色々と本編とは異なっているので、その辺りに注目してもらえたら。
朝。球技祭当日を迎えた。俺とゆりは日課である鍛錬を軽めに済ませ、この後の激戦に備えることにした。空きの道場から大食堂へ移動し朝食をとろうとしたが、ゆりは呼び止めた。
「……いつもお世話になっているから。朝食、用意しといたわよ」
そう言って取り出したバケットの中には、サンドイッチが入っていた。俺がおお、と声を上げた。
「良いのか?」
「え、ええ」
「そっか。サンキュー」
俺達はその場で座り、サンドイッチを食べた。何故かゆりは口をつけず、じっと俺を見ている。なんだなんだと思ったが、ふと、気がついた。
「このサンドイッチ、食堂で売っているのと違うよな?」
「……作ったのよ」
「え、ゆりが?」
「そ、そうよ。なによ、悪い?」
「そんなわけないだろ。しかも美味しいぞ。ありがとな、大変だっただろ。すげえ嬉しい」
「日頃のお礼よ。アンタには、感謝しているんだから」
ゆりはぷいっとそっぽを向きながら、水筒からお茶を入れたコップを、こちらへ突き出してくる。
「これからも、よろしく頼むわよ」
俺は笑いそうになりながらも、こくりと頷いてコップを受け取った。
「ああ。よろしくな」
……だけど、俺は今日消えることになるかもしれない。
弟――桜木 空との決着をつけるのだから。
★
NPCと立華と共に開会式を済ませた後、俺は戦線メンバーが待つ校舎の前へと向かった。
「――来たわね。お堅い式は終わったかしら?」
「お堅いって……お前も、生前はああいうのを真面目にやっていたんだぞ?」
「もう随分と昔のことだから、覚えてなーい」
「んなわけあるかよ……ってまさか、お前生きていたらおばちゃんになるくらい、この世界に長くいるんじゃ――ぐほうっ!?」
「そのタブーに触れるなぁ!」
蹴られてしまう。何十年も神を恨んでここにとどまっているのか? よく正気でいられるな……執念深いというか、なんというか。俺なら気がもたないというか、疲れて憎しみの炎なんて消えてしまいそうだ。
あと、遠巻きに見ると戦線メンバーって異様だよな。校舎の前で勢ぞろいだったのだが……ハルバートをぶんぶん振り回す野田。ドスを片手に、ガラ悪くウンコ座りする藤巻。踊るTK。教わっているのか、一緒に踊る松下五段。椎名にいたっては高い木の、それも細い枝のところに直立している。
普通なのは、日向と大山と高松くらいか。日向と大山は二人で喋っていて、高松は知的そうに腕を組み、壁に寄りかかっている。
ぱっと見はゆりも普通だが、この異様なメンバーを率いていると考えると、ある意味一番ぶっ飛んでいる奴だ。
「じゃあ行くわよ、みんな!」
「了解だ、おばちゃん――ぐほうっ!?」
「てめえ、タブーだっつてんだろうがあ!?」
回し蹴りをされて吹っ飛ばされる。大山が「よくゆりっぺにそんなこと連呼出来るね……」とドン引いていた。
監督ポジションをやるらしいゆりは俺達を率いて、グラウンドへと向かった。学園生活として記録されないように、戦線メンバーはあくまでも非公式なゲリラ参戦、という形で強引に参加することになった。
にしても、ジャージなのは俺だけ。みんなは戦線の制服だ。なんだか、居心地が悪い。
そうして迎えた一回戦。正直、相手にならなかった。戦線メンバーは持ち前の身体能力と運動神経で圧倒するのだ。加えて俺の130キロのアンダースローが火を噴く。日向の指導もあってそこそこのコントロールと、付け焼刃のチェンジアップで緩急をつけられるから、打たれることもほとんどない。
「ほとんど消化試合でたりーな」
藤巻が気だるげに慢心する。しかしこのマンモス校、球技祭の規模は大きい。優勝候補とされるクラスともなると格が違ってくる。そのおかげで、戦線チームが優勝までいったところを俺はこの五年間見たことがない。
「桜木さん。一つ提案なのですが」
「ん?」
トーナメント表をみんなで見ていると、高松が参謀の如く慇懃に提案した。
「次の試合、私に投げさせてくれませんか? 遊佐さんの情報によると、次のチームも大したことはないそうなので。エースピッチャーのあなたは、肩を休めた方がいいでしょう」
「俺は助かるが、いいのか?」
「ええ。あなたほどではないですが、私も早い球を投げられるので、抑えられる自信があります。どうでしょう、ゆりっぺさん?」
「いいんじゃない? 高松くんなら、抑えられると思うわよ」
二回戦。ゆりの信頼に答え、高松が見事に完封した。ちなみにコールド勝ちだ。
高松のピッチングも驚くべきものだった。あのパワーのあるストレート、あの制服の下に隠れる肉体は鍛え上げられているものなのかもしれない。
移動中、俺はゆりに聞いた。
「高松って参謀っぽいし、唯一の文武両道枠なのか?」
「高松くんは知的そうに話すけど、本当はアホよ」
アホなのかよ。
★
球技祭は順調に勝ち進み、ついに桜木 空が所属するチームと当たった。試合前の整列。空は俺へ声をかけてきた。
「やあ、兄さん。来たようだね」
「ああ。やるからには負けない」
そして……お前の心残りを無くしてやる。そうして空が去れれば……俺の役割も、終わるのだから。
ゆりは腕を組みながら、俺達のやり取りを横目で見る。空はゆりの方を見やった。
「熱心にオレのことを調べていたのは、わかっているんだよ?」
「あら、そう。まああなたのことだから、そうでしょうね」
「くくく。そんなにオレのことが、気になるのかな?」
「は?」
「安心しなよ。この試合が終わったあとで……君の気持ちには、答えよう」
「どう勘違いしたらそうなるのよ。そんな気ないわよ」
試合の敬礼がコールされる。俺達は挨拶し、メンバーが解散する。去り際、空が言った。
「兄さんは、オレに勝てない。わかっているだろ?」
空の言葉に驚き、俺はゆりを見た。ゆりは――腕の部隊章を見せて、宣言した。
「桜木くんが勝つんじゃない。あたし達が勝つのよ、弟くん。戦線の名にかけてね」
息を飲んだ。それって……暗に、俺自身は負けるって言いたいのか?
