。そんな筈ないのに」
「ほっほっほ。そうなんかの? ……ああ、わしはラーメン大盛り、ネギ追加で」
慣れた調子で逢坂が店主に注文する。はいよ、と元気のいい声で返事して店主が逢坂の分のラーメンを作り始める。逢坂はよいしょ、と明音の前の席に腰を下ろした。
「おお。こりゃまた、えらい騒ぎじゃのお」
のんびりとテレビを見て逢坂が言う。そうだねぇ、と同意しつつ明音はラーメンを啜った。
「ところでさぁ。オレのとこに来たってことは、そろそろ帰るの? アンタ」
ラーメンを食べながら明音は何気ない口調で言った。運ばれてきたラーメンに取り掛かりながら逢坂がほっほっほ、と笑う。相変わらず食えないじじいだ。そう呟いて明音は苦笑した。
「順様のお世話もそろそろ潮時じゃて。まあ、本人がこうしておるんじゃから、わしがおってもおらんでもそう変わりないがの」
呑気に言って逢坂が明音に笑いかける。ふうん、と呟いて明音は箸を置き、ラーメン鉢を持ち上げた。つゆを綺麗に最後まで飲み干してからラーメン鉢を置く。習慣的にポケットを探ってから明音はハンカチを持っていないことに気付いた。そっか、と苦笑してテーブルの隅の入れ物にさしてあるペーパータオルを取る。口許を丁寧に拭ってから明音はテレビに目をやった。
二人の婚約発表の記者会見は生中継されている。一体、どれだけの質問を浴びせたら記者たちの気が済むのだろう。肘杖をついてテレビを眺めながら明音は盛大な欠伸をした。
「まー、礼は言っとくわ。どもありがと」
逢坂に軽く手を振って明音は言った。ラーメンを当り前の顔で食べながら逢坂が小さく笑う。それを横目に見た明音は不思議な気分になった。判ってはいるのだが、これがあの翠と同一人物だとは到底思えない。青年の姿をした翠はラーメンどころか、人の食事の仕方を殆ど知らず、出来ることと言えば茶をいれることと飲むことくらいだった。
「アンタがいたからオレはあの時、死なずに済んだ。ハンターの特性を教えてくれたのもアンタだ。ま、これでも感謝はしてんだよ」
そう言って明音はくすくすと笑った。すると逢坂もほっほっほ、と笑う。
「少しは楽しめた?」
明音は横目に逢坂を見て小声で訊ねた。すると逢坂がうーん、と軽く唸って天井を仰ぐ。
「まあ、そこそこには楽しめたな。お前達が生き方を模索する様は真剣そのものだったからな。それに」
明音と同じく小声で言ってから逢坂がずず、とラーメンのつゆを啜る。目を上げた逢坂がにやりと笑った。
「お楽しみはこれからじゃて」
「うわ、ヤなせりふ」
大仰に驚いてみせてから明音は机の伝票を取り上げた。そんじゃね、と笑って明音は席を立った。逢坂がじゃあの、と手を上げる。明音は二人分の支払いを済ませて店を出た。
寂れた道を冷たい風が吹き抜ける。人気のないビルの狭間から明音は姿を消した。
ラーメン……。
この時期だと暑い……w