噂の荒川さん
羽美は疲れていた。
大学卒業したての教師一年目。
いきなり担任としてクラスを任せられたと聞けばまるでエリートのような扱いだが、実際は人手不足による役割の押し付けに過ぎない。いくら比較的良い子が集まる学校学級とはいえ、教育実習くらいでしか経験がない羽美にとっては何もかもが手探り。
それに加えて自らの科目、物理の授業もこなさなければならないのは当然の事で、更に部活動の顧問までさせられるとなってはそりゃもう大変なのである。
くたびれた表情を隠しきれていない彼女は手間がかからない、という理由だけでミドルロングヘアーを後ろで一つ結びにしている。
そんな彼女は無地のTシャツの上にパーカーを羽織りデニムホットパンツを履くという、普段のスーツをキッチリ着こなしている姿とは真逆の格好。
それだけ見ればどこにでもいる大学生程度にしか思われないのだが、人よりも大きな胸の影響で、道行く人達の視線を集めてしまっていた。
そんな羽美は疲れきっていた。
なりたくて教師になったものの、抱いていた夢が破壊されてしまうほどの激務。
一日中寝て体力を回復させる、という事を今日起きた瞬間から考えてしまったものの、久しぶりの休日を満喫しなければ勿体無いにも程がある、と考え直して外に出てきた。
が、予想以上に彼女は疲れていた。
道行く男共の不躾な視線に殺意を抱く程度には疲れていた。
「……おなかへった」
時刻は昼前。朝食を作る気力も無かった羽美は空腹に苛まれていた。同時に、どこかの店に入って食事をするのも面倒なほどに疲弊していた。
やっぱり帰ってゼリー飲料でも摂取して寝よう、とさえ考え始めた時、
「……奈曽先生?」
聞いた者の精神を一気に安定させるような、そんな音色が響いた。
声の主は正面。このまま歩けばぶつかっていたという距離に彼女が、休日だというのに制服姿の
「えっ、と……荒川さん、だっけ」
「はい。荒川です」
人の存在に気付かなかったという考えよりも先に、教え子に会って面倒くせぇ、という思考が一瞬羽美の頭をよぎる。
が、子供に対して何を考えているのか、と邪念を振り払った。……年齢自体はそこまで離れていないのだが。
「あー……買い物?」
「はい。家が近くなんです」
彩芽の手にはエコバッグ。そこからネギがぴょんと飛び出ているのを見て羽美はそう問い掛けた。
「偉いね」
「一人暮らしなもので」
だから全部一人でしなければならないんですよ、と彩芽は苦笑しながら続ける。
「……なおさら偉いよ」
「あはは……」
はにかんだ笑顔を見せる教え子に羽美は可愛さを覚える。もし彼女が自分の教えるクラスに居たら毎日癒されるんだろうな、と叶わない願望さえ抱く。
それと同時に、ふと同僚の言葉を思い出した。
『困ったら荒川さんに頼ればいいよ』
生徒に頼る教師がいてどうするんだ。
その時はそう思った羽美だったが、今はとにかく疲れていた。
「先生は……お食事ですか?」
「あー……そのつもりだったんだけどさ」
「はい?」
「……なんか色々面倒になって帰ろっかなって」
だからなんとなく、つい正直に話してしまった。
「……お疲れのようですが、ちゃんと食べてらっしゃいますか?」
「最近はちゃんと……してないな」
だいたいゼリー飲料である。あとサプリ。
……そんな己の怠惰な食事習慣に内心溜息をついていると、ぐぅ、と羽美のお腹から肉体の叫びが飛び出た。
「…………」
「…………」
訪れる沈黙。
羽美の顔が真っ赤になっていく。
「……先生」
だがそれとは真逆に、彩芽の表情は険しかった。
「うちでご飯を食べてください」
「……は?」
そんな表情で告げられた言葉の意味を、羽美は理解出来なかった。
「私の家はすぐ側なので、寄っていってください」
「え、あ、いやいやいや」
脳に言葉が浸透してもなお、理解が出来なかった。
「一刻も早く先生はまともな食事を摂るべきです」
「いや、あ、うん。それはそうね?」
が、それは理解出来た。
「なので、うちでご飯を食べていってください」
「え、いいの、いや違う、えぇぇ……?」