空も同じように解釈したのか、大きな笑い声を上げた。
「はははははは! これは傑作だね」
「覚悟なさい、弟くん。あたし達の力を見せてあげる」
「いいね、増々気に入ったよ……オレが勝ったその時は、たっぷり可愛がってあげるよ」
「ひいいいっ!? 変な声出すな! 寒気がするわ!」
「それはオレの声に色気を感じた証拠さ」
「感じたのは薄気味悪さだああああああああああああ!」
「素直じゃないねえ。ベッドの上で素直になるタイプかな?」
「ひたすら気持ち悪いいいいいい!!!」
ゆりの大声ツッコミに、空は手をひらひらさせて流した。
まあ、そんなコントはどうでもいい。ベンチに集まる戦線メンバー。俺はゆりに抗議した。
「お前、俺が空に負けると思っているのか」
……クソ。なんだ、この感情は。悔しいのか? 色々あったとはいえ、双子の弟に対して抱いているライバル心は変わっていない。勝負となったら負けたくなんてなかった。同じ日に、同じ親から生まれて。そんな自分の写し鏡のような存在に負けるなんて、他人に負けるのより言い訳がつかないから。だけど……このイライラは、本当にそれだけなのか?
そんな心中も知らず、ゆりは断言した。
「知られちゃったからには、しょうがないわね。そうよ。この勝負、桜木くんは弟くんに負けると思っているわ」
「なんでだよ!」
「……桜木くん。あなたには、ブランクがあるわ。自分でもわかっているでしょう?」
ゆりの指摘に、俺は言葉を詰まらせる。
「それは……!」
「対して、弟くんはこの世界へ来たばかり。スペックが明らかに高いわ。いわば全盛期のままこの戦いに挑んでいる。対してあなたは、自主トレをしていたとはいえ……基本的には、学生生活を謳歌していた。生前と比べれば、ぬるい生活だったんじゃないの?」
「っ」
それはその通りであった。地獄のような訓練も、殺し合いの実践もないこの生活は……全盛期、生前よりも力が劣るのは、避けられないことだった。
「ここ最近は戦線やあたしの鍛錬に付き合っているけれど、それは仲間を優先する日々ということだわ。今のあなたは、己を極限まで追い込んで、鍛えるようなことはしていない。現に弟くんよりも、明らかにステータスが劣っているのよ」
俺は歯ぎしりをした。自分の中からあふれ出す感情が止まらない。頭に血が昇った。
「はっ、わかったよ! 悪かったな、空ほど強くなくて!」
「なに怒っているのよ? よくわからないけれど、あたしにはちゃんと作戦があるんだから。これは――」
「うるせえ、バカが! 空もお前のこと気に入っているみたいだし、良かったな!」
「はあああ!? あたしは別に、あんな奴気に入ってなんかないわよ! つーかその拗ね方なんなのよ、子供か!?」
「まあ、勝負は俺が勝ってやるがな! 見てろよ、このバカが!」
「なによ、あたしはただ……! ふん! もう知らないんだから! バカはどっちよ、このバカ! 子供!」
「あと今朝のサンドイッチ、からしマヨネーズ入れるなよ! 俺はからしが苦手なんだ! 鼻が痛くて我慢するの大変だったっての!」
「なによ! それならそうとはっきり言いなさいよね! 次に生かせないじゃない! こっちはアンタの好みなんてまだ知らないんだから!」
「「きいいいいいいぃ!!!」」
怒鳴り合う。俺自身もなにに苛立っているのか、よくわからなかった。だけど、とにかくムカついたから仕方なかった。
しかしそんなやり取り、周囲は引いていた。大山は日向に囁く。
「あの二人。仲悪いのか良いのか、よくわからないね。今朝も蹴とばしたりしていたよね?」
「ああ、いや……あれは、どう考えても痴話喧嘩だろ。むしろ仲が良すぎるくらいだ」
「え、そうなの?」
「そうだよ、たく……まあ、悪いことじゃねーから、良いんだけどよ」
まだ持ち歩いているのか、野田はハルバートを構えた。
「桜木のやつ、ゆりっぺを侮辱しているのか。ピッチャーだから我慢していてやったが、もう我慢ならん。切り刻んでやる」
日向は呆れたようにその肩を掴んだ。
「野田よ。色々ややこしくなるからやめろ」
「なに!? それはどういう意味だ?」
「理解したらお前、男泣きすることになるぞ?」
「??? 日向、それはどういう意味だ?」
「俺の口からは言えん。察してくれ」
「さっぱり理解できんぞ! ええい、俺はどうすればいいんだ!」
ぎゃあぎゃあと、戦線は相変わらず騒がしかった。
★
試合はこちらの後攻となった。先行の空チームは三者凡退。空は四番バッターのようで、勝負はお預けとなった。
「ナイスピッチング、桜木」
「日向。お、おう」
グローブ同士を叩き合い、健闘をたたえ合う。生前、友人なんてものがなかった俺にとって、そんな何気ないやり取りが嬉しく、新鮮なものであった。
「くっ。だが、ここで俺達は友達なのかと聞くのは気持ち悪い、というのはNPCと過ごしてきたからわかっている。俺は一体どうすれば――」
「桜木? どうした?」
