教室で自習をしていた。
俺は将来、大学へ進学するために勉強をしている。良い企業に入って、安定した人生を送るためだ。
なにか特別やりたいことがある、というわけではない。
だけど、なにが起きるかわからないこのご時世だ。人生設計はしっかりしておきたい。だから、まずは良い大学へ入る。それが一旦の目標だ。
「桜木 春斗さん」
フルネームで呼ばれた。
聞きなれない、女の子の声だ。
美しい声だけれど、どこか無機質。そんな声。
俺はふと顔を上げた。長い黄色の髪をした、美しい女の子だった。だけど、ウチの学園の制服を着ていない。なんだっけか。クラスSSS――よくわからないけど、たしかそんな感じの人達の制服だ。
でも最近、この制服の人をあまり見かけなくなった気がする。
「えっと、遊佐さん?」
彼女の名前を口にする。
知らないけど、知っていたのだ。何故? 別に深い意味はない。そういうものだからだ。
「こちらを」
「……本?」
「はい。受け取ってもらえますか」
遊佐が差し出したのは、一冊の小説であった。夏目漱石の「こころ」。
授業でやったことのある本だ。今更こんなのを読むなんて。一体、そんなことになんの意味があるというのだろう?
「その本を、屋上で読んでもらえますか」
「なんで?」
「そうすることに意味があるからです」
「んー」
意味が分からない。
が、しばらく考えると、あることを思いついた。
「もしかして……」
「なんでしょう」
「俺に気があるのか?」
「記憶がないとはいえ。あまりそういうことを言うと、後でゆりっぺさんが怖いですよ?」
「ゆりっぺさん? 記憶がない?」
「ですが、ずっと交際相手を作らなかったのは、とても喜ばれると思います」
「……なんの話だ?」
この子、俺のなにを知っているというのだ。
……まあ、彼女を作らなかったのは事実だけど。仲の良いクラスメイトとか、良い雰囲気になった子はいたけど、どうしてもそういう気にならなかったのだ。
「こちらの話です」
「はあ。なんか不思議な子だな、君」
もう一度本のタイトルに目を落とす。
――漱石の「こころ」なんて、地味で退屈じゃない。
「え?」
はっとして、顔を上げる。
そこにはもう、遊佐の姿はなかった。
「……なんだ、今の?」
聞いたことのない、女の子の声だった。
だけど、何故だろうか。その声を聞くと、安心するような……でも、どこか落ち着かなくなってしまうような。そんな、不思議な感覚。
「屋上、行ってみるか」
俺は妙な胸騒ぎを覚えながら、夏目漱石の「こころ」を片手に席を立った。
と、本の間からなにか一枚の紙が落ちた。しおりだと思ったが、違う。
「……写真?」
そこには、トロフィーを持った俺が映っていた。
周りには……知らない生徒達が並んでいる。
だけど、何故だろう。
この写真は絶対に捨ててはいけないのだと、思ってしまった。
そう。あなたは、あたし達を卒業に導いてくれる、そんな存在だった。
桜木 春斗。春を連想させる名前。
とても、とても大切な人。
あたしの大好きな人。
彼はまだ、この学園にNPCと存在する。
けれど……長い、長い戦いの末、辿り着いた。
戦線のみんなは卒業していった。
それはとても清々しいものであった。
記憶の無かった新人、音無くんが掲げた新たな思想により、戦線は変わったのだ。
……そして。真実にも辿り着いた。
ANGEL PLAYERのことも。
奏ちゃんの正体も。
春斗くんの境遇もわかった。
彼をNPCに変えた影の正体も判明した。
戦線の、卒業式の日。あたしはみんなに「少し一人にしてくれるかしら?」と言って、奏ちゃんが作ってくれた卒業証書を手に屋上へ向かった。
……考えるべきことはある。
この学園の役割。
大切な、戦線のみんな。
あたしは真実に辿り着いた。故に……誘惑もある。
永遠の楽園。
はっきり言おう。やろうと思えば、出来る。高松くんのこともあり、春斗くんが正気に戻る可能性が十分にあることも判明した。ANGEL PLAYERのデータは残っている。長い年月さえあれば、この世界を好きに書き換えられる。その方法によって、春斗くんを人に戻すことも可能だろう。
そうして、春斗くんとここで永遠に暮らすことだって、出来る。
そうね。そうしたら、この世界に迷い込んできた魂を……卒業に導いてやったりして、そうやって善意的な活動をして過ごすのも、いいことでしょうね。かつての奏ちゃんのように。
永遠に、幾度の魂をそうやって、導いていくのだ。
そう。
――まるで、この世界の神になったかのように。
けど、とあたしは思う。
それは果たして、人としての幸せなのか?
永遠の楽園を気づき。数多の魂を救済へ導く。
美しい。素晴らしいことだ。けれど、それは……あたしの望む幸せの形じゃない。
あたしは、神になりたいんじゃない。
あの子達の笑顔、とか。
戦線のみんなの幸せ、とか。
……春斗くんとの愛、とか。
そういう、ものの一部でいいのだ。
だって、春斗くんと出会えたのも……春斗くんを、こんなにも好きになれたのも。それはあたしが「人」であったから。
だから、今となっては少し不安だ。
あの男が言っていた話がわかる。
ANGEL PLAYERを作った人間の迷いがわかる。
そういった意味では、心配だ。……最後に音無くんと奏ちゃんは二人になるのだろうけど、同じ道を歩まないかどうか……。
……でも、もしそうなったら、それは二人が決めたこと。
そうなったら、止めることは出来ない。そんな権利は、あたしにはない。
仲間として、警告ぐらいはするかもしれないけれど。
説得はするかもしれないけれど。
でも、二人で決めたことならば、仕方ない。
……まあ、そうならないことを祈るけどね。
さて。本題は、あたし達のこと。
春斗くんとあたし。
春斗くんは最後に、永遠の楽園を少しでも望んでしまった。故に、影に取り込まれた。あるいはかつてのあたし達同様、本当に神への復讐に燃えてしまったのか。まあ、どちらでも同じことね。元々イレギュラーだった彼には……罰、というものだったのだろう。
屋上の扉を開ける。
驚いた。彼はNPCが着る制服のまま、本を読んでいた。まさかこんな、あたし達がかつて何度も顔を合わせてきたこの場所にいるなんて。癖は変わっていないのだろうか。だけど、記憶はまだ戻っていないのを知っている。
あたしが近寄ると、彼は顔を上げた。
「……君は?」
あたしは向き合わないといけない。
春斗くんのこと。
愛している人と、いつまでもこの世界にいたいと願ってしまう、人の弱さに。
ええ、そうよ。
でも、もうあたしはとっくに決めている。
この問題の全部をひっくるめて、告げる。
あたしが――仲村 ゆりが出した、その答えを。
「――唐突だけど」
風が吹いた。
髪を手で押さえて、彼に言う。
それは長い、長い戦いの末に出した答え。
「あたしと一緒に、卒業してくれないかしら?」
永遠の楽園はいらない。
ただ、最後の一歩は、あなたと共に踏み出したい。