が、やはりそれは理解出来なかった。……教師の薄っぺらい給料事情で一瞬飛びつきそうになったが。
「では言い換えましょう」
「え、あ、はい」
「二人分の食事を作った方が楽なもので、手伝っていただけないでしょうか?」
「そ、そういうもん?」
「一人分作るより超楽なんですよ」
「超楽て」
真面目な生徒から飛び出てきた砕けた表現に、羽美は思わず笑ってしまった。
肩から力が抜ける。それと同時に空腹であるという信号が脳までしっかりと届いた。
かと言ってその辺で食事する気力は相変わらず湧かない。家に帰ってもあるのはゼリーだけ。
羽美は疲れていた。
「じゃあ、お邪魔しちゃおっかな」
だから、考える事を放棄して、その提案に乗った。
――――――
「どうぞ。狭いところですが」
そう言って彩芽はアパートの一室に羽美を招いた。
部屋の雰囲気を一言で表すならば、真面目。
掃除の行き届いた室内で、キッチン周りが特に整然としている。
部屋の中にある本棚には参考書やハードカバーの書籍が多く入っていて、デスクの上に置いてあるパソコン以外に目立った品物、例えば娯楽に使うようなものは見当たらない。
かと思えば可愛らしいぬいぐるみが各所にあったりして、そのギャップが家主の内面を表しているかのようだった。
「まずはお茶をお持ちしますね?」
「え、あ、うん……じゃない! 手伝うよ⁉︎」
「大丈夫です。座って待っててください」
今になって我に返った羽美。せめて手伝いだけでもと伝えるものの、やんわりと拒否される。
促されて丸い机の側にあったクッションに座るものの、座りが悪くてモジモジしてしまう有様だった。
「……良い香り」
そんな羽美の元にお茶が運ばれてくる。
見た目は紅茶のように見えるが、香りは別物。ハーブティーとか女子力たけぇー、と羽美は驚嘆していた。
「……おいしい」
「あはは、よかったです」
だが一口飲んだ瞬間癒しが身体中を駆け巡り、口から勝手に感想がこぼれ落ちる。
その反応が心底嬉しいと言わんばかりに彩芽は喜びながら優しい笑顔を浮かべ、羽美は思わず、少しだけ赤面してしまった。
「では、ご飯作ってきますね」
「あーうー、手伝う、よ?」
「めっ、です」
「……ですよね」
今度こそ何か、と腰を浮かせたものの、彩芽から再度拒否された。
お客様はおとなしくしてください、と言う生徒の姿に羽美はとうとう諦め、めっされたのなんて初めてかもしれない、とぼんやり考えた。
――――――
「なにこれ……美味しすぎる……!」
「ありがとうございます」
そして彩芽と他愛ない話をしながら待つ事約三十分。羽美の目の前には高速で減っていく中華粥があった。
「荒川さん、お嫁さんになって……!」
「あはは……」
聞けば、消化のよくないものを食べるとお腹がびっくりするだろうから、という理由でのお粥だったらしい。
美味しさだけでなく、心配りまで完璧な彩芽に思わず羽美は求婚していた。割と本気で。
「……めっちゃおかわりしたい。あ、いっぱい食べちゃったごめん⁉︎」
目の前の器にはもう何も残っていなかった。彩芽も一緒に食べていたものの、大半が羽美の胃袋の中に消えていた。
「大丈夫ですよ。美味しそうに食べていただけて嬉しかったですし」
「なんなのその謙虚さ……お嫁に欲しすぎる」
彩芽はふんわり微笑んで、続いて苦笑する。そんな生徒の表情に一瞬キュンとしてしまう教師であったが、何かの間違いだと思い、ごちそうさま、と伝える事によって気を逸らした。
「ぁ……ふ。……うぁ、ごめん」
が、逸らした先にあったのは眠気。
心穏やかに食欲が満たされ、睡眠欲が前面に押し出てきて欠伸が出てしまった。
「大丈夫ですよ。寧ろ少し横になってください」
「い、いやいやいや流石にそこまで出来ないよ⁉︎」
急速に襲い来る睡魔。だが流石に他人の家で寝るわけにはいかない、と気を張る。
「ダメです」
が、家主から強い言葉で却下された。
「今の先生には休息が一切足りていません。見過ごせません。なのでここで少し休んでいってください」
「ぅ……」