「い、いや! なんでもないぞ!」
「??? 変な奴だな。つーか、先頭バッターなんだ。頼んだぜ!」
金属バットを持って、バッターボックスへ。ピッチャーは空であった。
「やあ、兄さん」
「……お前のボールは打ったことがある」
「打てないよ、今の兄さんには」
構える。クソ、どいつもこいつもバカにしやがって。
空が振りかぶり、ボールを投げる。そのボールは不規則に揺れながら、アウトロー低めに落ちていった。点と点が合わず、俺は空振りする。
「ストライク!」
主審の判定。ベンチにいる大山が声を上げた。
「うわ、なにあれ? すごい変化するね」
それにはゆりが腕を組みながら答えた。
「ナックルボールよ」
「ナックルボール?」
「無回転の変化球よ。球が回転しないから、縫い目に空気抵抗が不規則に発生するの。普通のボールとは違って、ランダムに軌道が変わるのが最大の特徴ね」
「えー。正直、あんなの打てる気がしないや……」
「普通、あんなにキレのいいナックルは投げられないわよ。難しい球種なの。握力が求められるし、投げ方もかなり独特。その上回転が少しでもかかったら変化がなくなるから、甘いボールにもなりやすい」
ネクストバッターサークルに控える日向がベンチに問いかけた。
「どーすんだ? あの弟くん、甘いボールは投げくれそうにないぜ?」
「そうね。とりあえず、初級は見送りましょう。スイングは出来るだけ控えるようにするの」
「振らないと当たらないぜ?」
「たしかに基本からは外れるけれど。ナックルボールはピッチャー目線でも変化がランダムである故に、コントロールが難しい。その上、弟くんのナックルはキレがあって変化が大きいわ。ということは、それだけ三回ストライクに入れるのは難しいということ。フォアボールの確立は高いはずよ」
「フォアボール狙いか……」
「それに握力だってどんどん落ちていくはず。ナックルボールは握りが甘くなって、少しでもバックスピンがかかれば、甘いストレートになるわ。体力を少しでも削っていくのよ」
「了解。ちと地味な作戦になるが、それでいくか」
そんな会話を交わしている間にも、俺は空振り三振に打ち取られていた。
……まずい。当てられる気もしない。
★
試合は投手戦となった。というか、俺と空の意地の張り合いだ。ランナーを許さず、両チーム無得点のままゲームが進行。が、その最終回。俺はついに初安打を許し、その後も連打を浴びた。
「来いやあああああああああああああああ!!!」
センターを守る松下五段の凄まじい送球によって得点は免れたが、ランナーは満塁。ノーアウトのまま、バッターは四番の空を迎えた。
満塁は意外と点が入らないとよく言われるが、この場面。明らかな大ピンチであった。
……認めたくはないが、体力の低下もある。俺はやはり、腑抜けたのか。球速もコントロールも落ちている。最後まで、体がもたないのだ。投手戦だったから、そんな球数が多かったわけではないのに。
バッターボックスへ空が向かう。ここで打たれれば戦線が負けるのはもちろん、個人的な感情としてもこいつに負けたということになるだろう。
「タイム!」
日向が声を上げ、戦線メンバーは円陣を組む。ゆりもベンチから駆けつけた。
ショートを守っていた椎名が凛とした声で告げてくる。
「疲労が出ているぞ」
「……わかっている」
ゆりが腕を組みながら、ため息をつく。
「桜木くん。マウンドを降りなさい」
ぐっと、ボールを強く握る。
「まだ、俺が空に負けるっていうのかよ」
「彼の実力なら、ここで打ってくるはず。そもそも、あなたの球速が落ちているのよ。負担の少ないアンダースローといえど、肩だって痛めているはず」
「それでも……!」
「全く、頭が硬いわね」
「いてっ!?」
パチン、と額を人差し指で弾かれて、思わず声を上げる。
「いい? たしかに今のアンタには、桜木 空を超える実力がない。正確にいえば、生前の自分自身に出来たことが、出来なくなっている」
「それは……」
「けど、桜木くんがこの世界へ来てから成したことはなに? 今のあなたの周りには、生徒会があって、あたし達がいて。たくさんの人達がいる。それは生前のあなたには出来なかったこと。生前のあなたにはなかったものよ。違うかしら?」
日向はぱちん、と指を鳴らした。
「ようは、仲間を頼れってことだろ? 昔「一人で大丈夫なんだから」なんて言っていたゆりっぺがそんなことを言うなんて、感慨深いぜ」
「そんなことあったかしら」
「あったよ。俺だって、今のこいつの突っ走りぶりは、昔のゆりっぺに似ていると思っていたからよ。けどよ、桜木。こうして仲間がいるんだ。勝負ってのは、なにも一人でやるもんじゃねーだろ? 俺達を頼ってくれよ。な?」
俺は驚いた。
誰かを頼ること。誰かと共に戦うこと。そんなこと……知らなかったから。俺の味方なんて、肩を並べた空ぐらいしかいなかったから。