畳み掛けるようにして彩芽は羽美を諭す。
先程までとは打って変わって真面目な表情。だがその瞳には本気で案じている感情が垣間見え、羽美は思わず声を失う。
「ベッド……ですと気後れするでしょうから、お客様用のお布団をお出ししますから」
「い、いやホントいいよ! 大丈夫だから……っ!」
「ダメです。……あぁもう、そんなにふらついているじゃありませんか」
腰を浮かせた瞬間、羽美はよろめいた。
「お願いですから、ここは甘えてください」
そんな彼女を見て彩芽は更に断じる。
本気で心配している目線が羽美を貫く。
「いや、だって……」
葛藤した。
生徒の家でご馳走になって、そのまま寝るだなんて言語道断。
だが身体が限界なのも事実。葛藤している今でさえ眠気が襲ってきている。
「奈曽先生。お願いします」
重ねて彩芽は懇願した。
限界の中視線を動かせば、どこまでも真摯な表情が、どこまでも羽美を案じているかのような表情が、思わず縋ってしまうような慈母のような表情が見えた。
「……ごめん」
だから羽美は、抗えず、頷く他なかった。
――――――
「ふぁ……なんかよく寝た……」
「おはようございます先生」
「うぇあぉっ⁉︎」
快眠だった。目覚めバッチリだった。側に彩芽がいる事にも気付かなかった程に熟睡していた。
「ああああああ色々言いたい事あるけど今何時っ⁉︎」
「夜ですね」
「夜っ⁉︎」
部屋の時計を見れば、完全に夜だった。夕飯を食べ終わっているような時間帯だった。
「うっわー……うわー……」
他人の家で、生徒の家で爆睡してしまった事に頭を抱える羽美。
だがそんな教師を見て彩芽はくすくすと笑っていた。
「やば、立ち直れないかも……」
なのでガックリきていた。ここまで疲れきっていたのかと自分でもドン引きしていた。
「調子はどうですか?」
そんな問い掛けに、羽美は内面に意識を傾ける。
頭が冴え渡っている。体が軽い。めっちゃ軽い。疲れが一切残っていない。元気過ぎる。今からオール出来そうな程に元気。
……そして、なんか妙にムラムラしていた。
「調子、いい、かも」
「それは良かったですっ」
微妙に焦る羽美をよそに、彩芽は満面の笑顔を見せた。
「……っ」
身体が熱かった。身体が疼いていた。
激務と疲労により、羽美は最近全く性欲を発散出来ていなかった。
そんな状況下で食欲と睡眠欲が充分に満たされてしまった。
故に、性欲が残ってしまった。
「……? ……なるほど」
「な、なにがかなっ⁉︎」
そんな浅ましい欲求をひた隠しにしつつ、とっとと帰って久しぶりにオナニーしよう。
そう考えた時だった。
「先生。お手伝いさせていただけませんか?」
――――――
「マジで何やってんの荒川さん……⁉︎」
羽美は天を仰いでいた。
「レズ風俗じゃんそれ⁉︎」
「わ、私はレズじゃありませんけど……」
「レズ以外の何者でもないわっ!」
「あはは……」
例の概要を聞いてしまった羽美。それはもうツッコミ所しかなかった。
「未成年!」
「お客様も未成年なので……あ、一部先せ、何でもありません」
「一部先生って言おうとしてなかった⁉︎」
「あはは……たいへんご満足していただいてます」
「そうじゃなくてね⁉︎」
一部の先生。つまり複数系。
とりあえず頼れと言ってきたあの先生は絶対そうであると確信した。
学校にはそれなりに女教師がいる。他にどの先生かまでは特定出来ないが、同僚に性欲マシマシウーマンがそこそこいると知って、思わず羽美は頭を抱えた。
「えー、なのでその、奈曽先生だけじゃありません」
「そういう問題⁉︎」
「そういう問題です。今の先生は非常に発情してらっしゃいます。それを解消する必要があります」
「むぐ」
だがまたもやあの真剣な表情で羽美を見詰める彩芽。
「だ、だとしても帰ってからスるし……!」
その視線に思わず頷きたくなったものの、理性がそれを押し留める。
「いいえ、ダメです。このまま帰すわけにはいきません」
「えええええなんで⁉︎」
が、更に追い討ちをかけられた。
流石にその意味が分からず動揺する羽美。
「今の先生が良いオナニーを出来るとは思えません」
「良いオナニー」
「はい。悪いオナニーしか出来ないと思われます」
「悪いオナニー」
そして出てきたのは思わずオウム返ししてしまうような頭の悪いフレーズ。
「なので、ここでキッチリ、気持ちよくなってください」
「いやでも流石にそれはないでしょうよ……」
なにせ女同士。なにせ年下。なにせ生徒。
いかにムラムラしているとはいえ、じゃあそれで、と簡単に頷く事など出来ない。
「……ちなみに、今まで何人くらいお世話してきたの?」
が、ちょっぴり気になった。
「三桁……は、いっていませんね」
「強い」
大人気なのである。
「なので奈曽先生だけ、というわけではありません。皆様されている事ですから」
「い、いやでもさ……」
皆している、というフレーズに少しだけ傾きかける羽美だったが、抵抗は打ち破れない。
だがムラムラは刻一刻と大きくなっていくばかり。彩芽のお手伝いの事を聞いてしまってからそれを想像してしまい、尚更大きくなっていっている。
「……正直、今の先生は見ていられません」
「み、見てられない?」
そんな羽美を真っ直ぐ見詰め、彩芽は沈痛な表情を浮かべる。
「今すぐオナニーしたいのではありませんか?」
「うっ……」
わりとその通りだった。
「家まで保たないのではありませんか?」
「むぐ……」
わりとそんな気がした。
「その辺りの公衆トイレで、などと考えておりませんか?」
「うぐ……」
わりとその可能性は否定出来なかった。
「それではいけません」
「う……」
その辺のトイレでオナニーをする自分を思い浮かべる羽美。
気持ちいいだろう。それはもう気持ちいいだろう。
だが同時に思い浮かべる。
声を押し殺し、バレないように手早く済ませるオナニー。それは確かに彩芽の言う通り悪いオナニー。この溜まりに溜まったムラムラをそんなオナニーで発散するのは勿体無いにも程がある。
それに、そんな程度で満足出来る自信は無かった。それほどまでに今ムラムラしている。否、オナニーすると決めてから尚更ムラムラは増していく一方。
「私はお手伝いするだけです」
「い、いや流石に……」
「レズセックス、というわけではありません」
「い、いや……」
「全自動で動く玩具のようなものです」
「で、でもさ……」
ムラムラで思考が鈍る。少しずつ、傾いていく。
「では、こうしませんか?」
「な、なに?」
「お試し、という事で少しだけ先生の身体に触れさせてください」
「お、お試し?」
「はい。それで気持ち悪くなったり、嫌だ、と少しでも感じるようでしたら即座に止めます」
その言葉で更に少し傾く。
彩芽はあくまでも主導権を羽美に渡している。決めるのは自分。止めるのも自分の意志。なんなら今すぐこの場を後にしても良い。
だがムラムラしている。激しくムラムラしている。なんなら今すぐトイレを借りてオナニーしたいくらいにはムラムラしている。
「あくまでも私はお手伝いです」
どこまでも真剣に語る彩芽。
「……一応その、皆様から上手いと評していただいております」
百戦練磨だろうに、それでもなお謙遜する彩芽。
「今の先生を放っておけません」
とんでもない事を言っている筈なのに、どこまでも真摯な彩芽。
「えっちな気分を解消してさしあげるだけです」
先程までの優しげな表情を消し、心配そうな目で羽美を見詰める彩芽。
「私を使う、というだけです」
だけ。
それだけ。
「誰にも口外いたしませんし、バレる事もありません」
だから安心、
「え、さっき一部先生達って口走りかけたよね」
「……何のこと、でしょうね」
出来なかった。
先程までの真剣な表情が崩れ、ぎこちない笑顔で明後日の方を向く彩芽。
「……ぷっ」
そんな彼女に、つい羽美は吹き出した。
「あーもう。荒川さんって案外変な子なんだね」
「うぅ……」
空気が和らいだ。追い詰められているという感覚が消え去った。
羽美の心に、少し余裕が出来る。
「いいよいいよ。やってみな?」
だから、なんとなく、本当になんとなく、彩芽の提案に乗ってみる事にした。