だけど、今は違う。色んな人間に関わって来た。そうして……変わったのだ。かつての俺のように、圧倒的な力を持っているわけではない。だけど、だからこそ。あの時には出来なことが、今の俺には出来るのだ。
「まあでも、日向くんの言う通りよ。桜木くん。あなた一人では、弟君には勝てない。けど、あたし達となら勝てる。だから今のあなたに出来ることは、マウンドを降りて誰かに託すことなのよ」
「ゆり……」
「この勝負、勝ちにいきましょう。共にね」
ゆりの真っ直ぐな相貌。美しい、きれいな瞳。それに胸が高鳴りつつも、俺はこくりと頷いた。
「わかった。だが……そうなると、一つ疑問なんだが」
「なによ?」
「誰がピッチャーをやるんだ?」
幹部のみんながそれぞれ顔を合わせ、首を傾げる。
やれそうなのはたくさんいるが……果たして、あの空を抑えられるのか。
ゆりに視線が集まると、勝気な笑みを浮かべ俺の手からボールをとった。
「あたしよ」
★
「おやおや。なんのつもりかと思いきや、兄さんは尻尾を巻いて逃げたのかい?」
ゆりがマウンドへ上がると、空が露骨な挑発をした。だが、ゆりは涼し気な顔をして言い返す。
「違うわよ。一人きりのあなたとは違うの。あいつは、あたしに託したのよ」
「ふーん?」
「それが今の彼。それが、今の桜木 春斗。昔とは違う、新しい戦い方よ」
「逃げた言い訳にしか聞こえないけどねえ」
「なら、打ってみなさいよ。あたしのボールをね!」
……意気揚々としているが、大丈夫だろうか。あいつピッチャーなんて出来るのか? たしかに運動神経は良いが、肩も特別強いわけじゃないだろう。空は小手先で抑えられる相手じゃないが。
ゆりがピッチングフォームへ入る。きれいな流れから放たれたボールは――無回転でブレながら落ちていく。
ナックルボールだ。
「なにっ!?」
空振りした空が思わず声を上げる。
「あいつ……いつの間に、あんなボールを?」
「影で練習していたのです」
「うおうっ!? 遊佐か、よく俺の背後をとれるな!」
「あなたがボーっとしているだけです」
「そ、そうか……」
何故かまた怒られる。驚かせるつもりじゃないなら、急に現れないでほしいのだが。
「で、ゆりが練習していたって……」
「はい。空さんの監視を兼用して、ゆりっぺさんも野球の練習をしていたのです」
「ちょっと待て。その短期間でナックルボールを投げられるようになったって意味か」
「はい」
「いやいや!? そんなことありえるのか!」
「「ふーん。案外簡単じゃない」と、言っていました」
「物まね激似だな!? つーか、空のを見て真似したってことかよ!」
「そのようです」
「……滅茶苦茶すぎるだろ」
しかし次の一球、また一球と見事な無回転ボールを放ち、魔球のように曲がる軌道に空は対応出来なかった。空振り三振に倒れ、空はバッターアウトとなる。舌打ちをし、忌々しそうにゆりの方を見やった。
「やれやれ。ただの処女じゃないようだね」
「ふっ、思い知ったようね――って、今なんつった!?」
「おっと、さすがに処女は兄さんに捧げたのかな? ちなみに兄さんは童貞だよ。少なくとも生前はそうだったはず」
「だから、ひたすら気持ち悪いぃぃぃぃぃ! 早く降りろ、アウトでしょ!」
「いやぁ、初心な感じがそそるね」
「ひいいいいいぃぃ!?」
ゆりが体をさすりながら声を上げる。空は相変わらずだな。
と、横から冷たい視線を感じる。遊佐であった。
「身の危険を感じます」
「あれは俺じゃないんだが」
「見た目が同じなので」
「それはとばっちりだ……」
俺はなにも言ってないっての。
遊佐は無表情のまま、マウンドへ視線を戻す。
「それにしても。ゆりっぺさん、大丈夫でしょうか」
「なにがだ?」
「「10球に1球くらいは、回転かかっちゃうのよねえ。まあ、いいか!」とおっしゃっていましたが」
「……」
「スリーアウトを10球でとることは、可能でしょうか」
会話をしている間に、次のバッターも三振をとる。
……そう、三振。かれこれ9球を投げている。
アウトカウントは二つ。あと一つ。あと一つだ。だけど、遊佐の言う通り――ひどく、嫌な予感がする。たしかにナックルボールを安定して、毎回無回転にするのは至難の業だ。それを付け焼刃のゆりが、パーフェクトに投げるだなんて……。
「っ!? しまった……バックスピン!」
ゆりが声を上げる。彼女の感覚は間違っていない。握りが甘かったのか、ボールには回転がかかっていた。ゆるやかな軌道で落ちていく。しかも真ん中。最悪のコースだ。
「もらった!」
NPCがフルスイングする。打球は鋭く、センターとレフトの方向へ飛んでいく。
……終わった。2失点は覚悟した、まさにその時であった。
「Hey! Come on!」
TKが威勢のいい声と共に、ダイビングキャッチをする。ざざざ! と砂嵐が巻き起こる。バッ! とTKは地面にグラブを上げた。見事、その中にはボールが収まていた。ファインプレー、そしてスリーアウトチェンジだ。
「Ohhhhh……!」
が、痛そうに左肩を抑えていた。無理なダイビングキャッチにより、怪我をしたそうだ。死後の世界だから顧みず、一か八か無茶な飛び込みをした、ということなのだろう。
良い判断だけど、この世界じゃないと出来ないことだな……現実なら、しばらく野球も運動も出来なくなる。
★
スコアボードを眺めた日向が、ため息をついた。
「同点での最終回だが、延長は……ないんだっけか」
ゆりがこくりと頷く。
「ここで点をとらないと、引き分けになるわね」
「そうなったら、優勝はどうやって決めるんだ?」
俺が聞くと、ゆりがつまらなそうに答えた。
「じゃんけんよ」
「ここまでやってじゃんけん⁉」
「ええ、マジよ。だからこの回は死ぬ気で攻撃するしかない。幸い、点はとれなかったけれど、ここまで球数はそれなりに稼げている。勝機があるとするなら、そこを突くしかない。初球からフルスイングよ、みんな!」
椎名がバットを持ち、バッターボックスへ向かう。
「……了解した」
空は椎名を見ながら、にやりと笑みを浮かべる。
「君も中々良い女だねえ」
「……」
「おやおや、無反応かい? 面白くない」
空を無視しつつ、椎名がフォームに入る。
(さて。オレも指が痛くなってきたし、ちょっとキツいんだよねえ)
しかしその思考を口には出さず、構えに入る。そのまま自信のあるナックルボールを投げる。緩やかなスピード。しかし揺れがない。ゆりが声を上げた。
「来た、バックスピン……! 椎名さん!」
「――浅はかなり!」
椎名は声に呼応するかのように、バットをスイング。見事ジャストミートし、外野へ跳躍。シングルヒットとなった。
ゆりがご満悦な笑みを浮かべた。
「ようやくこの時が来たわね。握りが甘くなってボールに回転がかかるようになっているのよ。野田くん、打ってやんなさい! フルスイングよ!」
「ああ! 任せろ!」
空の投球は失投気味になっていた。ナックル特有の変化が少ない。野田の打球はセンター返しとなり、ノーアウト一、二塁。続くバッターは松下五段であったが、空は打たれるのを心理的に恐れるようになったのか、ストレートのフォアボールを出した。
「……オレとしたことが」
空が舌打ちをする。
ノーアウト満塁。
奇しくとも俺と同じ状況だ。だけど空は続投を選択する。彼のチームはタイムすらとらなかった。さて。次のバッターは……。
「Full swing! FOOOOO――ohhhh……」
お前かよ。テンション持たなくてうずくまっているじゃねえか。多分、脱臼しているぞ。ダイビングキャッチはプロでも脱臼したりするらしいし。
「無茶するなって」
「平気平気。まだ自分、いけるで」
無理無理。絶対無理。別のキャラ出ているし。
「たく、しょうがねーな」と言いながらも、藤巻がTKに肩を貸し、保健室へ連れて行く。大山が声を上げる。
「どうするの? 控え、もういないよ?」
ゆりが眉間に皺を寄せた。
「予期せぬアクシデントね……仕方ないわ。登録していないサポートメンバーを、大至急ここへ呼びましょう。遊佐さん」
「了解しました」
が、これには俺が手で制止する。
「待ってくれ」
「なによ」
「俺に任せてくれないか。最強の助っ人を用意する」
「はあ???」
「ちょっと待っていろ!」
俺はグラウンド外を走り抜けた。
★
そうして。最強のピンチヒッターを用意した。
「立華だ。よろしく頼む」
「――憧れるのを、やめるわ(キリっ)」
その時代、お前生きてないだろ。
戦線メンバーは「ひいいいいっ!?」と怯えながらベンチ裏に隠れたり、仁王立ちするゆりの裏に隠れたりする。情けない。まとめて鍛えてやろうか。
ただ一人、椎名だけは武器を持って構える。あなたは勇ましすぎる。やめて。
「どういうつもりよ」
ゆりがきっと睨みつける。
俺の脳裏には、あの「夢」が蘇る。
ただの夢……にしては妙だが。あの光景、上手く言えないが……とても良かった。ゆりと立華の関係が良好で。そうであってほしいと思う。
もちろん、両者が争わずにいられないのもわかっている。それでも……今の俺には、みんなと立場が争っているのは、心苦しいと思えたから。
だから、これは悪あがき。
少しでも亀裂が埋まればって。そう思った。それだけだ。
「考えてもみろ。あのバカ力。バットに当たれば、あまりの打球スピードに守備はとれない。あるいは、ホームランだって期待できるかもしれないぞ」
野田が「相手は宿敵だぞ! ふざけているのか!」と声を上げた。まあ、たしかにな。
が、ゆりは逡巡した後――。こくり、と頷いた。
「わかったわ。力を借りる」
「「ええええええっ!?」」
「頼んだわよ、天使」
ゆりに言われると、立華は「わかったわ」と言って、バットを持ち打席に向かった。
★
「すげーの連れて来たな、桜木」
日向が呆れたように言うと、松下五段が笑みを浮かべた。
「はっはっはっ、だが、中立の桜木らしい」
ゆりが腕と足を組みながらベンチに座る。スタイルが良いから絵になっていた。
「天使を信頼したわけじゃない。けど、あの子のバカ力なら……」
空がピッチングフォームへ入る。ナックルボール。回転がかかり、揺れは甘いが、まだ変化はしている。立華はそれを見送った。
「ストライク!」
審判の判定。立華はバットを構え直した。
「仕方ないわ。こんなこともあるかと思って、ルーキー設定を用意しておいたの」
パ〇プロか。
「――ガードスキル、ロックオン」
だから、パワ〇ロか。
「これで、終わらせる!」
空がナックルボールを放つ。ここに来て、気合でしっかりとした無回転ボール。が、立華は臆せずスイングした。
カッッッッキン! と聞いたこともないような快音を響かせて。
ボールは、遥か彼方へと吹っ飛んでいった。あまりの飛距離に、しばらくの間誰も微動だにしなかった。
多分、150メートル以上はいった。
★
「逆転サヨナラ満塁ホームランだ! ほら、みんなハイタッチハイタッチ!」
俺はわざと立華を巻き込みながら、みんなとハイタッチする。幹部は立華にビビりながら、それに答えた。
「ほら、ゆりも」
「……アンタ、一体、なにを企んで――」
「いいから、いいから。ほら、立華も」
立華は手を前に出す。
「ゆり。ハイタッチ」
「わ、わかったわよ……助かったわ」
パン、と可愛らしいハイタッチをかわす。
……やっぱり、この二人はこうしている方が好きだけどな。俺は。
試合は勝った。空との勝負は……まあ、勝たせてもらったって言うのが、正解か。俺一人じゃ無理だった。
「ヒーローは0点に抑えた桜木くんかな! よし、みんなで胴上げしよう!」
「え? いや、大山。俺は大して――うおうっ!?」
幹部のみんなに何故か胴上げさせられる。浮遊感を感じながら――こういうのも悪くないなと、不思議な充足感を覚えていた。
……さて、ここからだ。
空がこの世界から消える。そしてその時――俺の役割が、終わるんだ。
★
学校の屋上。もう夕方であった。空が待っていた隣に、俺は進んだ。お互いに立ったまま、球技祭の終わったグラウンドを見下ろした。
「勝負は兄さんの勝ちかな」
「ああ……満足かよ、こんなことして」
「うん。もちろん」
迷いない答え。そんなわけがない。
「お前は、俺を恨んでいるだろ。今すぐにでも、殺したいんじゃないのか。憂さ晴らしをしたいんじゃないのか」
「そんなことして、なにになるのさ。この世界じゃ誰も死なない」
「苦痛は与えられるぞ」
「趣味じゃないよ。人を痛めつけるのはさ」
空は一人のNPCを指さし「あの子、可愛いねえ。それに巨乳だ」と言った。だけど、俺はそれに応えない。空はやれやれ、兄さんはお堅いねえ、と言って呆れた。」
「もちろん、憎い気持ちはあるさ」
「そりゃそうだろう」
「オレはさ。好きな人がいたんだ」
「え……?」
「洗脳が溶けたのも、その子のおかげ。オレはおかしいんだ。この組織はおかしいんだって。気づかせてくれた女の子」
空はため息をついた。
「優しい女の子でね。こんなオレを導いて、包み込んでくれた。護衛ターゲットの一人娘だったんだけどね。ガラにもなく、落ちちゃったよ。恋ってやつにね」
「……」
「そう。そうなんだよ、兄さん。オレは、生前で恋をしたんだ」
「空。お前は……」
「うん。生きたかったよ。あの世界で、あの子と共にね」
俺は崩れそうになった。体が震える。
きっとその子と、空は幸せに暮らせただろう。毎日を過ごせたはずだ。それを……奪ったのだ。この手で、俺は。
「そう深刻そうな顔をしないでほしいけどねえ」
「俺は大罪人だろ」
「そうだけどさ。オレは、あの子と逃げることじゃなくて、戦うことを選んだ」
「え……?」
「憎しみが生まれたんだ。オレ達をこんなにしたのは「奴ら」だ。だから復讐をしようとした。あんな組織はぶっ潰してやろうと思った。オレが見つかったのは、そういうことさ。派手に動いたからね」
告げられた真実に、息を飲んだ。
「もっとも、逃げたところで隠れ通せた保証はないけどね。遅かれ早かれ、ああなる運命だったかもね」
「……お前は立ち向かうために、戦ったのか」
「まあね。兄さんを救いたかったのさ。オレはあいつに救われた。けど、兄さんは洗脳されたまま。オレは兄さんを開放させてあげたかった」
空は呆れたように、肩をすくめた。
「まあ、結果は知ってのとおりだけどね」
「俺は……どうすればいいんだ」
情けない問いかけだった。だけど空は、それを攻めることも、呆れることもしない。
「どうもしなくていいよ。オレはもう、満足さ。この世界じゃ、兄さんは幸せそうだったしね」
「そんな……こんなこと、俺が言えたことじゃないけど。本当に、これでいいのかよ」
「いいのさ。オレの心残りは、兄さんだけだった」
「好きな人がいたって。だから生きたかったって。そう言っていたじゃないか」
「そりゃ、そうしたかったよ? 本気で好きだったから。けど、だからこそ覚悟をしていた。兄さん。そもそも兄さんだけじゃなく、オレだって重罪人だよ? 普通の人間じゃないんだよ? もし、戦いに彼女が巻き込まれたらどうするのさ。なによりも、重罪人のオレらが……好きな人を、幸せに出来るのかい?」
「それ、は……」
空は俺よりもずっと、ずっと達観していた。弟が、遠くに見えた。
「戦いに行く時。オレは、彼女に別れを告げたんだ。全てが終わったら、会いに行く。そのつもりだったけど……変に、彼女を巻き込みたくなかったから。突き放すように、置いていったんだ」
「空……」
俺は崩れ落ちた。なんで……なんで、この世界に迷い込む魂はこんなにも報われない。幸せになるのを、許してくれない。
だけど、空は……どうしてか、晴れ晴れとした表情を浮かべていた。
「兄さん、オレは行くよ」
「俺には……わからない。本当に、これで良かったのか」
「良いのさ。死後の世界という紛い物とはいえ、兄さんの洗脳は溶けた。そしてもう一度、勝負が出来た。満足だよ」
「……」
「もちろん、彼女のことは気がかりさ。でも、こればかりは仕方ないだろう? オレがいなくなったあと、幸せになれたことを、祈るしかない」
それでいいって思える空は、どこまでも善人で。
きちんと、自分の罪と人生に向き合って、受け入れていて。
だからこそ……俺は、奪った命の重さを知った。兄失格どころじゃない。本当に、取返しのつかないことをしてしまったんだ。
「じゃあね、兄さん。最後にまた遊んでくれて、楽しかったよ」
最後に、それだけ言って。
桜木 空は、消えた。
★
本当は、気づいていたのだ。
人の心を取り戻して……だけど、耐えられないから、ずっと目を背けてきた。
たくさんの人間を殺してきたこと。
弟を殺したこと。
命を奪うということはとても、とても罪深いということを。
……ゆりは守りたいものを、三十分で奪われたと言っていた。
俺は……奪う側だった。そういう人間だ。
「あ、あ……」
息が苦しい。胸が痛い。張り裂けそうだ。
「空、俺を、置いていくな……」
消えることが、出来ない。空を満足させたのに、俺は消えない。まだ、この天上学園に存在し続けている。
立華。これじゃあ、話が違う。
「無理、だ。俺は、お前みたいに、割り切れない……受け入れられない」
俺は……ここに存在し続けて、この罪の意識にずっと苛まれないといけないのか?
ずっと、人殺しだったという記憶を抱え続けて?
好きな人が出来た、弟を殺したという記憶を抱え続けて?
嫌だ。俺は、そんなに強くない。耐えられない。消えたい。消させてくれ。
ゆりから貰った拳銃を取り出す。それをこめかみに当てて――引き金を引いた。バン、という音と共に激痛が頭を走り、意識はブラックアウトした。
★
自殺しても痛みを感じるだけだった。
死んでも、死んでも、また元に戻るだけ。
それでも、俺は自分を殺し続けた。それを何度も続けた。
あまりの苦痛に、気が狂いそうになる。
だけど、これを繰り返せばいつか消えることが出来るんじゃないかって。
そういう希望から離れられないでいた。
それに……痛い時だけは、罪の意識から逃れることが出来た。
だけど、無理だ。
そんなものは、気休めだ。
脳裏には生前の記憶がこびりついている。蘇ってしまう。
「この国を守るためにさ。妻と子供のために。俺は戦うのさ」
戦地を駆けた時。そんなことを言っていた兵士がいた。
どこにでもいるような、平凡な男だった。
そしてそいつは、戦死した。戦いの一時間前までは、その妻と子供と携帯のビデオ通話で会話をしていた。子供は戦争を完全に理解するのにはまだ早い年頃で、早くパパに会いたいと、懇願していた。そしてそれは永遠に叶わなくなった。
敵にもそういう兵士がいっぱいいただろう。俺は、戦地でそういう兵士を、知らずに殺していたのだ。
……消えたい。
こんな罪、背負いたくなんてない。
雨が降っていた。激しい雨で、周りの音を掻き消すほどだった。
俺は冷える体でナイフを握りしめる。
首元へ向けて、思いっきり突き刺そうとした瞬間――何者かの手によって、それは止められた。
「やめなさい、桜木くん。そんなことしても、苦しむだけよ」
雨に濡れたまま、ゆりはまっすぐにそう告げてきた。
★
ゆりの相貌は力強く、きれいだった。俺は怯んだ。そんな視線を向けられても、もうどうすることも出来ない。
「ナイフを離して」
ゆりはぎゅっと俺の両手を握る。それでも、俺は言われた通りにしなかった。ナイフの切っ先を、喉元へ向けたままだ。
「ゆり。消える方法を教えてくれ……俺は消えたい」
「そんな都合の良い話はないわ」
「なら、どうすればいいんだ。気が狂いそうなんだ。人間の命を、弟の命を奪った罪の意識に、焼かれそうなんだ」
「耐えなさい」
「俺は、そんなに強くない……」
「そんなことないわよ。あなたは強くなれる」
「無茶苦茶言うんだな」
「ええ。そうしないと、自傷行為を止めないでしょう?」
「大体、なんでお前は止めるんだ。そんなこと、どうでもいいだろう。よく考えろよ、俺はお前の家族を奪った奴らと、同類の人間なんだ。人殺しなんだ」
「あなたは、あいつらと同類なんかじゃない。あいつらは殺しを楽しんでいた。殺しを金儲けの道具として見ていた。けど、あなたは違う。あなたの罪は、一人のものじゃない。そう仕向けたのは、他の人間なのでしょう?」
手が冷えて、ナイフ手放す。からんからん、と音を立てて落ちる。ゆりは俺の顔を両手で包み、引き寄せた。目と鼻の先にゆりの端正な顔が現れる。こんな心情なのに。こんな時だっていうのに、どこまでも魅力的だって。誰よりも可愛くて、きれいだって、そう思えてしまった。
「たしかに、だからといって、実際に手をかけたあなたの罪がゼロになるわけじゃない。けど、これだけはいえる。桜木くん、あなたはあいつらと同類ではないわ」
「それでも、もう嫌なんだ。消えたい……解放されたい……もう、こんなところにいたくない……苦しいんだ……自分自身が、桜木 春斗であることが、忌まわしいんだ……」
「強くなりなさい。自分の罪を、受け入れるの」
「そんなこと、出来ない……」
「少なくとも、あなたの弟さんにはそれが出来たのよ。それなら、あなたにも同じことが出来るはず。違う?」
空は消えていった。晴れ晴れしい表情を浮かべて……。俺に殺されたというのに。好きな人と引き裂かれたというのに。俺を憎みながらも、思ってくれた。
あんな風になれるのだろうか。この罪を受け入れて、償うことが出来るのだろうか。
「空は、強いんだ。でも、俺は……」
「今は無理でも。時間をかけるのよ」
「どんなに苦しくてもか」
「どんなに苦しくても、よ。消えたいのなら、なおさらね。この世界のルールは、天使の近くにいるあなたなら、よく理解しているはずよ」
「……出来るかよ。こんな人生で、納得なんて」
体が震えて、歯ぎしりした。ゆりはそれを受け止めるように、腕の力を強める。雨に打たれても、体は温かかった。俺はその温もりに甘えた。そうしないと、倒れてしまいそうになるから。
「ゆり……」
「なに?」
「消えないでくれ。俺を置いていかないでくれ……。」
ほとんどやけくそな懇願だった。
だけど、ゆりはそれを笑わず、気味悪そうにもせず、優しい瞳を向けてくれた。
「ええ。あたしは、消えていったりしないわよ」
★
事前に用意していたらしいタオルを持って、俺達は空き教室へと避難した。濡れた体を乾かしながら、窓の外に降りしきる大雨を見つめた。
「……情けないところ見せちまったな」
俺が今更ながら、そんなことを言った。じわじわと来る羞恥心。自分自身の心を晒すのはとんでもなく恥ずかしい。
「まったく、その通りよ。しっかりしなさいよね! アンタにはまだまだ力を貸してもらうんだから、覚悟なさい!」
ゆりは高々にそんなことを宣言する。相変わらずである。
ただ、冷静に考えると……このシチュエーション、ちょっとエロい。時計を見ると夜の八時。外は雨。濡れた体。ゆりの制服から白い下着が透けて見えて、思わず目を背けた。これはヤバい。色々と。そんな卑しい視線には気がつかず、ゆりは窓の外を見ていた。
「すごい雨ね……くしゅん!」
「大丈夫か?」
「平気よ。どうせ、病まない世界。寝たら治る――くしゅん!」
「完全に風邪だな」
「誰のせいよ! 大体、なんでアンタは平気そうなのよ!?」
「雨の中の行軍なんて日常茶飯事だったからなあ。このぐらい、どうってことねえよ」
「相変わらずね。どこまで鍛えたらそんなことになるのかしら……くしゅん!」
可愛らしいくしゃみが連発する。俺が笑うとゆりがジト目を向けてきた。
気分は最悪なのに……ゆりと一緒にいると、胸が高鳴って。こんな世界でも、希望があるように思えてしまう。
俺はタオルをゆりにかぶせてやった。
「ほらよ。こっちは大丈夫だから」
「……ん」
自然と、両者の体は近づいて。俺はタオルから手を離して――その両肩を、抱いていた。ゆりは頬を赤くして、じっと見上げてきた。
「桜木くんが、自分自身を傷つけていたのを見つけた時。すごく、苦しくなって……あたしは――」
その先は、言わせちゃいけないと思った。
俺はゆりを抱きしめた。タオルがぱさり、と落ちる。
「ゆり。好きだ」
「っ」
「こんな世界でも、こんな人生でもさ……ゆりがいると、希望になってくれる」
言ってから、弱気になってしまう。
「なんて……大袈裟というか、重いのかな」
ゆりはぎゅっと、俺の背中に腕を回した。
「約束して。もう二度と、自分自身を傷つけないで」
「……わかった」
「勝手に消えたら、許さないんだから」
俺の腕の中で赤い顔を上げて、潤んだ瞳を向けた。じっと、視線と視線を重ねる。そして――その名前を、告げてくれた。
「好きよ、春斗くん」
唇と唇を優しく重ね合わせる。いつまでもこんな時間が、幸せが続けばいいのにと……そう思った。